黒田俊雄が1975年に発表した「顕密体制論」は、中世の仏教の中心は鎌倉新仏教ではなく、顕密仏教(顕教と密教。古代以来の仏教)であったことを明らかにした。平雅行はこれを継承し、であるならば、鎌倉新仏教は中世の社会にどう位置付けられるのかを考究した。
本書は、この問題意識の下に書かれた著者の早い時期の論文を(一部は修正して)収録したものである。
それらにほぼ共通して見られる手法は、次のようなものだ。まず学界の通説を取り上げる。そしてその論拠とされる史料を詳細に検証して、それが通説の論拠であるというよりは、むしろ通説を否定する内容を持っていることを示すのである。それは史料批判のお手本のような鮮やかな手法であり、非常に緻密である。私は最初、本書を通読するつもりはなかったのだが(必要な部分だけ読むつもりだった)、著者の論述があまりに論理的で緻密なので、つい全部読んでしまった。
なお、本書では人名は全て敬称付き(氏など)であるが、本メモでは省略した。
序
「Ⅰ 中世宗教史研究の課題」では、中世の宗教史は顕密体制論を踏まえて大幅に組み替える必要があることを述べる。
新しい中世宗教史を描くには、高僧の伝記を充実させるよりも、テーマを持った視角で見直すことが必要で、「新仏教」「旧仏教」なる概念はもはや有効ではない。また、当時の宗教は技術と未分化であり、政治や法・経済の領域まで包摂しなければ、教学史だけでは宗教史は構成できない。
著者は中世宗教をめぐる戦後史を簡単に振り返り、それを3期に分ける。すなわち①鎌倉新仏教論、②総体的把握論、③顕密体制論である。ここで著者が批判的に検証するのが②総体的把握論(大隅和雄、高木豊ら)である。著者は②の時期の研究に、(1)国家の宗教政策、(2)領主権力のイデオロギー、(3)通俗的仏教観の視角が足りていないのではと問題提起し、特に(3)を強調する。つまり、当時の人々がどのような仏教観を持っていたのかを解明しなければ、頂点的思想家の独創性がどこにあるかがわからないではないかというのである。そこで著者は「その解明のためには、できるだけ独創性に欠けた没個性的な史料群を素材にする必要がある(p.37)」と問題提起する。
「Ⅱ 浄土教研究の課題」では、井上光貞の浄土教研究を批判している。
本稿で取り上げられるのは井上光貞『日本浄土教成立の研究』『日本古代の国家と仏教』などである。著者の批判の要点は主に3点である。
第1に、平安浄土教と法然との思想的違いを明確にできなかったこと。専修念仏や悪人正機説は平安浄土教ですでに登場していた。では法然はそれを引き継いだに過ぎなかったのか。そうではない。井上は選択本願念仏説を正確に対象化できなかったのだ。
第2に、平安浄土教への理解が足りなかったこと。井上は、法然を平安浄土教の発展・延長としてとらえ、それが浄土教を民衆に向けて説いたものとしているが、すでに顕密仏教は民衆的世界へ浸透していた。むしろ法然は顕密仏教を否定しており、顕密仏教が民衆に説いていた罪業観から解放するものだった。法然の独自性は、念仏以外の諸行の宗教的価値を一切認めないということにある。なお、平安浄土教を発展・継承していったのは、禅律僧たちであったと考えた方がよい。
第3に、浄土教の発展を中下級貴族の没落と関係させて述べたこと。井上以前の浄土教発達の通説は、古代寺院堕落論・古代貴族没落論の二つが柱となっていた。井上は古代寺院堕落論は承認したが古代貴族没落論は否定し(なお著者は両論とも否定している)、その代わりに中下級貴族論が登場した。要するに、昇進の望みのない中下級貴族が末法思想を背景に、現世を否定した結果として浄土教の世界に逃避したというのだ。しかし院政期は王朝貴族が封建貴族化していく時期であり、貴族世界が停滞・固定化していたわけではない。また10世紀の人々の宗教意識は、鎮護国家・現世安穏・後世善処・死者追善の4要素で構成されており、現世を否定していた証拠はない。よって浄土教発達に中下級貴族没落論を持ち出すのは不適当である。「現実には浄土教の発達史とは、二世安楽信仰の発展史なのである(p.63)」。
では浄土教はなぜ発達したか。ここで著者は9世紀後半から10世紀後半までの1世紀を「一応の画期」だと見なす。そしてこの頃、仏教的来世観の浸透、葬祭儀礼の仏教化、臨終出家や逆修・日課念仏が登場したことに注目する。それは、「来世の観念が肥大化して、現世の中に侵入して(p.65)」きたことを意味し、若いうちから来世への準備をするような「異様な世界」になっていったのだという。またこの時期はケガレ、種々のタブー、物怪なども盛行した。そして、死霊・死穢・来世の観念の肥大化は、都市としての平安京の行き詰まりを示唆している。ちょうどこの時期に「都城から王朝都市への変貌(p.67)」が起こったのだ。
第1篇 古代仏教から中世仏教へ
「Ⅲ 中世移行期の国家と仏教」では、中世における国家と仏教との関係がどう位置付けられるか述べる。
まず著者は井上光貞『日本古代の国家と仏教』の目次を引用し、そこに国家制度の転換についてほとんど触れられていない事実を指摘する。では僧尼令は実際にいつまで維持されていたのか。
古代においては、私度の禁止=得度の官許制は、戸籍・計帳を媒介とする租税収取体系と有機的に結びついていた。しかし10世紀前半に戸籍・計帳は有名無実化し、土地を媒介とする支配方式に転換したため、「もはや朝廷には私度を禁止する理由がな(p.80)」くなった。10世紀中葉「私度」「自度」といった用語が使われなくなっていることは、それを裏付けている。実際、『日本霊異記』『今昔物語集』の両方に収録されている話を比べてみると、『霊異記』では「自度の…」とあるのに『今昔』ではそれが省略されているのは、もはや「自度」が使われない言葉になっていることを示唆しているのである。しかし私度の禁止政策が放棄されても、官僧になる者の得度・受戒の官許制は残存した。
次に、民間伝道に対する抑制はどうか。史料を検証してみると、桓武朝では①私的壇越関係を結ぶ、②愚民を妖惑する、の2点が制止されていたが、10世紀末では①は容認され、②は関心の対象外となっている。長保元年(999)の公家新制第5条では、僧侶の洛中居住と車宿が禁止されているものの、その後の法制には継承されていない。10世紀中葉に活動した私度僧の空也は、京で乞食を行い民間布教をしているのに、弾圧されていない。「僧尼令的秩序は(中略)少なくとも10世紀中葉には朝廷の手によって放棄されたと言わなければならない(p.84)」。これが、律用国家的仏教を多元的な中世仏教へと転生させる契機となった。
僧尼集団を統括する僧綱―国講師体制はどうか。中世にも僧綱所は存在しているが、実務を担った国講師の機能にまつわる史料は10世紀後半になるとほとんど見られなくなる。つまり実態としてはこの頃に国講師体制は解体したと思われる。僧綱所については、まず僧綱管理下から離脱する寺院が9世紀以降に増えている。延暦寺、興隆寺、貞観寺などである。僧綱から離脱するということ自体に僧尼令的秩序の崩壊が垣間見える。
また僧綱は度縁・戒牒の発給だけでなく課試(得度の際の試験)も行っていたが、10世紀中葉には「興福寺・薬師寺といった僧綱管理下の基幹寺院ですら、本寺で課試を行うようになっている(p.91)」。つまり「実質的得度権は各寺院に移譲された(p.92)」のである。法成寺以降、新たな年分度者設置寺院が見られないこと、一方で度縁が国家的法会で大量に発給されたことは、得度の価値が低くなったことを示している。天仁2年(1109)と保安3年(1122)に一万枚の度縁が発給されたことはその象徴だ。「9世紀後半から10世紀半ばに至る時期を一つの画期として、僧綱所の実質的機能が衰退し解体していったと結論してよかろう(p.93)」。形式的には僧綱所は残ったが「中世社会で実質的意味のある権限は殆ど窺えない(同)」。
ちなみに専修念仏への弾圧にも僧綱所が関与した形跡はない。僧綱所が実質的に機能しなくなったことは、顕密仏教・寺社勢力が自律的な統合組織を持っていなかったことを示している。それらは「宗派・寺院の自律的運営に委ねられていた(p.95)」
だが、寺社勢力の統合者は別のところに存在した。それが院権力である。院は第1に叙任権を掌握していた。「僧衣僧官制は顕密八宗の僧侶を体系づけている唯一の秩序(p.95)」だった。また第2に法親王制の創出(1099)による内部からの統制である。第3に院権力によって仏法興隆政策が大規模に進められた。特に円宗寺と六勝寺は、そこでの法会が僧侶の昇進ルートに組み入れられ、権門寺院統合の中心的舞台となった。さらには「平安末から鎌倉初期にかけて、院を釈尊の使者、仏の分身、権者とする観念が登場し流布(p.97)」した。
仏法の権威は高く、また個別権門寺院は強大であったが、寺社勢力は院権力に対抗できるほどの政治的力量はなかった。この政治的力量の低さに「日本中世における国家と仏教の関係の特質を認めることができる(p.98)」。
「Ⅳ 末法・末代観の歴史的意義」では、末法・末代観の歴史的意義を考察している。
かつては、末法思想が浄土教の盛行をもたらしたとする図式が前提となっていた(ここでも代表的論者として挙がるのは井上光貞だ)。だがその論拠となる史料は極めて乏しい。
史料を詳細に検討してみると、平安浄土教は現世の祈りや鎮護国家の顕密仏教と両立しないものではなく、当時の人は雑然とした宗教意識を持ち、末法の克服が阿弥陀信仰に限定されていたわけではなかった。むしろ浄土教の発達が顕密仏教に対する信仰や奉仕活動をも活発化させた。
そして末法思想は、「仏法は無力だ」とするものではなく、かえって末法ならばこそ一層力を込めて仏事を修さなければならないとするものであった。つまり顕密仏教にとっては末法思想は「むしろ自らの興隆を図る際の有力な論拠(p.121)」であった。末法克服の手段は、浄土教よりも寺院建立や国家的仏事の盛行にあったと見た方がよい。
さらには、平安中・末期に顕密仏教が衰微した証拠はない。そもそもこの時代には「仏法の中興」が讃えられている(例:大江匡房の法勝寺大乗会願文(1085))。では、一見矛盾する末法観と仏教中興観が併存しているのはなぜなのか。「それは貴族が王法仏法相依論を信受した結果、彼らが仏法の盛衰に過剰なまでに神経を尖らせていたことを意味するに過ぎない(p.125)」。
ここで著者はケーススタディ的に貞慶を取り上げる。「旧仏教」の思想家とされる貞慶は、様々な対象への信仰を抱いていた。極楽往生がだめなら補陀落山に往生したいとか、春日権現の下に生まれたいとか、願文の中でいろいろ保険(?)をかけている。なぜ彼は雑然とした信仰をいだいていたのか。そこには「仏法が衰え機根の劣った濁世辺土にいる我々にも可能な行業は何か、という問題意識(p.130)」があった。そこにあるのは、「仏法は危機にあるが滅尽してはいない(p.133)」という前提である。末法説は、顕密仏教側がその霊験や権威を強調し、国家的仏事や造寺起塔の機運を盛り立てるために喧伝したもののように思われる。
次に、荘園文書から国司や寺社勢力の末法観を探ってみる。11~13世紀は寺社が荘園領主へとして確立していく時期であるが、例えば東大寺は嘉承元年(1106)に「澆李の世(末法の時代)」だから人々が「信心」を失い、寺院の経済が立ち行かなくなっているので、「皇朝の泰平」のために封物の徴納をすべきであると訴えている(ここでの議論に関係はないが、個人的にはここで「信心」という言葉を出したのは気になる)。つまり寺院にとって「末法」とは、国司が封物を未納することなのだ。貴族の生活実態ではなく、寺社の置かれた状況に「末法」があるのだ。そしてまたそれを克服するために使われたのが「末法」だった。すなわち「寺社勢力の手によって意識的に喧伝された寺社中心のイデオロギー(p.144)」が末法思想なのだ。
対する国司にとってはどうか。寺社勢力が国司を抑え、荘園を確立していく過程は、国司にとっては苦々しいものであった。彼らにとっては、権益を主張し時に非法を押し通す寺社こそが末法の現れであった。国司と寺社は対照的な末法観を抱いていたのである。
末法思想が盛んに喧伝された時期、すなわち11世紀中葉から12世紀とは、中世社会の成立期にあたっていた。末法思想は、新しい社会への転換に一役買ったイデオロギーだったのである。
第2篇 専修念仏の思想と中世社会
「Ⅴ 法然の思想構造とその歴史的位置」では、法然の二元性について述べる。
法然は、専修念仏を勧めた一方で、宜秋門院に病脳平癒の授戒もしている。彼は専修念仏一本槍ではなかった。ではそれは法然の中でどう整理されていたのだろうか。
法然は、聖道門(顕密仏教の立場)を否定しようとした形跡があるが、その典拠を見出すことができず、聖道門を否定はしていない。彼は末法の一万年後には聖道門は無用となるとは考えたが、まだその時ではなかったのである。しかし、当時の聖道門は一般民衆には実践が不可能である。そのために機根の劣った民衆のために浄土門があると考えられたが、法然はそうとは考えなかった。確かに末法万年後の民衆は悪人しかいないが、今の民衆はそれに比べればすべて「善人」だというのだ。
そして『選択本願念仏集』で、法然は阿弥陀仏が人々を救う唯一の行として念仏を「選択」したとした。民衆の方が念仏を選択するのではなくて、人々を救う方法として阿弥陀仏が選択したのが念仏なのである。ここに法然の立場は明確になった。「称名を愚かな大衆のための二次的行修とする当時の浄土教観と尖鋭に対立した(p.174)」のである。また『選択集』では、「行から信への転換(p.174)」「信心為本思想の成立(p.188)」があった。法然の場合は未徹底ではあったが、ここに自力宗教から他力信仰へと大きく軸足が動いた。
そして法然は、宗義格別の主張をする。止観も即身成仏も否定はしないが、極楽往生を願うなら念仏しかない、というのである。逆にいえば自ら以外の諸宗浄土教を否定したのである。他宗への否定が根幹にあったという意味で、法然の思想は異端思想なのだ。
ともかく、法然の立場では、病脳平癒の授戒と念仏は問題なく併存する。なぜなら、極楽往生を願って授戒するのではないのだから。極楽往生と現世の問題を切り離し、極楽往生については念仏絶対を貫いても、現世の問題については諸宗を包摂したのが法然の思想的立場なのである。
では法然の立場は、顕密仏教とどう対立したのか。第1に、顕密仏教では人々にはいろいろな機根があり、それに応じた行法があると常識的に考えたが、専修念仏では全ての人は念仏によるほか往生のしようがない劣った存在だとの極端な立場にたっている。第2に顕密仏教が造寺造塔や仏事の実施など外面的な功徳を認めたのに対し、専修念仏では内面のみを重視し、念仏も「信心の表現」とした。
ところで、念仏は易行であるから、法然は仏教を民衆に解放したという見方があるが、これは当たらない。顕密仏教でも「阿」字のみを観想する方法が易行だとされており、そもそも顕密仏教は民衆に広く受容されていた。専修念仏の独自性は、易行であることそのものより、人々の機根に優劣はなく、全ての人が念仏に頼るほかないとした宗教的平等観の方にあったのである。
※本編は著者の処女論文(修士論文の一部)である。
「Ⅵ 専修念仏の歴史的意義」では、親鸞を中心として急速に発達した専修念仏運動の意義について述べている。
本編では、悪人正機説・悪人正因説などを整理して、悪人正機説が顕密仏教によるものであったことを指摘し、親鸞の言説の価値は、悪人/善人という差別的機根観を乗り越えて、末法の世においては全ての人は等しく悪人であって平等であると考えたことにあるとしている。そしてその根底には、信心を重視した姿勢がある。
一般的なイメージとは違い、専修念仏集団の宗教の本質は「民衆の来世救済にあったのではない(p.244)」。つまり、「悪人でも念仏で往生できる」ということは顕密仏教でも述べられていたのであるが、これでは善人(貴族)/悪人(民衆)という対立が前提となっている。ところが親鸞は全ての人が悪人だという。ここに顕密仏教的差別観が克服されたのである。
では、なぜ法然や親鸞は平等思想を主張したのか。それは、寺社が荘園領主となっていく中で、勧農に励み年貢を払うことが積善の行為とされていたからだと著者は考える。往生のために積善(諸行)が必要であるという考えは、寺社の荘園領主体制を一層強固なものにするものだ。専修念仏はその思想的根拠を突き崩すものであった。だからこそ専修念仏は弾圧されなければならなかったのである。
なお、本編前半の悪人正機説の検証は、著者が後に『歴史のなかに見る親鸞』でよりスマートに論証しており、本メモでは割愛した。
【参考読書メモ】『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
「Ⅶ 解脱上人貞慶と悪人正機説」では、親鸞のものとされる悪人正機説が顕密仏教のなかで形成されたものであることを述べる。
著者は悪人正機説に関する2つの史料を発見した。第1に建久7年(1196)に執筆された貞慶の「地蔵講式」。ここには、「上代よりも末代の方が地蔵菩薩の利益があり、善人よりも悪人の方が霊験が顕著だ(p.269)」という言説がある。地蔵は、悪人の救済を優先する菩薩であると考えられていた。第2に『鳳光抄 四之二』所収の建暦2(1212)の春日社唯識十講第七座表白。ここでも「春日明神の霊験は善人よりも悪人の方が顕著なはずだ(p.271)」としている。これを誰が書いたのかは明確ではないが、興福寺僧覚遍である可能性が高く、貞慶の思想を継承したものであるらしい。これら2つは明確に悪人正機説を述べている。
さて。第1の「地蔵講式」が執筆された1196年は、未だ専修念仏は顕著な活動をしていない。これが専修念仏の影響で述作されたとはみなしがたい。専修念仏教団以前に、悪人正機説は顕密教団の中で形成されていたのだ。そして貞慶は、後に「興福寺奏状」で専修念仏の弾圧を求めることになる。悪人正機説は顕密仏教と矛盾しないし、それが親鸞の弾圧の理由になったのではないことは明らかだ。
「Ⅷ 建永の法難について」では、建永の法難の原因を考察している。
建永の法難は次のようなものだ。興福寺は法然らの専修念仏停止を訴え、八宗同心の訴訟を行ったが、朝廷としては法然に同情的で「偏執」を禁止するものの処分は行わない、と対処した。その後、後鳥羽院の女房と法然教団の安楽らとの密通事件が発覚し、建永2年(1207)に安楽ら4名が死罪、法然ら8名が流罪となった。
では、これは「密通事件」があったために起こった偶発的なものなのだろうか。なにしろ朝廷は当初法然には同情的だったのだ。興福寺の訴状が言うには、専修念仏は破戒行為に及ぶから禁止すべきだというが、当時の僧侶は破戒がありふれていた。しかし専修念仏は、そもそも持戒には意味がないと考えていた。何しろ念仏以外の価値を認めていなかったのだ。興福寺ら顕密教団にとって危険だったのは、専修念仏教団が持戒や造寺造像などの作善行為を無意味だと考えていたその思想の方だったのである。これが彼らの「偏執」であった。
つまり、一部の門弟の問題行動(密通事件)は弾圧のきっかけにはなったが、専修念仏教団には弾圧される要因が内在されていた。
では逆に、朝廷はなぜ最初の段階では弾圧に消極的だったのか。それは念仏自体は顕密教団でも行われており、念仏の衰微を助長すると考えたためではないか。朝廷が「偏執」を問題にし、法然としても「七箇条制誡」で一部の門弟の問題行動を指弾せざるをえなかったのは、「専修念仏それ自体の禁断を回避し、犠牲者を最小限に食い止める(p.310)」ための政治的選択だった。
しかし「密通事件」は念仏者=破戒の狂僧というイメージを定着させ、称名念仏は亡国の音だとする非難さえ生み出した。建永の法難によって専修念仏は異端認定され、破戒の念仏者=異端という図式で厳しい取り締まりが行われるようになった。
その弾圧の結果、専修念仏は「次第にその異端的性格を喪失して、顕密体制下の新たな一宗派として再生(p.318)」していくことになる。
「Ⅸ 嘉禄の法難と安居院聖覚」では、聖覚(せいかく)が専修念仏弾圧の張本人だったと論証している。
嘉禄の法難とは、①法然墓所の破却、②『選択集』の版木の焼却、③門弟の配流が行われた専修念仏への弾圧であるが、ここに聖覚らが念仏宗の停廃を求めたという「衝撃的な史料」がある。日蓮の弟子日向(にこう)が編纂した『金剛集』に収録されたものである。
聖覚といえば、『唯信鈔』の作者だ。親鸞は『唯信鈔文意』を著して聖覚に学ぶべきとしたし、聖覚の方でも法然を「釈尊之使者」「我大師聖人」と呼んでいる。そんな聖覚が念仏宗の弾圧を求めるわけがない。そんな考えからこの史料はこれまで無視されてきた。
そこで著者は厳密にこの史料を検証する。詳細は割愛するが、①史料成立の検証、②そこに書かれた内容の検証(特に5名の探題(竪義の判定者)の検証)を行い、この史料の信憑性はほぼ疑いえないと結論する。この考察は非常に緻密である。
ではなぜ聖覚は専修念仏を弾圧したのか。嘉禄の法難の時期には、聖覚は延暦寺探題の地位にあり、しかも国家的法会での証義を務めた回数から見れば「延暦寺系天台顕教の第一人者として公的に評価されていた(p.363)」。しかも彼の死後の扱いを見ると、彼は単なる顕密僧ではなく、「中世を代表する四つの権門寺院の代表的学僧によって追善されるにふさわしい人物(p.365)」であった。
次に『唯信鈔』の内容を見てみると、確かに念仏を勧めてはいるが、専修念仏の特徴である諸行の否定という側面はない。また一念義を「魔界の仕業」とまで厳しく批判している。そして、『唯信鈔』を著した4年後には、もう念仏への志向性すら放棄しており、とても念仏者とは言えなかった。
ここで聖覚が『唯信鈔』を著した承久3年という時期を考えて見ると面白いことがわかる。これに先立つ時期、彼は学匠としての地位を確立し、後鳥羽院の深い帰依を受け、承久の乱の戦勝祈願の法会を行っているのだ。しかし承久の乱が院側の敗北に終わったことで彼の立場は微妙になる。こうなると幕府によって処罰されてもおかしくない。つまりは聖覚の蹉跌の時がこの時期なのだ。このような中で、「専修念仏との関係を殆どもってこなかった聖覚が、突然『唯信鈔』を著さなければならなかった(p.373)」のは、「歴史の激変に翻弄された一人物の衝撃と不安の所産(同)」であるに違いない。
第4篇 女性と仏教
「Ⅹ 顕密仏教と女性」では女人往生思想を批判的に検証している。
女人往生思想とは、女性にも往生が可能であるとする思想であるが、この思想自体に女性への差別的な見方が内在されていないか。法然は女性往生論を述べたと笠原一男は位置づけたが、史料を検証してみれば『無量寿経釈』一篇のみであり、その言説であれ当時の浄土教思想家が繰り返し語ってきたことで法然の独自性はない。
そして「五障・三従の身でも弥陀は救ってくれる」のような言説は、そもそも現世での女性差別観を助長するものであった。それでも、中国のように女人往生が否定されている場所でそのように説くことは意味があった。しかし日本ではそもそも女人往生を否定した思想家は一人もなく、女人往生は顕密仏教の中で常識的な考えであった。そんな中で「思想家が真に語らなければならなかったのは女人成仏や女人往生・女人正機なのではなく、道元のような女人結界・女性差別観そのものへの批判(p.396)」であろう。
では、女性差別観はいつ頃から登場するのか。著者は「三従・五障・龍女成仏・転女成仏経・女人結界」の女性差別語が登場する史料を調べ、それらが9世紀後半から多くみられるようになることを示し、摂関期には貴族社会にほぼ定着したと見られると結論した。こうした女性差別観の展開の中で、11世紀前半には光明信号信仰に変成男子説が取り込まれている。そして9世紀後半からは尼寺が退転し、官尼が消滅したことも注目される。
9世紀後半からは、ケガレ観が肥大した時期でもあるが、これは仏教が持っていた女性差別的性格に起因しているのかもしれない。そして家父長制原理の確立とともに女性の地位が低下したと考えられる。ただ、女人結界(女性はケガレているから清浄な山に入れない)の方は違う原理があるかもしれない。それは仏教的観念からも触穢観からも直接は導けない。そもそも女人結界は中国やインドにはない。これは、「女性は罪業が深い」という仏教的観念がケガレ観と結びついて「女性は存在としてケガレている」という観念に転化したものではないか。そしてそれは、山岳寺院の霊験をアピールするための手段だったのかもしれない。
「Ⅺ 女人往生論の歴史的評価をめぐって」は、前掲論文「顕密仏教と女性」に対する阿部泰郎からの批判に応えたものである。これは前掲論文の論旨を補強するものであるから詳細は略す。
結
「Ⅻ 中世仏教の成立と展開」では中世仏教の成立・展開過程を、中世社会・中世国家との連関の中で概観している。
中世仏教とは、顕密仏教に他ならない。旧仏教が堕落・退廃して中世仏教が興ったのではなく、旧仏教が顕密仏教として自己変革したのである。
まず僧尼令秩序は国家によって放棄され、得度や居住の制限もなくなった。一方、個人的な要求に応える仏教信仰が発達し、死者の追善より自己の浄土往生を願うようになった。院政期を頂点とする私的修法や浄土教の盛行は顕密寺院を発展させた。一方、僧位僧官制の枠外でもっぱら私的仏事に従事する宗教者=聖の輩出も盛んになった。
他方、寺社は荘園領主として自己の権益を宗教的な権威で潤色することに努め、所領を聖なるものとして喧伝した。末法思想と仏法王法相依論はそのイデオロギーとして活用された。そのような中で「白河法皇が「王法は如来の付属によって国王興隆す」と述べたように、王権仏授説ともいうべき思潮が登場(p.462)」する。こうして「十善の君」「金輪聖王」は天皇の別称となった。
顕密寺院と民衆との関わりはどうか。これまで、顕密寺院は貴族ばかりを相手にし、民衆に救済の手を差し伸べたのが専修念仏運動だと評価されてきた。しかし顕密寺院は荘園経済を維持する必要から、末寺末社や荘園を起点として民衆を住人神人・散在寄人として編成してきたことが明らかになった。このような中で一宮が創出されていく。民衆は神人・寄人となることで国衙支配に抵抗したのである。国衙への民衆闘争が、寺社の強訴に変化していったのだ。
しかしそれは、神仏のイデオロギーによって民衆を支配した側面もある。年貢を完納することが現当二世の積善行為だというような主張は、「大乗的精神のもっとも腐敗した姿(p.465)」でもある。
そして寺院は世俗化していった。顕密僧の出世は世俗の身分にほぼ連動していた。「こうして寺院は、世俗社会でイエを構成することのできなかった庶子たちの、栄達の場と化していった(p.466)」。これは、寺院の世俗化というより、寺院と世俗社会とのボーダーレス化といった方がよかった。またかつて僧尼令が禁止していた私有財産も認められるようになって、僧侶は私寺・私房・諸職・荘園などの私財を所有するようになった。こうなるとそれを自分の子供に相続していきたいと思うのは人情だろう。こうして真弟(実子)相続が生み出された。
また、荘園制の展開にともなって、10世紀以降、末寺末社が登場する。地方寺社は自己を大寺院に寄進して、本寺の勢を借りて不輸不入の権を獲得したり支配の安定化を図ったのである。本寺にとって末寺末社は財産そのもので、寺社の荘園に末社を建立することは拠点づくりの意味があった。
このように、寺社は権門として自立していったが、それを上部で掌握していたのが院権力である。その手段は、①座主・別当の補任権・僧位僧官の叙任権、②円宗寺・六勝寺を媒介とする編成、③法親王制の創始であった。しかし院権力が寺社を統御していたとはいいがたく、むしろ院は悪僧対策に苦慮していたのである。そして顕密寺院の内部からも悪僧批判が起こった。
だがそれが仏教改革運動として形になるには、鎌倉時代を待たねばならない。それは院政期が所領分割の競争時代だったため、その競争に打ち勝つ必要があったためである。顕密仏教内部の仏教改革運動は、戒律の復興として現れたが、王権との相互依存の枠内での仏教改革運動であったために、名利や私欲を断って仏法興隆に努力しても、結局は朝廷・幕府の物質的援助への依存を強め、朝廷・幕府の後ろ盾にならざるを得ないという陥穽に陥っていった。
戒律復興は、鎌倉時代後期に「禅律僧」という独特の宗教者も生み出した。これは戒律を護持した黒衣の遁世僧である。彼らは僧位僧官を持たなかったが、朝廷は紫衣勅許や菩薩号・国師号を授与して国制の中に包摂され、禅律僧は顕密僧とは別の集団になった。彼らは①勧進による顕密寺社の修造、②架橋・作道などの交通路整備、③葬送への従事や光明真言・釈迦念仏・融通念仏などの庶民信仰の鼓吹に活躍した。彼らにより、これまで領主層に限られていた葬祭儀礼が13世紀末以降に民衆の間にも広まっていった。
このような中で専修念仏はどう位置付けられるか。彼らは、諸行の価値を否定した異端派であった。その根底には、人間の機根は平等だとみなす観念や仏法を王権に依存しない観念がある。そして造寺起塔のような可視的行為ではなく、信心という内面的世界に限局して仏法を考えた。それにより「現世的秩序への批判精神を守り抜いた(p.488)」のである。
南北朝・室町期では、顕密寺院は遠隔地荘園の多くを失って弱体化し、変わって幕府の庇護を受けた五山派が力を持った。だが五山派は幕府の下部組織のようなもので独自の権力は形成しなかった。一方、かつて異端派であった教団は権力と妥協し、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗は顕密仏教と同化し、その故に大きく発展していった。「「鎌倉新仏教」は戦国時代になって初めて、その名にふさわしい社会的実体を獲得(p.493)」したのである。
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本書は全体として、「浄土教中心史観からの脱却を図り、古代中世仏教史像の組み替えを企図したものである(p.515)」。
その主張から個人的に気になった点を改めて繰り返すと次の4点である。
- 中世仏教は、古代寺院の堕落と貴族の没落によって興ったのではなく、僧尼令が国家によって放棄され、顕密仏教の寺院が荘園領主として転生したことで生まれた。その際に活用されたのが末法思想イデオロギーであった。
- 顕密仏教はすでに悪人正機や女人成仏など、専修念仏教団が創始したと言われている言説を生み出している。専修念仏はむしろそうした言説を乗り越えた。
- 専修念仏は、諸行を全否定するという極端な立場をとっていたため異端認定されたが、それは人々の機根が平等であるという宗教的平等観から不可避的に演繹されたものである。
- 特に専修念仏は、造寺起塔や仏事などの目に見えるものの価値を認めず、信心だけに価値があるとした。
- 女人成仏論は、女性への救済ではあっても、現世での女性差別観を助長するものである。
このうち著者が厳密な史料批判によって力を込めて論を展開するのが1と2である。著者専修念仏を顕密仏教の延長ではなくその否定であると述べるが、それは同時に専修念仏が顕密仏教から生まれたものであることも意味している。となれば、顕密仏教の実態はどうであったのかという疑問が生じるが、本書は専修念仏とかかわりのある顕密仏教の様相は詳細に述べるものの、膨大で多様なその実態のほとんどは手つかずである。
というのは、著者の関心は親鸞にあり、本書収録の論文は親鸞研究の前提をなすものと位置付けられているため、専修念仏の動向を追うことが中心であって顕密仏教そのものについては手薄にならざるをえなかったらしいのだ。私は院政期の顕密仏教を知りたくて本書を手に取ったのだが、その点は少し残念だった。ただ最後の「中世仏教の成立と展開」は端正にまとまった顕密仏教論として非常に参考になる。
そして、気になったのは4である。 確かに専修念仏は信心為本の立場を打ち立てた。しかし、状況証拠から考えると、それも顕密仏教の思想だった可能性が高い。源信は『往生要集』で信心が最も大事だとする思想を表明しているし、聖覚も『唯信鈔』で「信」を強調している。修辞的表現かもしれないが、東大寺が「信心」の衰えについて述べたのも気になる。つまり信心為本自体は顕密仏教が打ち立てたもので、専修念仏はそれ以外の価値を否定したということに意義があったのではないだろうか。この点は著者はあまり厳密に考察していないようだ。
また、5については、著者は女性差別は家父長制成立とともに昂進したとするが、顕密仏教では家父長制成立以前から女性の疎外が見られることが気になる。例えば女性の顕密僧は史料に現れてこないが、なぜ女性の顕密僧がいなかったのか。これは家父長制成立に先立つ話である。著者は日本では女人成仏を否定する思想家はいなかったと述べるものの、同時に仏教教団の側こそが、率先して女性差別を始めているような形跡がある。つまり、女人結界や変成男子といった女性差別的思想は、世俗社会の女性差別観を追認して生まれたものではなく、逆に顕密仏教の側が女性差別観を生みだし、それが世俗世界にも影響していったと考える方が自然ではないかと思った。
ちなみに、本書を土台として著者は後に『歴史のなかに見る親鸞』を著している。
専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。
【関連書籍の読書メモ】
『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
厳密な史料批判に基づいた親鸞の生涯。歴史学における親鸞研究の到達点。
『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。信心についての議論はこのあたりが出発点になる。