2022年4月16日土曜日

『邪教/殉教の明治——廃仏毀釈と近代仏教』ジェームズ・E・ケテラー著、岡田 正彦 訳

廃仏毀釈を経て、日本の仏教がどう対応したかを述べる本。

明治初年、仏教は異端なる教え「邪教」であるとされ排斥された。しかし神道国教化政策が挫折し、仏教も国家に協力する体制になると、そのようにして受けた被害は——少なくともその一部分は——「殉教」であったと変換された(と著者は言う)。本書は、「邪教」と「殉教」の間にあるその変換がいかにして行われたかを象徴的な事例を通じて分析するものである。

「第1章 異端の創出——徳川時代の排仏思想」では、明治政府の神仏分離政策の前提となる反仏教的な動きや思想が取り上げられる。特に、仏典には多くの矛盾点があることを鋭く指摘した富永仲基『出定後語』と、それを読解して仏典が作為に満ちた創作物であると断じた平田篤胤『出定笑語』の紹介は興味深い。

また幕末の頃、地球は丸いといったような科学的知識が入ってきていた。仏教でいう須弥山(世界の中心にある巨大な山)とか十万億の仏国土とかは荒唐無稽な空想に過ぎないことが明らかになったのである。不可侵だった聖典に合理的な目がそそがれ、それが批判されたのである。しかし篤胤の『出定笑語』は内容は合理的精神からの批判であったが、熱意を込めて感情的に仏教を口汚く罵っているのが注目される。

また、仏典における作為のみならず、仏教とや寺院が非生産的な存在であるという批判も根強かった。儒教倫理からの勤勉主義から見ると、仏教や寺院は無駄であると考えられた。やはりここでも、仏教に立ちはだかったのは合理的・経済的な考えだ。

「第2章 異端と殉教に関して——廃仏運動と明治維新」では、明治政府の神仏分離やそれに伴って起こった廃仏毀釈の先蹤となった水戸藩・津和野藩・薩摩藩のケースが振り返られる。神仏分離以降の明治政府は、仏教を国家的行事から排除し、それまで寺院が持っていた権利を剥奪していったが、それに対して仏教教団は粘り強く抵抗し、なんとか生き延びようと努力した。それはある意味では自主的に国家に隷属することを選択したとも言える。それは「廃仏運動が残した最も深い爪痕として廃仏毀釈以後になされたあらゆる宗派組織の法的・政治的概要の厳密な法制化(p.114)」をもたらしたのである。

そうしたことの象徴として、明治3年に三河の大浜で起こった一揆について紹介している。「大浜一揆(三河事件)」では、民衆が浄土真宗(東本願寺)の護法のために立ち上がった。東本願寺の末寺の僧侶たち51人はそれに参画し民衆側に立ったのだが、本山は彼らに政治権力と対立しないように指導し、末寺に対して集会の規制をするなど、仏教を弾圧しつつあった国家の側に立ったのである。「三河事件」で処罰された人々は後年「殉教者」に仕立て上げられたが、それは彼らを「異端者」として処罰した人々によってだった。一方で、仏教は国家の側に歩み寄ることで徹底的な廃絶を逃れ、国家の中に位置づけられていった。

「第3章 儀礼・統治・宗教——大教の構築と崩壊」では、明治政府の「神学」が改めて考察される。明治政府は「復古」を掲げ、祭政一致国家を出発させた。しかし国民教化のために打ち出された「大教宣布」においては、「祝祭や祭り、葬儀や祭祀については何も言及されていない(p.142)」。明治政府は、神道教義の伝授よりも国民を馴化することに比重を移して行った。

そして明治5年には神道一辺倒の政策は終わりを告げ、教部省・大教院が設立されて神仏合同で国民教化に取り組んでいくことになった。それにあたって政府は「三条の教則」と呼ばれる原則を策定し、またそれを補完するものとして十一兼題、十七兼題という教化活動の手引きを作成した。特に十七兼題の方には、「万国交際」「国法民法」「律法沿革」「富国強兵」「産物製物」「文明開化」といった宗教的でない教化の性格が濃厚である。本書は「三条の教則」や「兼題」を微に入り細に入り解釈しているが、兼題についてのこのような詳細な考察は類書ではあまり見受けられないものである。

ともかく、「国民を統一し、国民国家の超越的で集合的な統一表象を作り出すために、手を替え品を替え、神の世界を人間世界にじかに結びつけようとする企てがなされた(p.171)」のである。しかし表向きには「三条の教則」や「兼題」は宗教色を廃していたが、実際にははっきりと神道に基づいていたために、ヨーロッパに外遊した島地黙雷(浄土真宗本願寺派)などの僧侶はこれに反発した。島地は宗教と政治は分離すべきであると主張して13もの嘆願書と30を超える論文を書き、そうした批判が島地以外からも提出されて教部省・大教院体制は終わりを告げた。

「第4章 バベルの再召——東方仏教と一八九三年万国宗教大会」では、時代が一気にくだって明治26年、アメリカで開催された「万国宗教大会」について語られる。これは、アメリカの信心家たちによって開催されたもので、「唯一の世界宗教によってすべての人類を一つの地球家族に統合(p.193)」することを夢想して企画された。カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、神道などの代表者が各国から招聘されて発表を行い、「独自の真理」を説きあった。

ところが、大会では普遍的兄弟愛がくり返され、その理念は夢想的なまでに崇高であったにもかかわらず、主催者はキリスト教の優位を微塵も疑っていなかった。 来るべき世界宗教はキリスト教を下敷きにしたものであることを隠そうとせず、他の宗教は遅れた段階にあるものだと決めてかかっていた。

よって、招かれた宗教者の一群は、初めから敗北を運命づけられていた。 結局、キリスト教以外の宗教者は、敵愾心を抱いてさえいる聴衆に訴えなくてはならず、「去勢されたような態度をとることになってしまった(p.213)」。しかも日本から参加した仏教代表者5人は一人を除き英語が不得手だったのである。そのうえ、彼らは互いに異なる宗派であったために協力するどころか反目し合ってもいた。

しかしそれでも、この大会に日本から仏教代表が参加した意義は大きかった。彼らは初めて「日本の仏教」を外からの視点で見ることになり、またこの世界大会に参加したという経験は彼らに「国際的地位」をもたらした。彼らは帰国後、それぞれのやり方で近代仏教の建設に携わっていくのである。

「第5章 歴史の創出——明治仏教と歴史法則主義」では、 仏教者たちがどのようにして「仏教」をまとめ、近代仏教を創造したのかが語られる。歴史法則主義とは、歴史はある法則に従って「進歩」するものだ、という考えで、19世紀の素朴な進化論を人間社会に当て嵌めるものである。この考えで宗教を捉えれば、宗教も「進歩」する(しなければならない)ことになり、「遅れた宗教」や「進んだ宗教」があることになる。仏教も、宗教の「進化」の中に自らを位置づける試みを行う必要があった。「同時代の社会や政治情勢に見合った仏教」を作らなくてはならなかったからである。

それは、各宗派それぞれがどうあるべきかというよりも、「仏教」として一つにまとまった教えを確立することだった。それは「釈宗」「東方仏教」「通仏教」などと呼ばれた。そのために、鎌倉時代後期の僧、凝然の『八宗綱要』が見直され、通宗派的な枠組みが準備された。しかし凝然の『八宗綱要』では、歴史法則主義的な立場ではなく多様な解釈の登場という文脈で日本仏教の歴史が捉えられている。これは、各宗派の教えに優劣を設けなかったことから「通仏教」にとって都合が良かった。

また『大乗起信論』も盛んに研究された。『大乗起信論』では宗派によらない大乗仏教の根本的思想が表現されている。鈴木大拙は『大乗起信論』を英語に翻訳したが、これは仏教を西洋に紹介することで日本仏教を確立しようとすることでもあった。こうした「一つの仏教」を確立しようとした人として、他に福田行戒・八淵蟠龍・蘆津実全・高田道見らが紹介されている。

その一つとして、島地黙雷・蘆津実全・釈宗演・土宜法竜が手を組んで編纂した『仏教各宗綱要』は仏教を統一する歴史的な傑作として歓迎された。しかしこの本で島地は証拠も記録もないでたらめな記述を多数行っていた。仏教を国家に受け入れられるものにするために、仏教の歴史をそれらしく捏造したのである。また特徴的なのは、各宗において江戸時代をほとんど無視して、古代や中世に記述の重点を置いたことである。『仏教各宗綱要』の内実は「通仏教」を構築するにはほど遠かったが、少なくとも江戸時代を仏教の停滞と見なす観念は通宗派的な表象となった。

南条文雄の『仏教聖典』はより堅実に「通仏教」に近づいた。南条はサンスクリット語仏典を研究し、仏教が今のように分派する前の「仏教」を難解な語句を使わずに表現した。このことは、仏教への風向きが変わったことも示していた。「以前であれば仏教は「異邦」のものであるがゆえに攻撃された[が](中略)、仏教の異邦性はもはや、近代日本史にとってダイナミックな役割を担う根拠(p.302)」になったのである。

本書は全体を通じ、事実の記述が僅かでその分析や解釈は長大、というややバランスを欠いた書き方である。根拠となる事実がほんの僅かしか提出されていないため分析や解釈が妥当であるか検証することが難しく、またその方法が観念的すぎて正直なところどこまで信頼を置いていいのかわからない。

例えば、南条文雄の『仏教聖典』はそれほど大きな影響力を持ったのだろうか? いや、そもそも、「通仏教」を作るという課題は、本当に仏教界が共有した課題だったといえるのだろうか? 本書を読みながら、ところどころにそうした疑問を抱かずにはいられなかった。

ともかく本書は、ごく限られた象徴的な出来事を深く深く分析・解釈していくスタイルであるため、鳥瞰したときにその出来事がどう位置づけられるのか、よくわからないのである。それでも、少なくとも第4章と第5章は、暗中模索していたこの時代の仏教の雰囲気が伝わってくるもので、高い価値があるのではないかと思う。

また、本書を手に取る人は「廃仏毀釈」に関心がある人が多いと思うが、廃仏毀釈の記述はそれほどオリジナルには感じなかった(もっと安価で手に入りやすい類書で十分だと思う)。その上、本書の中心である「近代仏教の創出」と廃仏毀釈の繋がりもそれほど明確ではない。

そうしたバランスの悪さは感じるものの、ハッとする記述も多いのが本書の魅力である。あまり先入観のない外部からの目で廃仏毀釈や近代仏教を見るという新鮮さがあるのは間違いない。

廃仏毀釈の痛手から近代仏教が生まれゆく様子を描いた大著。


2022年4月10日日曜日

『神仏分離を問い直す』神仏分離150年シンポジウム実行委員会 編

山口大学で行われた「神仏分離150年シンポジウム」のまとめ。

本書は、基調講演と3つの発表、短い特別寄稿、討議、そして総括で構成されるものである。

基調講演「明治初期の宗教政策と国家神道の形成 神仏分離を中心に(島薗 進)」では、安丸良夫『神々の明治維新』を援用しつつ、神仏分離政策が概観される。秋葉山では僧侶と修験と禰宜が争い、小国重友という国学者が来て僧侶を追い出した、という話が興味深かった。

発題1「中世における神仏習合の世界観(真木 隆行)」では、まず仏教の世界観と神道の世界観・時間観を比較し、神仏習合が王権をどう支えたのかが述べられる。特に袈裟を着て描かれる後醍醐天皇の肖像画(清浄光寺蔵)が「大日如来と天皇との一体化が観念(p.69)」されているという指摘にハッとさせられた。

発題2「近世史研究からみた神仏分離(上野大輔)」では、安丸良夫を中心とする先行研究を整理し、改めて神仏分離を見直してみるべきであると呼びかけている。最近の研究の動向を踏まえ、仏教排斥というかつてのやや一面的な捉え方を修正し、どうして神仏分離や廃仏毀釈が起こったのかをより細かい解像度で見ることを提案した本書中の白眉である。

発題3「現代の宗教者から捉えなおす神仏分離と宗教的寛容(木村延崇(曹洞宗の僧侶))」では、長州藩の維新前の廃仏毀釈が事例紹介され、薩摩における徹底的な廃仏毀釈と比較される。また節句が新暦になって実態と乖離したことや日本人の自然観などが語られ宗教的寛容と繋げられている。

特別寄稿「狂言と神仏習合(稲田秀雄)」では、山伏狂言「梟」を中心に、狂言の中で山伏が何に祈るかを述べ、神仏習合の事例としている。

討議では、長州藩における状況をケーススタディとしながら、神仏分離政策を改めて振り返り、また会場からの質問に答えている。長州藩は西本願寺と関係が深かったことから、結果的には神仏分離政策を貫徹せず、むしろそれを抑制する方向で働いた。なお長州藩では、幕末には僧侶からなる隊が20以上あり、多くの寺院が軍事基地となっていた。寺院と軍事の結びつきはあまり指摘されていないが、より詳しく知りたくなった。

総括「神仏分離をどう考えるか(池田勇太)」では、「明治維新以前が神仏習合で、維新によって神仏分離した、というほど単純な話ではない(p.178)」とし、シンポジウムの内容を受けて、神仏分離を反仏教政策としてだけ見るのではなく、武家支配の解体や世俗化(脱宗教化:フランス革命時の反キリスト教政策との類似を挙げている)の影響など、より広い視野で捉えようと試みている。

全体として、本書はかなりコンパクトで2〜3時間あれば読めてしまうものであるが、安丸良夫や圭室文雄などの古典的な神仏分離研究を下敷きにしつつも、それを現代の知見で乗り越えようとする意欲的なものに感じた。私はこの分野はちょっと詳しいが、最近の論文の動向などと方向性が一緒であり、このように平易にまとめたことはまさに神仏分離150年を記念するに相応しいと思った。

ただし、あくまでもシンポジウムの内容をまとめたもので論文集ではないので、やや物足りない部分もある。

最新の研究に基づいた神仏分離の捉え方を平易にまとめた本。

 【関連書籍の読書メモ】
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

 

2022年4月9日土曜日

『増補 高野聖』五来 重 著

高野聖に光を当てる本。

「聖」とは、寺院から半独立した下級宗教者で、遊行回国しながら勧進や商売を行って生きていた。本書では聖の特徴として、隠遁・苦行・遊行・呪術・世俗・集団・勧進・唱導という8つが挙げられている。高野聖とは、高野山に拠点を持っていた聖のことである。

ただし本書には、高野聖とは何か、という定義が明確には述べられていない。その特徴をまとめれば次のとおりである。

(1)多くは「別所」と呼ばれる修行のための別院に拠点を持った。往生院谷や蓮華谷、清浄心院谷といった谷ごとに集団を作っていた。(2)高野聖は民衆を相手に活動した。諸国を回って高野山への納骨を勧め、お骨を高野山に収める代わりにその費用をもらって生活していた。(3)密教一筋というよりは念仏聖であり、特に室町以降は時宗聖であった。

私にとって意外だったのは(3)で、高野山といえば真言密教というイメージがあったが、中世の高野山は念仏の山だったのである。そして高野聖たちが念仏しつつ納骨を勧めたからこそ、高野山が日本総菩提所となった。まさに霊場としての高野山をつくったのは高野聖たちだった。

しかし、高野聖たちは僧侶としての身分は低かったために普通の寺院からは蔑まれ、また高尚な教学の世界からも遠かった。よって高野聖は歴史に埋もれ忘れられてしまった。本書は、高野山を作った高野聖たちを再評価するものである。

とはいえ、高野聖が泉鏡花の『高野聖』に描かれたような道心堅固な者ばかりだったかというとそうでもない。半僧半俗の高野聖たちは時に悪行も働き、妻帯していたり、またそもそも教学の学識がないものも多かった。

しかしそういうありがたくない聖では民衆から評価されない。寺院を離れて生きた聖は、寺院から供給(くきゅう)を受けられず、勧進や商売を営まなくては生活ができないため、人々からの支持は重要だった。そのため苦行(例えば十穀断ち)や呪術(病気を治したり招福攘災の祈願)を行った。そして民衆には難しい教学は理解できなかったためか、いきおい念仏に傾いていった。特に、一人ひとりの念仏が合わさり相乗効果によって何倍もの功徳になるという「融通念仏」の考えが出てくると、高野聖はこれを積極的に活用したとみられる。

では民衆の方は高野聖の念仏に何を期待したか。もちろん往生も願ったのだろうが、それは滅罪と鎮魂の呪術であったのではないか、というのが著者の考えだ。

それでは高野聖はどうして興ったか。その起源は承仕(じょうし)や夏衆(げしゅう)と呼ばれる階級にある。高野山の寺院で教学や修行を行う僧侶たちも、当然生活をしていかなくてはならないが、その生活面・物質面を担ったのが承仕・夏衆であった。この中から行人(雑役に従事した下級の僧、山岳信仰と苦行と呪術を担った)と聖が分化していくのである。

最初の高野聖が誰なのか、はっきりとはわからない。ただ高野聖の成立にあたり重要なことは、高野山に念仏信仰が入っていったということである。高野山は山中他界の霊場であったことから浄土とみなされ、「高野浄土」の思想が形成されていった。高野山本来の密教からは念仏は異端であり、それを担ったのが高野聖であった。つまり高野山が念仏化することによって生まれたのが高野聖であるといえる。

祈親上人定誉は、もともとは興福寺の僧で高野聖ではないがその原型を作った。正暦の大火(994年)後、無住となってしまった高野山再建のために諸国を勧進し、また配下の勧進聖を都鄙に遊行させて30年かけて諸堂を造営した。しかし彼の高野山での地位は下級の客僧のままであった。

小田原聖教懐は、初期高野聖集団を形作った。彼は延久の末年(1073年)頃、小田原(今の当尾(京都府木津川市))の興福寺の念仏別所から高野山に上った。その時すでに70歳だったので往生のために高野山に入ったのかもしれないが、93歳まで生きた。その20年以上の念仏の活動の中で「別所聖人」と呼ばれる聖集団ができていき、白河上皇の御幸の際にはその代表者30人が「三十口(さんじゅっく)聖人」に補任(ぶにん)された。彼らには高い権威と料米が与えられた。

覚鑁は、真言宗的な念仏思想を確立した。覚鑁は、強大な勢力に成長していた高野聖集団の一員となるため阿波上人と言われた浄心房青蓮のところに身を寄せ、教理研究の場としての伝法院、念仏堂としての密厳院を建てた。この落慶法要には鳥羽上皇が臨席し、七所の荘園を寄進したが、これがかえって金剛峯寺を刺激して、覚鑁と金剛峯寺には武力抗争が勃発、結局覚鑁は高野山を追われた(錐鑽(きりもみ)の乱)。

覚鑁退去後も伝法院と密厳院は残ったので、この二院を中止として高野山の念仏信仰はより盛んになっていった。そして高野聖たちは金剛峯寺に対して権力と結託して対抗し、呪術によって病気を治したり、文芸や学芸の知識を高めていった。勧進を行う上で、そうしたものが有効だったからである。

平安末期の高野聖は「小田原教懐系の別所聖と伝法院・密厳院系の理論家たちに二分でき(p.123)」、「学侶をはるかにしのぐ勢力になっていた(同)」。戦乱の時代であり、戦いに敗れた武士や主人を失った従者が高野聖に合流していった。鎌倉武士で高野聖になった(と見られる)ものには、熊谷直実、葛山五郎景倫、佐々木高綱、足利義兼(鑁阿)などがいる。

また西行もその一人であった。彼は勧進僧となって遊行し、特に貴種との繋がりを利用して大口募財を行った。彼が取り組んだ勧進には、元興時極楽坊、蓮華乗院などがあり、重源の東大寺再興勧進にも参加した。

俊乗房重源明遍僧都が高野山に入山してから、高野山は専修念仏一色となるとともに納骨が全国に広まり、高野聖の全盛期を迎えた。本書ではこの頃を中期高野聖と呼んでいる。

重源は請負師的な起業家精神で東大寺再興勧進を遂行した。本書には室生山舎利盗難事件という、後白河法皇とグルになった自作自演的な盗難や、頼朝のさらなる支援を引き出すため敢えて逐電した事件などが記述されるが、そうした事件を見るにつけ、目的のためには手段を選ばない老獪な人物であったことが窺える。しかし彼はガメツく利益を求めはしたが自分自身は無一物で勧進で得た全ては莫大な量の作善に散じた。

なお勧進においては、寺院から出てきたという証明書となる「勧進帳」を持ち、大師像の入った笈(おい)を宗教的シンボルとして負う必要があった。寺院から離れ庶民に交わるからこそ、そういうものが必要だったのである。また金品ではなく木材など現物による寄附の場合は、東大寺の札さえあれば村人の無料の奉仕で村から村へ国から国へと運ばれて奈良に着いたという。

明遍は、しばしば「高野聖の祖」と言われる。中期高野聖には蓮花谷聖萱堂聖千手院聖があったが、このうち蓮花谷別所を創始したのが明遍である。重源も蓮花谷聖の一人であった。明遍は名門の生まれであったが東大寺で得度し、家柄からは当然座主・別当にのぼるべき身なのにも関わらず高野山に入り、専修念仏の生活をした。法然に帰依したといい、法然の滅後その遺骨を生涯頸にかけていた。明遍は家柄の高貴さから高野聖の偶像になり、明遍系の念仏が高野山にこだまするようになった。また蓮花谷聖たちは高野山への納骨を一般化した。

萱堂聖の祖が法燈国師、心地覚心である。彼は臨済宗法燈派の開祖でもある。彼自身は高野聖ではなかあったが、晩年に帰依した弟子に自分と同じ「覚心」の諱を与え高野山に上り萱原で念仏せよと命じた。以来、萱堂聖の頭目は代々心地覚心の分身として「覚心上人」を名乗った。なお一遍は法燈覚心の印可(悟ったことの証明)を得たという伝説がある(『法燈行状』)。法燈覚心の信仰は禅・密・念仏の混合であり、その真言(密)と念仏を受けたのが萱堂聖であった。また普化宗の祖梵論字(ぼろんじ)を宋から連れてきたのも法燈覚心だという(『虚鐸伝記』)。

法燈覚心の死後、萱堂聖は時宗化して遊行廻国・勧進唱導・念仏賦算をするようになった。萱堂聖は唱導の文学と芸能に特色があり、高声念仏と鉦叩念仏の他に踊り念仏も行った。鎌倉になるとこれに狂言も加わった。 

千手院聖は3つの集団の中で最も遅く成立し、後期高野聖を代表するものである。千手院の開創は不明だが、ともかくここを中心に鎌倉時代末から南北朝期に時宗聖が集まってきた。そして千手院聖が次第に高野聖の他の集団を吸収して、室町時代には全て時宗聖となった。こうして高野聖はかつての苦行と隠遁を捨て、「遊行と勧進と世俗生活に没頭(p.245)」。時宗聖たちは踊り念仏を行い、また幅広い芸能(和歌・連歌・能楽・田楽・狂言・茶道・作庭等)の担い手になった。同時に、「時宗寺院は風呂や料理や旅宿を経営して遊興の場と化するような卑俗化がおこり(p.246)」高野山の評判を貶めたが、彼らが高野山の宿坊制度を完備していく役割も果たしたようだ。

大永元年(1521)、高野山が全山焼亡(じょうもう)すると、その再建のために阿本・阿純の勧進聖が勅許を得て43年にわたる勧進活動を始めた。彼ら自身は穀断木喰の苦行僧であったが、有象無象の聖が再興勧進に参画したことで高野聖の評判はよくなかった。さらにただでさえ時宗は高野山の伝統からは異端だったので排斥された。

そして高野聖の質が低下し、また生活が困難になったことで、さらに高野聖は世俗化していった。結果として商聖(あきないひじり)化、定着化、悪僧化が起こった。高野聖は勧進に際して、経帷子(引導袈裟)を配って(実質的には販売して)いた。引導袈裟とは、これを着て死ねば往生できるという、お経が印刷された紙製の袈裟である。また弘法大師の旧御衣の切れ端も売っていたようだ。こうしたことからか、高野聖は結果的に呉服屋になっていった。

定着化については、洛中洛外図などの絵図に描かれた高野聖の笈が次第に形式化していくことによって判断できる。悪僧化については、例えば盗み出した仏像を寺院に売りつけるなどスキャンダルが多くなり、室町末には高野山へ上らない高野聖も出てきた。こうしたことは中世人の遊行僧に対するホスピタリティがだんだん冷たくなってきた結果でもあった。聖が「宿を借ろう」と呼びかければすぐに誰かが泊めてくれる、という状況ではなくなってきたのである。むしろ「宿借り聖」とバカにされた。

このようにして高野聖は徐々に弱体化していったが、廃絶の決定的な契機となったのが信長の高野聖成敗事件であった。信長は畿内近国徘徊の高野聖1383人を捉えて処刑したのである。これは高野山行人が足軽たちを殺したことがきっかけだったが、「高野聖が関所通行御免を悪用して隠密をはたらいたためともいわれている(p.268)」。

さらに高野山では、行人、学侶、聖(時宗聖)による三つ巴の勢力争いがあった。豊臣政権下では学侶の勢力が強くなったが、徳川政権では時宗聖が勢いを盛り返し、聖たちは大徳寺以下三十六道場を学侶方・行人方と同じ屋形造りにし、破風に狐格子を打った(大徳寺は高野聖の本寺で諸国聖方触頭をつとめていた)。慶長11年(1606)、これに怒った行人方は大徳寺を襲撃。この争いは幕府に持ち込まれ、家康は「全高野聖は時宗を改めて真言に帰入し、四度加行(けぎょう)、最略灌頂を受けるよう命令(p.22)」した。こうして高野聖は僅かな例外を除いてその歴史を閉じたのである。

なお、高野山に帰ることができなくなった高野聖たちは、「願人坊主」などとして最下級宗教者として生きたようだ。

本書を読みながら疑問だったのが、高野聖はなぜ時宗化したのか、ということだ。聖は「自活」する必要があったから、当時流行のムーブメントである時宗を取り入れただけにすぎないのかもしれないが、高野山という器は時宗とどう接続したのか。高野山と時宗のいいとこ取りをしたのが高野聖だったのだろうか。それとも真言密教には時宗と接続する必然性があったのだろうか。

もう一つの疑問は、高野聖に終止符を打った家康の裁断である。なぜ徳川の菩提寺である大徳寺を襲撃した行人方ではなく、逆に襲撃された聖方を処罰したのか。しかも江戸幕府は遊行に便宜を図るなど時宗を保護していたのに、高野聖を時宗から除いて真言に帰入させたのはなぜか。本書には詳らかでないが、高野聖は徳川が保護の対象としていた時宗とは少し異質な部分があったためなのかもしれない。

本書は浩瀚なものであるが、それでも高野聖の複雑な世界を概観するに留まっているため、細かい所ではいろいろと疑問も湧いた。また元が学術論文ではないために、出典が最小限で注もないのはやや物足りない。しかしそういう点もあるにせよ、忘れられた高野聖の世界を甦らせた功績は大きい。

高野聖を語る上で必読の名著。

 

2022年3月28日月曜日

『日本陰陽道史話』村上 修一 著

日本史における陰陽道の話題をわかりやすく語る本。

陰陽道とは、中国由来の天体と人間の運命を関連づける考えや「易」、五行説や宿曜道(インドから伝わった天体と運命に関する仏教理論)が習合して生まれた暦製作と呪術の体系である。

ただし、本書では陰陽道は中国で生まれたとしているが、本書の記載を注意深く読んでも陰陽道そのものが中国で生まれたとはいえないように思った。中国由来の材料を日本風にアレンジして律令国家に位置づけたのが陰陽道ということのようだ。

陰陽道は日本において政治理念に取り入れられ、天武天皇は「陰陽寮」という官制と「占星台(天文観測所)」を設けた。さらに奈良朝初期の養老律令では陰陽寮が中務省に位置づけられ、頭(かみ)以下、陰陽師、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士(水時計の管理)など89名の陣容が整えられた。

なおこのモデルとなった唐の官制では暦と天文は太史局という部局が担っており、日本ではこれに比べ卜占に比重があったことが明瞭である。

事実、奈良期では陰陽道は祥瑞と災異を弁別することに明け暮れ、些細な祥瑞で年号が改められるなど陰陽寮は国家の迷信機関だった観がある。平安朝になると祥瑞改元がなくなり、社会の混乱を象徴してか災異を理由に年号が改まるようになった。その後も色々な事情から今から見れば不合理な改元が繰り返され、特に後白河天皇の改元癖は甚しかった。それらの改元は陰陽道思想によるものばかりではないが、元号に選ばれる文字については吉凶が重要になることから、儒教とともに陰陽道も重んじられたのである。

陰陽道は儒教や仏教と組み合わさり、日本人の宗教観の一角を形作った。平安中期以降、賀茂・安倍両氏が進出してからは泰山府君祭が流行、さらにそれをいっそう物々しくした天曹地府祭など大量の祭りが考案され実行された。

また浄土思想に刺激されたユートピアへの憧れが神仙郷への関心を呼び、陰陽道的な神仙思想も惹起した。

律令国家の弛緩に従って、陰陽家たちは国家の事業に携わるよりも公家たちの私的な活動に対する奉仕へと傾いていった。吉凶の占いや病気の平癒祈願、そして物忌みや方違えの指導といったことを盛んにするようになった。ところが天皇や公家たちは些細な吉凶を気にして自ら様々な禁忌を生み出し、陰陽師はむしろそれに振り回されていた面もある。

公家では、優れた才智を持っているのがかえって災いし、各種の典籍から吉凶や予兆を読み取って独自に陰陽道的な解釈を行い、身を亡ぼすものさえ現れた。運命を卜占によって知ることができると考え、現実を見誤ってしまったためである。そういう人物の代表としては、周易を研究した藤原頼長とその師の藤原通憲がいる。頼長は保元の乱で崇徳上皇側で死に、通憲は平治の乱で自滅した。彼らは天変(天体の異常な動き)や中国の故事から導かれた吉凶を信じすぎた結果、現場を無視した判断をして破滅したのである。

こうした世相を反映し、『平家物語』には、仏教的な宿業の世界観とあわせて陰陽道的な世界観が横溢しており、予兆思想と運命の思想は『平家物語』の基軸ともなっている。

また、陰陽道の理論は修験道の教義や儀礼の形成に大きな影響を及ぼすことで、陰陽道は修験道形成の背景となった。そして修験者たちは、その活動を通じて陰陽道の日本化に寄与した。

一方、密教では「宿曜道」が陰陽道と似た星辰信仰やそれに基づく呪術を行っていた。特に天体や星への信仰を仏教にもたらした意義は大きく、二十八宿信仰と北辰(北極星)信仰、北斗七星信仰などは特徴的であり、それらの信仰に基づいた星曼陀羅も製作された。さらに宿曜道では、個人の運命を天体の動きから導く、今の星占い的な「禄命師」が生まれた。

また祇園社の牛頭天王は密教・宿曜道・陰陽道が影響しあってできた星宿神であり、宿曜道の中心的な神格となった。このような牛頭天王信仰と習合した宿曜道の流布に与ったのが14世紀に製作された『簠簋(ほき)内伝』という安倍晴明に仮託された宿曜書である。こうして宿曜道は陰陽道の影響を受けつつ、日本化していったといえる。

鎌倉時代になると、有職故実と前例踏襲に支配された公家の社会とはずいぶん様子が変わったが、吉凶や予兆、祈祷といったものは武士たちも意外と気にしていた。平安朝末期からの明日をも知れぬ社会の中で、験を担ぐことや戦の際に神威を借りることが有効だったためであろう。特に源実朝は公家的な将軍であったため、百怪祭、三万六千神祭など平安朝以上の陰陽道的祭りを行った。

実朝暗殺の以後も将軍家の陰陽道的ムードは変わらず、北条義時の娘が男子を産んだ際には百カ日の泰山府君祭が営まれた。このように長期間の泰山府君祭は平安朝でも例がなかった。さらに承久の乱前後では陰陽道が一層活用され、百日の天曽地府祭、属星祭、三万六千神祭を始め、各種の陰陽道的な祭りが平安朝以上の規模と頻度で乱発されたのである。こういうことから、鎌倉時代の陰陽師は御家人の武士と対等に扱われるほど勢力があった。

なお幕府ではこの頃、羅睺・計都の二星への信仰が高まっており、安貞2年(1228)、珍瑜が羅睺星供を行っているのをはじめとし、嘉禎元年(1235)、幕府は薬師像千体と羅睺星神像と計都神像などを造立している他、寛元3年(1245)明年の日蝕のため陰陽師広資らが羅睺星祭を催し、また建長3年(1251)には執権時頼が室御産御祈りに羅睺・計都像の造立供養を行っている。どうやらこの頃、羅睺・計都のみならず星辰に関する信仰(北斗七星の祭り、二十八宿神、十二神など)が流行したらしい。ただしこれら羅睺・計都両星の神像は今日には一切伝わっていない。

これら鎌倉時代の陰陽道的祭りを『吾妻鏡』から抜き出してみると48種にも上り、分類すれば(1)病気平癒等の身体に対しての祈願祭、(2)星宿信仰に関する天変地変の祈願祭、(3)建物の安全祈願祭、(4)祓いに関しての神祇の作法に近いもの、となる。このうち(1)(2)が特に多く、個人的な祈願に用いられることが多いことと、(2)の星宿の祭りは平安朝以上に盛んであったことが特徴である。これは宿曜道の浸透が背景にあるものとみられる。

室町時代になると、義満・義持・義教の頃までは幕府にも財政的な余裕があり陰陽師たちに公的な場での活躍の機会があったものの、応仁の乱以降になると幕府の衰えによって陰陽師たちは次第に困窮するようになった。

暦の製作を担ってきた賀茂(勘解由小路)氏は本流が断絶、土御門氏も秀吉に対して奉仕していたことが裏目になり追放され、事実上、平安朝以来の宮廷陰陽師は壊滅した。追って土御門久脩(ひさなが)は京都に戻って出仕することを徳川家康に許され、所領も与えられたものの、陰陽道書など拠るべき典籍が失われておりかつての陰陽道を復活させることは不可能であった。

それでも土御門久脩の子孫は代々陰陽頭に任じられ、天和3年(1683)には諸国陰陽道支配を土御門氏に仰せつける霊元天皇の綸旨が下り、これにより土御門氏は全国の陰陽師を統括し免許を与える権限を握った。江戸期の土御門氏は、歴代天皇ごとに一代一度の天曽地府祭を執行している。

ところで、「全国の陰陽師を統括」ということは、陰陽師が民衆的なものとして全国に存在していたことを示唆するが、民間的陰陽師の多くは「声聞師(しょうもじ)」として活動していた。これは元は下級法師が金鼓打ちを依頼したことから始まったらしいが、山伏の形態をして運勢占いや芸能を行う下層民である。

このように、公家文化の残滓ともいえる陰陽道は公家の凋落とともに次第に失われた。しかし、鎌倉時代に平安朝以上に陰陽道的祭りが挙行されたように、必ずしもそれは公家の専有物ではなく、日本文化にかなりの程度組み込まれた。むしろ現代でも、「日や姓名や建築・造作・婚姻などに関して吉凶・卜占・禁忌を意識する現代日本人の生活習慣の中(p.253)」に陰陽道思想は確かに生き残っているのである。

本書は、著者の陰陽道研究の総括である『日本陰陽道史総説』に基づいて行われた、朝日カルチャーセンターにおける講座の文字起こしを元に書き下ろしたものである。そのような性質から、出典が明らかにされない、話題が飛び飛びである(特に時代が行ったり来たりするところ)といった点は不便に感じたが、全体的には平易で読みやすくよくまとまっている。

ただし、江戸時代以降の陰陽師の歴史についてはほとんど記載がなく、古代・中世が話の中心なのはやむを得ないこととはいえ少し物足りなかった。

日本における陰陽道の存在感に改めて光を当てる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『密教占星術—宿曜道とインド占星術』矢野 道雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/11/blog-post.html
密教占星術「宿曜道」の理論を解明する本。宿曜道を理解する上での必読書。


2022年3月19日土曜日

『中世勧進の研究―その形成と展開』中ノ堂 一信 著

中世における勧進の在り方の変遷を述べる。

勧進とは、仏教においては元来は善行を勧め仏道に入らせることを意味していたが、それが古代末期あたりから物質的な喜捨を得る経済活動という意味合いに変化した。さらに勧進は寺院修造費用調達の行為として理解されるようになっていく。

寄付集め活動としての勧進を活用したのは「聖(ひじり)」たちであった。彼らは寺院が世俗の権威と癒着して精神性を失ってしまったことに失望し、寺院を離れて生きたフリーランス僧侶であった。しかし寺院を離れて生きるには自ら糊口をしのぐ方策を見つけなくてはならない。その一つが勧進という募金活動であったのである(もう一つが職業を持つことだった)。勧進を行う聖のことを「勧進聖」といい、11世紀後半あたりから出現した。勧進聖の大半は諸国を遊行遍歴していたと考えられる。

こうして寺院から離れて人々の喜捨に頼っていきていた聖が、逆に寺院から頼られるようになるのが歴史の面白いところである。古代では国家の後ろ盾を有していた大寺院が、次第に律令国家が瓦解したことで荒廃したため、寺院の修造や建築に勧進聖たちの力を借りるようになるのである。

当初は、勧進聖はそうしたプロジェクトの資金面を担当する請負業者のようなかかわり方であった。例えば讃岐国の曼陀羅寺の修造を請け負ったのは善芳という勧進聖である。彼は曼陀羅寺に属しているわけではない一介の僧侶であったが、国司から勧進の後援を受け、工人の確保や木材の調達までも行った。曼陀羅寺が善芳にプロジェクトを委託したのは、勧進聖がその諸国遊行の中で様々なネットワークと寺院造営のノウハウを持っていたからであろう。

12世紀後半には勧進聖たちは集団化し、大規模建築工事を全面的に請け負うようになった。四条橋と清水橋の架橋はそうした勧進集団のプロジェクトであり、四条橋は「勧進橋」と呼ばれて完成後の管理も勧進聖たちによって「経営」された。

勧進聖集団は、今でいうゼネコンのようなものだったといえるかもしれない。ゼネコンは日本各地の巨大プロジェクトを請け負うので、今でもその社員たちはプロジェクトの場所に大移動して仕事をする。また、巨大プロジェクトはジョイントベンチャー(複数の会社や組織が共同で事業を行うやり方)を組んで担当することもしばしばだが、勧進聖の場合も大プロジェクトを実行するために集団化していたようである。

そうした勧進聖のあり方の画期となったのが重源である。俊乗坊重源は、東大寺の再建という巨大プロジェクトを全面的に任された勧進聖であった。

治承4年(1180)、反平氏勢力を掃討するため平氏は南都焼打ちを行い、興福寺や東大寺は焼失した。これに対し後白河院は東大寺の復興を主導したが、これに東大寺側が参加した形跡はなく(!)、後白河院の一方的なイニシアティブによってなされていた。この復興事業に起用されたのが重源である。

重源は若いころに修験的な山林修行を行い、醍醐寺理趣三昧衆として大法師の地位に上った。重源は納骨結縁や死者への追善造塔などの活動を行い、また3度も入宋したとみられ、入宋を経た重源は熱心な念仏信者となった。また重源は院政と近い武士の家系に生まれたと考えられる。真言・天台・浄土思想を兼帯し、入宋の経験から大陸の技術にも知識があった関係から重源は東大寺造営勧進に任用されたのである。

重源は陳和卿(宋の鋳物師)をはじめとして造営に必要な人材をリクルートし、勧進集団を形成して事業を遂行した。この集団は当初は70人規模であったとみられる。これは「同朋」「弟子」と表現されていることから、重源の個人的なつながりによる組織、つまり重源の私的グループであったと考えられる。

しかし東大寺再興が終盤になったころ、重源は「東大寺大勧進職」に任命された。それまでの間、「重源は後白河院政にとっては指揮下の官営工房の一員にすぎなかったのであり、東大寺にとってはあくまで外部の人間でしかありえなかった(p.117)」。しかし工事が進行するにつれ、長期間に及ぶ工事に携わった多くの勧進僧や技術者の立場を確立することが重源にとっても課題となってきた。工事が終わったらお払い箱にされる、というのでは困るからだ。そこで一種の利権の確保のために「大勧進職」が必要となったようである。重源自身は、東大寺落慶にあたって「東大寺大和尚」の地位を得たが、配下の集団については不安定な立場に置かれていたのである。

また東大寺にとっても、「伽藍や法会の維持や僧供料の獲得に頭を悩ましていた(p.121)」状況にあって勧進集団は有用なものであり、重源が個人として保持していた勧進僧としての諸権限を東大寺側が継承するためにも、勧進集団を東大寺の機構に組み込むことが必要だったのである。こうしたことから「大勧進職」の設置に続き、重源が東大寺境内に置いていた「鐘楼岡別所」を取り込む形で東大寺に「勧進所」が設けられ、恒常的な営繕活動として勧進が位置づけられていくのである。

そして東大寺101代別当の定親が宝治元年(1247)年に第6代東大寺大勧進に就任したことは、勧進聖たちが東大寺の中に完全に吸収されたことを示唆するものだった。

鎌倉時代に入ると、勧進は飛躍的に増加した。それは、勧進という手法の確立(それには重源が「勧進帳」の形式をもたらしたことによる)と、俗人でも(!)勧進を行えるようになったことが影響していた(しかし本書には、俗人による勧進がどのように法規的・宗教的に許容されたのか詳らかでない)。

とはいえ、広く浄財を募る諸国遍歴型の勧進は労多くして益少ないものである。そこでより募金効果の高い手法として導入されたのが、摺仏・印仏を「勧進札」として配るというものだった(これも重源が用いた手法)。

しかし、高徳な僧侶が行うわけでもない勧進は、こうした手法を使ったにしても多額の浄財を集めることができないのは当然である。そこで一般の寺院では幕府や有力者の後援を得た勧進が行われるようになった。幕府が後援した勧進では、勧進がほとんど臨時税的に扱われ、多くの人から「一木半銭」として強制的に金銭を徴収したのである。本来は「どのように少ない金額でも功徳がある」という意味の「一木半銭」が、人別に一文を徴収するという意味にすり替えられていたのだ(本書では「ノルマ型勧進」と言っている)。

また朝廷の後援を受けた勧進では、関所料を勧進に宛てたものが注目される。この方策は人の移動によって確実に収入が手に入るため非常に重要な手段となった。これに関し、朝廷は関所料に対してどのような権限を有していたのか気になった。日本全国の関所を押さえていたのが朝廷ということなのだろうか? 鎌倉時代以降にもそのように強力な権限を朝廷が有していたとしたら意外だ。

鎌倉時代中期以降には、勧進は「興行型」になっていく。講や仏像や説教、出開帳などを使い、民衆にわかりやすく教えを説くことで大勢を集め、寄付を募る方法である。それまでの勧進は一人ひとりに訴えていたのに、興行型ではイベント的に人集めをするのが違う。人集めのためのコンテンツ作りが重要になり、縁起絵巻の製作も盛んになった。また舞楽などの芸能も活用された。

室町時代になると、「ノルマ型勧進」は人々にとって何ら功徳を感じるものではなくなり、新たな関所の設定などは臨時税と変わらないものであったので不評を買い、勧進の主役は「興行型勧進」になった。田楽・猿楽はそうした勧進の収入増加の切り札として登場したものである。さらに芸能者の側でも、勧進という名目で芸能を演じることで興行の大義名分を得ていたらしき事情もあった。こうして、聖の作善行為として行われていた勧進が、その本来の意味が換骨奪胎され、芸能の担い手たちの興行活動の名目と化していったのが勧進の中世における展開であった。

本書は書下ろしではなく論文集であるが、一冊の本として違和感がないほどまとまっており、中世における勧進の歴史が明快に説明されている。しかし読書しながらよくわからなかったのが、勧進と法律の関係である。勧進聖には一種の利権が設定されていたように感じられるが、それはどのようなもので、一般の僧侶とはどう違うものだったのだろうか。そのあたりが本書には書かれていない。

また、勧進聖といえば、「勧進柄杓」という大きな柄杓で米や銭を受け取っていたといわれている。どうして寄付を受け取るのに柄杓を使う必要があったのか疑問だったが、本書に何も書かれていなかったのは残念だった(表紙にもその絵があしらわれているのに……)。

勧進聖の具体的姿はあまり描かれないものの、勧進の中世における展開を解明した論文集。


2022年3月3日木曜日

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』鵜飼 秀徳 著

全国の廃仏毀釈運動について述べる。

廃仏毀釈とは、明治元年の「神仏分離令」をきっかけに各地で起こった運動で、具体的には寺院の破壊、僧侶の還俗、神葬祭の実施、仏教的行事の廃止などが行われた。

しかし廃仏毀釈は明治政府の政策ではなく、地方政府や一部の神職の独走によってもたらされた。よって、それが行われた程度には地域によってかなりの違いがある。廃仏毀釈が実施された地域でも、民衆的な暴動にまで発展したところもあれば、政策として行われたものの民衆にまでの広がりは持たなかったところもある。

そこで本書はいくつかの地域を選び、そこではなぜ廃仏毀釈が起こったのか、あるいはそれほど起こらなかったのかを述べている。

とりあげられているのは、(1)早くに廃仏毀釈が起こった「比叡山、水戸」、(2)維新政府の中心であった「薩摩、長州」(薩摩は徹底的な廃仏毀釈が行われたが、長州ではそれほど暴力的ではない寺院整理だった)、(3)大藩の圧力で廃仏した「宮崎」、(4)新政府に恭順の意を示すために廃仏した「松本、苗木」、(5)閉鎖された島での運動「隠岐、佐渡」、(6)伊勢神宮が中心の「伊勢」、(7)それほど大きな運動にはならなかった「東京」、(8)文化財の多くが失われた古都「奈良、京都」、という構成になっている。

本書は研究書ではなく、各地の郷土史家や資料館などに取材してまとめたものである。彼らからのコメント紹介はなかなか面白い。しかし「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」が副題となってはいるが、各地で廃仏毀釈運動が起こった理由については概略的で、あまり考究されているとはいえない。

とはいえ、それだけにかえって各地の廃仏毀釈の違いや特徴はわかりやすく書かれているように思う。またその共通点は、府藩県のリーダー層の考え方次第だということだ。前述のように新政府(少なくともその首脳)は廃仏毀釈を企図してはいなかったので、むしろ激しい廃仏毀釈を戒めているくらいなのである。それでも明治6年ごろまでは廃仏毀釈運動が地方政府によって遂行されているのは、府藩県のリーダーが率先していたからに他ならない。

だが、廃仏毀釈が地方政府のリーダーによる自然発生的な運動であると言い切ることはできない。ほとんど廃仏毀釈が行われなかった地域があるとはいえ、多くの地域で廃仏が行われた以上、地方政府の独走ではなく、やはり全国的な方向性があったことは間違いないのである。

それから本書で強調されていたのが、廃仏によって不要になった寺院跡やその建築を利用して学校を作っているケースが多かったということだ。地方政府では明治5年の学制の発布により学校を作る必要があったが、そのための予算はなかったので(本書には詳らかではないが、確か明治政府は地方政府には予算を与えずに学校を作れという指示だけしたのだったと思う)、廃寺や上知令により寺院から取り上げた土地はその恰好の資源となったのである。

全国の廃仏毀釈の動向を大雑把につかめる本。


【関連書籍の読書メモ】

『廃仏毀釈—寺院・仏像破壊の真実』畑中 章宏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_11.html
各地の廃仏毀釈の事例を述べる本。廃仏毀釈の事例集として分かりやすい。

『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。地方の廃仏毀釈の実態を探るためには、このくらいの情報量が必要と思う。



2022年3月2日水曜日

『江戸の漂泊聖たち』西海 賢二 著

木食僧を中心とした、江戸時代の漂泊する宗教者――聖(ひじり)――について述べた本。

聖とは、「戒を持たずに俗世において法を説いていく民間僧を指す(p.2)」というが、この定義については後述の疑義がある。ともかく寺院に所属して檀家制度に安住する僧侶とは対照的に、不安定な流浪の生活の中で民衆の中に分け入っていった民間修行者が聖である。

しかし既存教団の枠がないために、中には堕落した僧侶や、僧侶の姿をした博徒や乞食――偽聖(にせひじり)――もいた。そのため彼らは「宿借聖(やどかりひじり)」、「夜道快(やどかり)」と嘲笑されていたのである。当然に聖の評判は悪く、特に近世の仏教史においてはその存在が軽んじられてきた。本書は、木食僧(米穀を断ち、木の実だけを食べて修行する僧侶)を中心とし、聖たちに改めて光を当てるものである。

【江戸前期の木食僧】

弾誓(たんぜい)上人:16世紀後半、諸国を遍歴し、17世紀初頭に箱根の岩窟で暮らしはじめ多くの帰依者を得、阿弥陀寺を建立。仏像を自ら刻んだが、それは円空や木喰らの先蹤であり近世聖の祖とされる。また箱根の湯を発見したのは弾誓上人とされるが、温泉を発見した遊行僧を「湯聖(ゆひじり)」という。弾誓上人への信仰は明治・昭和になっても念仏講の形で続いている。

風外慧薫:弾誓上人とほぼ同時期の曹洞宗の禅僧。小田原にある曽我山の洞窟で修業し、その後漂泊。托鉢に使えと髑髏を差し出したエピソードで有名。風外は近世の民間宗教者に多く見出せる加持祈祷を行わず、座禅三昧に生き、また多くの墨蹟が残っている他、石造物も刻んだ。

円空:天台宗の僧侶であったといわれるが宗派にこだわらず、修験道に関わる山岳修行者であったようだ。岐阜県羽島に生まれたといい、遊行しながら造像活動を行った。北海道から近畿までの広い範囲に「円空仏」が残っている。

以空上人:17世紀中頃に活躍した真言宗の木食僧。四国の霊場を巡った。

澄禅上人:自ら剃髪した「私度僧」。その後浄土宗の僧侶となったが弾誓上人を慕って曽我の穴居(澄禅窟)で十か月修業した。「風外慧薫・弾誓上人・澄禅上人(中略)木食観正・唯念行者などの民間宗教者が輩出される過程において、小田原藩領が何らかのエポックとなっていたことは注目される(p.68)」。澄禅上人は近江・相模・京都を中心に活動し、京都で死んだが、曽我周辺ではいまだに上人の遺徳が慕われている。

【江戸中後期の木食僧】

木食観海:主に水戸藩で活躍した勧進僧。五百羅漢を安置するための寺を水戸に建立(再興)するために勧進活動を行った。彼は木食僧としての厳しい修行をするのではなく、寺院造塔の造営を第一とする勧進僧であり政治にも近かったようで、広大な羅漢寺(真言宗)が再興されたのちは既成宗教者として生きた。

木食仏海:伊予(愛媛県松山市)に生まれた仏海は、若くして家を出、弘法大師に憧れて四国で修行した後高野山に入り、廻国修行の生活へと移っていった。坂東三十三か所、富士登山を行い関東を遍歴、その頃に五穀を断ち、さらに東北、北陸、四国八十八か所、西国、九州を巡礼。こうした巡礼にあたって地蔵尊を三千体刻み、また経典を書写した。

木喰行道:行道が本格的に遊行の生活に入ったのは50代からで、それまでは真言宗と縁の深い経歴だったようだが、遊行は「八宗一見」(宗派にこだわらない)の立場で行った。また行道は、遊行を始める10年ほど前に木食観海から「木食戒」を受け生涯それを守ったという。「木食戒」とは五穀を断つ厳しい戒律であるが、聖は戒を持たないことが定義だったのに「木食戒」はまた別なのかがよくわからない。遊行を始めたとき行道はすでに60歳に近かったのに、40年近くかけて蝦夷から九州まで日本をくまなく回り、その中で活発な造像活動を行った。「木喰仏」といえば行道が刻んだ仏像を指すほどである。

本書ではこの他、海上の小舟で無言苦行を19年もした木食相観、1億200万遍の念仏を唱えた木食遊禅、六十六部、修験(特に明治になってからも巡礼している林実利と独信)、陰陽師、願人坊主といった遍歴する人々が取り上げられている。

この中で全く知らなかったのが「願人坊主」である。これは元来は勧進僧であったものが、江戸市中を踊り歩き、阿保陀羅(あほだら)経、謎々、軽口、歌、浄瑠璃などを演じて施しを強要するなどしてその日暮らしをしていた存在で、「乞食坊主」「すたすた坊主」「ちょぼくれ坊主」などと言われていた。彼らは乞食的な芸能者であったわけだが、本寺としては鞍馬寺の大蔵院と円光院があり、願人組織もあったようで、触頭(ふれがしら)を頂点として17世紀中頃までには形成されていたらしい。彼らはその組織から鑑札や袈裟を与えられて活動していたのだった。また願人の職分として木賃宿の経営があったのが特徴的だ。

本書を読みながらいろいろと疑問がわいた。まず「木食戒」という戒は何なのか。普通の戒律とは違う原理で扱われていたように思う。そして、遊行を可能にした社会制度はなんだったのか。江戸時代までの人々は、百姓はもちろん武士でも土地に縛られて生きていた。土地の呪縛から離れる唯一の方策が下級宗教者となることだったといっても過言ではない。では下級宗教者は、どういった特権を手にすることで遊行が可能となったのか。願人坊主のところで触れられている「鑑札や袈裟」が与えられていたのだろうか。

本書は全体を通じて、研究ノート的であり、それぞれの人物紹介も粗密があってまとまっていない。著者が関心がある点を書き留めたという感じである。残念ながら本書を読んで「江戸の漂泊聖とは何だったのか」という全体像がよくわからなかった。ただし巻末の参考資料は大変参考になった。

仏教史ではあまり取り上げられない漂泊聖についての研究ノート。