2024年6月30日日曜日

『底にタッチするまでが私の時間—よりぬきベルク通信1号から150号まで』木村 衣有子 編

新宿のカフェのフリーペーパーの選り抜き本。

新宿駅の地下に「BEER & CAFE BERG(ベルク)」というカフェ・バーがある。すごい人通りの中に、まるで岩礁のように存在している店である。このカフェには、『BERG通信』という一枚ものの毎月発行されるフリーペーパーがあるのだが、本書はこれの1号〜150号までの記事を編者が選り抜いたものである。

そこに掲載されているのは、ホンの一言の名言風なものから、見開きに改行のない文章がビッチリ詰まった記事までいろいろだが、だいたいはビッチリな記事である。

内容は、本書の前半は告知が多く、後半はエッセイ風なものが多い。どっちが面白いかというと、断然「告知」の方だ。何を告知しているかというと、例えば「ホットドッグのパンが変わりました」というようなものだ。

なんでそんなことをわざわざ告知しているのか。それは、ベルクが、味にこだわりがある店だからだ。そのパンは、東京中を探し回ってようやく見つけたものなのだ(美味しいパン屋は数あれど、卸してくれる店は少ない)。といっても、ベルクのコーヒーは一杯200円(+税)。ホットドッグは300〜400円くらい。ドトールといい勝負だ。それでも、ベルクは、提供する側が納得するものしか出したくないタイプの店なのだ。とはいえ、ベルクは一日に1200人もお客さんが来る、しかも狭っ苦しい店。だから、店側が「これこれこういう事情でパンを変えたんですよ」なんてことを、いちいちお客と話すような店ではない。だから、「BERG通信」に告知文が掲載されるのである。

これが、ただのお知らせといえばお知らせなのだが、なんというか、痛快なのだ。大企業のコマーシャルが、ただ印象を伝えるだけの空疎なものであるのとは違って、そこには、なぜこれを提供したいのか、という明確な意志と理由が書かれている。そして、今のSNSに溢れているような、キラキラ、前向き、耳障りのよいコトバとは全然違う、等身大の言葉で書かれている。それは、いわば「分かってくれる人にだけ分かればいい」というタイプの自分語り風なものとも違って、「ちゃんと伝えたい」という雰囲気が濃厚なのだ。それなのに真面目一辺倒ではなく、「遊び」がたっぷりなのだ。こんな健全な文章は、今の時代、なかなかお目にかかれるものではない。

その健全さを支えているのは、おそらくは、ベルクが完全に資本主義の中にいるからだ、と私は思う。

生き馬の目を抜く都会の競争の中で、ベルクは生き残っている店だ。それは、結局はBERGが資本主義のルールに則って勝負しているからだ。コーヒー一杯200円で、美味しいホットドッグを格安で提供できるのは、お客さんが1日に1200人来るからで、それを支えるサプライチェーンと店員のシフト体制と、経営があるからだ。その上で、お客さんに伝えたいことを書いているから、『BERG通信』には切実さがあるのだ。

世の中で話題になる多くの(小さな)店が、資本主義を懐疑的に見て、「大手とは違った枠組みで価値を提供したい」と思っている(時には、資本主義的な成功を見下している)のに対し、ベルクは大手と同じ土俵で勝負しようとしている。『BERG通信』の記事が単なる「店員のたわごと」にならない健全さがあるのは、たぶんそのおかげだ。

特に印象深かったのは「(お店は)お客様と業者さんとスタッフの共同創作みたいな所もある」という一節だ。ベルクの客は多く回転も速い。常連さんも多いが、店主と長々と話すような店ではない。それでも、価値を分かってくれるお客さんのことは、店はちゃんと分かっている。だからこういう言葉が出るのだろう。そして、そのお客さんに対して説明したいから、『BERG通信』が書かれている。店が客・業者・スタッフの共同創作なら、その紐帯を為しているのがこの『BERG通信』だといわねばならない。

東京には、グルメが山ほどいる。世界一いるのではないだろうか。だから、美味いものを提供しさえすれば、それを分かる客はいるだろう。だが、ベルクは「分かるやつだけ分かればいい」という斜に構えた態度はとらない。ベルクは、店の努力をちゃんとわかってもらいたいと思っている。ある意味、泥臭いのが『BERG通信』の魅力である。

これは、東京の一角の小さな店のフリーペーパーに掲載された、いわばチラシの文章を集めたものだが、小さな商売をやっている人間にはものすごく面白い(私も、田舎で小さなブックカフェを経営している)。 商売をしている以上、資本主義の仕組みからは逃れられないからだ。真っ向から資本主義に対決を挑み、大手とは違った戦い方をしているベルクという店は、応援せずにはいられない。

なお私は、大学進学で1990年代に上京しており、実はベルクにも数回行ったことがある。そこで食べたレバーペーストの美味しさは忘れられない。本書に掲載されている記事は、ちょうど私が東京にいた時代ものだったから、なおのこと面白く感じた。

ちなみに、本書はいわゆるインディー出版社から発行されているもので、ISBN番号もない。Amazonでも売っていないようだ。こういう本も、また侮れないものである。

★ベルクのオフィシャルショップで売っています。
https://berg.official.ec/items/54687433

2024年6月17日月曜日

『応仁の乱−戦国時代を生んだ大乱』

応仁の乱を詳述する本。

始めに告白すると、私は本書を5%も理解していない。私は室町から戦国期は詳しくなく、本書の理解に必要な知識があまりなかったというのが最大の原因だ。

しかしながら、私でなくても本書の理解は骨が折れると思う。というのは、本書の登場人物はおびだたしく、またアレがあってコレがあって、その背景にはコレがあって…という事件や事情、付随する情報も大量に盛り込まれている。本書の価値はまさにそこにあって、通史では概説で済まされる応仁の乱を、一つひとつ丁寧に繙いて(しかも大量の史料を動員して!)いったことが玄人には評価されたのだろう。ところが私のような素人の場合、そのためにこそ本書は理解しがたい。本書は40万部を超えるヒットとなったそうだが、これほど難解な本がたくさんの人に読まれたというのは驚きである。

私が本書を手に取った理由は、応仁の乱の頃の興福寺に興味があったためである。本書は、マメな日記を書いていた興福寺の僧二人の視点で応仁の乱を語るものだからだ。

その二人とは、 『経覚私要抄』を書いた経覚と、『大乗院寺社雑事記』を書いた尋尊。彼らは当然ながら奈良にいた。応仁の乱は京を舞台にした乱なので奈良は少し遠いが、奈良(大和国)の動向も応仁の乱には関係しており、火種の一つでもあった。

興福寺の二大門跡寺院である一乗院と大乗院の下には多くの僧侶がいたが、そのうち下級の僧侶を「衆徒」という。そしてその上方が「六方」、下方が「官符衆徒(かんぷのしゅと)」といい、特に「官符衆徒」たちは、興福寺の膨大な荘園の荘官として実務に携わっていた。彼らは頭を丸めているだけで、実質は武士と変わりなかった。 また、春日神社の神人の「国民(こくみん)」も、実質的には武士(他国の「国人」)と同じだった。びっくりすることに興福寺は事実上の大和国の守護として扱われていた。

そして一乗院と大乗院はライバル関係にあり、激しい抗争を繰り広げていた。両門跡は武力を持つ衆徒や国民を味方に付けようと、競って恩賞(=土地)を与えた。結果、興福寺の荘園が衆徒・国民の手中に落ち、門跡による荘園支配が形骸化した。

そして衆徒・国民も、いくつかの派閥に分かれた。そして大和国では、親幕府的な一乗院方の筒井氏と反幕府的な大乗院方の越智氏との対立が軸となって紛争が起こっていた。なお大和といえば南朝・後南朝であるが、基本的に興福寺は幕府よりの立場である。

大和の紛争は、いわば興福寺の内輪もめなので、幕府にとっては介入したいものではなかった。だが、山城国守護の畠山満家は利害を有していたから、紛争に介入することを勧めた。これに応じた将軍足利義教は、一転して強硬な軍事介入を決定した。

しかしこの軍事介入は火に油を注ぐことになり、むしろ紛争が激化。なお、この戦いの中で筒井氏の僧侶(六方)である成身院光宣は幕府から筒井氏の総領と認められた。一方、興福寺の門主だった経覚は義教と不和になり罷免された。

しかし義教が暗殺されると、義教に冷や飯を食わされていた者たちが次々に復権し(特に畠山持国)、その勢いに乗って経覚は越智氏の力を借りて無理矢理門主に返り咲いた。 これにより、経覚は親越智、反筒井になった。こうなると、経覚と成身院光宣は対立せざるを得ない。そして幕府も越智氏寄りになり、光宣は幕府から討伐される側になった。こうして経覚(越智氏)と光宣(筒井氏)との一進一退の軍事行動が続いたが、持国に代わって細川勝元が管領に就任すると幕府の筒井氏討伐の意欲は減退した。この中で、興福寺の門主は尋尊へと移った。だがこれは平和的な委譲ではなく、軍事的な駆け引きの結果であったので、尋尊は門主として必要な引継を経覚から受けていなかった。

こんな中で畠山氏に後継者争いが起こる。新たに将軍になった足利義政は、優柔不断で状況に流されやすく、混乱に拍車がかかった。畠山氏は畠山義就(よしひろ)と政長に分裂。政長が管領になった。そして筒井氏と政長、越智氏と義就がそれぞれ結びついて抗争を誘発した。

さらに、実子のいなかった義政が弟(義視)を後継者に決めた後に、実子(のちの義尚)が誕生して、将軍権力を巡る事態も複雑化した。この頃の幕府には3つの政治勢力があり、それは(1)伊勢貞親を中心とする義政側近、(2)山名宗全をリーダーとする集団、(3)細川勝元をリーダーとする集団、であったが、この3つがせめぎ合うことで事態は二転三転し、どんどん混乱していった。

この状況で、山名宗全は畠山義就を利用した政権奪取を構想する。こうして文正元年(1466)、畠山義就は軍勢を率いて上洛し、千本釈迦堂に陣を構えた。その背後には山名宗全・斯波義廉がいた。対峙するのは管領の畠山政長。これを後援するのが細川勝元・京極持清である。このクーデターは短期的には成功し、畠山義就は政長に勝利した。ここで山名宗全は義就の勝利を確実にするために加勢したのだが、それが細川勝元を刺激。細川(東軍)・山名(西軍)の全面抗争に突入する。大和の内輪もめが雪だるま式に大きくなっていき、京都を舞台にした応仁の乱になったのだ。特に成身院光宣が政長を一貫して支援し、義就へ徹底抗戦したことは大きかった。「光宣が応仁の乱のキーマン(p.161)」である。

両軍の兵力は、東軍が16万騎、西軍が11万騎だという。西軍はクーデター勢力であり、幕府は当然ながら東軍寄りの立場である。義政は全面戦争を望んでいなかったが、一方の義視はめざましい軍功を立てようと張り切っていた。戦で名を上げて政権の基盤を作りたかったのだ。そのために停戦の努力は実を結ばなかった。そんな中で、大内政弘が3万人の大軍を引き連れて上洛。義政は両畠山を和睦させようとしていたが、もはや話は畠山の内紛では収まらない規模になっていた。

このような状況で、分が悪くなった足利義視は、あろうことか西軍に身を投じ、事実上、二人の将軍が併存することになった。西軍は幕府を模倣した政治機構を整えたので、これを「西幕府」という。これまで和睦の道を探ってきた義政も態度を一変させ、義視は「朝敵」となった。

応仁の乱は市街戦であった。陣は城砦化し、騎兵ではなく歩兵(足軽)が活躍するようになった。ゲリラ戦である。その背景には、都市の下層民が足軽となっていったという都市問題もある。

こうして京都が闘いの舞台となってしまったため、公家たちは各地に疎開した。特に奈良は興福寺の権威のおかげか戦場にならなかったため、尋尊の父・一条兼良らが疎開してきた。こうして興福寺の僧侶たちと摂関家の人々が交流したことは、文化的に意義があった。応仁の乱は11年も続いた大乱であるが、その間にも貴顕の人々は意外と豪遊している。

ここからの闘いの経過を記すのはやめておこう。というより私はあまり理解していない。重要な出来事のみ記す。(1)西軍の斯波義廉の下にいた朝倉孝景が東軍に寝返り、越前を平定した。これで京都への重要な補給路を東軍が押さえることになった。(2)南朝後胤の兄弟が蜂起し、西軍はそれを「南帝」として擁立した。彼らの素性は怪しく、西軍の中でも問題視されていた。(3)長引く戦いの中で、荘園からの年貢を確実に集めることが困難となり、荘園が有名無実化していった。(4)飢饉と軍事徴発による食糧不足の中、文明3年(1471)、京都では疱瘡が流行し、厭戦気分が高まった。

長引く戦いに士気は低下し、山名宗全と細川勝元はそれぞれ戦いの責任を取る形で隠居した。ここで、ちゃんとした終戦交渉が行われていればよかったものの、彼らは「政権を投げ出す形で辞任(p.187)」したため、「諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はだらだらと続いた(同)」。幕府の方では、義政が将軍職を義尚に譲ったこともあり、講和交渉を担ったのは義政の正室日野富子だった。

結果だけ述べれば、まず山名・細川の単独講和が実現。追って畠山義就、大内政弘らも次々に講和して陣を引き払った。義視(とその子義材(よしき))は同情的だった斎藤妙椿が引き取った。西軍はなし崩し的に解散。「11年にもわたる大乱は京都を焼け野原にしたただけで、一人の勝者も生まなかった(p.199)」。形式的には東軍が勝者ではあるが、その大将は隠居し、戦勝の成果もなかったのである。

なお、畠山義就の軍勢は河内に移動して、そこで大暴れした。大乱の続きである。ここで義政が朝廷に対し畠山義就治罰の綸旨を発給してもらっているが、この発給先が興味深い。東大寺・興福寺・金峯山・多武峰・高野山・根来寺・粉河寺の衆徒と伊勢国司北畠政郷(まささと)へ綸旨が出ているのである。これは、東軍がまだ京都に駐留しているため動かせず、朝廷の影響下にある寺社勢力と公家大名の軍事力を活用しようとしたのだという。

結局、畠山義就は河内を平定し「河内王国」を築いた。さらに義就の矛先は大和に向かった。その頃、筒井氏は越智氏・古市氏との抗争に敗れ没落していた。

乱後の室町幕府では、寺社本領返還政策が取られた。武家勢力が寺社から奪った領地を返還させるものであるが、これは結果的に幕府の勢力下の領地を増やすものであった。そして幕府の懸案「河内王国」であるが、これを討伐しようとした畠山政長は義就に押されていた。この局面を打開したのは、意外なことに武将ではなく、南山城の国人(地元武士)であった。彼らは「国一揆」を結成し、両畠山軍に撤退要求を突きつけ成功させた(「山城国一揆」)。 山城国の国人たちは自治を行い、その自治機関は「惣国」と呼ばれた。こうして義就は南山城を撤退し、それによって赦免された。ここに応仁の乱の戦後処理は終了した。

幕府の方では、義政が政権を投げ出す形で義尚に権力が集中し、幕府権力は一応は一本化した。しかし義尚は25歳にして死去してしまった。酒の飲み過ぎかもしれないという。そのため、次の将軍として足利義材に白羽の矢が立った。日野富子も義材を支持。富子の妹の子だったからである。義材の将軍就任は時間の問題となり、父である義視が幕府の実権を握った。応仁の乱は何だったのか、という展開だ。

ところが、日野富子と義視・義材親子は「小川殿の相続問題」を巡って急速に悪化。これは、元々細川勝元が所有していた邸宅「小川殿」が、義政の隠居所となって活用されていたのを、義政・義尚の死去に伴って細川政元に返還しようとしたところ辞退されたため、清晃(義政の兄の息子)に譲ったという問題である。一見、何の問題もないが、「小川殿」は今や「将軍御所」と認識されていた。これを将軍になってもおかしくない清晃に譲ることの意味は小さくない。この事件がきっかけで日野富子と義視・義材は敵対関係になったが、追って義材は将軍に就任した。

そして明応2年(1493)、足利義材は権力基盤の確立もあり、河内国へ畠山基家を平定しに出陣したところ、驚天動地の事態が起こった。「京都に残留していた細川政元が日野富子・伊勢定宗と示し合わせて挙兵し、清晃を将軍に擁立したのである(p.243)」。これを「明応の政変」という。これに多くの大名は靡き、義材は捉えられたものの逃亡。「二人の将軍」が並び立つ事態になり、これが一代では解決せず、常態化していくのである。

かつては応仁の乱が戦国時代の幕開けとなったと見なされてきたが、最近では明応の政変こそがその転換点になったというのが定説である。応仁の乱は政治的にも無意味な争いなのだ。

だが応仁の乱に歴史的な意味がなかったわけではない。応仁の乱がもたらしたのは、守護在京制の崩壊である。応仁の乱まで、守護は京都に居住していた。ところが応仁の乱で支配体制が弛緩することで、京都に居住していては年貢が進貢されなくなった。領国を実力で支配する必要が生じたのである。明応の政変で守護在京制は完全に崩壊。「京都中心の政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まるのである(p.261)」。

そして守護たちが領国に下ったことは、貴族たちも下向していくことを後押しした。貴族たちは京都で困窮したため、知己である守護たちを頼って地方へ向かったのである。これにより京都の文化が地方へ伝えられ、多様な文化が花開くことになった。

なお興福寺の領地大和国では混乱が続いたが、大永2年(1521)に筒井氏・越智氏ら四氏の盟約が結ばれようやく安定した。彼らが最初から抗争していなかったら、応仁の乱は全く違うものになっていただろう。いや、もしかしたら起こらなかったかもしれないのだ。

素人には通読が困難だが、応仁の乱を描き尽くした労作。

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2024年6月16日日曜日

『中世の神と仏(日本史リブレット32)』末木 文美士 著

中世の神仏の在り方を概説した本。

「長いあいだ、中世は仏教の時代だと考えられてきた(p.1)」 。そして神仏習合は、不純なものと見なされてきたのだという。しかし中世の神仏習合に、日本の宗教の原像を解明する鍵が潜んでいると著者は考える。本書は、「主として中世神道論の形成・展開という観点から、この問題に概括的な見通しをあたえることをめざして(p.2)」書かれたものである。

始めに、神仏習合論が簡単に振り返られる。本書は、2003年の出版であるが、神仏習合に関する基礎的な研究が出揃った段階で書かれており、非常にスマートなまとめである。著者は神仏は相互の補完関係にあったとして「神仏補完」の用語を与える。それは一種の緊張関係でもあり、神仏習合は神仏隔離と表裏一体だったとする。

次に「神道」の用語の初出を検証し、ドイツの研究者ネリー=ナウマンによる、神道は「中国的な帝政の観念を克服したうえで、きわめて政治的に形成された神帝政を意味する(p.10)」との学説を紹介している。平たく言うと、天皇の支配を正当化するために整備された神々や儀礼の大系が神道なのだ。それがいつ確立したかは、黒田俊雄による近世・近代説を斥け、中世の吉田兼倶あたりに措定している。

著者は「神道」の成立を2段階に分け、第1段階を7世紀後半から平安時代=神話と祭祀体系が形成された時代、第2段階を鎌倉・室町期=教義的な大系が形成され「神道」が自覚された時代、とする。そして著者は、この第2段階の形成が神仏習合をとおして行われたと考え、神仏習合理論を取り上げるのである。

第1に、山王をめぐる神道説が取り上げられる。「神仏習合をもっとも理論的に追求した(p.26)」のが山王神道および両部神道である。そして両部神道は未だ解明が遅れているとし、ここでは山王神道の思想が検討される。山王の神=比叡の神は最澄以前から祀られていたようだが、これが中世に神仏習合の枠組みに取り入れられる。

信頼できる文献として溯れるのが13世紀前半の『耀天記』。その原型に含まれず、のちに加えられた部分に「山王事」という記事があり、そこに教理的な面から本地垂迹説が記載されている。そこに『悲華経』が引かれ、また老子・孔子・顔回の元が菩薩だったという説が紹介されているのが興味深い。

中世の天台神道理論を担ったのは「記家」という比叡山の僧のグループ。彼らは記録の専門家であった。『山家要略記』と『渓嵐拾葉集』は記家の知の集大成ともいうべきものだ。記家で扱う記録には顕・密・戒・記の4種があり、百科全書的な性格があった。記録こそが究極の言説であると『渓嵐集』に明記されている。「記録成仏」という言葉もあるそうだ。

『渓嵐集』は14世紀の初め頃成立。『渓嵐集』の記録部では、叡山の歴史や地理が詳述される。仏教の理論とは別に、この種の記録を重視したのは、「普遍的な理論よりも個別的な事実を重視する発想法がある(p.39)」のだという。そして記録の重視は、偽書の横行さえも生み出した(最澄『三宝住持集』、円仁『三宝輔行記』等)。

『渓嵐集』では、山王の根源性が主張されており、「天台教学の根本概念が全て山王と結びつけられている(p.47)」。山王神道は本覚思想と密接に関係しているらしい。

『要略記』は断片的な記録を編集したもので、その中心は「厳神霊応章」。ここでは『耀天記』と違い、山王の七社を等しく重視しつつ、三という数字をキーナンバーにして山王の神々を位置づけている。身近なものに深い意味を与えるのは中世の典型的な思考である。

また、山王神を「月氏の霊山の地主明神」であるとか、金毘羅神であるとか、天台の鎮守明神であるといったように重層的な性格を与え、さらに小比叡(二宮)は国常立尊と一体化される。その法号は華台菩薩。こうして日吉の神を天地創造神話と結びつけた。さらに八王子が天照大神の8人の王子と同一視された。このように神々を結びつけて同一視することで、神々のネットワークを緊密化していった。

第2に、伊勢をめぐる神道説が取り上げられる。伊勢は仏教を排除したと思われているが、鎌倉初期の重源、後期の叡尊などは伊勢信仰を広めている。仏教と伊勢信仰、神道理論の形成には密接な関係がある。伊勢をめぐる神道理論には、両部神道と伊勢神道があるが、これも密接に関連して形成された。

伊勢神道は鎌倉時代後期に大きく発展し、特に「神道五部書」と言われる偽書(奈良時代にさかのぼるという触れ込みだが、実際には鎌倉時代にできた)の成立が画期となった。なお五部書が一括されるのは江戸時代になってからである。これらは外宮の立場を向上させる目的があり、「皇字論争」(「豊受皇太神宮」と名乗った問題)はその象徴だ。

両部神道は、密教の両部曼荼羅の発想に基づいて伊勢の内宮と外宮を説明しようとするもので、本地垂迹説が天台の教学に基づいているのに対して、両部神道は密教を基礎としている。ただ、山王神道=天台宗、両部神道=真言宗とはっきりと分けられるものではなく、伊勢神道とも密接に関連している。「従来両部神道といわれてきたものは非常に曖昧であり、山王神道のように性格がはっきりしていない(p.51)」。

そして、両部神道の文献はどういう人たちがつくったのか、実はよくわかっていない。近年は神宮の御厨にあった仙宮院が一つの拠点になっていたのではという学説がある。また修験者のグループが関与していたとも考えられており、仙宮院も天台宗寺門派の修験と深い関係があったようだ。修験者の関わりとの傍証は『大和葛城宝山記』に見られる。

これは、葛城山の縁起という形ではあるが伊勢との結びつきが強く、興味深いことに仏典にあるヒンドゥー教の世界創造神話が取り入れられている(『雑譬喩経』)。「仏教の理論では外的世界の形成に関する説が弱い(p.66)」ことがその背景にあると思われる。

中世神話では、個別の縁起のみならず、宇宙開闢など世界の根源に対する興味が強い。例えば第六天魔王もその一つであり、外宮の豊受大神を天御中主神と同一視したのも、単なる外宮地位向上ではなく、「そこから始まる神統譜の形成へ関心をうながし、(中略)根源神へと向かう志向(p.72)」がある。そして神に関する思弁は仏教の理論を借りながら展開した。

もう一つ注目されるのは、「心は乃ち神明の主たり」などという、心を重視する思想があることだ(『宝基本記』)。「心の問題は中世の本覚思想の中核に位置するものである(p.74)」。

第3に、神道理論の体系化について述べている。「中世の神道説は、鎌倉後期から南北朝期にかけて一気に体系化され(p.76)」た。この時代に山王神道では先述の『山家要略記』と『渓嵐拾葉集』、両部神道では『麗気記』がまとめられた。『麗気記』には関連する著作が付随しており、その中の 『天地麗気記府録』では、世界開闢から天地の成立へと体系的に述べられている。つまり神道が世界理論に成長していったのである。

なお、偽書ではあるが聖徳太子撰とされた『先代旧事本紀』(実際は平安時代成立)も仏教的な神典として重んぜられ、ここで述べられた天神七代・地神五代の説が定着した。

伊勢神道でも、度会家行により『類聚神祇本源』がまとめられた。これは15編におよぶ総合的な著述で、仏教書・中国古典・日本の史書等を抜粋・総合したもの。家行自身の説は最後の「神道玄義編」に述べられている。そこでは「機前を以て法と為し、行う所は清浄を以て先と為す」という注目すべき記載がある。天地開闢以前の根源を「機前(きぜん)」と名付けて重視したことは新しい考えである。そして、「その機前をいかす実践として清浄が重ん(p.82)」ぜられたのである。

一方、南北朝期には天皇の問題がクローズアップされ、北畠親房は家行の業績を受け、さらに国家論・政治論を含めたスケールの大きな理論を構築した。神道書としての主著である『元元集』では、家行の伊勢神道に天皇の系譜を繋いでいるところが重要だ。そしてそれが、神話と歴史が継続している神国、という日本の優越論に至ったのである。

親房ほど知られていないのが慈遍である。慈遍は、伊勢神道をもとにして、神道理論の枠組みの中で仏教を乗り越えるものとして神道を位置づけ、また天皇論に結びつけた。慈遍は卜部(吉田)家の出で、吉田兼好の弟。比叡山で天台教学を修め、後醍醐天皇に従って南朝につくしたとされる。著作としては、『旧事本紀玄義』(一部のみ現存)、『豊葦原神風和記』、『天地神祇審鎮要記』などがある。これらでも、神の方が世界の根源であるとし、『旧事本紀玄義』では根葉果実説(元は神国=日本、唐は枝葉、インドは果実だとする説)が見られ、また仏の方を神の垂迹とみる反本地垂迹説まで展開した。

こうした神道論を集大成したのが吉田兼倶である。彼は京都の吉田山に大元宮斎場所を建立、自らの神道を『唯一神道名法要集』にまとめて理論の確立をはかった。ここでは神道が本縁起神道・両部習合神道・元本宗源神道の3つに分類されて、より純粋なものとして自らの元本宗源神道を称揚した。さらに神々の系譜で天児屋命から卜部家に伝わっていくことを重視している一方、天皇論は影を潜めている。「親房・慈遍のあとでも、天皇論は必ずしも神道に必然的に結びついたものではなかった(p.93)」。

「こうして中世神道は兼俱によって、その自由な展開に終止符が打たれ、さまざまな問題は近世神道に引き継がれていくことに(p.94)」なった。

本書は全体として、大変緊密である。先述のように、本書には神仏習合に関する学説が大変コンパクトにまとめられており、さらに研究が俟たれる点が的確に示されている。その上で、神道説の展開を見通しよく述べ、これ以上ないほどの概説書だと言える。本書の後には、伊藤聡がより詳細な中世神道の研究をまとめるが、本書においても伊藤聡らの『神道(日本史小百科)』(従来の神道像を一変させた画期的な事典)を参照しているため、その研究は本書に大きく修正を迫るものではない。

なお、本書は「神と仏」をタイトルとしているが、専ら神道の側からの視点で著述されており、仏教の側については記載が手薄である。

神仏習合から神道理論が育っていたことを簡潔に示す、これ以上ないほどの概説書。 

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2024年6月13日木曜日

『江戸のコレラ騒動』高橋 敏 著

江戸時代の人々が、コレラにどう対処したか、特に神仏関係に注目してまとめた本。

幕末、日本には海外からもたらされたコレラが流行した。コレラは致死率が高く、治療法もなく、感染後から死亡までの時間も極めて短い恐ろしい病であった。当時は感染という現象自体が理解されていなかったから、まさに手の施しようがない災厄であった。人々ができたのは、神仏にすがることくらいだったのである。

本書は、人々がどう神仏にすがったのかを静岡県のいくつかの事例から描き、また江戸で人々がコレラを笑い飛ばした様子を述べている。なお幕末にコレラは何度か流行しているが、特に安政5年(1858)の流行(第3次パンデミー)では死者が多く、本書でもこの流行の事例が中心である。

1.桑原村の場合

東海道三島宿に近い、豆州田方郡桑原村では、弘化4年(1847)の善光寺大地震を受け、70両以上をかけて薬師堂の諸尊を彩色している。これが大地震への対応であったかはともかく、何らかの危機感の表れであると思われる。その後、地震や津波が相次ぎ、安政4年(1857)には「南無阿弥陀仏」の唯念名号碑が建立された。

そんな中、翌安政5年にコレラが流行する。周辺の三島宿では600人が死亡している。7月6日に将軍家定が死去したため(これはコレラではない)、鳴り物は禁止されていたが、村では鉄炮や鉦太鼓を打ち鳴らし、裸で氏神へ参詣し、老人は昼夜念仏を唱えた。しかしそれでも効果はないように見えた。

ところで、コレラは「アメリカ狐」として表象されていた。実際、コレラをもたらしたのは異人であり、コレラには「異」のイメージが付随されていた。そして病人が魘されている様子は狐憑きのように受け取られ、コレラが「アメリカ狐」となったのだ。鉄炮が打ち鳴らされたのも、狐除けの意味だろう。

2.大宮町の場合

浅間神社の門前町であった富士郡大宮町では、コレラの流行を受け、医師や代官がまずは対応を考えた。そこでは一世紀も前の処方箋(黒豆とか桑の葉、茗荷の根)を持ち出している。未知の感染症に対して「効きそうなことをとりあえずやってみる」という態度だ。さらに韮山代官(有名な江川英龍)の侍医は各種の薬草を集めるように指示している。しかしそれらの薬草はなかなか身近では集められないものばかりのように見受けられる。

一方、人々は、「廻り題目、送り神、大日如来・曼荼羅の御開帳、昼夜の鉄砲撃ち放し、道祖神祭、正月行事のやり直し等(p.71)」ありとあらゆる除災儀礼をおこなった。そんな中、コレラは「くだ狐」と受け取られ、狐に憑かれてうわごとを言ったものも出現した。この時、下田には異人・異国船が来ており、外来の脅威とコレラとが結びついて「千年モグラ」という異獣がコレラを広めているとされたりもした。

村では、これに対抗するためには、秩父三峯山(みつみねさん)の生(しょう)の御犬(=生きている犬)を借りてくる以外ないと相談がまとまった。その頃、コレラの脅威を逃れるために三峯山の御犬を求めて人々が殺到しており、本物の犬を借りられるどころではなく、そのカゲの御札(御幣)しか手に入れることはできなかった。御札でも禁忌や儀礼はやかましく設置にも手間がかかった。しかしその御札の効果は疑わしいものだったようだ。

3.下香貫村の場合

駿東郡下香貫村では、コレラに対抗するために吉田神社を勧請した。下香貫村でも地震や稲の不作で動揺していた折のコレラ来襲であった。ただし下香貫村では、近々の村や三島宿から恐ろしい話が聞こえてくるだけで、村自体では流行していない。だが村ではコレラ防御のためとして「吉田太元宮」を勧請しようと話がまとまるのである。

これは、近隣の村々でコレラ除けのお祭り騒ぎや神仏への祈願、牛頭天王信仰の中心社津島大社への参詣などが盛んに行われているにもかかわらず、その効果が一向に見られないことから考えられたものだろう。それらの地域的な神仏を超える、超越的な存在として吉田神社が認識されているのである。

村の代表者が京都へ行き、吉田神社の取次役に勧請を申し出ると、彼は事務的に金7両2分が必要だと言い放った。下香貫村が立てていた予算の実に30倍もの大金である。「吉田神社の対応は、コレラの厄災につけ込んだ祈祷料の略取(p.103)」に他ならなかった。彼らはやむなく金を払うと、「小箱」をいただいて帰路に就いた。道中、吉田神社勧請の小箱が通るという噂が流れ、群衆が拝ませてほしいと殺到しているのが興味深い。

帰村すると、見晴らしのよい地を社地と定めて社殿を建築して小箱を祀った。コレラに怯え念仏と題目ばかり聞こえていた村は「一転して一度に陽気が戻って蘇生の思いをなした(p.108)」。

4.深良村の場合

深良村は、箱根用水の駿河側出水門の村である。ここでもコレラに怯え、「家の門口に梶の葉、とうがらし、茗荷の白根、赤紙、線香、火縄を置くなど魔除けの呪術(p.112)」が総動員されたが安心はできない。そこで下香貫村と同様、「京都吉田様」を勧請する他ないと定まった。下香貫村とは違い、こちらではずいぶん下調べがついていたようで、深良村では費用もちゃんと定価を準備し、しかも飛脚便に代参の代行を託している。

彼らは2箇所に吉田神社の御鎮札を祠を建てて交互に祀り、かかった費用は30両以上だった。これはかなりの大金だと言わねばならない。

下香貫村と深良村の場合を見ると、吉田神社は殿様商売をしているようだが、実はそうでもなかった。というのは、この頃、吉田神社は挽回のために江戸に出張所を設け、東国・関八州への勢力拡大を図っていたからである。逆に、実はコレラと吉田神社への祈祷等の依頼とは相関関係がない。要するに、吉田神社のセールスが浸透しつつあった状態でコレラの流行があり、だったらコレラ対応として吉田神社を勧請してはどうか…という方向になったようだ。

なお、ここで本書では、吉田神社から神職としての官位をもらう事例を紹介している。この時、韮山代官の添え状が必要だというのが極めて興味深い。官位だからだろう。そして官位受領のために吉田神社に払ったお金だけでも63両。これに状況の交通費や宿泊費、装束のお金などをあわせると86両以上(銀と銭もある)となり、莫大なお金であった。吉田神社が殿様商売をしているように見えるのは、コレラ対応よりも神主の官位の方がビジネスの中心だったからに他ならない。

5.御宿村の場合

御宿(みしゅく)村は、深良村の近くである。御宿村では、村の豪農のリーダーシップでコレラ対策として三峯山の御犬を拝借した。拝借したのは御眷属6疋と大小のお札である。これが総額2両1朱と800文である。なお、この「御眷属6疋」は、生きている犬なのか、山犬(狼)なのか、何なのかよくわからない。

6.下田の場合

異国船が来た伊豆下田では、コレラの流行を受けて8月7日に騒ぎが起こった。下田の境が全て封じられて、禦ぎの儀礼が行われ、神主が祈祷を二夜三日続行した。そして14日になると町中が狂乱状態になる。若者は裸になって神社に参詣、鉄炮を打ち鳴らした。15日には、コレラの原因とされた狐の捜索活動が行われた。野狐を一匹撃ち殺したが、これは普通の狐のようだった。これらの動きの中心となったのは若者で、彼らは「異」のイメージを怖れていた。数々の流言が飛び交い、それは「洋夷の日本侵略の幻想となって帰結(p.154)」した。

7.江戸の場合

当時の江戸は、人口110〜120万人の世界最大の都市である(武家・僧侶・神官の数が正確に分からない)。そこに安政の大地震が襲い、そしてコレラが流行した。特に町人の人口密度は高かったので、コレラで大変な被害が出た。

このことは仮名垣魯文が金屯道人の名で書いた「頃痢記」で記録されている。それによれば、葬礼の棺は道々に溢れ、葬儀も火葬も間に合わないほどであった。人々はそれが「狐憑き」によるものだと考えたり、コレラ除けの呪術に頼ったりした。代表的なのは、八ツ手の木の葉(やくよけ)、みもすそ川の歌(まよけ)、にんにくの黒やき(ゑきよけ)の3つである。

このうち「みもすそ川の歌」とは、伊勢の五十鈴川で倭姫命が御裳(みも)を洗い清めたという故事に因んだもので「いかで我は みもすそ川の流くむ たれにたよらん ゑきれい(疫癘)のかみ」という歌である。これを門戸や軒先に貼るのだ。

「宿札(しゅくさつ)」も面白い。「仁賀保金七郎御宿」などと書いた札を門戸や軒先に貼るのである。これは、「ここは仁賀保金七郎が泊まっているからコレラさんはお引き取りください」という意味だ。仁賀保金七郎とは有名な狐憑きらしく江戸では疫病よけの人物として知られていたようだ。本書では他に4人の名前が挙げられている。

ところで、公儀はこれにどう対応したか。驚いたことに、幕府法令においてもコレラ関係はわずか2件しか収録されておらず、幕末の動乱の中で幕府はコレラにまで手が回っていなかったことが明白である。とはいえ幕府が何もしなかったわけではない。幕府は、まず8月は一日ごとの死亡者数を調査・公表した。死者があまりに膨大に喧伝されたため、実数を知らせたのである。また、9月には御救米(おすくいまい)を配布した。対象者は町方人口の約半数にも上った。

このような状態にあった江戸では、コレラに震え上がって萎縮した…と思いきや、奇妙なことに「笑いと洒落で沸いて(p.215)」いた。コレラをネタに、あらゆる言葉遊びが動員された。例えば「流行三幅対」は脚韻を踏んだ3つを並べる遊び。 「いそがし 穴ほりの寺男/うとし 遠くの親類/ひまなし おんぼう(←火葬人)」といった具合。

「いそがしいねへ・ひまだねへ番付」はコレラ流行で忙しくなった人と暇になった人のランキング(?)。「いそがしいねへ」の「大利(大儲け)」は「火葬三昧場」で「潤益」が「早桶屋職人」などなど。「ひまだねへ」の「大息」は「水道の水汲み」(←江戸には上水道が巡らされており、それを利用した水汲み(水の販売)があった)、「二八」は「夜蕎麦商人」などなど。感染の正確な概念はなかったはずだが、疫病の流行で飲食関係が敬遠されるのは江戸時代でも同じであった。

「ないづくし、ある物尽し」は、コレラ流行でなくなったもの、溢れたものを並べるもの。ないものは「やまいの流行 止めがない/ひとときコロリであっけがない/とむらい昼夜とぎれがない…」。あるものは「かどぐち木の葉が下げてある/まじないおふだが貼ってある/ほどこし薬をたすもある/きつねの噂が所々にある…」などなど。

「厄除狂歌集」は、戯れ歌でコレラを送ってやれとの趣向。「職人の手間は下れど  芸人と 米の相場は いよ上がったり」、「借金を しゃばへ残して おきざりや 冥土の旅へ ころりかけおち」。もはや「死んだ者勝ち」である。

 三十六歌仙の名歌をパロディにしてコレラを笑い飛ばす歌も作られた。「てんぢ天わう(天智天皇) あきれたよ 鍼や 薬のまもあらで ただころころと人は逝きつつ」これは勿論、百人一首にも採られている「秋の田の かりほのいほの苫を粗み わが衣手は 露に濡れつつ」のもじりである。こんな感じで、コレラでパニックになっているとは思えないほど、現実を笑い飛ばしているのである。現代だったら「不謹慎!」と炎上するところである。

面白いのは、それほど死者が出ていない駿河国の人々がコレラ除けに神仏にすがっている一方で、文字通り死者が町に溢れている江戸の人々は、それほど神仏にすがっていないことである。もちろん、江戸でも怪しげな呪術は盛んに行われた。「かどぐち木の葉が下げてある」のだから。御犬を借りた人たちも多かったかもしれない。だが多くの人々は、そういうことをしながらも、それらを「気休め」としか思っていなかった節がある。現実にそれらに一切の効き目がないことを見ていたからだろう。

そして、江戸がそのような災厄の最中にある中、公儀が何の役にも立たないことが露呈した。もちろん江戸時代は、民主的な今の世の中とは違い、政府(公儀)は人民のために存在していたのではない。それでも、御救米を支給したことは、政府は仁政を施さねばならないという観念があったことを示唆している。医者はもちろん、以前からの神仏は全く頼りにならず、もちろん公儀も頼りもならない。なすすべなく、人はコロコロと死んでいく。このような状況で、人々はどんな感覚になったのだろうか。コレラを狂歌で笑い飛ばしながらも、そこにはある種の「思想的転換」があったような気がしてならない。

なお本書は、2005年に出版されたものが、新型コロナの流行を受けて2020年に文庫化して復刊したものである。本書に描かれる事例は、ある意味で馬鹿馬鹿しいものばかりだが、令和の世の中でも、コロナ禍で馬鹿馬鹿しいことがたくさん行われたのを見ると、いつの世の中も人々のやっていることは変わらない、とつくづく思った。もちろんそれはいいことではないが、馬鹿馬鹿しいことをやりながらも、庶民は力強く生きているということも、今も昔も変わらないかもしれない。

安政のコレラ騒動を通じて、当時の人々のリアルな息吹を感じる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『博徒の幕末維新』高橋 敏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/07/blog-post_10.html
幕末維新期における博徒の動向を追った本。幕末のアウトローを始めて学術的に取り上げた労作。

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2024年6月1日土曜日

『徳川思想小史』源 了圓 著

江戸時代の思想の流れを概説する本。

今でこそ江戸時代の思想史はたくさん刊行されているが、本書の原著が刊行された1973年には難解な専門書しかなく、思想の流れを全体的に摑める本がなかった。著者が徳川思想史の研究を始めたときも「まるで手探り状態だった」という。そこで著者がまとめたのが本書である。(なお著者は「徳川時代」の用語を使うが、私は「江戸時代」を使うので以下混在するがご容赦戴きたい。)

「序 徳川時代の再検討」では、思想史の背景となる江戸時代の特質が述べられる。それは「「封建的・近代的」という二重の原理から成り立った時代であった(p.21)」。社会の仕組みは封建的であったが、幕府の性格ははっきりと中央集権的であり、絶対主義国家の政府に近かった。また商品経済の進展は元来そこから距離を置いていた武士にとっても、それを認めなければ生活が成り立たないほどになっていた。しかし幕府の政策の大半は、日本の近代への歩みをくいとめるようなものであった。明治維新を待つまでもなく、江戸時代の社会の仕組みには矛盾が内包されていた。

「第1章 朱子学とその受容」では、江戸時代の学問の基調となった朱子学を述べる。家康が顧問のような立場で林羅山を重用したことで、朱子学は江戸時代のイデオロギーとなった。朱子学の宇宙論などは思弁的ではあったが、そこには「事物の理を究めることを通じて心を明らかにしていこうとする」部分があり、合理的な側面も持っていた。ただし、朱子学の人々は独創性に乏しく、江戸時代を通じて朱子学そのものの学問的な発展はなかった。

ここで著者は朱子学者として林羅山、山崎闇斎、貝原益軒、新井白石を取り上げて簡潔に述べている。山崎闇斎は、幼少の頃に比叡山に入れられたが、朱子学に傾いて蓄髪して儒者となった。彼は学問的というよりは精神論を喧伝し、「朱子学は一種のカテキズム(教義問答書)と化し(p.47)」た。貝原益軒は、朱子学者としては民衆の習俗と儒教道徳を接合しようとし、科学者としては画期的著作『大和本草』をまとめた。

「第2章 陽明学とその受容」では、陽明学とその影響を受けた者について述べる。陽明学は、朱子学が己の心の問題を閑却していることを問題視し、徹底的な唯心論の立場を取った。しかも心はそれ自体完全で、学問や経験でその良知を増すことはできないとした。こうした立場の帰結として、陽明学は科学的な発展には寄与せず、学派としても形成されなかった。だが、その精神性・行動性は「地下水のような仕方で浸透し」幕末の志士たちに大きな影響を与えた。

ここで紹介されるのは中江藤樹と熊沢蕃山である。中江藤樹は、忠ではなく孝を人倫の基本とするが、彼の孝は親へ仕えるということばかりでなく、人間の始祖への孝までも意味し、人々は「みな兄弟」とした。だが、その晩年になって陽明学のもつ行動性は失われ、内面的なものに沈潜していった。熊沢蕃山は藤樹の学問を受け継いだ人で、藤樹とは違って岡山藩の藩政という実務に携わったので士道即儒道の考えによって王道政治の実現を目指した。それは人民のための政治を志向するものであり、横井小楠の先駆となっている。

「第3章 古学思想の形成とその展開」では、古学思想がどのように形成され、どこが革新的だったのかを述べる。「古学思想は、徳川時代の儒学者たちの生みだしたものの中で最も独創的な思想の一つである(p.70)」。ここでは山鹿素行、伊藤仁斎、伊藤東涯、荻生徂徠の思想を辿っている。彼らは古代中国の教えが、仏教や老荘の影響がない真の儒教であり、そこに復古すべきだとして厳密な態度で古代中国研究を行った。

山鹿素行は、人間には欲望があることを肯定する新しい人間観を持ち、朱子学の思弁的な態度ではなく、経験主義的な立場を取った。ここに朱子学を乗り越える動きが生じた。伊藤仁斎は、『大学』を繰り返し読むうちにそれが孔子の遺書であるとする朱熹の説に疑問を抱き、綿密な文献批判によって孔子の遺書ではないことを明らかにした。また『中庸』にも異本からの挿入があることを明らかにした。これは朱子学の学問的土台をひっくり返すことだった。こうして仁斎は、論語と孟子から自己の学説を形成した。その中心は博愛主義であり、彼にとっての儒教は「愛の人間学」であった。儒教が政治思想であるより、学問や道徳や教育を重視する、ヒューマニズムの教えに変わっていった。

荻生徂徠は、伊藤仁斎に影響を受けながら、東涯に自尊心を傷つけられ猛烈に仁斎批判を始めた。仁斎の「古義学」が孔子の教えの哲学的解明を目指すものであるのに対し、徂徠の「古文辞学」は先王の教えを文献学的方法によって明らかにするものである。彼はそのために「自分も中国の古代人とおなじ形の言語生活(p.90)」に入った。彼の言語を重視する研究方法は画期的である。そして彼の説く道は極めて政治的であった。それは、聖人の徳が云々というのではなく、政治を技術として見る感じが強い。彼は古代中国によって当時の社会を相対化し、社会を規範としてではなく、メカニズムとして捉える新しい社会観を持っていた。

「第4章 武士の道徳」では、武士のアイデンティティを儒教がどう支えたかを述べる。太平の世では、戦国的武士とは違う新しい武士の理想像が求められた。それは概ね武士を道義化すること、つまり仁愛無欲の洗練された存在に高めることであった。特に山鹿素行は「古学思想の形成者としてよりも、儒教の武教化の実践者、士道の鼓吹者(p.102)」であった。彼は武士の威儀を強調し、武士を士君子に仕立て上げようとした。

武士の道徳は、難問を内包していた。それは、仕えた君主が無道だったときにどうするか、という問題だ。あくまで君に仕えるのか、それとも諫言して聞き入れなければ去るべきか。江戸時代の現実では前者がほとんどであったが、儒教の理論では、当然、後者が採られるべきであり、山鹿素行も後者の立場だった。この問題を、君臣関係はギヴ・アンド・テイクの取引関係だとみなして海保青陵は軽々と乗り越えたが、一般には受け入れられがたかった。こうした未解決の問題はあったが、武士の在り方は「士道」としてさも確立したものがあるかのようにしつらえられ、幕末の志士や経世家が「士道」を強調していることは注目される。

「第5章 町人と商業肯定の思想」では、町人の思想を石田梅岩を中心に述べる。江戸時代には商業は発展し、町人が武士を超えるような力を持ったが、町人からは体制変革の思想は全く生まれなかった。それは町人は、幕藩体制に寄生することで経済的に成功していたからである。山片蟠桃は独創的な思想家であるが、そうした町人の立場を象徴している。

商業肯定の思想を初めて表明したのは、元武士で出家し曹洞宗に入った鈴木正三である。彼は正直に商売をすることで福徳が与えられると考え、利益の追求を肯定した。そして商業活動によって自然に菩提心が成就するとまで言っている。ただし正三の思想は人々には大きな影響はなかった。現実の町人に大きな影響を与えたのは正三より百年のちの石田梅岩である。

石田梅岩は、百姓の生まれで商家に奉公へ出、求道的な性格で儒者の講義を聞いてまわるうちに見性し、「赤ん坊みたいな状態になりきって(p.134)」、無料での講義を始めた。彼の思想は天人合一を基調とし、正直、倹約、勤勉などを強調するもので、これは心学と呼ばれる。その没後は手島堵庵によって心学運動は京坂地方で大きな社会勢力となった。さらに堵庵の門弟の中沢道二は関東一円と日本各地に心学運動を広めた。それは単なる質素倹約の教えではなく、実践的・行動的であって、間引きの減少に取り組んだり、困窮者の救済を図ったりした。ただし、社会変革の要素はなく、石田梅岩が身分制を肯定していたように、幕藩体制を内側から支える役割を強くしていったことも否めない。

「第6章 18世紀の開明思想」では、科学的思惟を身につけた人々について述べる。18世紀は第一次啓蒙時代と位置付けられる。富永仲基、三浦梅園、前野良沢、平賀源内、杉田玄白、司馬江漢、山片蟠桃らが次々に現れた。

彼らは、好奇心に満ち、実験して確かめ、伝統的な教えを懐疑した。彼らは経験的合理主義を身につけ、自国中心主義や中華主義を克服し、広く世界に目を向けていた。儒教はもはや真理探究の対象ではなくなっていた。それには皮肉にも(?)徂徠の仕事が影響している。

ここでは富永仲基、三浦梅園、山片蟠桃が取り上げられる。富永仲基は、儒教教育を受けて懐徳堂に学んだが、『説蔽』という幕府の教化政策に反するような本を書き、彼の師の三宅石庵は少年仲基を破門したという。仲基は若くして隠居し、個人教授や著作に従事、たった31歳で亡くなっている。彼は「儒教・仏教・神道のそれぞれが人間の知的努力によって歴史的に発展したものであることを文献学的に明らかにし(p.147)」、また比較文化論・比較国民性論を展開して、あらゆるものを相対化した。当時としては度外れて自由に思想した彼の場合も、「歴史」が社会を相対化する武器だったように思われる。

三浦梅園は、「徂徠の回避してきた問題を解決すべく(p.164)」現れた。すなわち、宇宙や自然をどうとらえるかという問題だ。彼は、幼いころから「いいかげんな説明では満足できない少年(p.167)」であり、物事を知っていると思われている人がその実何もわかっていないことを発見した。彼は書物を妄信する態度を改め、自然を師とすべきだと考えた。彼の懐疑的精神はデカルトを思わせる。そして彼は「聖人と称し仏陀と号するももとより人」と醒めた見方で絶対的な価値基準から自由に論理的思考を広げた。

山片蟠桃は、懐徳堂に学び、中井竹山・履軒・麻田剛立などについて学んだ最高の知識人である。彼はあらゆるものに合理的思惟のメスを入れ、神代や霊魂などについても徹底して合理主義で解釈した。特にその無鬼論(無神論)は、「啓蒙主義の中の最も重要な要素の一つである宗教的側面の啓蒙の最もすぐれたもの(p.177)」である。彼は「格物致知」を大切にし、朱子学の合理的側面を成長させた第一次啓蒙時代を代表する思想家である。

では、当時の啓蒙思想は明治以降のそれ(第二次啓蒙時代)と何が違うか。第1に、そこには平等な社会をつくろうとする意識がなく、第2に、彼らの著作は公刊されておらず、広く影響力を持ったとは言えないことだ。

「第7章 経世家の思想と民衆の思想」では、思想家が経済とどう向き合ったかを述べる。江戸時代は、幕府・藩・武士が経済的に困窮せざるをえない構造的な問題があった。すなわち幕府の仕組みは、経済の発展がないという前提で構築されたものだったのである。江戸時代の後半には、知識人はこの矛盾に取り組むことになった。徂徠の弟子の一人、太宰春台は経済の安定が道徳の維持にも重要だとみなして、特産物の奨励など「富国強兵」を説いている。これは後の藩専売制につながった。一方、中井竹山は参勤交代の廃止や国替の廃止、藩の負債に応じて公役を免除するなどの経済対策を考案して『草茅危言』としてまとめ松平定信に提出している。

一方、海保青陵は「徂徠とはちがって、徳川社会の基本的矛盾は、商業資本を肯定し、商業的社会・経済的機構を伸ばすことによって解決されると考えた(p.188)」。彼は幕府の機構すらも経済的な契約関係として理解し、武士を商業社会に参画させようとした。

本多俊明は、農民を困窮から救うには開国が唯一の方法であることを指摘した。自由競争による貿易が相互を利すると考えたのだ。彼は日本の閉鎖的な社会を問題視し、日本は開かれた貿易国家になるべきと考えていた。

それと真逆だったのが、八戸の田舎にいた安藤昌益。彼は「いっさいの権力組織を否定し」「無政府主義・平等主義」の自給自足社会を理想とした。それは支配することもされることもない万人が平等のユートピア社会なのだ。

二宮尊徳は、独特の天の概念を持っていた。他の思想家が天を善とみなしたのとは逆に、尊徳は何事も天に任せれば皆荒地となってしまう、と極めて農民の実感に即した理解を示し、人道(人間の作為)を重視した。彼は勤労や計画性を重視し、後の生活改善運動につながるような側面を持っていた。

「第8章 国学運動の人々」では、国学を形作った人々の思想を述べる。ここでは契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤が取り上げられる。これら国学の系譜の主流とされる人は、直線的に学説を発展させたわけではない。例えば、荷田春満は国粋主義的で浸透を重視したが、春満を頼って江戸に出た賀茂真淵の場合は、春満とは違って詩の律動・万葉の調べを重視した。彼らは実証的に言葉の意味を解明する荻生徂徠の方法論を使いつつも、理性よりも感情の発露を重んずる点では共通していた。

本居宣長は、先師の説を乗り越えながら一歩一歩真理に近づいていくという学問観を身につけていた。これは今から見ると当たり前だが、師の継承が学問と思われていた時代としては異例な見解だった。 宣長は王朝文化を日本文化の精華と見なし、その女性的な「物のあはれ」を称揚した。「物のあはれ」は文学を評価する時の価値基準であるとともに道徳的基準でもあった(「物のあはれ」を知る人がすばらしい)。こうした価値観から予想されるとおり、彼は変革を望まず、現状肯定的な生き方をした。

一方の平田篤胤は、宣長の古代研究の中でも手薄な宗教面を狂信的なまでにクローズアップした。ところが面白いことに、彼は宣長が否定した儒教道徳を取り入れている。しかも彼はマテオ・リッチの伝えるキリスト教の情報をも使って自らの思想を喧伝した。彼には歴史の発展性や伝説の多元性の観念はなかったが、いろいろな史料を自らの都合のよいように使ったのである。篤胤の学問は幕末に大きな影響を与えたものの、そこに変革思想は内在していない。

「第9章 幕末志士の悲願」では、幕末の志士に影響を与えた思想を述べる。幕末には、思想が「国際政治—国内政治—経済の問題を統合的に捉えるような視角(p.250)」を持つようになった。だが昌平黌の儒者たちは、もはや思想的生命を失いかけていた。この時期の思想を担ったのは、むしろすぐれた田舎武士であった。彼らは儒学や兵学を修め、また洋学や国学にも取り組んだ。そして現実の問題に対処していこうとする実学的思想や現実主義的な態度を持っていた。彼らは思想と行動が結びついていた。

そういう志士たちに大きな影響を与えたのが後期水戸学である。水戸学では、攘夷論や経世論を統合した理論を作り、その結論はナショナリスティックな方向へ向かった。会沢正志斎の『新論』は、個別の議論は尖鋭なものではないが、全体として人々を鼓舞した。彼が喧伝した特に重要な概念に「国体」がある。

一方で、儒教的教養から出発しながら、西洋の優秀性を認めて開国を主張するようになったのが佐久間象山、横井小楠、吉田松陰などである。彼らの合理性の根っこには兵学・軍事技術があったようだ。佐久間象山がナポレオン、ピョートル大帝を理想の君主として賞讃しているのは象徴的だ。横井小楠は、列国と平和的貿易を行って独立を保つ道を考えた。彼は堯舜の世を共和政治・ワシントンと重ね合わせた。吉田松陰は師の象山よりはるかに実践的で尊王だった。そして象山の悩まなかった名分論に悩み、天皇の臣下であると自らを規定することでそれを乗り越えた。彼は「天の思想と天皇とを直結させる後期水戸学の思想を批判し、わが国の神話にもとづいて、天皇は太陽神である天照大神を嗣ぐもの(日嗣)であるから絶対である(p.283)」とし、一種の平等思想である「一君万民思想」が形成された。しかし維新を実行したものたちはここまで思想が純化しておらず、彼らが目指したのは天皇を中心として統一され、公論が活かされる民族国家であった。

「終章 幕末から明治へ」では、明治維新後の思想的課題が簡単に整理される。明治時代を主導した明六社の知識人たちは、すでに幕末において西洋に目が開かれており、福沢諭吉『西洋事情』、加藤弘之『立憲政体略』などが書かれていた。彼らは明治維新を知的には準備していたが、幕藩体制を打倒する運動は何一つしていないのが面白い。

本章では、維新後、近代化を成し遂げるために格闘した人々の思想が触れられているが、当然ながら本書は「徳川思想小史」なので、あくまで概略的である。

全体として、本書は非常にバランスがいい。私はこの種の本をいくつか読んでいるが、これまでで最も読みやすく、引っかかるところがないと感じた。もちろん、あまり編年的でないとか、年表がないとか、いろいろ不満に思う部分はあるが、江戸時代の思想史の概説としての嚆矢であることを思うとそれらの点は割り引いて考えるべきだ。本書には、著者が大上段に掲げたテーマのようなものはなく、ある意味では教科書風に淡々とまとめているのだが、記述は生き生きしており決して退屈しない。

なお、著者の源了圓については、本書の内容とは全く関係ないところで興味を持っている。それは、彼が戦時中に薩摩半島に配属され、「薩南海岸」で終戦を迎えていることだ。それがどこなのかわからないが、私の今住んでいるあたりのどこかなのだろう。著者はそこでどんな体験をしたのか、機会があれば調べてみたい。

簡にして要を得た、読んで面白い江戸時代の思想史。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の思想史—人物・方法・連環』田尻 祐一郎 著
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江戸時代のさまざまな思想を紹介する本。「政治思想史」としては非常に手際よくまとまっており、取っつきにくい江戸の思想家に親しむのにはちょうどよい本。

『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著
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江戸時代から明治維新に至るまでの、日本の政治思想の変遷を辿る本。明治維新を理解する上での基礎となる日本儒学が辿った近世史を、深く面白く学べる本。

『近世日本の学術—実学の展開を中心に』杉本 勲
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/07/blog-post.html
近世日本の学術の展開を、思想に注目して読み解く本。近世学術と儒学の関係を解き明かした労作。

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