2025年1月19日日曜日

『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著

顕密仏教と浄土教を考える論文集。

黒田俊雄が1975年に発表した「顕密体制論」は、中世の仏教の中心は鎌倉新仏教ではなく、顕密仏教(顕教と密教。古代以来の仏教)であったことを明らかにした。平雅行はこれを継承し、であるならば、鎌倉新仏教は中世の社会にどう位置付けられるのかを考究した。

本書は、この問題意識の下に書かれた著者の早い時期の論文を(一部は修正して)収録したものである。

それらにほぼ共通して見られる手法は、次のようなものだ。まず学界の通説を取り上げる。そしてその論拠とされる史料を詳細に検証して、それが通説の論拠であるというよりは、むしろ通説を否定する内容を持っていることを示すのである。それは史料批判のお手本のような鮮やかな手法であり、非常に緻密である。私は最初、本書を通読するつもりはなかったのだが(必要な部分だけ読むつもりだった)、著者の論述があまりに論理的で緻密なので、つい全部読んでしまった。

なお、本書では人名は全て敬称付き(氏など)であるが、本メモでは省略した。

「Ⅰ 中世宗教史研究の課題」では、中世の宗教史は顕密体制論を踏まえて大幅に組み替える必要があることを述べる。

新しい中世宗教史を描くには、高僧の伝記を充実させるよりも、テーマを持った視角で見直すことが必要で、「新仏教」「旧仏教」なる概念はもはや有効ではない。また、当時の宗教は技術と未分化であり、政治や法・経済の領域まで包摂しなければ、教学史だけでは宗教史は構成できない。

著者は中世宗教をめぐる戦後史を簡単に振り返り、それを3期に分ける。すなわち①鎌倉新仏教論、②総体的把握論、③顕密体制論である。ここで著者が批判的に検証するのが②総体的把握論(大隅和雄、高木豊ら)である。著者は②の時期の研究に、(1)国家の宗教政策、(2)領主権力のイデオロギー、(3)通俗的仏教観の視角が足りていないのではと問題提起し、特に(3)を強調する。つまり、当時の人々がどのような仏教観を持っていたのかを解明しなければ、頂点的思想家の独創性がどこにあるかがわからないではないかというのである。そこで著者は「その解明のためには、できるだけ独創性に欠けた没個性的な史料群を素材にする必要がある(p.37)」と問題提起する。

「Ⅱ 浄土教研究の課題」では、井上光貞の浄土教研究を批判している。

本稿で取り上げられるのは井上光貞『日本浄土教成立の研究』『日本古代の国家と仏教』などである。著者の批判の要点は主に3点である。

第1に、平安浄土教と法然との思想的違いを明確にできなかったこと。専修念仏や悪人正機説は平安浄土教ですでに登場していた。では法然はそれを引き継いだに過ぎなかったのか。そうではない。井上は選択本願念仏説を正確に対象化できなかったのだ。

第2に、平安浄土教への理解が足りなかったこと。井上は、法然を平安浄土教の発展・延長としてとらえ、それが浄土教を民衆に向けて説いたものとしているが、すでに顕密仏教は民衆的世界へ浸透していた。むしろ法然は顕密仏教を否定しており、顕密仏教が民衆に説いていた罪業観から解放するものだった。法然の独自性は、念仏以外の諸行の宗教的価値を一切認めないということにある。なお、平安浄土教を発展・継承していったのは、禅律僧たちであったと考えた方がよい。

第3に、浄土教の発展を中下級貴族の没落と関係させて述べたこと。井上以前の浄土教発達の通説は、古代寺院堕落論・古代貴族没落論の二つが柱となっていた。井上は古代寺院堕落論は承認したが古代貴族没落論は否定し(なお著者は両論とも否定している)、その代わりに中下級貴族論が登場した。要するに、昇進の望みのない中下級貴族が末法思想を背景に、現世を否定した結果として浄土教の世界に逃避したというのだ。しかし院政期は王朝貴族が封建貴族化していく時期であり、貴族世界が停滞・固定化していたわけではない。また10世紀の人々の宗教意識は、鎮護国家・現世安穏・後世善処・死者追善の4要素で構成されており、現世を否定していた証拠はない。よって浄土教発達に中下級貴族没落論を持ち出すのは不適当である。「現実には浄土教の発達史とは、二世安楽信仰の発展史なのである(p.63)」。

では浄土教はなぜ発達したか。ここで著者は9世紀後半から10世紀後半までの1世紀を「一応の画期」だと見なす。そしてこの頃、仏教的来世観の浸透、葬祭儀礼の仏教化、臨終出家や逆修・日課念仏が登場したことに注目する。それは、「来世の観念が肥大化して、現世の中に侵入して(p.65)」きたことを意味し、若いうちから来世への準備をするような「異様な世界」になっていったのだという。またこの時期はケガレ、種々のタブー、物怪なども盛行した。そして、死霊・死穢・来世の観念の肥大化は、都市としての平安京の行き詰まりを示唆している。ちょうどこの時期に「都城から王朝都市への変貌(p.67)」が起こったのだ。

第1篇 古代仏教から中世仏教へ

「Ⅲ 中世移行期の国家と仏教」では、中世における国家と仏教との関係がどう位置付けられるか述べる。

まず著者は井上光貞『日本古代の国家と仏教』の目次を引用し、そこに国家制度の転換についてほとんど触れられていない事実を指摘する。では僧尼令は実際にいつまで維持されていたのか。

古代においては、私度の禁止=得度の官許制は、戸籍・計帳を媒介とする租税収取体系と有機的に結びついていた。しかし10世紀前半に戸籍・計帳は有名無実化し、土地を媒介とする支配方式に転換したため、「もはや朝廷には私度を禁止する理由がな(p.80)」くなった。10世紀中葉「私度」「自度」といった用語が使われなくなっていることは、それを裏付けている。実際、『日本霊異記』『今昔物語集』の両方に収録されている話を比べてみると、『霊異記』では「自度の…」とあるのに『今昔』ではそれが省略されているのは、もはや「自度」が使われない言葉になっていることを示唆しているのである。しかし私度の禁止政策が放棄されても、官僧になる者の得度・受戒の官許制は残存した。

次に、民間伝道に対する抑制はどうか。史料を検証してみると、桓武朝では①私的壇越関係を結ぶ、②愚民を妖惑する、の2点が制止されていたが、10世紀末では①は容認され、②は関心の対象外となっている。長保元年(999)の公家新制第5条では、僧侶の洛中居住と車宿が禁止されているものの、その後の法制には継承されていない。10世紀中葉に活動した私度僧の空也は、京で乞食を行い民間布教をしているのに、弾圧されていない。「僧尼令的秩序は(中略)少なくとも10世紀中葉には朝廷の手によって放棄されたと言わなければならない(p.84)」。これが、律用国家的仏教を多元的な中世仏教へと転生させる契機となった。

僧尼集団を統括する僧綱―国講師体制はどうか。中世にも僧綱所は存在しているが、実務を担った国講師の機能にまつわる史料は10世紀後半になるとほとんど見られなくなる。つまり実態としてはこの頃に国講師体制は解体したと思われる。僧綱所については、まず僧綱管理下から離脱する寺院が9世紀以降に増えている。延暦寺、興隆寺、貞観寺などである。僧綱から離脱するということ自体に僧尼令的秩序の崩壊が垣間見える。

また僧綱は度縁・戒牒の発給だけでなく課試(得度の際の試験)も行っていたが、10世紀中葉には「興福寺・薬師寺といった僧綱管理下の基幹寺院ですら、本寺で課試を行うようになっている(p.91)」。つまり「実質的得度権は各寺院に移譲された(p.92)」のである。法成寺以降、新たな年分度者設置寺院が見られないこと、一方で度縁が国家的法会で大量に発給されたことは、得度の価値が低くなったことを示している。天仁2年(1109)と保安3年(1122)に一万枚の度縁が発給されたことはその象徴だ。「9世紀後半から10世紀半ばに至る時期を一つの画期として、僧綱所の実質的機能が衰退し解体していったと結論してよかろう(p.93)」。形式的には僧綱所は残ったが「中世社会で実質的意味のある権限は殆ど窺えない(同)」。

ちなみに専修念仏への弾圧にも僧綱所が関与した形跡はない。僧綱所が実質的に機能しなくなったことは、顕密仏教・寺社勢力が自律的な統合組織を持っていなかったことを示している。それらは「宗派・寺院の自律的運営に委ねられていた(p.95)」

だが、寺社勢力の統合者は別のところに存在した。それが院権力である。院は第1に叙任権を掌握していた。「僧衣僧官制は顕密八宗の僧侶を体系づけている唯一の秩序(p.95)」だった。また第2に法親王制の創出(1099)による内部からの統制である。第3に院権力によって仏法興隆政策が大規模に進められた。特に円宗寺と六勝寺は、そこでの法会が僧侶の昇進ルートに組み入れられ、権門寺院統合の中心的舞台となった。さらには「平安末から鎌倉初期にかけて、院を釈尊の使者、仏の分身、権者とする観念が登場し流布(p.97)」した。

仏法の権威は高く、また個別権門寺院は強大であったが、寺社勢力は院権力に対抗できるほどの政治的力量はなかった。この政治的力量の低さに「日本中世における国家と仏教の関係の特質を認めることができる(p.98)」。

「Ⅳ 末法・末代観の歴史的意義」では、末法・末代観の歴史的意義を考察している。

かつては、末法思想が浄土教の盛行をもたらしたとする図式が前提となっていた(ここでも代表的論者として挙がるのは井上光貞だ)。だがその論拠となる史料は極めて乏しい。

史料を詳細に検討してみると、平安浄土教は現世の祈りや鎮護国家の顕密仏教と両立しないものではなく、当時の人は雑然とした宗教意識を持ち、末法の克服が阿弥陀信仰に限定されていたわけではなかった。むしろ浄土教の発達が顕密仏教に対する信仰や奉仕活動をも活発化させた。

そして末法思想は、「仏法は無力だ」とするものではなく、かえって末法ならばこそ一層力を込めて仏事を修さなければならないとするものであった。つまり顕密仏教にとっては末法思想は「むしろ自らの興隆を図る際の有力な論拠(p.121)」であった。末法克服の手段は、浄土教よりも寺院建立や国家的仏事の盛行にあったと見た方がよい。

さらには、平安中・末期に顕密仏教が衰微した証拠はない。そもそもこの時代には「仏法の中興」が讃えられている(例:大江匡房の法勝寺大乗会願文(1085))。では、一見矛盾する末法観と仏教中興観が併存しているのはなぜなのか。「それは貴族が王法仏法相依論を信受した結果、彼らが仏法の盛衰に過剰なまでに神経を尖らせていたことを意味するに過ぎない(p.125)」。

ここで著者はケーススタディ的に貞慶を取り上げる。「旧仏教」の思想家とされる貞慶は、様々な対象への信仰を抱いていた。極楽往生がだめなら補陀落山に往生したいとか、春日権現の下に生まれたいとか、願文の中でいろいろ保険(?)をかけている。なぜ彼は雑然とした信仰をいだいていたのか。そこには「仏法が衰え機根の劣った濁世辺土にいる我々にも可能な行業は何か、という問題意識(p.130)」があった。そこにあるのは、「仏法は危機にあるが滅尽してはいない(p.133)」という前提である。末法説は、顕密仏教側がその霊験や権威を強調し、国家的仏事や造寺起塔の機運を盛り立てるために喧伝したもののように思われる。

次に、荘園文書から国司や寺社勢力の末法観を探ってみる。11~13世紀は寺社が荘園領主へとして確立していく時期であるが、例えば東大寺は嘉承元年(1106)に「澆李の世(末法の時代)」だから人々が「信心」を失い、寺院の経済が立ち行かなくなっているので、「皇朝の泰平」のために封物の徴納をすべきであると訴えている(ここでの議論に関係はないが、個人的にはここで「信心」という言葉を出したのは気になる)。つまり寺院にとって「末法」とは、国司が封物を未納することなのだ。貴族の生活実態ではなく、寺社の置かれた状況に「末法」があるのだ。そしてまたそれを克服するために使われたのが「末法」だった。すなわち「寺社勢力の手によって意識的に喧伝された寺社中心のイデオロギー(p.144)」が末法思想なのだ。

対する国司にとってはどうか。寺社勢力が国司を抑え、荘園を確立していく過程は、国司にとっては苦々しいものであった。彼らにとっては、権益を主張し時に非法を押し通す寺社こそが末法の現れであった。国司と寺社は対照的な末法観を抱いていたのである。

末法思想が盛んに喧伝された時期、すなわち11世紀中葉から12世紀とは、中世社会の成立期にあたっていた。末法思想は、新しい社会への転換に一役買ったイデオロギーだったのである。

第2篇 専修念仏の思想と中世社会

「Ⅴ 法然の思想構造とその歴史的位置」では、法然の二元性について述べる。

法然は、専修念仏を勧めた一方で、宜秋門院に病脳平癒の授戒もしている。彼は専修念仏一本槍ではなかった。ではそれは法然の中でどう整理されていたのだろうか。

法然は、聖道門(顕密仏教の立場)を否定しようとした形跡があるが、その典拠を見出すことができず、聖道門を否定はしていない。彼は末法の一万年後には聖道門は無用となるとは考えたが、まだその時ではなかったのである。しかし、当時の聖道門は一般民衆には実践が不可能である。そのために機根の劣った民衆のために浄土門があると考えられたが、法然はそうとは考えなかった。確かに末法万年後の民衆は悪人しかいないが、今の民衆はそれに比べればすべて「善人」だというのだ。

そして『選択本願念仏集』で、法然は阿弥陀仏が人々を救う唯一の行として念仏を「選択」したとした。民衆の方が念仏を選択するのではなくて、人々を救う方法として阿弥陀仏が選択したのが念仏なのである。ここに法然の立場は明確になった。「称名を愚かな大衆のための二次的行修とする当時の浄土教観と尖鋭に対立した(p.174)」のである。また『選択集』では、「行から信への転換(p.174)」「信心為本思想の成立(p.188)」があった。法然の場合は未徹底ではあったが、ここに自力宗教から他力信仰へと大きく軸足が動いた。

そして法然は、宗義格別の主張をする。止観も即身成仏も否定はしないが、極楽往生を願うなら念仏しかない、というのである。逆にいえば自ら以外の諸宗浄土教を否定したのである。他宗への否定が根幹にあったという意味で、法然の思想は異端思想なのだ。

ともかく、法然の立場では、病脳平癒の授戒と念仏は問題なく併存する。なぜなら、極楽往生を願って授戒するのではないのだから。極楽往生と現世の問題を切り離し、極楽往生については念仏絶対を貫いても、現世の問題については諸宗を包摂したのが法然の思想的立場なのである。

では法然の立場は、顕密仏教とどう対立したのか。第1に、顕密仏教では人々にはいろいろな機根があり、それに応じた行法があると常識的に考えたが、専修念仏では全ての人は念仏によるほか往生のしようがない劣った存在だとの極端な立場にたっている。第2に顕密仏教が造寺造塔や仏事の実施など外面的な功徳を認めたのに対し、専修念仏では内面のみを重視し、念仏も「信心の表現」とした。

ところで、念仏は易行であるから、法然は仏教を民衆に解放したという見方があるが、これは当たらない。顕密仏教でも「阿」字のみを観想する方法が易行だとされており、そもそも顕密仏教は民衆に広く受容されていた。専修念仏の独自性は、易行であることそのものより、人々の機根に優劣はなく、全ての人が念仏に頼るほかないとした宗教的平等観の方にあったのである。

※本編は著者の処女論文(修士論文の一部)である。

「Ⅵ 専修念仏の歴史的意義」では、親鸞を中心として急速に発達した専修念仏運動の意義について述べている。

本編では、悪人正機説・悪人正因説などを整理して、悪人正機説が顕密仏教によるものであったことを指摘し、親鸞の言説の価値は、悪人/善人という差別的機根観を乗り越えて、末法の世においては全ての人は等しく悪人であって平等であると考えたことにあるとしている。そしてその根底には、信心を重視した姿勢がある。

一般的なイメージとは違い、専修念仏集団の宗教の本質は「民衆の来世救済にあったのではない(p.244)」。つまり、「悪人でも念仏で往生できる」ということは顕密仏教でも述べられていたのであるが、これでは善人(貴族)/悪人(民衆)という対立が前提となっている。ところが親鸞は全ての人が悪人だという。ここに顕密仏教的差別観が克服されたのである。

では、なぜ法然や親鸞は平等思想を主張したのか。それは、寺社が荘園領主となっていく中で、勧農に励み年貢を払うことが積善の行為とされていたからだと著者は考える。往生のために積善(諸行)が必要であるという考えは、寺社の荘園領主体制を一層強固なものにするものだ。専修念仏はその思想的根拠を突き崩すものであった。だからこそ専修念仏は弾圧されなければならなかったのである。

なお、本編前半の悪人正機説の検証は、著者が後に『歴史のなかに見る親鸞』でよりスマートに論証しており、本メモでは割愛した。

【参考読書メモ】『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post.html

「Ⅶ 解脱上人貞慶と悪人正機説」では、親鸞のものとされる悪人正機説が顕密仏教のなかで形成されたものであることを述べる。

著者は悪人正機説に関する2つの史料を発見した。第1に建久7年(1196)に執筆された貞慶の「地蔵講式」。ここには、「上代よりも末代の方が地蔵菩薩の利益があり、善人よりも悪人の方が霊験が顕著だ(p.269)」という言説がある。地蔵は、悪人の救済を優先する菩薩であると考えられていた。第2に『鳳光抄 四之二』所収の建暦2(1212)の春日社唯識十講第七座表白。ここでも「春日明神の霊験は善人よりも悪人の方が顕著なはずだ(p.271)」としている。これを誰が書いたのかは明確ではないが、興福寺僧覚遍である可能性が高く、貞慶の思想を継承したものであるらしい。これら2つは明確に悪人正機説を述べている。

さて。第1の「地蔵講式」が執筆された1196年は、未だ専修念仏は顕著な活動をしていない。これが専修念仏の影響で述作されたとはみなしがたい。専修念仏教団以前に、悪人正機説は顕密教団の中で形成されていたのだ。そして貞慶は、後に「興福寺奏状」で専修念仏の弾圧を求めることになる。悪人正機説は顕密仏教と矛盾しないし、それが親鸞の弾圧の理由になったのではないことは明らかだ。

「Ⅷ 建永の法難について」では、建永の法難の原因を考察している。

建永の法難は次のようなものだ。興福寺は法然らの専修念仏停止を訴え、八宗同心の訴訟を行ったが、朝廷としては法然に同情的で「偏執」を禁止するものの処分は行わない、と対処した。その後、後鳥羽院の女房と法然教団の安楽らとの密通事件が発覚し、建永2年(1207)に安楽ら4名が死罪、法然ら8名が流罪となった。

では、これは「密通事件」があったために起こった偶発的なものなのだろうか。なにしろ朝廷は当初法然には同情的だったのだ。興福寺の訴状が言うには、専修念仏は破戒行為に及ぶから禁止すべきだというが、当時の僧侶は破戒がありふれていた。しかし専修念仏は、そもそも持戒には意味がないと考えていた。何しろ念仏以外の価値を認めていなかったのだ。興福寺ら顕密教団にとって危険だったのは、専修念仏教団が持戒や造寺造像などの作善行為を無意味だと考えていたその思想の方だったのである。これが彼らの「偏執」であった。

つまり、一部の門弟の問題行動(密通事件)は弾圧のきっかけにはなったが、専修念仏教団には弾圧される要因が内在されていた。

では逆に、朝廷はなぜ最初の段階では弾圧に消極的だったのか。それは念仏自体は顕密教団でも行われており、念仏の衰微を助長すると考えたためではないか。朝廷が「偏執」を問題にし、法然としても「七箇条制誡」で一部の門弟の問題行動を指弾せざるをえなかったのは、「専修念仏それ自体の禁断を回避し、犠牲者を最小限に食い止める(p.310)」ための政治的選択だった。

しかし「密通事件」は念仏者=破戒の狂僧というイメージを定着させ、称名念仏は亡国の音だとする非難さえ生み出した。建永の法難によって専修念仏は異端認定され、破戒の念仏者=異端という図式で厳しい取り締まりが行われるようになった。

その弾圧の結果、専修念仏は「次第にその異端的性格を喪失して、顕密体制下の新たな一宗派として再生(p.318)」していくことになる。

「Ⅸ 嘉禄の法難と安居院聖覚」では、聖覚(せいかく)が専修念仏弾圧の張本人だったと論証している。

嘉禄の法難とは、①法然墓所の破却、②『選択集』の版木の焼却、③門弟の配流が行われた専修念仏への弾圧であるが、ここに聖覚らが念仏宗の停廃を求めたという「衝撃的な史料」がある。日蓮の弟子日向(にこう)が編纂した『金剛集』に収録されたものである。

聖覚といえば、『唯信鈔』の作者だ。親鸞は『唯信鈔文意』を著して聖覚に学ぶべきとしたし、聖覚の方でも法然を「釈尊之使者」「我大師聖人」と呼んでいる。そんな聖覚が念仏宗の弾圧を求めるわけがない。そんな考えからこの史料はこれまで無視されてきた。

そこで著者は厳密にこの史料を検証する。詳細は割愛するが、①史料成立の検証、②そこに書かれた内容の検証(特に5名の探題(竪義の判定者)の検証)を行い、この史料の信憑性はほぼ疑いえないと結論する。この考察は非常に緻密である。

ではなぜ聖覚は専修念仏を弾圧したのか。嘉禄の法難の時期には、聖覚は延暦寺探題の地位にあり、しかも国家的法会での証義を務めた回数から見れば「延暦寺系天台顕教の第一人者として公的に評価されていた(p.363)」。しかも彼の死後の扱いを見ると、彼は単なる顕密僧ではなく、「中世を代表する四つの権門寺院の代表的学僧によって追善されるにふさわしい人物(p.365)」であった。

次に『唯信鈔』の内容を見てみると、確かに念仏を勧めてはいるが、専修念仏の特徴である諸行の否定という側面はない。また一念義を「魔界の仕業」とまで厳しく批判している。そして、『唯信鈔』を著した4年後には、もう念仏への志向性すら放棄しており、とても念仏者とは言えなかった。

ここで聖覚が『唯信鈔』を著した承久3年という時期を考えて見ると面白いことがわかる。これに先立つ時期、彼は学匠としての地位を確立し、後鳥羽院の深い帰依を受け、承久の乱の戦勝祈願の法会を行っているのだ。しかし承久の乱が院側の敗北に終わったことで彼の立場は微妙になる。こうなると幕府によって処罰されてもおかしくない。つまりは聖覚の蹉跌の時がこの時期なのだ。このような中で、「専修念仏との関係を殆どもってこなかった聖覚が、突然『唯信鈔』を著さなければならなかった(p.373)」のは、「歴史の激変に翻弄された一人物の衝撃と不安の所産(同)」であるに違いない。

第4篇 女性と仏教

「Ⅹ 顕密仏教と女性」では女人往生思想を批判的に検証している。

女人往生思想とは、女性に往生が可能であるとする思想であるが、この思想自体に女性への差別的な見方が内在されていないか。法然は女性往生論を述べたと笠原一男は位置づけたが、史料を検証してみれば『無量寿経釈』一篇のみであり、その言説であれ当時の浄土教思想家が繰り返し語ってきたことで法然の独自性はない。

そして「五障・三従の身でも弥陀は救ってくれる」のような言説は、そもそも現世での女性差別観を助長するものであった。それでも、中国のように女人往生が否定されている場所でそのように説くことは意味があった。しかし日本ではそもそも女人往生を否定した思想家は一人もなく、女人往生は顕密仏教の中で常識的な考えであった。そんな中で「思想家が真に語らなければならなかったのは女人成仏や女人往生・女人正機なのではなく、道元のような女人結界・女性差別観そのものへの批判(p.396)」であろう。

では、女性差別観はいつ頃から登場するのか。著者は「三従・五障・龍女成仏・転女成仏経・女人結界」の女性差別語が登場する史料を調べ、それらが9世紀後半から多くみられるようになることを示し、摂関期には貴族社会にほぼ定着したと見られると結論した。こうした女性差別観の展開の中で、11世紀前半には光明信号信仰に変成男子説が取り込まれている。そして9世紀後半からは尼寺が退転し、官尼が消滅したことも注目される。

9世紀後半からは、ケガレ観が肥大した時期でもあるが、これは仏教が持っていた女性差別的性格に起因しているのかもしれない。そして家父長制原理の確立とともに女性の地位が低下したと考えられる。ただ、女人結界(女性はケガレているから清浄な山に入れない)の方は違う原理があるかもしれない。それは仏教的観念からも触穢観からも直接は導けない。そもそも女人結界は中国やインドにはない。これは、「女性は罪業が深い」という仏教的観念がケガレ観と結びついて「女性は存在としてケガレている」という観念に転化したものではないか。そしてそれは、山岳寺院の霊験をアピールするための手段だったのかもしれない。

「Ⅺ 女人往生論の歴史的評価をめぐって」は、前掲論文「顕密仏教と女性」に対する阿部泰郎からの批判に応えたものである。これは前掲論文の論旨を補強するものであるから詳細は略す。

「Ⅻ 中世仏教の成立と展開」では中世仏教の成立・展開過程を、中世社会・中世国家との連関の中で概観している。

中世仏教とは、顕密仏教に他ならない。旧仏教が堕落・退廃して中世仏教が興ったのではなく、旧仏教が顕密仏教として自己変革したのである。

まず僧尼令秩序は国家によって放棄され、得度や居住の制限もなくなった。一方、個人的な要求に応える仏教信仰が発達し、死者の追善より自己の浄土往生を願うようになった。院政期を頂点とする私的修法や浄土教の盛行は顕密寺院を発展させた。一方、僧位僧官制の枠外でもっぱら私的仏事に従事する宗教者=聖の輩出も盛んになった。

他方、寺社は荘園領主として自己の権益を宗教的な権威で潤色することに努め、所領を聖なるものとして喧伝した。末法思想と仏法王法相依論はそのイデオロギーとして活用された。そのような中で「白河法皇が「王法は如来の付属によって国王興隆す」と述べたように、王権仏授説ともいうべき思潮が登場(p.462)」する。こうして「十善の君」「金輪聖王」は天皇の別称となった。

顕密寺院と民衆との関わりはどうか。これまで、顕密寺院は貴族ばかりを相手にし、民衆に救済の手を差し伸べたのが専修念仏運動だと評価されてきた。しかし顕密寺院は荘園経済を維持する必要から、末寺末社や荘園を起点として民衆を住人神人・散在寄人として編成してきたことが明らかになった。このような中で一宮が創出されていく。民衆は神人・寄人となることで国衙支配に抵抗したのである。国衙への民衆闘争が、寺社の強訴に変化していったのだ。

しかしそれは、神仏のイデオロギーによって民衆を支配した側面もある。年貢を完納することが現当二世の積善行為だというような主張は、「大乗的精神のもっとも腐敗した姿(p.465)」でもある。

そして寺院は世俗化していった。顕密僧の出世は世俗の身分にほぼ連動していた。「こうして寺院は、世俗社会でイエを構成することのできなかった庶子たちの、栄達の場と化していった(p.466)」。これは、寺院の世俗化というより、寺院と世俗社会とのボーダーレス化といった方がよかった。またかつて僧尼令が禁止していた私有財産も認められるようになって、僧侶は私寺・私房・諸職・荘園などの私財を所有するようになった。こうなるとそれを自分の子供に相続していきたいと思うのは人情だろう。こうして真弟(実子)相続が生み出された。

また、荘園制の展開にともなって、10世紀以降、末寺末社が登場する。地方寺社は自己を大寺院に寄進して、本寺の勢を借りて不輸不入の権を獲得したり支配の安定化を図ったのである。本寺にとって末寺末社は財産そのもので、寺社の荘園に末社を建立することは拠点づくりの意味があった。

このように、寺社は権門として自立していったが、それを上部で掌握していたのが院権力である。その手段は、①座主・別当の補任権・僧位僧官の叙任権、②円宗寺・六勝寺を媒介とする編成、③法親王制の創始であった。しかし院権力が寺社を統御していたとはいいがたく、むしろ院は悪僧対策に苦慮していたのである。そして顕密寺院の内部からも悪僧批判が起こった。

だがそれが仏教改革運動として形になるには、鎌倉時代を待たねばならない。それは院政期が所領分割の競争時代だったため、その競争に打ち勝つ必要があったためである。顕密仏教内部の仏教改革運動は、戒律の復興として現れたが、王権との相互依存の枠内での仏教改革運動であったために、名利や私欲を断って仏法興隆に努力しても、結局は朝廷・幕府の物質的援助への依存を強め、朝廷・幕府の後ろ盾にならざるを得ないという陥穽に陥っていった。

戒律復興は、鎌倉時代後期に「禅律僧」という独特の宗教者も生み出した。これは戒律を護持した黒衣の遁世僧である。彼らは僧位僧官を持たなかったが、朝廷は紫衣勅許や菩薩号・国師号を授与して国制の中に包摂され、禅律僧は顕密僧とは別の集団になった。彼らは①勧進による顕密寺社の修造、②架橋・作道などの交通路整備、③葬送への従事や光明真言・釈迦念仏・融通念仏などの庶民信仰の鼓吹に活躍した。彼らにより、これまで領主層に限られていた葬祭儀礼が13世紀末以降に民衆の間にも広まっていった。

このような中で専修念仏はどう位置付けられるか。彼らは、諸行の価値を否定した異端派であった。その根底には、人間の機根は平等だとみなす観念仏法を王権に依存しない観念がある。そして造寺起塔のような可視的行為ではなく、信心という内面的世界に限局して仏法を考えた。それにより「現世的秩序への批判精神を守り抜いた(p.488)」のである。

南北朝・室町期では、顕密寺院は遠隔地荘園の多くを失って弱体化し、変わって幕府の庇護を受けた五山派が力を持った。だが五山派は幕府の下部組織のようなもので独自の権力は形成しなかった。一方、かつて異端派であった教団は権力と妥協し、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗は顕密仏教と同化し、その故に大きく発展していった。「「鎌倉新仏教」は戦国時代になって初めて、その名にふさわしい社会的実体を獲得(p.493)」したのである。

****

本書は全体として、「浄土教中心史観からの脱却を図り、古代中世仏教史像の組み替えを企図したものである(p.515)」。

その主張から個人的に気になった点を改めて繰り返すと次の4点である。

  1. 中世仏教は、古代寺院の堕落と貴族の没落によって興ったのではなく、僧尼令が国家によって放棄され、顕密仏教の寺院が荘園領主として転生したことで生まれた。その際に活用されたのが末法思想イデオロギーであった。
  2. 顕密仏教はすでに悪人正機や女人成仏など、専修念仏教団が創始したと言われている言説を生み出している。専修念仏はむしろそうした言説を乗り越えた。
  3. 専修念仏は、諸行を全否定するという極端な立場をとっていたため異端認定されたが、それは人々の機根が平等であるという宗教的平等観から不可避的に演繹されたものである。
  4. 特に専修念仏は、造寺起塔や仏事などの目に見えるものの価値を認めず、信心だけに価値があるとした。
  5. 女人成仏論は、女性への救済ではあっても、現世での女性差別観を助長するものである。

このうち著者が厳密な史料批判によって力を込めて論を展開するのが1と2である。著者専修念仏を顕密仏教の延長ではなくその否定であると述べるが、それは同時に専修念仏が顕密仏教から生まれたものであることも意味している。となれば、顕密仏教の実態はどうであったのかという疑問が生じるが、本書は専修念仏とかかわりのある顕密仏教の様相は詳細に述べるものの、膨大で多様なその実態のほとんどは手つかずである。

というのは、著者の関心は親鸞にあり、本書収録の論文は親鸞研究の前提をなすものと位置付けられているため、専修念仏の動向を追うことが中心であって顕密仏教そのものについては手薄にならざるをえなかったらしいのだ。私は院政期の顕密仏教を知りたくて本書を手に取ったのだが、その点は少し残念だった。ただ最後の「中世仏教の成立と展開」は端正にまとまった顕密仏教論として非常に参考になる。

そして、気になったのは4である。 確かに専修念仏は信心為本の立場を打ち立てた。しかし、状況証拠から考えると、それも顕密仏教の思想だった可能性が高い。源信は『往生要集』で信心が最も大事だとする思想を表明しているし、聖覚も『唯信鈔』で「信」を強調している。修辞的表現かもしれないが、東大寺が「信心」の衰えについて述べたのも気になる。つまり信心為本自体は顕密仏教が打ち立てたもので、専修念仏はそれ以外の価値を否定したということに意義があったのではないだろうか。この点は著者はあまり厳密に考察していないようだ。

また、5については、著者は女性差別は家父長制成立とともに昂進したとするが、顕密仏教では家父長制成立以前から女性の疎外が見られることが気になる。例えば女性の顕密僧は史料に現れてこないが、なぜ女性の顕密僧がいなかったのか。これは家父長制成立に先立つ話である。著者は日本では女人成仏を否定する思想家はいなかったと述べるものの、同時に仏教教団の側こそが、率先して女性差別を始めているような形跡がある。つまり、女人結界や変成男子といった女性差別的思想は、世俗社会の女性差別観を追認して生まれたものではなく、逆に顕密仏教の側が女性差別観を生みだし、それが世俗世界にも影響していったと考える方が自然ではないかと思った。

ちなみに、本書を土台として著者は後に『歴史のなかに見る親鸞』を著している。

専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。

【関連書籍の読書メモ】
『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
厳密な史料批判に基づいた親鸞の生涯。歴史学における親鸞研究の到達点。

『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。信心についての議論はこのあたりが出発点になる。

2025年1月9日木曜日

『日本の祭』柳田 國男 著(柳田國男全集13)

日本の祭の本質を考究する本。

本書は、昭和16年に東京帝国大学で行った全7回の教養特殊講義の講義録である(終わりの2章は事情があって講義を中止したらしく手控えの浄書)。

その最初に、私はちょっと度肝を抜かれた。著者は青年たちを前に説教するのである。

曰く、「青年時代は、地元の祭のやり方を継承していく大事な時期である。しかしそんな時期に君たちは勉強ばかりして、地域から離れてしまった。そんなだから地域の祭が廃れるのだ。それどころか君たちは、地元の人々をまるで別民族を見るように蒙昧だとみなし、無意味なことを続けているとさえ思っている。しかしそれこそが無学であり無智なのだ」というようなことを諄々と述べるのだ。なんと講義の第1回は丸々この説教である。東京帝国大学の学生たち(いうまでもなく超エリートだ)も、これにはびっくりしたと思う。

この初回の説教には、著者の問題意識が明確に表れている。著者は、このままでは祭は衰微し、元来どうであったかがわからなくなってしまうと強く危惧している。そして目の前にいる学生(と、その背後にいた官僚)は、まさにその原因となっている存在だったのだ。祭は、「大学の繁栄と学者の増加とによって、あるいは断絶してしまうかと恐れている日本の伝統(p.237)」なのである。

日本には数多くの祭がある。それらに共通した要素もあるが、まちまちの要素もある。ではそれらの根源とは何だろうか。著者は最後まで「祭の根源とはこれだ」とは言わない。ただ民俗学の知見を使って、より古い姿、より根源的なものに迫っていく。

最初は、祭と祭礼についてである。祭と祭礼は同じものではない。祭礼というと、いろいろな趣向が凝らされ、催し物が付け加わる。そしてしばしば神輿の渡御を伴う。つまり祭礼とは遊興的なものだ。元来の祭にはこういうものはなく、厳粛なものであったと考えられる。ではなぜ祭が遊興化したか。それは信仰をともにせず祭りを見物するだけの人々が登場したことによるのではないか。

次に、「祭には必ず木を立てるということ、これが日本の神道の古今を一貫する特徴の一つである(p.264)」と述べ、祭場の標示について考察する。ここでいう木は、自然の木や枝もあれば、木を削ってつくった大小の棒もあるが、生木の方が古い民俗だと考えられる。古い時代にはかなり高い木・柱を祭に立てたらしい。柱と祭と言えば、諏訪の御柱(おんばしら)であるが、著者は、これは御柱のために祭をするのではなく、「私はむしろ反対に、六年一度の大きな祭をするために、必ずこの高い樹を立てることになったものと考えている(p.271)」とする。

この木は、祭の庭を標示して、その周り(またはそれで囲まれた領域)を清浄に保つという機能を果たしていたのかもしれない。ともかく、祭を行うということは、その場の清浄が保障されることが必要だった。

また、祭への参加(特にその主宰)には物忌・精進を必要とした。これはなかなか大変なことで、精進屋という仮小屋で一定期間生活しなければならないような場合もあった。また、祭の日には集まって食事を共にする場合が多い。これを懇親会のように考えている者も多いが、これは単なる楽しみの寄り合いではなかった。むしろ「「籠る」ということが祭りの本体だったのである。すなわち本来は酒食をもって神を御もてなし申す間、一同が御前に侍坐することがマツリであった(p.300)」。

しかも籠る=物忌というのは、結構期間が長かった。この物忌みの期間は、元来、食物の規制は弱かったらしいが、音を出してはいけないという禁忌があったり、針仕事をしてはいけなかったり、地域によっていろいろで、なかなかやかましかった。物忌とは通常生活(特に生産生活)から離れるということに本質があり、毎日働かなければならない者にとっては負担が大きかった。

これと似ているが別系統と思われるのが祓(ハラエ)で、こちらの淵源はミソギにありそうである。ミソギとは水によって身を清めることだ。この、水をもって身を清めた上でないと神前に進めないという習俗は、今でも手水鉢となって残存している。いうまでもなく、これは祭の清浄性と関わっている。なお面白いのは、物忌では髪を洗ってはならないなど、清浄性とは真逆の規制があることである。

祭では馬と弓の競技のような様々な催しが行われ、灯明や篝火を焚いて普段は食べられぬような食事が供されることが多い。これらは貴人を歓待するやり方と同じであることは注意される。また、祭には舞と踊りが付属することも多いが、舞については貴人歓待というより、元来は神のよりましとなって神託を受けるためにトランス状態になったもののようだ。それは女性や幼童の役目であった。

このように一応祭を構成する要素を検討してから、著者は「改めて再び祭の中心はどこにあるか、何が最も主要な事務であったかを、できるだけ単純に考えてみなければならぬ(p.356)」と述べ、後半に続く。

ではマツリに必ず備わっている要件はなにか。それは第1にミテグラを立てること、第2に必ず飲食を伴うことの2つである。第1の点は御幣・玉串・笏や扇子などいろいろとあって一定せず、必ずしも共通とはいえないが、第2の点は著しい全国の共通点である。では神にどうやって飲食を進めたかというと、鳥についばませたり、狐に持っていかせたりする地域、また小児を神の代わりにした地域もある。神に飲食を進めるというのは、ただお供えするだけではなかった。

またその料理も、特別の鍋釜や膳椀があり、いつもは食べないものを用意した。また平生は忌むようなやり方で食物を供する場合もある(膳の木目を縦にするなど)。

直会(なおらい)というのは、祭の後に関係者で食事をすることであるが、これは今では神にお供えした食物の「おさがり」であると思っている人が多い。しかしそうではなく、そもそも祭の本質とは、神と人が特別な食事を相饗(あいあえ)することにあったのではないか。

今ではこの観念が衰退して、魚とか野菜を生のまま神へ奉げることが多くなったが、元来は特別に調理したものを奉げていたのは疑いない。そして神様用、人間用(直会用)とが別になってしまい、神との相饗という要素が減退してしまった。それは、祭に新たな要素(遊興的な要素)が付け加わっていった結果、その中心が供饌(ぐせん)以外のものに移行してしまったためであろう。

次に、祭を取り仕切る者を見てみると、大まかに分けてハフリと神主がある(ただし区別されていない地域もある)。おそらくはハフリ(祝)は職業ではなく地位を示すものであった。これが大夫(タユウ)になると、神職が職業化する一歩前の段階になる。家の特権として神役を世襲し、これが進んで専業の神職へなっていったと思われる。そしてこうした神職には、古来から神勤を世襲してきた家柄である場合と、後になって外部から移住してきた者による場合の2通りがあったようだ。特に移住してきた神職が神社の由緒を説くようになると、神社縁起は潤色された。それは元来の由緒縁起を攪乱することであったが、そうでもなければわざわざ神社縁起など残っていなかったかもしれない。

そして近世には、専業神主が現れるようになる。その要因は2つあった。第1に神道家が神事のやり方を煩瑣に規定して素人では果たしがたくし、また秘伝や口伝などを用い専業以外を締め出すようなことをしたこと、第2に祭に必要な物忌・斎忌を厳密に守ることは普通の人には困難で、専門の人に任す方がよいという趨勢があったことである。特に第2の点については、忌を完全に守らないと祭の効果が現れないばかりか、かえって悪い結果を招くとまで観念されていた。こうした風潮の中、代願・代参・代垢離のような、一人を代理者と決めてその一人に忌を厳重に守らせ、代行させる風習も盛んになった。こうなると専業神職にゆだねることになったのは自然の成り行きであろう。

それから、神社を参拝・参詣するとはどういうことか。当たり前のようだが、著者はこれを検討の俎上に載せる。こういったところに著者の慧眼が光っている。そしてこれを考えるため、著者は「お賽銭箱がいつから、いかなる必要に基づいて始まったか」を考察する。そして、これは「オヒネリ」から来ているのではないかと推測する。オヒネリ(またはオセンマイ)とは、洗米を紙に包んだもので、著者の経験ではこれを賽銭箱の上に撒いたのだという。つまり元々、紙に包んだ洗米を神社に奉納する慣習があり、これがいつのまにかお金に変わったと考えられる。そしてこれは、神社への参詣の道を開くものであった。

元来、神社は氏子が祭の時に集うもので、旅のものが気軽に参詣するものではなかったと思われる。「祭と参詣は、最初から二つ別々のものであった(p.402)」のだろう。しかし旅に出ることは神への信心を高めることとなり、旅先の神社に参詣することはまた重要な経験であった。

そもそも、神社に行って何を拝むか。そこで拝む神というのは、具体的に何を指しているものか。ここでいう神というのは、歴史ある大社のそれではなく、地域の社、すなわち鎮守とか氏神とかウブスナと呼ばれている神社のそれである。著者はいろいろと考察した末、「神が祖霊の力の融合であったということは、私はほぼ疑っておらぬ(p.425)」としながらも結論は避ける(これは後に『先祖の話』で結論づけた)。

そして最後に、明治政府の決定では、神道は宗教ではなく、また神社も宗教ではないとされたことに触れ、それには「普通の定義によればこれは信仰であり、また系統があるから一つの宗教であるともいえる(p.427)」とし、政府が神道や神社の興隆に力を入れている一方で、それがかつての伝統をないがしろにするものではないかとやんわりと危惧を表明している。

さて、本書には神社論として大きな特徴がある。それは、神話と天皇について全く何も触れていないということである。当然、著者が見落としていたのではなく、意図的にこれを避けたのだ。昭和16年といえば皇紀2600年にあたり、国家神道が最も高揚していた時期である。当時の神社や神道に関する本を読んでみれば、「かけまくも畏き天皇陛下」に言及しないものはなく、敬神が「国民の精神」であったと強調し、また日本の神話が歴史的事実であったことは前提となっている。そんな中で、本書に神話と天皇が全く登場しないことは、著者の強い意志を感じる。

それは、神話と天皇については、当時の状況からして学問的に批判検証することができないため、あえて不問にしようという態度なのに違いない。よって祭神についてもほとんど議論はない。そういった議論になりそうになるとあえて迂回するのだ。こうした迂回を行うことそのものが、今から見ると政府に対する不満の表明のようにも見える。

しかし著者は、政府の宗教政策をやんわりと批判はするが、決して真正面から否定はしない(といっても、そのやんわりとした批判すらも、柳田國男にして可能となったものなのだろう)。そして神話や天皇に関することでなくても、意図的に曖昧に書いているらしき箇所がある。特にそれを感じたのは、「神社に神は常在したか」という問題が、提起されながらも考究されなかった箇所である。

本書全体の議論を踏まえて要約すれば、日本の祭の根源的な姿というものは、「一年の特定の日に、山などにいる神を清浄な場所にしつらえた依りましに下ろす(依りましはモノの場合と人の場合がある)。そしてこの日のために一定期間物忌を行って身を清めた参加者が集い、神と共に特別な飲食を分配して食べる。時には、神が一定のコースで移動し、人々はそれと共に行列をなす。そして祭が終わると神は帰っていく」というようにまとめられる。

であれば、明らかに神社に神は常住していない。祭の行われていない時の神社は、敬うべきものではあっても、拝むものではない。にもかかわらず、政府が毎朝神拝をさせていることに「合点がゆかぬ」と著者はいう。神は、毎日拝むようなものでも、そうたびたび参拝するようなものではなかった。明治政府は、祭の根源ではなく、新しく付け加わった要素の方を中心として新しい神道を構築したのである。そしてその中心が、神話と天皇であった。

そうではあるが、神話と天皇は祭や神社に歴史的にも深くかかわっている。よって、本書の考察に神話と天皇が入っていないことは、その論考を少しいびつな構造にした。これは著者も十分認識していたと思う。そのために本書は不完全なものになったが、一方で、現代でも通用する神道論になったのもこのおかげだ。

なお、本書を読みながら気になったことがある。これは本書にはあまり書いていないことだが、本来、神が下りてくるのは夜だったのではないかということだ。つまり日本の祭は基本的に夜に行われていたのではないだろうか。同じことをやるのでも、昼やるのと夜やるのではかなり違う。この点は改めて考えてみたい。

また、書いていないといえば、本書にはご神体についての議論もない。これも政治的なことから避けたのであろう。だが全国の神社のご神体が何であるか、これは著者に民俗学的見地からまとめてほしかった。太平洋戦争の頃、柳田の学問は完成期を迎え、最も充実していた。もし、この時期が少しずれていたとしたら、神話や天皇についても考察に含めた「日本の祭」が分析されていたかもしれないと思う。それが書かれなかったのは実に惜しかった。

不自由な状況の中で日本の祭を考究した異形の講義録。

【関連書籍の読書メモ】
『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

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2025年1月4日土曜日

[論文]「日本中世における在俗出家について」平 雅行 著

日本中世における出家の要因を分析した論文。

本論文は、同著者の「出家入道と中世社会」に続くものである。この論文では中世において〈出家入道〉と呼ばれる存在が、社会のあらゆる階層に大量に存在していたことを示した。しかし彼らがなぜ出家したのかは、10の要因が概略的に述べられるのみであった。そこで本論文は、彼らが出家した理由を史料を博捜してまとめ、分類整理している。一見してわかるように本論文は非常なる労作である。

なお、前掲論文では「家督を保持したままの出家得度者」を〈出家入道〉と定義していたが、本論文では「寺院に所属しないまま世俗活動を行っている僧形の人々」を「在俗出家」と規定し、また明示はされていないが、そのような出家そのものも「在俗出家」と呼んでいる。さらに「在俗出家のうち、出家した後も家長・家妻として家督・家政権を維持して世俗活動を継続するもの」を〈出家入道〉と定義しなおしている。両論文で用語の使い方に微妙な差があることに注意しなくてはならない。やはりここでも家督がポイントになるのだが、本論文を読んでも家督の有無にどういう重要性があるのかはよくわからなかった(例えば家督を継承していない嫡子が在俗出家する場合は〈出家入道〉ではないが、そういう区別が議論のどこに効いてくるのか)。

また、本論文で分類整理される出家の理由では、在俗出家の場合と、在俗出家後に世俗活動を停止する〈遁世〉の場合の2種類を区別していない。これは実際上区別が難しいためである。ただし顕密僧になるための出家は除かれている。

本論文は、史料上から理由が明確な、あるいは推測が可能な在俗出家・遁世の出家の事例が40ページ以上にわたって掲載されており俯瞰は困難だが、自分なりに以下にまとめてみた(番号は著者によるもの)。またそれぞれについて主な事例(人名と出家の年)を適宜抜き書きした。

1.自発型出家

①病
 死を覚悟した出家(藤原道長1019←権力者の在俗出家の嚆矢となった重要事例)
 出家による治病効果を期待したもの(後三条上皇1073)
②厄
 厄による死を覚悟した出家(洞院公賢1359)
 厄払いを目的とした出家(後三条天皇1073)
③発心(狛則康1156、源雅定1154、藤原兼房1199、殷富門院1192)
④高齢(藤原宗忠1138)
⑤充足(後白河院1169、後深草院1290)
⑥他者の死
 (a)主人(源顕基1036←天皇の死に殉じた出家の早い事例。殷富門院の女房多数1192、北条時頼の御家人多数1263)※鎌倉時代に膨大な事例がある。
 (b)夫(後三条院・後白河院・後嵯峨院・亀山院・伏見院の女御、坊門信清女1219)
  ※夫からの相続を確定させる意味もあった。
 (c)妻(九条兼実1201、後宇多院1307←純粋な思慕から!)※事例少数
 (d)子(白河院1096←郁芳門院の死:重要な事例)※事例少数
 (e)養君(乳母・乳父の出家)(北畠親房(1330))※詫びの意あり事例多数
 (f)父母(聡子内親王1073)※不婚内親王に多い
 (g)きょうだい(良子(後三条天皇の姉)1073)
⑦同心の出家←誰かと同時に行う出家。
 (a)主従(花山天皇・藤原義懐・藤原惟成986、亀山院・北畠師親1289)
  ※栄誉の意味があり事例多数だが、近臣にしか認められなくなる
 (b)夫婦(藤原忠信夫妻993)※夫婦で同心出家すると治病効果が高いとされた
 (c)親子(仁明天皇と皇子850)※中世では確認できず
 (d)きょうだい(藤原定家の娘姉妹1233)
⑧政治的敗北
 (a)左遷回避(藤原伊周996)※左遷先の大宰権帥が朝廷官職だったため
 (b)引責・謹慎・助命(安倍則任1062、源為義1156、高師直1351)
  ※事例多数。次第に単なる出家では許されなくなり、黒衣・喪無衣といった遁世僧の装いを要件とするようになった。
 (c)嫌疑を晴らすため(斉世親王901←在俗出家ではない、宇都宮頼綱1205)
⑨失意・諦念(惟康親王1289、四条隆顕1276、新陽明門院1290)※宮中の女性に多い。
⑩恥辱(下河辺行秀1193、藤原季輔1130、吉田経藤1261)
⑪不満・抗議
 (a)官位官職への不満(藤原通憲(信西)1143、新田政義1244)
 (b)政治的抗議
  (b1)権勢者による権力闘争の一手段(後深草院1274(未遂)、足利義嗣1416)
  (b2)政治的下位者による抗議(北条貞時後家ほか1326、飯尾元連ほか40名1485)
    ※ストライキのような集団出家が行われていた。事例多数。
 (c)親または子への抗議(藤原公賢1226←愛妾との離縁を迫る父への抗議、紀良子1374)
 (d)夫への抗議(小川禅啓妻1425←新妻に嫉妬、北政所吉子1348)
  ※夫の了解ない出家は離縁された。むしろ離縁のための出家もあったかも?
⑫主従関係の解消としての出家(荻野景継1212、西園寺公経1217)
⑬政争や戦乱に巻き込まれるのを回避するための出家(和田朝盛1213、金沢貞顕1326、葉室長隆ほか1336、宣政門院1339)
 ※近親者の死などを名目として、主君から距離を置くため出家した。
⑭政治的野心のないことを表明するための出家(伏見宮貞成1425、足利義視1489)
 ※自ら身を引くことで自分の子息を要職に就かせる意図もある。
⑮入道成(村や町で入道として扱われるための出家)

2.強制型出家

①政治的軍事的な敗北者に対する強制的出家(源頼家1203、足利直冬1349、後鳥羽院1221)
 ※出家を条件に助命するなど。 
②(敵対関係にない)上位者からの出家の提案によるもの(千種忠顕ほか1336)
③同心出家の強制(四辻季顕・斯波義将・大内義弘ほか多数1395←足利義満との同心。義満は同心出家したものを優遇した)
④後家に対する強制的出家(菊亭公行女1425)
 ※夫が死去したら後家は出家するものという社会通念の押し付け。

3.複合型出家

①一般複合型(九条頼経1245←年来の素懐+彗星+病気)※ほとんどの出家は複合型
②口実型(大庭景義1193、新田政義1244、名越光時1246)
 ※本当の理由は処罰・抗議などであったとしても、角が立つのを避けるために出家を口実にした。

4.死後出家

(藻璧門院1233、後光厳院1374、後円融院1393)
※院政期には必要とはみなされておらず、鎌倉時代までは例外的。室町時代になると相当な広がりがある。

以上である。ここまででも本論文が恐ろしく濃密であることがわかると思うが、これに続いていくつかの考察を加えている。

まず、在俗出家は戒律を気にしたか。これは、禁欲を貫くか、最初の頃だけ禁欲するか、ほとんど禁欲を意識しない、という3タイプがあり、人それぞれであった。また性的禁欲はせずとも魚を食べないといった禁欲もある(白河院)。ちなみに後白河院は全く禁欲を意識しなかったタイプで、著者は「とても出家者の振る舞いとは思えない」と述べている。持戒持律は少数派であったが、それは「中世では本当の意味での自発的な出家が少なく、社会的要因によって出家を余儀なくされることが非常に多い」ためだという。

次に殉死について(出家と直接の関係はない)。中世では殉死の例は少ない。なぜ殉死が少ないのか。著者は、そこに輪廻転生の死生観(仏教的六道観)が影響していたと見る。生まれ変わっても主従になるとは限らない。だから殉死の意味が薄いのだという。ただし、ともに浄土に行くという観念を持っている人もいる。こういう場合は殉死が行われた(本願寺実如の死(1495)では切腹した門徒がいた)。

次に、なぜ〈出家入道〉が盛行したのかという要因を考察している。それをまとめると、第1に藤原道長を嚆矢として権勢者が出家し、人々がそれに倣ったこと、第2に中世人が仏道に強く憧れており、世事と仏事の二兎を追いたい心情があったこと、第3に道心にもとづかない出家が大量に存在し、特定の状況になった時に出家すべきだという同調圧力や権力者に媚びを売るための出家さえあったこと、第4に中世では諸職が相続されるようになった結果、父権が非常に強くなり、朝廷や幕府の官職を退いても世俗社会の実権を掌握していた家督保持者が現れたこと、第5に〈出家入道〉でも世俗活動を続けてもよいという社会通念が形成されたこと、第6に〈出家入道〉の在り方を本覚思想が正当化したこと、である。

「むすびにかえて」では、まず〈出家入道〉の服装について述べている。〈出家入道〉は必ずしも僧衣ではなかったようだ(黒衣と聖道の2通り)。そこで室町時代の幕府の規定では服装が「俗人」「僧侶」「〈出家入道〉」の3本立てになったらしい。その規定を見ると〈出家入道〉は法皇や貴族の顕密僧の身分標識を流用していた模様である。つまり〈出家入道〉になると身分が少し上がったようになるのである。だが皆が皆そういう装束をつけていたわけではなく、貴族出身の〈出家入道〉でもそれとわからない黒衣の者もいた。つまり〈出家入道〉は服装も境界的なのである。

次に専修念仏との関係について簡単に触れ、「ほぼ無関係」と結論し、「〈出家入道〉とは基本的に顕密仏教の浄土教にものづくもの」であったとしている。そして最後に「〈出家入道〉の衰退に関わる難問」として、〈出家入道〉が16世紀に急減する現象の理由について「今の私には答えが出せていない」と述べている。最後に「出家・遁世の要因については、一層精緻な検討が必要であろう」として擱筆されている。

さて、私自身の関心としては、なぜ人々はわざわざ在俗出家したのか、ということにある。前論文での私の理解は、「出家とは現代の人が要職を退くのと似たようなものだった」というものだったが、本論文を読むとそこまで単純なものではないと感じた。また、著者は中世人は仏道に強く憧れていたと強調するが、それは事実としても、時代が進むにつれて自発的なものより「やむをえず出家した」というケースが増えるように思われる。なんだか出家が「目的」ではなく「手段」になっている。

そういう意味で注目したのは斯波義将の場合である。彼は足利義満が出家した際に「断り切れなくて」出家した。そして斯波義将が出家したことで〈出家入道〉の管領が誕生している。なぜ注目したのかというと、彼が出家したくなかった理由がわからないのだ。なにしろ、出家したからといって彼の人生に不利益が生じるようなおそれはなかった。もしかしたら、彼は出家したら持戒しなくてはならないと考えていたのかもしれないが、であるにしても「世事」と「仏事」の二兎を追うことができるのを喜ばしく思わないのだろうか。さらに義満は、この時いろいろな人に強引に同心出家を押し付け、万里小路嗣房は「出家料」として従一位に叙せられている。出家した者への優遇措置まであったのだ。となれば出家に及び腰になる理由はない。「手段」としても悪くはないのだ。それでも斯波義将が出家したくなかった理由は何か。これは中世の在俗出家を考える上での糸口かもしれない。

斯波義将のように本心では出家したくなかった人はたくさんいて、強制型出家は当然として、自発型でも⑧政治的敗北、⑨失意・諦念、⑩恥辱、⑪不満・抗議、⑫主従関係の解消としての出家、⑬政争や戦乱に巻き込まれるのを回避するための出家、⑭政治的野心のないことを表明するための出家、などはそれにあたる。在俗出家が一般的になった結果、特定の状況になった場合には出家するべきだ、という通念さえ生じたのである。

つまり出家とは、「自ら望んでそうする人にとっては名誉なことだが、やむを得ずそうする人にとっては罰則的な意味があり、またある文脈でそれをすることは抗議やストライキの意味も持つ」といった行為であった。これは前述のとおり現代での「要職を退く」のと概ね共通している。

だが「要職を退く」ことは実際に仕事から手を引くことであるが、在俗出家の場合は、引き続き従前の仕事を続けていることも多い。この点で出家は「要職を退く」のとは決定的な違いがある。ただし、本書の事例を見てみると、「やむをえず出家した」場合は実際の社会生活の面でも引退・縮小を余儀なくされている場合が多いようである。

つまり在俗出家は自発的な場合と、やむを得ない場合で違う扱いがあったのかもしれない。であっても、やはり斯波義将が出家したくなかった理由は謎だ。彼の場合は社会的な面で不利益がないからだ。仏法が好きでなかった、なんてことはないと思うのだが。

また、やむを得ない出家の場合に社会生活の引退・縮小が必要なのだとすれば、なおさら出家の持つ意味がよくわからなくなる。つまりこの場合の出家の本質が社会生活の引退などであれば、むしろ出家自体が不要で、引退さえあればいいのではないか。わざわざ出家させなくても、免職・隠居などを求めれば済む。実際、江戸時代にはそうなっている。出家の持つ意味はなんなのか。

これは入道成(にゅうどうなり)でも似たようなことが指摘できる。町や農村において、指導者層の仲間入りするために出家するのが入道成である。なぜ出家すると指導者層として扱われるのか。本論文では出家成の際に町に祝儀を納める必要があったことを指摘し、「在俗出家を行うために共同体に米銭を納めているわけであるが、それは逆にいえば、出家することが、世俗社会における地位の上昇につながっていることを意味して」いるのだとする。これは、現代の社会で、それなりの社会的地位の人・企業が祭の協賛金を一定以上出す暗黙の了解があるのと似ている。とはいえ、入道成の本質が米銭の納入にあったとすると、わざわざ出家する必要はなく、ただ費用負担さえすればよいということにならないか。やはり出家の持つ意味はなんなのかという問題になってくる。

それから、在俗出家を考えるにあたって本論文が全く触れていない点がある。それは還俗(げんぞく)だ。還俗とは出家を辞めて俗人に戻ることである。社会生活の引退や米銭の納入と出家とが決定的に異なるのは、出家が一方通行であることだ。一度出家したら後戻りすることができない、と中世の人は考えていたようだ。だが、近世になると還俗はありふれたものになる。もし還俗ができるならば斯波義将も出家をためらうことはなかっただろう。中世人が出家に意味を付与していたのは一方通行だったからと考えられる。

とすれば、著者が不明とする「〈出家入道〉が16世紀に急減する現象の理由」も、このあたりにあるかもしれない。還俗することが普通になると、「やむをえず行う出家」などあまり意味がなくなるからだ。本論文は在俗出家の事例を幅広く探った、いわば「在俗出家の歴史」であるが、これと対をなす「還俗の歴史」を解き明かすことによって、在俗出家がより深く理解できるのではないだろうか。

※大阪大学大学院文学研究科紀要、2015

2025年1月2日木曜日

[論文]「出家入道と中世社会」平 雅行 著

〈出家入道〉に光を当てた論文。

中世には、大量の僧形の人がいた。そこには、専門の僧侶ではなく、俗人としての生活を続けながら僧形になっていた人〈出家入道〉が数多く含まれる。しかしこれまで、そうした人々は研究の対象となっていなかった。本論文は、その存在を初めて体系的に明らかにしたものである。

なお、本論文における〈出家入道〉は「家督を保持したままの出家得度者」と規定している。なぜ〈〉付きかというと、出家・入道ともに歴史的に使われた言葉だが、これは著者が「歴史用語」として定義して使っているからである。なお、本書では女性の〈出家入道〉は除外されている(別に改めて検討するとしている)。

本論文では、先行研究を簡単に整理した後、「出家」「入道」「遁世」の用語について検証している。近年、「遁世」は「二重出家」(顕密僧を辞めること、出家後に社会生活から撤退すること)の意だと定着してきたが、歴史的な用語としては必ずしもそうではなく、「出家」「入道」「遁世」は同じ意味で使われてきた。しかし平安末期から鎌倉時代にかけて、出家しながらなお家督を保持しているものが表れた。そこで「出家」の後に「遁世」が来るという二段階の意味になっていったのである。

なお、〈出家入道〉の概念に「家督」が関わっていることは私には意外だった。一見、出家と家督には直接の関係はないと思われるからだ。例えば家督を継承しなかった男性が出家し、それでも世俗活動を継続していたとしても、本書の概念規定ではそれは〈出家入道〉ではない。当然、「家督」とは何か、という議論がこれに影響してくるが、本論文では特に何も言及がなかった。

さて、ではそもそもなぜ人々は出家したのか(ここでいう出家は顕密僧になるための出家ではなく、〈出家入道〉の出家=俗人のままの出家)。それは、第1に病気のため、第2に高齢のため、第3に恥辱や挫折のため(後輩に官位を越されるなど)、第4に政治的軍事的敗北による引責・謹慎や命乞いのため、第5に主人の死に殉じるため、第6に主君と家臣や夫婦の同心出家、第7に近親者の死を契機とする出家、第8に厄年のため、第9に発心出家(←これが本来の出家)、第10に現世への充足である。現世に満足し執着することは地獄に落ちる要因と考えられていたからである。

これを見ると、第8~10を除けば、現代の人が要職を辞するのと似ている。〈出家入道〉とは、「要職は退いたが、引き続き会社には務めている」というような状態ともいえる。そして「貴族が出家するには勅許が必要であったし、武家が出家する場合には将軍の御免を要した」。特に鎌倉幕府は勝手に出家することを「自由出家」として所領没収の咎に処した。なぜ俗人としての仕事を続ける前提であったのに、「自由出家」を禁じたのだろうか。なお妻の出家の場合は夫の了解を得なければ離縁となった。

次に、各階層での〈出家入道〉の事例を史料を博捜して述べている。それをまとめると次のとおりである。

(1)天皇・摂関には、基本的に〈出家入道〉で在任したものはいない。藤原道長が出家したように権勢者も出家したが、それは職を辞して行うものであった。法皇も〈出家入道〉だ。なお出家すると官位を辞するのが普通だが、出家後にも「准后」宣下は行われている。ただしこれは女性の例である(本書には書いていないが「女院」もそうだろう)。

(2)院御所議定や関東申次。これが第2に述べられていること自体が興味深い。院政下においてこれらは重要なポストであった。〈出家入道〉は広義の公卿議定に参加して院政を支えていた。

(3)知行国主。面白いことに国司の〈出家入道〉はいない。法皇の知行国があった以上、知行国主の〈出家入道〉がいたことは当然だろう。むしろなぜ国司にいなかったのだろうか。もしかしたら律令に基づく官職は出家の身では務められないという認識があったのかもしれない。

(4)本家・領家。彼らが残した文書には、「入道」とか「禅定」とか署名しているものがある。彼らは出家しても荘園の権限を手放していなかったのだ。それは「彼らが出家後も家督を保持することができたことを意味している」。

(5)家政機関の職員。これは院庁の職員などである。その文書にも「沙弥」と署名しているものが数多い。

(6)目代・在国司や在庁官人。国司には〈出家入道〉はいないのに、在国司などには〈出家入道〉がいるのは不思議だ。これらは律令に基づく官職ではなかったからかもしれない。

(7)荘園業務に携わる所職。預所・下司・公文・郡司・郷司・図師・田所・案主・弁済使・総追捕使に〈出家入道〉が就くことは珍しくない。この中で、郡司は律令に基づく官職だ。ただし郡司の人事権はこの時代には律令に基づいていないと思う。

以上を見てみると、本書には特に考察はないが、〈出家入道〉は律令制とは原則的には相いれないものであったように思う。逆に言えば、律令外(令外官)だったら〈出家入道〉でも務められたということになるが、それをいうなら摂関も令外官である。もしかしたら関係ないかもしれない。

次に、三善善信、佐々木信綱、安達時盛の場合についてケーススタディ的に武家社会における出家の在り方を考察している。この中で三善善信は幕府要人のなかで最初の〈出家入道〉だ。その時期は治承5年(1181)頃である。佐々木信綱は〈出家し入道〉となり、さらにちゃんと幕府の許可を得て「遁世」した。この場合は所領を問題なく相続させている。一方、安達時盛は〈出家入道〉になったのは同じだが、幕府の許可を得ずに「自由出家」で「遁世」した。彼の場合は所領を没収されて兄弟からも義絶された。しかしなぜ安達時盛は所領没収がわかっていたのに「自由出家」などしたのだろう。それとも許可を得る必要をわかっていなかったうっかりミスなのだろうか?

では幕府の要職はどうだろうか。鎌倉幕府・室町幕府を通じて〈出家入道〉の将軍はいない。また鎌倉幕府では執権・連署・六波羅探題・鎮西探題にも確認できない。彼らは職を辞してから出家した。しかし出家後にも幕政に大きな力を保持していたものは多い。典型的には足利義満だ。それでも一応職を辞しているのはなぜなのか。それは「〈出家入道〉が執権・連署をつとめることに憚りの意識が働いたからであろう」が、なぜ憚りの意識があったのかは定かではない。なお、上述の諸職以外には〈出家入道〉はいる。上述の諸職は、じつは北条氏一門が独占していた役職なのだが、〈出家入道〉を就かせないことによってその権威を高めていたと考えられる。

一方、室町幕府では管領には〈出家入道〉は珍しくない。これは義満が出家したことで憚りの意識が消えたことによるもののようだ。

次に、鎌倉・室町幕府の役職で、御家人が就くことのできるものは基本的に〈出家入道〉が認められていた。守護・地頭にも〈出家入道〉は多い。そして、〈出家入道〉であっても御家人役(軍役・大番役・関東御公事)は負担していた。

それでは、民衆の世界で〈出家入道〉はどうであったかというと、神人が基本的に俗人であるくらいで(それでも例外的に〈出家入道〉はいる)、百姓や商工業はもちろん、技術者、奴婢下人(!)、被差別人にまで〈出家入道〉がいる。非人集団の上層部が僧形だったのは興味深い。応永27年(1420)に朝鮮からの使節として訪日した宋希璟は日本の村に僧形の百姓が多いことに驚嘆している。

もちろん、彼らは僧形であってもちゃんと年貢・公事の納入は義務であった。そして幕府の許可を得るなどの手続きがなかったため、民衆は御家人などよりずっと気軽に出家することができた。であるから面白いことに、民衆の〈出家入道〉の方が貴顕のそれより早く社会に広まった。公家・武家で〈出家入道〉が広まるのは平安末から鎌倉時代になってからであるが、民衆の場合は900年代後半から〈出家入道〉が現れるのである。上層部の動きが民衆に広まったのではないのだ。「この事実は、法然・親鸞などの鎌倉新仏教によって初めて民衆布教がなされたという、いわゆる鎌倉新仏教論に対する痛烈な反証となる」のだ。

続いて、〈出家入道〉が中世文化にどのような影響を与えたかを考察している。まずは神仏習合の進展だ。神事には僧尼を遠ざけなくてはならないという禁忌が、最高権力者が〈出家入道〉であることによって徐々に緩んでいるのである。白河院の側近であり、本地垂迹説を主導した大江匡房がそういう禁忌を心配しなくてよいといっているのは象徴的だ。鎌倉時代には伊勢神宮での読経や経供養が増えており、法楽舎の造立で神宮法楽は恒常化した。

足利義満は神宮の禁忌を気にせず、神前にまで参拝した。「義満は世俗と出家のボーダーレス化を進めたが」、「神宮と仏法の境界をも曖昧にした」。

なお賀茂社では白河法皇の時代に神仏習合が劇的に進み、上賀茂神社では塔が、下社では東塔と西塔が造立されたし、上賀茂神社では「入道神主」までが登場した。

さらに本論文では、〈出家入道〉が本覚思想の基盤となったと述べている。ただし、私としては〈出家入道〉と本覚思想の関連はピンとこなかった。とはいえ、〈出家入道〉が仏教本来の世俗忌避の性格を薄めるのに一役買い、世俗的なものに変貌していく一因であったことは確かであり、これは本覚思想と軌を一にしている。

最後に、「〈出家入道〉が中世仏教を真の意味で支えていた」として、これまで看過されてきた〈出家入道〉を仏教史に組み込むことを提言して擱筆されている。

なお、本論文を読みながらちょっと疑問だったのは、なぜ人々はわざわざ〈出家入道〉になったのかということだ。何しろ出家しても社会生活が何も変わらない。義務から解放されるわけでも、特典を得られるわけでもない。出家する10の理由は、確かに彼らの念頭にはあったのだろう。それは現代の人が要職を退くのと似たようなものだったというのは先述の通りだ。

だが民衆の場合はどうなのか。彼らは要職に就いていたわけでもなく、公家や御家人と違って気軽に出家できたので、出家はありふれた行為であり、それほど功徳を実感できたとは思えない。出家に何の魅力を感じていたのか。

なお本論文では、出家することが村の指導者となる資格を得る一環ではなかったかと指摘している。「貞和2年(1346)近江国菅浦では惣村置文を定めているが、そこに署名した12名の乙名は全員が「正阿ミた仏」「正信房」「上阿弥陀仏」などの僧名」であった。全員が〈出家入道〉とは、やはり出家と村における地位には関係があるのかもしれない。しかし一方で、民衆が自由に出家できたとするなら、出家の価値が重かったとも思えない。どういうことなのだろうか。

※大阪大学大学院文学研究科紀要 2013

2025年1月1日水曜日

『女たちの平安後期――紫式部から源平までの200年』榎村 寛之 著

女性の存在に注目して平安時代後期を語る本。

本書は、藤原道長が政権を握ってから源平の合戦までを中心として、女性の動向に注意して歴史を述べるものである。この頃は武士が抬頭して武家政権へと向かっていく時代であるが、女性が大きな権力を持っていた時代でもある。それは慈円が『愚管抄』で「女人入眼(じゅげん)の日本国(女性が大事なことを決める国)」と書いた通りだ。

ところで、この時代の人間関係は非常に複雑である。それは、第1に天皇には妻が複数いたこと、第2に養子や猶子(名義上の子供)、准母(名義上の母親)など血のつながりのない家族(現代の概念とは異なる家族)が多く見られたこと、第3に婚姻・血縁関係が重層的であること(だれそれが誰の妹で、彼女が誰の叔母で…といったような)、が主な理由である。

そんなわけで、本書を理解するのは骨が折れた。随所に懇切な系図が挿入されているのだがそれでも難しい。正直にいって、当時の人間関係を頭に入れるまでには至っていない。しかもこの時代は歴史の動きと人間関係が密接にかかわっている。そもそも摂関政治とは天皇のミウチによる政治だからだ。そして女性は、その人間関係・血縁関係の重要な紐帯であった。であるからこそ、この時代に女性の権威が高まったのだ。よって、人間関係が頭に入っていないと女性の立場は理解できないのだ。よって、私の理解は一知半解と言わざるを得ない。以下、私が気になったことを中心にメモする。

なお、当時の女性の権力者には「女院(にょいん)」という立場が多い。これは上皇(院)に擬えたもので、天皇から贈られる尊号のようである。本書の主人公の女性たちはみな「女院」だ。ちなみに女院の第一号は東三条院詮子(あきこ)、藤原道長の姉で一条天皇の母である。

本書の始めの主人公は、上東門院彰子(あきこ)である。彼女は藤原道長の娘で、一条天皇の中宮である。ちなみに一条天皇の皇后は定子(さだこ:道長の兄の子、彰子にとっての従姉妹)であるが、そのほか一条天皇には3人の妻がいる。彰子は道長の後援の下で一条天皇の皇子を生むことができ、さらにその子が後一条天皇として即位したことで権威を確立した。天皇の母となって後は道長も彼女に気を遣ってはいたが、それでも道長の「手駒(p.36)」「ロボット(p.40)」にすぎなかった。しかしその後彼女の権力は次第に実体化し、宮廷で影響力を行使するようになった。

道長は娘を後宮に次々送り込んだが、男性皇族の数が少なく、また短命でもあったので、道長が「この世をば~」の歌を詠んだ時点では天皇家はたった5人しかいなかった。すなわち、後一条天皇、敦良親王(あつなが、後一条の子→後朱雀天皇)、姸子(きよこ、三条天皇(故人)の中宮、彰子の妹)、威子(たけこ、後一条天皇の中宮、彰子の妹)、それから彰子の5人である。この中での彰子の立場は、天皇の母でありキサキたちの姉であり、東宮の祖母ということになり、天皇家の家長なのだ。彰子は道長より格上であり、道長を太政大臣に任命したのは彰子であった。

彼女は万寿3年(1026)に出家し(=法名「清浄覚」)、藤原氏の中宮経験者としては初めて「上東門院」という女院となった(女院としては東三条院に続いて二番目)。「ものすごい身分の女性(p.43)」である。道長が没すると彼女は天皇家と摂関家の双方に君臨した。しかも彼女は当時としてはとびぬけて長命で、87歳まで生きた。

そして彼女のサロンには「なかなかとんでもない身分の女房がいた(p.44)」。世が世なら女御や中宮になるような高級貴族の娘が出仕していたのだ。彰子や源倫子(道長の正妻)のサロンは、政治的に微妙な(後援者を失った)女性や、政治的な才覚に乏しい女性を入れることで保護していた可能性がある。それはサロンの価値を高めることでもあった。

次の主人公は、陽明門院禎子(さだこ)内親王である。彰子の妹・姸子(きよこ)と三条天皇との間に生まれたのが彼女である(残念ながら姸子は男子を産まなかった)。道長は、最初禎子が男子でないことに失望したが、考えを改めて彼女を後援し、異例の速さで彼女を昇進させた。彼女は若くして一品(いっぽん、皇族の最高位)になっている。

そして彼女は、正妻を亡くしていた敦良(あつなが)親王、後の後朱雀天皇と結婚した。これは村上天皇から分かれた冷泉系(三条天皇)・円融系(一条天皇・後朱雀天皇)の血統を再統合・回収するという政策意図があったとされる。二人の結婚は道長がなくなる8か月前の万寿4年(1027)であった。

ちなみに頼通(道長の子)の代では、人間関係図が一変する。それは道長と違い、頼通には女子が一人しかいなかったからだ。禎子と後朱雀は両方道長の孫ではあるが、天皇家内の結婚であって当然藤原氏ではない。道長は、藤原氏の娘を天皇家に入内させることができない以上、せめて藤原氏との血縁を濃くしようと禎子と敦良を結婚させたのだろう。それは「氏」というものがルーズになっていった事情もあるようだ。

なお藤原頼通には「もう一つの面白い顔(p.67)」がある。神鏡に対する信仰は一条天皇時代から高まっていたが、内侍所神楽を完成させたらしいのが頼通なのだ。この時代は天皇家と神祇信仰との関わりも深く、皇族の女子は伊勢斎王、賀茂斎院として派遣された。そして斎王・斎院であることは女性の権威の源泉の一つであった。(本書では斎王・斎院・斎宮の用語があまり区別されずに使われているように見える。)

だが頼通は伊勢斎王にはあまり価値を置いていなかったらしき形跡がある。ここで本書では、伊勢斎王にまつわる政治的動向を記すが詳細は割愛する。その要諦は、どうしても摂関家を天皇家の外戚としたい頼通は、道長の六女と後朱雀天皇の子=後冷泉天皇の系統に皇位を継承させたかったが、禎子はその子(後の後三条天皇)に継承させたい、という両者のライバル争いであった。ただし禎子は皇族の家長で最高の権威はあったが外戚のような後援者がいない。そこで彼女が雌伏の時をすごすのに、近親者を伊勢斎王・賀茂斎院に送るという手法を取ったのではないかというのである。結局、このライバル争いは後冷泉天皇が子供をもうけないうちに死去してしまったことで禎子側の粘り勝ちになり、後三条天皇が即位した。なお禎子は長命で82歳まで生きた。「長生きすることで成功への一番の近道(p.77)」なのだ。本書は禎子について「摂関家を権力の座から追い落した生涯(同)」と言っている。

ここで本書では2つのエピソードが挿入されている。第1に斎王密通事件(第4章)、第2に『新猿楽記』に見る女性たちである(第5章)。第1については武士とはいかなる存在であるかを事件を通じて考察するものであり、第2については『新猿楽記』の主役である一家の個性的な女性たちについて面白おかしく紹介したものだ。彼女らはかなり戯画化された存在であるとはいえ、当時の生き生きとした社会を彷彿させる。紫式部とほぼ同時代、息が詰まる宮廷の外では、女性も男性も躍動していた。

次の主役は、郁芳門院媞子(やすこ)内親王である。彼女は行き当たりばったりの専制君主白河天皇の子で、母親は若くして亡くなった藤原賢子(かたいこ)。白河が死のケガレも気にせず側に寄り添ったという愛妃の子である。彼女の生涯で面白いのは、わずか5歳で伊勢斎王となっていることだ。先述のとおり伊勢斎王には一定の権威があった。斎王は未婚の皇女(内親王)が務めるから、人材不足の時もある。この時は三条系の女子が斎王を務めていたが、白河にとってはこれを自分の系統に取り戻す必要がある。それで派遣されたのが媞子なのである。ちなみに彼女は3歳で「准三宮」に任じられている。これは皇后宮・皇太后宮・太皇太后宮の三宮に准ずる地位である。

この媞子の同母弟がこれまたわずか8歳で堀川天皇として即位すると、その翌年、媞子は准母になった。そもそも天皇の母は、即位儀を一人で行えない幼帝のために必要であったが、堀河天皇は8歳で即位儀を一人で行っており、必ずしも准母は必要なかった。にもかかわらず白河院は媞子を准母にした。続いて、寛治5年(1091)、白河院は彼女を未婚のまま「中宮」にした。これは本来は天皇の正妻(の宮殿)の意だが、この頃には天皇になった親王の母に与えられる称号になっていた。

さらに、その2年後には中宮を「卒業」し、より自由な立場である郁芳門院という女院になった。彼女は天下の権勢この人にありといわれる状態となり、白河院も出歩くときにはほとんど彼女を伴っていた。彼女は嘉保3年(1096)に急死したため、白河院が彼女をどうしたかったのかは不明であるが、未婚女院という前例となったことと、白河院が彼女の菩提を弔うために彼女の居宅「六条殿」を「六条御堂」という寺に改装したことは重要である。

彼女の権威の源泉は、もちろん白河院の後援にもあったのだが、やはり元斎王ということにあったようだ。彼女の妹令子(のりこ)も賀茂斎院になっているが、未婚で鳥羽天皇の准母となって、鳥羽天皇の即位後は皇后となった。最高位の輿に乗れるのは天皇・皇后・斎王に限られていたというのも、斎王の地位を考える上で象徴的な事実である。

藤原璋子(たまこ)こと待賢門院も重要だ。彼女は閑院流藤原氏の出身で、鳥羽天皇の中宮、崇徳・後白河天皇の母である。閑院流藤原氏とは、藤原氏の家系の一つであるが、この時代、藤原氏は「五摂家」と呼ばれる家系が分立し、「氏」とはちがう「家」という系統が確立していった。「家」とは男系子孫が家職を継承していく仕組みである。閑院流は藤原道長の叔父公季の子孫であり、ここから徳大寺・西園寺・三条などの「家」が生まれた系統であるが、摂関家ではない。彼女が崇徳・後白河を生んだことで、結果的に皇統から摂関家が排除され、名実ともに外戚としての摂関家は終了した。こうして院と摂関は相互依存しながら別の権門として機能する体制になる。

璋子は崇徳院の即位にともなって天皇の母ということで女院号を受け、待賢門院となった。彼女には大量の荘園が寄進され、大荘園領主となった(白河から譲られたのではない!)。

一方、鳥羽天皇(上皇)には傍流藤原氏の出身の藤原得子(なりこ)という愛人がいた(女御でもなかった!)。彼女が愛人の立場で生んだ子が近衛天皇として即位すると、彼女はきわめて異例なことに皇后となった(先述の中宮と同じく地位を示す称号であり、天皇の后となったわけではない)。さらに彼女は女院となってステップアップする。美福門院である。そして鳥羽院と美福門院の菩提を弔うため、生前に安楽寿院(寺院)が建立されているが、ここには大量の荘園が集積された(→安楽寿院領)。美福門院はこの大荘園領主となったのである。なお、鳥羽院の遺体は安楽寿院の三重塔に葬られたが、美福門院はそれを拒否して高野山に納骨させた。なぜなのか興味深い。

ところで、なぜ女院領荘園には大量の荘園が集積されたのか。それは、先述した女院のサロンに関係がある。女院の下には数多くの女房が出仕していたが、その女房の夫にとっては、権力者とのつながりがこのサロンということになる。女院や院の御願寺を建立するとなれば、出仕している女房を通じて荘園を寄進するのが権力者に取り入る手っ取り早い手段だったのである。それに形式的にでも寺院領とすることは、相続に伴う分割などを気にしなくてもよいという事情もあった。よって女院や院の御願寺には荘園が集積したのである。

しかしながら、「一見すると女性が社会を動かしているように見えるが、ことはそう単純ではない。女性の栄華は待賢門院でも美福門院でも祇園女御(※白河院の晩年の愛人)でも一代限り(p.166)」であった。いくら女性に権威があったからといってもその根源には院からの寵愛があり、独自の「権門」ではあったがそれを自らの意思でその血統に継承させていくことはできなかった。藤原氏、大寺院といった他の「権門」が法人のようなものであったのと比べ、女院の「権門」は個人事業主のようなものだったのだ。

ちなみに院の寵愛を受けたものが女性とは限らず、白河院の男色の愛人だった藤原成親は栄達を遂げている(鹿ケ谷の陰謀事件で失脚)。

先述の通り、鳥羽天皇と待賢門院との間に生まれたのが後白河であるが、その子供(後の二条天皇)を養子にしたのが意外なことに美福門院であった。二条天皇から見ると、祖父の愛人の養子になったことになる。もともと後白河は皇位を継承する位置になかった自由人で、時の天皇は鳥羽院と美福門院との子近衛であってその系統が期待されていた。ところが近衛が17歳で早世したことで棚ぼた的に後白河にお鉢が回ってきた。なぜなら、当時最も権威があった美福門院としては、血縁はなくとも自分が養子にしている二条に皇統を継がせたく、それならばその父の後白河を天皇にするほかないからである。

よって後白河は東宮になることなく異例の即位を行った。そして二条天皇が16歳で即位すると、美福門院と鳥羽天皇の子で未婚の暲子(あきこ)内親王を准母にした。だが彼女は中宮・皇后としての経験がないのはもちろん、斎宮・斎院としての経験もない。異例の准母だ。そして永暦元年(1160)に美福門院が死ぬと、その地位を暲子が八条院として継承。こうして天皇としての基礎教育を受けていない後白河と、社会に出たことがない経験不足の八条院(しかもすでに出家していた)、そして若年の二条天皇という、「政治力、経験値とも乏しい三者が並び立つ、きわめてバランスの悪い事態(p.188)」となった。この中で各勢力の調整役として奔走しすべての勢力を掌握したのが、平清盛であった。

平清盛と平時子の子が、建礼門院徳子である。彼女は高倉天皇の中宮である(その際、後白河院の猶子として入内している)。彼女が産んだのが安徳天皇であり、こうして彼女は国母となった。それまでの慣例では、院の妻、天皇の母であることは最高権力を持つことを意味したが、彼女の場合は違った。高倉天皇と清盛が死去すると建礼門院号を下されたものの、「それは、中宮、あるいは国母としての彼女の政治への関わりが排除されたことにすぎない(p.193)」のだ。つまり女院号が最高権力者の称号ではなく、むしろ引退宣言、名誉教授の称号のようなものに変質しているのだ。同時期、斎院・斎宮への意識の変化もあったようだ。1170年代から1180年代半ばまでの平家政権の時代には、斎王がほとんど機能していない。未婚女院を生み出す基盤の一つであった斎王制度もぐらついていた。

話は再び八条院暲子内親王に戻る。いうまでもなく彼女は「超お嬢様」で、鳥羽天皇から溺愛され、4歳の時に安楽寿院領という巨大荘園群を譲られ、10歳で准三宮となっている。面白いのは21歳の時に女院になる前に出家していることだ。(法名「金剛観」)。だからこそ彼女は斎王としての経験も皇后としての経験もなかったのである。なぜ彼女は出家したのだろうか。

また、彼女は巨大な荘園領主であったため、その運営のための機構や人々も相続していた。多くの事務官僚を抱えていたのである。そんな中に八条院大弐局(だいにのつぼね)こと浄覚という尼僧(!)がいた。この尼僧は荘園領主でもあった。「事務官僚」といっても、今のそれとは全然イメージが違うのである。

八条院は巨大な財力を持った潜在的な権力者であったが、権力を発動する機構がない。つまり院や天皇、政治機構(太政大臣など)を動かす立場にないのである。しかし、荘園領主であるがゆえに、荘園に所属する人々を動員することができる。荘園が自立した村の集合体となり、領域的に設定されるものになっていたからだ。その村を治める在地領主たちは、常に頼れる親方を探しており、八条院がその気になればその武力を動員できたと考えられる。一見無謀な以仁王の乱(以仁王は八条院の猶子)もそういった武力を恃んでいたようだ。

しかし、「八条院領には知行国はほとんどなかったらしい(p.211)」。つまり受領の人事権はなかった。「現実には、財力、武力はあるが、人事権を持たない八条院は、不完全な権門であった(同)」。逆に財力・武力・人事権を兼ね備えたのが鎌倉幕府だったのである。

そして、女院権力にはもう一つ不完全な点があった。それは先述の通り継承がままならなかった点である。八条院は血縁のない後鳥羽天皇の皇女娘昇子(のりこ)内親王(春華門院)を後継者にして八条院領を継承させた。どうやら血縁ではなく未婚皇女を指名して継承させていく動きがあったようなのだ。「いうならば、八条院の「権門」は、美福門院から受け継ぎ、春華門院に受け渡された、上東門院や郁芳門院以来、皇后や斎王という特別な立場の女院たちに託された「女性の権力体」の最終形態であった(p.214)」。

だが、この「女性の権力体」の持続が難しいのは、「未婚皇女」という存在を前提とする以上明らかだ。なお現実の歴史では、鎌倉幕府は八条院領を没収し、その荘園はのちに大覚寺統となる南朝の家産として重大な役割を背負うことになった。

鎌倉時代になると、女院は存在してはいたが、かつてのような「権門」ではなくなった。鎌倉時代には公家にも「男系で継承される家」ができ、女性の財産権もかなり制限されていたようだ。よって鎌倉時代には「たとえ女院領であっても、一期分(いちごぶん)、つまり本人限りとなり、継承されなくなる(p.227)」。

ただし鎌倉時代でも女性家長はいた。例えば平政子だ。慈円が「女人入眼の日本国」と書いたのは、政子と藤原兼子(後鳥羽院の乳母)が次期将軍を決めたことについて述べたものだ。そして鳥居禅尼。彼女は源義朝の異母妹と推測され、熊野の一角を担う熊野新宮のトップだった行範の妻となった人である。彼女は行範の死後、熊野勢のトップとなって、その武力は頼朝の合戦に協力した。つまり頼朝の叔母が熊野のトップにいたから源氏は平氏に勝ったことになる。この功績により、鳥居禅尼は紀伊国と但馬国の荘園の地頭に任じられ、女性ながら御家人になっている。しかしその財産はやはり彼女の子孫に継承されなかった。「女性家長はその財産を継承していく独自の家を作れなかったのである(p.231)」。

本書の最後の主人公は広義門院寧子(やすこ)である。彼女は南北朝時代の「正平一統」の政変の時に苦し紛れに担ぎ出された女院であるが、平安時代後期ではないので詳細は割愛する。

本書は最後に斎宮について述べている。賀茂斎院については承久の乱後に廃絶した。伊勢の斎王については鎌倉時代にも続いたが、天皇の未婚の娘という本来の形が保てなくなり、上皇の娘から選ばれることが多くなった。持明院統と大覚寺統の分裂以後は置かれないことが多くなり、南北朝時代には斎王を置くどころではなくなって、600年続いた伊勢斎王もついに廃絶した。

しかしながら、鎌倉幕府や持明院統の天皇も斎王がなくてもいいとは思っていなかったようである。むしろ斎王が廃絶したのは伊勢神宮の変質によるものかもしれない。伊勢神宮に多くの人が参詣するようになり「私幣禁断」の神社でなくなると、天皇家の権威を借りる斎宮など必要がなくなったと考えられるのである。

本書は全体として、この時代の歴史書ではあまり深くは取り上げられない女性から歴史を述べており、非常に参考になった。この時代を語ろうとすればふつうは戦乱がメインになるが、女性たちは戦には直接はかかわっていないため、宮廷から見た歴史のみが語られることになる。それは人間関係と人事の歴史だ。ややこしいが、それは歴史を動かしたのが決して戦乱の勝敗だけではないことを教えている。

ただ、強調しておかなくてはならないのは、本書はあくまで歴史書であって女性論ではないということだ。よって女院とは何か、ということは本書に随所に述べられているがテーマそのものではない。

だが私は女院自体に興味がある。よって、本書の記述を基にしながら自分なりに気になっている点について考えてみたい。まず、本書に登場する女院について表にしてみる(一部登場してない人もあるかもしれない。自分の興味に従って適宜追加した)。

東三条院―藤原氏出身、円融天皇の女御、一条天皇の母(962-1002)
上東門院―藤原氏出身、一条天皇の中宮、後一条天皇・後朱雀天皇の母(988-1074)
陽明門院―皇族、後朱雀天皇の皇后(1013-1094)
郁芳門院―藤原氏出身、伊勢斎宮、堀河天皇准母(1076-1096)
高陽院 ―藤原氏出身、鳥羽上皇の皇后(1095-1156)
待賢門院―藤原氏出身、鳥羽天皇の中宮、崇徳天皇・後白河天皇の母(1101-1145)
美福門院―藤原氏出身、鳥羽天皇の皇后、近衛天皇の母(1117-1160)
皇嘉門院―藤原氏出身、崇徳天皇の中宮、近衛天皇の准母(1122-1182)
上西門院―皇族、賀茂斎院、後白河院の准母、未婚皇后(1126-1189)
九条院 ―藤原氏出身、近衛天皇の中宮(1131-1176)
八条院 ―皇族、二条天皇の准母(1137-1211)
高松院 ―皇族、二条天皇の中宮(1141-1176)
建春門院―平氏出身、後白河天皇の女御・皇太后、高倉天皇の母(1142-1176)
殷富門院―皇族、斎宮、安徳天皇・後鳥羽天皇・順徳天皇の准母、未婚皇后(1147-1216)
建礼門院―平氏出身、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母(1155-1214)
春華門院―皇族、順徳天皇の准母(1195-1211)
宜秋門院―九条家出身、後鳥羽天皇の中宮(1173-1129)
式乾門院―皇族、元斎王、四条天皇の准母(1197-1251)

この表は、女院を網羅したものでもなんでもないが、それにしてもまず気づくことは、女院の数の多さである。数えてはいないが、おそらく院(上皇)よりも多いと思う。なぜ女院は院よりも多いのか。それは院が天皇を経験し(ただし小一条院を除く)、天皇の父として権力を行使するという条件を満たさなければなれなかったのに対し、女院はそういう条件がなく、天皇の妻でも母でもなくても「准母」という制度を使って比較的容易になれたことが影響している。この「准母」というのもクセモノで、「准母」はあるのになぜ「准父」はないのか。もしかしたらそれだけ「母」というものが軽んじられていた証左なのかもしれない。

そして次に注目されるのは、女院第一号の東三条院が皇族ではなく、藤原氏出身であることだ。2番目の上東門院も藤原氏出身だ。3番目の陽明門院は皇族であったが、上東門院の先例によって女院号が与えられたという。つまり「女院」という制度そのものが藤原氏のためにつくられたのではないかと考えられる。そして摂関家の子女を次々と入内させるという摂関政治が行き詰まりを迎えて、広く藤原氏の子女が入内するようになると、摂関家によって外戚の権威が意図的に無力化された結果、入内した女性自身が主体的に権力を行使するようになり、その地位を追認するかのように「女院」号が活用されたのかもしれない。

やがてそれは皇女にも適用され、未婚皇女のキャリアパスとして斎王と並ぶ重要なポジションになった(上記の表では、皇族出身の女院のうち高松院以外が未婚だ)。それは、未婚皇女の待遇が不安定だったことを逆に示しているのかもしれない。女院という立場になることによってようやく安定した身分を得られたと考えられる。とすれば、女院と出家の関係を考えざるを得ない。出家は世俗とは違う身分を得ることを意味したからだ。室町時代になると未婚皇女は尼門跡という寺院に出されることが多くなる(ように思う)が、女院とは尼門跡確立以前の女性の身分形態だともみなせるのではないか。

次に、これは女院制度の本質とはかかわりないかもしれないが、その名前が興味深い。なぜ「上東門院」とか「陽明門院」のような門の名前がついているのか。これは「門のそばに住んでいたから」というような説明がなされることもあるが、明らかにそうではない。そして逆に、門の名前がついていない女院には何か意味があるのか。そのあたりが全くわからない。ちなみに平安京にあった門は大きく分けて3種類ある。外側から順に、平安京と外を区切る門(羅城門のような)、大内裏(官庁街)を囲む門、最後に内裏の門である。

というわけで、先ほどの表に、出家の情報(女院になったのは出家の前後どちらか)とどこの門(または地名)かを書き加えたものが以下である。

東三条院―出家後、京内地名?
上東門院―出家同日、大内裏東
陽明門院―出家せず、大内裏東
郁芳門院―出家せず、大内裏東
高陽院 ―出家前、京内邸宅名
待賢門院―出家前、大内裏東
美福門院―出家前?、大内裏南
皇嘉門院―出家前、大内裏南
上西門院―出家前、大内裏西
九条院 ―出家後、京内条名
八条院 ―出家後、京内条名
高松院 ―出家後、京内邸宅名(高松殿)
建春門院―出家せず、内裏東
殷富門院―出家前、大内裏西
建礼門院―出家前、内裏南
春華門院―出家せず?、内裏南東
宜秋門院―出家前、内裏東
式乾門院―出家同日、内裏北

これを見ると、高陽院(かやいん)を例外として、出家前(つまり俗人)が女院号を受ける場合は「〇〇門院」であり、出家後に女院号を受ける場合に「〇〇(地名)院」であったのではという仮説が成り立つ。また、「〇〇門院」は最初は大内裏の門から付けられていたが、やがて内裏の門からも名付けられたことがわかる。ちなみになぜか北側の門はない(偶然かも?)。

そういえば、一条天皇以降、天皇号も条名や地名に基づくものがこの時代多い。一条、白河、鳥羽、堀河、六条、四条などだ。当然これらは院号にもなった。女院号と関連があるのかどうかは不明である。

なお、女院そのものは鎌倉時代以降も存在したが、それが最も活躍したのは摂関・院政期である。本書でも「女院は摂関政治と院政を結ぶツールとして考えていかなければならないと思う(p.151)」としている。では摂関・院政期はなぜ女院を必要としたのか? それはまずは幼帝を支えるということから出発したと考えられる。

そもそもこの時代は、家族原理と政治が密接に関係していた。そんな中で、政治的な価値はあるが一族の中で宙ぶらりんの女性が「准母」などとして担ぎ出されて権力を握り、あるいは用済みになると「女院」になって引退させられることもあった。「女院」と「院」が似ているのは、天皇や皇后とは違って一度に何人存在してもよかったことだ。その意味では定員外の存在だった。つまり権力にとって「女院」は都合がよかったということになる。この時代に女性が強大な権力を握ったことも事実であるが、「女院」という存在は女性の地位を高めるというよりは、むしろ逆の作用の方が大きかったかもしれない。

それは「女院」が乱発されたことでも明らかだ。最初「〇〇門院」と名付けた人たちは、大内裏の門(14ある)が足りなくなるとは思ってもいなかったに違いない。「女院」の歴史は、「女院」の権威が解体していく歴史なのかもしれない。

女院を通じて平安後期を別角度から見る興味深い本。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

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