2025年11月16日日曜日

『荘子』福永 光司・興膳 宏 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収)

『荘子』の画期的な現代語訳。

私は『荘子』を通読するのは2回目である。初回は20代の頃で、岩波文庫の金谷治訳注のものだった。その時は、なんだか『荘子』がかっこいいものに見えて心酔し、当時漢検1級を取ろうとしていたこともあって、内編の半分くらいを筆写したほどだ(でも内容はあまりわかっていなかったと思う)。

にもかかわらず、諸子百家の思想をもう一度見直したいというここ数年の読書の中で、最後まで手が伸びなかったのが『荘子』である。『荘子』は一筋縄ではいかない著作なのだ。

本書(老子・荘子)は、筑摩「世界古典文学全集」の企画の際は福永光司に全訳が委ねられていた。ところが福永はいつまで経っても手を付けられず、約30年も企画は眠ったままとなった(とんでもない話だ)。そこで筑摩書房編集部の大西寛が動き、興膳 宏に白羽の矢を立てた。興膳は福永の訳注・解釈を基盤に『荘子』を全訳したのである(この訳業の途中、福永は永眠した)。興膳は中国思想ではなく中国古典文学を専門としているため、これまでの『荘子』の訳とはかなり違った生き生きとした画期的な翻訳となった。こうして、筑摩「世界古典文学全集」で一冊だけ欠巻となっていた本書が完成したのが2004年。「全集」がスタートしてから40年の時を経て無事完結したのであった。

ともかく、諸事情があったとはいえ、筑摩「世界古典文学全集」の中で一番の難産だったのが『荘子』なのだ。私の手が伸びなかったのも当然である(!)。

『荘子』は、内篇・外篇・雑篇の3つの部分で構成される。このうち、荘子すなわち荘周(歴史的人物としての荘子を示す場合は荘周ということにする)の著作と思われるのは内篇のみで、外篇・雑篇は後次的に成立したとされる(実際、調子がずいぶん異なる)。『荘子』は、一人の著作というより道家思想家たちが作った説話集という趣があり、その性格は複雑だ。なお、外篇と雑篇の区別は便宜的なものと考えられているので、以下内篇と外篇・雑篇に分けて読書メモを書くこととする。

内篇

内篇は7篇から構成される。劈頭の「逍遥遊篇」の最初、「鯤(こん)」と「鵬(ほう)」の話は、最初読んだときは度肝を抜かれた。北の果ての海に何千里もの大きさがある魚=鯤がいる。そして鯤が変身して、鵬という巨大な鳥となり、南の果てを目指して飛んでいく、というものである。『荘子』を哲学的な著作と思っていた20代の私は、この何がいいたいのかわからない壮大な空想の始まりにすっかり心酔してしまったのだった(ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭と似ている)。

しかし、『荘子』内篇をほら吹き話と思ってはいけない。荘周は、哲学的でもあるが、科学的でもある。鵬の話でも「風も厚く層を成していなければ、鵬の大きな翼を支えることはできない」といい、空気が鳥の体重を支えているという科学的見方をしている。そして意外なことに彼は極めて論理的である

荘周の論敵に、恵子(恵施)という人物がいた。彼は論理学者で、梁の恵王に仕えて宰相にまでなった。恵子は『荘子』の中にたびたび登場して荘周と問答しているが、実は荘周と恵子は親友でもあった。最初、論理学者の恵子と、空想的な荘子が親友だったというのが腑に落ちなかったのだが、内篇をよく読んでみると、二人が気が合ったのがわかる。

例えば「斉物篇」には、有名な「胡蝶の夢」の話が出てくる。荘周が夢の中で蝶になっていた話である。「はて、これは荘周が夢でチョウになっていたのか。それともチョウが夢で荘周になっていたのか」と荘周は問いかける。荘周は、「荘周が夢でチョウになる」ということがありえるなら、「チョウが夢で荘周になる」も等しくありえるではないか、という論理的な思考をするのである。

「斉物篇」では、ある人物の問答で「孔丘も君もみな夢を見ているんだ。いや君が夢を見ているというこの私もまた夢を見ているんだ」とか「いずれか一方が正しくて、他方はまちがっているんだろうか。それともいずれも正しいのか、いずれもまちがいなんだろうか」などという。荘周は、あらゆる論理的可能性を考えてみなければ気が済まない。だから内篇には、議論が行きつ戻りつして何を言いたいのかわからない部分がある。そしてあらゆる論理的可能性を一つ一つ考えていった結果、荘周は「何も断言することはできない」という極めて科学的な結論に達する。すなわち究極の立場は曖昧模糊としている。「私が知っているといっても実は知らないのかも分からん。また私が知らんといっても実は知っているのかもわからん。」

では、すべては相対的でしかないのか。荘周は、少なくとも言語で思考する限りはそうならざるを得ないと考えている。彼の思考の一端は「斉物篇」の論議に現れている。曰く「有ということがあるし、無ということがある。またもともと「無ということ」はないということがある。またもともと「無ということはないということ」はないということがある。(中略)私が述べてきたことが果たして「述べた」ことになるのか、それとも「述べた」ことにならないのかは分からない」。荘周が何を言っているのかわからないかもしれないが(私もわからない!)、まさにこれぞ荘周節である。

荘周のこのような態度は、恵子に大きく影響を受けたのだと思われる。恵子のまとまった著作は伝わっていないが、『荘子』の雑篇(天道篇)には恵子の思想がある程度体系的に紹介されている。恵子の思想を象徴するものに「狗(いぬ)は犬ではない」というものがある。これは、「狗と犬は文字が異なる以上、イヌではない」という詭弁である。恵子の属する論理学派の巨頭といえば公孫竜で、彼は「堅白同異」の説で有名だ。曰く、石の堅さと白さは同時に知覚することは不可能だから、白くて堅い石は存在しない(あるいは堅い石と白い石の2つである)とするものである。これと似た恵子の説に「白い狗は黒い」がある。曰く、白イヌも黒イヌもイヌという点では同じ。ゆえに白イヌ=黒イヌ、というもの。

こういうのはバカバカしい詭弁だが、恵子にはギリシアのゼノンのようなところがあり、「すばやく飛んでゆく矢には、動きも止まりもしない時がある」(無限小の時間に区切れば、動いているにもかかわらず静止している状態がある)とか、「南方には果てがなく、また果てがある(空間は無限ともいえるし、また有限ともいえる)」「一尺の埵(むち)は、毎日半分ずつ分割してゆくと、永遠に分割し尽くせない(物質は無限に分割できる)」など、時として彼は数学的ともいえる論理性を発揮する。こういうところに、荘周は一目置いて居たのではなかろうか。

恵子が死んだ後、荘周は「恵先生が亡くなられてから、私には相方とする人がいなくなってしまった。もうともに議論しあう相手がいないんだよ」(雑篇「徐無鬼篇」)と寂しがっている。荘子は、恵子の荒唐無稽ともいえる論理性を楽しみ、それを逆手に取った空想を展開したり、時に厳密に言葉の在り方を検討したりして、思想を磨いていったように思われる。そして恵子の詭弁が言葉の限界を突いたものであることから、「思考の土台である言葉そのものを疑った方がよい」という考えになっていったのではないだろうか。

荘周の言語に対する思想は、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に近い部分がある。ヴィトゲンシュタインの「語りえないことについては、沈黙するほかない」(『論考』)は、荘周の言葉としても違和感がない。雑篇「寓言篇」にある「ことばで論じなければ一切万物はみな斉しいのだが、その斉しさをことばで論じようとすると斉しくなくなってしまう」とか、外篇「天道篇」の「意味内容にはその拠り所があるが、その拠ってきたるところは、ことばでは伝達できない」などは、言語で議論することの限界を明確に指摘している(ただし、そう言いながら、荘周はたいへん饒舌である)。

しかし人間は言語以外で思考することはできない。「道」が思考を超えたものであればどう肉薄すればいいのか。そこで荘周が注目するのは技術だ。有名な寓話「庖丁解牛(ほうていかいぎゅう)」は「養生主篇」に出てくる。牛を捌く名人の庖丁は、牛の筋肉や腱の隙間にそって刃を入れるから19年も刃こぼれしないということから、自然の摂理に従って物事を進めることの重要性が謳われる。荘周は、言葉よりも技術に信頼を置いている。やはり彼は科学的なのだ。『荘子』には、数々の技術者が登場し、技術を極めることで自然の摂理を体得しうることが示されている。いくら思考をもてあそんでもそういう境地にはならない、と荘周はほのめかす。「ものごとを自然のままに任せて、心を自由に遊ばせ、いかんともしがたい必然に身を委ねて、己の内なるものを養い育ててゆくのが、最良の方法」なのである。そこに言語も勉学も議論も必要ない。

また、『荘子』といえば「無用の用」(逍遥遊篇・人間世篇)が有名である。曲がりくねった木は、役に立たないから木こりに切られることなく寿命を全うする、と荘周はいう。このテーマは様々な題材で変奏して語られるが、言わんとすることは「有用性への疑問」というより、有用と無用は相対的な概念で文脈次第、ということだ。つまり有とか無といったものは、作られた概念にすぎず、万物はすべて一つである(物自体のみがある=これもヴィトゲンシュタイン的だ)。そして荘周は外面的な美醜の無意味さをことさら強調する。もしかしたら荘周自身、風采の上がらない人物だったのかもしれない(荘周は間違いなく貧者であった)。彼は兀者(足斬りの刑を受けた者)とかせむしといった障害者で道を体得している人を幾人も登場させる(中でも魅力的なのは「女偊(女性のせむし)」(大宗師篇)だ)。

荘周は、最高の境地に達した人物を「真人」という。これは儒家のいう「聖人」とは少し違う。聖人は天下を治めるが、真人はあらゆる相対性を超え、自然に従って生きる人間である(ただし荘周はしばしば「聖人」をいい意味でも使う)。彼は儒家が尊ぶ尭・舜・禹などを真人と認めない。「大宗師篇」では、真人とはこういうものだという議論の中で、真人そのものとはしていないものの、狐不偕・務光・伯夷・叔斉・箕子・接輿・紀多・申徒狄が「自分自身の快適さを享受しなかった人々」として列挙されている。これは後の道家に大きな影響を与えた(後述)。

荘周は儒家を強く意識している。『荘子』で主役級に登場するのは孔子である。もちろんその問答は事実ではなく、そこでは孔子は荘周によって役回りを与えられて戯画化されている。孔子にとってはいい迷惑である。しかし一方的に揶揄されたり貶されたりしているのではなく、荘周は孔子という人物に人間的魅力を感じているようだ(一方、意図的に無視されているのは孟子)。『荘子』には明らかに『論語』のパロディになっている部分がある。そして時に孔子は『荘子』的な道を理解し、憧れる人間として描かれる。荘周にとっても孔子は端倪すべからざる人間であった。

そして後の老荘思想といえば、養生や長命、不老不死を求める性格があるが、『荘子』にもその要素はあるものの、むしろ生と死の対立を超越しようとする意識の方が強い。「大宗師篇」では孔子に「彼らは生をコブやイボ同然のよけいなものと見なし、死をできものがつぶれたくらいにしか思っていない」と言わせている。荘周は、病気になったら死を受け入れるのがよいと考えている。それが自然の摂理だからだ。一方で、寿命を全うすることも同様に価値があると見なしている節もある(例えば「無用の用」の木がそうだ)。このどっちつかずな態度は外篇・雑篇ではさらに拡大されることになる(後述)。

内篇での荘周は、他の諸子百家とは少し趣が違う。諸子百家とは諸国を遊説して君主に富国強兵の道を説いた政策コンサルタントであったが、荘周はどうやらそういう活動とは距離を置いていたらしい。というのは内篇では、荘周が君主と問答をする話が一切出てこないのだ。ただ、同じく遊説などしなかった老子は、『老子道徳経』で一切固有名詞を出さず(誰々がこう言った、という話をせず)訥々と哲理を語ったのに対し、『荘子』は明らかに諸子百家的なしつらえで編集され、荘周自身、架空の人物を大量に繰り出して対話と寓話を基本とした戯曲的論述を行う。そう考えると、荘周は諸子百家の著作のパロディとして『荘子』を書いたのかもしれない。荘周は明らかに諸子百家の人々をあざ笑っている

ちなみに、荘周は「天」をあまり意識していない。これも他の諸子百家との違いである。儒家と墨家は特に「天」を重視するが、荘周は「天」を至高の存在としては認めていないようだ。代わりに荘周が強調するのは「造物者」である(『荘子』が初出の単語である)。「造物者」は、「天」のように万物を主宰しているのではないが、自然の摂理を司る。しかし「天子」を指定したりはしない。人間界に介入する「天」ではなく、人為を超えた存在として「造物者」がいるのである。荘周の世界観は、鬼神の存在を前提としていないようだ。

外篇・雑篇

先述のとおり、外篇・雑篇は後次的に成立したもので、内容は雑然としており、思想が一貫していない。そして思想が深化するどころか俗化している部分もある。外篇・雑篇は、荘周に続いた老荘思想家・道家たちが、『荘子』というフィールドを使って玉石混淆の論述を入れ込んだという感じである。よって思想としては大きな価値はないが、文学的にはむしろこちらの方が面白く、興膳宏も面白がって日本語訳を書いているような雰囲気がある。ちなみに内篇にはほとんど押韻がないが(荘周は押韻より論述を重視する)、外篇・雑篇は詩文とも違うラップ的な押韻が頻出している。

まず目立つのは、儒家への批判である。荘周本来の思想では、儒家への批判は絶対的なものではなかったのだが、ここでは儒家のいう徳目(仁・礼・義など)は人為的なものであると一方的に斥けられ、人間本来の性質「性」を尊ぶことが喧伝される。この「性」は内篇には登場しない概念であるが、思想史的には重要である。

外篇・雑篇には多種多様な登場人物が出てくるが、私がとりわけ気に入ったのは盗跖(とうせき:盗人の跖)である。彼は「何をやろうが道がないわきゃねえだろう」と嘯く(胠篋篇)。盗みをやるにも、そこには自然の摂理があるというのである。そして盗跖篇では、孔子を相手に大演説をぶつ。それは、世の中の全てをクソくらえだという、とんでもない演説だ。そこでは道家的なものでさえ笑い飛ばされ、伯夷・叔斉・申徒狄などは「名誉にとらわれて軽々しく死を選び、命の大切さを忘れて寿命をそまつにしたやからさ」と一蹴される。この部分は、興膳も面白くてしょうがないという感じで訳している。世の中のあらゆる権威に悪態をつく盗跖は単なる独善主義者なのだが、ある意味「道」を相対化する存在でもある。「てめえのいってる道なんざあ、からっけつの中身なしで、でまかせのうそっぱちよ」と彼はいう。痛快である。

そして外篇・雑篇の大きな特徴は、荘周の思想と老子の思想がドッキングされていることだ。本来の荘周の思想は、老子と近接はしていても違う部分も大きい。例えば老子は文明を否定するが、荘子は技術を信頼する。老子は国家・政治論を語るが、荘周は政治的なものから距離を置く。この二つの立場が、個人倫理として統合・再編集されたのが外篇・雑篇である。つまり、老子・荘周の思想が「隠者の哲学」として糾合されているのである。これはこれで魅力的な思想かもしれない。

しかし、ここで理想とされている隠者は、どこか小市民的だ。外篇・雑篇には、「陋巷で静かに暮らす賢人のところを王が訪れ、宰相となってもらいたいと頼むが、賢人はそれを断って「政治の話など汚らわしい」と嫌がり自殺・隠遁してしまう」というエピソードが様々に変奏して語られる。先述した狐不偕・務光・伯夷・叔斉・箕子・接輿・紀他・申徒狄は、みな名誉や地位を拒んで自殺したり隠遁した人々である(自殺したのは、狐不偕・務光・紀他・申徒狄)。

自殺や隠遁までしなくても、天下を譲られることを断るというエピソードはさらに多い。例えば尭は許由に天下を譲ろうとして断られ(これは逍遙遊篇にもある)、舜は善巻に譲ろうとして断られる。しかしこういうエピソードをくり返し読まされて思うのは、「荘子的隠者は、むしろ賢王に見出されることを熱望していたのでは?」ということである。

彼らは、自分が賢人であると自認しながら、官職に恵まれず不遇をかこっているように見える。だから、田舎に隠棲している自分たちをいつか王が見つけ出し、抜擢されることをひそかに願っているのである。ちょっとシンデレラ的なのだ。しかし彼らはそうした機会はいつまで待っても訪れないということが分かっていた。そこで、想像の中では「自分は好きで隠棲しているのだから、政治の世界などに引き入れないでほしい」という態度を取ったのである。そして、その態度の行き着くところとして、抜擢されようとしただけでそれを嫌がって自殺までしてしまう。

一方で、荘子的隠者は生命を重んじる(内篇「養生主篇」、外篇「達生篇」)。天寿を全うすることは、一国の主となることより優先される(雑篇「譲王篇)(とはいえ、それと反対の思想も外篇・雑篇にはあるのだが)。にもかかわらず、狐不偕や申徒狄は些細なことで自殺しており、命を粗末にしている(盗跖のいうとおりだ!)。結局、隠遁も抜擢も自殺も、彼らにとって全てが観念的で想像の産物にすぎないように見える。荘子的隠者は、実のところ田舎で隠遁しているのではなく、地方政府で小役人をしているようなイメージがチラつく。

しかし、諸子百家の他の思想が、結局は政治哲学に収斂していったのに対し、老子・荘子の場合は政治とは全く関係ない領域で、個人の生き方を指南した。為政者のための儒学思想に対抗できたのは、個人のための老荘思想しかないのだ。玉石混淆ともいえる多くの人が『荘子』の成立に寄与していることが予想されるが、その裾野の広さこそ『荘子』の力を表している。

では、その個人の生き方指南とは何か。それは極言すれば「自然の流れに身を任せなさい」ということだ。「自然の流れ(=やむを得ざる必然の理)」が則ち「道」なのだ。これは、積極的に世界に働きかける思想ではない。現状肯定であり、敗北を認める思想であり、何もしなくてもすむ思想なのだ。「何も思わず、何も考えなければ、道は知られる。どこにも身を置かず、何も行動しなければ、道に安んじられる」(外篇「知北遊篇」)などというと、一見すごいことを言っているようだが、なんだかニートの思想のようにも感じられる。このように書くと、あんまり『荘子』をネガティブに評価しすぎだと思うかもしれない。

しかし人間の社会は、自分ではどうしようもないことで苦しめられるのであり、世界を変革することは不可能なのであり、一旗揚げれば99%は失敗するのが現実なのだ。だから『荘子』の思想はネガティブな方向に成長していったように見えるが、ある意味では、人間社会のリアリズムを最も体現した思想となっていったとも言える。「生きるということは、暗闇の中にいるようなものだ(生有るは黬きなり)」(外篇「庚桑楚篇」)という。ままならないこの世界でどう生きるか。どう内面的自由を得るか。『荘子』の中心的な命題はそこへ遷移していったのである。

荘周の思想がそのように変奏していった原因の一つは、彼には弟子が少なかったということがありそうだ。『荘子』全篇で、唯一登場する(名前が明らかな)彼の弟子は「藺且(りんしょ)」ただ一人である。荘周その人は、諸国を遊説するでもなく、陋巷にあって貧しく一生を終えたらしい。だから弟子もほとんどいないのだ。儒家と違って、道家の場合は荘周からの師資相承の系譜というものがなく、荘周が残したテキストをたよりとして思想が広まっていった。そのためにテキストの解釈次第で多様な思想が生まれ、それが編集されて生まれたのが『荘子』なのである。それは荘周の思想を基盤としつつも、それとは異質なものを包摂したものなのである。

荘周は「ことばでは伝達できない」と言ったが、その思想は言葉のみによって伝えられ、そして「ことばでは伝達できない」ことを明証するように、変容していった。だがその変容は、必ずしも悪いものとは言えない。思想的には俗化していても、むしろ個人倫理としての力があるのは外篇・雑篇かもしれない。ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を生きる指針とする人はほとんどいないが、『荘子』はたくさんの人の座右の書となってきたのである。

言語哲学を足がかりに隠者の思想に辿り着いた、玉石混淆の説話集。

【関連書籍の読書メモ】
『老子』福永 光司 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収) 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/08/37.html
老子の思想。全ての人為的価値を顚倒させるリアリズムの書。 

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_15.html
諸子百家の思想の概観。

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2025年11月13日木曜日

『北畠親房『神皇正統記』現代語訳・総解説』今谷 明 訳・著

『神皇正統記』の全訳および解説。

北畠親房の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』は、神国思想を鼓吹した書であり、その冒頭「大日本(おおやまと)者(は)神国(かみのくに)也」はあまりにも有名である。

私は原文でこれを通読しようと手に取ったが、最初の方はともかくとして途中無味乾燥な文章が続く部分があり、とても苦労して原文で読む価値はないと思ったので今谷明の現代語訳に頼った次第である(だが振り返ってみると、無味乾燥な部分は思ったより少なかった)。

さて、親房がなぜこの書を著したのかというと、一言でいえば「南朝の正統性を主張するため」とされている。ただし、「誰に向けて」となると学説が盤根錯節としており定説はない。彼がこれを書いたのは延元4年(暦応2年)(1339)、常陸の小田城に籠っていた時である。

親房は村上源氏(村上天皇から出た源氏)の庶流北畠氏の出身である。家格は決して高くはなかったが、彼は源氏長者が帯すべき淳和院(じゅんないん)別当を任じて、大納言まで上るという異例の出世をした。しかし養育を任されていた世良(よよし)親王の病死に殉じ、38歳で出家した。世良親王は後醍醐天皇の皇子である。

出家後の親房の動向はしばらく謎であり、建武の新政の樹立にあたっての関わりは不明である。なお、武将の北畠顕家は彼の嫡男だ。

建武2年(1335)、中先代の乱が勃発し、建武政権は崩壊。南北朝の争乱によって顕家は戦死した。不利な状況を打開するため、後醍醐天皇は義良・宗良の二皇子に北畠親房を添えて東国に派遣する。ところが一行の船が難破し、親房は皇子らと離れて霞ヶ浦の南岸に漂着してしまう。親房が到着したことが分かると敵勢が攻め込んだため、逃亡して移ったのが南党の小田治久(はるひさ)の本拠地である小田城であった。

そして親房はこの小田城にて、簡略な「王代記」一冊を参考に、たった一ヶ月程度で『神皇正統記』を書きあげたのだという(!)。博覧強記の親房をもってしても、このような事情であるから歴史的事実の間違いは多い。多いには多いのだが、大筋ではほとんど淀みなく歴史を物語っているのはさすがという他ない。

その内容は、歴代天皇を軸とした日本の歴史である。

本書は「天」「地」「人」の3部に分かれており、 「天」は日本の成り立ち、世界の起こり、天地開闢よりの神話、神武天皇から宣化天皇までの歴史を、「地」は欽明天皇から堀川院まで、「人」は鳥羽院から後村上天皇までとなっている。このように、親房は天皇の交替を軸に日本史を語るのである(この手法自体は「六国史」と共通している)。

『神皇正統記』の天皇の代数は、95代(後醍醐天皇)までは『本朝皇胤紹運録』と全く一致している。つまりまずは「六国史」に依り、鎌倉以後の天皇についても当時の考えを踏襲している。親房オリジナルは、光厳天皇以下、北朝の天皇を認めないというだけだ。しかしその理由となると、実は本書には明確には書いておらず曖昧だ。三種の神器がキーにはなっているが、それだけで説明されているわけではない。

また、天皇中心史観でありながら、鎌倉幕府(源頼朝と北条泰時)を高く評価しているのも奇異である。これは、親房の先祖を泰時が引き立ててくれたということに基づくと思われる。そして親房は、摂関政治を理想的な政体としている。であれば、親房の立場は後醍醐天皇(天皇親政を理想とした)とも違う。 このように、『神皇正統記』は意外に史観が一貫しておらず、ご都合主義的に評価が下されているように見える。

しかしながら、本書は「読者が留意しないと親房の筆録に引きずられる傾き(p.25)」があり、古来、多くの読者が親房に引きずられてきた。本書で、今谷明は原文に忠実でありながら、そうならないように詳細な註を用意しており、とても助かる。

なお、親房は儒学思想に依って歴史を記述する。神道思想も使われるが、全体的な基調は儒学である。また仏教的な世界観を前提とする。親房の思想は儒学が基調といっても、彼は孟子の易姓革命を認めず、王朝が交替している中国より皇統が続いている日本の方が優れていると考える。

しかし親房は天皇は神聖不可侵とは全然思っておらず、『神皇正統記』ではしばしば天皇に筆誅が加えられる。親房は天皇は「徳」や「賢」を備えるべきだと厳しく要求し、天皇が不徳の場合は皇統が移ることも当然とする(傍系の天皇が断絶するなど)。彼は天皇が直系に継承されることを非常に重視する一方で、血統一辺倒ではなく「徳」を持ち出し、不徳の結果が現実に投影されると考える。この親房の論理からは、後醍醐天皇の吉野没落も不徳により人心を失った結果と考えざるを得ないのだが、親房はそれを無視する。「血」なのか「徳」なのか、親房は都合よく使い分けているように見える。

このように、親房の歴史記述は揺れ動いている点も多いが、先述の通り素直に読んでいると親房の書き方に納得させられてしまう部分がある(1ヶ月で書いただけあって妙なスピード感がある)。そのため、『神皇正統記』は後世に幅広い読者を獲得したから、その批判も多かった。批判的な著作としては、例えば小槻晴富『続神皇正統記』や前田綱紀『正慶乱離志』がある。『神皇正統記』は、逃亡中に短期間で書かれたものとしては異常なほどの影響力を持ったのである。

本書は天地開闢以来の歴史を語る。いちいちそれをまとめると厖大になるので、以下私が感じたことを中心にメモする。 

「天」

親房は「日本」(あるいは「大日本」)という国号について考察した後、天竺(インド)と震旦(中国)の世界創世神話を紹介する。そして「世界の始まりはどこでも違うはずはないが、三国とも違っている」とコメントしている。こういうコメントは現代人にはないセンスで面白い。ちなみに震旦は「乱逆で無秩序な国」といい、妙に中国の評価が辛い。圧倒的な文明国だったはずだが。親房にとっては、文明の程度よりも皇統の連続の方が重要なのである。

次に日本の開闢神話が語られる(概ね『日本書紀』『旧事本紀』『古語拾遺』に基づいているようだ)。親房は神話を神話としてでなく、実際にあったこととして語る。それにしても神々の名前(と漢字)・系譜をよく覚えていたものだと思う。ここでは意外なことに本地垂迹説が語られていないが、「和光同塵の御誓いも現れて(p.67)」という一語がある。「和光同塵」は、仏が(その光を和らげて)神として垂迹する、という意味で使われた(元来は『老子』に出てくる言葉)。

三種の神器についての考察の中で、「この「理(ことわり)[天照大神の神勅]」を悟り、その道から外れることがなければ、内典(仏書)・外典(儒書)などの学問も最後はこれと一致するであろう(p.81)」とあるのは三教一致思想として注目される。なお、高千穂への天孫降臨については、実際の地理との対応はあまり考えていないようなのが近世とは大きな違いである。ちなみにニニギノミコトがやってきたのが「吾田の長狭御崎」で、日本書紀の「笠狭御崎」とは違っている。記憶に基づいて書いているからこういう間違いは多いようだ。

ところでニニギノミコトが天下を治めたのは30万8533年だという。これはどこから出てきた数字なのだろうか。続くヒコホホデミノミコトは何年と書いておらず、続くウガヤフキアエズノミコトは、63万7892年治めたとする。いくら何でも寿命が長すぎ、超古代すぎる。そして、これでは他国の歴史と全く数字が合わないはずだが、親房はいろいろと理屈(屁理屈?)を述べ、「(中国の)盤古の初めは、わが国では彦火火出見尊の代の末ごろにあたることになるのであろうか(p.87)」などと述べている。言っていることは荒唐無稽だが、それを合理的に解釈しようとするのが親房の神話記述の特徴である。

さらに、ウガヤフキアエズノミコトの「77万余年ごろ」に中国では伏羲がいたという。そして、同「83万5667年」には天竺で釈迦が誕生したといい、ウガヤフキアエズノミコトは83万6043年天下を治めたという。先刻は63万7892年だったのに整合していない。このあたりは無茶苦茶である。そして神はこんなにも長命であったのに、神武天皇からは寿命が短くなったのは不審だが「神の道のことは推し測りがたく(p.89)」と述べて言い訳している。

神武天皇以降の歴史では、いちいち「この頃中国では…」と簡単でも中国のことを折に触れて述べている。例えば「神武天皇の御代の初めは辛酉の年で、中国では周の世、第17代の君、恵王の17年にあたる(p.95)」といった調子である。もちろんこの年代は荒唐無稽なのだが、本人としては実証的な態度で書いている。中国は「乱逆で無秩序な国」とはいうが、親房は中国をかなり意識しており、しばしば中国の歴史を引用して様々なことを述べる。ちなみに第7代孝霊天皇の項では専ら中国の歴史が述べられている(このあたりは日本史が空白になっているからだろう=欠史八代)。中世に入っても中国史をいちいち参照する書き方は続く。

なお、神武天皇の項で、「アマノコヤネノミコト」の子孫と「アメノフトタマノミコト」の子孫が神事を司った、とやや強調している。これは中臣氏と斎部氏の祖先にあたる。中臣氏から藤原氏が出たので、藤原氏の神聖性を強調しているものと思われる。 

親房は、妙に天皇の年齢にこだわりがあり、何年治めて何歳で死んだかを全天皇について書いている。「何年治めて」は重要だが(絶対年代がないので天皇の治世を足し合わすことで年代を計算しなくてはならない)、何歳で死んだかにこだわりがあるのはなぜなのか。しかも、第4代懿徳天皇は77歳で死んだとするが、『日本書紀』では享年が記されておらず『古事記』では45歳だし、第5代孝昭天皇は104歳で死んだとするが、『日本書紀』では享年が記されておらず『古事記』では93歳とするように、親房が述べる天皇の享年は記紀と合わない。何に基づいて書いたのだろうか。

第16代応神天皇の項では、はっきりと本地垂迹説に基づいた記述となっている(応神天皇は八幡神として顕現した)。ここで正直の徳が説かれる。曰く「天照大神も、ただひたすら正直のみをその御心となさっている(p.128)。」とし、「もっぱら正直を第一とすべきである(p.129)」という。これは度会神道に基づいているようだ(親房には『元元集』という神道の著作もある)。なお第30代欽明天皇の項でも「八幡大菩薩が初めて垂迹なさった(p.154)」とある。

第23代清寧天皇の項は、しごく簡略にしか書いていないが、清寧天皇は子がいなかったので実はここで系譜が断絶している。これは重要だ。次の第24代顕宗天皇は清寧天皇から見て再従兄弟(はとこ)にあたる(清寧天皇は顕宗天皇を養子にした)。しかしこの皇統の移動の理由について親房は何も語らない

一方、第26代武烈天皇は暴虐で知られ、悪行・不徳のために「天祚(あまつひつぎ)」が長く続かなかったとする。清寧天皇の皇統断絶とは全く違う書きぶりだ。気をつけて読んでいくと、親房は本当にご都合主義的だ。そして(『日本書紀』では血縁関係が書いていない)継体天皇が即位するわけだが、親房は継体天皇までの先祖名をしっかり記している。これが何に基づいたものなのか不明である。そして皇統が攪乱しているにもかかわらず、親房は継体天皇を「真の賢王」と呼ぶ。そして「群臣が探し申しあげ、賢明な方だということで皇位にお迎えしたのだから、それこそ天照大神の御本意と考えられる(p.147)」「皇胤の絶えたときに、賢明な人が皇位に即かれることは、天の許すところである(同)」としている。このあたりには血統一辺倒でない親房の考えが如実に表れている。しかしそれなら、王朝が交替しているといって中国を批判するいわれはないはずである。そこが親房の非論理的なところである。

「地」 

第33代崇峻天皇の項も興味深い。崇峻天皇は蘇我馬子が差し向けた東漢直(やまとのあやのあたい)駒(こま)に弑されたからだ。天皇中心史観で考えると、天皇を殺すということは大逆である。しかし親房は「この天皇には横死する運命の相が現れていた(p.158)」とし、この殺害を合理化(!?)している。

皇統の交替ということでいうと壬申の乱も重要なはずだが、親房は第40代天武天皇を傍系と見なしているのか天武系に対して妙に冷淡である(つまり本来の皇統に戻っただけだと見なす)。また第42代文武天皇の項で年号(大宝)の使用が始まったとしているが、親房はなぜかこれ以降、年号をあまり書いていない。天皇の享年は執拗に記すのに、なぜか年号には関心が薄いらしい。親房は記憶に基づいて『神皇正統記』を書いているので、関心の薄いことはそもそも覚えておらず書けないのかもしれない。記述に非常に粗密があるのが『神皇正統記』の面白いところでもある。

第52代嵯峨天皇の項では、かなり長く日本の仏教の歴史と国家論が展開される。最澄と空海の話に続いて、真言宗・天台宗に触れ、特に真言宗については「わが国は神代からの建国の由来が、この宗の説くところとよく符合している(p.205)」という(ただしどういうところが符合しているのかは書いていない)。真言宗がもっとも日本に相応しい宗教であるという考えが当時支配的だったようだ。次に華厳・三論・法相宗について、次に律宗、最後に禅宗について述べている。そして「教法は「無尽」で多種多様(p.211)」だという。親房は宗義格別の考えである。

次が国家論であるが、親房は人々が飢えないようにすることが基本だという。意外と常識的だ。「さまざまの道を用いて人々の憂いを安心させ、お互いに争いごとのないようにすることを、国を治める根本[と]すべきである(p.213)」という。そして学問や諸芸が必要であることを中国の故事を引いて述べている。この嵯峨天皇の項は、『神皇正統記』の中で異彩を放っている。

第56代清和天皇の項では、摂関家について説かれる。先述の通り、親房は摂関政治を理想的な政体とする。その淵源はアマノコヤネが天照大神に仕えていたという盟約であるが、親房は藤原良房の系統が摂関家として確立したことを重視している。

第57代陽成天皇の項も興味深い。陽成天皇は、侍臣を殿上で撲殺したことで臣下により廃位されたと言われるからだ。ただし親房はこの事件については書かず、「「性悪」で帝王の器にうさわしくなかったので、摂政の基経は嘆いて廃位を決断した(p.228)」と書いている。徳のない天皇は臣下により廃位させられることもやむを得ない、というのが親房の考えだ。

第58代光孝天皇の項では親房の天皇論が開陳される。ここは重要だ。陽成天皇の廃位は「天皇ご自身がなされた科(とが)(p.231)」だといい。天皇は「十種の善を積み、その効力で天子になられた(p.232)」ものだとして、前世からの因縁を強調するが、それでも現世での業績と善悪はまちまちであるから、「本と本として正にかえり、元を元として邪を捨てられることこそ、祖神の御意に適いなさるものである(同)」という。文意が取りがたいが、「皇統が断絶しているように見えても、それは悪逆の報いとして傍系が断絶したのであり、祖神の御意によって正系の皇統に返ったのである」という意味だと思われる。

第59代の宇多天皇の項では、宇多天皇が出家し、真言宗の勧請を受けて法統の正統となったことが述べられている。面白いのは、ここで真言宗についての解説がなされた後、「宇多天皇の御代こそ無為にして治まるという聖代である(p.238)」といっていることだ。老荘思想的なのである。ちなみに、このあたりから歴史記述が詳しくなる。

次の第60代醍醐天皇は「聡明叡哲(p.240)」、第61代朱雀天皇は「政治が間違っていたとは思えない(p.244)」、第62代村上天皇は「名君が出現された(中略)わが国が中興のときを迎え(略)(p.245)」とし、賢帝が続いて出現したとしている。にもかかわらず、朱雀天皇には皇子がいなかったため、同母弟の村上天皇が即位しているのである。これは兄弟間の践祚なので皇統の交代とはいえないが、親房の皇統交代理論に当てはまらない。そこで親房は「「時の災難」であったと思われる(p.244)」としている。しかし「徳」が十分なのに「時の災難」があるなら「徳」は本当に有効なのだろうかと思わざるを得ない。

ちなみに村上天皇の項で、村上源氏の始まりについて述べている。先述の通り親房は村上源氏の庶流にあたる。よって村上源氏に誇りがある(=「天皇の御子孫」だという)が、ここで藤原氏(摂関家)が上位にあるとそれとなく書いてある。親房は摂関家を非常に重視している。

第63代冷泉院は、一種の画期を成している。ここで天皇号が使われなくなり、山陵が置かれなくなっている(宇多天皇から諡(おくりな)も廃止されている)。天皇の性格に変化が生じたのである。親房は「尊号をやめてしまうことは臣子の儀ではない(p.254)」とし、「やはり天皇と申し上げるべきである(同)」とするが、近年の研究では「〇〇院」はむしろ「天皇の聖性をかえって強化する方向にあった(同頁・今谷の註)」とされる。ちなみにこの頃から天皇の出家が普通になる。

ちなみに冷泉院から第67代三条院までは皇位継承がイレギュラーである。親房は第65代花山院については「この天皇にも「邪気」があったという(p.257)(後述)」としているが、それ以外の皇位継承については何事もなかったかのように述べている。親房の「徳」による皇位継承理論は破綻していると言わざるを得ない。親房もそれを感じているのかいないのか、第66代一条院の即位では、花山天皇が「神器を置いて皇宮を出られたので(p.258)」譲位の儀を行ったとし、ここで初めて三種の神器が皇位継承で大きな役割を与えられている。注目の部分である。

第68代後一条院の即位は、冷泉天皇の皇統が断絶し円融天皇の系統に移ったことを意味する。親房は冷泉天皇を正系とみなしているが、これが断絶したのは「元方の怨霊のせい(p.263)」だそうだ。藤原元方の娘が生んだ皇子が天皇になれなかった恨みが「邪気」となって冷泉系を苦しめたのだという。しかし冷泉と円融は同母兄弟である。冷泉系だけに「邪気」の矛先が向かうのは道理が通らない。それに対し親房は「(円融院が)これほどまで悩まれなかったのは、皇位を受け継ぐ御運がおありになったからであろう(p.263)」という。やはり親房はご都合主義的だ。

ちなみに、後一条天皇は、初めて諡号に「後」がついた天皇(院)である。この「後」に何の意味があるのか、親房は何も記していないが、私としては復古的な意味が託されているように思う。追って検討してみたい(ここから、後朱雀院、後冷泉院など白河院の登場まで「後」が続く)。

「人」

周知のとおり、鳥羽天皇以降の皇位継承は非常に混乱している(手間なのでいちいち記さない)。直系相続を重視する親房は、ここからの皇位継承について頭を悩ませたに違いないが、なぜか皇統の断絶・継承についてほとんど議論していない

後鳥羽院の子孫が皇位を継いだのは「これもしかるべき天命だったのだと思われる(p.281)」としているが、問題はなぜそこに天命があったのか、ではなかろうか。もはや「徳」は重要な要素ではなくなっているように見える。それは、天皇自身ではなく、院が執政の中心になったためなのかもしれないし、あるいは武士に実権が移りつつあることを示しているのかもしれない。藤原通憲(信西)の最期を「その行いが天意に背いていたからであるのは疑いようもない(p.287)」とし、源義朝が滅んだのを「名行が欠けていた(p.289)」「義朝自身の不徳・科である(同)」とするなどである。

第82代後鳥羽院の即位は、第81代安徳天皇が神器2種とともに海中に沈んだため、神器なき即位であった。しかも皇統の断絶(当然に安徳天皇の直系ではない)も伴っている。親房の皇位継承理論では容認できぬ践祚のはずだ。しかし親房は「後白河法皇はわが国の本主として正統の位を伝えておられた。また、皇大神宮と熱田神宮の神があきらかに護りなさることなので、天位には何の問題もない(p.299)」と言い切っている。

ところで三種の神器(のうち宝剣と神璽)が海に沈んだのなら、以降の天皇はみな正統とは言えないのか。親房が言うには、海に沈んだ宝剣は代わりのもので、本物(天藂雲剣)は熱田神宮に祀っており、神璽(八坂瓊勾玉)は海から浮かび上がってきたとする。親房は三種の神器が不変であると述べているが、実際にはたびたび作り替えられている。そもそも親房の理屈では、レプリカの宝剣でも即位に有効であるということになり、それならば三種の神器の意味はないことにならないか。しかしこのあたりから親房は神器についてしばしば述べて皇位継承の重要な要素としている。

廃帝(仲恭天皇)の項では、承久の乱が述べられる。後鳥羽上皇が幕府を打倒するために挙兵したがあえなく敗退した事件である。天皇中心史観の立場では、後鳥羽上皇側に正義があったとするのが当然であるが、親房はそう見ない。親房は承久の乱の失敗を上皇の失政に原因があったとし、「(幕府の打倒は)天も許さぬことであったことは疑いない(p.314)」という。そしてむしろ頼朝は善政によって民を救ったとする。

第86代四条院は若くして亡くなったのでここで皇統が断絶した(もはや親房は「徳」がどうのこうのと述べていない)。そこで北条泰時は第87代後嵯峨院を立てたのだが、これを親房は「これは天命であり、正理であった(p.320)」とし、「天照大神の「冥慮」に代わって、泰時がこのように取り決め(同)」たという。この論法だとなんでも説明できてしまうような気がする。ともかく、親房は泰時びいきなのだ。

こうして、ようやく「両統迭立(てつりつ)」に入る。後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)が交互に天皇を出すという異常事態であるが、意外なことに、これについての親房の筆は至極あっさりしている。南北朝の動乱の原因はこの両統迭立にあり、また皇統の直系相続を基本とする親房にとって容認できぬ事態のはずである。にもかかわらずなぜ親房は両統迭立について問題視しないのか。結局、両統迭立の責任を追及すると北条時宗にいきつくが、先述のとおり親房は北条泰時びいきであり、ひいては北条氏びいきである。そのために両統迭立を不問にしたとしか思えない。

両統迭立の中で、親房が特に高く評価するのは後宇多院である。後宇多院は退位後に出家して灌頂を受けており、「あらゆる戒律を残りなく保ち、終始怠ることなく真言密教の奥義を究め、大阿闍梨として灌頂を授けられなさったことはたいそう珍しい(p.334)」という。親房は、真言密教びいきでもある。第95代後醍醐天皇も、真言密教を修行し、灌頂を受けている。もしかしたら親房の真言密教びいきは、後醍醐天皇の存在から逆算されたものなのかもしれない。

さて、問題の光厳天皇の即位についてである。なぜ親房は光厳天皇を天皇として認めないか。後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒を目論んだ「正中の変」(後醍醐は無関係を主張)を経て、「元弘の変」で幕府方に捕らえられて退位を余儀なくされた。『神皇正統記』は(意図的に?)書いていないが、ここで三種の神器は幕府方に没収されている。光厳天皇は、後醍醐天皇からの譲位こそないが、後伏見天皇の「伝国詔宣(てんこくしょうせん)」による正式な手続きで即位している(後鳥羽天皇と同じ)。なお光厳天皇の即位にあたって、親房は三種の神器の有無について何も述べていない。ここが一番意外だった。光厳天皇を認めるか否かが『神皇正統記』の一番のキモであるはずなのに、親房は議論も何もなく光厳天皇を一方的に切り捨てているだけなのだ。

 一方、後醍醐天皇は隠岐国に配流された。その後、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、反幕府方の勢力を糾合し、特に足利高氏の寝返りと新田義貞の力で鎌倉幕府を滅亡させた。こうして後醍醐天皇は再び天皇として返り咲いた(北朝の立場からは後醍醐天皇を重祚したと見なした)。なお書いていないが、この時後醍醐天皇は神器も取り戻したのであろう。

また、ここで北畠顕家を陸奥守に任じて東国に派遣したことが述べられるが、不思議なことに、顕家が親房の嫡男であることは一言も書いていない。親房は『神皇正統記』を、親房の立場からではなく、いちおう客観的な歴史書として書いている(という体にしている)のである。 これは、読んでいるとなんだか居心地が悪い。親房は、明らかに後醍醐天皇の廷臣としての立場で書いているのに、あたかも客観的な歴史書であるかのように装っている。

しかし面白いことに、かといって後醍醐天皇を手放しで賞讃するのでもない。例えば足利高氏を重用したことを「度を超えた御寵愛(p.356)」といい、「たいした大功績もない高氏に、このような恩賞が与えられるのはおかしい(同)」という。恩賞の不公平は建武政権の早期瓦解の要因に挙げられるが、親房もそれを指摘する。また人事は適材適所であるべきなのに、勲功への見返りとして官位が濫発されたとも強く批判している。親房は客観的な歴史書を装うことで、建武政権への批判をしているのである。これは後醍醐天皇の「不徳」であるから、皇統の移動が導かれるように思われる。ところが親房はさんざん建武政権の失敗をあげつらいながらも、それを正統と見なし続ける。

中先代の乱が起こり建武政権が打倒されると、北朝は光明天皇を即位させるが、ここでも神器の有無について親房は一言も述べていない。実際には、光明天皇の即位時には神器はなかったが、その後、後醍醐天皇が花山院に幽閉され、神器も幕府に取り上げられて光明天皇の許に戻ったのである。こうなると光明天皇が正統ということになりはしないか。さらに後醍醐天皇は神器を持ち出して吉野に逃亡したとするが、今谷によれば「後醍醐天皇が神器をすべて持ち出したとは考えがたい。(中略)吉野朝で後醍醐の携帯と称す神器は、南朝において新造したものと推測される(p.380)」という。 

『神皇正統記』は、神器と皇位を強く結びつけた書であるとされる。確かに親房は「内侍所(神鏡)も神璽も吉野にあるのだから、どうして都でないことがあろうか(吉野こそ都なのである)(p.380)」と述べ、神器こそ皇位を表すものだという。ところが、これまで縷々述べたように、決して『神皇正統記』全体がそういう考えで一貫して書かれているわけではない。それどころか親房の皇位継承理論で最も重要なのは「徳」(=善政)であり、神器ではなかった。天皇の地位が執政から遠くなり、皇統が乱脈したことでクローズアップされてくるのが神器なのである。むしろ、南朝の正統性を主張したいがために苦し紛れで出してくるのが神器=皇位の理屈であるように感じた。しかも、注意深く読んでみるとその理屈はすでに破綻しているのだ。

それにしても、『神皇正統記』は本当に南朝の正統性を主張するために書かれたのだろうか?  というのは、南朝の正統性を主張するためには「北朝に正統性がない」ことを論証する必要があるが、実は『神皇正統記』では光厳天皇・光明天皇を切って捨てているだけで、正統性の有無について(神器の有無についても!)全く論じていない。これでは南朝の正統性が明証されたとは言いがたい。そもそも、南朝の正統性を主張するために、神代以来の天皇の歴史を全て書く必要はないように思う。なにしろその皇統は『本朝皇胤紹運録』と全く一致しているのだ。つまりこの本は、本来書かねばならないことが書いておらず、書かなくてもいいことが厖大に書かれているように見える。 

一方で、『神皇正統記』は冒頭に述べたような緊迫した状況で書かれており、漫然と書いたものでないことは明らかだ。しかも南朝の擁護が全面に出ていることも明白である。そこで後半部分をもう一度検証しつつ目を通したところ、親房があえて書かなかったと思われることについて見えてきた。

それは、「伝国詔宣(譲国詔宣)」である。

当時の一般的な相続慣行において最も重視されたのは「譲状(ゆずりじょう)」という証文である。これは、家督保持者から次期当主へ向かって「財産は○○に譲ります」ということを明確にする証文である。中世は証文が重視された時代で、家督継承には家宝の受け渡しも伴ってはいたが、一番重要だったのは「譲状」であった。この一般通念が天皇家にも適用され、天皇家の家督保持者たる「治天の君」(院)が次期天皇を指定する「伝国詔宣」を出すことで即位が可能となると考えられるようになった。

最初に「伝国詔宣」が出されたのは鳥羽天皇である(出したのは白河院)。白河院は5歳の皇子を鳥羽天皇として強引に即位させたが、その時に使われたのが「伝国詔宣」だ。次が後鳥羽天皇の時で、前天皇の安徳天皇が壇ノ浦で神器とともに海中に沈んだため、彼は神器を用いた「践祚の儀」は行えなかったのであるが、「伝国詔宣」で即位できると見なされたのである。これについては、親房も「太上法皇の詔によって後鳥羽天皇をお立てになった(p.299)」とちゃんと書いている。また他にも後高倉院(天皇経験でない治天の君)から後堀河天皇へも「伝国詔宣」が出されて次期天皇に指定されている。そして「伝国詔宣」によって三種の神器なしで即位したのが、北朝の光厳天皇と光明天皇であった。

今谷明も「公卿界でも上皇の「譲国詔宣」をもって皇位継承の象徴とする意識が定着しており(今谷明「14−15世紀の日本」『岩波講座 日本通史』第9巻)p.7」)とし、「上皇の譲国詔宣を欠く践祚例は、院政期に入って一例もなかった(同書p.13)」と述べている。当時の皇位継承の通念において最も重視されたのが「伝国詔宣」なのである

にもかかわらず、親房は後鳥羽天皇の即位以外で「伝国詔宣」については何も語らない。その理由は明らかだ。「伝国詔宣」が有効ならば、北朝の天皇(光厳・光明)を正統と認めざるを得ないからだ。しかも親房は、「伝国詔宣」が有効であることを自覚していたのも間違いない。それは、後醍醐天皇没後、「親房は幕府を油断させ、北朝の帯びていた神器を接収し、光厳・光明・崇光の三院と廃太子直仁親王を南朝賀名生(あのう)に拉致・監禁するという荒業(p.31)」を行っていることから明白である。神器がなかったとしても、上皇が存在していれば「伝国詔宣」によって天皇の即位が可能になるから、「治天の君」になりえる上皇3人を全員拉致して北朝の天皇擁立を防いだのである。

ところが幕府もさるもので、光厳・光明の母である西園寺寧子(広義門院)を「治天の君」にしつらえ、彼女から「伝国詔宣」を出すことで後光厳天皇を即位させた。

これには親房も予想外だったが、これほどまでに強力な皇位継承のアイテムだったのが「伝国詔宣」なのである。してみると、親房が『神皇正統記』でやりたかったことは、「伝国詔宣」の効力を無力化するということなのではないだろうか。そのために、彼は後鳥羽天皇以外では「伝国詔宣」の存在に触れないことで、あたかも三種の神器こそが皇位継承に重要な役割を果たしていたかのように印象操作した。実際に当時の皇位継承に有効だったのは「伝国詔宣」だったにもかかわらず。

しかしながら「伝国詔宣」は院政期に登場するものであり、天皇の歴史全体から見ればごく最近のアイテムにすぎない。一方、三種の神器は神話に登場しているから、悠久の歴史がある。そして「三種の神器」を媒介にして、親房は「神慮」「天意」「神明」をしばしば引き合いに出して、神の意志こそが皇位継承(皇統)を左右してきたとの印象を植え付けるのである。だから日本は「神国」なのだ。これが、親房が天皇の全歴史を神話の時代から長々と書いた理由であるように思う。

そしてその意図は見事に成功した。親房によって、皇位継承の正統性のポイントが「伝国詔宣」から「三種の神器」へ完全にスライドしたのである。

※「伝国詔宣」については、岡野友彦「伝国詔宣——中世院政下の皇位継承」も参考にしました。

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。「愚管抄と神皇正統記—中世の歴史観」を所収する。

『神国日本』佐藤 弘夫 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/08/blog-post.html
中世の神国思想を考究する本。神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。 

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2025年11月10日月曜日

『阿弥陀聖 空也――念仏を始めた平安僧』石井 義長 著

空也の評伝。

空也(903~973)は、鴨長明が『発心集』で「わが国の念仏の祖師と申すべし」と述べたように、いち早く念仏を行い、人々に広めた先駆者である。空也は法然(1133~1212)よりも230年早く生まれ、源信の『往生要集』が書かれる13年前に亡くなっている。

しかしながら、「彼に関する確実な史料も極めて乏しく、仏教者としての彼の評価は、さまざまな解釈が乱立したままの状況にある(p.8)」。例えば浄土教研究の金字塔である井上光貞『日本浄土教成立史の研究』では、空也の念仏は民間呪術宗教と捉えられ「狂躁的エクスタシア(p.14)」とされるなど、呪術的性格が強調された。問題は、何に基づいてそういう判断がなされたかである。空也が自ら記したものは何も伝わっておらず、断片的な史料からそういう評価になったのだというのが著者の考えである。そこで著者は、空也に関する史料を博捜し、『空也上人の研究——その行業と思想』で実証的に空也の姿を明らかにした(著者の博士論文でもある)。本書は当該書を踏まえ、一般向けに空也の生涯をまとめたものである。

著者は空也を「法然等の鎌倉浄土教より二百余年早く易行の称名念仏を選択し、空と慈悲という仏教の根本思想に立って、庶民の魂の救済に身を抛った天才的な真の宗教家であった(p.16)」と評価する。

その根拠とするものは、空也の没後まもなく源為憲(ためのり)によって書かれた『空也上人誄(るい)』である。これを縦糸とし、その他の史料を横糸として本書は記述されている(ただし、『誄』の全文がまとめて掲げられていないのは残念である)。さらに著者は「彼の実践した行動が彼の思想の表現であったという立場に立って(中略)帰納的に探っていく(p.15)」という方法論で史料の行間を埋める。よって、本書には「こういう行動をしているということは、こういう思想であったのであろう」という記載が散見されるが、基本的には史料に基づいている。

なお『誄』の作者源為憲は、当時大学寮文章道の学生(がくしょう)であり、後に『三宝絵』も表している。

空也は延喜3年(903)に生まれた。出自は不明であるが、『誄』では「或曰(あるいはいわく)」として「皇派に出ずる」(=皇胤)とされ、後代には醍醐天皇の皇子であるとか親王の子であるという伝説が生まれた。「彼が皇室ないし藤原上級貴族と何程かの交流があり、その支援を受けたことは事実と考えられる(p.48)」

なお空也の読みが「こうや」であるという説があるが、原本に遡ると根拠がなく、「くうや」が正しいと思われる。

少壮の日には、優婆塞(在家信者)として各地で修業し、道路補修をし井戸を掘り、荒野に捨てられた遺骸を集めて焼き、阿弥陀仏の名を唱えた(「阿弥陀仏の名を唱う」)。この遺骸供養は非常に先駆的だ。「阿弥陀仏の名を唱う」は称名念仏の原型とみなせるので、これが事実であれば称名念仏による亡魂供養として歴史的に重要である。

念仏の初めは、円仁の弟子相応が「円仁の遺言に従って貞観7年(865)に「不断念仏」を行ったのが始まりとされ(p.55)」るが、これは『阿弥陀経』の読誦+前後の「阿弥陀仏(あみだぶ)」という念仏によるものでり、称名念仏そのものではない。いまだ称名念仏が確立していない頃に空也が阿弥陀仏の名を唱えたのは、不断念仏だけでは説明がつかない。

彼は20歳を過ぎて尾張国分寺で出家して沙弥となり、自ら「空也」を名乗った。ただし、これは正式な出家の手続きを経ないものであったようだ。私度を取り締まるべき国分寺で、正式な手続きを経ずに出家したのは奇異である。なお浄土宗・時宗に伝わる伝説によれば、空也は三論宗を学んだという。三論宗は空の思想を根幹とする。著者はこの伝説を蓋然性が高いとしている。

空也は国分寺での象牙の塔的な仏教に飽き足らなかったのであろう。彼は国分寺を出て播磨国の峯合寺(みねあいでら)の道場にこもって数年間一切経を読んだ(法然と似ている)。どうやらここで空也は念仏を選び取ったらしい。斉明天皇7年(661)には、すでに善導の『観経疏』『往生礼讃偈』が伝来しており、これらは奈良時代の正倉院写経所で写経されていたことが知られている。峯合寺の一切経にはこれらが含まれていて、これらを空也が読んだ可能性はある(著者は「まず間違いないことと考えられる(p.68)」としている)。また奈良時代、元興寺(三論宗)の智光は世親の『浄土論』を釈義した『無量寿経論釈』を著している。法然より遥か前に、口称名号の念仏の理論は一応あった。

空也は特定の師を持たず、自ら念仏を選択したと考えられる。そして「尋常(つね)の時、南無阿弥陀仏と称えて、間髪を容れず」という状態になった。後の一遍を髣髴とさせる。

さらに阿波の孤島湯島に行き、数か月参籠し観音の現身を拝した。空也は阿弥陀仏への信仰と同時に十一面観音への信仰を持っていた。なおこれは、親鸞が六角堂(本尊如意輪観音)に参籠して聖徳太子からのお告げをもらったことと通ずる。空也もこの時に自己を確立したのだという。だいたい30歳くらいの時であった。

空也はその後、陸奥・出羽地方へ念仏布教の旅に出た。最澄と論争したことで有名な徳一も陸奥国にいたことが知られているが、東北ではあまり仏教が普及していなかったことが巡錫の理由らしい。ここで空也は、念仏を唱えれば極楽往生できるという易行の教えを説いたと思われる。その後、著者は様々な史料から空也は愛宕山で修業したと推測している。

そして空也は、平安京に入った。天慶元年(938)、空也36歳であったと推測される。空也は市中で乞食し、また貧者や病人に与え、「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた。また常に南無阿弥陀仏と称えていたため「阿弥陀聖」とも呼ばれた。山中から市中に居を移したのは、人々を救いたいという思いがあったために違いない。

ところで、本書では何も問題視されていないが、峯合寺での一切経の閲読やその後の念仏を考えると、『誄』で少壮の空也が「荒野に捨てられた遺骸を集めて焼き、阿弥陀仏の名を唱えた」というのは齟齬がないでもない。峯合寺での一切経の閲読の前に、空也は「阿弥陀仏」と唱えていたことになるからだ。私としてはこれは後付けの伝説ではないかと考えたい。なにしろ源為憲は若い頃の空也を直接は知らないのだ。

ただし、少壮の空也が念仏で亡魂供養をしたというのは事実でなかったとしても、平安京で念仏の教えを説いたのは事実であり、時代に先駆けている。「空也以前にわが国で口称名号の念仏が実践されていた事例は発見でき(p.102)」ないのである。

また空也は平安京東の市門(いちかど)に石の卒塔婆を建て(『打聞集』)、そこに「一たびも南無阿弥陀仏という人の 蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」との和歌を掲げた。この和歌は『誄』には記録されず、藤原公任の『拾遺抄』(空也没後二十数年の撰)に記録されている。これは画期的な法語である。

このころ、空也は興福寺に行って勉学をしたという形跡がある。興福寺の浄名院という寺院には、空也が掘ったという井戸「阿弥陀井」があった(現存せず)。鎌倉時代の説話集『撰集抄』には、空也が空晴という僧侶に経論を学んだことが書かれている。この空晴は興福寺の喜多院にいたという。空也の思想には興福寺の影響があるようだ。

そして『誄』には記されていないが、空也は平安京に阿弥陀仏を祀る「市堂」というお堂を建てたと言われており、平安時代末の絵図にはこれが記録されている。しかし当時の洛内は仏堂の建立が規制されていたはずで、どうしてそのようなことが可能になったのか謎である。また事実とすれば、京内仏堂として最も早い。

本書には記載がないが、確実な史料がある京内仏堂として早いのは、「因幡堂」(伝承では長保5年(1003)開基)、「六角堂」(初見は『御堂関白記』長和6年(1017))、「壬生地蔵堂」(伝承では寛弘2年(1005)開基)の3つだが、空也の市堂はこれらに50年ほど先駆ける。なお市堂の初見史料は、今のところ正応5年(1292)の古地図「東市町正応五年前図」(林家辰三郎が『町衆』で紹介)である。

ともかく、この市堂が京における空也の活動拠点であった。そして空也は天慶7年(944)、勧進(寄付集め)を行って、観音三十三身、阿弥陀浄土変一鋪、補陀落山浄土一鋪を描いて供養した。

天暦2年(948)、空也は天台座主の延昌に推されて、比叡山で得度・受戒した。空也46歳である。光勝という名を与えられたものの、彼は空也の名を使い続けている。著者はこの得度・受戒を、「念仏の道場にふさわしい寺院の創立(p.136)」を目指して官僧の立場を求めた結果ではないかとしているが、得度・受戒後も空也は既成の教団に従属した形跡なはい。

ともかく空也は、得度・受戒の後、葬送の地である鳥辺野につながる六原(六波羅)を拠点として、十一面観音像(六波羅蜜寺に現存)・梵王・帝釈天等の仏像の造立と『大般若経』600巻の書写の勧進活動を始め、仏像群は翌年に完成した。これは、天暦元年(947)からの疫病の流行、旱害・鴨川の氾濫などで亡くなった多くの人の霊を弔うためであったと考えられる。

一方、書写事業は13年後の応和3年(963)に完成し、左大臣(藤原実頼)以下が出席して盛大な供養会が催された。ちなみにこの『大般若経』は、紺瑠璃の用紙に金泥の文字、その文字を猪の牙で磨いて光沢を出し、各巻の軸先には水晶をはめ込むという豪華なものであった。その目的について、供養会で読み上げられた『空也上人の為に金字大般若経を供養する願文』(三善道統撰)では、「一切衆生の成仏得果のため」としている(目的が極楽往生ではないのは興味深い)。

また、この『願文』では、空也の勧進活動について「半銭の施すところ、一粒の捨するところ、漸々(ぜんぜん)に力を合わし、微々に功を成せり(p.235)」と語っている。11世紀には「勧進聖」の活動が活発になり、重源が勧進で東大寺の大仏を再建したのは有名な話だが、空也の勧進活動はそれらに先駆けている。

六波羅の拠点は西光寺と後に命名された。ここは空也没後、中信大法師によって六波羅蜜寺と改名され天台宗に属した。六波羅蜜寺の寺域は広大で、東西・南北がそれぞれ327メートルで南東の一部が欠けて2万8800坪もあったというからものすごい。空也存命中はここまで巨大な寺院ではなかったであろうが、その経済基盤はなんだったのだろう。それについて著者は「既成宗派や国家の庇護のもとに建立されたものでなく、空也およびその勧進に結縁する幅広い人々の西方浄土への祈願を積み上げて私的に草創された(p.157)」ものとする。とはいえ経常収入も必要である。まさか勧進で維持されていたわけではないと思うのだが。

空也は、これらの活動の他にも、説話や伝説・伝承にたびたび登場している。それらに共通する要素を一言でいえば、彼は貴賤分け隔てなく慈しんだ「慈悲の人」であったということである。彼は盗賊にも慈悲の心で接した。それらの伝説が事実であったのかどうかわからないが、少なくとも彼は慈悲にあふれた「伝説的人物」であった。それらの伝説では「呪術的性格」はむしろ希薄で、人間的な慈しみの方が強調されているように思われる。

天禄3年(972)、空也は西光寺で没し、入滅の際には楽の音が聞こえるなどし往生したと信じられた。齢70であった。

空也没後50年以上経って、藤原実資(さねすけ)は、『小右記』に「空也の金鼓(こんぐ)と錫杖を手に入れた」と日記に書いている。実資は『大般若経』の供養会に出席した実頼の実の孫で養子でもある。彼は空也の弟子義観阿闍梨からそれらをもらった。この義観は、諸史料との整合性を鑑みると本当に空也の弟子であったようで、園城寺系の寺院にいたと考えられる。そして6年後、実資は「新阿弥陀」という名前の「阿弥陀聖」にそれらを与えている。

つまりこの頃には、空也の衣鉢を継ぐ「阿弥陀聖」という存在がいた。しかもそれは一人二人ではなく、京中には念仏を唱える阿弥陀聖が数多くいたと考えられる。村上天皇の第10皇女選子内親王(964-1035)の歌に「8月ばかり月あかかりける夜、あみだの聖のとおりけるをよびよせさせて、里なる女房にいい遣わしける一首 あみだ仏(ぶ)ととなうる声に夢さめて 西へかたぶく月をこそみれ」とあるからだ。この歌からは、阿弥陀聖が夜でも大声で念仏(=高声念仏)をしており、しかもそれを宮廷の女性が好ましく感じていた様子が窺える。

また賀茂祭(葵祭)では高声念仏を行う行列があり、それは『文永十一年賀茂祭絵詞』(1247)では「空也上人無極(きわみなき)道心を顕わされんとて。わたりそめられたりけるぞ」とされている。葵祭の高声念仏は(法然や親鸞でなく)空也の念仏だというのである。また『梁塵秘抄』には「聖の好むもの。木の節(椀にする)鹿角(杖につける)鹿の皮(衣とする)」とあり、空也の影響が大きい。ただし、しばしば踊念仏のルーツが空也だとされるがこれは史料では裏付けられない俗説だ。

鴨長明の『発心集』では、天台宗三井寺(園城寺)の千観が、法会の帰りに鴨川原で空也に会い、「来世安心のためには、どうしたらよいでしょうか」と質問したのに対し、空也が「どうなりとも、捨ててこそ」と答えたエピソードが記されている。この答えを聞いた千観は華やかな装束を脱ぎ捨てて、山中にこもって後半生を念仏の普及に投じたという。このエピソードを、著者は応和2年(962)に実際にあったことと推測している。千観は西光寺の北にあった愛宕(おたぎ)寺を再興して天台宗の末寺としており、空也と接していたのは確からしい。

千観は日本で最初の和讃といわれる『極楽国弥陀和讃』を作って庶民に念仏を勧めているが、そこでは「極悪最重下の悪人も 一たび南無と唱うれば 引接(いんじょう)さだめて疑わず」としている。一たびの名号念仏で往生が可能であるというのは、空也の「蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」の歌と同じであり、また千観は自分だけでなく全ての人の往生を願っていたということから、空也の思想を受け継いでいるものと考えられる。

最後に、これは本書では簡単にしか書いていないが、空也が「市聖(いちのひじり)」と呼ばれていたことに注目したい。ここでいう「市」とは、都市のことではなく平安京の「市」(西市と東市があった)である。空也は、市で念仏を勧めていた。なぜ空也は市に現れたのか。鎌倉時代初期の慶政が著した『閑居友(かんきょのとも)』では、空也は弟子たちに「市では心が散ることがなくてすばらしい」と述べたというが、『誄』では「市店に乞食し、もし得るところがあれば、みな仏事を作(な)し、復た貧患に与う」とする。

空也が市に現れたのは、第1にそこに多くの人が集まっていたからであろう。第2に、乞食(こつじき)=托鉢がやりやすかったからであろう。そして第3に、当時の市は刑場も兼ねていたから、罪を犯した人々を救いたいという気持ちがあったからではないだろうか。「蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」の石卒塔婆も、『誄』では「囚門」にあったとしている。おそらく、念仏は悪人こそ救うという観念から刑場の前が選ばれたのだろう。

また、空也が設けた「市堂」も、市にあったから「市堂」なのだ。空也が「市聖」と呼ばれたのは、市には他に聖がいなかったということを示唆する。おそらく聖は山中で修業していて、民衆に教えを説くことはしていなかった。民衆の中に積極的に入っていったことに空也の特徴がある。

最後に、空也の特徴的な事績を改めてまとめると、(1)名号念仏を初めて民衆に向けて説いたこと、(2)念仏を1回でも効果があるとし徹底的な易行を勧めたこと(当時は、多念といって数多くの念仏をしなければならないという考えが普通だった)、(3)京内に仏堂を設けたこと、(4)早い時期に勧進を活用したこと、(5)念仏と観音菩薩への信仰が同居していたこと(親鸞に類似)、(6)念仏だけでなく、慈悲の心から行う社会事業(井戸掘りなど)を行ったこと(行基に類似)、の6点が挙げられる。

なお(1)に関して、『今昔物語集』では空也の弟子とされる慶滋保胤(よししげの・やすたね)は、『日本往生極楽記』で空也の伝を書いており、そこでは「庶民に忌み嫌われていた念仏を、空也が現れて以来世を挙げて称えるようになったのは、空也の衆生化度の力であった(p.26)」と述べている。これを鑑みると、空也は念仏を庶民に受け入れられるものにアレンジしていたのかもしれない。

本書は全体として、史料が乏しく断片的にしか語られてこなかった空也を一貫した視点で統一的に記述しており、一般向けの空也の評伝として高い価値がある。本書に描かれる空也は、法然や親鸞の先駆けであり、浄土教形成においてエポックメイキングな存在である。空也の研究は本書以降もあまり盛んではないが、念仏の祖師としてさらに研究が進むことを期待したい。

初めて空也の生涯を実証的に明らかにした労作。

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2025年10月23日木曜日

『鎌倉仏教の中世』平 雅行 著

中世仏教を顕密体制論に基づき再構築して語る本。

「顕密体制論」とは、中世仏教の基軸が顕密仏教(顕教と密教=南都六宗・天台宗・真言宗=旧仏教)であるとするもので、1975年に黒田俊雄によって提唱された学説である。

それまで、中世仏教といえばいわゆる「鎌倉新仏教」、つまり法然、親鸞、日蓮、一遍、道元、栄西らの宗派が中心だと考えられていた。しかし記録を徴してみれば、彼らの宗派が支配的になったのは戦国時代であり、中世を通じて大きな存在感と影響力があったのは顕密仏教だったのである。

この顕密体制論は学界に大きな衝撃を与え、中世仏教の研究を一変させた。ところが一般的にはこの事実はあまり浸透せず、やはり「鎌倉仏教」といえば「鎌倉新仏教」であると認識され続けている。そもそも、黒田俊雄の論文「中世における顕密体制の展開」はなかなか難解なものであり、黒田以降も顕密体制論に関する研究は数多いが、一般向けにわかりやすく解説された本は未だ存在していない。「鎌倉仏教=鎌倉新仏教」なる誤解が改められないのも故なしとしないのである。

そこで登場したのが、中世の宗教のありさまをわかりやすく体系的に述べる本書である。

なお、本書では顕密体制論という用語はあまり登場しない(終章を除く)。それは、顕密体制論はもはや「論」ではなく事実であるということ、そして本書は「顕密体制論に関心がある人」ではなく、「中世仏教に関心がある人」を対象としているということを表しているように思われる。

著者は本書を「顕密仏教がどのようにして鎌倉仏教の中核へと発展していったのか、その歴史的経緯と、顕密仏教の中世的実態をあきらにしようとするもの(p.9)」としている。 

「序章」では、前提知識として中世の顕密仏教が概説される。「関心がなければ読み飛ばしてくださって結構です(p.9)」としているが、ここは大変参考になる。

まず、当時の僧侶とはいかなるものだったか。僧侶には制度的に見ると①顕密僧、②遁世僧・聖、③異端の3種類があり、このうち顕密仏教の正式な僧侶は①顕密僧である。顕密僧は、受戒して国家制度上の僧侶(官僧)となったもので、受戒の他に官位・公請(くじょう)を得るという特徴があった。

官僧は、官位(僧位)[法師→大法師→法橋→法眼→法印]と僧官[律師→僧都→僧正]を持っていたが、この2系統が混淆して[法師→大法師→法橋→律師→法眼→少僧都→大僧都→法印→権僧正→正僧正→大僧正]と昇進するよう落ちついた(面白いことに「権大僧都」がこの昇進ルートにない。いつ現れるのだろうか)。

そして平民は大法師までしか昇進できず(つまり法橋以上は貴族としての扱い)、 法橋・法眼は数十貫文(数百万円)から百貫文で売買されたが、律師・僧都・僧正は学僧だけが補任された。顕密僧の昇進は実家の家格にほぼ対応していた。

公請は、朝廷が主催する仏事に招待されることで、この仕事を務めることが顕密僧の特権であった。なお鎌倉幕府の祈祷は最初は公請と認められなかったが、宗尊親王が将軍となった建長4年(1252)以降は将軍祈祷も公請と認められた。

また、上述の制度的僧位とは別に、顕教の場合は竪義(りゅうぎ)という口頭試問に合格すると「竪者(りっしゃ)・得業(とくごう)」という称号を手に入れ、また密教の場合は伝法灌頂を受けて正式の密教僧となると「阿闍梨(あじゃり)」となった。これらが今でいう大学院修士課程修了にあたるという。なお、阿闍梨になるには総額五百貫文(約5千万円)もの費用がかかったといい、「密教修法は全般的に非常にお金がかかります(p.17)」とのことである。 

なお、この伝法灌頂もお金があればできるというものではなく、先述の通り僧位は実家の家格(=官位)に連動しているので、実力はあっても官位が低いものが多い御家人の場合は顕密仏教界での立身出世や伝法灌頂が容易ではなかった。そのため、御家人子弟は家格にうるさくない禅宗に流れたのである。「武士の気風にあったので、禅が武士に広まったと言われたりしますが、何の根拠もない俗説です(p.18)」。

次の②遁世僧・聖は、上述の朝廷の官位体系からはずれた僧侶のことである。法然・親鸞・日蓮・貞慶・明恵など、鎌倉時代に仏教革新運動を担った者はいずれも遁世僧である(栄西を除く)。また禅律僧も遁世僧と見なされた。禅律僧とは、臨済系の禅僧と、俊芿や叡尊の門下である律僧をいう。遁世僧といっても、彼らは隠棲していたのではなく社会的に活動していた。それどころか臨済系の禅僧は、国家から認められていたにもかかわらず、朝廷の官位体系に組み込まれていなかったので遁世僧とされたのである。「そのため国師号・禅師号・菩薩号・上人号を付与して、顕密僧と異なる形で遁世僧に国制的な位置づけ(p.20)」が与えられた。

③異端は、国家によって弾圧された僧侶で、概念的には②に含めることができる。 

なお、①顕密僧と②遁世僧・聖では、僧服が異なっているため一目で違いが分かった(顕密僧=顕密装束/遁世僧・聖=黒衣)。しかし、一つ注意が必要なのは、在俗出家の人たち(つまりノンプロ僧侶)の服装である。彼らは、顕密僧を戒師として出家すれば顕密装束、聖を戒師として出家すれば黒衣を着た。在俗出家は見た目として①でも②でもありうるようなマージナルな存在だったのである。

「第1章 鎌倉仏教史観はなぜ破綻したか」では、中世仏教の研究史を振り返り、冒頭で述べたようなパラダイム変換について概説している。

鎌倉仏教史観は、そもそも中世をどのような時代と捉えるかという中世史観とも関連する。かつての中世史は、石母田正『中世的世界の形成』に代表される武士中心史観によって構成されていた。 これは領主制論を中心として、「武士中心史観を精緻なまでに論理化し、体系化し(p.34)」たものである。

これに対し、石井進の論文「院政時代」では、院政時代を中世社会の成立期と結論し、中世=武士ではない、ということが学界に大きな衝撃を与えた。そして「古代的」とされる「荘園領主」であった寺社や貴族が、中世を通じて何百年も命脈を保っていることが改めて認識され、古代勢力(寺社・貴族・朝廷)が10〜12世紀に「中世的な存在」として生まれ変わったのだという考えで「研究の潮流は一変(p.37)」した。

つまり、中世を理解するためには武士の研究だけでは十分でなく、寺院や朝廷のことをも理解しなければならない。そして武士と朝廷・寺社は対立していたのではなく、協調していた。こうして旧仏教の見直しが必要になり、その仕事をしたのが黒田俊雄だった。鎌倉新仏教といえば念仏・法華信仰・民衆仏教と思われているが、旧仏教にはすでに念仏信仰・阿弥陀信仰・法華信仰があり、また延暦寺や興福寺は貴族仏教だったのではなく民衆の世界と深く結びついていた。こうして「中世社会を貫く文化体系が旧仏教(p.42)」であることが徐々に明らかになった。

では、鎌倉新仏教とは一体何だったのか改めて問わなくてはならない。どうして貞慶や明恵など旧仏教を改革しようとした人や、法然や親鸞などの鎌倉新仏教の祖師が登場することになったのか。

これに対し、従来「貴族仏教である旧仏教が堕落・腐敗していたため、それを改革・復興しようとした人が現れた」と言われてきた。

しかし、旧仏教が堕落・腐敗していた証拠はない。平安時代初期には律令体制の崩壊があり、仏教への国家的保護がなくなり質的転換を余儀なくされた。堕落・腐敗よりもこの質的転換の方がずっと大きな変化の要因である。 

また貞慶・明恵・俊芿・叡尊・忍性らは聖(つまり顕密僧ではない)であり、朝廷の保護を受けるようになってからも公請を受けていない。だからそれは「旧仏教の復興」とは言えない。叡尊らの律宗(西大寺流)も、従来の律宗とは全く別物になっている。彼らは旧仏教の内側から改革しようとしたのではなかったことは明らかだ。では貞慶らと法然らの違いは何か。著者は「鎌倉新仏教か、旧仏教の復興かの分類基準は、戦国・江戸時代の処遇のされ方(p.49)」にすぎないという。

そして著者は、この時代の仏教に改革派が次々と登場した要因を戦争だと考える。治承・寿永の内乱(1180〜85)と承久の乱(1221)である。

当時の仏教の最も重要な機能は「鎮護国家」である。だが国家を守護するはずの東大寺の大仏が焼け落ちてしまった。なぜ仏法が敗北したのか、そこに当時の人々の深刻な反省があった。 

穏健改革派(貞慶・明恵・栄西・叡尊・俊芿)は、戒律を守ることによって仏法の力を取り戻そうと考えた。 これが鎌倉時代の革新運動の主流である。

急進改革派(法然・親鸞・道元・日蓮)はこれまでの仏法そのものに問題があり、新しい仏法を根本から考えようとした。彼らはこうして「仏法を純粋化し絶対化してゆくことによって、社会に鋭い批判の目を向け(p.57)」た。そのため弾圧されることにもなったのである。

なお、鎌倉・室町といえば禅宗の興隆が強調される。これは北条時頼が得宗権力を象徴するものとして禅を選んだことによる。しかし旧仏教も盛んであり、鎌倉・室町幕府は禅と旧仏教の併置政策をとっている。「鎌倉幕府に仕えた旧仏教の僧侶は、主要な人物だけでも400名にのぼり、その総数は数千名(p.61)」もいる。しかも「禅僧になった北条氏は5名ですが、北条出身で旧仏教の僧侶になった者は52名にのぼ(同)」る。このように、武士・幕府=禅という図式は事実に基づいておらず、この見解を打破する必要があるとのことである。

「第2章 中世人は神仏をどの程度信じていたのか」では、中世仏教と科学や技術との関係を述べている。 

従来「日本中世を呪術からの解放の時代と捉える見方と、それを否定する見解が真っ向から対立(p.63)」してきた。中世人はそう簡単に神仏を信じていたわけではないと考えられる事実がありながら、呪術が盛んに行われていたことも事実である。実態はどうであったか。著者は4つの側面からこれについて考えている。

第1に、中世では密教修法が盛んに行われた。太元帥法(たいげんのほう)という天皇を護持する修法は、仁寿元年(851)から明治維新まで行われ続けた。しかもこれは効き目が大きいということで天皇家が独占した。

中世では呪詛を行う密教修法が異常な発達を遂げ、「仏教による呪詛が宗教的暴力の頂点に立った(p.67)」。呪詛は実際に効力があると信じられており、呪詛から身を守るために「護持僧」が必要だった。天皇の護持僧は、3名が別々に一日3回祈祷を行っており、天皇の体調に何の問題がなくても年3000回以上の祈りが行われた。平清盛や源義朝にも護持僧が確認できる。日本中世では、宗教の暴力も武士の暴力と同様に重要であり、「それゆえに中世の宗教勢力は大きな力を持つことができた(p.71)」。なお江戸時代の将軍に護持僧はいない。

第2に、中世では合理的思考が発達した。『東山往来』では、いろいろな俗習に対して文献を調べて「何の根拠もない」などと指摘しており「迷信や俗説に囚われない合理性が顕著(p.73)」である。また、中世の仏教は非常に高いレベルで経典が研究された。例えば、法華八講では、経典の意義について問答が行われたが、そのためには経典の内容が頭に入っていなければならないだけでなく、その研究史まで頭に入っていなくてはならない。

院政時代には論議が興隆して仏教文献学を大いに発展させた。これが「論拠を示したうえで自分の考えを述べるという、挙証主義の精神を広くゆき渡らせ(p.77)」た。

これは、一見呪術の発達と矛盾するように見える。仏教の言説には呪術性があったが、同時にそれは高度な合理性をも持っていたということだ。中世の顕密仏教は「高い合理性を保持した呪術」であると規定できる。

第3に、中世は「仏教医学の時代」でもあった。中世の仏教的医学書として『頓医抄』や『喫茶養生記』が挙げられる。それらには迷信ばかりでなく、人体解剖の結果を踏まえるなど実証的な考えも見られる。僧侶たちは医学的知識を持っていた。中世仏教の強さの根本は「文化的パワー(p.80)」にある。

第4に、中世では「神仏が万能でないことを説く文献が非常に多い(p.80)」。前世からの宿業が規定するとか、神仏に祈るだけでなく努力も大事だとか。鎌倉幕府の裁判では、証言が食い違う場合など神社に参籠して神判を受けるといった手続きがあったが、それにしても恣意的な運用ができないよう工夫されていた。神仏万能の時代ではないのである。

これら4点をまとめて、「中世仏教は、呪術からの解放と、呪術性の深化・拡充という二つの側面を併せもつ(p.85)」ものであったとし、「高度な合理性をもった呪術であったがゆえに、顕密仏教は中世社会に広く深く浸透することができた(同)」としている。

なお、本章を読みながら、私自身は「中世の人は宗教と技術の境目を意識していたのだろうか?」と疑問を持った。例えば著者は「人間の力でできることは人がやる。やれないところは神仏に頼る、これが中世という時代(p.84)」とか、「病の原因を、人間の身体や生活様式に直接原因があるものと、宗教的要因との二つに分けて…(p.79)」など、非宗教と宗教という二元的な記述しているが、当時の人の意識がどのあたりに境目を感じていたかはまた別に考えなくてはならない問題である。

栄西の『喫茶養生記』で「五臓の不調による病と、鬼魅(きみ)による病という二元的病因論をとってい(p.79)」ることを考えると、当時も境目を意識する人はいた。しかし一般にはどうだっただろう。栄西が境目を考えていたとしても、一般人は境目を感じていなかった可能性が大きいような気がする。そもそも「宗教」という意識はなかったことは確実で、ではどのような意識でいわゆる「宗教の領域」を捉えていたのか(「神仏」なのか「鬼魅」なのか)。これについては改めて考えてみたい。

「第3章 中世延暦寺をどのように捉えるか」では、中世延暦寺を多様な側面から検討している。

私自身、中世仏教を理解するには延暦寺の理解が必須だと痛切に感じていたので、本章は大変参考になった。本章ではまず(1)延暦寺の中世的転生、(2)治承・寿永の内乱における危機克服、(3)顕密系浄土教の社会的広がり、の3つが述べられる。

(1)延暦寺の中世的転生:10世紀には律令国家体制が限界を迎え、租税制度が人頭税中心から土地中心に変化した。それにより僧侶の免税特権が失われて得度を制限する意味もなくなった。その他の面でも「規制緩和・民営化・地方分権、そして大きな政府から小さな政府への転換(p.92)」が起こった。寺院は、もはや国家を頼りにできず、民衆の世界に積極的に進出することが必要となったのである。

一方、地方には武士が進出して国衙を私物化した。「暴力団が県庁を乗っ取って、行政権・警察権・裁判権を握ったようなもの(p.93)」と著者は言う。規制緩和・地方分権なので、弱肉強食の世界になった。そこで民衆は我が身を守るために「悪僧と提携した(p.94)」のである。

延暦寺や興福寺の悪僧たちは、「国司や武士に不満をもつ地域民衆を神人や講衆に編成(同)」した。そういう身分を持っている人を武士が殺害すれば大問題になるのである。寺院も抗議するし、神人は神仏に加護されていると信じられてもいた。

地域住民はそれまでも国司の苛政を訴えてきたが、11世紀には百姓らの「訴えが消滅し、代わって強訴が登場(p.95)」することは、寺院が民衆の後ろ盾になっていったことの傍証である。「地域を食い物にしている国司や武士に対する地域民衆の怒りを、中央政府に反映させる手段が強訴(p.96)」であり、それは民衆運動の側面を持っていた。そして興福寺や延暦寺の保護を受けるため、各地の寺社が末寺末社へとなっていった。

こうした背景で、すでに院政期には仏教の教えは民衆的世界へ広がっていた。禅瑜『阿弥陀新十疑』、良源『極楽浄土九品往生義』などでも「悪人往生や悪人成仏は常識(p.97)」となっている。『中右記』元永3年(1120)2月12日条で「極楽往生したければ念仏だけ称えればよい」と書いてあり、また大治2年(1127)5月4日条では、河内国の平凡な人妻が念仏を専修している様子が書いてある。法然が民衆に対して念仏信仰を説く半世紀以上前のことである。

また寺社領荘園の成立が在俗出家の盛行を生みだした一因ではないかという。

民衆世界への進出の一方、学問的にも仏教は興隆した。院政期には、二会・四灌頂・三講という法会体系が整備され、鎌倉時代に基幹的制度となった。 [二会=南京三会・北京三会]、[四灌頂=尊勝寺・最勝寺・東寺・仁和寺の結縁灌頂]、[三講=宮中最勝講・法勝寺八講など]であるが、要するに僧侶として出世するためには口頭試問や議論に強くなければならず、学問を研鑽する必要があったのである。さらに、僧侶として期待される学問は幅広く、医学・天文・兵法・農業技術・算術・卜筮・管弦などまで含み、「顕密寺院は一種の総合大学のような存在(p.107)」であった。

こうしたソフトパワーが延暦寺の強靱さの根源にあった。 

(2)治承・寿永の内乱における危機克服:第1章のメモで、治承・寿永の内乱で大仏が焼け落ち、仏法が敗北したと述べたが、そういう反省は仏教内部で起こったもので、権力者は仏法が無力だとは考えなかった。後白河は寿永2年(1183)に顕密の高僧を動員して百壇大威徳供という非常に大規模な修法を実施している(木曽義仲の滅亡や平家の敗北はこのおかげだと当時の人は受け取った)。また東大寺を焼いた平家が滅亡したことは仏罰の明証と考えられた。

そのため、後白河は復権するといち早く仏教の再建事業に取り組んでいる。「堂塔の再建、仏神事興行、そして所領回復・新寄進が執り行われ、顕密仏教は復興ブームに沸く(p.114)」こととなった。なお禅宗と念仏宗の禁止は、復興ブームの余勢によって行われたものだという。

また、承久の乱の場合はそれが後鳥羽の「積悪」「逆徳」に帰せられ、顕密仏教にはほとんど影響を与えていない。

(3)顕密系浄土教の社会的広がり:従前の浄土教の発達史は法然・親鸞を終点にしていたが、むしろ法然・親鸞とは異質な「顕密系浄土教」こそが中世浄土教の本流であった(はっきり書いていないがこの用語は著者によるものと思われる)。

当時は非常に多くの人が在俗出家を行った。鎌倉時代の評定衆は半数以上が在俗出家だったし、百姓の世界でも村の指導者層のかなり多く(鎌倉末・南北朝期には3割)が在俗出家であった。 それらの出家は専修念仏とは関係なく、顕密系浄土教に基づいていた。 

これまで閑却されてきた顕密系浄土教の実態解明は今後の課題である。

これら3つの点を踏まえ、本章の最後に「延暦寺と中世社会」として延暦寺の権力構造と延暦寺の武力、僧侶の妻帯について簡潔に語っている。

延暦寺の権力構造:延暦寺といえば「天台座主」だが、延暦寺はトップダウンの組織ではなかった。天台座主が大衆によって放逐された事例まであり、座主は下部組織に手を焼いていた。鎌倉時代には門跡へ権力が移って天台座主には政治的実権が失われる。門跡はいくつもあったので、さらに権力構造が複雑化することとなった。

延暦寺の武力:朝廷は寺院境内の検断権を認めていたが、過剰な軍事力を持つことは禁止した(兵仗禁止令)。しかしながら、民衆の動員ということを考えると、重要なのは制度的軍事力よりも多数を動かすことばの力である。平安・鎌倉の悪僧には学僧が多いことはそれを示している。 「教理に卓越した学僧が悪僧の中心(p.128)」となったのは、延暦寺の武力の実態を示唆するものである。

僧侶の妻帯:中世になると僧侶の妻帯が国家によって処罰されなくなり、妻帯は普通のこととなった。これは法皇に原因があるのではと著者はいう。法皇は出家後も子をもうけていたからだ。また、戒律も守ればいいというものではないというような意識があったらしい。それが仏教の本質ではないと考える僧侶もいた(栄西など)。

中世延暦寺を考える上では、こうした多様な側面を考慮に入れる必要がある。

「第4章 道元禅は輸入仏教なのか」では、 道元の思想がオリジナルなものであることが論証される。

かつて家永三郎は道元について、「大陸仏教を機械的に移植したものにすぎない」と評した。 しかし「宋朝禅の展開から道元思想は説明できない(p.134)」。

まず、道元は日本の顕密仏教(と当時の禅宗)を全否定していた。日本には「正師」がおらず「仏法」も広まっていないと彼は断じる。なぜ道元は自ら(のみ)が仏祖相伝の仏教を知っていると思っていたのだろうか。いろいろな宗派があって「どれが真実の仏法なのかわからない」というならわかるが(実際、道元は「曹洞宗」といった宗称を拒否した。真実の仏法はただ一つのはずで宗派があるのはおかしいと考えたのだ)、真実の仏法はどこにもないと断じたのはなぜか。ともかく、彼の目から見て、顕密仏教も禅宗も本来の仏教の在り方から逸脱しているように見えたのは間違いない。

それは、それらが権力者のためのものになっていたからで、これは法然・親鸞・日蓮らが仏法至上主義的に権力と対峙したのと一脈通じるものがある。法然と日蓮は治承・寿永の内乱や承久の乱を目の当たりにしてその思想を形成したのだが、道元の場合はどうか。

道元は入宋して天童如浄に師事しその印可を受けている。道元は如浄を反権力の人物として記録しているが、実際の如浄は反権力でもなければ脱俗的でもない人物だったようだ。にもかかわらず道元は帰国後、「顕密仏教による鎮護国家を否定し、天下太平を実現するには「真実の仏法」の新たな導入が必要だと主張(p.145)」し、また仏法(仏勅)を王法(王勅)より優越するものだとした。道元の仏勅優位論は宋朝禅から受け継いだものでないことは明らかだ。

著者は、道元の場合も承久の乱を契機としてこうした考えに傾いたと考える。俗権に迎合する仏法だからこそ承久の乱での敗北に帰結したというのだ。つまり道元の思想形成においても、法然や日蓮と共通して戦争の影響が色濃かったとしている。

なお、朝廷はあらたな宗派の設立には勅許が必要としており、達磨宗と念仏宗を勅許なき立宗として弾圧した。道元はこれに反対し、また興聖寺を「一向禅院(禅だけの寺院)」として創建した。達磨宗が禁じられていることでも分かる通り、顕密仏教は禅を快く思っておらず、栄西の建仁寺も禅と天台・真言との併置によって開創が認められていた。しかし道元はこうした政策と手続きを無視し、勝手に「一向禅院」を設立したのである。

朝廷はこれを当然に問題視し、興聖寺を破却し道元を京都から追却した。面白いのは、この弾圧にかかわった俊範という延暦寺の僧侶(なんと日蓮の延暦寺時代の師匠!)が、専修念仏の弾圧にも関わっていたことだ。ともかく、この弾圧によって道元は権力への反感を強めたことは間違いない。

この後、道元は北条時頼に招聘された。将軍と得宗の権力闘争において顕密僧の多くが将軍方についたことで、時頼は「幕府の宗教政策を劇的に改め(p.156)」、将軍方の顕密僧を追放して北条家が顕密仏教界を掌握し、さらに得宗権力に相応しい新たな仏教を求めて禅宗の保護を考えたのである。ところが、仏法至上主義を掲げる道元は時頼の肌に合わず、道元に代わって蘭渓道隆が登用されることになった。

こうして道元は権力に背を向けるようになり、俗権が優越する社会への失望と諦念が「最終的に道元を道元たらしめることになった(p.159)」。

なお、蘭渓道隆の建長寺は「一向禅院」で、これは時頼が朝廷の政策を無視して創建したものである。得宗権力の確立の中で、興福寺や延暦寺はこの措置に反対できなかったようだ。建長寺は「一向禅院」であることによって顕密仏教に風穴を開けたという重要な歴史的意味がある。

「第5章 歴史にみる差別と仏教」では、仏教が差別とどう関わっていたかが述べられる。

本章では、まず奴隷と非人身分について整理している。奴隷は売買や相続の対象となった人、つまりモノとして扱われた人で、中世ではその存在が認められていた。それどころか奴隷を獲得するための戦争が行われ、奴隷は南蛮貿易では日本からの主要な「輸出品」であった。

この奴隷が非人=中世被差別民となっていったのではない。当時は貧民や病人も多かったが、それがただちに非人となっていったのでもない。詳しい話は割愛するが、物乞いが活発化する中で、物乞いの場所(乞場)を巡っての抗争が行われ、これに勝利して京都の乞場を独占した清水坂の人々が非人身分となっていった。これに仏教がどう関わったかであるが、人々が物乞いに応じたことの背景に浄土教があったのである。

また叡尊は非人救済の社会活動をしたことで有名であるが、一方彼は非人を悪業の結果とする因果応報思想を持っていた。癩者や身障者は罪深いからそうなったというのである。癩者は悲惨であれば悲惨であるほど仏教に都合がよかった。そしてそういう罪深い存在を救済することが善行であると位置づけられた。非人たちも「せめて来世では救われたい(p.191)」と考え、神仏への奉仕に励んだ。こうして「彼らは領主権力の最末端の暴力装置に編成されて(同)」いき、「京都の非人は延暦寺に組織され、奈良の非人は興福寺の配下(同)」となった。非人は寺院が統括したのである。

一方、法然や親鸞は少し違った人間観を持っていた。彼らは「すべての人間は等しく凡夫であり悪人である」と考えた。彼らは人間の能力の平等を説き、「格差の自己責任論から仏教を解き放った(p.195)」。

なお本章の最後には仏教の女性差別の問題についても簡単に触れている。仏教には女性差別的言説が多かったが、道元はそれを真正面から批判している。

「第6章 神々の中世」では、(1)中世社会と宗教との密接な関係、(2)神社制度の中世的展開、(3)神国思想、について述べている。 

(1)中世社会と宗教との密接な関係:中世では宗教の力が実体的なものとして捉えられていた。モンゴル襲来の後、従軍した御家人にはほとんど恩賞が与えられていないのに、寺社には莫大な恩賞が与えられた。

(2)神社制度の中世的展開:10世紀における律令体制の崩壊によって古代的神社制度(神祇官、幣帛班給)は衰退し、院政期には[宗廟−二十二社−諸国一宮]という中世的な神社制度へと転換した。諸国一宮は国家によって定められたものではなく地方で成立したが、国家は一宮を税制優遇した。

また院政時代には、国衙祈祷体制と本末関係という二つの秩序が登場した。国衙すなわち地方の官庁が有力寺社を編成して国内(地域内)の五穀豊穣・鎮護国家を祈らせたもので、その見返りに公領の一部を免田として与えた。また国衙直属の顕密僧を置いた。これが国衙祈祷体制の中核となった。

さらに院政時代には、神仏習合が劇的に進んだ。神仏習合を主導したのが院権力である。大江正房は神仏習合を推し進めるブレーンだった。こうした政策が行われたのは、律令国家の崩壊による神祇政策の動揺を神仏習合によって沈静化させる目的があったと見られる。神の本体が仏とされたことには、原始的な動物神などが仏法によって合理化され、人々の知的な発展に適合していたという側面もあった。 

(3)神国思想:ここが本章の中心である。これまで神国思想は様々に議論されてきたが、それが「仏国思想」と一体であったことも留意すべきだと著者はいう。神=仏であるならば、神国は仏国でもあるからだ。そもそも、仏教的な世界観、すなわち日本の外にも広大な世界が広がっており、日本は辺境に過ぎないという世界観がなくては、神国思想が成り立たない。

「日本は辺境に過ぎない」という世界観を裏返して「日本は大乗仏教の中心地だ(『扶桑略記』『転法輪抄』)」とか「仏教が繁栄しているのは日本だけだ(『興禅護国論』)」といった「自尊的仏国観」が現れてくるのである。そして日本が仏法を担う特別な使命を持った国だという主張が起こり、日本は独鈷の形をしているという日本独鈷論も現れた(坊津の輝津館所蔵「独鈷型日本図」)。

さらにモンゴル襲来後には、伊勢神宮の心御柱が南閻浮提の中央にある須弥山にあたるという言説が現れ「日本は三千大千世界の中心だ」とされた(『渓嵐拾葉集』)。南北朝時代の歴史書『帝王編年記』では、世界史の根源が日本だとまで言われている。このように日本を特別な仏国と見なす観念が神国思想の母体となった。

モンゴル襲来後に神本仏迹説が登場する。これは、仏の本体が神であるという説である。西田直二郎はこれを「反本地垂迹説」と呼んだがこれは不適切で、本地垂迹説を否定したのではなく本地垂迹説をさらに進めた考えである(吉田兼倶『唯一神道明法要集』)。そもそも神本仏迹説を創唱したのは東密の智円『鼻帰書(びきしょ)』で、その次が延暦寺の慈遍の『旧事本紀玄義』である。仏教界で言われていた日本優越論から、仏教の始原がインドではなく日本であるという主張がなされるようになったのである。このように神国思想は国粋主義的であったが、中国の文化を相対化し、日本文化の自立を促したという意味もあった。

従来、神仏隔離が徹底されていた伊勢神宮でもモンゴル襲来後には伊勢神宮に隣接して巨大寺院(法楽堂)が建立され、伊勢の神々を活性化させる祈りを捧げた。院も伝法灌頂を受けるようになり、異例なことに後醍醐天皇は在位中に伝法灌頂を受けている。モンゴル襲来後の寺社への保護と仏教の保護は綯い交ぜになり、顕密仏教は最盛期を迎えることになるのである。

最後に、著者は神国思想を打ち砕いたのはヨーロッパ人がもたらした世界地図だったとしている。仏教的世界観がフィクションであったことが明らかになったからである。

「終章 顕密体制論と私」は、著者の大阪大学での最終講義を再構成したものである。

著者が大学生の時、歴史学から足を洗おうとしながらも仕上げた卒業論文が親鸞に関するもので、著者は「ダメになっていく親鸞を共感をこめて描(p.246)」いた。これが独特な視点で、後に『歴史のなかに見る親鸞』の最終章に使われている。

学問的に先が見通せない中で、著者は修士1年の冬に『昭和新修法然上人全集』と古本屋で運命的な出会いをする。そしてそれまでの法然研究を根本的に見直して「法然の思想構造とその歴史的位置」という修士論文を書いた。これが著者のデビュー論文である。著者は、法然は「行の仏教」「知の仏教」から「信の仏教」へ転換させたとし、「「信の仏教」を初めて提起した点で、法然は仏教の歴史のなかで画期的な人物(p.251)」と評価する。

この論文は学会・宗門からあまり取り上げられなかったが、黒田俊雄の顕密体制論に支持を表明した学界初の論文でもあった。そして、この法然論によって著者の中で確乎として存在していた井上光貞の浄土教発達史が瓦解し、中世史を再構築する必要に迫られた。そして博士課程で荘園文書に取り組んだ時、そこには教理史には現れなかった顕密仏教の姿があった。

そして、思想・教理ではなく宗教政策を基軸として中世仏教を理解し、結果的に思想に肉薄するという「歴史学的思想史」に取り組んで行くのである。そして著者が精力を傾けたのは鎌倉幕府の宗教政策研究である。「鎌倉幕府も王朝国家に包摂されていたことを改めて論証しない限り、顕密体制論に未来はない(p.264)」と考えたためだ。著者の緻密な研究の結果、鎌倉幕府の宗教政策は時頼の時代とモンゴル襲来の2度転換したこと、顕密僧が幕府に大量に重用され、顕密仏教は依然として国家的仏教として君臨していたことが明らかになった。

また著者が黒田俊雄から受け継いだ仕事として黒田俊雄編『訳注日本史料 寺院法』がある。これには28年かかったという。 

最後に顕密体制論の課題として「総合的把握の模索」と「宗派史の新たな探求」が挙げられている。本書はこの「総合的把握」の試みであり、現段階での顕密体制論の「教科書的な本」といって差し支えないと思う。 

***

本書は全体として、まず非常に読みやすい。講演調の文体が理解しやすいし、読者が段階的に理解を深められるように配慮されている。本書は高校の歴史の先生を読者に想定して書かれたもののようだが、この分野に関心のある人ならば通読は難しくない。

次に、タイトル『鎌倉仏教の中世』が非常によい。このタイトルにしたことで、「鎌倉仏教」つまり一般的には「鎌倉新仏教」に関心がある人が本書を手に取ると思われる。しかし本書の中心は、法然や親鸞ではなく、中世を通じて顕密仏教がいかに重要であったかという主張なのだ。つまりこの書名には、「鎌倉仏教」を「顕密仏教」に上書きするという意図があるのだろう。顕密仏教は未だ必ずしも一般的な用語ではないが、今後この用語は広く通用するものになるはずだ。

また、本書は仏教を語るものでありながら、思想について深入りしない。というより、思想だけを見ていては見えないものを積極的に語ろうとしている。例えば「序章」の「阿闍梨になるには総額五百貫文(約5千万円)もの費用がかかった」というようなことは、思想よりもずっと強く人間の行動を規定する事実を示している。本書では宗教政策を最も枢要なものとして語っているが、それだけでなく、その制度がどう運用されたのかというところまで目配りして語られているのが大変わかりやすく啓発的である。

そして、黒田俊雄の顕密体制論からより進んだ主張がなされていると思われる部分を私が分かる範囲で述べておきたい。

第1に、本書では顕密仏教が中世仏教の中心であったことが国家制度から論証される。黒田の場合は、国家を超越したものとして仏教が捉えられ、顕密仏教が「全思想を包摂するものであった」というような思想的な面が重視された。そして黒田は、権門体制論の論述の中で、権門を超える権威として天皇と仏法が重要となったと考えた。しかし本書では権門体制論にはほぼ触れられていない。権門体制論を前提にせず、国家制度を中心として顕密仏教を位置づけ直しているのである。

第2に、本書では悪僧の活動が民衆運動の側面があったと評価される。黒田の場合は、悪僧の活動は仏教の腐敗・堕落であるという意識があったように思う。寺院領荘園が拡大していく中で、実務を担当する悪僧たちが力をつけ、天台座主のいうことを聞かなくなり、上層部を振り回す形で強訴が行われたという見方である(黒田俊雄「延暦寺衆徒と佐々木氏—鎌倉時代政治史の断章」)。ところが本書では、延暦寺にとっては民衆を取り込むことが必要だったため、民衆上層部に神人などの社会的立場を与えることで民衆と提携したと考える。悪僧は民衆の要求を代弁する立場へと評価が180度変わったのである。

第3に、 本書では禅宗の鎌倉幕府における国家的位置づけを一変させた。黒田は、顕密体制を「日本中世の国家と宗教との関係の基本構造」と述べ、それが中世を通じて存在したと考えたが、禅宗がそこでどう位置づけられるのかという検討は甚だ不完全だった。著者はこれを遺憾とし、鎌倉幕府の宗教政策を詳細に分析して、武士=禅という図式が思い込みにすぎないこと、むしろ顕密仏教は鎌倉時代にも禅よりもずっと大きな力があり基軸であったことを示した。これは黒田の論を大きく補強・発展させるものである。

第4に、本書では顕密仏教が非常に高い学問的水準にあったことを示した。黒田の場合は、顕密仏教の呪術性が強調されるきらいがあった。ところが著者は、顕密仏教の僧侶たちが高い学問的水準にあったことを、個別的な僧侶の学識ではなく、二会・四灌頂・三講という法会体系から明解に示した。そして呪術と合理的思惟との共存を「高い合理性をもった呪術」という概念で捉えている。 また、僧侶の学識を「文化的パワー」と捉え、顕密仏教の力の根源をそうした点においている。顕密仏教は国家的に承認されてはいたが、そのために存立したのではなく、文化的パワーによって盤石だったのである(ただし、これは黒田も似たようなことを述べている)。

第5に、本書では鎌倉時代に仏教の改革派が次々と登場したことを戦争の影響とみなしている。 黒田の場合は、仏教革新運動の登場の理由を思想的なものとみなし、社会的な要因はあまり語っていない。一方、著者は有り難いはずの仏法が有効に働かなかったという戦争の経験が改革運動の引き金になったと考える。これは現段階では一つの仮説であり、今後検証がなされるであろう。

以上、大変長いメモになってしまったが、本書は顕密体制論の現段階の到達点に位置づけられるものである。今後、顕密体制論の歴史的展開を明解にする編年的に書かれた本が登場することを願ってやまない。

顕密体制論の現段階での教科書。

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。

『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。顕密体制論をさらに精緻化している。

 『神国日本』佐藤 弘夫 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/08/blog-post.html
中世の神国思想を考究する本。神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。 

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2025年10月20日月曜日

『日本造形史—用と美の意匠』水尾 比呂志 著

日本美術の歴史を、生活・宗教・作家の三側面から述べる本。

本書は、武蔵野美術大学での講義に基づいて著述した『日本美術史』を元に、武蔵野美術大学造形学部通信教育課程のテキストとして、タイトルを改めて補訂出版されたものである。

では「美術」から「造形」へのタイトル変更はどういった思想に基づくかというと、著者の美術への根本的な認識が「用」にあることにあるらしい。 著者は、「用」に即する「生活のための造形」があり、また精神的生活のための「用」として「宗教の造形」があり、またこれらの「用」から発展して「作家の造形」という「美術」が生まれたと考える。そのため、本書は「生活の造形」「宗教の造形」「作家の造形」という3部構成となっている。

「第1部 生活の造形」では、狩猟民、農耕民、王族、公家、武家、町衆、民衆の造形を語っている。生活の場面というよりは、生活スタイル・階級に即して関連の造形を語るという方法である。

「第2部 宗教の造形」は原始信仰、神道、顕教、密教、浄土教、禅という章立てである。ここで民間信仰がないのは少し気になる。

「第3部 作家の造形」では、画家、書家、彫刻家と工藝家、茶匠と花匠について語っている。第3部は、名の残っている人について語る部分である。

本書を網羅的にメモすることは骨が折れるので、以下気になったところや感じたことだけメモする。

先述のとおり、著者は「用」を最も重要に考え、民芸運動などを高く評価している。逆に言えば、「用」のない、純粋な美術品についてはやや辛口である(形式化しているなどと批判する)。しかし「用」のみで事足れるならばそもそも「美」など必要がない。これに対し著者は、「用」は重要であるが、「実用性は、ただに実用の機能の充足のみによって満たされるものではなく、心理的充足も大きな比重を占める(p.28)」という。つまり、心理的に充足させることも「用」の一つだとみている。よって「物心両面よりする実用性への志向(同)」が大事だという。

例えば縄文土器には様々な紋様が施されているが、実用性だけ考えれば紋様は不要だ。しかし紋様によって心理的にも充足する、と著者は捉える。一方、弥生土器では装飾が控えめになるが、これを著者は「(装飾が)器の機能に従属して、心理的快感を控え目に充たす、という工藝品の装飾の基本を守ったもの(p.46)」と捉える。これでは、結局は「どうやったら心は充たされるのか」という答えのない領域に造形の解明が押しやられるような気もする。

そもそも、著者がいうように心理的に充足させることも「用」の一つだとするなら、鑑賞のみを目的とした純粋な美術品だって十分に「用」を目的とすると言える。 このように「用」に「心理的充足」を含める著者の立場は論理的に堅牢でない。少し注意が必要だと思った。

それはともかく、面白い指摘が、屏風が大量に制作されたことがやまと絵の成立を促したということだ。日本では絵画も中国の影響が大きかったが、屏風が大画面であることが唐絵とは違うデザイン感覚をもたらしたという。また、巻物も横長の画面である上、時間的な遷移も表すため、「世界に稀な絵画形式と価値(p.85)」を生んだという。こうした、形態から内容の発展を跡づける考察は面白い。

茶の湯(本書では「茶道」の用語を使う)が日本人の美意識に与えた影響は大きい。それは批評や評価を伴い、造形の美を享受し論ずる美学が発達したためである。足利将軍の同朋衆能阿弥や相阿弥は唐物奉行として「君台観左右張記(くんだいかんそうちょうき)」を表したが、これの「中国の画家を上中下に分類した部分は日本最初の美術批評といえよう(p.105)」。

この「同朋衆」は、もともとは将軍の戦陣に従った僧や医者や伎藝者であったが、やがて「各種の能力に秀でた賤民が、世俗の身分を脱し、時宗に出家して将軍の側近に侍して造形や藝能の相談に参加(p.106)」したもので、能阿弥・藝阿弥・相阿弥の三阿弥、作庭者の善阿弥、花の立阿弥・文阿弥などが知られている。能の観阿弥・世阿弥も一種の同朋衆であろう。これら身分は低いが新しいセンスを持った人々が北山東山文化を作った。

なお、著者は中世の武家文化に対してはかなり辛口で、中世の武家は武具武器以外には独創的な造形文化を作っていないという。「武将の調度や服飾は、当時一般の流行を、豪華に贅を尽くして製作したものにすぎない(p.118)」と手厳しい。

一方、高く評価されるのが近世の町衆文化である。京都の上層町衆は公家と結びつき、武将文化を「はるかに凌駕する質的な洗練(p.125)」をなしとげた。佗茶、琳派、そして個人としては俵屋宗達がその到達点だと考えているようだ。これは古典復興の成果であったというのが著者の考えである。近世町衆文化は「日本のルネサンス」であったものの、「ヨーロッパにおけるような近代的展開を遂げずに凋落した(同)」。 

なお「民衆の造形」については、民芸運動を重視する著者らしく類書に比べ詳細であるが、図版がほとんど掲載されていないのが残念である。 

ちなみに、私が本書を手に取るにあたって興味があったのは、こうした工芸の担い手の実態(社会的地位・身分)がどうであったか、ということである。例えば古代には官に直属する絵画工房「画工司(えだくみのつかさ)」が設けられ、正(かみ)・佑(すけ)、令史(さかん)の官職があり、画師4名、画部60名の組織であった。画師の長は笏を持つことが許されているなど、画家は必ずしも社会の低層にあったのではない(p.267)。

ただし著者は「作者の人格や身分は若干の例外を除いては、雑戸という賤民階級に属するものとされていた(p.62)」とする。どういう根拠でそういっているのかわからないが、彼らには官位がある以上賤民ではないように思う。とはいえ画工のアシスタントをしていたのは賤民なのかもしれない。

平安時代には、 画工司は画所(えどころ)に改められたが、画所に属さない官人で絵の上手いものが宮廷絵師になる事態が見られる。このあたりが面白い。絵の上手い下手は、ある程度はっきりわかるものであるために、高い身分だからといって師匠になれるわけでもないし、逆に画所のような機関に属していなくても、上手ければお願いされるようになるだろう。身分を超越する機能が芸術には備わっていると考えられる。

11世紀には、仏像彫刻の定朝は治安2年(1022)に仏師として初めて法橋に叙され、教禅という仏画の絵仏師は治暦4年(1068)に法成寺丈六薬師像百図を描いた功で、絵仏師として初めて法橋に叙されている。法橋(ほっきょう)は僧位のひとつで貴族相当の地位である。仏師や絵仏師が僧位を持つことは一見自然であるが、工芸家に僧位を与えることは後代に大きな影響をもたらした(後には、連歌師や儒者や医師までが僧位をもらうようになる)。なぜ優れた工人に僧位を与えたのか、ここに身分と芸術の関係を考えるキーがあると思う。

なお、定朝から独立した弟子の長勢は、法勝寺阿弥陀堂の造仏によって法印に叙されている。なぜ定朝より上の法印に叙されたのか。それは出身階級に関係していたのかもしれないし、造仏の素晴らしさに基づくものだったのかもしれない。芸術の評価と社会的身分の関係がどうであったのか大変興味深いところである。

先に記した足利将軍の同朋衆が「○阿弥」という阿弥号を持っているのも身分との関係がある。つまり、彼らは出家することで世俗の身分を超越して将軍に近侍することが可能になったと思われるのである。もちろん、それがなぜ時宗であったのかは別に考えなければならない問題である。なお、現在では何ら社会的地位がない人間を「内閣官房参与」(首相のブレーンのような立場)に任命することはあり得ないが、当時は時宗に出家しさえすればそれが可能になったのだと思えば、かえって今よりも社会的身分が流動的だったとも言える。

また、私は石工(いしく)に大きな興味を持っているが、本書ではほとんど石材工芸について触れていない。供養塔や墓石は言うに及ばず、石臼や挽き臼など生活用品も含め、石材工芸は近世以前の世界において大きな存在感がある。これを工芸史に含めていないのは残念だ。

このことを考えると、素材毎の工芸史を著述するとまた違った歴史が書けるのではないかと感じた。石工、金工、木工、織工…といった工芸の分野毎の歴史である。工芸史としては、むしろこちらの方が自然な記述スタイルであるようにも思う(なお、石工の他には織工についても本書は手薄であり、特に近世の服飾はほとんど手つかずである)。

逆に言えば、石工、金工、木工、織工…といった分野毎でない日本工芸史であるのが本書の価値であり、そのために記載されていない分野も多いのだが、日本の工芸や美術を手際よく通観するという意味では、読みやすく大変よくまとまっている本である。

「用」を基軸に日本の工芸・美術を通史的に見る良書。

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2025年10月18日土曜日

『盆行事と葬送墓制』関沢まゆみ・国立歴史民俗博物館 編

盆行事の地域差に注目して葬送の思想を民俗学によって明らかにしようと取り組む本。

本書は、2013年に開催された第9回歴博映像フォーラム「日本各地の盆行事と葬送墓制の最近の変化」における報告と討論を中心としてまとめたものである。私自身は、お盆の歴史的変遷に興味があったのだが、本書では主に地域的変異と現代の変容が取り上げられている。

「民俗研究映像「盆行事とその地域差」」(関沢まゆみ)では、盆行事の地域差が歴史的な変化を表していることを論証している。

私は鹿児島に住んでいるが、一昔前のお盆といえば、お墓に親族が集まって提灯を飾り、飲食をともにするなど遊興やお祭り的な要素があった。大きな墓地ではテキヤさんまで来ていた気がする。こうしたお盆は九州の他東北地方でも見られたという。これは、先祖の霊と飲食を共にして交流するというお盆である。ところが近畿ではお盆でもお墓参りすらしない。しかし何もしないのではなく、近畿のお盆は自宅で霊を迎える。そのためにオシャライサンという飾りをつくったり(但馬地方)、縁側や軒下に新仏・無縁仏を祀ったりする(奈良県)。これらの事例を整理してみると、盆行事には(1)墓地で飲食する=東北・九州、(2)墓参するが、墓地での飲食はない=中国・四国・関東など、(3)墓参はしないが、霊を先祖・新仏・無縁仏などと区別して祀る=近畿、の3つの類型があることが分かった。

古い習俗ほど周縁地域に残るという民俗学のセオリーでこれを考えてみると、最も古い習俗は(1)で、それを(3)が上書きしていったとみなすことができる。古代の記録を検証してみると、死者の遺骸を家屋敷の近くに埋葬することは普通で、墓を遠ざけていなかったことは明らかであるが、摂関期には死の穢れがやかましくなり、墓が作られないことも増えている。ところが室町時代には墓参りが行われるようになっていく。

このように「第1段階として8世紀から9世紀には先祖の遺骸と墓地を大切にする状態、第2段階として10世紀から12世紀には死の穢れを忌み避けて墓参をしない状態、第3段階として14世紀から15世紀以降は再び先祖の眠る墓地を重視して墓参をする状態、という3段階の大きな変化があった(p.26)」。さらにこうした変化と並行して、近畿地方では「先祖を本仏、死んだばかりの死者を新仏、無縁の亡者たちを餓鬼仏というように、三種類の霊魂に明確に区別するようになっ(同)」た。これは柳田国男がかつて『先祖の話』で概説したことを具体的な事例から論証するものである。

本章では次に、火葬化がもたらした盆行事の変化について滋賀県蒲生郡竜王町の事例から考察している。土葬時代には集落ごとにサンマイ(墓地)が営まれており、これは死穢忌避の意識からあまり墓参されることもなかった(それどころか石塔さえも設けない事例が近畿地方にはある)が、火葬時代になると広域の墓地となり、死穢忌避の観念が薄れているということである。

「葬儀は誰がするのか、してきたのか?」(新谷尚紀)では、葬儀の担当者の地域差を分析している。

まず本章では、日本民俗学の創立期を振り返り、民俗学がイギリスやドイツの「フォークロア」の翻訳学問ではなく、独自の伝統と方法論があったとし、これをさらに発展させて「伝承文化分析学」として確立していくべきだとする。この論述の中で「自分で柳田や折口をよく読まずに柳田や折口を否定する論調に伝言ゲーム的に追随し便乗した人たちがいたことも残念なことであった(p.55)」としていることは驚いた。確かに柳田・折口の研究は現代から見ると脇が甘いところがあるが(よくも悪くも文学的なのだ)、「よく読まずに」否定されていたとは意外だった。

次に話題が急に変わって、高度経済成長以降の葬送墓制習俗の変化について、特に葬儀を誰が担当するのかという点に注目して述べている。これまで、葬儀を誰がやるのかということは、「ただ漠然と地域社会の相互扶助によるものだろうという先入観によって見逃されていたように思われる(p.68)」と著者はいう。

こうして著者はいくつかの地域で実際に葬儀(特に埋葬)がどのような社会関係によって執り行われるかを、血縁・地縁・無縁(僧侶な葬儀業者など)を基軸に分析している。この分析は意外性に満ちている。詳細は省くが、埋葬・死体の焼却などは親しい人にお願いする以外ないと思い込んでいたが実はそうではない。もちろん、棺担ぎや火葬や埋葬は血縁者にお願いするという地域もある。ところが逆に、そうしたものは敢えて他人(血縁があってもタニンということにするという場合さえある)に任すという地域もあるのだ。これを分析してみると、元来は血縁者によって執行されていたが、葬儀は地縁が協力して行うものという観念が成長して徐々に変化したと考えられる。さらに近年では、これが無縁に移行していっていることは言うを待たない。著者は最後に、こうした変化を記述するのが日本民俗学=伝承分析学なのだと述べている。

「祖霊とみたまの歴史と民俗」(大本敬久)では、祖霊を迎える習俗とその概念について批判的に検証している。本章が私自身の関心の中心である。

柳田国男は『先祖の話』で、正月は先祖の霊を祀る日であるという説を提示した。しかしこれまでそれは実証されていない。東北地方から関東地方にかけて、年の暮れや正月に行う「みたまの飯」と言われる習俗などを鑑みても、正月に祀る魂は直近の死者であって「先祖」ではないようである。また、柳田は同書でお盆を祖先祭祀のキーとして考察しているが、お盆が祖先祭の性格を帯びて墓参を伴うようになったのは中世以降であり、柳田の祖先祭祀をめぐる説は再検証しつつ、より精緻化することが必要である。

まず、著者はケガレと穢(え)の観念について史料に基づいて正確な理解が必要であると述べ、次に本題として「みたま」の考察へと移る。正月は「みたま=御魂」を祀るものであったか。著者はこれを古記録を徴して考察している。

『蜻蛉日記』では天延2年(974)12月に「暮れはつる日(大晦日)」に「みたまなどみるにも」とある。

『小右記』には寛仁元年(1017)12月30日の記録に「次拝御魂(次ニ御魂ヲ拝ム)」の文字がある。同様の記録が前後の年の日記にないところを見ると、これは毎年祀る祖先の霊ではなくて、その年に亡くなった人の魂であった可能性がある。

『枕草子』40段には「師走のつごもりのみ時めきて、亡き人のくひもの(食物)に敷くにやと…」とあり、大晦日に直近の死者(←先祖を「亡き人」とは呼ばないだろう)に対して供物を備えていたことがわかる。

『後拾遺和歌集』(応徳3年(1086))(哀傷)の和泉式部の歌に「12月のつごもりの夜よみ侍りける。亡き人の来る夜と聞けど 君もなくわが住む宿や魂なしの里」とある。

『徒然草』第19段では、「晦日の夜」は「亡き人のくる夜とて、魂まつるわざは、この比(ころ)、都にはなきを、東の方には、なほする事にて有りしこそ…」といっている。すでに鎌倉時代には、大晦日に「亡き人」を祀る風習が廃れつつあったらしい。

『後撰集』(哀傷)には「亡き人の共にしかへる年ならは 暮ゆく今日は嬉しからまし」とあり、『詞華集』(冬)には、「霊まつる年の終わりになりにけり 今日にやまたもあはむとすらむ」とある。死者が大晦日に来るだけでなく、「会えるので嬉しい」という観念であったことが注目される。

こうした史料を踏まえると、古代末期から院政期にかけて大晦日に(直近の)死者の魂が帰ってくるという観念があり、それが鎌倉時代には希薄になって、やがてお盆に引き継がれたように思われる。

また本章では考察されていないが、ここでいう「亡き人=みたま」は、死亡から何年くらい大晦日に帰ってくると観念されたのだろうか? これらの歌が作られた時期には、一周忌は行われていたが三回忌の習俗は定着していない。ということは一年限りなのだろうか。いずれにしても、長い間定期的に帰ってくるということを示す史料はない。よって、この「みたま」は長い間祭祀が続けられるとされる「祖霊」とは異なるようだ。

では「みたま」と「祖霊」はどう異なるのか。『先祖の話』では、柳田国男は「みたま」の語を主に使用している。また柳田は「三種の精霊」として「先祖=定まって我家に祭るみたま」「新仏」「無縁」の3つを挙げている。どうも、民俗学の展開の中で「みたま」が「祖霊」に入れ替わっていったようだ。そもそも「祖霊」なる語は江戸時代には一般的でない。著者ははっきりとは述べていないが、「祖霊」がはっきりと定義されることなく、なんとなく使われるようになった曖昧な語であり注意が必要だとしているようだ。

ともかくも、柳田は「みたま」≒「先祖」と考えたが、柳田の理論では「先祖」が個別性を失った習合的な先祖の霊であるとしているため、二つの概念にはやや違いがある。つまり歴史的語彙としての「みたま」はまずは「新仏」を示すもので、そこから「先祖」に敷衍していった(あるいは「先祖」の概念が徐々に外延的に形成されていった)と思われる。これは中世以前の文献史料で「新仏」を表す「あらみたま」の用例が確認されないことでも傍証される。

「葬法と衛生概念」(小田島建己)では、土葬から火葬への移行を山形県の事例から考えている。

日本での葬法がほとんど火葬になったのは、明治以来の政策の影響があった。著者は明治7年に火葬禁止となったものの、短期間で解禁された経緯を略述し、「この一連の動きによって、葬法は行政が指導するものという基盤が形成された(p.124)」という。その後、明治8年にも「焼場」について内務省が達しを出しているが、火葬は「不潔」で好ましくないものと考えられていた。ところが明治10年以降にコレラがたびたび流行し、この死体処理として火葬が衛生的であると捉えられるようになる。明治13年にはコレラに罹患した遺体は火葬以外で処理することが禁止されている。

こうした歴史を踏まえつつ、著者は山形県内の墓地を詳しく取り上げ、近現代の墓がどのように立地し、また管理されているか、その葬法との関連を中心に考察している。土葬時代には死穢の観念があったが、火葬になると「もはや死穢の概念は不在で、衛生の概念が原理となっているようにも考えられる(p.138)」。さらに山形県では、葬儀の前に火葬を済ませておく「骨葬(こっそう)」が行われている。葬儀は遺体を前にして行うものという認識でいるとこれは奇異なのだが、山形では葬儀の完了は遺体を埋葬すること、という認識があり、火葬は死体を埋めるための前処理として捉えられたのではないかという。

ともかく、土葬から火葬への移行は「思想を背景にしていないからこそ、短期間の内に火葬へと迅速に移行できた(p.141)」という。それは「死者観念や死生観の変化によってもたらされたのではなく、行政上の意図や衛生の問題とも絡みながら進行してきた(同)」のである。

「自動車社会化と沖縄の祖先祭祀」(武井基晃)では、自動車社会化が祭祀の在り方を変えてきたことを述べている。

沖縄の葬儀と清明祭(一族の墓をめぐってご馳走を食べる祖先祭祀)は、自動車社会化にともなってその在り方が変わってきた。例えば、かつては体力のある若者だけが祖先祭祀を担っていたのが、自動車が普及したことによって一族全員が移動して祭祀に参加できるようになった、というようなことである。しかしこのことは、「一族の中心である年寄りが祖先祭祀に直接参加できるなら、自分たちはいいや」というような調子で、若者の参加が低調になりつつあるという一因にもなっている。

沖縄の祖先祭祀について疎いので詳細は割愛するが、祭祀の在り方が自家用車の所持のような死生観や思想とは関係なものに大きく影響を受けているということは非常に重要な視点だと思った。

「列島の民俗文化と比較研究」(小川直之)は、上述の発表および研究映像(当然ながら本書には収録されていない)に対するコメントである。

詳細は割愛するが、列島文化の多様性を改めて認識し、地域ごとの比較を行うなど民俗研究をより精緻化していかなければならないと述べている。

「討論」は、関沢まゆみが司会者となり、上述の発表者がパネラーとなって討論を行った記録である。気になったところのみ記す。

大本敬久は、盆行事が行われるようになったのが摂関期であること、「盆棚」などは鎌倉以前の記録には見えないことを述べ、家の盆行事と寺院での盂蘭盆会は分けて考えた方がよいことを主張している。 

小川直之は、「日本から東アジア、そして東南アジア、南アジアにかけて、飲食物を通して死者の霊魂や神々の霊や精霊たちとの交流がはかられるという習慣が非常に広範囲に存在(p.219)」すると述べている。関沢まゆみによれば、フランスなどでは死者に食べものは供えないとし、お墓に食べものをお供えするというようなことはないという。言われてみれば、死者は実際には飲食ができないわけで、飲食物を供えるというのは当たり前の習慣ではない。これはハッとする指摘だった。

新谷直紀は、相互扶助による葬式の方法が確立したのは17世紀後半から18世紀前半にかけてであり、それほど古いものではないことを指摘している。よって、高度経済成長期以降に激変している葬式の習俗についても、伝統の破壊というような観点で見ない方がよいと感じた。

本書には全体として、ここにメモした以外にも柳田国男『先祖の話』が多く登場している。『先祖の話』は慧眼に満ちた名著であるが、体系的に日本全体の祖先祭祀をまとめたものではなく、柳田の主張に沿う事例を並べて祖先観を構築したものという性格がある。このため、従来「柳田の主張を鵜呑みにしてはいけない」という批判も多かった。確かに、柳田の主張は現在から見るとやや一面的であった部分もある。そんなわけで、名著とは言われながらも、柳田の主張を真正面から検証しようという研究は意外と行われず、「扱いに注意が必要な通説」というような中途半端な位置づけのまま長く放置されていた。

このフォーラムに集った研究者たちはこうした状況を遺憾とし、柳田の主張を真正面から受け止め、それを現在の民俗学によって検証しようとしているように見える。列島文化は多様であり、盆行事一つとっても、大きな地域差が見受けられる。それは、関沢や新谷が述べるように歴史的な変遷を跡づけている場合もあるし、小田島が述べるように行政の指導によってもたらされたものである場合もある。そして武井が述べるように、自動車社会化のような、死生観とは関係の内社会変化によってもたらされた場合もある。こうした地域差を精緻に研究することで、祖先観の根源にせまり、柳田の研究を発展させようというのが本書の研究者たちの基本的認識のようである。 

なお、本フォーラムの本来の価値は、お盆ひとつとっても地域ごとに大きな差があることが映像で明解に示されることにあったと思われるが(各地の平時のお墓の写真がいくつか掲載されているが、それだけで面白い)、フォーラムにおける研究映像報告の部分は本書にはほんの少ししか記述されていないため、結果として本書はやや理念的・図式的な考察がメインになっているように思われる。映像を見ることができれば、違った感想を持ったかもしれない。 

盆行事を改めて民俗学の俎上に載せ、研究の最前線をまとめた講座的な本。

【関連書籍の読書メモ】
『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。  

2025年10月6日月曜日

『日本法制史(下)』瀧川 政次郎 著

 (上巻からの続き)

第5編 融合法時代中期(国法時代)

戦国時代には「法律が異常なる発達を遂げた(p.11)」。伊達家の『塵芥集』(171か条)や武田信玄の『甲州法度』(55か条)のような法典が各地で編纂されたのである。それらは概ね室町時代の法令に倣っており、制裁が弾圧的で裁判が簡略といった特徴がある。織田信長は志半ばに斃れたために法令はほとんどなく、豊臣秀吉も法制には見るべきものは少ない。ただし秀吉は、「朱印状」という法令よりも強制力を持った文書を発給しており、これは重要である。

秀吉定めた掟で重要なのは、刀狩、検地などがあるが、中でも「文禄4年8月3日掟」6か条(および追加9か条)は注目される。特に追加9条の方で、諸公家・諸門跡は家道を嗜み公儀への奉公を守り云々と定められており、これが発達して公家法度へと至るのである。豊臣氏の掟には、戦国大名の国法には見えない平和的なものが見えており、「江戸時代の法制の基礎をなした点において、法制史上特にこれを重要視せねばならない(p.32)」。

第6編 融合法時代後期(定書時代)

上巻の読書メモに書いた通り、私が本書を手に取るにあたっての関心の一つは江戸時代の法制にあった。江戸時代は日本的な法制度が完成した時代である。それはいかなるものであったか。

まず、この時代も慣習法が主であって成文法は補完的なものであった。『御定書百箇条』などの法典が編纂されてはいたが、それは判例の集成であって現在の法典とは全然性質が異なる。また、加賀・薩摩藩のような大藩では藩法も生きていたし、寺法・宗法のような治外法権的な性質を持つ法的領域もあった。そうではあるが、一応法制を全国統一してしかもそれが機能したことは特筆される。

江戸時代の前期には、『公家諸法度』『武家諸法度』のように、『貞永式目』に倣った諸法度公布された。よって江戸時代前期を「法度時代」と呼ぶこともある。後期になると『公事方御定書』『寛政法典』のような判例の集成が編纂された。これによって後期を「御定書時代」ともいう。

『武家諸法度』は現代の意味での法令ではない。それは、「将軍の代替りごとに多少の修正を加えて発布せられるのを常とした(p.38)」ことでも明らかだ。法度は、主従性に基づく契約のようなものであったようだ。しかし厳密には主従ではない公家にも『公家諸法度』が定められている。この法源は何なのか? 「将軍」は形式的には天皇から任命されているのに、天皇についても法令で定めたのは、どういう理屈なのだろうか。また寺院・神社に対しても『諸宗寺院法度』『諸禰宜神主法度』を定めているが、こちらの法源も明らかでない。なお御料所(幕府の直轄地)の百姓を取り締まるのが『郷村法度』であるが、こちらは直轄地以外には効力がないので法源は実効支配力なのである。

ところで5代綱吉は『服忌令』を定めているが、これは後世まで影響を及ぼした。

江戸時代の法令は、こうした法度に加え、臨時令である「御書付(おかきつけ)」、今の通達にあたる「御達(おたっし)」、広く公布する「御触(おふれ)」、一般人にまで公布する「申渡(もうしわたし)」「張紙(はりがみ)」などがあった。こうした臨時令はすぐに忘れられてしまうため、8代吉宗は御触書集である『寛保集成』50巻を編纂した。法制史上これは画期的であった。なお吉宗は老中からの内訓指令、評定所一座の評議の類も蒐集して『享保撰要類集』42巻を編纂している。その後、御触書集などの編纂は相次いだ。

吉宗は『公事方御定書』も編纂しており、これは「江戸時代最大の立法事業である(p.44)」。上巻81か条は評定所の執務規定、訴訟手続きなどを規定し、下巻103か条(これが『御定書百箇条』)は刑罰規定、つまり刑事・民事裁判を中心とした内容である。これは秘密法典であって公にされなかったが、実際には流布していた。ちなみに『御定書百箇条』は侍、百姓、町人等に関する刑法であったので、社家・僧侶に対する刑法35条を後に追加し「寺社方御仕置例書」が編纂された。

また吉宗は、『公事方御定書』の編纂にあたって自ら判例集に意見を附し、これに諸奉行がさらに答申した内容を加えた『科条類典』もまとめている。これが基本となって、後に『寛政刑典』が松平定信によって編纂された(ただしこれは施行されたかどうか不明)。この他、幕府は様々な法典を編纂しており、前代までに比べその量は膨大である。

次に、本書では幕府の組織について述べている。幕府の組織の全部が法制で定まっていたわけではないため、この項目は法令によらない実態だ。現代と違う著しい特徴は、その組織に月番制が多いことである。例えば老中は現代の大臣にあたるが、定員は4~6人であったものの、この執務が月番制であった。毎月そのうちの一人が政務にあたり、その他はその補佐であった。これは一人の専横を防ぐには効果があったが、責任の所在が曖昧になったりお座成りになるなど弊害も大きかった。行政の責任者は寺社奉行・江戸町奉行・勘定奉行の3役で、これも月番制であった。責任者が月番制というのが、現代から見ると本当に不思議である。

本書では、江戸時代は封建制度の時代であったとし、主従関係が基本になっていたという。武士だけでなく、町人と奉公人などの関係も主従関係になぞらえられて理解されていた。所領安堵においても、当事者のいずれかが死亡したときは、主従関係を更新しなくてはならなかった。これは法律面においても非常に重要なことである。「家」というのは現代でいえば法人的であったが、あくまでも主従関係という個人の契約に基づいて存立していたということである。

幕府と大名の関係も主従関係であるが、それを契約の面で見ると、幕府は大名に自治権を認める(所領安堵)する代わりに、大名に軍役を課すということになっていた。しかし実際に軍役が課されたのは島原の乱のみであって、実際上はこまごまとした負担(諸所の警備や普請など)が課されたにすぎなかった。

一方、江戸時代の村は、今でいう法人であった。「村自身訴訟もすれば、売買その他の法律行為も行ったのである(p.90)」。旗本や大名があくまでも個人であったのに比べ、村の方が現代的な仕組みを持っていたといえる。村が法人であったために、村民は生死を共にするような盟約を行い、一致団結してことにあたった。村の自治組織は、名主(庄屋)・組頭(年寄/脇百姓)・百姓代の3つが基本である。

村を代表して法律行為を行ったのは名主(庄屋)であるが、これは大体世襲で無給(ただし実際には莫大な利益があった)、組頭は年貢の割引があり、百姓代は給米も年貢の割引もなかった。つまり法人としての村の運営組織は無給を基調としていた。そして村の運営に必要な費用は、村民から「村入用(むらにゅうよう)」として徴収した。重要なことは、江戸時代の年貢は個人ではなくして村に課されるものであったということである。だからこそ村が法人として扱われたのだと考えることができる。

堺のような都市は中世末には自治権をもっていたが、これは織豊期に解体させられ、江戸時代には遠国奉行や諸藩の町奉行によって統治された。ただし大坂そのものではなくてそれを構成する飯田町とか連雀町のような町は、村と同様に自治団体として法人のような性格を認められ、租税法上も納税の一主体として財産を持ち債務も負った。町の組織は江戸と大坂では異なり、町の組織の任命や負担といった種々の面で興味深い相違が認められる。ただしいずれにしろ、住民であることより地主であることが重要であり、地借人・店借人であっても町政に参与する資格がなかった。だが、それは様々な義務を免除されることでもあったので、大坂ではお金持ちでありながらあえて借家住まいをしているものもあったという。

先述のとおり町は納税の主体であり、享保7年(1722)に幕府は江戸の町の公役をすべて銀納とした。その課税方法は、表間口の長さ(5間とか10間とか)を基準とするものである。しかしこれは個人に課されるものではなく、このように計算された租税を、町では間口のみによる不公平を是正して個人に配賦した。

こうした町村の生活において重要なのが五人組の制度である。これは官より治安維持の目的をもって強制的に組織を命じられた隣保団体である。婚姻・養子縁組・相続・遺言・廃嫡などの際に互いに立会し、また不動産の書入、質入、売買などの場合に連印を押し、訴訟や請願をなす場合にも互いの同意を要した。このように社会生活の相互監視が五人組によってなされたが、重要なことはこれは納税組合ではなかったことである。

村は納税の主体であったが、基本的な納税の単位は土地であり、租税負担の有無や慶弔によって土地は様々な名称で呼ばれた。高請地(たかうけち)、段高場(だんたかば)、見取場(みとりば)、流作場(りゅうさくば・ながれさくば)、御朱印地、拝領地、除地(のぞきち・じょち)、無年貢地、見捨地(みすてち)、損地などである。そして幕府の課税は、本途物成(ほんとものなり)、高掛物(たかがかりもの)、小物成(こものなり)、国役という4つで構成された。これらについて詳説は避けるが、課税単位はあくまでも村だったのに、実際には一筆当たりで税額が計算されていたのは興味深い。

次に、江戸時代の刑法であるが、現代と著しい違いがあるのは、連坐・縁坐制、私刑主義(復讐の公認、主人から妻や下人への私刑)、階級(武士・町人・僧侶など)によって処分が違ったこと、死刑が多く、しかもその種類が多かったこと(下手人[最も軽い死刑]、死罪、獄門、磔、火罪[火あぶり、放火犯にのみ行われた]、鋸引、切腹、斬罪など)、追放があったこと、財産の没収があったこと(債務の弁済のためではない)、入墨・敲(たたき)が行われたことなどである。

次に、江戸時代の司法制度であるが、現代と全く違うのは行政官と司法官が分化していなかったことである。家光のころまでは最高裁判所裁判官にあたるのは将軍であったが、これが老中に委任され、後には評定所に委任された。江戸時代には「支配」というものがある。人々はそれぞれの「支配」に分割されていた。評定所が担当したのは、その「支配」にまたがった事件であり、「支配」内部はそれぞれの「支配」に任された。例えば大名の治める領域内の事件は大名が裁くのであり、複数の大名の統治領域にまたがった事件が評定所に持ち込まれる、といったようなことである。よって司法制度は「支配」ごとにバラバラであったが、実際には評定所の意見が裁定の標準となったためにそれほどの違いはなかったらしい。

評定所に次いで広汎な裁判権があったのが、寺社・町・勘定の三奉行であり、幕府の地方官中で最も広い裁判権を有したのが京都所司代と大阪城代である。ただし、遠国奉行の管轄権は錯雑としており、当時でさえ明瞭でなかった。行政官と司法官が分離していなかったこと、担当範囲が明瞭でなかったことの2点から、幕府の司法制度は非効率的であった。

民事事件と刑事事件は江戸時代でも「出入筋」「吟味筋」としてやや明瞭に区別された。そして「出入筋」(民事事件)は、なるべく当事者間の和解を勧めて表ざたにしない方針であった。幕府の処罰は基本的に大変重かった(現在の刑務所にあたるものがなかったため)ので、実務的な都合(収監などができない)から和解が推奨されたのだと思われる。

そして判決にあたっては犯人の自白が最も重んぜられた。これは現代とは少し違う。証拠ではなくて自白の方が大事なのである。ただし書面は重要であり、特に土地関係の総論では書面がものを言った。なお、江戸時代には弁護士にあたる人はいなかったが、老・幼人や病人には代理人の出頭を認めたため、「公事師」なる訴訟代理業者が江戸や大坂には存在した。

ここで本書では、江戸時代の身分法を述べて、それぞれの身分について説明しているが、ここは本書以降に研究が長足の進歩をしているため詳細は割愛する。ただし一つだけメモしておくと、非人は非人素性(非人の子)と、犯罪によって非人になった人、貧困によって自発的に非人になった人の3種類があったが、非人は幕府より持場内で勧進することを許された報恩として、獄門、磔の手伝いをするなどの公役を負担していた。

ここから本書は物権法の説明となる。この種の解説が本書は大変詳しい。

まず、不動産物権については、当時の不動産物権は、不動産の所有権ではなく、不動産の上に行使する知行権すなわち支配権であったことが重要である。土地を個人で所有するという観念ではなく、その支配権があったのである。よってそれは「知行地」であり「拝領地」であったりした。ただ、町人の所持する町屋敷地は今でいう私有地と同じであった。なお、家屋の新築にあたっては、地頭や代官に届け出て許可を得るという、今でいう建築許可のような仕組みがあったのは興味深い。どんな場合に不許可となったのだろうか。

小作すなわち土地の貸借にもたくさんの種類があり、契約の内容もさまざまであった。単純な所有とか貸借ではなく、それが土地に対する用益権であったために、契約にあたって金額の多寡だけでない条項が設けられたのである。

そして不動産物権に準じて捉えられていたのではないかと思われるのが、座の特権などである。例えば旅宿や商品の委託販売を営む問屋の特許営業権(株)のようなものも、売買された。権利の売買ということが普通に行われるようになったのが江戸時代なのである。

次に金融関係の説明に移る。これの解説も大変詳しい。まず質(動産不動産の占有質:現代の質)と書入(無占有質である差質など:現代の抵当)であるが、これらに関する規定が江戸時代には大変たくさんあった。というのは、田畑の売買が禁止されていたため、質入によって資金調達したり、譲渡や質流れの形で田畑の売買を行うことが横行し、これが規制されるとその抜け道が考案されるなどしたことによる。ちなみに質の最長年季は10年であった。

なお、江戸時代初期では年貢諸役等を納めさえすれば、志ある百姓が田地を寺社に寄進することを許されたが、宝暦12年(1762)以降は、百姓が寺社に対して寄進地をなすことはすべて禁止された(p.221)。

江戸町でも質は盛んで、質屋は今の不動産屋と銀行を合わせたようなものであった。享保8年の調査で、江戸町の質屋は253組、2731人いたという。質金の法定利率は、銭であれば百文につき月三文(年率に直すと36%とかなりの高利だ。なお江戸時代は複利は禁止されていたた)などだったが、実際は金1両につき月銀1匁6分など、年利40%を超えていた。質屋が儲かったのは当然である。このように高利であったため、質屋間の質入れも盛んであったようだ。

ところが、更に高かったのが借金の利息である。古くは月2割を最高率としたが(=年率240%!)、元文元年(1736)にこれが1割5分、天保13年(1842)に1割に引き下げられた。これでも年率120%の高利である。さらにこうした規制が守られなかったのも言うまでもない。また複利は禁止されていたが、証文の書き換えによって未払い利息を元本に組み入れることも行われた。こうした高利であったため借金の訴訟は数が多かったのか、その受理にも制限があったほどである。

なぜ高利貸しが横行したのかといえば、武士階級が生活に困窮するようになったからで、高利貸しにも金を借りなければならないほど彼らは切迫していたのである。そこで幕府は、町人階級の利益を顧慮することなく借金に種々の規制を加えたが、当の武士階級が借金に依存していたのでその規制は形無しになっていった。ただし室町時代と違って幕府は徳政令は発していない。幕府にとって武士階級は保護すべき家臣ではあるが、何ら経済的なうまみがなく、一方町人は御用金を徴収することができる金づるであったから、結果的に消費貸借に強力な規制が加えられることがなかったのではないかと思われる。

雇庸関係については、江戸時代には奉公と日庸用取(日用取)の2種類があった。奉公において重要なことは、奉公人は雇庸者の家族と並んで雇庸者の人別に編入せられたことである。この点、現代の労務契約とは違って、奉公は身分と「支配」に関わってくるのである。

このほか、商業手形、組合・無尽講、海法、不法行為の扱いについても記載があるが割愛する。

本書の最後が親族相続法についてである。これも武士と平民では大きな違いがあった。そして親族間の関係は、「法律的関係というよりはむしろ倫理的、道徳的関係(p.250)」なのであった。この点を注意することが必要だという。

江戸時代の「家」は、家長と配偶者およびその直系尊属、そして兄弟姉妹、淑父母のような傍系親も加わっていた。配偶者・直系尊属以外の構成員を「厄介」と呼ぶ。ただし「家長と厄介との関係は、純然たる道徳的関係であって、家長が厄介に対して家長の資格において行使し得べき権力はほとんど皆無であったといってよい(p.251)」。これは面白いことで、厄介はある意味では道徳的に保護されていたと考えることができる。

ちなみに親族の範囲は、親類・遠類・縁者の3つがあった。当時親類といえば伯淑父母・甥姪・従兄弟までであって、武士階級においては親類の間は服忌令の規定に従って互いに喪に服する義務があった。武士階級の婚姻は、幕府または藩庁の許可を得なくてはならなかったというのが現代との大きな違いである。百姓・町人にはこのような許可は必要なかった。夫婦は別々の財産を有し、妻の持参金は夫の所有に帰したものの、離婚の際にはこれを返還する義務があった。夫は妻に対して懲戒の権利を持っていたと考えられ、夫は妻を一方的に離縁することはできたが、妻は夫を離縁することはできなかった(武士も平民もともに)。

子との関係は、父母は教令権と懲戒権を有しており、特に懲戒権については「懲戒の結果、子孫を死に致すも法律上の制裁を受けなかった(p.260)」のは驚かされる。しかし、子を売る権利は本来は有しておらず、また久離(親族関係の解消)・勘当(主従・親子関係などの解消)をなすには武士階級では管轄奉行の許可が必要であった。

現代と大きく違うのは、養子が盛んに行われたことである。江戸時代の養子には、通常の養子の他、婿養子、仮養子、心当養子(こころあたりようし)、急養子、順養子、夫婦養子、嫡母継母之養子、父計之養子、母計之養子などの名目があった。本書ではこれらについて詳述しているが、詳細は割愛する。なぜこうした様々な養子が広範に行われたのかといえば、江戸時代の「家」は実質的には法人であったが、形式的には家長個人の個人事業のようなものであったため、その継承を担保するための仕組みが必要だったからである。武士階級の場合、嫡子を定めずに死去した場合、封禄は取り上げられて絶家になった。

よって「家」の存続に重要なことは相続であった。相続には、隠居によって開始する家督相続と、死亡によって開始する相続の跡式相続があった。ただし両者は実質的には同じである。平民階級では、家を相続するのは女子であっても何ら差し支えはなかったが、武士階級の場合は軍役を負担するためという名目で、相続は男子に限られていた。

本書の最後は、隠居制度について述べているが、簡素な記載である。なお、私は隠居と出家の関係について興味を持っていたのだが、出家については何ら記載はなかった。

上下巻の全体を通じ、本書は法制史をはみ出す部分が大きい。過去の人々がどのように生活を規制されていたのかについて、法のみならず社会通念や慣習法まで含めてまとめたのが本書であり、純粋な意味での法制の歴史はかえって簡素な気さえする。例えば、本書の最後にある親族相続法であるが、そこに記載されていることのほとんどは慣習法であり、このうちどの部分が法による規制なのか定かでない。おそらく、その部分は服忌令などかなり限られたものなのであろう。

こうしたスタンスで本書が書かれているのは、当然ながら成文法と慣習法が絡み合って近世以前の規制が行われていたからで、さらにいえば明文的に規制されていなかったとしても、人々が「こうすべきだ」と思っていたものは実質的に法と同じ効力を持っていたからである。要するに、法と法以外が未分化だったのが近世以前の日本社会だった、ということだ。

全体を通じて印象に残ったのは、金融関係の規制が大変多いことである。金の貸し借りが行われるとき、必ず貸した方が立場が強くなる。ということは、法による規制がない場合には、どんどん貸す方に有利な社会になっていく可能性が大きい。時の権力はこれを是正しようとした。本書を読んでびっくりしたことは、近世以前の国家も金を借りざるを得ない人を明らかに保護しようとしていた、ということだ。それは、慈悲の心というよりは、金貸しが増長することを放置していると社会不安が増大するという実際的な問題があったからなのだろう。

そして、江戸時代よりも鎌倉・室町の方が弱者保護の姿勢はより強いように思われた。江戸時代になると、町人の力を無視できなかったためか、相当に高利貸しに甘い規制になっているように思われる。町人が吉原で豪遊したのも当然だろう。

 私は、江戸時代の法制全体に興味を持って本書を手に取ったが、本書は法制の全体像というよりも、どちらかというと人々の生活が主役なので、その興味にはあまり応えてくれなかった。しかし、法や規制から見た日本史として、本書は独自の価値を持っていると思う。特に租税法や物権法、金融関係の法を通史的に見るということだけでも価値があるのではないだろうか。

法から見る日本史として独特の価値を持っている本。

【関連書籍の読書メモ】
『日本法制史(上)』瀧川 政次郎 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post.html

2025年9月10日水曜日

『江戸のセンスー職人の遊びと洒落心』荒井 修・いとうせいこう 著

扇子のデザインを語る本。

本書は、東京の扇子の店「荒井文扇堂」の主人・荒井 修 氏の話をいとうせいこう氏が聞いたものの記録である。対話ではなく、荒井氏の話がまとめられており、章末にいとうせいこう氏のコメントが付されるというスタイルになっている。

荒井氏の話は、基本的には江戸時代から続く伝統的な扇子のデザインについてのものだが、荒井氏自身のデザイン哲学もそこに差し挟まれるため、純粋な「江戸のセンス」を述べたものではない。ただ、幼いころから古典文芸に親しんでいたらしき氏の口ぶりは、「江戸の職人ってこんな感じだったのかも」と思わせるに十分である。

私は、「江戸時代のデザインってどういうものだったのだろう」という疑問から本書を手に取ったが、上述のとおり本書は江戸時代のデザインについて歴史的に語るものではないので、本書を読みながら考えたことを中心に読書メモを書くこととする。

「のぞき」という技法がある。全部を描かず一部を象徴的に表現し、大きく余白を残すのが「のぞき」である。例えば、秋の夜の情景を表現するのに、大きく月を描いて、ススキを一本それに重ねる。もちろん月は全部書くのではなく、画面からはみ出す。こういうのが「のぞき」である。

「見立て」という技法がある。物や人物や風景をそのまま描くのではなく、別のものをそれに「見立て」て、象徴的に表現する技法である。「のぞき」も「見立て」も、全部描かない、説明的にしないという共通点がある。つまり、江戸時代には「説明的なのは野暮」という感覚があったようだ。

「のぞき」にしろ「見立て」にしろ、説明的でないのだから、何が描かれているか、意匠の意図はなんであるかを鑑賞者の方が読み解く必要がある。それは単純に花鳥風月が描かれているだけでなく、古典文芸に関する知識を必要とした。と書くと、当時の人は教養人ばかりだったと思いがちではそういうことではない。

例えば人物とともに「ゴゴゴゴゴゴ」と書いたら、若い(概ね40代以下の)人はこれは『ジョジョの奇妙な冒険』が踏まえられていることはすぐわかると思うし、これにわざわざ「※これは『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる擬態語です」などと書いていたら野暮にもほどがあると思うだろう。これと同様に、江戸時代の人は教養人ばかりだったのではなく、人々の間に広く共通の知識が存在し、それを自在に呼び出したりアレンジしたりすることに面白さを感じていた。それは現在の二次創作市場と似たようなものだったのだろう。

江戸時代のデザイン界と現在の二次創作市場には、別の面でも類似がある。それは著作権の扱いである。現在の二次創作市場は、厳密に言えば著作権的にアウトであるが、出版社や原作者が黙認することによって成り立っている。我々は比較的自由に(商業的にならない範囲で)「ゴゴゴゴゴゴ」と書いてジョジョ風の人物を登場させてもよいことになっている。江戸時代の著作権の考え方はこれに似ていた。つまり、版権は確かに存在していたが、デザインそのものを保護する知的財産権の仕組みはなかった。

なので、著作物の複製そのものはできなかったのだが(正確に言えば法律で規制されていたのではなく版元が禁じていた)、そこに表現されたものは比較的自由にコピーできた。こういう、知的財産権の保護が不完全な市場で何が起こるかは興味深い問題である。まず第1に、優れたデザインはすぐに広まった。そして第2に、人々はそれをアレンジすることを楽しんだ。容易にコピーできるからこそ、それを変化させることが主眼になったのである。江戸のデザイン界では、現在の二次創作市場と同じことが起こっていた。

この2点が、現在の商業デザインと決定的に違うところであり、江戸のデザインの多様性の鍵であるような気がする。

そしてもう一つ違うのは、現在の商業デザインは、万人受けする、どんな人にも場面にも合うものを作りたがるが、江戸時代はそこが少し違った。もちろん江戸時代にもシンプルなデザインは存在したが、けっこうドギツいデザインも多かった。それは、江戸時代が大量生産の時代でないことと関係がある。江戸時代のモノは手作りで、注文生産である場合も多かった。だから、万人受けする必要がなく、むしろ注文者の趣味趣向や、使う場面に適したものが好ましかった。そしてそれは、上級に洗練されたものというより、「遊び」がある面白いものが好まれた。何しろ顧客は、しかつめらしい武士ではなくて、遊びに生きた商人だったのである。このあたりも、現在の二次創作市場と似ている。

ところで、デザインというと、家具や日用雑貨のデザインから平面デザインまで含まれるが、本書で対象としているのは、モノにあしらわれる図案のことが中心になっている。当然、その多くは荒井氏の専門である扇であるが、それ以外の話も少しは出ている。そういうものを見ていて思うのが、「江戸時代は、よくこんな不整形な画面に絵をあしらおうと思ったな」ということである。

そもそも、扇からして図案を乗せるのは不向きだ。蛇腹に折られているし、そうでなくても扇形は図案を乗せる画面としてやりづらそうだ。ところが、江戸時代のデザイナーたちは、むしろ長細い画面や不整形な画面にこそ図案を乗せやすかったのではないかとさえ思える。現在の画用紙のようなアスペクト比になっている作品は浮世絵などわずかで、図案の多数はむしろ極端なアスペクト比を好んだのではないか。

というのは、日本の工芸では歴史的に、掛け軸(縦長)、屏風(縦長)、巻物(横長)など、縦長または横長の料紙に描く図案が発達していたからである。そしてこうした長細い(あるいは不整形な)画面であればこそ、「のぞき」や「見立て」のような技法が発達したといえる。西洋絵画のように正方形に近い長方形画面が中心であったら、モノの一部だけ描くのはかえって難しくなるからだ。

このように、江戸時代のデザインは、その市場の在り方と深くかかわっていたと思う。本書には、そうした視点はあまりなく、どちらかというと荒井氏の個人的な経験や創作活動が中心になっていて、それはそれで生き生きした内容なので面白いが、歴史家がそれを解説すればさらに面白いものになったのではないだろうか。

扇子屋の主人の生き生きした話を聞ける本。

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2025年8月24日日曜日

『老子』福永 光司 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収)

老子の思想。

『老子』を通読するのは3度目である。以前は道の思想に憧憬を抱き、無為の世界を体得しようとさえ思っていた。だから以前は、「聖典」へ向かう態度で『老子』を見ていたと思う。今でも道の思想には魅力を感じているが、一歩引いてみられるようになった。そして今回は、今まであまり目につかなかった部分が見えてきた。そこでこの読書メモでは、老子の思想そのものというより、私が今回気になったことを中心として述べたい。

まず注目したのは、老子は「天」を肯定するということ。例えば「人を治め天に事(つか)うるは、嗇(しょく)に若くはなし(=民を治め天に事えるには、つつましやかであるといことが第一である)(第59章)」と老子は言う。

この「天」とは何か? 古来、中国では「天」の祭祀が行われてきた。「天」は至高の存在として祀られたのだが、老子が生きたと考えられている戦国時代には、すでにインテリは天帝や鬼神といったものを信じていなかったとされている(ただし墨子を除く)。だから「天」は実在の何かとしては捉えられていなかったようだ。しかしそれでも「天」は至高の存在として認められていた。老子はこの常識を承認する。そして老子は「天」を人間の力ではどうしようもないものとして認識した。「天下は神器、為す可からざるなり(=天下というものは不思議なしろもので、人間の力ではどうすることもできない)(第29章)」。だから「自然」に従うほかないのである(第29章)。

そして老子は「帝」や「王」や「侯」を肯定する。老荘思想というと、「竹林の七賢」に代表されるように支配機構から背を向けているという印象がある(もっとも、現実の「竹林の七賢」の多くも公職についていたのだが)。だから老荘思想では、支配機構そのものが否定されているかのようなイメージを(少なくとも私は)抱いていた。ところが実際にはそうではない。老子は「故に道は大、天は大、王も亦た大(第25章)」という(この「大」は「偉大」の意味である)。

老子は、王は偉大でなくてはならないと考える。「王を道の最高の担い手として天地と並列するのは、老子思想の特色の一つである(p.31)」。しかしもちろん現実にはそうでない。「朝は甚だ除(よご)れ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきに、文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余り有り(第53章)」と彼はいう。現代の政治批判と同じようなことがここに言われている。政治は汚職にまみれ、田は荒れて民衆のふところは乏しいのに、政治家たちは虚飾の繁栄を楽しんでいるというのである。だから彼はいろいろと統治機構に注文をつける。『老子』は、隠棲者のための書ではなく、政治論でもある。

その注文は、大まかに言えば「余計なことは何もするな(=無為)」ということに尽きる。人為的なものを廃して(第38章)、刑罰を設けず(特に死刑を否定する)(第72章、第74章)、税金を少なくし(第75章)、戦争は行わない(第31章、第80章)。そして、人々を愚かな状態に留めておく(第3章、第65章)。ここはいかにも老子的な言説である。老子は人間が小賢しくなったことが禍の元だと考える。だからいっそ愚かな方がよい。儒学では人間は勉学に励んで賢くなることが必要だと考える。ところが老子は逆に、勉学などするから争うのだという。だから民衆を愚かにせよというのは極論のようであるが、「老子のいう愚とは無為の道と一体になった無知である(p.76)」。「学を絶てば、憂い無し(第20章)」である。

ともかく、老子は統治機構を表面的には否定しないが、実際には何もしない方がよいという。しかしこれは、無政府主義であろう。このような国家がもしあったら、存続できないことは明白だ。というよりは国家の体を成さない。だから老子の考えはユートピア的な空想だと思える。しかし彼は、おそらく農村に暮らして政治の現実を見ていた現実主義者なのである。『老子』には、しばしば現実主義者の顔が出る。例えば、「是を以て聖人は、終日行(ゆ)いて、輜重(しちょう)を離れず(第26章)」という。「聖人は、終日行軍しても輜重車を手放さない」すなわち、聖人は行軍において兵站(へいたん=物資の補給)を疎かにしないというのである。

そもそも老子は戦争を愚かな行為として否定するが、彼の生きた時代は戦国時代であったので、現実に戦闘が行われていた。そんな中、おそらくは兵站を疎かにした行軍が行われていたのだろう。それで困るのは末端の戦闘員である。老子はこういう下っ端に最も共感しているように見える。彼らは、税金に喘ぎ、為政者が恣意的に定めた刑罰によって捌かれる人間であった。「為政者よ、何もしてくれるな」というのが、老子の叫びなのである。

ところで、老子は自衛のための戦争は否定はしない。「兵は不詳の器、君子の器に非ず。已むを得ずして之を用うれば…(第31章)」といい、「武器は君子の手にすべきものではない」といいつつも、それを使わざるを得ない時があることも認めるのである。つまり一見老子は無政府主義的であるが、いつ他国に攻め込まれるかもしれない戦国時代の現実を見ていた。そしてひとたび戦争になれば「人を殺すことの衆(おお)き、哀悲(あいひ)を以て之に泣(のぞ)み、戦い勝つも喪礼を以て之に処(お)る(第31章)」べきだという。悲しみを以て戦いに臨み、戦いに勝っても葬礼を以て対処する、ということだろう。

では、老子のいうような国家があったとして、それが他国に攻め込まれないかどうか。ここはかなり怪しい。まず、老子は富国強兵を否定する。税金はなるべく取らない方がいい。とすると強大な軍備は不可能となる。刑罰も設けないから、民衆に何かを強制することも難しい。となると他国に攻め込まれるほかなく、しかもその国は弱いから敗北が必定である。となると、やはり老子はユートピア主義者なのだろうか。だが老子は「弱い」ことに積極的な価値を見出す。というより、勝利の価値を疑う。そんなもの一時的なものじゃないか、と彼は考える。

老子の哲学は女性的だ、と言われてきた。剛よりも柔、強よりも弱を老子は永続的なものと見る。「物壮なれば則ち老ゆ(=物はすべて威勢がよすぎると、やがてその衰えがくる)(第30章)」。儒教が男性的な思想だとすれば、老荘は女性的思想である。「敗北してよい」とまでは老子は言っていないが、 軍国主義が招くのは農村の荒廃であると彼はいう(第30章)。だから富国強兵は一時的にはうまくいっても、結局はゆきづまる。ではどうしたらいいのか。そこを老子は突き詰めて考える。その答えが、文明そのものを疑えということなのだ。

しかしながら、それは個人の思想としては力を持ち得ても、政治論としては無力である。

老子の時代に活躍した諸子百家と呼ばれる思想家は、みな政治コンサルタントとして活動した者たちである。彼らはどうすれば他国に打ち勝てるかを君主たちに説いて回った。しかし老子はそういう者たちと全然違う。彼の思想は、諸子百家の系譜には位置づけられない。彼の思想は農村に生きる、下っ端の思想である。そこでは社会的価値が顚倒する。官僚よりも農民が、賢い人よりも愚かな人が、強い人より弱い人が、名声を得た人より無名の人が、文明より野蛮がよいとされる。それらは全て、人為的な虚飾にすぎないというのが老子の考えだ。農村の下っ端は、一番文明から遠いからいいのだ。

しかしそういう言説こそ観念論に過ぎないのではないか。むしろ文明が生みだした虚飾の思想に過ぎないのではないか。結局、老子だって「小」より「大」を好む。「小国寡民(第80章)」を理想としながら、無為の道を体得すれば「天下を取る(第48章)」という。老子は「天下を取るなんて価値がない」とは言わないのである(ただし第48章は後次的なものとみる説もある)。彼は敗北主義者のように見えるがそうではなく、天下に君臨する聖人は無為である、無為な人こそ天下を取れる、といっているのだ。

では、その聖人は具体的には何をするのか。どうして天下を取るのか。これは儒教の徳治主義にも通じる問題である。儒教では、徳のある君主がいれば、彼は何もしなくても民衆は彼に靡き、他国もそれを尊重して天下はうまく治まると説く。老子の言説もこれと同じである。無為の聖人は何もしないが、何もしないことで全てはうまく治まる。落ちつくところに落ちつくから、全てがうまくいくのだという。しかしそんなことはありそうもない。

ここに回答を与えたのが、意外なことに法家の人たちであった。つまり、巧妙な法がありさえすれば、君主は何もしなくても世の中はうまく治まると彼らは考えた。だから老荘思想を発展させたのは、無為自然とは最も遠いはずの法家思想の人たちであり、『韓非子』には老子の影響が色濃い(逆に、『老子』の中に『韓非子』の文章が改作されて竄入したと考えられる箇所もある)。しかし法家思想と合体することにより、夢想的だった老荘思想が現実に適用できる政治論となり、長く巨大な影響力を持つことになった。現在伝わる『老子』のテキストは、おそらく法家の人々によって伝えられたものなのであろう。

よって、もともと老子(老聃)が説いた教えは、今の『老子』とは少し違っていたのかもしれない。だがそのエッセンスは明確である。それは、何かをやることに価値があるのではなく、やらないことに価値がある、という無為の哲学である。そして、こんな争いばかりの世界になってしまった原因は、人々があらゆることに手を出してしまったからだ、欲望を実現してしまったからだ、とする今に通じる圧倒的なリアリズムに基づいている。

全ての人為的価値を顚倒させるリアリズムの書。

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_15.html
諸子百家の思想の概観。

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2025年8月20日水曜日

『民間暦』宮本 常一 著

民間の年中行事について考察した本。

本書には、「新耕稼年中行事」『民間暦』「亥の子行事—刈り上げ祭り」の3編が収録されている。

このうち『民間暦(みんかんれき)』は、宮本常一が初めて一般向けに出した単行本である。小学校教員をしていた宮本が民俗学の世界に傾倒し、教員を退職して調査研究の生活に入ったのが昭和14年。そして本書の刊行が昭和17年である。宮本35歳の時であった。本書が彼の「処女作」だ。

本書収録の3編は、どれも事例の羅列という性格が強く、そこからの考察というか、民間の年中行事に対する分析はあまり展開されていない。それは宮本自身が「民間暦」のあとがきで「この書物の論旨のほとんどは柳田先生のお説を復誦しているようなもの(p.287)」といい、「書いていくうちに、概観だけで、予定の紙を要してしま(p.289)」った、としている通りである。

では「民間暦」の本来の目的は何かというと、「この書は、民間において古くから年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事が、いかなる意味を持ったものであるかを、広く全国各地におこなわれている現状に徴してみようとした(p.58)」ものだと宮本はいう。私もこれを期待して本書を紐解いたのだが、先述のとおり、本書は「こういう行事があります」というだけで終わってしまっている。

もちろんその紹介自体かなりの力作なのだが(なにしろ宮本の処女作だ)、私の関心は諸行事の大量の事例ではなく別のところにあった。そこで、通常の読書メモとは少し違うが、私がどういう関心で本書を手に取ったかをまず述べたい。

私は、年中行事というよりも暦の成り立ちそのものに関心がある。それは、私自身が農業をしていることと関係がある。当たり前のことをいうようであるが、農業は季節の移り変わりを基準に組み立てられる。つまり太陽暦が基準だ。近世以前の日本では太陰暦(=旧暦、月の満ち欠けによる暦)が行われていたが、農事に関しては太陽暦による二十四節気が基準となっていた。

ちなみに農業というとのんびりした印象があるが、実際には植物の栽培は季節の移り変わりに敏感で忙しい。例えばかぼちゃの植え付け時期はそれなりに自由度があるが、本当に上手にできる時期を選ぶと植え付けの適期は2週間くらいしかない。太陰暦と太陽暦は平気で3週間くらいズレるので、太陰暦を基準にしては農事はうまくいかない。

つまり農業は太陽暦を基準にしなくては例年通りの栽培ができないところがほとんどすべての年中行事は太陰暦によって日が決まっている。これは農民にとって大変都合が悪い。例えば、ある年は植え付けの前にその行事がある。ある年は植え付けの最中に。ある年は植え付け後に。これは困る。なぜなら、植え付け前や植え付けの最中はとても忙しく、悠長に年中行事などやっている暇がないのである。近世以前の年中行事は、物忌みを伴っていたから「休む」「仕事をしない」日でもあった(そういう日に仕事をすると制裁が加えられることもあったという)。これが農家にとって大変都合が悪いのである。植え付け後に休むならいいが、植え付け前は大変忙しく、休んでなどいられない。

「忙しい時にあえて休むのもいいじゃないか」と思うかもしれないが、農業は適期に精一杯働いた方が後が楽だ。植え付けが3日遅れると後の生産性が変わってくる。植え付け前の忙しい時期に1日(または2日)休むのは非常にストレスなのである。「こんなことをするくらいなら早く農作業を終わらせたい」というのが農家の感覚である。しかしそういう年中行事が近世以以前に行われていた。これが不思議なのだ。

もちろんこの不自然さはいくつかの農事的な行事では考慮されていたように思われる。(これは民間行事ではないが)収穫祭の意味がある新嘗祭は、旧暦11月23日に行われていたが、これは新暦では12月から翌年1月にあたる。収穫祭にしては妙に遅い。新嘗祭がこの時期に行われる理由はいろいろに言われているが、これは旧暦でも確実に収穫が終わった時期であるということもあるのだろう。収穫祭が収獲前に行われたのでは意味がないからだ。

ところが多くの年中行事は、こういう配慮は感じられない。はっきり言って、民衆が行ってきた年中行事のスケジュールは、農業と相性のよくないものだと感じる。そういうものがずっと行われてきたというのは不可解というほかない。こういう疑問の下で私は本書を紐解いた。

「新耕稼年中行事」では、純粋な農事行事が紹介される。これは、「年中行事」とはいうが上述の「年中行事」ではない。つまり「年々歳々日を定めておこなってきた」ものではなく、農業のリズムに従って行われるものである。例えば、ワラ細工とかムギ刈り、いもほりといったものだ。ところがここにも太陰暦行事がある。それは八朔、つまり八月一日である。

この日、多くの地域では「それまでゆるされていたヒルネがもうできなくなる(p.37)」。百姓は昼寝さえ自由に許されておらず、それが権力によって規制されていたこと自体も興味深い(ちなみにヨナベ=夜の仕事も強制であった)が、それはともかく、農業の進行とは無関係に、暦でこういうことが区切られていたのだ。ただし、旧暦8月1日は新暦では8月末~9月末あたりで、どちらかというと農閑期にあたっているのはまだ合理的である。

一方、「民間暦」で取り上げられるのは多くが太陰暦行事である。これらは神仏の祭祀に関係があり、本書ではその骨格を、物忌、みそぎはらい、籠居、斎主、神を招く木、訪れる神、神送り、祝言、年占い、除厄という観点で語っている。太陰暦による(=月の満ち欠けの決まった)日取りに、仕事を休んで物忌み(生活の制限)を行って身を清め、神を招いて飲食をともにし、そして神からの何らかのメッセージを受け取って(=受け取ったことにして)神をまた元に返すというのが年中行事の基本構造であり、またこれを一村単位で行ったこと、つまり共同体の祭祀として行ったことが重要である。

また干支による行事もあった。例えば庚申待、甲子待、正月子の日、土用丑の日、四月卯の日、二月初午、十二月酉の日、七月および十月の亥の日などだ。これらはまた別の思想に基づいていたと考えられる。本書には詳らかではないが、これらの行事は講や個人で行われているものが多い気がする。

本書では、単なる年中行事ではなく、民間暦という「民衆が行ってきた年中行事」を取り上げているが、意外なことに、それらの多くが農事とは直接関係がない。例えば最も重要な年中行事は盆と正月であるが、これは農事とは無関係だ。正月は一年の豊作を願うにしても、農事そのものと関連しているとは言えない。

ところで、今では年中行事といえば年寄りが中心のようなイメージがあるが、若者がその中心的な役割を担っている場合が多い。そして若者中心の行事は、「だいたいはなやかにして興奮を覚えるようなものである(p.177)」。さらには、祭りには子供が中心となるものが存外に多い。「子供が行事に参加して中心となることは、若者たちが参加するよりは、いちだんとくずれかけた形ではなかろうかと思う。大人がおこなうには馬鹿くさいという気持ちがさきにたつようになったのである(p.180)」と著者はいう。

ともかく、信仰の零落によって、祭りは形骸化したり、華美になったり、遊興化したと著者は考える。例えば厳重な物忌み・潔斎を行うことは日常生活(当然農事にも)に支障をきたすから、これを選ばれた専門の人のみにまかせ、大多数の村人は受動的に参加するだけになっていったのだ。そしてその専門の人は、例えば正月の門付のようにやがて職業化していった。

このように著者は行事の変化の原因として「信仰の零落」を据えるが、それはそうとしても、私はそもそも日本の年中行事が農事と直接にリンクしていなかったことがその大きな要因のように感じる。

世界では、夏至・冬至・春分・秋分のような太陽暦行事・祭祀が数多いが、これは明らかに一年の生活リズムと連動し、農業とも深い関連がある。こうした行事の場合、例えば「〇〇の植え付けが済んだら夏至の祭り」とか「〇〇の収穫が済んだら冬至の祭り」といった感覚となり、祭りそのものに向かう態度も毎年等しい。ところが太陰暦行事の場合は、先述のように行われる時期がバラバラである。昨年は収穫後だったが、今年はまだ収穫の最中だ、となると行事に向かう態度そのものが変わってしまう、と農業を生業としている私は思う。

結局、行事から神聖な要素が脱落していったのは、このあたりに本質があるのではないだろうか。生活・農事と遊離した年中行事であったために、形骸化をまぬかれなかったのではないか。

ところで著者は、「民間暦」の出発点として「ずっと以前から子供の生活習俗に興味と関心をもっていた(p.287)」といい、民俗関係雑誌から子供に関する記事を書きぬいていたのであるが、そこには「不思議に年中行事に関する報告が多かった(同)」のだという。どうして日本では子供が年中行事を担ったのか。幼童に神聖性を感じるということもあったのかもしれないが、それよりは、年中行事が生活・農事と遊離していたために「今年は忙しい時期が祭りにあたっているから子供にやらせよう」といった心情になったことが遠因なのではないか。

そういう子供中心の行事の一例が、「亥の子行事」である。本編は「民間暦」のケーススタディにあたる一編で、全国の亥の子行事を比較してその本質を探っている。亥の子行事とは、10月の亥の日(2回または3回あり、その全てで行われる場合もある)に、山の神(または田の神)が家に帰ってくる日などとされ、お祝いをするものだ。10月の亥の子の日には宮廷でも別の趣旨の亥の子行事もあるが、これはおそらく別系統の行事である。また関東では案山子あげが10月10日に行われ(=十日ン夜(とおかんや))、これは亥の子の日ではないのだがやはり「亥の子」と言われている場合がある。著者は亥の子を刈り上げ祭りと見ているが、農事とは直接関係しない。

ここで亥の子と関連して能登地方のアエノコトが紹介されている。この事例が大変興味深い。「そのおこなわれる日は11月5日(現今は12月5日)が多いようであるが、日は必ずしも一定していなかったらしい(p.318)」。これが厳重に行われていた祭りだというのが示唆的だ。農事に強くリンクした祭りは、太陰暦とはリンクしないから日付が一定しない。そしてそういう祭りこそが厳重に行われるのである。ということは、「年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事」は、太陰暦で日が定まっているからこそ形骸化をまぬかれなかったと考えられるのである。そして逆に言えば、形骸化したからこそ長く行事が維持されたのかもしれない。祭りが形骸化し、遊興化し、子供や若者の楽しみになったからこそ年中行事は持続した。これが大人が厳粛に行うものでありつづけたら、全国津々浦々の村で行われたか疑問だ。

なお、行事の元来の意味が忘れられて、奇々怪々な解釈で年中行事が行われるようになったのも、それが生活・農事と乖離したものであったからという気がしてならないのである。

なお、私がここで述べた太陰暦と農事との乖離について、著者はほとんど考察していない。晩年に至って、この問題を著者がどう考えるようになったか興味があるが、さしあたり手元の資料ではわからない。また現在の民俗学ではこの問題がどのように考えられているのか、追って調べてみたい。

民間の年間行事を体系的にまとめようとした宮本常一の意欲作。

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2025年8月16日土曜日

『神国日本』佐藤 弘夫 著

中世の神国思想を考究する本。

中世には「日本は神国(しんこく)である」という言説が常識となった。それはどうしてか。なぜこのような言説が生まれたのか。一般には、神国思想は戦前日本の狂気じみたイデオロギーであったとみなされているが、実際はそういうものではない。ではその実態はいかなるものであったのか。本書は神国思想を丁寧に解明するものである。

神国思想が興隆した平安時代末期~鎌倉時代、日本では浄土教が流行し、日本を末法の辺土粟散とみる一種の自虐国家観があった。日本は仏法の本場インドから遠く、時代は末法で、機根の劣った人ばかりの小さな国だというのである。一方、神国思想では、日本は「神の国」なのだからこの国家観と真っ向から対立するように見える。従来、学界ではこの見方が通説となってきた(例えば、古川哲史など)。しかし神国思想を大きく鼓吹した『神皇正統記』(北畠親房)では、日本の末法辺土観も前提となっている。

また、神国思想では、天皇が超越的な存在にならざるをえないと考えられてきた。しかし中世では不徳の天皇は退位が当然とも思われていた。さらに親房は、天皇となるためには過去世に戒律を受持する必要があると『神皇正統記』で述べている。前世で仏道を真摯に実践したからこそ天皇として生まれたのだ、というのである。

このように、神国をめぐる通説は、神国思想の原典の一つである『神皇正統記』と乖離する。だから神国思想について再検討する必要があると著者はいう。

古代の天皇の神聖性は、天皇号の採用、大嘗祭の創出などから、天武天皇あたりで高められたと考えられる。そして国家が日本全国の神祇を一元的に祭祀に組み込む体制が構築された。しかし律令国家が瓦解し、寺院への国家からの財政支援が途絶えると、寺院は荘園領主として自立することを迫られ、神祇界にも自由競争原理が持ち込まれた。こうして「国家から相対的に独立した有力社家(p.41)」がしのぎを削った。そうした大社を国家がいちおう統合したのが「二十二社制度」である。そして地方の神社は「一宮制」によって似たような秩序を形成した。

そうした制度は、いちおう国家が神社の序列を設けるものであったが、それは絶対的なものではなかったので各社は地位上昇をもくろみ、特に比叡山の日吉山王社は、みずからを伊勢神宮を超える根源的な神社であると主張した。「神道史家の高橋美由紀氏は、天照大神という神祇世界に君臨してきた至高神を相対化し、それを超越しようとする中世神道界の動向を「神々の下剋上」と評している(p.47)」。

また神祇の世界は、荘園経営と深くかかわるようになり、12世紀ごろからは、その領地を「神領」などとして課税を逃れようとしたり、寄進を善行として促すような言説がみられるようになった。神の存在が土地の支配と関連付けて観念されるようになっていったのである。

一方、それに先立つ10世紀あたりから本地垂迹説が広まった。仏の教えは機根の劣った人ばかりの末法辺土の日本には理解されない。だから日本人を救済するため、仏は神として垂迹したというのである。これは本地(仏)の偉大さを述べつつ、実際には神社への参詣や帰依を進めることとなった。

そしてこうした変化と並行して、平安時代中頃から、神の性格が徐々に変化した。その象徴が、天皇による神社行幸と返祝詞(かえしのりと)の制度の確立だ。古代の神はひたすら畏れられる存在だったが、このころには神は対話可能な存在と受け止められるようになった。そして神は「祟る」のではなく「罰」を与える存在として表象された。神は信賞必罰の合理的な存在になったのである。そして本地垂迹説によって、一見無関係に見える神々の世界が、仏を媒介にしてつながり、包摂された。そして道教の神々までも含めた神仏の壮大なコスモロジーが観念されるようになった。こうした中で神国の観念が育っていくのである。

日本を神国とみなす観念は古代までさかのぼる。日本書紀の「神功皇后紀」に、新羅王の言葉として「東方に神国がある」という一節がある。「日本=神国の理念は、神々に対する素朴な崇敬の延長線上に自然発生するようなものではなかった(p.90)」。その背景には統一王権による神々の再編成と、対外関係の緊張があり、当初から「きわめてイデオロギー的色彩が濃厚(同)」だったのである。

「神国」がまとまって使われるようになるのは9世紀後半の清和天皇の時代で、貞観11年(869)、新羅のものと思われる船が筑前に来航した際、諸国の寺社に国土の安穏を祈願した告文に「神明の国」「神国」といった語が散見する。この「古代的」な神国思想は、「天照大神の指揮のもと、有力な神々が一定の序列を保ちながら天皇とその支配下の国土・人民を守護する(p.95)」というものであった。ここでは仏教的要素は見られない。

そして「院政期ごろから日本を神国とする表現が急速に増加し始める(p.99)」。『古今著聞集』、『私聚百因縁集』、『神道集』、『八幡愚童訓』などは神国思想が前提となっており、頼朝も「わが朝は神国である」と述べているが、 なぜ頼朝は神国を強調せねばならなかったのか、奇異に感じるほどである。そして元寇があると神国思想は一層興隆した。神風が吹いたから神国なのではなく、それ以前の敵国調伏の祈祷の段階で神国は強調された。そういう祈祷を行った僧侶に東巌慧安(とうがん・えあん)という人がいる。彼の願文では、日本は仏が神として垂迹しているから神国なのだ、という論理になっている。これが「中世的」神国思想の特色である。

ところで、神国は何よりも国家・国土に対する観念である。では神国思想のいう国土は具体的にはどういう領域なのか。『貞観儀式』所収の追儺祭文には、東:陸奥/西:五島列島/南:土佐/北:佐渡よりも遠方、という国土観が示されている(村井章介)。これはやがて南:鬼界が島(硫黄島?)/北:外が浜(青森県?)へと拡大したが、ともかく日本の国土は人為的に成立したものというよりは、各種の「日本図」で明らかなごとく(例えば日本は独鈷杵の形をしているとか)、宗教的に(さらに言えば仏教的に)意味のある、あるいは予め定まったものとして観念されたのである。

このように、神国思想は末法辺土観を克服するものだったという通説はあたらない。むしろ日本が末法の辺土悪国だからこそ仏が神として垂迹したと考えるのであり、末法辺土観はその前提である。そして神の偉大さは末法辺土の劣った人間への救済者として強調された。神国思想は、「仏教をライバル視し、それに対抗しようとする立場から主張されることはありえない(p.119)」のである。

では、神国思想は蒙古襲来を契機として勃興し、日本を他国より優れた国だとするナショナリズムが内包されていたという通説はどうか。神国思想が前提としていた仏教の世界観では、世界を三国(インド・中国・日本)として把握したが、その上に真理の世界をも措定した。そこには曲がりなりにもインターナショナルな認識があった。神国思想は日本の優越を一方的に主張するものというよりは、仏が神として垂迹した国という特殊性を強調していると思われる。

また、神国思想は、奇妙なことに寺社の強訴に際して院周辺から主張された。著者は「国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるために、院とその周辺を中心とする支配権力の側から説き出されたものだった(p.137)」と考える。「そんなワガママいわないでください。同じ神国に住む仲間じゃありませんか? 」というところだろうか。

面白いことに、専修念仏運動を弾圧した延暦寺も、専修念仏教団が神祇を尊ばないことを神国をないがしろにするものとして批判した。とにもかくにも神国思想は「国家に対する観念」なのである

蒙古襲来に際して神国思想が盛んに鼓吹されたことは、それを象徴している。「日本は神国だから他国が侵略することはできない」と主張されたが、このころの日本は荘園の分捕りによって分裂気味であった。「神国の論理は、内部にさまざまな問題と矛盾を抱えていた日本の現実を「神国」と規定して蒙古に対峙させることによって、そのきしみと裂け目を覆い隠そうとするものだった(p.152)」のである。神国思想が支配者から盛んに言われていることはその証左である。神国思想は、対立する諸権門の融和を企図し、「中世国家体制を正当化するための宗教イデオロギーとして支配権力側から説き出されたものと推定できる(p.157)」。

なお、これは対立する勢力を対象としたイデオロギーであるから、民衆に訴えかけるのではないことは注意が必要だ。

神国思想は天皇を超越的存在に仮構するという通説はどうか。中世では天皇は政治の実権を失っていたが、確かに宗教的な権威は高まっていた。しかしそれは古代のように無条件に現御神としてあがめられるものではなかった。摂関・院政期には天皇がさまざまなタブーから自由になり、神秘性を失ってしまったとも指摘される(益田勝美の説)。そして天皇・院には仮借なき批判が寄せられるようになった。天皇が死後地獄に落ちたという言説もしばしばみられる。「中世社会においては歴代のほとんどすべての天皇について、仏神の罰やたたりを蒙ったというネガティブな噂が存在した(p.171)」。幼童の天皇が続いたことも天皇の形式化の証左である。

しかし同時に、いくら天皇の存在が形式化しても、天皇を超える国家の支配権力結集の核が形成されなかったことも事実である。だから結局「支配秩序を維持しようとする限り、必然的に国王=天皇を表に立てざるをえな(p.187)」かった。つまり、天皇の実権が弱い状態では、その権威のみを強調する神国思想は諸権門にとって都合がよかったのである。

このように、中世の神国思想の通説は主に3つの点で訂正されねばならない。(1)神国思想は蒙古襲来を契機として言われるようになったのではなく、その淵源は意外と古い。(2)神国思想は日本礼賛の論理ではなく、日本を末法辺土の小国であるとする仏教的世界観を前提としており、日本の特殊性を強調する。(3)天皇は神国思想の中心的要素ではない。

本書は最後に、神国思想がどう現代までつながっていくかを簡単に述べている。神国思想は中世後期から変貌していった。その背景には、「彼岸世界の後退(p.200)」がある。それまでは人々は此岸・彼岸の二重世界に生きていたが、彼岸世界のリアリティがなくなり、この世での充実した生活の方がずっと重要になっていった。秀吉や家康も神国思想に言及しているが、そこで仏教的世界観こそ否定はされていないものの、日常の儒教論理の方が前面に出てきている。近世になると、彼岸での救済といった観念が批判され、神国思想から仏教的要素が希薄化して、神国思想は日本の絶対的優位性を主張するものへと転換していった。そのような近世的神国論は、林羅山や熊沢蕃山から見られる。そして「江戸中期以降は神道家や国学者をはじめ、心学者・民間宗教者の著作や通俗道徳書などに広く散見するようになる(p.210)」。そして「だれもがなんの制約もなしに、仏教・儒教・国学などの諸思想に結びつけて「神国」を語ることができるような状況(同)」になっていた。このような中で、神国思想が天皇と強く結びつけられ、明治維新以降に大きく担ぎ出されることになったのである。

本書は全体として、神国思想を中心として中世の思想史を紐解くものであり、神国思想そのものよりも、神国思想を生み出した基盤についてより重点的に語っている。例えば、北畠親房の『神皇正統記』などはもっと内容を詳細に紹介してもよさそうに思ったが、著者の関心は「なぜこういう言説が生まれ、広まったのか」という点にある。その要諦は、神国思想を育んだのは仏教であったということである。そこから仏教的要素が脱落したことで近世の神国思想が生まれ、さらに天皇が中心となることで戦前の神国思想へと変貌した。

なお、本書は学術書ではないため、注がない。全体的に平易な書き方をしてはいるが(というより、そうだからこそ)、注があった方がよいと感じた部分もいくつかあった。巻末に掲げられた参考文献一覧では、神国思想研究を形作った文献がまとめられているので、備忘のため下に年代順に掲げる(出版社等適宜省略した)。

神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。

山田孝雄『神皇正統記述義』1932
長沼賢海『神国日本』1943
田村圓澄「神国思想の系譜」『日本仏教思想史研究浄土教篇』1959
黒田俊雄「中世国家と神国思想」『日本中世の国家と宗教』1975
藤田雄二「近世日本における自民族中心的思考」1993
高橋美由紀「中世神国思想の一側面」『伊勢神道の成立と展開』1994
河内祥輔「中世における神国の理念」『日本古代の伝承と東アジア』1995
佐藤弘夫「中世的神国思想の形成」『神・仏・王権の中世』1998
白山芳太郎「神国論形成に関する一考察」『王権と神祇』2002
鍛代敏雄「中世「神国」論の展開」2003
佐々木馨「神国思想の中世的展開」2005

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。

2025年7月15日火曜日

[論文]「古代中世の葬送と女性——参列参会を中心として」島津 毅 著

古代中世において、女性がどう葬送に参画したかを分析する論文。

平安時代には、母は子の葬送に参列すらしなかったという。例えば美福門院藤原得子の葬列には娘の暲子内親王、姝子内親王は参加していない。暲子内親王は両親から莫大な財産を相続していたにもかかわらず、母の葬送に参列していない。なぜ女性は葬送に参列しなかったのか。

これを検討するため、著者は8世紀から16世紀の葬送事例90(+α)を詳細に分析し、そこに女性がどのように関与したかを調査した。これは記録が詳細に残っているものが対象であるため、王家が半分、続いて公家、13世紀以降は武家も数例ある、といったバランスで、身分の高いものに偏っていることは一応注意が必要だろう。

「第1章 13世紀頃までの葬送と女性」では、女性が葬送に参加していない事情を分析している。

先ほどの90例では、葬送における女性は「8世紀には参列や参会を確認出来たが、9世紀から13世紀半ばまではまったく確認できず、13世紀以降、中下級貴族を皮切りに、14世紀からは王家や室町将軍家にも確認出来る」。

8世紀には女性も葬送に参画していたが、これは当時の女性が夫とは別な「家」の「家主」すなわち「家刀自」であったからと考えられる。家産を所有する妻女が独自に葬送を執り行っていたのである。

ところが、9世紀半ばの嵯峨上皇の葬送の頃からこれが変化し、内親王等の娘の姿が確認出来なくなる。そして皇后や母后の姿も見ることができず、葬送の場から女性が排除されていったと考えられる。「王家の葬送では女性親族が参列せず、荼毘所(火葬場)にいなかったことは確かなようである」。

このように、9世紀半ば以降、王家・摂関家では、妻はもとより母や娘も葬送には参列しておらず、それを「見送るだけ」であった。ただし、中宮などの女性の死の場合、やはり肉親は参列していないものの、女官や女房は参列していることは注意が必要である。

では、なぜ女性は葬送の場から排除されたのか。

まず死穢との関わりだが、荼毘所での同席は死穢にならなかったことが『延喜式』で明瞭である。つまり死穢自体は問題ではない。むしろ葬送を凶事として憚られるようになったことの方が大きいのではないかと著者は考える。「その憚りとは、死体が人を他界へ引きずり込むと信じられていた、穢とは異質な禍々しさに由来するものであった」。これは、著者が『日本古代中世の葬送と社会』で力説した点である。なお、当時の庶民の間では遺棄葬が行われており、葬所には死体が散乱していたと考えられる。こういう場が禍々しいのは当然である。よって遺体そのものというより「葬所へ向かうことが忌避された」面があったと考えられる。

この考えを裏付けるのが、年少者と妊婦が特に参列や参会を制限されていたと記録から読み取れることである。年少者と妊婦は特に死亡率が高かった。よってそういう人を他界へ引きずり込まれかねない葬所がより避けられたと考えられる。

では妊婦以外はどうか。『栄花物語』の書きぶりを見てみると、万寿2年(1025)の藤原嬉子の葬送に母倫子は参列してはいないが、葬送の前に「母倫子は嬉子の遺体の入棺の様子を御帳のなかで泣きながら見、また直接遺体にも触れていた。つまり女性親族にとっても、故人の遺体は愛惜の対象であり、それを穢や禍々しきものとして忌避してはいなかった」ことがわかる。女性も「亡き親族の遺体そのものを忌避することはなかった。よって、一般の女性親族にとり、葬所の凶事性ゆえに葬所へ赴くことが制限されることまではなかったはず」と著者はいい、にもかかわらず現実に葬送から女性が排除されているのはどうしてかと再び問う。

なお、この部分は、若干論理の混乱があるように思われる。というのは、ここでは、「凶事・禍々しい」と認識されていたものが、葬送なのか、葬所なのか、葬所にある腐乱死体なのか、親族の遺体なのか、ということが峻別されずに記述されている。

具体的には、前段(死穢との関わり云々の後)では、葬所・葬送が「凶事・禍々しい」から年少者・妊婦は避けた、と言っているのに、後段では、親族の遺体は「凶事・禍々しい」とされていなかったから凶事性ゆえに葬所・葬送が避けられたとは思えない、という。だが親族の遺体は禍々しくはなかったとしても、葬所・葬送が「凶事・禍々しい」というのは変わらない。そして年少者や妊婦にとっても親族の遺体は愛惜の対象だったと思う。

ともかく、死穢も凶事性も理由にならないとすれば葬送から女性が排除されたのはどうしてか。9世紀後半以降は、「女性は公的な社会から疎外され、私的世界で生きる存在となっていった」ことが要因ではないかと著者はいう。「喪葬令」的葬送は貴族・官人たちの序列を視覚的に示すものだったし、仏教的葬送になっても社会的身分の誇示という葬列の社会的機能は変わらなかった(むしろ強化された)。一方、女性は中世的な「家」が形成されていくに従い、「家」に従属する存在となって、公的立場を喪失した。このように葬送の対外的・社会的性格が確立し、逆に女性が公的行事から排除されたことが女性が葬送に参画できなくなった理由だという。

その証拠に、女性が葬送から排除された後も、女官や女房は参列している。彼女らの参列は公務だったからである。

また皇后の場合は、葬送に参加するにはあまりに身分が高貴すぎ、また天皇とは別個の家政機関としての家を持っていたため、天皇家の「家」を取り仕切ることはできなかったために天皇の葬送に参加できなかったと考えられる(つまり「家」の一員ではなかったから葬送に参加できなかった)。

「第2章 13世紀後半以降の葬送」では、女性が葬送に参加するようになった事情が述べられる。 

14世紀には、室町将軍家・親王等の王家・公家では「母や妻妾そして娘も葬礼や荼毘・埋葬の行われた寺院へ参会」するようになった。こうした変化の先駆けとなったのが文永11年(1274)の藤原経光の葬送である。

ではなぜ女性は葬送に参画するようになったのか。第1に葬所が変化した。寺院が独自に荼毘所や墓地を所有するようになると、鳥辺野のような無秩序な墓地とは違って凶事性がないばかりか「葬送荼毘の場はむしろ往生をもたらしてくれる「結縁の場」に変容」した。葬送は不吉なものではなくなったのである。第2に葬列がなくなった。葬所が寺院内にあるため、入棺・荼毘・拾骨までが寺院内で完結するようになった。この2つの変化によって葬送の在り方が大きく変化し、女性の葬送への制限が取り払われたというのが著者の考えである。

さらには、12世紀以降の「家」の成立によって、妻は家長権に従属しつつも「家」の重要行事を取り仕切る家妻権を保持するようになった、ということもその背景にある。特に葬送は相続慣行の一つとなり、後家にとっては葬送に参画することは重要であった。

では、天皇や上皇の葬送では后や皇女はどう葬送に臨んでいたのか。まず、天皇・上皇の葬所(荼毘所)も泉涌寺などの寺院境内へ移行していた。ただ、王家の場合は古代中世を通じて葬列を伴う葬送が行われている。これは言うまでもなく公的行事としての葬送である。

ここで留意すべきなのは、14世紀以降、后・皇女の位置づけが平安時代とは大きく変わったということである。後醍醐天皇以降、後水尾天皇に徳川和子が皇后して立てられるまで、天皇には皇后が立てられることがなかった。つまり当時の天皇の妻は全て妾である。また皇女も、後小松天皇以降、正親町天皇まで皇女に内親王が宣下されることがなく、多くが比丘尼御所(尼寺)へ入れられた。すなわち14世紀以降、近世に至るまで、天皇家には正式な身分を持った女性が存在しなかったことになる。しかし彼女たちは、葬送に参加していた。「ただし、これらは天皇・上皇の妻妾が女房であったこと、また娘も尼であったことなど、それぞれ参会が職務であったと言うことができる」。天皇家の場合はちょっと独特な事情であったが、女性が葬送に参加するようになったという結果は同じである。

「むすびにかえて」では、結論を要約し、大陸からの影響について問題提起している。

古代中国では、葬送には女性親族が参列参会していた。また宋代には、朱熹の『家礼』の影響が大きくなるが、やはり夫人は葬列に連なり、墓所で葬礼に臨んでいた。日本の中世では『家礼』を全体的に受容していたかどうかは不明であり、中国からの影響があったかどうかは定かでない。しかし日本の葬送は入宋僧を介して大陸からの影響があったことは明らかであるため、葬礼に女性が参会するようになった背景として検討する必要があるとして擱筆している。

本稿は、著者の『日本古代中世の葬送と社会』 において、葬送における女性の扱いを解明することが今後の課題である、としていたことに対応して執筆されたものである。本稿では、同書で提示された葬送の「凶事性・禍々しさ」などが再度論じられるとともに、同書の視角が女性に適用され、葬送における女性の扱いを実証的に解明したものとして価値が高い。

しかし、なぜ女性が葬送から排除されたのか、という理由の考察についてはいまいち腑に落ちない部分があった。

第1に、女性の社会的立場が弱くなったからだと著者はいうが本当か。というのは、摂関・院政期は女性の立場が非常に強く、慈円が「女人入眼の日本国」と書いた『愚管抄』も13世紀前半である。この時期には天皇家では女院号が濫発され、また八条院を初めとして厖大な荘園を持っていた女性は多い。むしろ摂関・院政期は女性の権力のピークであるという観さえある。確かに、女性官位が男性と別枠になったり、朝儀や節会など政治の場から疎外されていったということは事実であるが、単純に女性の社会的立場の弱体化とは見なせないのではないだろうか。

第2に、全てを「家」で説明している観が否めない。女性は中世的な「家」が形成されていくに従い、「家」に従属する存在となって、公的立場を喪失して葬送から排除されたが、家妻権の確立によって葬送へ参加するようになった…というのはいちおう納得できるのだが、排除と参加の理屈の双方が「家」の事情であるというのは、少し奇異な感じがする。そもそも「家」は本来私的な存在であるから、葬送が対外的・社会的性格を持ったとしても、それが公式行事であるとは見なしえない。公式行事から女性が排除されることと、葬送から女性が排除されることは直結しないのではなかろうか。著者の主張はより論証が必要だと感じた。

しかしながら、第1の点も第2の点も、私はまだ「葬送とはつまるところ何なのか?」が未だ分かっていないから、そこから女性が排除される理由がピンとこないということなのかもしれない。例えば、古代中世の葬儀に友人は参加したか? 王家や貴族では「友人」のような素朴な存在はいないと思うが、武士の場合ではどうだったのか。こういう単純なことがまだわからないのである。

ところで、本稿では先述したとおり「凶事性・禍々しさ」が適用される範囲が曖昧であるが、それはともかく、「故人の遺体は愛惜の対象であり、それを穢や禍々しきものとして忌避してはいなかった」と指摘したことは重要に思う。著者は前著『日本古代中世の葬送と社会』において死体や葬送の「凶事性・禍々しさ」を指摘したが、私はこれを興味深く思いながらも腑に落ちない部分があった。親類の死体が禍々しいというのはちょっと不思議だからだ。

本稿の主題からは逸れるが、その点について自分なりに考えてみたところ、葬送・葬所は「不吉(凶)」であり、腐乱死体などは「恐ろしい」と認識されていたが、親類の遺体は「愛惜の対象」であった、と考えるのが、あまり現代と変わらず面白味はないが実態に即したものでないかと思う。平安時代後期以降は、陰陽師が大きな影響力を持ち、吉凶が必要以上にクローズアップされたのであるが、葬送を陰陽師がどう捉え、人々に何を指導したのか気になった。 

古代中世における女性と葬送の関わりを実証的にまとめた論文。

※史学雑誌 第129編第1号 2020 

【関連書籍の読書メモ】
『日本古代中世の葬送と社会』島津 毅 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/07/blog-post.html
日本の古代・中世における葬送の実態を再考する論文集。古代中世の葬送史の新たなスタンダードとなるべき労作。 

『女たちの平安後期――紫式部から源平までの200年』榎村 寛之 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/200.html
女性の存在に注目して平安時代後期を語る本。女院を通じて平安後期を別角度から見る興味深い本。 

『日本史の中の女性と仏教』吉田 一彦・勝浦 令子・西口 順子 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_29.html
古代と中世を中心に女性がどう仏教を信仰したか概説する本。女性と仏教の関わりを学術的かつ平易にまとめた良書。