2024年11月30日土曜日

『葬式仏教』圭室 諦成 著

仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。

日本では、葬式と言えば仏式と相場が決まっているが、日本に伝来した元来の仏教は葬式を行うものではなかった。それが葬式を行うようになった次第については、今では多くの研究が蓄積されている。本書はそうした研究の嚆矢となった、最も早くまとめられた葬式仏教論である(昭和38年(1963)の出版)。

なお、「葬式仏教」の語は、今では「葬祭だけを担う精神性を失った仏教」という批判の意を込めて使われることが多い。この語は本書によって広く知られるようになったのだが、実は本書ではそういう意味はなく、単に「葬式を担う仏教」という言葉として使われている。

ただし、「葬式仏教」に対する著者の見方は両義的だ。葬式を担うようになってはじめて仏教は民衆的なものとなりえた、という肯定的な評価をする一方で、はっきりとはそう書いていないものの、それが本来の仏教の在り方からは逸脱したものだという語気も感じられる。その背景に、著者は曹洞宗の僧侶でもあるということが関わっていそうである。

「第1部 政治と宗教」では、まずそもそも宗教とは何かが政治や国家との関連で述べられる。ここでは、神話が支配者にとって都合よく作為されたものであったことが糾弾されるような調子で主張されている。ここで著者が強調することは、宗教というものも作為の産物であるということだ。ここは葬式仏教を語る上ではあまり必要ないように思ったが、戦時中には宗教(国家神道)が為政者にいいように利用されたのだという怒りがこのような内容を書かせたのかもしれない。

さらに、神仏習合や本地垂迹説が触れられるとともに、僧侶や教団が世俗化・貴族化し堕落していったことが述べられる。著者はそれを「宗教として失格」とまで断じている。辻善之助の『日本仏教史』では、ことさらに近世仏教の堕落が強調されたのだが、本書ではさかのぼって平安仏教までが堕落していたとされている。

そして堕落した仏教界から抜け出たのが遁世僧と呼ばれる存在である。その先駆者として教信沙弥、空也、空阿弥陀仏などが取り上げられる。しかし遁世僧に対しても著者は批判的だ(!)。それは、(1)彼らの態度が逃避的でひたすら浄土往生のみに執心している、(2)苦行にこだわって、肉体的な苦痛に耐える以外の修行の形式を見出さなかった、(3)遁世するにも生活費は準備しなくてはならず、貧乏人には遁世者になれなかった、という理由からだ。遁世僧は総じて非社会的であったため、「社会不安がとりのぞかれると霧消すべき運命にあった(p.60)」。

葬式仏教の端緒を開いたのは、恵心僧都源信である。本書では彼の『往生要集』が詳しく紹介される。それが臨終に大きなウェイトを置いており、その実践として彼が二十五三昧講を組織したことが仏式の葬式を推し進める契機となった。

「第2部 葬式の展開」では、各宗派での葬祭の成立が述べられる。

まず葬祭や墓の民俗が概観される。そこには死霊を恐れて封じ込める意図と死者を悼む意図の両方が見られる。次に縄文時代からの葬法を振り返り、仏式以前の葬法がいかなるものであったか述べている。

まず天台宗の葬送について史料に基づいて述べているが、特に1036年の後一条天皇の葬式は興味深い。それは念仏→呪願→荼毘+念仏→土砂加持→骨を拾って寺に納骨、というものである。念仏僧が活躍していることとと、墳墓ではなく寺に納骨しているのが特徴的だ。天皇家は仏式の葬儀を最も早く受け入れており、ここでは御一条天皇以降の天皇の葬儀・納骨の例がまとめられている。

次に真言宗については、光明真言によるによる土砂加持と葬祭を述べている(しかしこれはむしろ律宗の特徴かもしれない)。真言宗では過去帳が重視され、また高野山では11世紀末から納骨の勧めが盛んになされるようになった。

次に浄土宗・浄土真宗。天台・真言に比べるとこれらは民衆に浸透するのがずっと早かった。『今昔物語』の「播磨国印南野において野猪をころした語」では、浄土教の葬祭が農村に浸透していた様子を窺うことができる。

次が禅宗である。中国の禅宗では、儒教の影響を強く受けて葬法を整備した。古い形は1103年に編纂された『禅苑清規』に見える。これでは「尊宿」と「亡僧」の葬法の2つを述べている(「尊宿」とは「仏法の真理を体得した僧」で「亡僧」とは「修行の途中で亡くなった僧」)。「禅宗の葬法が完成した12世紀は、中国の葬法のうえでも、そのピークの時期であった(p.122)」。この時期に司馬温公は仏教の葬祭を批判し、朱子は『文公家礼』を著して儒教の葬法を整備している。

さらに日本の禅宗での葬法を詳細に述べているが、日本の禅宗では僧侶だけでなく武家や庶民の葬法も担うようになっている。この中では、尊宿葬法で故人の肖像画を須弥壇の上にかける作法が興味深い(在家では棺の前に肖像画をかける)。これは現代の遺影の原型にあたるものだろう。ここで著者は面白い分析をしている。禅語録から座禅関係と葬祭関係のページ数を調べているのである。それによれば、臨済宗でも曹洞宗でも、13世紀には座禅関係が圧倒的だったのに、15世紀では葬祭関係が主になっているのである。禅宗は15世紀には葬式仏教になったのである。

「第3部 追善と墓地の発想」では、死者の冥福を祈る追善の仏事が徐々に肥大化していったさまを宗派ごとに述べている。

葬祭が魂をあの世に送るだけであれば墓は必要ないが、日本人はその魂がいつまでもどこかにとどまっていると感じ、ある程度の期間の祭祀を必要とした。つまり墳墓および追善のための法要や施設を設けたのである。その一つが五輪塔や宝篋印塔といった石塔である。

追善のための法要では、四十九日の仏事は10世紀頃から盛大に行われるようになり、百か日・一周忌・三年忌に加えて、様々な仏事が行われるようになった。平安時代ころには一周忌で終わっていたのが、鎌倉時代に入ると三年忌が行われるようになり、次第に追善は長期化した。

これは中国における仏事の長期化に対応していた。実は11世紀の中国では葬式・七七日・百か日・一周忌・三年忌という葬制が定まっていたのである。中国では偽経『十王経』に基づいて10回の仏事「十仏事」が確立していた。日本でも偽経『地蔵十王経』が創作された。これらにより、(1)初七日:秦広王、(2)二七日:初江王、(3)三七日:宋帝王、(4)四七日:五官王、(5)閻魔王、(6)六七日:変成王、(7)七七日:泰山王、(8)百カ日:平等王、(9)一周忌:都市王、(10)三年忌:五道転輪王、というように、追善の仏事とその主宰神が対応させられた。面白いのが、それぞれの仏事において「本来は地獄行きだが、追善の功徳によって次の王のところへ送られる」という先延ばしがなされることである。

さらに、12~14世紀頃には、七年忌、十三年忌、三十三年忌を加えて十三仏事となった。16世紀には、十七年忌、二十五年忌を加えて十五仏事という言葉も見えるようになる。しかし本来、仏教では中有の期間(49日)を過ぎれば転生して次の命となるはずで、こうした長期間にわたる仏事は仏教教理上では位置づけられない。光厳院が1332年の日記で「後嵯峨院以後代々すべてこのことなし。よって不審の間、由緒ならびに先例を忠性、憲守らに相たずぬ」としているのは面白い。こうした疑問に答えるために『地蔵十王経』が加工されて『十三仏抄』が15世紀ごろに偽作されているが、結局、なぜそうした偽経を作ってまで追善を長期化させたのかといえば、「信者の宗教心理をたくみに利用して、寺院がわが、追善の回数をふやしたまでのことである(p.173)」と著者は冷ややかだ。

ただ、そこには「信者の宗教心理」すなわち、死者を長く弔いたいという需要に基づいていたわけで、民衆の気持ちに寄り添っていたともいえる。さらに祥月と月忌が庶民の間でも一般化した。故人への仏事の回数はひどく増加したのである。

また、中世後期からは仏教は幼児の死に強い関心を持ち始めた。7歳までは死去しても仏事は行わないというのが普通だったのに、徐々に幼い子供にも仏事が必要であるとみなされ、「賽の河原和讃」(一重つんでは父のため…)も作られた。これは経典には全く根拠はない、民間信仰である。

このようになると、寺院経営は庶民の葬祭なくして成り立たなくなった。真宗では、念仏を唱えれば往生するという理念と追善とは両立せず、当初は追善を拒否していたが、蓮如に至って十王信仰を全面的に肯定し、追善の功徳を強調する「御文」を書いた。だがその中でも「三十三年なんどまでも、その追善をいたすことは、聖教のなかにあきらかなる説なしといえでも…」と書いているのは興味深い。蓮如としては追善に前向きではなかったが、それを求める庶民の要望に応えたいという気持ちがあったようだ。葬式仏教化は、仏教の庶民化でもあったのである。

ここで、日蓮宗と天台宗の庶民化について述べ、天台宗は特に庶民化が遅れたとしているが、その評価がまた辛辣である。曰く「天台宗は、その独自の葬法をすてて、浄土宗・真言宗・禅宗の葬祭儀礼のなかで、社会的に好評なものを採りいれて、あたらしい、ただし個性のない、万人向きの葬祭法をつくりあげた(p.188)」。

さらに流行した仏事として逆修と施餓鬼会が取り上げられる。特に施餓鬼会はなかなか類書では取り上げられない内容で面白い。施餓鬼会は平安時代から行われていたが、特に室町時代に追善の方法として流行した。施餓鬼棚の壇上に安置する位牌を「三界万霊牌」というが、三界の「霊」「幽霊」の冥福を祈るというのが仏教教理の上でどう位置付けられるのか謎だ。この頃、武将は戦争が終わるごとに大施餓鬼会を催しており、それは慈悲の心といううより「亡魂のたたりを封ずる呪術(p.198)」の面も大きい。敵味方を区別せずに供養するのも敵の死霊のたたりを恐れたからだと、いくつかの実例を引いて示している。その背景には、不遇な死に方をしたものは、必ずたたるという信仰があった。

さらに、盂蘭盆会、彼岸会について取り上げている。特に彼岸会は完全に日本製の仏事で、その初見は806年の崇道天皇のための仏事である。

「第4部 葬式仏教の課題」では、近世および近代の仏教がいかに展開したかが述べられる。

「葬式、仏事の普及版が一応完成したところで、1467年いわゆる応仁の大乱という、画期的大事件を迎えた(p.211)」。そして諸寺院は郷村に根を下ろし、農村の機構に深く浸透していったようである。寺院構成は「郷村の、自治的・惣的結合の確立過程に、照応する(p.257)」。

ここで本書では、宗派ごとの伝道についてまとめている。その詳細は割愛するが、要するにそうした運動の結果、1467年から1665年までの200年の間に、現在の寺院分布の大筋が出来上がったのだという。

次に近世~近代の寺院分布についてさまざまな史料によって述べている。ここで興味深いのは、別当寺(本書の見方では辻堂・神社などに寄生して成立した寺院)や山伏に注目しているところである。なお地域としては、東京、足利、会津、米沢、高山、能登、人吉が取り上げられる。これらの地域で、どんな寺院が建立されまた維持されたかを検証してみると、農民が仏教に求めていたものは、葬祭と治病だったということが言える。

江戸時代には檀家制度が作られ、全ての人はいずれかの寺院に所属させられることとなった。「宗門寺壇那請合の掟」は、檀那寺への奉仕を果たさなくてはならないという偽作の掟であるが、形式的に檀那寺に所属しなくてはならない以上の義務感を庶民に喧伝した。檀家制度には庶民から寺院が収奪するという弊害や、僧侶がその地位に安住して堕落するという問題が生じ、それらは様々に記録された。だが「この時代における堕落が、相対的にはなはだしかったと考えるよりも、何がゆえにそのことが、とくにこの時代に問題にされねばならなかったかを考えることが、問題の正しい提出の仕方であると思う(p.268)」として、著者は辻善之助の近世仏教堕落史観に修正を加えている。

さらに廃仏論(熊沢蕃山と中井竹山)と17世紀の廃仏を取り上げ、さらに吉田神道が葬祭を担うようになったことについて述べている。ここで天台宗・真言宗の寺院が中世末になると修験道の手に移り、山伏が神主化することで吉田神道に流れていくというシナリオが描かれている。神葬祭については、「儒葬祭の換骨奪胎にすぎない(p.282)」とこれも手厳しい。神葬祭の初見は1687年、吉田家から黒田肥前守京都留守居にあてた答申書にあり、実施の初見は1785年、寺社奉行が吉田家から許状を受けた神職などは神葬祭を行ってよろしいという寺社奉行の指令である。

さらに平田篤胤や廃仏毀釈について簡単に触れ、最後に明治維新後の檀家制度の廃止について述べているが、この部分は非常に簡略である。しかし「それから100年、葬祭宗教としての仏教の地位は、依然として牢固たるものである(p.291)」として擱筆している。

冒頭に述べたように、本書は最も早くまとめられた葬式仏教論であるために、非常に粗削りな面がある。例えば、ある項目ではかなり細かい議論をしたかと思うと、別の項目では極めて概略的にしか述べられない。だが本書が執筆された時期には、こうした研究がまだほとんど蓄積されていなかったことを鑑みると、それはやむを得ないと思われる。それに著者は論文ではなく様々な史料を博捜して、努めて実証的に述べている。いちいち史料の記述にあたる必要があるため、細かい議論に立ち入る必要が出てくるのである。

また、本書では常に各宗派の動向に目配せがしてある。仏教と十把一絡げにするのではなく、常に宗派ごとに分析しようとするのは緻密な態度である。

そして驚かされるのは、本書の後に様々な研究者によって展開される葬式仏教論の論点が、すでにほとんど全て本書に盛り込まれていることだ。本書は小著でありながら視野が非常に広い。私はこの分野の本をそれなりに読んでいる方だが、本書には原点としての新鮮さを強く感じた。

葬式仏教論の嚆矢である名著。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。

『葬式仏教の誕生—中世の仏教革命』松尾 剛次 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post.html
仏教が葬式を担うようになった変化を描く。葬式仏教の成立を広い視野でコンパクトにまとめた良書。

『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

『葬式と檀家』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post_21.html
檀家制度がいかにして生まれ、それが何をもたらしたか述べる本。近世の檀家制度成立をわかりやすくまとめた良書。

『日本葬制史』勝田 至 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/02/blog-post.html
日本の葬制史の概説。葬送史をまとめることで、死への考え方の変遷まで垣間見える労作。

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2024年11月16日土曜日

『出羽三山―山岳信仰の歴史を歩く』岩鼻 通明 著

出羽三山についての概説。

出羽三山とは、山形県のほぼ中央に位置する三つの山であり、修験道の修行の山として栄えた有名な霊場である。だが私にとって出羽三山は土地勘のない東北のことなので、どうも印象がボンヤリとしている。そこで手に取ったのが本書である。

出羽三山は、かつては月山(1984m)、羽黒山(414m)、葉山(1462m)の3つの山を指したが、近世以降は葉山に変わって湯殿山(1500m)が三山に加わった。三山の中で羽黒山だけが低山なのが特徴的だ。

月山の史料上の初見は早く、平安時代に編纂された法制書『新抄格勅符抄』に宝亀4年(773)のこととして、「月山神」に神封2戸を寄せられたとある。『日本三代実録』にもしばしば月山神が登場する。

羽黒山が登場するのは古代から中世への過渡期である。その縁起によれば、崇峻天皇の子供である蜂子皇子が能除大師として羽黒山を開いたという。ただし、これは朝廷からは認められていなかった説である(神仏分離後に認められた)。なお羽黒山は熊野信仰との密接なかかわりがあったらしく、羽黒山には熊野権現が勧請されたのだという(『羽黒山縁起』)。

湯殿山の信仰はちょっと変わっている。山そのものがご神体なのではなく、山中にある温泉の成分が凝固した赤茶けた巨岩がご神体だからである。神仏分離以前は「ご宝前」と呼ばれたそうだ。史料に現れるのは中世後期の戦国時代である。

葉山に代わって湯殿山が出羽三山に含まれるようになったのは、信仰上の変化とともに、峰入りのルート整備に関わる理由ではないかという。

中世の羽黒山は諸宗派から構成されていた。「山頂のご本社を取り巻く寺々は真言宗、五重塔の周囲と門前町の寺や坊は天台宗で、臨済宗の寺も二カ寺あり、念仏寺院も三カ寺(p.42)」あったという。「羽黒修験」と呼ばれる存在は、こうした寺にそれぞれ所属していたのか、あるいはこれらの寺と独立に存在していたのかよくわからないが、ともかく江戸幕府の政策で、修験と認められるためには「本山派」か「当山派」のいずれかに属さなくてはならなくなった。そこで羽黒山別当の天宥は、寛永18年に天台宗の天海に弟子入りし、羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した。こうして羽黒山は本山派・当山派とは別の独立した地方修験の山として公認された。

だがその統一によって、三山の内部の天台宗と真言宗との争論が勃発した。出羽三山には7つの登山口があり(八方七口)、それぞれを別当寺が管理していた。うち3つが天台宗で羽黒山、うち4つが真言宗で湯殿山を押さえていた。それらが、寛永・寛文の二度にわたって湯殿山の祭祀権をめぐって争論を行ったが、それを「両造法論」という。この結果、幕府は羽黒山と月山は天台宗側に、湯殿山には真言宗側に祭祀権を認めた。出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分割されたことになる。地理的には「月山・湯殿山」が一体で、羽黒山が離れているのにこのように分割されたのは非常に政治的だ。

羽黒山は寛永寺の末寺になったことで後ろ盾を得、天宥以降の別当は日光山輪王寺宮門跡が務めることになった。また文政6年(1823)には羽黒権現は式内社の伊氐婆(いでは)神社であると主張して「出羽神社羽黒山三所権現」に正一位の位階が贈られた。また開山の能除太子に「照見大菩薩」の諡号も贈られた。三山の中では一番低い羽黒山が出羽三山で一番の権威を持っていたようである。

明治維新後、庄内藩には神仏判然令が明治2年5月に伝えられた。羽黒山は出羽神社(現在の出羽三山神社)と改められたが、寺院や堂塔などは仏地として残された。また月山山頂は神社とするが胎内岩付近は仏地とすることなどが取り決められた。このあたりは簡潔にしか書いていないがどういう線引きだったのか興味深い。さらに明治6年には西川須賀雄が出羽神社の初代宮司として赴任してきた。西川は、「すでに復飾していた羽黒山内の清僧修験の院坊を破却して山内から追放した(p.49)」。

羽黒山には、妻帯せずもっぱら修行に勤しむ清僧修験と、妻帯して宿坊を営み参詣者の受け入れを行う妻帯修験がいた。このうち「清僧修験の院坊」とは何なのか、本書には詳らかでないが気になった。彼らの住居だろうか。西川は仏教徒に転じていた妻帯修験にも神道への転換を迫った。西川は赤心報国教会を組織し、これが宿坊と各地の信者のつながりを認めたため、かつての修験たちは次第に神道へと属していった。

神仏分離に対しては三山それぞれと八方七口ごとにいろいろな対応があった。まとめると以下の通りである(p.65)。なお以下のリストで、「手向」等は七口の名前であり正式には「手向口」などであるが、「口」は省略した。

羽黒山    手向(とうげ)    寂光寺(天台宗)→ 出羽三山神社
月山  肘折  阿吽院(天台宗) → 八幡神社
月山  岩根沢 日月寺(天台宗) → 出羽三山神社
月山・湯殿山 大井沢  大日寺(新義真言宗) → 湯殿山神社
月山・湯殿山 本道寺  本道寺(新義真言宗) → 湯殿山神社
湯殿山    七五三掛(しめかけ)    注蓮寺(新義真言宗)→ 注蓮寺
湯殿山    大網  大日坊(真言宗豊山派)→ 大日坊

大雑把に言えば、羽黒山・月山は神道化、湯殿山は仏教に留まったということになるが、羽黒山でも手向の300余りの宿坊のうち正善院のみは仏教寺院として残った(戦後、天台宗から独立して羽黒山修験本宗となった(p.54))。上のまとめはあくまで別当寺の対応であって、その下にあった多くの宿坊はそれぞれの判断を迫られたのである。なお三山の祭祀権は、近世まではそれぞれの別当寺が保持していたが、神仏分離以後には、羽黒山の三山神社に祭祀権が一括された(p.51)。

こうした経過から、出羽三山は神仏分離によって(神道に全部変わったのではなく)神道と仏教に分かれ、現在でも伝統的な修行「秋の峰」は神道側と仏教側に分かれてそれぞれ行われている。出羽三山の興味深いところは、まさにこの神道・仏教が分割・共存の道を選んだところであろう。

ところで手向の宿坊では、妻帯修験は「霞」という中世以来の縄張りと、「檀那場」という信者の開拓を行った地域を持っており、「霞」は東北地方に、「檀那場」は関東地方に広がっていた(なお、他の口の宿坊はどうだったのか記載がない)。妻帯修験にも、別当直参の「恩分」と「平門人」という二つの身分があった。「恩分は別当から霞を支配する免許状を与えられ、帯刀を許され、役職に任じられた(p.69)」。檀那場を開拓したのは「平門人」の方である。また「羽黒山では、清僧修験に院号、妻帯修験に坊号が与えられた(p.70)」。…とあるが、「羽黒山が与えた」というのは、実際誰が与えたのかよくわからなかった。

ここまでが本書の第1章で、第2章では近世から現代までの出羽三山の参詣の実態、第3章では羽黒修験の修行(近世以前および現在のもの双方)について述べている。ここで少し疑問なのは、出羽三山と「羽黒修験」の関係である。すでに述べた通り出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分かれていたのであるが、「湯殿修験」が別に存在したとは書いていない。「羽黒修験」は出羽三山で活動した修験者の総称なのか、それとも羽黒山を拠点としていた修験者を指すのか本書には詳らかでない。なお第3章の記載によれば、羽黒修験の修行は「月山・羽黒山」で行われており(主な舞台は月山)、湯殿山には登らないようだ。

なお、天台宗側(月山・羽黒山)と真言宗側(湯殿山)では参詣の装束が異なっており、両山の境界には「装束場」という場所があり、そこで装束を着替えたのだという(p.153)。ということは、修行の場所が完全に分離していたのではなく、装束を替えて両山を参詣する人が多かったということになる。修験者は持ち場があったに違いないが、参詣の人にとっては境界は形式的なものだったかもしれない。

第4章は出羽三山の観光案内的な地理の説明で、特に「湯殿月山羽黒三山一枚絵図」という幕末に印刷された絵図を紹介して、近世における出羽三山がいかに盛況していたかを述べている。なおこの図は、一応「三山」となっているが、天台宗側(つまり月山・羽黒山)しか描かれていない。これは天台宗側によって作成されたからなのか、「語らずの湯殿山(湯殿山については語ってはならないとするタブー)」のためなのか分からない。

第5章では湯殿山に残る即身仏について述べている。即身仏とは仏教の捨身的な修行によるミイラである。庄内地方には6体の即身仏があり、うち1体は湯殿山の注蓮寺にある。出羽三山の即身仏は、湯殿山の仙人沢で「一世行人(ぎょうにん)」と呼ばれる宗教者が、人々の苦しみを代わりに受け止める(代受苦)修行によって、生きたまま土中に埋められて成仏したものをいう。だが近世では即身仏についてはあまり注目されておらず、あくまでも一世行人の生きている時の活動を人々はありがたいと思っていたようだ。それが近代に入ると即身仏は信仰の対象になるようになった。そこには、出羽三山の祭祀権を失った湯殿山が、新たな信仰の対象を求めたためではないかという。

第6章では出羽三山の食文化について述べている。羽黒修験たちの入峰修行の際の食事は極めて質素であったが、一方で宿坊で参詣者に提供される食事は食べきれないほど豪華なものだった(もちろん高額な謝礼を払った)。参詣が遊興化していたことは食事の面からも明らかである。

本書は全体的に簡明で読みやすく、わかりやすい……といいたいところだが、一読した印象は平易ながら、メモを取りながら再読してみるとどうもよくわからない部分が多い。それは近世以前の修験者および修験道の在り方について、わかったようでわからない概念的な説明をしているからである。

例えば、「羽黒山別当の天宥が、寛永18年に羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した」という記載についても、まず「羽黒山別当」の意味がよくわからない。出羽三山には八方七口にそれぞれ別当寺があったという記述はあったが、羽黒山の別当とは具体的に何を指すのか(寂光寺別当のことかもしれない)。また「羽黒山を末寺にする」とは一体何か。具体的にはどの寺院が羽黒山の末寺になったのだろうか。そして、仮に羽黒山を代表する寺院(寂光寺)が天台宗になったとして、「羽黒山を天台宗に統一した」ということの意味もよくわからない。真義真言宗の寺院が現実に存在しているのに、羽黒山を天台宗に統一するということの意味はなんなのか。こうしたことが、本書では全く説明されない。他の項目についても推して知るべしである。

だが、これが本書の大きな瑕疵とはいえない。本書を手に取る人の多くは「出羽三山のことについて大まかに知りたい」という人だろうから、あまり細かい話に立ち入る必要はないだろう。とはいえ第1章はもう少し説明がないと、修験道の知識がある人以外には理解が困難だと思う。

それから、これは編集の方針かもしれないが、出羽三山のそれぞれをあまり区別せずに書いているのもわかりづらい原因のように思う。「月山・羽黒山」と「湯殿山」の二本立てにして記述した方が私にとってはわかりやすかった。

出羽三山の概説としては簡明で平易だが、修験道関係の記述は理解が難しい惜しい本。

【関連書籍の読書メモ】
『修験道史入門』時枝 務・長谷川 賢二・林 淳 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_5.html
修験道史の研究状況を整理した本。「第8章 羽黒派」(高橋 充)では、羽黒派の歴史と研究状況をまとめている。

『維新の衝撃 近代日本宗教史第1巻』(島薗 進、末木 文美士、大谷 栄一、西村 明 編)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/07/1.html
幕末から明治10年代くらいまでを中心とした日本宗教史。「第5章 近代神道の形成」(三ツ松誠)では、西川須賀雄を取り上げて近代神道の形成過程を追っている。

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2024年11月12日火曜日

『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)

日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。

本書は、日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるといっても過言ではない。その結論は「解説」で新谷尚紀が端正に要約している。曰く「人は死ねば子や孫たちの供養や祀りをうけてやがて祖霊へと昇華し、故郷の村里をのぞむ山の高みに宿って子や孫たちの家の繁盛を見守り、盆や正月など時をかぎってはその家に招かれて食事をともにし交流しあう存在となる。生と死の二つの世界の往来は比較的自由であり、季節を定めて去来する正月の神や田の神なども実はみんな子や孫の幸福を願う祖霊であった(p.734)」。

こうして書いてみると平凡なようだが、それまでの日本人は六道輪廻の仏教理論とか平田国学といったものしかあの世の理論を持っておらず、この一見平凡に見える理論は、柳田が収集した膨大な民俗資料から帰納してまとめられた、初めて文章化された「平凡な日本人が抱いていた信仰・あの世観」なのである。

柳田はこの本を、昭和20年、空襲警報が鳴り響く中で執筆した。このような本を戦争中の切迫した状況で執筆するとは驚きだが、そこには、特に戦死したものをどうやって祀るかという問題意識と、家の断絶への危惧があった。ここが出発点となったことは柳田の限界というか時代の制約であった。しかし、国家神道が最も国民生活を支配した時期に書かれたにもかかわらず、本書は国家神道の影響が慎重に排除されており、ほとんど時代を感じさせない普遍的な価値がある。なにしろ、幸か不幸か、戦争中は柳田の学問が最も充実した時期にあたっており、しかも柳田はこの著作に渾身の力を込めたのである。ちなみに執筆期間はたったの2か月だという。

本書は(というよりも柳田の著作のほとんどがそうであるが)、随筆とも論考ともつかない文体で書かれており、芋ずる式に考察が進んでいく。それははっきりとした結論を積み重ねるのではなくて、いわば飛び石のように様々な事例をまたいで進んでいく方法であり、ここにその論理を要約することは難しいが、できるだけ要点を抽出してみたい。(以下、メモの部分は柳田ではなく「著者」に統一した。)

まず、そもそも「先祖」とはだれか。例えば、藤原家は遡れば藤原鎌足の血筋となるが、鎌足を先祖としては祀らない。先祖とは遺伝的な祖先であるばかりでなく、他でもないその家の始祖となる人物でなくてはならない。言い換えれば、他の家では始祖として祀らない人物がその家の祀るべき先祖なのである。だから分家は本家の始祖は祀らない。本家の始祖を祀るということは、本家の特権なのである。

ところで、平民の間での重要な祭りは正月と盆である。では正月はどんな神様を迎える祭りであるのか。それは、一軒一軒に訪れる神として観念された。であれば歳神様は一国を統べる大神であったはずはない。一方で盆は先祖の霊を迎えるものである。この二つは、日ごろはどこか遠くにいる存在が、決まった日に訪れるという共通した構造を持ち、一方は神事、一方は仏事であるが構造上の一致は偶然とは思われない。そして一軒一軒を訪れ、それぞれの家ごとに幸福を与えてくれる神は、先祖の以外には考えられない。歳神様は先祖の霊ではないかというのが著者の推測である。

ではなぜ正月に先祖の霊を祀るか。正月と盆は一年をほぼ二分する季節の分かれ目であり、暦という生活を支配するものの象徴であったからであろう。先祖の霊を祀るならばその先祖の年忌(命日)に祭りをすればいいような話であるが、もちろん命日などわからない先祖は多く、また命日に祀ることにすると、「命日に祀る先祖」と「命日に祀らない先祖」という区別を生じることとなる。もちろん家の始祖からの先祖全ての命日で祭りをするということは可能であるが、時代を経るにつれて煩瑣になっていく。よって、個別の先祖を祀るのではなくて、死後一定の時間がすぎたら、それは「先祖」 の「みたま」というものにまとめてしまうということが合理的だったに違いない。そうして、個別的でない「先祖」の概念が形作られ、歳神様と習合してしまったのだろう。なお、正月の16日が先祖を拝む日となっている地方は多い。

ところで、日本では田の神は山の神が下ってきたものとされる。そして稲の生育を見守った後で冬には山に帰っていく。これは日本全体に普遍的に見られる観念である。しかも面白いことに、漠然と春に来て冬に去るのではなく、特定の日に迎えて、特定の日に送るという民俗行事があり、気候の違いにもかかわらずその日が全国でかなり共通している。ここにも祖先の霊を祀るのと同じ構造がある。

盆は仏教行事ではあるが、それは元来の仏教にあったものではない。そもそも、死んだら輪廻するというのが仏教の考えなのに、なぜ毎年その霊が帰ってきて供養を求めるのか、仏教教理では説明ができない。しからば盆とはいったい何なのか。これが「盂蘭盆」の省略とは信じがたいと著者はいう。

ここで著者は「盆」をその古訓から考察する。「盆」の古代での訓は「ホカイ」であったのではないかと推測される。そして「祀」の訓も「ホガル・マツル・イノル」であったという。では「マツリ」と「ホカイ」は同じものであったか。著者はその用法を検証し、「マツリ」は祀る者と祀られる者の関係で成立するのに対し、「ホカイ」はその周囲に「不特定の参加者」を持つものであったと考える。乞食が『倭名鈔』で「ホカイビト」とあるのもその意味がある可能性がある。

しからば「盆(ホカイ)」とは何か。著者は、素焼きの土器であったろうという。つまり盆とは、供物を素焼きの容器に入れて奉げる祭りであったことになる。「その字がはからずも盂蘭盆会の中にもあるところから、これが大いに行われたものあろうと私は想像している(p.116)」。ただしこの説の弱点は、盆は中世以前には「瓫」の文字を使っていることで、「瓫」の字が「ホカイ」と訓じた例はまだ見つかっていない。

なお「盆」は、『和名抄』には「缶(保度岐=ホトキ)」とあり、『字鏡』にも「盆」を「保止支=ホトギ」と訓じている。こうしたことから著者は「死者を無差別に皆ホトケというようになったのは、本来はホトキという器物に食饌を入れて祭る霊ということで、すなわち中世民間の盆の行事から始まったのではないか(p.118)」という。

むかしの日本人は外来語の「仏(ブツ)」に「ほとけ」の訓を与えたが、では「ほとけ」という和語はもともと何を表していたのか。これは著者に指摘されるまで私も考えたことのない問題だった。著者の推測をもう一度繰り返すと、(1)素焼きの器に食饌を入れて祖霊を祀る行事があり、その器を「ホトキ」といい、そうすることを動詞化して「ホカフ」、それが名詞化して「ホカイ」となった。(2)「ホトキ」によって祀られる霊が「ホトケ」であった。(3)それが仏と習合して、仏を「ホトケ」と呼ぶようになった、ということである。

ただし、この仮説は「仏」を「ほとけ」と訓じたことのわかる古い事例を集めて検証してみなくてはならないが、本書では推測に留まり、コーパス的な調査はなされていない。

先祖を祀る方法は、第1に墓、第2に盆棚、第3に仏壇、第4に神棚、第5に村の氏神がある。墓は永続的なものではなく、盆棚や仏壇も一応三十三回忌を以て「弔いあげ」として供養を終わりにする場合が多い。そうして抽象的な祖霊となったものを神棚に祀るという構造になっているのではないか。では「氏神」はどうなのか。個々の家に祀ったものと重複しているのではないか。この「氏神」に対する著者の説明はなんだか歯切れが悪い(正直、よくわからない)。氏神を祀ることが国家的政策だったからかもしれない。

ともかく、墓に埋葬した時点では「荒忌の穢れ」があるが、それが仏壇、神棚、氏神と進むにつれて清浄になってゆくということはいえるようである。

では、死んだ魂はどのような世界へいくのか。日本神話には「黄泉の国」があり、また仏教には六道輪廻がある。黄泉の国は現世と別にあるものであり、六道輪廻でも魂は生まれ変わったり地獄に落ちたりして、ともかく魂は個性を保ったまま現世にとどまっていることはない。しかし日本人は、先祖の霊がさほど遠くないところにとどまっていて、子孫の生活を見守っていると考えていたらしい。そして六道説などと妥協するために、魂は実は「魂魄(こんぱく)」の2つがあって、「魂」は冥途に行くが「魄」は現世に留まるなどと無理に考えたものもあったのである。

では「あの世」はどこにあるか。この問題は、黄泉の国や六道輪廻の理論のためにかえって閑却され続け、平田篤胤が考究するまで誰も考えてこなかった「新しい問題」だという。著者は様々な事例から「あの世」を抽出して考察しているが、第1に「霊は(国に)留まって遠くは行かぬと思ったこと(p.166)」と第2に「顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけでなしに(中略)招き招かれることがさまで困難でないように思っていたこと(同)」をその特徴を挙げている。

であれば、そこは具体的にどこなのか。どうやら日本人は、そういう魂がふわふわとそのあたりに漂っているとは考えていなかったらしい。しかしそれがどこなのか、はっきりと表明されたことはついぞなかった。ここで著者は4月8日の大祭に注目する。「『神社大観』や『明治神社誌料』の類を読んでみると、旧暦四月八日を大祭の日としていた神社は、郷社以上にも相応に数が多(p.172)」い。また、4月8日に山登りをする習慣がそれとは別にある。それは別の行事ではあるが、そこに共通の何かがあったのではないか。

ここで著者は「賽(さい)の川原」に注目する。「さいの川原」は、川下ではなくなぜか山中に存在し、「地獄谷」のような地名も存在する。また、かつての常民は死者を山に葬っていたと思われる。とすれば、「さいの川原」はそういう墓所の名残ではないのか。つまり日本人は、「あの世」を漠然と山にあるものと観念していたのではないかというのが著者の推測である。

最後に著者は、日本人が最後の一念を重視する傾向、小さな子供が死んだ場合は生まれ変わりがあると思っていたこと、魂の若がえりの問題などに触れて擱筆している。

冒頭に述べたように、本書は日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるが、今ではやや批判的に触れられることが多い。このメモを読んだだけでも、その理由はわかると思う。第1に、日本人の信仰の多くが祖先祭祀に還元しうると著者は述べるが、その扱いが恣意的である。例えば祖霊である山の神もあるかもしれないが、自然信仰の山の神もたくさんあるだろう。第2に、日本全国でそれほどまでに家の構造が強固だったとは思われない。例えば私の住む南九州では、明治になるまで「氏神」など祀っていなかったようだし、百姓には公式には名字もなかったから家の観念が強固だったとは思えない。第3に、本書は膨大な民俗事例が引かれているが、歴史の史料は比較的参照されない。著者は民俗学は歴史の学問だと考えていたのだが、歴史が手薄なのだ。

このように、本書は随筆とも論考ともつかない体裁とも相まって批判は容易だ。しかし、だからといって本書の価値が低いということはもちろんない。著者自身も本書の脇が甘いことは十分に認識しながら、将来への課題としてまとめたものなのである。では、その後日本人の他界観が柳田國男以上に分析考究されたことがあったか。私はこういう分野を比較的読書しているが、未だ本書以上の論考は著されていないように思う。

日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

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2024年11月9日土曜日

『高野山信仰と霧島山信仰――薩摩半島域における修験道の受容と展開』森田 清美 著

薩摩半島における民俗文化を山岳信仰および修験道と関連させて述べる本。

本書では、紫尾山、冠岳、金峰山など、山岳を中心としてその周辺の民俗文化や神話・伝承を紹介している。

紫尾山では、石童丸物語が地元に実際にあった話として伝承されている。石童丸物語とは、「かるかや(刈萱)」として知られる説経物語で、本来の物語の場面は高野山(と比叡山)である。

紫尾山は「西州の高野山」と言われたというが、この石童丸物語が鶴田町や東郷町に残っており、「石堂山」という山もあるそうだ。東郷町(南瀬と斧淵)には、石童丸物語が人形浄瑠璃で伝わっている。

では、なぜ紫尾山周辺に石童丸物語が、史実として伝承されたのか。はっきりとは分からないが、著者は紫尾山には古くから熊野修験がやってきており、著者はその影響を重視している。高野聖もそこに関与していた可能性はあるが、むしろ熊野修験の関わりが大きいという(ただ、このあたりの根拠はよくわからない)。

本書ではあまり考察されていないが、仮に熊野修験や高野聖がやってきていたとして、なぜ石童丸物語が地元の史実として伝承されてきたのか、ということは不可解だ。彼らは熊野や高野山のありがたさを強調したはずで、紫尾山でそれを代用するとは思えないからだ。なお紫尾山には、高野山と同じく遺骨や毛髪などを山中に納める風習があったという(『三国名勝図絵』)。熊野修験や高野聖の直截の影響よりも、それが「民俗化」していったことを考えなければならないのかもしれない。

また紫尾山麓の「現王(げんのう)様」という不思議な信仰が紹介されている。これは本書中で最も興味深かった。現王様とは、さつま町泊野・白男川・二渡折小野、薩摩川内市旧高城町・吉川・長野などにみられる信仰である。現王様は、都から「泊野現王・津田万右衛門・笹野道清」といった三兄弟(あるいは三俣容良を加えた4兄弟、さらに折小野五郎七も加える場合もある)が下ってきて、田畠を切り開いたとか、超人的な力を持っていとかで、後に神として祀られた、とされる。それは農耕神というより狩猟神であったようだ。

この信仰の背景には、日光修験による狩猟民俗があったのではないかと著者は推測している。ただ、「(現王様は)現人神と呼ばれる霊験あらたかな人神という意味である(p.95)」などと速断しているようにも見受けられる。それは貴種を先祖とする伝説ではあっても、現王様には人神の要素は薄いように思った。また著者は東北のマタギ集団が来ていたのではと推測しているが、これも根拠はよくわからない。ところで知人に「現王園(げんおうぞの)さん」という人がいる。これは現王信仰とかかわりのある名前である。他の地域にはない独特な信仰がなぜ紫尾山麓にのみ見られるのか、不思議である。

冠岳と金峰山については、さまざまな史跡を紹介し、特に霧島山信仰と日向神話との関わりについて述べている。著者は、これらの地域が神話のふるさとであるということを主張しているのではないが、地域の神話や伝説に対して批判的でもない。具体的に言えば、「こういう神話がこの地域に残っていることは事実」として話を進めたがる。それは事実には違いないが、ではなぜ日向神話がそこに残っているのか、ということはあまり検証されない(というより本書の対象外である)。そして最後に、「こうした神話の伝播には修験者が関わっていたのかもしれない」というようにまとめている。

本書は全体として、修験道研究というよりは民俗学のフィールドワークの記録であり、そこに掲載されている事例はどれも興味深いが、それらを通じて何かがわかるというものではない。それは、民俗文化というものが、そもそもはっきりと開明できるような、理屈に基づいたものではないということを示しているのかもしれない。

【関連書籍の読書メモ】
『説経集(新潮日本古典集成)』室木 弥太郎 校注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_5.html
中世の説経の代表的作品を収録した本。「かるかや」についてはこちらのメモを参照。

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2024年11月2日土曜日

『島津氏——鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』新名 一仁・徳永 和喜 著

ポイントを押さえた島津氏の歴史。

本書は、帯では「専門家による「島津氏」通史の決定版」と銘打っているが、「はじめに」にも「あとがき」にも、本書が通史であるとは一言も書いていない。「はじめに」では、「長期にわたる同じ一族による支配の維持、政権との距離感、敗北後の危機回避など、七百年におよぶ島津氏の九州南部支配からは、現代においても学ぶべき点が多々あるのではないか。そうした観点から本書をお読みいただき(後略)(p.5)」とあるので、通史的に島津氏の支配の特質について述べることが目的ではあるが、通史そのものではないと理解できる。

本書では、島津氏の歴史を当主の治世を区切りとして記述している。章のタイトルも「第一章 島津忠久の治世——元暦二年(1185)〜嘉禄三年(1227)」などとなっている。

これを年表風に簡略化すると次のようになる(だいたい50年を1行として適宜間を入れた)。

┃第1章 島津忠久(1185〜1227)


┃第2章 島津貞久・氏久(1318〜1387)
┃第3章 島津元久・久豊(1387〜1425)
┃第4章 島津忠国・立久(1425〜1474)

┃第5章 島津忠良・貴久(1527〜1566)
┃第6章 島津義久・義弘(1566〜1599)
┃第7章 島津家久(1601〜1638)
┃第8章 島津光久(1638〜1687)


┃第9章 島津重豪(1755〜1787)

┃第10章 島津斉彬(1851〜1858)
┃第11章 島津久光(1858〜1869)

これを見ると、鎌倉時代後期と江戸時代中期の間が大きく、本書が通史ではないことは明らかだ。

なぜこんなことをくだくだしく書いているかというと、私は最初、本書を「通史」だと思って読み始めて途中で違和感を抱き、よく確認してみると著者たちはこれを通史であるとは言っていないことに気づき納得したからである。

なお、はっきりと明示されていないが、前半1〜6章は新名一仁が、後半7〜11章は徳永和喜が執筆しているようだ。以下前半と後半に分けてメモする。

前半は、鎌倉時代後期を欠いているとはいえ、通史といって差し支えない。それは、島津氏が薩隅日の三か国の守護として南九州を統治する過程を述べたものであり、またその後(義久・義弘の時代)は、その版図が九州全域にまで広がっていく次第を説明している。

初代の島津忠久は、近衛家の下家司(しもけいし)を独占的に継承していた惟宗家の出で、頼朝の御家人になると元暦2年(1185)に島津荘下司職に任じられた。その翌年には「島津荘地頭」と呼ばれており、やがて島津荘目代、押領使となって薩摩・大隅両国の「家人奉行人」に任じられ、後に日向国も兼務したようだ。これは後の守護のことらしいが、ここに薩隅日三か国支配の原型が見られる。

ただしその後「比企の乱」のため、島津荘の所職や守護職は剥奪された。追って忠久は「和田義盛の乱」で軍功を上げ薩摩方地頭職に任じられたものの(守護職にも復帰したとみられる)、大隅・日向の守護職は鎌倉幕府滅亡まで北条氏が相伝した。なお、この時代の守護職は、後のように領域的支配権は持っていない。

島津氏が再び薩隅日三か国の守護職を手に入れるのは約130年後で、島津貞久が鎌倉幕府滅亡の際に足利方についた軍功による。しかしこの時期の守護職もまだ領域的支配権はないので、領内には島津氏と敵対する在地勢力がたくさんあった。日本は南北朝時代へ突入し、南九州でも複雑な対立の構図となった。島津氏としては特に大隅の肝付兼重への対策が重要だった。

ちなみにこの時代(14世紀後半)、貞久は鎮西管領の斯波氏経に対し「島津氏は薩隅日三か国の支配権を領有している」と強く主張しているのが興味深い。次代の島津氏久は志布志での中国交易を重視し、志布志の宝満寺・大慈寺を庇護した。ここに島津氏の交易重視政策が形成された。同時に、倭寇もこの頃盛んになってくる。九州南部は倭寇の拠点の一つだった。中国との貿易を目指す幕府にとって倭寇の存在は迷惑であったが、そのために倭寇対策が政策課題となり、島津氏が貿易のキーとなっていくのが面白い。

九州探題今川了俊との抗争に勝利した島津氏は、薩隅日三か国の実効支配を幕府に認めさせ、氏久を祖とする奥州家が三か国の守護職を兼帯した。氏久を継いだのが子の元久(母は伊集院忠国の娘)。なお応永元年(1394)、石屋真梁(伊集院忠国の子)を開山として福昌寺が創建され、島津氏の菩提寺となった。奥州家は伊集院氏と深い関係にあった。

実子の男子が出家していた元久は、妹と伊集院頼久の間に生まれた初犬千代丸に家督を譲ることとしており一門も了承していたが、元久の異母弟久豊はこれに異を唱え、伊集院氏から元久の位牌を奪って守護所鹿児島を占拠し、また福昌寺を保護した。伊集院氏との抗争の後、久豊が権力を確立して足利義持から三か国の守護職に任じられた。こうして奥州家が守護職を相伝し「三州太守」と表現されるようになった。

久豊の長男、忠国の時代は、山東(宮崎県西都市)の伊東氏との関係が大きな政策課題となった。忠国の母は伊東祐安の娘だったが、伊東氏と対立するようになったのである。そうした状況で伊集院煕久が反島津方国人を糾合し一揆を起こした(国一揆)。忠国はこれを制圧できず和睦。伊東氏とも和睦していた。これを不服としたグループは忠国の弟持久を擁立し、忠国を隠居させた。持久は福昌寺で父久豊の十三回忌法要を行って家督相続を確かなものにしたかに見えたが、ここで「大覚寺義昭事件」が起こる。

ことの次第はこうである。足利義教の弟・義昭が京都から出奔。これが後南朝勢力と結ぶことを恐れた幕府はこれを探索したが見つからなかった。そんな中で義昭が義教追討の檄文を忠国方の樺山孝久(のりひさ)に発したため、樺山は幕府に通報。このため幕府は忠国に対して義昭追討を命じたのである。忠国は末吉に隠居中だったが、自派の武将に命じ嘉吉元年(1441)、日向国櫛間院の永徳寺を包囲させ義昭は切腹。これで幕府の信任を得た忠国は返り咲いた。一方、持久は北薩と南薩を治める薩州家を創始した。

一方、忠国の治世は安定せず、これに不安を覚えた嫡子立久と重臣は忠国を強制的に隠居させた。立久はアメとムチで経営を行い、伊東氏とも和睦して領国内を安定させた。この際に、相州家豊州家も創出され、「有力御一家・国衆を相互にけん制する体制(p.74)」が作られた。

一方、忠国の三男久逸(ひさやす)が、断絶した系統を養子となって引き継いだのが伊作家。伊作家は伊東氏との合戦に敗れ、また久逸の子善久が奴僕に殺害されて風前の灯となったが、その妻常盤が相州家の島津運久(ゆきひさ)に再嫁し、それによって善久の子忠良が伊作家・相州家を相続した。一方で、奥州家は忠昌が自害、その後嫡男の早世が二人続くなどして弱体化し、反島津勢力が蜂起した。

そうした状況を利用して、忠良は奥州家(島津忠兼=勝久)に自身の子虎寿丸(後の貴久)を養嗣子とすることを受け入れさせた。これは事実上のクーデターであった。薩州家の島津実久はそれを認めず、自らが「三州太守」を継承したと標榜してクーデターを仕返したが、忠良・貴久は薩州家を打倒。荒廃していた福昌寺の寺領を安堵し、「三州太守」として認められた。こうして貴久は奥州家当主として地位を確立させた。貴久はさらに在地勢力を次々と下して薩摩統一を実現した。

貴久の子供が、有名な島津四兄弟(義久義弘・歳久・家久)であり、義久・義弘の時代に島津氏は最強となった。彼らは大隅と日向を統一して、ここに「三州統一」が成し遂げられた。彼らの目標はあくまでも「三州統一」であったが、九州六か国の守護職と九州探題であった大友宗麟とのパワーバランスから、肥後の国衆から救援を求められ、また島津氏の重臣たちも外征に積極的だったため、北部九州に侵攻していくこととなった。特に龍造寺隆信を圧倒的少数で撃破した(沖田畷の戦い)ことで九州で島津一強となり、残すは大友氏との対決となったが、このタイミングで豊臣秀吉が九州へ征伐へ動いたため、島津氏はやむなく降服した。秀吉は、義久に薩摩国、義弘に大隅国、義弘の子の久保に日向国真幸院を安堵している。

秀吉は明らかに義弘を当主として扱ったが、義久を主君とする家臣団もおり、島津氏は分裂気味になった。さらに太閤検地では多くの家臣が減封となり不満が高まった。そんな中で独り勝ち状態だったのが伊集院幸侃(忠棟)であるが、義久の子忠恒(のちの家久)は伊集院幸侃を突如惨殺、追って子の伊集院忠真とその一族も誅殺した。なお、義弘は実際には家督は継承していないが、後の島津氏の公式見解では義久-義弘-忠恒と家督が継承されたことになっている。

ここからは後半である。前半とは打って変わって通史風の記述はなくなり、著者(徳永)の重視する事項を詳しく述べていくスタイルになる。島津家久と続く光久の時代については、交易の記述がほとんどである。

薩摩藩は琉球国を通じて南蛮(東南アジア)・中国と交易を行っていた。それは近世初期では自由貿易を志向しており、近畿の貿易商人にも支えられていた。この交易は薩摩藩を繁栄させ、島津領内では中国人が多く居住していた。もちろん島津氏自身も貿易を行い、島津氏は最大級の朱印船貿易家であった。また島津氏が取得した貿易の権利を民間に譲渡した場合もあり、これについて本書では「大迫文書」からその実態を考察している。

家久は慶長14年(1609)に琉球侵攻を行い、琉球国を属国にした。これは琉球の貿易権を薩摩藩の管理下に置くことが目的であった。琉球は中国の冊封体制に組み込まれながら、同時に薩摩藩にも隷属するという二重の支配を受けた。そのおかげで、薩摩藩は琉球の朝貢貿易を通じて中国の物品を入手することができたのである。

それは逆に言えば、中国への輸出品を入手する必要があったということだ。薩摩藩にとってこれは大きな負担でもあり、その費用を取り戻すためにも琉球口交易は必要だった。農地に恵まれない薩摩藩にとって琉球口交易は重要な財源でもあったが、その負担もまた大きかった。続く光久の時代も琉球口交易の確立に絞って記述されている。

ここから時代が一気に飛んで島津重豪の時代となる。重豪の時代には、薩摩藩の膨大な借金の整理が重要な政策課題となった。そんために抜擢されたのが調所広郷である。調所は様々な改革を行って借財の整理・減免・返済を行ったが、本書では特に琉球口交易の拡大が焦点となっている。

次の島津斉彬の時代では、斉彬の世界観とそれに基づく近代化政策が触れられる。特に西洋通事の養成の中で、唐通事の石塚崔高が紹介されているのは目を引いた。薩摩藩では蘭学から英学へ路線変更するが、そこで上野景範が比較的詳しく紹介される。上野景範は独断で上海に渡航して西洋にいこうとした人物である。本来脱藩の罪に問われるべきところ、彼は逆に薩摩藩開成所の句読師に抜擢されている。

島津久光の時代については、幕末史を足早にまとめ、その頃の薩摩藩の財政を支えた「琉球通宝」などの通貨鋳造事業について述べている。なお、通貨鋳造事業は「琉球通宝」は幕府から許可を得ているので「偽金」ではないが、「天保通宝」は許可を得ているのか得ていないのか定かでない(記録も関係者の証言も曖昧)。なお、ここでは幕府から鋳造許可を得た日付がどうであるのかなど、かなり細かい議論があり、この辺りは全く通史的ではない。

なお、著者には『偽金づくりと明治維新』(新人物往来社、2010)という前著があるが、不思議なことにこの本は本書では参照されていない(参考文献に挙げられていない)。もしかしたら旧説を改める意図があるのかもしれない。

本書は、前半と後半では良くも悪くも調子がだいぶ違う。私は前半は通史として読み、後半は薩摩藩論として受け取った。だが後半は、薩摩藩論だとしても特定事項に記述が偏っていることは否めず、わかったようなわからないような感じである。

一方前半は、島津氏が薩隅日三か国を統一する次第が端正にまとめられており、頭の整理に非常に役立つ。著者(新名一仁)はこれまで、戦国島津に関する本や論文を多数著しており、本書によってそれらの著作を俯瞰することができると思う。

前半を読んで改めて思ったことは次の3点である。

(1)島津氏にとって「三州太守」すなわち薩隅日三か国を統治するというのがアイデンティティとなっていた。大隅の肝付氏や、川内川流域の渋谷一族など、島津氏と対抗する勢力がなかったわけではないが、そうした「支配者としてのアイデンティティ」を持っていたのは島津氏だけだった。

(2)伊集院氏と島津氏の関係が興味深い。島津氏は多くの庶流・分家を持っていたが、中でも伊集院氏とは独特な関係があったように思われる。島津氏の菩提寺である福昌寺は実質的に伊集院氏が創建しており、伊集院氏の初犬千代丸は島津家の家督を狙える位置にあった(これは伊集院氏による乗っ取りのようにも見える)。そして戦国末には、伊集院幸侃は豊臣支配の矛盾を押しつけられる形で斬殺されるのである。伊集院氏から南九州・島津氏の歴史を見るとどうなるのか、興味が湧いた。

(3)福昌寺が、島津氏の家督継承に大きな役割を演じているらしい。歴代の島津家当主にとって、福昌寺の寺領を安堵し、またそこで先祖の法要を行うことが大きな意味があったように見受けられる。福昌寺は荒廃していた時期もあるので、常にそうであったとは限らないが、家督継承の正統性や権力基盤が弱い時期に担ぎ出されたのが福昌寺だった。菩提寺を正統性の源泉としていたのは他の戦国武将たちでも同じなのか、それとも島津氏の特質なのか、どちらなのだろうか。

 

【関連書籍の読書メモ】
『日向国山東河南の攻防—室町時代の伊東氏と島津氏』新名 一仁 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/07/blog-post_11.html
鎌倉から室町までの日向国山東河南の歴史について、島津氏と伊東氏の関係を軸に語る本。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名一仁)は渋谷氏との関係を軸として南北朝・室町期の島津氏の歴史を述べている。

『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post_20.html
島津義久・義弘を中心とした歴史書。戦国末の薩摩の歴史書としては、現時点で最良唯一の平易な良書。

『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html
鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。

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