勧進とは、仏教においては元来は善行を勧め仏道に入らせることを意味していたが、それが古代末期あたりから物質的な喜捨を得る経済活動という意味合いに変化した。さらに勧進は寺院修造費用調達の行為として理解されるようになっていく。
寄付集め活動としての勧進を活用したのは「聖(ひじり)」たちであった。彼らは寺院が世俗の権威と癒着して精神性を失ってしまったことに失望し、寺院を離れて生きたフリーランス僧侶であった。しかし寺院を離れて生きるには自ら糊口をしのぐ方策を見つけなくてはならない。その一つが勧進という募金活動であったのである(もう一つが職業を持つことだった)。勧進を行う聖のことを「勧進聖」といい、11世紀後半あたりから出現した。勧進聖の大半は諸国を遊行遍歴していたと考えられる。
こうして寺院から離れて人々の喜捨に頼っていきていた聖が、逆に寺院から頼られるようになるのが歴史の面白いところである。古代では国家の後ろ盾を有していた大寺院が、次第に律令国家が瓦解したことで荒廃したため、寺院の修造や建築に勧進聖たちの力を借りるようになるのである。
当初は、勧進聖はそうしたプロジェクトの資金面を担当する請負業者のようなかかわり方であった。例えば讃岐国の曼陀羅寺の修造を請け負ったのは善芳という勧進聖である。彼は曼陀羅寺に属しているわけではない一介の僧侶であったが、国司から勧進の後援を受け、工人の確保や木材の調達までも行った。曼陀羅寺が善芳にプロジェクトを委託したのは、勧進聖がその諸国遊行の中で様々なネットワークと寺院造営のノウハウを持っていたからであろう。
12世紀後半には勧進聖たちは集団化し、大規模建築工事を全面的に請け負うようになった。四条橋と清水橋の架橋はそうした勧進集団のプロジェクトであり、四条橋は「勧進橋」と呼ばれて完成後の管理も勧進聖たちによって「経営」された。
勧進聖集団は、今でいうゼネコンのようなものだったといえるかもしれない。ゼネコンは日本各地の巨大プロジェクトを請け負うので、今でもその社員たちはプロジェクトの場所に大移動して仕事をする。また、巨大プロジェクトはジョイントベンチャー(複数の会社や組織が共同で事業を行うやり方)を組んで担当することもしばしばだが、勧進聖の場合も大プロジェクトを実行するために集団化していたようである。
そうした勧進聖のあり方の画期となったのが重源である。俊乗坊重源は、東大寺の再建という巨大プロジェクトを全面的に任された勧進聖であった。
治承4年(1180)、反平氏勢力を掃討するため平氏は南都焼打ちを行い、興福寺や東大寺は焼失した。これに対し後白河院は東大寺の復興を主導したが、これに東大寺側が参加した形跡はなく(!)、後白河院の一方的なイニシアティブによってなされていた。この復興事業に起用されたのが重源である。
重源は若いころに修験的な山林修行を行い、醍醐寺理趣三昧衆として大法師の地位に上った。重源は納骨結縁や死者への追善造塔などの活動を行い、また3度も入宋したとみられ、入宋を経た重源は熱心な念仏信者となった。また重源は院政と近い武士の家系に生まれたと考えられる。真言・天台・浄土思想を兼帯し、入宋の経験から大陸の技術にも知識があった関係から重源は東大寺造営勧進に任用されたのである。
重源は陳和卿(宋の鋳物師)をはじめとして造営に必要な人材をリクルートし、勧進集団を形成して事業を遂行した。この集団は当初は70人規模であったとみられる。これは「同朋」「弟子」と表現されていることから、重源の個人的なつながりによる組織、つまり重源の私的グループであったと考えられる。
しかし東大寺再興が終盤になったころ、重源は「東大寺大勧進職」に任命された。それまでの間、「重源は後白河院政にとっては指揮下の官営工房の一員にすぎなかったのであり、東大寺にとってはあくまで外部の人間でしかありえなかった(p.117)」。しかし工事が進行するにつれ、長期間に及ぶ工事に携わった多くの勧進僧や技術者の立場を確立することが重源にとっても課題となってきた。工事が終わったらお払い箱にされる、というのでは困るからだ。そこで一種の利権の確保のために「大勧進職」が必要となったようである。重源自身は、東大寺落慶にあたって「東大寺大和尚」の地位を得たが、配下の集団については不安定な立場に置かれていたのである。
また東大寺にとっても、「伽藍や法会の維持や僧供料の獲得に頭を悩ましていた(p.121)」状況にあって勧進集団は有用なものであり、重源が個人として保持していた勧進僧としての諸権限を東大寺側が継承するためにも、勧進集団を東大寺の機構に組み込むことが必要だったのである。こうしたことから「大勧進職」の設置に続き、重源が東大寺境内に置いていた「鐘楼岡別所」を取り込む形で東大寺に「勧進所」が設けられ、恒常的な営繕活動として勧進が位置づけられていくのである。
そして東大寺101代別当の定親が宝治元年(1247)年に第6代東大寺大勧進に就任したことは、勧進聖たちが東大寺の中に完全に吸収されたことを示唆するものだった。
鎌倉時代に入ると、勧進は飛躍的に増加した。それは、勧進という手法の確立(それには重源が「勧進帳」の形式をもたらしたことによる)と、俗人でも(!)勧進を行えるようになったことが影響していた(しかし本書には、俗人による勧進がどのように法規的・宗教的に許容されたのか詳らかでない)。
とはいえ、広く浄財を募る諸国遍歴型の勧進は労多くして益少ないものである。そこでより募金効果の高い手法として導入されたのが、摺仏・印仏を「勧進札」として配るというものだった(これも重源が用いた手法)。
しかし、高徳な僧侶が行うわけでもない勧進は、こうした手法を使ったにしても多額の浄財を集めることができないのは当然である。そこで一般の寺院では幕府や有力者の後援を得た勧進が行われるようになった。幕府が後援した勧進では、勧進がほとんど臨時税的に扱われ、多くの人から「一木半銭」として強制的に金銭を徴収したのである。本来は「どのように少ない金額でも功徳がある」という意味の「一木半銭」が、人別に一文を徴収するという意味にすり替えられていたのだ(本書では「ノルマ型勧進」と言っている)。
また朝廷の後援を受けた勧進では、関所料を勧進に宛てたものが注目される。この方策は人の移動によって確実に収入が手に入るため非常に重要な手段となった。これに関し、朝廷は関所料に対してどのような権限を有していたのか気になった。日本全国の関所を押さえていたのが朝廷ということなのだろうか? 鎌倉時代以降にもそのように強力な権限を朝廷が有していたとしたら意外だ。
鎌倉時代中期以降には、勧進は「興行型」になっていく。講や仏像や説教、出開帳などを使い、民衆にわかりやすく教えを説くことで大勢を集め、寄付を募る方法である。それまでの勧進は一人ひとりに訴えていたのに、興行型ではイベント的に人集めをするのが違う。人集めのためのコンテンツ作りが重要になり、縁起絵巻の製作も盛んになった。また舞楽などの芸能も活用された。
室町時代になると、「ノルマ型勧進」は人々にとって何ら功徳を感じるものではなくなり、新たな関所の設定などは臨時税と変わらないものであったので不評を買い、勧進の主役は「興行型勧進」になった。田楽・猿楽はそうした勧進の収入増加の切り札として登場したものである。さらに芸能者の側でも、勧進という名目で芸能を演じることで興行の大義名分を得ていたらしき事情もあった。こうして、聖の作善行為として行われていた勧進が、その本来の意味が換骨奪胎され、芸能の担い手たちの興行活動の名目と化していったのが勧進の中世における展開であった。
本書は書下ろしではなく論文集であるが、一冊の本として違和感がないほどまとまっており、中世における勧進の歴史が明快に説明されている。しかし読書しながらよくわからなかったのが、勧進と法律の関係である。勧進聖には一種の利権が設定されていたように感じられるが、それはどのようなもので、一般の僧侶とはどう違うものだったのだろうか。そのあたりが本書には書かれていない。
また、勧進聖といえば、「勧進柄杓」という大きな柄杓で米や銭を受け取っていたといわれている。どうして寄付を受け取るのに柄杓を使う必要があったのか疑問だったが、本書に何も書かれていなかったのは残念だった(表紙にもその絵があしらわれているのに……)。
勧進聖の具体的姿はあまり描かれないものの、勧進の中世における展開を解明した論文集。
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