2015年11月25日水曜日

『食と文化の謎』マーヴィン・ハリス 著、板橋 作美 訳

歴史・宗教・文化といったものからではなく、唯物論によって人が何を食べ、何を食べないかを説明する本。

インドでは牛が神聖視され食べられないし、一方イスラーム圏では豚が汚れたものとして忌避される。アメリカには馬はたくさんいるのにアメリカ人は馬肉を食べず、昆虫は西洋文明にとって身の毛もよだつ食材だ。ペットを食べるなどともってのほかと考える人もいれば、愛情たっぷりに育てたペットを食べるのは当然のことと考える人たちもいる。さらには、我々にとっては恐怖でしかない食人すら、全く公認されていた地域もあった。

こうした食文化の違いは、どうして生じたのか。これまでは、歴史や宗教の気まぐれ、そして合理的な思考ができない人々の遅れた考え方といったものがその原因ではないかと考えられがちだった。しかし、著者のマーヴィン・ハリスは、こうした一見つじつまが合わない食文化の多様性の背景には、そのものが食べるに適するか適さないかを支配するコスト・ベネフィットの構造、つまり合理性があるという。

例えば、インドで牛が食べられないのは、役畜として重要な役割を果たし、またミルクを供給しているから、 豚がイスラム圏で食べられないのは、中東に豚の飼育に適した森林が少なく、豚の餌が人間の食料と競合しているため、といった具合である(本書の説明を暴力的に簡略化しています)。つまり、その食料(になりうるもの)を生産・獲得するのに必要なコストと、それを食べることによるベネフィット(他の食料を生産しないで済むといったこと)を天秤に掛け、コスト・ベネフィットの帳尻が合うものは食べられるし、そうでないものは食べられないのだという。

著者の説明は、多くの場合非常に説得的である。人類学界では著者は「異端の人類学者」などと呼ばれ忌み嫌われているらしいが、私にとってはその論理は明解かつ合理的であって、別に「忌み嫌われる」要素があるとは思えなかった。それどころか、食の原価計算をするようなこうした無味乾燥で(!)唯物論的な考え方が、人類学の世界にもっと広まって欲しいと思う。

ただし、宗教的タブーに関する説明だけはちょっと疑問がある。例えば、インドでの殺牛のタブーである。インドでは牛は神聖なもので手厚く保護されており、牛を殺すことは重大な宗教的タブーであるが、それは著者の説明では牛を屠ることはインドではコストが高すぎるからだという。牛は棃を引いてくれる上に粗食に耐え、ミルクを出してくれる有り難い存在だから、食べることが罪になるというのだ。要するに、コスト的に引き合わないから殺牛はタブーになった、と著者は主張する。

これは一見もっともらしいが、「コスト的に引き合わないことをなぜあえてタブーにする必要があったのか」という新たな謎を生み、謎を謎で説明している感じがする。コスト的に引き合わないなら、別に禁止規定を設けなくても人はそれを積極的にしようとはしないだろう。実際、馬肉や昆虫食といった他の項目では、コスト的に引き合う時はそれらは食べられ、引き合わなくなったら食べられなくなる、といった説明がなされている。コスト的に引き合わないものをわざわざ禁止する道理はないのである。

ヒンズー教が牛を殺すことを重大な罪として禁止しているということは、禁止しなければ牛を殺して食べようという人たちが大勢いたはずだ。著者の言うことが正しいなら、そういう人たちはコスト的に引き合わないことを敢えてやろうとしていたということになるが、それはなんでなんだろうか。コスト的に引き合わないならそれは食べられなくなるのではないのか? これに対してはいろいろな説明ができることを承知してはいるし、本書にもそれなりに理屈を書いてはいるが、あまり説得的ではなく物足りなく思った。

もう一つの物足りない点は、本書で扱っているものが動物性タンパク質(要するに「肉」)ばかりで、野菜や果物、穀物といったものがほとんど登場しないことである。著者の主張はいろいろな食品に応用できるものだと思うので、肉以外の食品文化に「唯物論」を適用するとどのような説明が可能なのかは興味あることである。

タブーに関する説明は曖昧なところがあるが、食文化を経済面から解明する小気味よい本。

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2015年11月9日月曜日

『食の思想と行動』石毛直道 監修、豊川裕之 責任編集

本書は、「講座 食の文化」の一冊で、この叢書は味の素食の文化センターがやっている「食の文化フォーラム」の研究成果をまとめたものである。監修は、世界各地で実際に食べ歩いてフィールドワークをしてきた「鉄の胃袋」の異名を持つ石毛直道氏。

本書の構成は若干散漫なものである。元々、この叢書自体が研究の寄せ集めであるためさほど体系的でないが、「食の思想と行動」という大上段に構えたテーマからすると内容の方は少し物足りない。

まず、本巻の責任編集をしている豊川裕之氏の序章「複雑系としての食」は本巻全体に通底するパラダイム的なるものを示したものだが、これがあまりいただけない。多分、同氏は「複雑系」というものをあまり理解していないし、「複雑系」の視点によって食文化にどのような新たな知見がもたらされるのかも全く見通しがない。ただ、これまでの唯物論的・機械論的な食文化の分析だけでは解明できないことがある、と言いたいらしい。

しかし私の見るところ、食文化については唯物論的・機械論的な見方の研究すら端緒に付いたばかりの状況なので、こういう批判をしなくてはならない意味が分からなかった。

その他、「食の思想」を銘打つにはあまりに個別的な研究が多く、それぞれは興味深い部分もあるが全体としてまとまりがない。ただ、「食の思想」というテーマが非常に難しいものであるだけにしょうがないのかとも思う。しかしここに収録された多くの研究が、フィールドワークに基づいた具体的・帰納的・現実的な事実を蔑ろにしていて、理念的・演繹的・図式的な理解に留まるものであることは、そのテーマが「思想」であるにしても残念である。

「食」という非常に現実的な対象を扱うわけだから、あくまでも現実の食べ物を相手にして考察を行うべきであり、理屈をこねくり回すだけの研究はしてほしくない。確かに要素に分けていって分析するという旧来の科学の手法では、食文化という総合的な現象は解けないのかもしれない。しかし「食文化は複雑系なのだから、要素に分けないでありのままに考察すべきだ」というような主張からは、結局表面的な結論しか出てこないということが、本書により図らずも露呈した感じがする。

とはいえ、面白い論考も中にはある。「医食同源」は日本で作られた漢語だとして薬膳理解を促す「薬膳と医食同源の由来」(田中静一) 、日本での脚気研究の展開を見る「鷗外と高木兼寛」(山下光雄)、茶の湯がもたらした料理への影響を語る「つつしみの美—近世初頭にみる料理観の転回」(平田萬里遠)、日本近代文学における粗食派と美食派について語る「文学にみる粗食派と美食派」(大河内昭爾)などは面白く読んだ。

まとまりがなく玉石混淆な、食文化に関する論考集。

2015年11月1日日曜日

『今こそ伝えたい 子どもたちの戦中・戦後 小さな町の出来事と暮らし』 野崎 耕二 著

南さつま市万世に育った著者が、戦中・戦後の出来事を思い出して書いた画文集。

著者の野崎 耕二さんのことは、萬世酒造の展示施設「松鳴館」で知った。松鳴館は基本的には焼酎造りの見学をするところだが、最後のスペースに野崎さんが描いた絵が常設してあったのだ。芸術的にどうこうということはよくわからないが、昔の素朴な暮らしぶりが生き生きと描かれていて、すごく好感を持った(参考:南薩日乗の記事)。

本書は、その野崎さんがかつて執筆した『からいも育ち』という画文集を大幅に増補改訂したものである。私は『からいも育ち』を読んでいないのでどこが増補されているのか正確には分からないが、本書のあとがきによると「戦中・戦後のことを十分に伝えられなかったとの思いを、ずっと抱いてきました」とあるから、多分戦争の話が補われているのではないかと思う。

しかし著者が戦争を体験したのは主に小学校低学年の時で、10歳くらいの時の話なのに、よくここまでいろいろ覚えているものだと感心する。しかもエピソード的に覚えているだけでなく、記憶から呼び起こして絵まで描いているわけで、それだけ戦争というものが強く記憶に残る出来事だったのかもしれない。

本書では、「小さな町の出来事」が全て一人の少年(だった人)の視点で書かれている。戦争への批判もあるにはあるがそれは思い返してみればの話で、子どもの頃は意外と何もわかっていなかったということが率直に語られる。特攻というものを知らされずに学校で特攻隊の見送りをしたエピソードや、戦争が唐突に終わっていたという話(ラジオがなかったので玉音放送を聞いた人はほとんどいなかった)は当時の実情の象徴だと思った。

そしてそういう深刻な話があるかと思えば、かなりの紙幅を割いて当時興じた遊びの数々もいろいろと説明されている。松林で遊んだ思い出、虫や小動物を獲った思い出、大勢で遊んだ思い出、全てみずみずしく語られて、他人事ながらノスタルジックな気持ちになった。

それから、個人的な関心としては、やはり昔の農業のことがとても気になった。サツマイモ、小麦、大麦、米、カボチャといったものの栽 培方法がところどころで書かれていて興味深い。現在と違う部分もあれば、同じ部分もある。特にカボチャの立体栽培をしているのは大変気になるところで、な ぜ昔の人は敢えて立体栽培をしていたのか非常に疑問である。

万世の戦中・戦後を、一人の少年とともに追体験する本。

2015年10月25日日曜日

『李陵』護 雅夫 著

李陵の存在を手がかりにしながら、匈奴の社会について考察する本。

本書は、中島 敦の『李陵』に刺激されて書かかれたものである。 古代遊牧民族の研究者である著者は、中国人としての李陵の生き様だけでなく遊牧騎馬民族の視点も加えて李陵のことを語ってみたくなり、この書をものしたという。

李陵は、漢の武帝の厚い信頼を受け、軍隊を率いて匈奴と戦ったが、行き違いや勘違いから匈奴に寝返ったと誤解され、親族を誅殺されてしまう。 これに激怒した李陵は、その本心では漢へ戻りたかったにも関わらず、本当に匈奴へと寝返り、以後匈奴の忠臣として栄達することになる。一方、同じような境遇にあって匈奴へは寝返らず、あくまで漢の臣すなわち敵国人として匈奴の地で辛い生活に耐えた蘇武との鋭い対照もあって、李陵の物語は永く中国大陸で語られてきた。それ恰も、我が国における判官伝説のようなものであるという。

著者はこの物語の背景にある匈奴と漢の関係、言い換えれば遊牧民族国家と農耕民族国家の関係を考察する。李陵は、ただ匈奴へと投降したのではなく、単于(ぜんう)からの誘いを受けて匈奴の将軍となっているが、敵国人を将軍にするというのはどうしてか。

しかも独り李陵のみではなく、意外と多くの漢人が匈奴へと亡命し、匈奴社会において軍人や官僚として栄達の道を歩んでるのである。李陵も単于の娘を娶っており、相当な権勢を誇っていたようであるし、彼らは現代社会での亡命者のイメージとはかなり違う。

そして、それは漢人が優秀だったから遊牧民族社会で成功した、ということではおそらくない。それよりも、単于は積極的に漢人をリクルートしてポストを準備しており、かなりの数の漢人が匈奴に亡命して住んでいたらしいことを考えると、匈奴の社会構造自体が、亡命漢人の存在を前提にしたものだったように思われる。

なぜ匈奴の社会は亡命漢人を必要としたのか? 著者の考えはこうである。匈奴は文字を持たなかった。しかし広大な匈奴を文書を使わずに治めていくのは困難で、人口や生産力の把握といった基本的なことでも、文字がないととても管理しきれない。そこで漢人を官僚として使い、支配機構に組み込むことで国家体制を維持していたのではないか。

とするなら、匈奴と漢の戦いというと、遊牧民族と農耕民族の争い、というように見がちなのだが、それは妥当な見方ではなく、匈奴は遊牧民族と農耕民族のハイブリッドで出来た国家であり、漢なかりせば匈奴もなかったということになる。

ところで本書のエピローグは、まるで本編とは違うテーマのことが書かれていて、唐帝国と突厥、そしてそこに活躍したソグド人たちについて述べられている。実は私が本書を手に取ったのは、まさに護 雅夫がソグド人に深い関心を寄せていたからで、李陵を中国史からの視点だけではなく、中央アジア史からの視点から書いているのではないかと期待したからであった。

著者がエピローグでソグド人に触れているのは、突厥を内部で支えて(あるいは操って)いたのがソグド人だったからであり、突厥が遊牧民族とソグド人のハイブリッド国家であったとするなら、匈奴も遊牧民族と漢人のハイブリッド国家であったといえぬこともなかろう、と傍証する意図のようである。

本書は漢文に親しんだ人でないとちょっと読みにくいところがあり(読み下し文にはなっているが)、地の文も文語体になっているところがあって(中島 敦の影響だと思う)、そのテーマもやや専門的なので少し取っつきにくい本である。しかし遊牧民族国家というものを考える時、面白い切り口を提供していると思う。

文学でなく史学として李陵を考察した真面目な本。

2015年10月1日木曜日

『ハイパー・インフレの人類学:ジンバブエ「危機」下の多元的貨幣経済』早川 真悠 著

ジンバブエで著者が経験したハイパー・インフレについて見聞記的に語る本。

著者はジンバブエの大衆音楽の人類学的研究をするために同国へ滞在していた。そこで図らずもハイパー・インフレーションという異常事態を経験して音楽の研究どころではなくなり、研究テーマを急遽ハイパー・インフレに変更、ハイパー・インフレ下という混乱の中を自ら生きながら、社会がどのようになってしまうのかを現地で見つめ、博士論文として書いたのが本書(の元になったもの)である。

こういう言い方は不謹慎だが、ハイパー・インフレ下の社会の混乱は、はたから見る分には面白い!

ジンバブエのハイパー・インフレはもの凄いもので、2008年7月の公式統計では月間2600%ものインフレとなっていた。その後インフレがすさまじすぎてインフレ率を計算することもできなくなり公式統計が停止。インフレ末期の2009年11月では何と月間769億%ものインフレとなっていたと推計されている。これは年間インフレ率にすれば897垓(10の20乗)%という天文学的数字になる。

ここまで来ると「ものの値段が上がる」とか「お金が減価する」というような甘いものではなく、「経済自体が解体」されていってしまう。本書は、経済がどのように解体されていったのか、ということの観察が主要なパートになっている。

インフレも月間インフレ率50%〜150%あたりをうろうろしていた2007年頃は、人々はそれなりに対応していた。それどころか、こうした混乱を商機として零細な商売が活発にすらなった。サラリーマンや公務員は月給制であるためインフレには脆弱だが(何しろ1ヶ月で給料の価値が半分程度になる!)、その日暮らしの零細商売の場合は逆に強いからだ。

そして政府がインフレをコントロールしようとする価格統制などの措置が、さらに公式経済を衰退させた。実質的にインフレしているのに、価格統制されたら商売あがったりなわけで、スーパーマーケットからは商品が姿を消し、生活必需品にすら事欠く有様となった。こうした中、人々は露天商や闇市といった「非公式経済」に頼るようになり、携帯電話の通話カードを売る露天商が公務員やサラリーマンにお金を貸すようにもなってゆく。

インフレとは、ただお金の価値が減じていくだけではない。ジンバブエでは深刻なお札不足にも陥った。ジンバブエのお札はドイツの会社が印刷していたが、EUによる制裁措置(選挙での不正への罰則)としてドイツからお札を仕入れられなくなった。預金しておいてもどんどんお金の価値が下がってしまうので、インフレ下ではただでさえ人々は預金ではなく現金を持ちたがる。しかし現金を引き出そうとしてもお札が足りない!

これに対し政府は預金の引き出し制限を実施。引き出し上限額は当初はそれなりに合理的だったが(約60米ドル/日)、やがてインフレに応じて引き出し上限額をどんどん引き上げても追いつかなくなり、2008年7月には、1日の引き出し上限額では新聞を1部買うこともできなくなるという有様(1.1米ドル/日)。これでは給与生活者は、たとえ毎日銀行に並んでも生活に必要なお金を手に入れることが全くできなくなったのだ。

こうしてジンバブエでは預金と現金が「非公式には」全く違うものとして扱われた。額面価格は同じでも、預金でのお金と現金でのお金では、現金のお金の方が高い価値を持つものとされた。つまり現金と預金の間の闇の為替レートがあったわけだ。さらに、外貨との為替レートも公式レートと闇レートがあって、さまざまな価値尺度に公式と非公式が入り交じり、ものの価格を表すのに、預金ならいくら、現金ならいくら、外貨ならいくら、と様々な表現手段が用いられた。

このようになってくると、なぜ人々は価値の安定している外貨を使わないのか、という疑問が生じる。ジンバブエドルを手に入れたら、それをすぐに米ドルに替えるのが合理的な気がするが人々はそのようにはしない。本書のテーマの一つは、価値がすさまじい速さで減じていくジンバブエドルを人々がいつまでも使い続け、外貨経済に移行しないのはなぜなのか、ということである。

ただ、これについては現地の状況を見てみるとそこまで不思議なことでもないらしい。というのは、外貨はその経済にとって例外的な存在で、いくら価値が安定しているといっても人々はそれを普段の生活で使うものとは見なしていない。そしてそれ以上に、外貨は絶対的に不足しているということがある。例えば米ドルを使うにしても、1米ドル札だけでは事足りない。1枚の1米ドル札に対してずっと多くのおつりの貨幣が準備されていなければ、商売は成り立たないのだ。しかし外貨の小額硬貨をまとめて入手するのは困難だ。銀行ではジンバブエドルですら僅かずつしか引き出せない状況だというのに! おつりを準備することができないという現実的な問題から、草の根の自主的な対応としての外貨への移行は決して簡単なものではなかったのである。

やがてジンバブエのハイパー・インフレは、天文学的領域へと突入していく。本書の白眉がここだ。

あまりにもインフレ率が高くなりすぎ、商店では1日に3度も価格を付け替えるようになる。そして誰も本当のジンバブエドルの価値がわからなくなり、ものの値段もつけられなくなっていくのである。価値が変動しているのは「お金」だったはずなのに、「ものの価値」の方も解体していってしまうのだ。

それはこういうことだ。例えば、タバコ1箱というのは、それなりに安定した価値があると見なせるだろう。タバコ1箱が500円だったとして、それが翌月に1000円に値上がりしたとすると、お金の価値は半分になったと考えられる。これが普通の「ハイパー・インフレ」の世界である(ちなみに、ハイパー・インフレとは月間インフレ率が50%以上のインフレのこと)。しかし翌日に1箱が1500円になり、その次の日に3000円になるような世界だったとするとどうだろう。商店主は、400円で仕入れたタバコをいくらで売れば商売が成り立つのか、それすら分からなくなる。今そのタバコの価値はどれくらいなのか、売っている本人の方も知らないという事態が生じるのだ。

そうなると、タバコの価値はもはや客観的には決められない。首尾一貫した価格付けはもうできないのだ。タバコを売ってくれという客が、どれだけ切実にタバコを求めているか、商店主がタバコを早く現金化したいと思っているかどうか、そういったことの総体として暫定的にタバコの価格が決まるのである。だから、タバコが1箱500円の時に、横に置いてあるティッシュペーパーが4000円もする、というような奇妙な事態が起こりうる。要するに、価格付けはめちゃくちゃになって、その場しのぎでしか価格が決まらなくなってしまうのだ。

価格がめちゃくちゃになるということは、ものの価値が人間関係やその場での状況に寄るということである。もうこの段階にまで来ると、人々は持ちつ持たれつでお金ともののやりとりをするようになって、ジンバブエドルの「存在」そのものが無価値になっていく。お金によって作られた価値体系が崩壊して、人間関係と社会的文脈による価値体系が澎湃として沸き上がってきたのだ。それでなくてもジンバブエは、インフレ・もの不足・金不足のために、人々は路上で、職場で、どこででも、立ち話をして情報交換をし合う社会になっていた。今日牛乳を売っているのはどこか、今の闇為替レートはどれくらいか、乗り合いタクシーに乗るのに今日はいくらかかるのか。それに社会階層は関係なかった。露天商、公務員、サラリーマン、知っている人も知らない人も、普段は交わることのない人々がごた混ぜになり、ある意味で社会が一体化したのである。

その頃になるとインフレが激しすぎて零細商すら没落。社会全体が混乱の渦に巻き込まれどうにもならなくなり、政府は外貨を公式に認めてインフレが終熄(ジンバブエドルも引き続き公定通貨ではあったが実質上廃止)。

それによって社会はどうなったか。これまで路上で長話をしていた人はいなくなり、これまで親しげに話していた露天商とサラリーマンはまた他人のようになってしまった。人々を結びつけていた何かはもうなくなって、何も面倒なやりとりをしなくてもお金が決める価値によってスムーズに取引ができる社会になった。もちろんそれはいいことだ。牛乳一本買うために、人間関係がどうだこうだ、という社会はいやだ。しかしジンバブエの経験した一時期は、「お金の存在そのもの」に対して鋭い問題提起をしているように見えてならない。

本書は、出版社の紹介文によれば「一元的貨幣論に縛られた経済学への反論」だそうだが、そんなつまらないものではないと思う。著者は(専門ではない)経済学の勉強は実直にこなした印象があるが、経済学的な分析についてはさほどのことが書かれていない。もちろん人類学的な分析というのも深くはなく、見聞記のレベルを出ていない。しかし単なる見聞記だからこそ、お金というものが社会をどう形作っているのかまでも垣間見た気がする。著者自身の深い洞察というものはないが、実体験した人だからこそ書ける貴重な記録である。

ハイパー・インフレを通じて「お金の存在そのもの」の意味を考えさせられる面白い本。


2015年9月24日木曜日

『万能人とメディチ家の世紀―ルネサンス再考』池上 俊一 著

フィレンツェの万能人アルベルティとメディチ家のあれこれを述べてルネサンスの雰囲気を説明する本。

本書の内容はあまりまとまりがない。タイトルが「万能人とメディチ家の世紀」であるが、万能人の活躍について体系的に述べるでもないし、メディチ家の繁栄について詳しい説明があるわけでもない。ただ万能人とかメディチ家といったわかりやすい言葉を軸にして著者の考える「ルネサンス」をとりとめもなく語っていくというようなスタイルである。

もちろん章立てはちゃんとあるし、著者なりの主張もあるのだが、それが体系的に示されるということがなくて、書きたいことを書いているという感じである。

また文章もよくない。悪い意味で「文学的」であり、文飾には大変力が入っているが、それが虚飾になってしまっている。表現に具体性がなく理念的・概念的・総論的な説明が多い。大体の雰囲気を摑もうという本だから、それでいいのかもしれないが私には物足りなかった。

著者がのお気に入りの万能人といえるアルベルティ(レオン・バティスタ・アルベルティ)に関してはかなり詳しい説明がある。伝記的な情報だけでなく、アルベルティの著作の紹介も1次資料をちゃんと読み込んで真面目に書いている印象でそこは好感を持つ。

でもやはり書きたいことを書いている、というようなつまみ食い感があるのは否めない。アルベルティがどうして重要なのか、というのが最後までよくわからなかった。その後のルネサンスの「万能人」の原型になったのがアルベルティだ、というのがポイントなんだろうか? それとも様々な著作を通じ後世の人に影響を与えたということ? いろいろ書かれてはいるものの何だか頭にスッキリと入ってこない構成の本である。

アルベルティとメディチ家を巡る、エッセイ的な本。

2015年9月9日水曜日

『砂糖百科』高田 明和、橋本 仁、伊藤 汎 監修

砂糖についての科学的知識を網羅的に提供してくれる本。

本書は、砂糖の業界団体である社団法人糖業協会が発行したもので、数多くの執筆者により専門的事項がまとめられたまさに『砂糖百科』の名にふさわしい本である。砂糖は人間の主要なエネルギー源であるが、甘い=嗜好品というイメージから様々な面で不当に不健康なものだという扱いを受けてきた。本書は、そうした非科学的な俗説を退けるだけでなく、砂糖に関する科学的で正確な知識を提供してくれるもので、業界団体が出しているものだけにちょっと身内びいきな点はあるが、概ね公平・中立的な記述となっている。

以下、読書メモとしてはやや煩瑣になるが各章の内容を紹介し、印象に残った点について述べることとする。

第1章は「砂糖と栄養」。糖質が体内でどのように消化・吸収されて、やがて代謝されエネルギーとして消費されるかをかなり詳細に記述する。

糖質は炭水化物の一種であり、栄養的には炭水化物と等価である。このことは砂糖を考える上での基本定理とも呼ぶべきものであるが、つい閑却しがちである。炭水化物は体内で消化されて糖として吸収される。砂糖たっぷりのお菓子は体に悪く、白いご飯は体によいというのはイメージだけのことで、実際には栄養の面で見ればどちらも糖なのである。そして糖は人間の主要なエネルギー源として非常に重要だ。血糖値は半分ほどになってしまうと昏睡状態に陥ることもあり、血液中の糖分は常に一定濃度に保たなくてはならない。

しかも糖分は主要エネルギー源であるにもかかわらず、体内にあまり貯蔵できない。だから我々は継続的に糖分(炭水化物)を摂取する必要があるのである。しかし常に糖分が潤沢に補給されるとは限らない。そうして食間などに血糖値が低下した場合は、人間の体はアミノ酸やピルピン酸からブドウ糖を合成さえもする、つまり体内で糖を製造するという仕組みがあり、これを「新糖成」という。エネルギーをあえて使ってもブドウ糖を合成せざるをえないくらい、糖分というのは体にとって欠くべからぬ栄養素なのである。

第2章は「砂糖と健康」。砂糖が健康を害するという様々な俗説を取り上げ、そのうち代表的なものについて科学的に反駁する。

例えば、砂糖は酸性食品(摂取すると体が酸性になる)だとか、 砂糖は骨を溶かすとか、甘いものを摂りすぎると子どもがキレやすくなるとか、白砂糖は漂白されているので体に悪いとか。こうしたことには科学的な根拠がないことを丁寧に説明する。

また砂糖を食べると急に血糖値が上昇してよくない、というのも実は俗説で、砂糖の血糖指数(食べ物がどの程度血糖値を上昇させるか、を白パンと比較して表した数字)は、実はバナナ(94.5)とパスタ(83)の間の88.5で、特に血糖値の上昇が早い食品ではない。それどころかこれは白パン(100)よりも低く、またこれが高い食品としてニンジン(119)がある。早く血糖値を上げて空腹感を抑えたいということがあれば、甘いものを食べるよりもニンジンを食べた方がよい。

また砂糖が肥満の原因というのも間違いで、砂糖(ショ糖)の100gあたりカロリーは387kcalで、ヘルシーなイメージがあるそば粉(364kcal)と大差ない。国民全体の砂糖摂取量と肥満率には関係がなく、運動不足の方がはっきりとした関係がある。さらには砂糖が糖尿病の原因となるということもない。ただし砂糖は虫歯の原因となるというのは俗説ではなく、本書では業界に気を使っているのか曖昧な書きぶりになっているが(本書ではなぜか俗説に分類されている)、甘いものを間食するのはやっぱりよくないらしい。

第3章は「砂糖と味覚」。砂糖の甘さはどう感じるか。様々な糖質の甘さを相対的に比べた指数である「甘味度」を紹介し、糖質ごとの甘味度の特徴を述べる。

「甘味度」とは、ショ糖を100(1とする場合もある)として、食品の甘さを比べたもので、例えばブドウ糖は64〜74、マルトースは40、キシリトールはショ糖と同じ100、ソルビトールは60、といった具合である。「最も甘い糖」と呼ばれることもある果糖(フラクトース)は115〜173。

果糖の甘味度にどうしてこんな幅があるのかというと、立体構造の差などによって同じ糖質でもα型とβ型で甘味度が異なるからで、α−フラクトースの甘味度は60、β−フラクトースは180である。

興味深いのは、こうした糖質を混ぜた時の甘味度が、単純にその平均の甘味度にはならないことで、ブドウ糖とショ糖を混ぜると相乗効果により甘味度が増すことが分かっている。果糖とショ糖も混合すると甘味度が10%ほど上昇する。

さらに、甘味度は温度によっても変化する。ショ糖は温度によってほとんど甘味が変化しないが、果糖やキシリトールは温度が低い方が甘味度が増し、逆に40℃以上の高温になるとショ糖より甘味度が低くなってしまう。

この性質は、清涼飲料水において甘味が「ブドウ糖・果糖・液糖」(液糖はショ糖)という複合材料によってつけられていることをうまく説明する。冷やして飲む清涼飲料水の場合、低温で甘みが強くなる果糖と相乗効果を生むブドウ糖・ショ糖を混ぜることで少ない糖質で強い甘味を感じられるようにし、糖質の量を節約しているのである。

第4章は「砂糖の種類」。砂糖の工業的な分類を紹介する。本章についてはカタログ的な記述である。

第5章は「「糖」とは」。種々の「糖」について化学的に解説する。糖の構造、定義、異性体、アルドースとケトース、 ピラノースとフラトースなどについて。

糖は分子式CnH2mOmで表される物質で、その分子構造にヒドロキシ基(-OH)を2つ以上持ち、アルデヒド基(-CHO)またはケトン基(>C=O)を持っている。糖は鎖状構造の時もあれば環状構造の時もあり、分子式構造式は同じでも多くの異性体がある。またそれらが結合して二糖、三糖、そして多糖類も形成される。本章では、こうした複雑な科学的性質について述べる。

第6章は「光合成」。光合成の仕組みをかなり詳しく解説した後、光合成によって糖がどのように生成されるかを述べる。

本章は、砂糖百科の内容から少しはみ出ている印象がある。要するに、光合成によって生みだされたエネルギーの貯蔵物質として糖があるということが言いたいようであるが、C4回路(普通の植物の光合成に比べて効率がよい光合成の方式)みたいなことは砂糖を理解するには必要ないような気がする。

第7章は「砂糖の製造法」。甘蔗糖、ビート糖、精製糖について製造法を工業施設のレベルまで解説する。

 砂糖はありふれた食品であるがその製造法はあまり知られていない。甘蔗糖ならサトウキビから穫れたジュースを煮詰めて精製するという概略は分かっても、どのように濃縮していくのかといったことは知らなかった。本章は業界団体の出版の本領発揮とも言うべき章で、製造方法について明解に知ることができる。

ところで狂牛病騒ぎの時、砂糖の業界団体が「骨粉が輸入されないのは困る」みたいなことを言っていて、その時は「どうして砂糖製造に骨粉が必要なのか」と思っていたが、その謎が解けた。骨粉は、焼成して骨炭にし、砂糖の不純物の除去に使っていたのである。

白砂糖は漂白されているから体によくない、というのは先述したように根拠のない俗説で、白砂糖やグラニュー糖は、砂糖から徹底的に不純物を除去して作っているだけで漂白はされていない。砂糖の純粋な結晶は無色透明で、これが粒になっているから粉末が白く見える。

ではどうやって不純物を除去するのかというといくつか工程がある。まず糖液に石灰乳と炭酸ガスを吹き込んで溶液中の不純物を析出させる。次に骨粉から作った骨炭を通し、不純物を吸着させる。これは活性炭で浄水するのと原理は同じだが、コスト的な問題で骨炭が使われている。この工程でほとんどの不純物が除去され脱色される。さらに色素成分を除くため脱色用イオン交換樹脂に通される。糖液に含まれる色素成分には陰イオン性のものが多いのでこうしたイオンを選択的に吸着するのである。その後セラミックフィルターに通し、紫外線によって殺菌して精製が終わる。このようにして白い砂糖の原料となる無色透明な糖液が得られているのである。

第8章は「砂糖の特性」。砂糖の物理・化学的な特性を述べて、調理における種々の性質や食品加工において有用な性質について述べる。

物理的な特性については、密度、屈折率、溶解性、粘度、沸点、凝固点降下、浸透圧などが説明され、化学便覧的な記述である。化学的な特性については、まず加熱による変化を説明する。砂糖をうまく加熱するとカラメルができるのだが、これはどういう化学変化によるものだろうか。実は、カラメル化の化学変化は完全には解明できていないそうだ。加熱によって複雑な化学変化が起こり、非常に他種類の揮発性の生成物が生まれるということだ。カラメルとはかなり複雑な物質の集合だそうである。

もちろんカラメル化する前の変化もドラマチックで、色や粘性や水中での挙動がどんどん変わっていく。温度によってこのような微妙な変化をするからこそ、加熱程度をいろいろに調整することでお菓子や料理に砂糖だけで違った風合いをつけることができるのである。

次に酸がある状況でショ糖が加水分解しブドウ糖と果糖に分解されていくことを述べる。つまり有機酸がある溶液中では次第にショ糖がこのように分解されていくわけで、酸っぱいジャムやシロップを保存しているとだんだん味が変わっていくのはこのためではないかと思った。

次に話は調理における砂糖の使い方になる。お料理する上での実践的な砂糖の性質が説明されているのは本書ではこの項目だけである。といっても砂糖の使い方を教えてくれるわけではなくもっと一般的な性質について解説している。

例えば、砂糖は食品のテクスチャーを保つ。軟らかい羊羹を軟らかいまま保ったり、アイスクリームやマシュマロのように泡が内包されている食品の泡が崩壊しないできめ細かい泡のまま保持されるのは砂糖のお陰である。これらは砂糖の親水性(水を保持する性質)による。

また砂糖には防腐性もある。水を保持することで細菌が使える水(自由水)を減らすのだ。なんだか砂糖が入ったものはカビやすいというイメージがあるがそれは逆である。

さらに砂糖は芳香を保持する効果もある。食品の揮発性芳香成分はどんどん失われていくが、砂糖があれば砂糖が芳香成分を吸着してその香りを長く持続させる。

そして、砂糖は食品の造形性にも深く関わっている。つまり粘りや固さを調節したり、かさやボリューム感を持たせる(先述したような泡の保持などの面で)といったことにも使われる。しかもそれを、煮詰める温度のような簡単な調整方法によって様々に変えることができる。この造形性が食品としての砂糖(ショ糖)が優れている理由の一つである。他の甘味料、ブドウ糖、水飴、ソルビトールなどの場合は、味覚の他にテクスチャーの調整を別に考慮しなければならない。

さらに砂糖の乳化保持性、デンプン老化の防止効果などに言及して本書は終わっている。

本書はISBNが取得されておらず、取次−書店の流通を経なかった本であり、基本的には図書館にしか置いていない。 内容は極めて専門的で、確かに一般の人が読みこなすのは大変だ。しかし科学的に信頼できる内容で、それこそ百科事典的に興味のあるところだけ読むのでもかなり参考になると思う。

砂糖についてたった一冊で深く知ることができる本。