2025年2月24日月曜日

『選択本願念仏集』法然 著・大橋 俊雄 校注

法然の主著。

法然に従う人々が多くなってくるにつれ、親しく教えを受けられない人が多くなっていき、教えの要点を記した文書の必要性が高まっていた。また、九条兼実は法然に教えをまとめてほしいという要請をしたらしい(『選択密要決』)。そういう事情から、建久9年(1198)に著されたのが『選択本願念仏集』である。ちなみに「選択」は、浄土宗では「せんちゃく」、浄土真宗では「せんぢゃく」と読む。

その基本的な構成は次のとおりである。まず経典とその古典的な解釈を本文で表示する。古典的な解釈とは、主に善導によるものだ。中国で7世紀に浄土教を大成した人物である。ただし、本文にも法然の考えは当然反映されている。次に、「私(わたくし)に云わく」とか「私に問うて云わく」などとして法然の私釈を述べ、適宜問答が挟まれている。私釈は本書では一段下げになっている。なお、法然は承安5年(1175)、善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』(『観無量寿経』の解説)で称名念仏による往生を確信し、この年は浄土宗では開宗の年と位置付けられている。

ちなみに、私は源信の『往生要集』を以前通読したが、本書の読後感はこれとは全く違う。『往生要集』が百科全書的な内容を持ち、各種の経典を縦横に引用して往生のための要点を考究していくという、壮大な伽藍のような書であるのに対し、こちらでは最初から結論が決まっていて、その結論に都合の良い論書を抄出している、という感じがする。つまり、源信は学究的ではあったが宗教的な確信は弱かった。一方、法然はあまり学究的という感じはしないが、宗教的な確信は強かったのである。源信がその『往生要集』の高名さにもかかわらず一宗の宗祖とならなかったのは、時代的な事情だけのことではなさそうだ。

そして、本書は日本の禁書第一号となったことでも知られる。これは門徒の密通の発覚という偶然も寄与していたが、本書の「結論ありき」で偏った内容が穏当な主流派からの反発を招いたことは想像に難くない。

本書は16のセクションで構成されている。原文で「第〇章」などと表示されているわけではないが、校注者に倣って以下便宜的に章分け表示する。また原文は漢文であるが、本書は読み下し文のみの収録である。

第1章:道綽の『安楽集』を引き、仏道には悟りを目指す「聖道門」と浄土への往生を目指す「浄土門」があるが、「今の時(道綽の時代=末法と位置付けられていた)」では聖道は難しく、浄土門に頼るほかないとする。

これに対し私釈では、宗義格別を主張し、それぞれの宗派で重視する事項はまちまちであることを強調している。この部分は、他宗を尊重する立場を表明しているものといえる。続いて浄土門においては、浄土往生を中心的な目的としている宗派と、副次的な目的にしている宗派(=華厳・法華等)があると述べる。

次に曇鸞の『往生論註』を引き、ただ仏を信じて往生を願う易行道と、自ら道心によって往生に至る難行道があることを述べ、易行道でも道心は得られるのだから易行道の方が優れているとする。そして最後に、「たとひ先に聖道門を学する人といふとも、もし浄土門において、その志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし(p.21)」と主張する。さっきの宗義格別はなんだったのか、とびっくりする展開である。

第2章:善導の『観経疏』を引き、「一心に専ら」阿弥陀仏を信じて称名念仏することを「正定(しょうじょう)の業」とし、礼誦(らいじゅ)等によって往生を願うことを助業としている。

私釈では、称名念仏が「正定の業」なのはそれが阿弥陀仏の願に従ったものであるからといい、次いでそれ以外の雑業を述べて5つの観点から比べている。当然に「正定の業」が優れているとする。

続いて本文に戻り、善導の『往生礼賛』を引いて、仏の本願に相応するものは往生は確実であるが、雑行を修する者は稀にしか往生しないと述べている。曰く「ただ意(こころ)を専らにしてなす者は、十は則ち十生ず(10人が10人とも往生する)。雑(ぞう)を修して心を至さざる者は、千が中に一もなし(p.38)」。ここで心の在り方を問題にしているのは興味深い。

第3章:『無量寿経』の第18願「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」を引き、阿弥陀仏を念ずれば必ず往生すると述べている。

私釈では、四十八願(阿弥陀仏の48の誓願)について説明し、その誓願とは、仏の「選択」の結果であったとする。「選択とは、即ちこれ取捨の義なり(p.44)」とし、往生のための行はさまざまあるけれども、仏は最善のものを選んだはずであるから、仏の選択したものを修するのが最善であるという(なんだかトートロジー的だ)。「即ち今は前(さき)の布施・持戒ないし孝養父母(きょうようぶも)等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す(p.49)」のである。一般的に善行とされる布施・持戒・孝養などを否定する論拠は、それが阿弥陀仏によって選択されていないからなのである。

そして法然は、この第18願を「本願」(阿弥陀仏の根本的な願い)ではないか、という(「故に劣を捨て勝を取つて、もつて本願としたまふ(p.51)」。ただし四十八願全体を本願とする考えも本書にはある)。しかも念仏は容易であるから、誰でも実践できる。造像起塔などが往生に必須だとなればそれが実践できるのは一部の人間に限られる。「難を捨てて易を取りて、本願としたまふ(p.52)」。阿弥陀仏が多くの人を救いたいなら、易行を選択したに違いないから「ただ称名念仏の一行をもつて、その本願としたまへるなり(p.53)」。この部分で、疑問形「たまふか」から「たまへるなり」に転換していることが法然の思想家としての回心を表しているようだ。この章は前半の中核をなすものである。

第4章:『無量寿経』を引き、人々の機根には上中下があるが、下輩でも「無上菩提の心を発(おこ)して、一向に意(こころ)を専らにして」念仏し往生を願うことはできるとする。本章の本文は全部が『無量寿経』の引用である。

私釈では、先の「無上菩提の心」が問題になる。法然はひたすら念仏すれば往生できると説いたが、経典では「無上菩提の心」も条件にあるじゃないか、というわけだ。そもそも経典には法然が「余行(よぎょう)」と位置付ける様々な善根の積み方が述べられている。なぜ余行を捨てて念仏のみを修せよというのか。これに対する法然の論説は苦しい。例えば「余行を知らなければ念仏が勝れていることは理解できないからだ」などというのは詭弁じみている。ともかく経に「一向に」と書いている以上、余行は捨てるべきだというのが法然の考えだ。ここで注目されるのは、法然は「末法だから念仏に頼るほかない」というような言説を全く表明していないことだ。

第5章:本文では『無量寿経』と『往生礼賛』(善導)から念仏の功徳を誉める文を引く。

私釈では、まず「念仏のみが讃嘆されるのはなぜか」との問いがある。菩提心をおこすことも素晴らしいはずだが、なぜ念仏だけが「無上の功徳がある」などといわれるのか。これに対し、「聖意測り難し」としながらも、余行がすでに捨てられた以上、念仏のみを誉めるのは当然といい、菩提心等の諸行も小利はあるが(←つまり全否定ではない)、無上の大利がある念仏を修する方がよいと述べている。

第6章:『無量寿経』から、「当来の世に、経道(きょうどう)滅尽せむ」時にも「この経を留めて」「皆得度すべし」という一文を引いている。

私釈では、経でいう「当来」を、「まさに来るべき世」ではなく、「末法万年後の百歳」と解釈する。つまりこの経文は「末法万年後には他の経典や修行は全て失われるが、念仏だけは残る」という意味だというのだ。これはかなり恣意的な解釈であろう。

ともかく、以後、「末法万年後」という気の遠くなる未来の話になる。諸行による往生は「末法万年」までは有効であるが、その以後には無効となり、ただ念仏だけが有効になるだろうという。それはなぜかといえば、末法万年後まで『無量寿経』が残るように釈尊が計らったからだ。ではなぜ釈尊は他の経典ではなく『無量寿経』を選んだのか。それは釈尊の慈悲によるという。念仏は誰でも修することができるのだから、他の経典では多くの人を救うことが不可能になると。このあたりは、「釈尊が選択した一つの経典以外は滅する」という前提で話が進む。だが全ての経典が失われるならまだわかるが、一つ以外は滅びるという前提そのものが恣意的だ(ただ、これは法然以前に形成された通念かもしれない)。そして、念仏は末法万年以後でさえも有効なのだから、当然今でも修するべきだと結んでいる。

法然は同時代を「末法に入って百年」と認識していたが、末法だから教えが意味がなくなるのではなく、末法万年までは他の経典や修行にも意味があると考えていたのが興味深い。念仏のみに頼らざるを得ないのは、あくまで「末法万年の後」という遥かな未来なのだ。

第7章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、阿弥陀の光明が念仏行者のみを照らすことを述べるが、これは経や疏には明確には書いていない(経には「阿弥陀の光明は遍く十方世界の全ての衆生を照らす」とある)。本文に問答があり、この疑義が俎上に上がるが、「自余の衆行は、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、全く比校(ひきょう)にあらず(p.86)」(=念仏とは比べものにならない)といい、念仏の功徳を一方的に主張する。この部分は引用ではなく法然の主張である。

私釈では、当然ながらこの主張を再確認し、その理由を「念仏はこれ本願の行(p.88)」であるからと押し通している。

第8章:『観無量寿経』を引き、往生を願うものは必ず①至誠心(しじょうしん)、②深心、③廻向発願心の3つを備えなければならないとし、『観経疏』(善導)によりこの三心を解説している。ここの本文も法然の解釈がすでに入っており、特に力説されるのが②深心である。深心とは「深信の心」であるとして、「疑ひなく」「一心にただ仏語を信じて」などと、とにかく信じることが重要であると述べる。それは「一切の別解(べつげ)・別行・異学・異見・異執」を退けるものである。法然は、悪く言えば「妄信」を求めている。

ここで面白いのは、当時「阿弥陀など虚妄だ」というような説があったらしきことである。それに対して法然は「皆が十方遍満して弥陀など虚妄だと言ったとしても、私は一念の疑心も起こさない!」と宣言している。このあたりは疑念がテーマになっている。仏典には様々なことが書かれており、名号念仏はそのごく一部分でしかない。であれば、念仏のみを信じろというのは、その他の仏典の文言を捨てることを意味する。どう解釈したらいいのか。ここで法然は、「仏のいうことは全て真実なのだから、帰するところは同じはずだ」といい、阿弥陀のみに従うことは他の仏説を否定しているわけではなく、究極的には「釈迦の所説・所讃・所証」を信じることと変わらないというのだ(かなりの強弁だ)。ここで、当時の常識である権実(ごんじつ)の枠組みが全く援用されていないことは注意される。

③廻向発願心の議論も長い。これは、善根を積み重ね、それを「皆真実の深信の心の中に廻向して」往生を願うことである。その意図するところはつかみ難い。この議論の中で、有名な「二河白道の譬え」が述べられる。火の河と水の河の間にある細い道を通って彼岸に至るとするもので、そういう危険な道を通ろうとすれば「そんな危険な道を行ったら死んでしまう。悪いことはいわないから引き返せ」という人がいるだろうというのだ。だがそういう声には耳を貸さずに道を進めと法然はいう。

なお火は瞋憎を、水は貪愛を譬えている。瞋憎や貪愛に陥らずに一心に念仏をすることが「二河白道の譬え」なのだ。しかしこの譬えは奇異だ。念仏による往生は誰でもできる易行ではないのか。死の危険があるような道をゆく難行とは違うはずである。しかしこの譬えは、念仏が難行であるといいたいのではなく、「周りがそんなのはやめておけと騒いでも、信じた道をゆけ」ということなのである。つまり周囲の雑音に惑わされるな、という話だ。法然が警戒するのは常に「疑い」である。

こうした議論の後、私釈では結論を確認するのみである。

第9章:『往生礼賛』(善導)によれば、念仏行者は4つの法を修する必要がある。①恭敬修(くぎょうしゅ)、②無余修(むよしゅ)、③無間修である(4つの法というのに、3つしかないのは脱落があると法然は述べている)。①恭敬修とは、一切の聖衆を恭敬礼拝すること、②無余修とは、余業をまじえず念仏のみに専修すること、③無間修とはそれらをずっと続けること、である。ここで窺基の『西方要決』が引かれる。それには上述の3つに加え「長時脩」があり4つとなる。

ここでも私釈は結論を確認するのみである。

第10章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、諸経を聞くことも功徳がないわけではないが、称名の功徳は「五十億劫の生死の罪を除く」と述べる。

私釈では「聞経の善はこれ本願にあらず」として、再び『観経疏』を引いてその主張を繰り返している。本章はとても短い。

第11章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、念仏者を讃嘆している。特に念仏者を「妙好人」と呼んだことは重要。

私釈では、念仏を修することのすばらしさを述べ、機根の優れた人も劣った人も皆念仏すべきだと主張する。一般的には、「造像起塔はお金持ちしかできず、修行によって悟ることも普通の人には難しいから念仏に頼るほかない」として専修念仏が勧められたとされる。だが、法然は貴賤の上下・機根の勝劣にかかわらず念仏すべきだという。それは「劣った人にでも効果があるのだから、優れた人に効果があるのは当たり前だ」との理由だ。また本筋ではないが、この議論の途中にある「また浄土に往生して、ないし仏になる(p.139)」との言葉は気になった。浄土では悟りが得やすいから、念仏で往生すれば成仏(悟る)こともできるとの主張である。

第12章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、「定散両門の益を説くといへども」称名念仏に専念すべしとする。

私釈では、「定散両門」の意味が解説される。これは「定善」と「散善」で構成され、「定善」には①日想観、②水想観から⑫雑想観までの12の観想法がある。これらを修することでも往生はできる。「散善」には、「三福」と「九品」の2種類がある。「三福」は父母への孝養、仏法僧への帰依、菩提心や大乗の経を誦することなどの善行である。「九品」とは、「三福」を上品上生から下品下生までの9つの機根に分けたものである。

法然はこれらの「散善」が善行であることを承認し、それらを実行することで往生できることも否定はしない。ここでは宗義格別の主張が復活し、例えば「たとひ余行なしといへども、菩提心をもつて往生の業とするなり(p.145)」などと諸宗派の認識を再確認する。

なお、ここで問題にされるのが、「読誦大乗(大乗の経を誦する)」である。その経の中に「何ぞ法華を摂するや」との問いがあるのだ。どうしていきなり『法華経』の話仁なるのか、いまいち理解できなかった。当時、最も偉大な経典とされていたのが『法華経』であるが、本書にはほとんど『法華経』への言及がない。意図的に避けていたのかは不明だが、この箇所の書きぶりからすると意識はしていた模様である。

このように、法然は定散両門の意義を正面切って否定はしないが、その意義は時代を経れば低下するという。そういう歴史観なのである。だが、念仏だけは釈尊が遠い未来にまで残るように計ってきたという。なぜそう断言できるかというと、「それが仏の本願だから」に尽きる。

であれば、なぜ諸経には念仏が説かれず、むしろ「定散両門」が力説されるのか。これに対し法然は「実行が難しい定散があることで、念仏の良さが際立つ」という。「定散は廃せむがために説き、念仏三昧は立せむがために説く(p.155)」というが、これはさすがに無理があると感じた。

さて、では定散両門の意義がなくなるのはいつなのか。それは「末法万年の後」なのだ。であれば、今(法然在世当時)はまだ定散両門は有効なのだ。今はまだ念仏しか頼れない時代ではないのである。だが法滅の世ですら頼れるのが念仏だとすれば、念仏は正法・像法・末法の全ての時代で頼りがいがあるのである(「念仏往生の道は、正・像・末の三時、および法滅百歳の時に通ず(p.160)」。

第13章:『阿弥陀経』と善導によるその釈を引き、「心を一(いつ)にして」念仏することで往生できると述べている。

私釈では、念仏は善根が多く、一方雑行は「これ劣の善根」であると切って捨てている。本章はとても短い。

第14章:善導の『観念法門』『往生礼賛』等を引き、臨終の時に念仏をすることで往生することができると述べる。

私釈では、それは「善導の意(こころ)によらば、念仏はこれ弥陀の本願なり(p.167)」だからだという。結局これに尽きる。

第15章:善導の『観念法門』等を引き、念仏行者は「六方恒河沙等の仏(あらゆるところにいる数多い仏)」によって護念される(厄難から守られる)と述べる。

私釈では、念仏をすれば、阿弥陀仏だけでなく数多くの仏から守護されることを強調している。

第16章:『阿弥陀経』を引き、仏が阿弥陀経を説いたことを述べ、善導の『法事讃』では「世尊法を説きたまふこと、時まさに了(おわ)りなむ」として、仏説の終結だとみなしている。善導は、「そこから時は流れ、今は人々の心が乱れてしまった」と嘆いている。

ここの私釈は本文とほとんど対応していない。まず三経(『阿弥陀経』、『無量寿経』、『観無量寿経』)に基づき、仏の「選択」がどこにあるかを検討する。「選択本願」「選択讃嘆」「選択留経」「選択摂取」「選択化讃」「選択付属」「選択証誠」などなど。それら総合的な選択の結果、称名念仏がある。

ここで、「華厳・天台・真言・禅門・三論・法相の諸宗においても浄土法門について考究している者はあるのに、なぜ善導のみを参照するのか」という至極当然の疑問が発せられる。これに対し、法然は「善導が浄土一筋だから」という。他の宗派は、往生一筋ではなく聖道門が中心だ。さらに「浄土門にも善導以外の思想家がいる」との反問があり、それに対して、それらの諸師は「いまだ三昧を発(おこ)さず」という。法然は、こういうところでは切って捨てるような言い方をする。さらに問う方も粘って「それでも善導の師である道綽がいるじゃないか」と食い下がる。だが法然にほれば、道綽は三昧をおこさなかったし、そもそも念仏での往生が可能かどうか善導に聞いているくらいだから、善導さえ参照すればよいという。

ここで『観経疏』(善導)が引かれ、面白い話が紹介される。それは善導が見た夢の話である。善導が毎日『阿弥陀経』3回読誦、阿弥陀仏3万遍を念じたところ、夢で浄土の様子を見るようになり、毎日夢に一人の僧が現れて『観経疏』の一部(玄義・科文)を授けてくれたという。こうして『観経疏』を書き終わって、今度は7日間、毎日『阿弥陀経』10回読誦、阿弥陀仏3万遍を念じようとしていたところ、第1日目には夢の中にラクダに乗った人が来て「往生すべし」と述べ、第2日目には阿弥陀仏に出会い、第3日目には二つの旗竿に5色の旗がたなびいている様子を見た。ここで善導は往生の確信を得、7日の予定を中断したのである。

法然は、毎夜現れた僧を阿弥陀が応現したものとし、『観経疏』は弥陀の教えだとする。さらには、大唐では善導自身が弥陀の化身であると言われているとし、「(善導は)仰いで本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱へ、念仏に憑(たの)みあり。俯して垂迹を訪へば、専修念仏の導師なり(p.188)」という。ここで本地垂迹説の枠組みが援用されて、本地-阿弥陀仏、垂迹ー善導という主張がされていることは興味深い。

****

全体として強く印象に残ったのは、法然は「末法の世」だから云々といったことはほとんど述べていないことである。文庫カバーの紹介文では「末法の世では、自力で修行に励みこの世で悟りを得ることは困難で、ただ仏を信じ念仏することにより浄土に生まれ、来世に悟りを得るべきと説き…」とあるが、実際、このようなことを法然は説いていない。この紹介文を書いたのはおそらく編集者であるが、『選択本願念仏集』を誤読している。

まず、この世で悟りを得ることは困難かどうか、本書ではあまり述べられていない。確かに第1章で『大集月蔵経』を引き、「我が末法の時の中の億々の衆生、行を起し道を修せむに、いまだ一人として得るものあらじ(p.10)」とは言うが、これはあくまで道綽の時代(7世紀ごろ)の話である。また曇鸞の『往生論註』では、「謂はく五濁の世に、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす(p.18)」とある。「阿毘跋致(あびばっち)」とは道心堅固なことである。確かに悟りを得るのは難しい。しかし「末法だから困難」という言説はこれ以外に見出せない。

さらに、往生は念仏によるほかないとも書いていない。例えば、第7章の本文で「つぶさに衆行を修して、ただよく廻向すれば、皆往生を得」とある。これは問いの文の一部だが、「修行して廻向すれば皆往生できる」と言っている。なお、「来世に悟りを得る」というのも、確かにそのような主張もあるが決して中心ではない。

では本書の内容に基づいて法然の主張を述べるとどうなるか。

まず、法然は「念仏至上主義」というような立場に立った。念仏以外を「余行」とか「雑行」として、それらが善行であることは一応承認したが、同時に「余行は捨てるべきだ」と主張した。なぜ念仏以外を捨てるべきなのか。それは、念仏だけが仏の本願だからなのである。つまり、阿弥陀仏が念仏を「選択」したのだから、それ以外は捨てるべきだという。では阿弥陀仏が念仏を選択したのはなぜか。それは、造像起塔や写経、修行といったことを本願とすれば、それは一部の人しか実践できないからだ。仏が、一部の人だけを救うような方策を本願とするわけがない。そして、それは末法万年の後まで遺るように計らったのという。このように法然の思想の根本には、「仏は全ての人を救うはずだ」という、一種の平等観がある。念仏に頼るべきなのは、末法の世だからではなく、それが全ての人を救うものとして阿弥陀仏が定めたからなのである。

ここで重要になるのが、「一心に専ら」阿弥陀仏を信じて称名念仏しなくてはならない、ということである。なぜ「余行を捨て」「一心に専ら」阿弥陀仏のみを信じなければならないのか。これが法然教団の核心であるが、なぜ阿弥陀仏以外を否定しなければならないのか、本書からはいまいちわからない。「念仏はこれ弥陀の本願」だから他を否定するというのは、論理的ではない。しかも法然は余行の功徳も否定はしていない。余行を修したからといって、阿弥陀仏が嫌がるというような言説ももちろん存在しない。

ではなぜ法然は阿弥陀仏以外を否定しなければならなかったのか。その理由は、「二河白道の譬え」がヒントになる。ここでは易行であるはずの念仏が、火と水の河に挟まれた細い道を進む難行として描かれる。火や水ももちろん危険ではあるが、それよりも法然が警戒するのは「そういう危険な道はやめたほうがよい」という外野の声である。法然が念仏の障りと考えたのは、外野の声と、それによってもたらされる疑いなのである。

本書には、深く一心に信じること、一切の疑いを持たないことが力説される。これは、言い方は悪いがカルト教団と同じ主張であろう。法然は、一応、宗義格別の立場に立ってはいるが専修念仏以外を捨てるべきものとしている。専修念仏は、念仏カルト教団だったといっても、あながち間違いではないと思う。もちろん、「深く信じる」は法然が言い始めたことではなく、源信が『往生要集』で強調したことである。カルト的な性格は一切なかった源信も「深く信じる」を重視した。だがそれは阿弥陀仏が人の内面を覗くことができる能力があると捉えたからだ。一方法然にはそういう観念はなく、極端な念仏至上主義から妄信を求めた結果であった、と本書からは感じた。

法然が専修念仏運動の旗手となったのは、まさにこのためだったと思う。法然は一切経を5回も読んだというが、仏教の言説は膨大であり、そこから誰でも頼れる明快な教えをバランスよく抽出することは困難である。当時最も影響力が大きかったのは『法華経』であるが、『法華経』の7万字から教えの要点を抽出することでさえ困難だ。そこで法然は、念仏を「弥陀の本願」で押し通し、経に「一向に」と書いてあることのみを論拠として残りの仏説を全て切って捨てた。こういうことは、ちょっと常人にはできそうもないのである。『選択本願念仏集』という書名は、阿弥陀が念仏を「選択した」ということを意味しているが、法然にとっては「残りの仏説を全て切って捨てた」という選択だったのかもしれない。

また、法然といえば「善行を積むことができない下賤の人に念仏での往生を勧めた」と言われることがあるが、これも本書を読む限り違う。本書の書きぶりから判断すると、下賤の者が念仏に頼るほかないということは、法然以前に広まっていたように思われる。そして、法然の主張したのは、「念仏は下賤の人だけでなく、貴顕の人まで含めて全ての人が行うべきだ」ということだったのではないだろうか。

例えば、『観無量寿経』では、上・中二品では念仏を説かず、下品(げほん:機根の劣った人)に至って念仏を説いている(p.71)。『観無量寿経』では念仏は下品の人向けの行いなのである。これに関し、第10章の私釈にこういう問答がある。「何が故ぞ、上々品の中に(念仏を)説かずして、下々品に至つて、しかも念仏を説くや(p.132)」。法然は私釈で念仏者を「上々人」と位置付けているが、であれば、『観無量寿経』で上品の人々に念仏を説いていないのはおかしい。そして下品の人が念仏を実践したらそれはもはや「上々人」ではないかというのである。これに対して法然は真正面から答えず、「あに前に云わずや。念仏の行は広く九品に亘ると(p.133)」とする。念仏は九品、つまり全ての人が行うべきものだというのである。

では経で下品に至って念仏を説いているのはなぜかというと、下品下生(九品の最下位)は、「五逆重罪の人」で、そういう人は「ただ念仏の力のみあつて、よく重罪を滅するに堪へ(同)」るからだ。つまり重悪人は念仏以外での救済は不可能だから、あえて下品で念仏を説いているのだという。

この後いろいろ議論してから、面白い問答が出てくる。質問者曰く「下品上生(下品の中では優れた部類の人)は、これ十悪軽罪(きょうざい)の人なり。何が故に念仏を説くや(p.137)」。下品上生の人は重罪ではなくて軽罪なんだから、念仏以外でも救われるはずなのに念仏を勧めるのはなぜかという。これに対する法然の答えは、いかにも法然っぽい。「念仏三昧は、重罪なほ滅す、いかにいはんや、軽罪をや」というのだ。

こうした問答から判断すれば、造像起塔や写経を行い、または自ら修行するような貴顕の人々も念仏を行うべきである、と主張したことこそが法然の独創であったように思う。実際、本書は九条兼実の懇請によって著されたものというが、蹉跌の時にあったとはいえ、摂関家の兼実が法然に帰依したことはその主張を物語っているといえよう。ちなみに、兼実は貴族社会が没落していく中で国費を膨大に費やす政治を快く思わず、「政を淳素に反す」ことを宿願としていたらしいが、仏事に巨費が投ぜられていた当時の状況を思うと、兼実は専修念仏が緊縮財政に役立つと考えたのではないかと思った。

最後に法然の独創を繰り返すと、次の2点に集約できる。第1に、念仏以外を無用として切り捨てたこと。第2に、念仏は機根の劣った人だけではなく、貴顕の人も含め全ての人が行うべきであること。この2点ともその論拠は、「それが弥陀の本願である」からだ。

専修念仏教団を生み出した、念仏至上主義の書。

【関連書籍の読書メモ】
『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。法然については「Ⅴ 法然の思想構造とその歴史的位置」「Ⅷ 建永の法難について」を参照。

★Amazonリンク
https://amzn.to/434JtC8

2025年2月12日水曜日

『待賢門院璋子の生涯――椒庭秘抄』角田 文衛 著

待賢門院璋子の生涯を詳しく解き明かした本。

本書は、美川圭氏によって「衝撃の書」と評された本である。崇徳天皇が白河法皇と待賢門院璋子の不義の子であるという『古事談』にある逸話を執拗なまでに論証し、事実であると認定したのが本書なのである。

しかし、『古事談』の逸話が事実であることを確かめた、というだけが本書の価値ではない。そこにいかなる関係があったのか、当時の日記や記録を渉猟し、人の心の襞の襞まで追いかけて追及することで、もはや文学的といえるまでの世界を描き出したのが本書なのだ。

ただ、私が本書を手に取ったのは先述の論証を読むためではない。待賢門院ではなく、白河法皇の内面について知りたかったのである。白河法皇はどんな人物だったのだろうか。私が本書を読む上での視点は、待賢門院との関係を通じて白河法皇の人物像を自分の中に描きたいということだった。

白河天皇は中宮・藤原賢子(かたこ※最近は「かたいこ」と読む)を溺愛していた。賢子は敦文親王、善仁親王(→堀河天皇)、媞子(やすこ)内親王、令子(よしこ)内親王、禛子(さねこ)内親王を次々に生んだが、わずか28歳で亡くなる。白河天皇が死の穢れも気にせずその死に寄り添ったのは有名なエピソードだ。白河の悲しみは深く、翌年になっても悲傷のために寝所に籠りきりだった。また白河はその追善の為に、円徳院、勝楽院、円光院、常行堂(法勝寺内)を建立している。

この悲しみから、白河は后や女御、すなわち公的な妻を新たに置かず、手近な女房に非公式に手を付けた。次々と子どもは生まれたが誰一人認知はされなかった。こういう荒淫が治まったのは、寛治7年(1093)ごろ、「祇園の女御」と呼ばれる女性を寵愛するようになってからである。この頃白河は堀河天皇に譲位して上皇となっていた。

なお「女御」は俗称であって、彼女は正式な女御ではなかった。著者の推測では彼女は「(藤原)顕季の縁者で、三河守・源惟清の妻であったらしい(p.7)」。惟清とその一家が上皇を呪詛したとして配流されたのは、白河上皇は彼女を独占するためであった…と著者は推測する。

祇園の女御には子供ができず、藤原公実の末娘・璋子を養子にした。公実がまだ嬰児だった娘を自分より家格が劣る祇園の女御の養子にしたことは、白河法皇の猶子にすることが目的であったのだろう。公実の藤原氏閑院流は、摂関家に代わって王家との婚姻を深め栄達してきた系統で、堀河天皇の崩御後、公実は摂政を望んでいたほどであった。鳥羽天皇の即位にあたってその希望は叶えられなかったものの、璋子の存在によって一族はさらに栄達することになる。

どうやら、公実の系統は美男美女がそろっていたらしく、璋子も相当かわいい女の子だったらしい。白河法皇はこの娘を溺愛し、いつも添い寝して璋子の足を懐に入れて温めていた。璋子は、気難しい専制君主の愛を一身に受けて育った。

白河法皇が璋子の結婚相手に選んだのは、関白・忠実の息子忠通である。忠実の本妻源師子は、賢子の異母妹で、かつて法皇の寵愛を受けて後の覚法法親王を生んでいた。家柄も法皇との関係も申し分ない相手である。ところが忠実はあれこれと理由をつけて忠通と璋子の結婚を先延ばしさせ、法皇にあきらめさせた。この婚姻は、閑院流に水をあけられていた摂関家にとっても悪い話ではなかったのに、なぜ忠実は認めなかったのか。

それは、法皇が璋子を鳥羽天皇に入内させることにした時の忠実の日記で明らかになる。その日記によれば、璋子は備後守・藤原季通と密通し、権律師・増賢の童子とも関係しているふしだらな女で、「奇恠(きかい)不可思議ノ女御」「乱行ノ人」だといい、そのような女が入内するというのは「日本第一ノ奇恠ノ事」だというのである。璋子の「乱行」は事実であったらしく、季通が失脚したのは法皇が璋子との関係を激怒したためという。

だが、平安時代は性におおらかな時代で、複数の異性と関係することは決して珍しくなく、非難されるようなことでもなかった。忠実自身、正妻はほったらかしにして様々な女性に子を生ませている(次々に僧籍に入れた)。その忠実が「奇恠不可思議」「乱行」というのは、日記にははっきり書いていないが、璋子と白河法皇に性的な関係があったために他ならない。養父と養女が交わるというのは、平安時代の常識でも人倫に悖ることで、そのような女性を孫の鳥羽天皇の中宮にするというのは「日本第一ノ奇恠ノ事」だったのである。

入内の日、法皇は皇居の筋向いの邸宅に御幸したが、これは全く前例のないことで、おそらくはその当日にさえ法皇と璋子は同衾した。そして璋子は、病と称してしばらくは鳥羽天皇とは褥を共にしなかったらしい。これも忠実の日記に書いてあることである。このように、鳥羽天皇との入内の後も、璋子と法皇との性生活は続いた(ただし璋子は、鳥羽天皇にもやがてはしぶしぶ肌を許した)。

ところで白河法皇の熊野信仰は熾烈で、何度も熊野詣をしている。4度目の熊野詣にあたり、精進に入る前に法皇は5日間(9月20~25日)、璋子と同殿した。そして翌年の5月28日に璋子は皇子・顕仁(あきひと)を生むのである。受胎から娩出までの平均期間が271~264日であることを考えると、まさにこの期間が受胎期間と考えられ、顕仁は鳥羽天皇ではなく白河法皇の子であることが推知されるのである。

本書では、璋子の生理周期・月経の期間と突合してこの結論を導くが(!)詳細は割愛する。また、鳥羽天皇は皇子・顕仁を『叔父子』と呼んでいた(『古事談』)。その頃鳥羽天皇と璋子は性的交渉がなかったために、天皇はそれが自らの子でないことをすぐに見抜いたのである。しかも『叔父子』、つまり祖父の子であると呼んだことは、白河法皇と璋子との関係が公然のものだったことを窺わせる。これは「日本の歴史で前後に例を見ない不祥事(p.87)」であった。

では、白河法皇はこれを不祥事と捉えていたかどうか。それがどうやら、自分では全く不祥事と思っていなかったどころか、むしろ嘉事であるとさえ思っていた形跡がある。子供ができたのはめでたい! そんな調子で璋子の係累の位階を昇叙し、その異常な人事は世間の耳目を驚かせた。また法皇は頻繁に璋子の邸宅を訪問し、その鹵簿(行列)を見物した。ちなみにその出産においても白河法皇は産事に関する一切の采配を振るい、盛大な祈祷を行っている。そして顕仁の成長に伴う数々の行事は全て白河法皇が深く関与し、「名義上の父である鳥羽天皇は、全く聾棧敷(つんぼさじき)に置かれていた(p.97)」。

そして皇子誕生の後も、璋子と法皇の逢瀬は控えられるどころかますます繁くなる。璋子の月経を検証してみると、月経が終わるとすぐに法皇と同殿しているありさまなのである。本来、月事を穢れと見なした当時の観念からは月事の最中は内裏を離れ、それが終わると戻ってくるのが普通なのに、璋子はその逆をやっているのだ。二人が性的な関係にあったことは疑いえない。宗忠は『中右記』でこのことについて「人々秘して言わず。また問わず。何事も知らざるなり」と述べている。公然の秘密とはまさにこのことであろう。ちなみに二人が頻繁に睦み合っていた元永2年~保安元年(1119~1120)、璋子は18~19歳、法皇は66~67歳である。

ではこの異常な関係を鳥羽天皇はどう思っていたか。もちろん苦々しく思っていたに相違ないが、璋子を憎むどころか、かえって璋子を恋焦がれたようなのだ。ここに奇妙な三角関係が現れた。そもそも、性的関係を続ける気であったらしい法皇が璋子を鳥羽天皇に娶せたのはなぜか。ここには祇園の女御を独占するため源惟清を失脚させたのとは違う心理がある。その考察は本書にはないが、私なりの考えを言えば、法皇は璋子をナンバーワンの女にしたかったのだと思う。当時のナンバーワンは、天皇の妻であり母であることだ。そのためには既に退位している法皇では役に立たず、鳥羽天皇の中宮にすることが必要だったと思われるのである。そして法皇は孫の鳥羽天皇も大変愛していた。だからこそ最愛の璋子を娶せたのである。

保安2年(1121)、璋子は皇女禧子(よしこ)を生んだ。これが天皇と法皇のどちらの子なのかは不明である。しかし法皇がまたしても安産の祈願で度外れた仏事を修していること、誕生後わずか56日で准后の宣旨があった(これは異常だ!)ことからすると、これまた法皇の胤だったのかもしれない。それに保安元年までの頻繁な情事を考えると、少なくとも二人には子作りの意図があり、法皇は禧子を我が子だと信じたであろう。そして溺愛する璋子の立場を高めるためには、法皇はなりふり構わなかった。まだ21歳の鳥羽天皇に退位を求め、5歳の顕仁を皇位につけたのである(→崇徳天皇)。この頃の法皇には焦りが感じられる。小作りに励んだのも、子をなすことが難しくなるという気持ちからだろう。そこに鳥羽天皇への遠慮などまったく感じられないのである。

天治元年(1124)には、璋子はまた皇子通仁を生んだ。この際の安産祈願も法皇は盛大に行い、それはもはや常軌を逸した狂態でさえあった。翌年も璋子は皇子君仁を生んでいるが、これらの皇子は鳥羽上皇の子供らしい(なおこの二人の皇子は通仁が目が見えず、君仁は身体障害者であった)。この頃、鳥羽上皇と璋子は仲睦まじかったという。

天治元年には、璋子は待賢門院となっている。国母である璋子が女院となるのは既定路線であったが、法皇はその宣下を急いだ。24歳というずいぶん若い女院の誕生である。ちなみに待賢門院の号には根拠がなく、その後に住居の位置とはかかわりなしに門院号を使う先例となったと兼実は『玉葉』で嘆いている。法皇は、自らの命が幾ばくもないことを自覚していたから、璋子の立場を固めるのを急いでいた。

白河法皇が先例を無視して女院の係累を昇進させたのも、単なる情実人事ではなく女院の立場固めだと思われる。まだ35歳の天台座主仁実(璋子の異母兄弟)を僧正にしたのもその一例である。

ところで、法皇・上皇・女院の奇妙な三角関係は実際どうであったか。これが意外なことに、表面的には極めて円満であった。当時の記録にはいたるところで「三院御幸」と出てくる。白河院と鳥羽院が同車し、待賢門院がその後の唐車に御すという形で移動していた。白河法皇と鳥羽上皇が良好な関係を続けられたのは、凡俗の我々には理解しがたい。

理解しがたいといえば、法皇の信仰も狂乱に近い。大治4年(1129)に行われた女院の平産祈願は空前の物量で行われている。ちなみにこの一環と思われるが璋子は授戒している。それ以前からも法皇はさかんに成功(じょうごう=人事の見返りに経済的奉仕を行わせること)を活用し、また国帑を費やして仏事を行い、堂塔を作らしめた。特に塔の造営は特筆すべきもので、待賢門院のための御願寺・円勝寺だけでも中塔(三重塔)、東塔(五重塔)、西塔(三重塔)が成功によって造進されている。このような狂気に近い信仰は、当時流行の浄土教信仰とはあまりかかわりなく、自身の延命を願い、女院の息災を祈るものであった。面白いのが、法皇が帰依を始めたという「六字明王」など、オリジナルの信仰を生み出していることだ。法皇には、神がかったところがあったのかもしれない。「白河法皇の信仰は、まことに複雑怪奇(p.144)」なものだった。

平産祈願が盛んに行われる中、法皇は体調を崩し、覚法法親王から授戒され、これまでの延命祈禱の甲斐もなく77歳で亡くなった。ちなみに法皇は「葬儀に関する詳しい定め書きを遺(p.152)」していた。ちなみに「白河院」という諡号も自ら指示していた。当時は穢(けがれ)を忌んだため、崇徳天皇は言うまでもなく、鳥羽上皇も女院も、法皇の通夜にも葬儀にも参加していない。法皇自身が「穢れるから私のそばを離れなさい」と命じていた。賢子の死に寄り添った時とは違う心持だったのかもしれない。

法皇が亡くなってからしばらくは、女院の立場も鳥羽上皇との関係もさして変わりがなかった。女院は国母であり、縁故の者で固められていた。しかし女院の栄華には微妙な陰が差し掛かっていた。例えば女院の御所はたびたび火災にあい、このうちいくつかは放火であったと考えられている。そして、鳥羽上皇は女院以外の女性と寝所を共にするようになった。法皇の在世中は、女院以外の女性に手を付けると法皇が激怒していたらしい。これまた凡俗には理解しがたいことで、法皇は自ら璋子と密通しながら、鳥羽上皇が他の女性と関係を持つのを許さなかったのである。ところが法皇亡き後、そういう遠慮をする必要がなくなった上皇はいろいろな女性と関係した。

さらには、摂関家からのたっての要望で、忠実の娘勲子(いさこ)が鳥羽上皇の皇后となった。勲子はすでに37歳で、上皇は興味を持たずまた勲子も男嫌いだったらしい。双方にとって義理のための婚姻であった。なお勲子は泰子と改名し、後に高陽(かや)院と号した。彼女はなかなか聡明な女性であったらしく、上皇の寵愛はなかったものの、待賢門院とは険悪なライバル関係になった。

待賢門院は、かつての法皇のように造寺造仏に積極的に精を出し、また高僧による祈祷を頻繁に行った。大治4年の御産の後には、大威徳明王像百体の供養を行っているが、これについては側近の源師時ですら「仏体、群蝸の如し。御産に非ず、御悩にも非ず。(中略)誠に是れ国の弊(つひえ)、世の損(そこなひ)なり」とあきれている。法皇の度外れた、物量に物を言わせたなんでもありの信仰を待賢門院は受け継いでいた。

白河法皇の熊野詣は12回に及んでいるが、待賢門院はそれを上回る13回だった(ほとんどは法皇や上皇との同道)。それは輿に乗っていたから体力的にはそれほどきついものではなかったが、「13回全部について好い季節が選ばれず、いつも寒い時分に行われている(p.187)」ことから物見遊山でななかったことは確実である。ちなみに女院は熊野詣の時に「女山臥装束」をつけていたらしい。これは本筋とは関係ないが気になった。

そして女院は、仁和寺の寺域に新たな御願寺を建立することとした。女院の御願寺はすでに円勝寺があったが、これは実質的には法皇が建立したもので女院は主体でなかった。今度は、自分の御所を兼ねた真の御願寺、金剛法院である。金剛法院は「単なる寺院ではなく、阿弥陀堂、御所、庭園の三要素からなる当時流行の特殊な寺院(p.203)」であり、特に池と背後の山(五位山)といった自然の景観が生かされていることは、どことなく鳥羽殿を髣髴とさせる。追って三重塔や九体阿弥陀堂も造営された。

鳥羽上皇が藤原得子(なりこ)を寵愛するようになると、待賢門院の立場は徐々に弱くなった。上皇は得子を溺愛し、閨房の絶える夜はなかったという。一方、崇徳天皇は母の立場を悪くする得子を憎み、得子の一族に圧迫を加えた。得子の一族はあまり高い家格ではなかったが、得子産んだ皇女叡子(としこ)が泰子の養子となり、待賢門院と対抗する勢力になっていった。また、得子は次々と鳥羽上皇の子を生んだ。得子は后でも女御ではなかったのでその子には皇位継承権がなかったが、崇徳天皇と中宮の養子にするという苦肉の策で體仁(なりひと)が東宮となり、追って即位した(→近衛天皇)。ところが、その宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」に譲位するとなっていた。これでは崇徳天皇は天皇の父でないので院政を敷くことができないし、待賢門院も院の母ではない。この奸計の背後には摂政・藤原忠通がいたようだ。そして待賢門院の関係者は呪詛の嫌疑により処分を受けた。待賢門院の命脈は尽きていたのだ。

あれほど栄華を極めた待賢門院も、法皇の後援がなくなり、上皇の寵愛がなくなり、天皇の後援がなくなると、打つ手はなしだった。彼女は康治元年(1142)出家し、女院の側近も次々と出家した。そして久安元年(1145)、女院は三条高倉第でその生涯を閉じた。45歳であった。面白いのは、女院は法金剛院の裏山に土葬せよと遺言していたことだ。そしてその墓の上には、小さい廟宇が建てられ「法金剛律院」と名付けられたという。女院には白河法皇とは違う埋葬の考えがあったようだ。なお「女院は、よほど魅力的な人柄であったと見え、側近に仕えていた女房たちの悲嘆は、ひとしおであった(p.282)」。

待賢門院の人生は、晩年は斜陽になっていたとはいえ、栄耀栄華を極めていたし、寵愛を失った晩年ですらも鳥羽法皇から敬われていた。鳥羽法皇は月忌には三条高倉第に御幸していたという。全体として、待賢門院の事績は嘉例と見なされていたことも疑いない。ただ、彼女が自分の人生をどう感じていたのか、その内面は明らかでない。彼女のサロンにはかの堀河(百人一首の「待賢門院堀河」だ)を始め才媛が犇めいていたのに、彼女自身は歌が不得意だったと見え、一首も残されていないのだ。和歌が内面を述べるものだとはいえないが、それにしても一首の和歌さえ残されていないことは、内面を窺うよすがさえない。

著者は、待賢門院はひたすらに法皇を愛していたと考えるが、それすらも確かではない。ただし状況証拠からすれば、確かに彼女は法皇の愛人であることには誇りを持っており、法皇に強く影響されていたのは間違いない。

一方、私が興味があった白河法皇の方は、常人には理解しがたい存在だという思いを新しくした。先例を無視する専制君主であるとか、好き嫌いの激しい気難し屋といったありきたりな形容に収まらないのが白河法皇だ。こういう君主に振り回された近臣は、「日本第一ノ奇恠ノ事」にたびたび遭遇しただろう。院政という新しい政治形態が出現したのは、社会情勢もさることながら、この白河法皇の強烈な個性によるところが大きいような気がする。

本書は全体として、普通の歴史書では書かれないような非常に細かい事項を書き連ねた本である。しかし読みにくくはなく、歴史のディテールが丁寧に繙かれるのはむしろ心地よい。そして、そこに現れる白河法皇・鳥羽上皇・璋子の奇妙な三角関係は、読者の心を引き付けて離さない。大上段の歴史論が展開されるのではなく、歴史の一断面が丁寧に描かれ、熱中して読んだ。

院政の内実を待賢門院から見る「衝撃の書」。

【関連書籍の読書メモ】
『白河法皇――中世をひらいた君主』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/02/blog-post.html
白河法皇の評伝。院政の成立を考える上で重要な白河法皇に初めて向き合った良書。

2025年2月9日日曜日

『白河法皇――中世をひらいた君主』美川 圭 著

白河法皇の評伝。

白河法皇は、院政を始めた人物として画期的な意義を持っている。ところが、白河法皇は昔から人気がなく(!)、本格的な評伝が全く書かれていなかった。人気がないのは彼が専制君主であったためというが、そんなことで評伝が書かれないとは不思議な気がする。

ともかく、その知名度からすると驚くべきことに、本書が初の白河法皇の評伝なのだ。

その生涯の意義は、第1に院政を開始したこと、第2に仏教を興隆させたこと、第3に白河や鳥羽という京都近郊を開発し、「権門都市」を出現させたこと、である。

なお、私は白河法皇の人間性や家族関係、その思想に興味がある。要するに私は彼の内面を知りたい。しかし本書は白河法皇の内面についてはあまり触れていない。本書の力点は、白河法皇その人よりも社会情勢にある。そのため私にとっては本書は少し期待外れだったが、それでも白河法皇の評伝が読めたことはありがたい。

まず、なぜ彼が院政を創始することになったか。

白河の父の後三条天皇は、170年ぶりの摂関家を外戚としない天皇であり、摂関家に対抗する意思を持っていた。後三条天皇を盛り立てたのが、藤原頼通の弟能信(よしのぶ)である。なぜ摂関家の能信が後三条天皇を後援するのかというと、彼は頼通との出世競争に敗れ、官位は44年間も権大納言のまま、位階も正二位に留められており、頼通に対抗する意図で後三条天皇に肩入れしたらしい。本来、即位からは遠かった後三条天皇が東宮になり即位できたのは能信のおかげである。それは「摂関家傍流の主流に対する反乱(p.26)」であった。

そして能信は自らの養女茂子(実父は藤原氏北家閑院流の公成)を後三条天皇(その時はまだ東宮)に輿入れした。そうして生まれたのが貞仁、のちの白河法皇である。

後三条天皇は、摂関家に対抗する意味もあって積極的に政務に取り組んだ。特筆すべきは荘園の整理である。彼の荘園券契所は、天皇の認可権を明確化する上で画期的な意義があった。ちなみにその仕事を裏で支えたのが博覧強記の大江匡房である。

この頃、たびたび内裏が焼亡していたが、その復興を行ったのも摂関家に対抗する意味があった。摂関家の屋敷はちゃんとあるのに、内裏は焼失したままで、天皇は居場所を転々としていたのである。なお内裏再建の膨大な費用を賄うため、公領と荘園の両方に税を課す必要があり、これには当然ながら荘園領主の協力を得なければならない。だから荘園の権利関係を明確化するためにも、荘園券契所が必要だった。

このように意欲的な親政を布いた後三条天皇は、突如として子の貞仁に譲位する。白河天皇である。この譲位の意図がなんであったか様々な論争があったが、現在では、白河天皇を中継ぎとして、白河の異母弟実仁を次の天皇とするための策であったと考えられている(吉村茂樹氏の説)。実仁の母は皇族出身の源基子で、摂関家の血から遠い。実仁が即位すれば摂関家の影響がより低下し、天皇家の独立性が高まるのである。

しかし白河天皇としては、異母弟の実仁に譲位するより、自分の子に譲位する方がもちろんいい。こうして意外なことに対立してきた摂関家の藤原師実(頼通の嫡子)と白河の利害が一致し、二人は手を組んだのである(ちなみに師実の娘、賢子が白河の中宮)。このあたりの歴史ドラマは極めて面白い。そして後三条天皇は実仁の即位を見届けることなく、譲位の約半年後に40歳で病没してしまい、後三条天皇の宿敵だった藤原頼通も相次いで亡くなった。こうして23歳の白河天皇と34歳の関白師実のコンビを中心とした新体制ができるのである。

藤原賢子が白河との間に産んだのが媞子、後の郁芳門院であるが、この愛妃賢子もわずか28歳で亡くなってしまう。死去の時、白河は死の穢れを気にせず賢子から離れようとしなかったという(『古事談』)。近臣の源俊明(としあきら)が「天皇が死に立ち会う例はない」と諫めると「例ハ此ヨリコソ始メラメ」と述べたという(p.48)。いろんな意味で白河の人間性を窺わせるエピソードである。

その約10年後、ライバルだった実仁も疱瘡で病死。しかしまだ実仁には弟の輔仁がおり、母陽明門院も健在だった。ゆくゆくは実仁の系統を天皇にするという後三条天皇の遺言はまだ生きていた。ここで何らかの工作が行われ、白河天皇はまだ8歳だった実子の善仁に譲位した。堀河天皇である。輔仁への譲位の動きが具体化する前に先手を打ったのだ。もちろんこれは摂関家との共謀があった模様である。

寛治8年(1094)、関白が師実から子の師通(もろみち)に譲られると、師通は白河上皇には臣下としての礼を取らず、強権的な政治を進めた。師通が関白の地位にあるのは白河のおかげではなく、父から譲られたのだし、師通にとって白河は引退した人だった。この時点では、院政は現れていない。

この頃(嘉保3年(1096))、都では田楽が大流行した(永長の大田楽)。田楽とは、派手な服を着て音楽に乗り、踊りや遊興を熱狂的に繰り広げるものである。彼らは「きらびやかな錦繍や金銀の装束、礼服や甲冑を身につけ、禁制の摺衣(すりごろも)を身につけ(p.34)」るなど、服飾の秩序を無視していたが、決して無秩序な群衆ではなかった。後のバサラに似たところがある。これに白河院は積極的で、楽器を提供さえしている。それは愛娘の郁芳門院が田楽が大好きだったことによるようだ。朝廷としては身分秩序を乱す田楽を規制しようとしたのだが、上皇がこれを好んでいたのは面白い。

ところが、大田楽を見た直後、郁芳門院が21歳の若さで突如死去してしまったのである。これにより貴族社会では大田楽が不吉なものとして捉えられるようになった。白河院は悲嘆のあまり出家してしまった(→法皇)。そしてしばらくして師通も38歳の若さで急死してしまう。かくもあっけない師通政権の幕切れであった。

師通を継ぐべき息子忠実はまだ22歳で権大納言。大臣にもなっていないので関白就任には早い。この摂関不在の状況で、堀河天皇の親政が展開する。天皇と院に対立があった時代である。ところが嘉承元年(1106)にふたたび田楽が大流行。永長の大田楽より過激に秩序が破壊された。そしてこの不吉な田楽と関係があるのかないのか、翌年堀河天皇が29歳の若さで亡くなってしまう。堀河の息子宗仁はまだ5歳。ここで35歳の輔仁の即位がいよいよ現実的となるが、どうしても輔仁の即位を阻止したい白河は幼い宗仁を強引に即位させた。鳥羽天皇である。

後日、輔仁の勢力による天皇の呪詛が明らかになったとして関係者が流罪となり、輔仁勢力が排除されて白河法皇の権力が確立した。では摂関家の方はどうなっていたか。師通の息子忠実は、関白にはなったものの権力基盤が弱かった。第1に忠実は外戚でもなんでもない上に若く経験が足りず、第2に藤原氏が分裂気味であり、忠実は摂関家も掌握しきれていなかった。ところが堀河天皇が亡くなったときに、忠実は鳥羽天皇の摂政として横滑りした。これにより外戚関係にかかわらず摂関家が摂関を世襲していく体制ができた。白河院政は摂関家を確立させる副次的な効果をもたらしたことになる。

しかし摂関家には手ごわい相手がいた。それが閑院流藤原氏、公成の系統である。白河天皇の母賢子から天皇家との姻戚関係が続き、急にのし上がってきたのが閑院流である。閑院流から白河上皇の養女(正確には、その寵姫祇園女御の養女)になった後の待賢門院、璋子(本書では「しょうし」と読む)も白河の寵愛を一身に受けた。白河は忠実の息子と璋子を結婚させようとしたが忠実はこれを断る。それならばと白河は璋子を鳥羽天皇に入内させた。この経過において、裏で忠実は璋子を悪し様にののしっている。璋子は淫乱でたくさんの男と関係しており、あろうことか養父白河とも性的関係が疑われていた。おそらくはこの悪口(あっこう)が白河に漏れ、忠実は罷免された。こうして摂関家は弱体化させられ、白河上皇の専制権力、すなわち院政が確立したのである。

この後、本書では院政とは何か、具体的に院政ではどのように物事が決定されたか、といった院政論が述べられる(第2~4章)。院政といっても、政務は天皇・太政官が担った。これに非公式的に関与したのが院である。それは役割分担などではなく、建前上の政治機構はそのままに、それを院が背後から支配していく体制であった。そして家格によって地位が固定化していた太政官に替わって、受領のような新興の貴族は院近臣としてのし上がった。それは、太政官の完僚制とは違って、院との主従関係に基づくシステムであった。

そしてこの院政のシステムに適応し躍進したのが平氏であり、寺社の強訴や地方での反乱に備えて院が育成したのが武士だった。武士は院を脅かすような存在ではなく、むしろ院政によって主従関係に基づく軍事力として育成されたものである。

次に仏教の興隆について。

院政期は、寺社の強訴が頻発した時代であった。なぜ彼らは強訴したのか。まず、当時の寺社は武装していた。意外なことに、僧侶の下層階級だけでなく上層部(学侶)も武装していた(しかし考えてみれば武士階級出身の僧侶もたくさんいたのだ)。ちなみに、「僧兵」という言葉はネガティブな意味で江戸時代になって使われるようになったものなので、最近は使わないようになっている。この寺社の強訴はこの武力を背景にしてはいたが、朝廷や院に対して武力が発動することはまれであった。なぜなら、寺社は政権と敵対する時もあったが、人事権を朝廷に握られており、武力衝突までいくといいことがないからである。

寺社の強訴が急増するのは師通が死んで院の専制権力が確立していった時期である。院は寺社の人事に容喙し、先例を無視した情実人事を行ったため、それに寺社は反発したのである。しかしそれは先述の通り武力攻撃を仕掛けたのではなく、仏法を笠に着ての示威行動であった。例えば承暦3年(1079)の延暦寺僧徒による祇園社別当職をめぐる強訴では、600人が大般若経各1巻ずつ、200人は仁王経を各1巻ずつ持ち、他の200人が武装していた。今でいうデモ行為である。強訴は寺の意思を代表する三綱や所司などの役職者も参加し、朝廷に要求が容れられれば即撤退した。反政府的なものではないのである。

また、この時期には延暦寺と園城寺のナワバリ争い、それらと興福寺との末寺末社争いなど、寺社内部にも火種を抱えていた。そして院の人事介入がきっかけとなって、反主流派が院の威光を背景に勢いづいて寺院内部の争いを顕在化させ、ことを大きくしたのが強訴なのだ。つまり、「強訴とは、当時の朝廷の政治が生み出したもの(p.178)」だ。院の関係した事態だから、朝廷ではなく院に対して処置を求めることになり、それが院の主体性を高める結果にもなった。

しからば院はなぜ寺院社会の内部に関与することとなったのか。

この時代、比叡山を中心に学問的水準が著しく高まったが、その要因の一つとして「中世学僧の昇進ルートが、当時の天皇や院によって確定されていったこと(p.183)」がある。従来、興福寺維摩会・宮中御斎会・薬師寺最勝会という3つの法会(南京三会)の講師を歴任すると僧綱に任じられる制度があった。しかしこれらが事実上興福寺に独占されたため、これらの法会ではなく権力者の加持祈祷を行うことで僧綱に任じられることが多くなっていった。そうなると教学が振るわなくなるのは当然である。その反省から、最勝寺法華会・法勝寺法華会・円宗寺最勝会という新しい3つの法会(北京三会)が僧綱への昇進ルートとして設けられた。これは延暦寺・園城寺の天台系中心の昇進ルートであった。また、尊勝寺では結縁灌頂が始められ、ここで小灌頂阿闍梨をつとめた僧が僧綱に任じられるようになった。いうまでもなく、最勝寺・法勝寺・円宗寺・尊勝寺は全て天皇・院の御願寺である。

白河法皇は熊野詣に入れ込んだことでも知られる。これは物見遊山的な要素が大きかったとも言われるが、園城寺長吏の行尊が白河法皇の後援を勝ち取るために運動した結果だったかもしれない。園城寺長吏は熊野三山検校を兼ねる慣習になっていった。

そして白河院政後期では、大量の仏像が作られたり、一切経が作られたり(摂関家に倣って院は紺紙金泥一切経を作った!)している。大規模に仏事を修し、昇進ルートを押さえることで、院は寺院社会を再編したのである。それにしても「晩年の法皇の仏教への帰依は、常軌を逸している(p.264)」。

次に、白河や鳥羽という「権門都市」の開発である。

平安京は律令制の理念で建設されていたが、それは陸上交通のみを考えた設計で、効率的でなかった。また左右対称の都市計画も理念倒れであった。そこでこれが現実に合わせて変わっていったのが摂関院政期である。ここで面白いのは、白河法皇の院御所は、京外の白河殿・鳥羽殿が有名だが、京内御所の方が数多いことだ。六条院・大炊(おおい)殿・土御門殿・閑院・高松殿などなど、本書には22もの(!)院御所となった邸宅が挙げられている。そもそもなぜ院御所はそんなにも変転したのか。この時代火災が多かったことも背景にありそうだがそれだけでは説明がつかない。場所と権力の独特の結びつきがあったのだろうか。中でも重要だったのが六条院で、ここを白河法皇は気に入っていた。そして愛娘郁芳門院がここで亡くなると、その菩提を弔うためここは万寿禅寺(六条御堂)となった。死んだ場所に菩提寺を建立するという思想が窺えて面白い。

京外の白河はもともとは摂関家の所有で、これが摂関家との協調期に師実から白河法皇に献上されると、法皇はここに度外れた寺院法勝寺を建立した。八角九重塔はそのシンボルである。法勝寺は摂関家の法成寺に対抗する意図があったとされる。ちなみに法勝寺は、二条大路を東側に延長した場所に位置し、白河には平安京と似た坊条が敷かれていた。平安京に似た都市計画があったのである。

そして白河には、六勝寺という御願寺群があったが、それまでの御願寺(仁和寺付近の四円寺など)が真言宗の影響下にあったのに比べ、六勝寺の場合は天台系との関連が深い。白河が比叡山の麓、園城寺への通路に位置している立地なのも意味があるのかもしれない。ちなみに法勝寺には、当初常住の僧侶はほとんどおらず、法会の際にはそれぞれ本寺を別に持った僧侶が集まってきた(だからこそ法勝寺法華会などが昇進ルートとしての意味を持った)。つまり普段はがらんとした場所だった。白河地区は古代都城と似た雰囲気で、六勝寺の伽藍配置も古代寺院に倣っていたようだ。賑やかな都市をつくろうという意図はハナからなく、権威の象徴としてのモデルルームのような場所であったように思われる。

ところが法勝寺の建立から20年ほど経って白河に院御所が設けられ、法勝寺にも住学僧が常住するようになり、白河北殿では国政レベルの公卿会議が開かれるようになる。モデルが実質化してできたのが白河の「権門都市」だ。

一方、白河とは全く違う思想で作られたのが鳥羽殿である。鳥羽の地は、白河天皇が在位中、譲位後の後院(ごいん)として開発を着手した。白河とは違うのが、坊条制が全く見られないこと、自然の景観(とくに面積の半分を占める巨大な池!)が生かされていること、面積が桁外れに大きいこと、寺院ではなく院御所の建設が先行していることなどである。そして国家的・公的なモデルルームが白河であったとすれば、鳥羽の方は私的な遊興の場だった。それは白河法皇の楽しみであり、政治をそこでするつもりはなかったのだが、院政の実質化に伴って「遊興というものの政治的な性格が表面化(p.242)」し、鳥羽殿は遊興の場でありながら政治の場ともなっていった。しかし鳥羽殿での公卿会議の議題を見てみると、寺社や騒乱に関する国家的に重要なものではなく、王家の家政に関するものがほとんどとなっている。しかも召集されている公卿も限定的だ。つまり鳥羽殿は、院と近臣という主従関係を基礎とした「権門都市」になっていったと考えられるのである。

ちなみに、摂関家の宇治にも坊条区画があったことが知られている。しかし意外なことにこれは摂関全盛期に整備されたものではないらしい。もちろん宇治の開発自体は平等院の建立など摂関全盛期から着手されている。ところが坊条ができたのは、忠実の時代らしいのだ。ということは、宇治は白河に対抗して作られた「権門都市」だったということになる。

白河法皇は77歳まで生き三条烏丸亭で亡くなった。同時代の評価は、藤原宗忠の『中右記』が著名である。それによれば「自分の好き嫌いで人事を行い、天下の秩序を破壊してしまった」という。さらに日記の裏書には、「法皇の御時はじめて出来の事」が列挙されており、例えば受領の情実人事などとともに「御出家の後、御受戒なきこと」が挙げられているのも面白い。

白河法皇は、鳥羽に三重塔を建てて自らの遺体を納めるよう早くから遺言していた。だが死の半年前、法皇は翻意して火葬して納めるよう命じた。死体が暴かれることを憂慮したらしい(『長秋記』)。師通の死後、山門大衆がその遺体を暴いて処刑しようとしたという噂を聞いたためだ。三重塔への埋葬も含め、死体に対する新しい観念を窺わせるエピソードである。

ところで、「例ハ此ヨリコソ始メラメ」(これが先例になるだろう)の言葉に象徴されるように、白河法皇が先例を尊重しない君主であったことは時代の変化を加速させたと思われる。なにしろこの時期の貴族は、先例と故実に明け暮れていたのである。そんな中で、専制君主が先例を全く意に介さなかったことは巨大な影響を及ぼしたことだろう。

本書は全体として、読みやすく端正にまとめられた白河法皇伝である。割合に図版が多く掲載されているのも親切だ。巻末につけられた年譜も便利である。系図は簡略であるが、人間関係にはそれほど深入りしていないので、ややこしくない。ただし、白河法皇の人事や行動がどのような事情に基づいていたのかを、法皇の内面に肉薄して知りたいと思う箇所もあった。

それから、本書には意外と荘園制との関連が書いていない。白河法皇の時代には院にはさほど荘園が集積していなかったということだろうか。院が荘園を集積していくのは御願寺を通じてであり、白河法皇の時代にはまだ荘園は副次的な役割しかなかったということなのかもしれない。

院政の成立を考える上で重要な白河法皇に初めて向き合った良書。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

★Amazonページ
https://amzn.to/4gxnJll

2025年1月29日水曜日

『日本史の中の女性と仏教』吉田 一彦・勝浦 令子・西口 順子 著

古代と中世を中心に女性がどう仏教を信仰したか概説する本。

本書は、光華女子大学/短大の公開講座をまとめたものである。その基本的な視座は、「仏教において女性はどう扱われてきたか」ということではなく、「女性は仏教をどう信仰してきたのか」というものだ。登壇したのは、吉田一彦、勝浦令子、西口順子の各氏であり、それぞれ2回ずつで計6回の講演がある。

講演に先立つ「はじめに」(西口順子)では、伝統的な仏教の女性観が差別的なものであったことを述べている。「仏教は女性をいつも被救済者の位置においてきた(p.1)」。

そうした女性観を批判し、女性と仏教をめぐる研究を進展させたのが「研究会・日本の女性と仏教」と牛山佳幸氏の一連の研究だった。なお研究会の方では、その成果としてシリーズ『女性と仏教』全4巻が刊行されている。こうした研究によって女性と仏教の研究は新たな展開を迎えた。

「第1章 女性と仏教をめぐる諸問題」(吉田一彦)では、女性と仏教の研究史が概説され、問題点が指摘される。

女性と仏教の研究の基調を作ったのが笠原一男氏である(『女人往生思想の系譜』等)。ところがそれは鎌倉仏教をひいき目に見て、「女性と民衆を救済の対象としたのは鎌倉新仏教が初めてだ」など実証的でない部分が多い。むしろ、古代から女性は深く仏教に関与してきた。最初の出家者は尼だし、持統天皇は7日おきの法要を始めているし、行基は尼院を多く造立している(その3分の1が尼院だ)。また民衆も、古代から仏教を信仰してきたことが『日本霊異記』などに窺える。

続く時期には、桜井徳太郎氏が古代の尼とシャーマンを関連付けて理解し(ただしこの主張は検証が必要。後述)、初期仏教には尼が多いと指摘した。そして、その後の研究に決定的な影響を与えたのが牛山佳幸氏の研究で、それによれば、①寺院における女性の差別待遇は8世紀中頃からで、国家的法会からの排除から始まっている(初見は727年)。②9世紀初頭からの年分度者制では尼が外されている、③8世紀に諸寺に「鎮」が設置されるが、尼の鎮にも僧が任命されている、といったことが明らかになった。

なぜそのような差別が仏教界に広まっていったか。牛山氏は儒教倫理と家父長制家族の成立が理由と考えたが、著者はそれに懐疑的である。そうではなく「国家は男性が運営するという思想による(p.27)」のではないか。つまり仏教が国家的なものになったことで女性が排除されたというのだ。逆にいえば、民衆の世界では仏教もそれほど女性差別はしていなかったということだ。次に著者は牛山氏の女人禁制の研究についても紹介し批判を加えているが、これについては割愛する。

そして1984年、「研究会・日本の女性と仏教」が大隅和雄氏と西口順子氏を発起人としてスタートすると、それまでの研究が総合的に批判された。また、「五障三従」とか「変成男子」のような説が、一見女性を救済するように見せかけながら、女性を差別する「いかがわしい教え(平雅行)」だとされたことは画期的な見解であった。しかしながら、未だに女性と仏教の通史を書ける段階には至っていない。

さらに著者は、後半でケーススタディとして日本で初めて出家した(とされる)善信尼の出家について取り上げている。著者は『日本書紀』等の史料批判を行い、当該記述は道慈の作文である部分も大きいとしつつも、出家自体は事実とし、またそれが倭国のごく初期の出家者であったことや、倭国の初期仏教では尼が多かったことは史実と認めてよいと結論している。

「第2章 『日本霊異記』を題材に」(吉田一彦)では、『日本霊異記』に見える古代の仏教信仰について述べる。

『日本霊異記』は平安時代初めにまとめられた仏教説話集。これに続く9世紀の『日本感霊録』(逸文が伝わる)においても、女性の信仰者は数多く登場し、また女性差別的な要素は見られない。この頃には仏教は女性を差別していなかった。

著者は『霊異記』からいくつかの説話に注目し、当時の仏教の在り方について再考を促している。例えば中-28(中巻第28話という意味。以下同じ)では、国家の大寺が人々に開かれ、僧寺に女性も自由に参詣できたことがわかる。仏教は国家・男性に独占されていたわけではない。「すでに古代仏教の段階で、貴族にも、地方豪族にも、民衆にも、一定程度仏教は広まっており、女性の信仰も集めていた(p.55)」。

また家族で信心をしている家庭も描写される。貴族層では上-31、中下級官人では中-20、地方豪族層では下-16だ。下-16では夫妻で仏教を信仰するという、夫婦を単位とした仏教信仰が見られる。仏教が家族単位で信仰されたのは意外に古いことのようだ(家制度の成立前である)。民衆階層では下-13。この話では古代から民衆が仏教を信仰し、家族も仏教の使者供養をしていたことがわかる。「七日ごとの死者供養は、すでに8世紀に民衆階層にも流通していたよう(p.59)」だ。

また下-25では、漂流した漁民が「南無…釈迦牟尼仏」ととなえている。名号を称えることは意外と古い。下-25では酒を薬として貸し出し、その利息を取っている寺が出てくる。これはなかなか面白い経営である。そしてさらに面白いことに、その責任者が女性であったというのだ。

中-29と中-30には行基が登場するが、行基の法会には女性がたくさん参加していた。中-8では小さい子供を連れた尼も出てくる。子連れで出家したようだ。下-16は、身持ちの悪い女性を諭す話で、ここで死後業罰に苦しめられた霊が追善によって安らかになるという、日本的「成仏」の原型が語られていることが興味深い。

なお下-19の「舎利菩薩説話」が女性差別的であるかについて議論がある。これは、異形の誕生をした障害者らしき女性が「舎利菩薩」として敬われる話だが、途中、法会から排除される場面があるのだ。これは古代でも女性差別が行われていた証拠だろうか? 詳細は省くが、この場合は女性であるより異形であることが差別の要因であると考えらえる。むしろ、「女性で「菩薩」と呼ばれ、「化主(けしゅ)」と仰がれた仏教者がいたらしい(p.82)」ことが注目される。

「第3章 古代の尼と尼寺」(勝浦令子)では、尼と尼寺が古代にどう変遷したかを述べる。

まず、東アジアにおいて尼=比丘尼は、比丘(僧)に服従すべきものとされていた。著者は中国における尼の歴史を簡略に述べているが、それによれば、古代中国では比丘尼はいなかったのではないが数が少なく、また受戒の制度(10人の尼〈三師七証〉の承認が必要)の不備からその位置づけが曖昧だった。しかし宋代には尼の地位が確立し、比丘尼は皇帝からも厚遇された。一方、高句麗での尼の様子はよくわからない(全くいなかったわけではないと思う、としている)。新羅では尼がいて、日本と同じく一番古い出家は尼ということになっている。百済では、最初に作った寺は僧寺で、最初の出家も僧だったが、尼も少なくなく、日本には百済の尼が多く渡来している。

ここで著者は先述の桜井徳太郎氏の尼=シャーマン説を批判し、古代の尼は日本固有の存在ではないのだから、尼を日本のシャーマニズムの流れで理解するのは早計としている。

では、古代における日本の尼は実際どのような存在だったか。『万葉集』巻3-460・461に見える尼理願(あまりがん)は新羅の尼で大納言の家に寄住していた。8世紀では外国人僧尼が一家と共に生活することがあったらしい。邸宅に僧や尼が活動している例は木簡の研究からも明らかになり、特に尼には日常的に米を支給されている例がある。官衙にも尼や僧が配されていたようだ。つまり僧や尼は多様な活動を担い、また貴族の生活にも密着していた。

ところが僧尼令によって活動の幅が狭められ、尼の国家的な役割も失われた。僧尼令は唐令にはなく、道僧格(道教と仏教に関する臨時法)を日本でアレンジして作られたと見られる。ここでは僧尼がほとんど区別されずに扱われており、条文上は男女差別的ではなかったが、尼は僧綱になれないなど、実質的には僧が尼の上に立つ体制があった(尼の勤務評定を僧が行うなど)。また、僧位(師位、半位、複位など)については僧尼が平等の建前であったが、天平宝字4年の僧位制改正案で現れる最上の僧位「大法師位」が男性のみに与えられるものと考えられることから、「この時期に男性を基準とした僧位制というものが確立してきていることがうかがわれる(p.109)」。称徳天皇は尼の地位を上げようとし、「大尼」という尼位が作られたものの、称徳天皇後はそうした尼の優遇処置は一気になくなってしまった。

次に尼寺についてであるが、8世紀の尼寺の史料はたいへん乏しい。国分寺・国分尼寺がセットで建立されたように、僧寺と尼寺はセットであるのが望ましいという観念があったようだ。しかし寺の規模は僧寺の方が大きいのが通念であり、国庫からの給付も尼寺の方が少なかった。東大寺と法華寺(総国分尼寺)の墾田開発の許可を見ると、4対1の面積になっているのはその象徴である。このように、観念的には尼寺と僧寺は平等であったが実態上は差別されており、尼寺は徐々に退縮していった。ただ「格差がありながらも国分尼寺一緒に並立することの意味の方が大きかった(p.117)」と著者は考える。

こうして9世紀の桓武天皇の頃には尼はほとんど重要視されなくなった。古代の常識からすれば平安京の東寺・西寺のいずれかは尼寺であるべきだが、両方僧寺なのだ。しかし、このように国家機構から尼は排除されていったものの、その後女性の出家者は増え、また多様な活動を行っていくというのが面白いところである。

「第4章 女性の出家と家族関係」(勝浦令子)では、9世紀以降摂関・院政期までを中心に女性の出家について述べる。

平安時代の女性の出家には、「尼削ぎ」(当時の言葉)と「完全剃髪」(著者による歴史用語)の2段階があった(なお幼少の頃に行う専業尼になるための出家はこの頃はない)。「尼削ぎ」とは、剃髪ではなく髪を短くするだけのものである。ちなみにインドでは「比丘尼」「式叉摩那尼(しきしゃまなに)」「沙弥尼」の3段階があった。「式叉摩那尼」とは、出家後の2年間の猶予期間のようなもので、日本の僧尼令では規定がなかった。ところが9世紀に「尼削ぎ」=「式叉摩那尼」という観念が形成されてきた模様である。こうして「尼削ぎ」→「完全剃髪」と、女性の場合は2段階を踏んで出家が行われるようになったのである。

なお、藤原詮子の死を目前とした出家=「完全剃髪」を『小右記』では「比丘尼」になるというのではなく、「僧」「法師」になるといっている。あたかも男性になるかのような表現をしているのである。ともかく、髪の毛を中途半端に切っただけでは完全な出家ではないのはもちろん、受戒も必要だ。その意味で、法成寺の無量寿院に尼戒壇ができているのは注目される。

女性は出家して家政と関わったか。もちろん俗事を遠ざけるのが基本だったが、やむを得ない場合は月の半分で仏道を行い、半分は家政に携わる半出家のようなものもあったらしい。次に家族関係だが、まず出家しても同じ家で暮らし続けるということも一般的であった(尼寺がなかったことも関係しているのだろう)。だが夫婦関係は切れたと考えられていた。一方、親子関係は切れないとされていたようだ。自分の子供ともそうだし、自分の親との関係もそうである。こうなると、離縁のために出家をしたり髪を切ったりする場合もあった。

では、寡婦(未亡人)の出家はいつからあるか。出家で夫との縁が切れると考えていたら、夫を弔うための寡婦の出家はありえない。結論を言えば、夫の死後四九日あたりに出家する事例が10世紀以降に見られるようになる。これは「家」の成立と関係がありそうだ。寡婦の出家は「一生夫婦関係を継続していくために夫の菩提を弔う」という意味になっている。つまり、再婚して新たな「家」に移ることはしない、という意思が込められているようだ。この場合、出家しても明らかに夫婦関係は切れていない。

ただし、家族関係を完全に断ち切った出家というものもある。鎌倉時代になると戦乱が多く寡婦がたくさん生じたが、それらのうち夫の菩提を弔うのではなくて尼寺に入るという女性も多かった。こうして鎌倉時代には尼寺が復興されていくのである。

最後に、著者は尼になることで地位が少し上昇する現象について指摘している。「女性が男性と伍して活動している例は、官位をもった女性か、尼が目立(p.157)」つのだ。ただ面白いことに、女性の髪を切った姿は、刑罰を受けた姿と類似しているのだ。女性の場合、髪が長いことは身分を標示するもので、短い髪は身分の低さや刑罰を表象していた。にもかかわらず尼になることが身分上昇をもたらすとは奇妙である。

「第5章 尼と「家」」(西口順子)では、鎌倉から南北朝期にかけての尼や尼寺、家の追善供養などについてまとめている。

「尼と尼寺をもたない教団と、尼・尼寺をもつ教団が中世には存在(p.161)」した。ただ尼寺を完全に持っていないのは、浄土真宗に限られる。恵信尼や覚信尼は「尼」とついてはいるが正式に出家得度した尼ではない。「坊守(ぼうもり)」(住職の妻)も女性宗教者ではあるが職業的宗教者ではなく尼とはいえない。浄土真宗といえば、親鸞が妻帯していたために女性の役割が非常に大きいという印象があったのだが、この指摘が私には新鮮だった。

牛山佳幸氏は尼・尼寺の研究を行い、特に中世には尼寺が次々と再興されたことを指摘した。新しく建立された尼寺は父や夫を弔うための「菩提寺」が多い。これは宗派に組み込まれないものだが、禅宗や浄土宗でも尼寺が建立され、天皇家や貴族・上流武士の女性が入寺するようになった。こうして室町時代には「尼五山」「比丘尼御所」(近代以後の名称)が成立していく。なお「尼門跡」は近代になってできた言葉で「尼門跡制」などというものはなかった。ちなみに時衆には、尼寺ではなく道場に僧衆とともに生活する尼がいた。

次に、南北朝期の尼について中原師守の日記『師守記』を題材に述べる。師守の叔母の経仏房が時宗の六条道場で活動しているが、週に一度くらい実家に帰ってきて忌日供養をしている。一族のうち誰かが尼になり、先祖祭祀をする(家の仏事をする)役割を担っていた、という気配が濃厚だ。

忌日供養をするのは尼だけでなく僧も来るのだが、尼と僧で役割分担があったようだ。さらに、男性が亡くなった時と、女性が亡くなった時では、仏事を執行する寺が違うという指摘(伊藤唯真)が面白い。今の菩提寺・檀家寺の在り方とはちょっと違うのである。ちなみに、女性との関係ではないが、師守は父母の肖像を地蔵堂に持って行って毎月供養をしている。これも面白いことである。

中原家だけでなく、吉田神社の吉田家も肖像画を描かせていた。現在、遺影が先祖祭祀に重要な役割を果たしているのは、この頃の習慣が影響している。なお、時宗系では夫婦の肖像をどちらかが存命中に描かせていたらしい。

「第6章 真宗史のなかの女性」(西口順子)では、恵信尼と絵系図を取り上げている。

ここでは親鸞の行状を伝える「恵信尼書状」を分析しているが、彼女は「転女成仏・変成男子」のような考えが全くなく、むしろ女性のままで極楽に生まれると期待していたらしい。そして彼女は書状の文字から、専門的な教育を受けていない女性であったと考えられ、それが民間レベルで信じられていた極楽往生の姿であったと思われる。

次に「絵系図」を題材にして民衆がどのように忌日供養したかを述べる。「絵系図」とは、14世紀後半から真宗仏光寺派で制作された、絵付きの指導者・信者のリスト・系図である。これは門徒の統制・組織化のための実用的なものだったと考えられるが、なぜ名前のリストではなくわざわざ絵が必要だったのか。細かい議論は省くが、仏光寺派で本尊になっていた光明本尊とセットになるように絵が必要だったのではというのが著者の考えだ。特に光明本尊から出た光の筋が、系譜を繋ぐ朱線になっていることに象徴的な意味があると著者は考える。

そして「絵系図」は当初は住職の相承を示すものだったが、入信者リストとしての門徒絵系図、さらには門徒の絵過去帳へと展開していった。門徒絵系図には、門徒(村の人たち)が僧尼として描かれている。もちろん彼らは普通の門徒で僧尼ではなかったのだが(しかも真宗には尼はいなかったのに)、僧尼として描かれたのは、ある種の「理想化」がされていたのかもしれない。「生きているうちに絵系図に描いてもらうんだ」という気持ちもあったらしい。これは逆修の一種のようである。ただ、江戸時代になると没後に描かれることが一般化し、絵過去帳となっていった。

また絵系図は、個人単位でなく家族が描かれているのが興味深い。そして家族単位の絵系図(つまり家族の系譜が描いてある巻物)もあった。「夫も妻も、亡くなった家族のために絵像を依頼し、自分のその一員として描かせた(p.202)」。現代で、遺影をずらずら並べていくようなものかもしれない。しかし、村落寺院の成立とともに多くの絵系図は姿を消した。門徒と寺院が直接かかわるようになると、絵系図に描いてもらう意味合いが薄れたためである。ただ、現代でも絵系図が作られ続けている寺院も存在する。面白いことに、絵系図の制作は墓の代わりなのだという。

***

第6章はほかの章と少し毛色が違うが、1~5章の内容をまとめると次のようになるだろう。「古代においては僧尼は平等という建前で、僧寺と尼寺はセットという観念があり、人々の意識としても仏教が女性差別しているとは思っていなかった。ところが、僧綱など国家の仏教制度が整えられる中で、女性は仏教教団の中で男性の下に置かれ、また国家的な法会から排除されることで従属的な立場となった。こうして尼寺は衰退し、専業宗教者となる女性はいなくなった。しかし摂関期になると女性の出家は広がりだし、「家」制度の確立に伴って、一族の菩提を弔うという役割を負うようになった。そして戦乱の時代には尼寺が復興し「尼五山」などにつながっていった。」

なお本書では、仏教が女性差別的になっていったのはなぜかという問題についてはあまり触れていない。それは概ね東アジアに共通しており、日本特有のものではなかったらしいが、しかし古代においては男女を区別していなかった仏教が、中世ではすっかり女性差別的なものになっていたとすると、それはやはり社会の変化に対応していたに違いない。そこに家父長制成立が関係することは間違いないが、それだけで説明できるほど単純ではない、というのが本書の主張の一つである。

女性と仏教の関わりを学術的かつ平易にまとめた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『家族と女性(シリーズ 中世を考える)』峰岸 純夫 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post_9.html
中世における家族の様相を女性の在り方を中心として述べる論文集。

『仏と女(シリーズ 中世を考える)』西口 順子 編https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_21.html
仏教における女性のあり方を考える論文集。

『もう一つの中世像――比丘尼・御伽草子・来世』バーバラ・ルーシュ 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/07/blog-post_10.html
女性や絵解きなど、看過されがちだったものに光を当てる論文集。傑出した尼である無外如大が取り上げられている。

『日本女性史』脇田 晴子、林 玲子、永原 和子 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/08/blog-post.html
女性によって書かれた日本女性史。日本における女性の立場の変遷を平易に学べる良書。

『信仰と愛と死と(人物日本の女性史 7)』円地 文子 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_2.html
信仰に生きた女性を江戸時代中心に述べる本。尼となった女の生き方を考えさせる価値の高い本。

2025年1月19日日曜日

『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著

顕密仏教と浄土教を考える論文集。

黒田俊雄が1975年に発表した「顕密体制論」は、中世の仏教の中心は鎌倉新仏教ではなく、顕密仏教(顕教と密教。古代以来の仏教)であったことを明らかにした。平雅行はこれを継承し、であるならば、鎌倉新仏教は中世の社会にどう位置付けられるのかを考究した。

本書は、この問題意識の下に書かれた著者の早い時期の論文を(一部は修正して)収録したものである。

それらにほぼ共通して見られる手法は、次のようなものだ。まず学界の通説を取り上げる。そしてその論拠とされる史料を詳細に検証して、それが通説の論拠であるというよりは、むしろ通説を否定する内容を持っていることを示すのである。それは史料批判のお手本のような鮮やかな手法であり、非常に緻密である。私は最初、本書を通読するつもりはなかったのだが(必要な部分だけ読むつもりだった)、著者の論述があまりに論理的で緻密なので、つい全部読んでしまった。

なお、本書では人名は全て敬称付き(氏など)であるが、本メモでは省略した。

「Ⅰ 中世宗教史研究の課題」では、中世の宗教史は顕密体制論を踏まえて大幅に組み替える必要があることを述べる。

新しい中世宗教史を描くには、高僧の伝記を充実させるよりも、テーマを持った視角で見直すことが必要で、「新仏教」「旧仏教」なる概念はもはや有効ではない。また、当時の宗教は技術と未分化であり、政治や法・経済の領域まで包摂しなければ、教学史だけでは宗教史は構成できない。

著者は中世宗教をめぐる戦後史を簡単に振り返り、それを3期に分ける。すなわち①鎌倉新仏教論、②総体的把握論、③顕密体制論である。ここで著者が批判的に検証するのが②総体的把握論(大隅和雄、高木豊ら)である。著者は②の時期の研究に、(1)国家の宗教政策、(2)領主権力のイデオロギー、(3)通俗的仏教観の視角が足りていないのではと問題提起し、特に(3)を強調する。つまり、当時の人々がどのような仏教観を持っていたのかを解明しなければ、頂点的思想家の独創性がどこにあるかがわからないではないかというのである。そこで著者は「その解明のためには、できるだけ独創性に欠けた没個性的な史料群を素材にする必要がある(p.37)」と問題提起する。

「Ⅱ 浄土教研究の課題」では、井上光貞の浄土教研究を批判している。

本稿で取り上げられるのは井上光貞『日本浄土教成立の研究』『日本古代の国家と仏教』などである。著者の批判の要点は主に3点である。

第1に、平安浄土教と法然との思想的違いを明確にできなかったこと。専修念仏や悪人正機説は平安浄土教ですでに登場していた。では法然はそれを引き継いだに過ぎなかったのか。そうではない。井上は選択本願念仏説を正確に対象化できなかったのだ。

第2に、平安浄土教への理解が足りなかったこと。井上は、法然を平安浄土教の発展・延長としてとらえ、それが浄土教を民衆に向けて説いたものとしているが、すでに顕密仏教は民衆的世界へ浸透していた。むしろ法然は顕密仏教を否定しており、顕密仏教が民衆に説いていた罪業観から解放するものだった。法然の独自性は、念仏以外の諸行の宗教的価値を一切認めないということにある。なお、平安浄土教を発展・継承していったのは、禅律僧たちであったと考えた方がよい。

第3に、浄土教の発展を中下級貴族の没落と関係させて述べたこと。井上以前の浄土教発達の通説は、古代寺院堕落論・古代貴族没落論の二つが柱となっていた。井上は古代寺院堕落論は承認したが古代貴族没落論は否定し(なお著者は両論とも否定している)、その代わりに中下級貴族論が登場した。要するに、昇進の望みのない中下級貴族が末法思想を背景に、現世を否定した結果として浄土教の世界に逃避したというのだ。しかし院政期は王朝貴族が封建貴族化していく時期であり、貴族世界が停滞・固定化していたわけではない。また10世紀の人々の宗教意識は、鎮護国家・現世安穏・後世善処・死者追善の4要素で構成されており、現世を否定していた証拠はない。よって浄土教発達に中下級貴族没落論を持ち出すのは不適当である。「現実には浄土教の発達史とは、二世安楽信仰の発展史なのである(p.63)」。

では浄土教はなぜ発達したか。ここで著者は9世紀後半から10世紀後半までの1世紀を「一応の画期」だと見なす。そしてこの頃、仏教的来世観の浸透、葬祭儀礼の仏教化、臨終出家や逆修・日課念仏が登場したことに注目する。それは、「来世の観念が肥大化して、現世の中に侵入して(p.65)」きたことを意味し、若いうちから来世への準備をするような「異様な世界」になっていったのだという。またこの時期はケガレ、種々のタブー、物怪なども盛行した。そして、死霊・死穢・来世の観念の肥大化は、都市としての平安京の行き詰まりを示唆している。ちょうどこの時期に「都城から王朝都市への変貌(p.67)」が起こったのだ。

第1篇 古代仏教から中世仏教へ

「Ⅲ 中世移行期の国家と仏教」では、中世における国家と仏教との関係がどう位置付けられるか述べる。

まず著者は井上光貞『日本古代の国家と仏教』の目次を引用し、そこに国家制度の転換についてほとんど触れられていない事実を指摘する。では僧尼令は実際にいつまで維持されていたのか。

古代においては、私度の禁止=得度の官許制は、戸籍・計帳を媒介とする租税収取体系と有機的に結びついていた。しかし10世紀前半に戸籍・計帳は有名無実化し、土地を媒介とする支配方式に転換したため、「もはや朝廷には私度を禁止する理由がな(p.80)」くなった。10世紀中葉「私度」「自度」といった用語が使われなくなっていることは、それを裏付けている。実際、『日本霊異記』『今昔物語集』の両方に収録されている話を比べてみると、『霊異記』では「自度の…」とあるのに『今昔』ではそれが省略されているのは、もはや「自度」が使われない言葉になっていることを示唆しているのである。しかし私度の禁止政策が放棄されても、官僧になる者の得度・受戒の官許制は残存した。

次に、民間伝道に対する抑制はどうか。史料を検証してみると、桓武朝では①私的壇越関係を結ぶ、②愚民を妖惑する、の2点が制止されていたが、10世紀末では①は容認され、②は関心の対象外となっている。長保元年(999)の公家新制第5条では、僧侶の洛中居住と車宿が禁止されているものの、その後の法制には継承されていない。10世紀中葉に活動した私度僧の空也は、京で乞食を行い民間布教をしているのに、弾圧されていない。「僧尼令的秩序は(中略)少なくとも10世紀中葉には朝廷の手によって放棄されたと言わなければならない(p.84)」。これが、律用国家的仏教を多元的な中世仏教へと転生させる契機となった。

僧尼集団を統括する僧綱―国講師体制はどうか。中世にも僧綱所は存在しているが、実務を担った国講師の機能にまつわる史料は10世紀後半になるとほとんど見られなくなる。つまり実態としてはこの頃に国講師体制は解体したと思われる。僧綱所については、まず僧綱管理下から離脱する寺院が9世紀以降に増えている。延暦寺、興隆寺、貞観寺などである。僧綱から離脱するということ自体に僧尼令的秩序の崩壊が垣間見える。

また僧綱は度縁・戒牒の発給だけでなく課試(得度の際の試験)も行っていたが、10世紀中葉には「興福寺・薬師寺といった僧綱管理下の基幹寺院ですら、本寺で課試を行うようになっている(p.91)」。つまり「実質的得度権は各寺院に移譲された(p.92)」のである。法成寺以降、新たな年分度者設置寺院が見られないこと、一方で度縁が国家的法会で大量に発給されたことは、得度の価値が低くなったことを示している。天仁2年(1109)と保安3年(1122)に一万枚の度縁が発給されたことはその象徴だ。「9世紀後半から10世紀半ばに至る時期を一つの画期として、僧綱所の実質的機能が衰退し解体していったと結論してよかろう(p.93)」。形式的には僧綱所は残ったが「中世社会で実質的意味のある権限は殆ど窺えない(同)」。

ちなみに専修念仏への弾圧にも僧綱所が関与した形跡はない。僧綱所が実質的に機能しなくなったことは、顕密仏教・寺社勢力が自律的な統合組織を持っていなかったことを示している。それらは「宗派・寺院の自律的運営に委ねられていた(p.95)」

だが、寺社勢力の統合者は別のところに存在した。それが院権力である。院は第1に叙任権を掌握していた。「僧衣僧官制は顕密八宗の僧侶を体系づけている唯一の秩序(p.95)」だった。また第2に法親王制の創出(1099)による内部からの統制である。第3に院権力によって仏法興隆政策が大規模に進められた。特に円宗寺と六勝寺は、そこでの法会が僧侶の昇進ルートに組み入れられ、権門寺院統合の中心的舞台となった。さらには「平安末から鎌倉初期にかけて、院を釈尊の使者、仏の分身、権者とする観念が登場し流布(p.97)」した。

仏法の権威は高く、また個別権門寺院は強大であったが、寺社勢力は院権力に対抗できるほどの政治的力量はなかった。この政治的力量の低さに「日本中世における国家と仏教の関係の特質を認めることができる(p.98)」。

「Ⅳ 末法・末代観の歴史的意義」では、末法・末代観の歴史的意義を考察している。

かつては、末法思想が浄土教の盛行をもたらしたとする図式が前提となっていた(ここでも代表的論者として挙がるのは井上光貞だ)。だがその論拠となる史料は極めて乏しい。

史料を詳細に検討してみると、平安浄土教は現世の祈りや鎮護国家の顕密仏教と両立しないものではなく、当時の人は雑然とした宗教意識を持ち、末法の克服が阿弥陀信仰に限定されていたわけではなかった。むしろ浄土教の発達が顕密仏教に対する信仰や奉仕活動をも活発化させた。

そして末法思想は、「仏法は無力だ」とするものではなく、かえって末法ならばこそ一層力を込めて仏事を修さなければならないとするものであった。つまり顕密仏教にとっては末法思想は「むしろ自らの興隆を図る際の有力な論拠(p.121)」であった。末法克服の手段は、浄土教よりも寺院建立や国家的仏事の盛行にあったと見た方がよい。

さらには、平安中・末期に顕密仏教が衰微した証拠はない。そもそもこの時代には「仏法の中興」が讃えられている(例:大江匡房の法勝寺大乗会願文(1085))。では、一見矛盾する末法観と仏教中興観が併存しているのはなぜなのか。「それは貴族が王法仏法相依論を信受した結果、彼らが仏法の盛衰に過剰なまでに神経を尖らせていたことを意味するに過ぎない(p.125)」。

ここで著者はケーススタディ的に貞慶を取り上げる。「旧仏教」の思想家とされる貞慶は、様々な対象への信仰を抱いていた。極楽往生がだめなら補陀落山に往生したいとか、春日権現の下に生まれたいとか、願文の中でいろいろ保険(?)をかけている。なぜ彼は雑然とした信仰をいだいていたのか。そこには「仏法が衰え機根の劣った濁世辺土にいる我々にも可能な行業は何か、という問題意識(p.130)」があった。そこにあるのは、「仏法は危機にあるが滅尽してはいない(p.133)」という前提である。末法説は、顕密仏教側がその霊験や権威を強調し、国家的仏事や造寺起塔の機運を盛り立てるために喧伝したもののように思われる。

次に、荘園文書から国司や寺社勢力の末法観を探ってみる。11~13世紀は寺社が荘園領主へとして確立していく時期であるが、例えば東大寺は嘉承元年(1106)に「澆李の世(末法の時代)」だから人々が「信心」を失い、寺院の経済が立ち行かなくなっているので、「皇朝の泰平」のために封物の徴納をすべきであると訴えている(ここでの議論に関係はないが、個人的にはここで「信心」という言葉を出したのは気になる)。つまり寺院にとって「末法」とは、国司が封物を未納することなのだ。貴族の生活実態ではなく、寺社の置かれた状況に「末法」があるのだ。そしてまたそれを克服するために使われたのが「末法」だった。すなわち「寺社勢力の手によって意識的に喧伝された寺社中心のイデオロギー(p.144)」が末法思想なのだ。

対する国司にとってはどうか。寺社勢力が国司を抑え、荘園を確立していく過程は、国司にとっては苦々しいものであった。彼らにとっては、権益を主張し時に非法を押し通す寺社こそが末法の現れであった。国司と寺社は対照的な末法観を抱いていたのである。

末法思想が盛んに喧伝された時期、すなわち11世紀中葉から12世紀とは、中世社会の成立期にあたっていた。末法思想は、新しい社会への転換に一役買ったイデオロギーだったのである。

第2篇 専修念仏の思想と中世社会

「Ⅴ 法然の思想構造とその歴史的位置」では、法然の二元性について述べる。

法然は、専修念仏を勧めた一方で、宜秋門院に病脳平癒の授戒もしている。彼は専修念仏一本槍ではなかった。ではそれは法然の中でどう整理されていたのだろうか。

法然は、聖道門(顕密仏教の立場)を否定しようとした形跡があるが、その典拠を見出すことができず、聖道門を否定はしていない。彼は末法の一万年後には聖道門は無用となるとは考えたが、まだその時ではなかったのである。しかし、当時の聖道門は一般民衆には実践が不可能である。そのために機根の劣った民衆のために浄土門があると考えられたが、法然はそうとは考えなかった。確かに末法万年後の民衆は悪人しかいないが、今の民衆はそれに比べればすべて「善人」だというのだ。

そして『選択本願念仏集』で、法然は阿弥陀仏が人々を救う唯一の行として念仏を「選択」したとした。民衆の方が念仏を選択するのではなくて、人々を救う方法として阿弥陀仏が選択したのが念仏なのである。ここに法然の立場は明確になった。「称名を愚かな大衆のための二次的行修とする当時の浄土教観と尖鋭に対立した(p.174)」のである。また『選択集』では、「行から信への転換(p.174)」「信心為本思想の成立(p.188)」があった。法然の場合は未徹底ではあったが、ここに自力宗教から他力信仰へと大きく軸足が動いた。

そして法然は、宗義格別の主張をする。止観も即身成仏も否定はしないが、極楽往生を願うなら念仏しかない、というのである。逆にいえば自ら以外の諸宗浄土教を否定したのである。他宗への否定が根幹にあったという意味で、法然の思想は異端思想なのだ。

ともかく、法然の立場では、病脳平癒の授戒と念仏は問題なく併存する。なぜなら、極楽往生を願って授戒するのではないのだから。極楽往生と現世の問題を切り離し、極楽往生については念仏絶対を貫いても、現世の問題については諸宗を包摂したのが法然の思想的立場なのである。

では法然の立場は、顕密仏教とどう対立したのか。第1に、顕密仏教では人々にはいろいろな機根があり、それに応じた行法があると常識的に考えたが、専修念仏では全ての人は念仏によるほか往生のしようがない劣った存在だとの極端な立場にたっている。第2に顕密仏教が造寺造塔や仏事の実施など外面的な功徳を認めたのに対し、専修念仏では内面のみを重視し、念仏も「信心の表現」とした。

ところで、念仏は易行であるから、法然は仏教を民衆に解放したという見方があるが、これは当たらない。顕密仏教でも「阿」字のみを観想する方法が易行だとされており、そもそも顕密仏教は民衆に広く受容されていた。専修念仏の独自性は、易行であることそのものより、人々の機根に優劣はなく、全ての人が念仏に頼るほかないとした宗教的平等観の方にあったのである。

※本編は著者の処女論文(修士論文の一部)である。

「Ⅵ 専修念仏の歴史的意義」では、親鸞を中心として急速に発達した専修念仏運動の意義について述べている。

本編では、悪人正機説・悪人正因説などを整理して、悪人正機説が顕密仏教によるものであったことを指摘し、親鸞の言説の価値は、悪人/善人という差別的機根観を乗り越えて、末法の世においては全ての人は等しく悪人であって平等であると考えたことにあるとしている。そしてその根底には、信心を重視した姿勢がある。

一般的なイメージとは違い、専修念仏集団の宗教の本質は「民衆の来世救済にあったのではない(p.244)」。つまり、「悪人でも念仏で往生できる」ということは顕密仏教でも述べられていたのであるが、これでは善人(貴族)/悪人(民衆)という対立が前提となっている。ところが親鸞は全ての人が悪人だという。ここに顕密仏教的差別観が克服されたのである。

では、なぜ法然や親鸞は平等思想を主張したのか。それは、寺社が荘園領主となっていく中で、勧農に励み年貢を払うことが積善の行為とされていたからだと著者は考える。往生のために積善(諸行)が必要であるという考えは、寺社の荘園領主体制を一層強固なものにするものだ。専修念仏はその思想的根拠を突き崩すものであった。だからこそ専修念仏は弾圧されなければならなかったのである。

なお、本編前半の悪人正機説の検証は、著者が後に『歴史のなかに見る親鸞』でよりスマートに論証しており、本メモでは割愛した。

【参考読書メモ】『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post.html

「Ⅶ 解脱上人貞慶と悪人正機説」では、親鸞のものとされる悪人正機説が顕密仏教のなかで形成されたものであることを述べる。

著者は悪人正機説に関する2つの史料を発見した。第1に建久7年(1196)に執筆された貞慶の「地蔵講式」。ここには、「上代よりも末代の方が地蔵菩薩の利益があり、善人よりも悪人の方が霊験が顕著だ(p.269)」という言説がある。地蔵は、悪人の救済を優先する菩薩であると考えられていた。第2に『鳳光抄 四之二』所収の建暦2(1212)の春日社唯識十講第七座表白。ここでも「春日明神の霊験は善人よりも悪人の方が顕著なはずだ(p.271)」としている。これを誰が書いたのかは明確ではないが、興福寺僧覚遍である可能性が高く、貞慶の思想を継承したものであるらしい。これら2つは明確に悪人正機説を述べている。

さて。第1の「地蔵講式」が執筆された1196年は、未だ専修念仏は顕著な活動をしていない。これが専修念仏の影響で述作されたとはみなしがたい。専修念仏教団以前に、悪人正機説は顕密教団の中で形成されていたのだ。そして貞慶は、後に「興福寺奏状」で専修念仏の弾圧を求めることになる。悪人正機説は顕密仏教と矛盾しないし、それが親鸞の弾圧の理由になったのではないことは明らかだ。

「Ⅷ 建永の法難について」では、建永の法難の原因を考察している。

建永の法難は次のようなものだ。興福寺は法然らの専修念仏停止を訴え、八宗同心の訴訟を行ったが、朝廷としては法然に同情的で「偏執」を禁止するものの処分は行わない、と対処した。その後、後鳥羽院の女房と法然教団の安楽らとの密通事件が発覚し、建永2年(1207)に安楽ら4名が死罪、法然ら8名が流罪となった。

では、これは「密通事件」があったために起こった偶発的なものなのだろうか。なにしろ朝廷は当初法然には同情的だったのだ。興福寺の訴状が言うには、専修念仏は破戒行為に及ぶから禁止すべきだというが、当時の僧侶は破戒がありふれていた。しかし専修念仏は、そもそも持戒には意味がないと考えていた。何しろ念仏以外の価値を認めていなかったのだ。興福寺ら顕密教団にとって危険だったのは、専修念仏教団が持戒や造寺造像などの作善行為を無意味だと考えていたその思想の方だったのである。これが彼らの「偏執」であった。

つまり、一部の門弟の問題行動(密通事件)は弾圧のきっかけにはなったが、専修念仏教団には弾圧される要因が内在されていた。

では逆に、朝廷はなぜ最初の段階では弾圧に消極的だったのか。それは念仏自体は顕密教団でも行われており、念仏の衰微を助長すると考えたためではないか。朝廷が「偏執」を問題にし、法然としても「七箇条制誡」で一部の門弟の問題行動を指弾せざるをえなかったのは、「専修念仏それ自体の禁断を回避し、犠牲者を最小限に食い止める(p.310)」ための政治的選択だった。

しかし「密通事件」は念仏者=破戒の狂僧というイメージを定着させ、称名念仏は亡国の音だとする非難さえ生み出した。建永の法難によって専修念仏は異端認定され、破戒の念仏者=異端という図式で厳しい取り締まりが行われるようになった。

その弾圧の結果、専修念仏は「次第にその異端的性格を喪失して、顕密体制下の新たな一宗派として再生(p.318)」していくことになる。

「Ⅸ 嘉禄の法難と安居院聖覚」では、聖覚(せいかく)が専修念仏弾圧の張本人だったと論証している。

嘉禄の法難とは、①法然墓所の破却、②『選択集』の版木の焼却、③門弟の配流が行われた専修念仏への弾圧であるが、ここに聖覚らが念仏宗の停廃を求めたという「衝撃的な史料」がある。日蓮の弟子日向(にこう)が編纂した『金剛集』に収録されたものである。

聖覚といえば、『唯信鈔』の作者だ。親鸞は『唯信鈔文意』を著して聖覚に学ぶべきとしたし、聖覚の方でも法然を「釈尊之使者」「我大師聖人」と呼んでいる。そんな聖覚が念仏宗の弾圧を求めるわけがない。そんな考えからこの史料はこれまで無視されてきた。

そこで著者は厳密にこの史料を検証する。詳細は割愛するが、①史料成立の検証、②そこに書かれた内容の検証(特に5名の探題(竪義の判定者)の検証)を行い、この史料の信憑性はほぼ疑いえないと結論する。この考察は非常に緻密である。

ではなぜ聖覚は専修念仏を弾圧したのか。嘉禄の法難の時期には、聖覚は延暦寺探題の地位にあり、しかも国家的法会での証義を務めた回数から見れば「延暦寺系天台顕教の第一人者として公的に評価されていた(p.363)」。しかも彼の死後の扱いを見ると、彼は単なる顕密僧ではなく、「中世を代表する四つの権門寺院の代表的学僧によって追善されるにふさわしい人物(p.365)」であった。

次に『唯信鈔』の内容を見てみると、確かに念仏を勧めてはいるが、専修念仏の特徴である諸行の否定という側面はない。また一念義を「魔界の仕業」とまで厳しく批判している。そして、『唯信鈔』を著した4年後には、もう念仏への志向性すら放棄しており、とても念仏者とは言えなかった。

ここで聖覚が『唯信鈔』を著した承久3年という時期を考えて見ると面白いことがわかる。これに先立つ時期、彼は学匠としての地位を確立し、後鳥羽院の深い帰依を受け、承久の乱の戦勝祈願の法会を行っているのだ。しかし承久の乱が院側の敗北に終わったことで彼の立場は微妙になる。こうなると幕府によって処罰されてもおかしくない。つまりは聖覚の蹉跌の時がこの時期なのだ。このような中で、「専修念仏との関係を殆どもってこなかった聖覚が、突然『唯信鈔』を著さなければならなかった(p.373)」のは、「歴史の激変に翻弄された一人物の衝撃と不安の所産(同)」であるに違いない。

第4篇 女性と仏教

「Ⅹ 顕密仏教と女性」では女人往生思想を批判的に検証している。

女人往生思想とは、女性に往生が可能であるとする思想であるが、この思想自体に女性への差別的な見方が内在されていないか。法然は女性往生論を述べたと笠原一男は位置づけたが、史料を検証してみれば『無量寿経釈』一篇のみであり、その言説であれ当時の浄土教思想家が繰り返し語ってきたことで法然の独自性はない。

そして「五障・三従の身でも弥陀は救ってくれる」のような言説は、そもそも現世での女性差別観を助長するものであった。それでも、中国のように女人往生が否定されている場所でそのように説くことは意味があった。しかし日本ではそもそも女人往生を否定した思想家は一人もなく、女人往生は顕密仏教の中で常識的な考えであった。そんな中で「思想家が真に語らなければならなかったのは女人成仏や女人往生・女人正機なのではなく、道元のような女人結界・女性差別観そのものへの批判(p.396)」であろう。

では、女性差別観はいつ頃から登場するのか。著者は「三従・五障・龍女成仏・転女成仏経・女人結界」の女性差別語が登場する史料を調べ、それらが9世紀後半から多くみられるようになることを示し、摂関期には貴族社会にほぼ定着したと見られると結論した。こうした女性差別観の展開の中で、11世紀前半には光明信号信仰に変成男子説が取り込まれている。そして9世紀後半からは尼寺が退転し、官尼が消滅したことも注目される。

9世紀後半からは、ケガレ観が肥大した時期でもあるが、これは仏教が持っていた女性差別的性格に起因しているのかもしれない。そして家父長制原理の確立とともに女性の地位が低下したと考えられる。ただ、女人結界(女性はケガレているから清浄な山に入れない)の方は違う原理があるかもしれない。それは仏教的観念からも触穢観からも直接は導けない。そもそも女人結界は中国やインドにはない。これは、「女性は罪業が深い」という仏教的観念がケガレ観と結びついて「女性は存在としてケガレている」という観念に転化したものではないか。そしてそれは、山岳寺院の霊験をアピールするための手段だったのかもしれない。

「Ⅺ 女人往生論の歴史的評価をめぐって」は、前掲論文「顕密仏教と女性」に対する阿部泰郎からの批判に応えたものである。これは前掲論文の論旨を補強するものであるから詳細は略す。

「Ⅻ 中世仏教の成立と展開」では中世仏教の成立・展開過程を、中世社会・中世国家との連関の中で概観している。

中世仏教とは、顕密仏教に他ならない。旧仏教が堕落・退廃して中世仏教が興ったのではなく、旧仏教が顕密仏教として自己変革したのである。

まず僧尼令秩序は国家によって放棄され、得度や居住の制限もなくなった。一方、個人的な要求に応える仏教信仰が発達し、死者の追善より自己の浄土往生を願うようになった。院政期を頂点とする私的修法や浄土教の盛行は顕密寺院を発展させた。一方、僧位僧官制の枠外でもっぱら私的仏事に従事する宗教者=聖の輩出も盛んになった。

他方、寺社は荘園領主として自己の権益を宗教的な権威で潤色することに努め、所領を聖なるものとして喧伝した。末法思想と仏法王法相依論はそのイデオロギーとして活用された。そのような中で「白河法皇が「王法は如来の付属によって国王興隆す」と述べたように、王権仏授説ともいうべき思潮が登場(p.462)」する。こうして「十善の君」「金輪聖王」は天皇の別称となった。

顕密寺院と民衆との関わりはどうか。これまで、顕密寺院は貴族ばかりを相手にし、民衆に救済の手を差し伸べたのが専修念仏運動だと評価されてきた。しかし顕密寺院は荘園経済を維持する必要から、末寺末社や荘園を起点として民衆を住人神人・散在寄人として編成してきたことが明らかになった。このような中で一宮が創出されていく。民衆は神人・寄人となることで国衙支配に抵抗したのである。国衙への民衆闘争が、寺社の強訴に変化していったのだ。

しかしそれは、神仏のイデオロギーによって民衆を支配した側面もある。年貢を完納することが現当二世の積善行為だというような主張は、「大乗的精神のもっとも腐敗した姿(p.465)」でもある。

そして寺院は世俗化していった。顕密僧の出世は世俗の身分にほぼ連動していた。「こうして寺院は、世俗社会でイエを構成することのできなかった庶子たちの、栄達の場と化していった(p.466)」。これは、寺院の世俗化というより、寺院と世俗社会とのボーダーレス化といった方がよかった。またかつて僧尼令が禁止していた私有財産も認められるようになって、僧侶は私寺・私房・諸職・荘園などの私財を所有するようになった。こうなるとそれを自分の子供に相続していきたいと思うのは人情だろう。こうして真弟(実子)相続が生み出された。

また、荘園制の展開にともなって、10世紀以降、末寺末社が登場する。地方寺社は自己を大寺院に寄進して、本寺の勢を借りて不輸不入の権を獲得したり支配の安定化を図ったのである。本寺にとって末寺末社は財産そのもので、寺社の荘園に末社を建立することは拠点づくりの意味があった。

このように、寺社は権門として自立していったが、それを上部で掌握していたのが院権力である。その手段は、①座主・別当の補任権・僧位僧官の叙任権、②円宗寺・六勝寺を媒介とする編成、③法親王制の創始であった。しかし院権力が寺社を統御していたとはいいがたく、むしろ院は悪僧対策に苦慮していたのである。そして顕密寺院の内部からも悪僧批判が起こった。

だがそれが仏教改革運動として形になるには、鎌倉時代を待たねばならない。それは院政期が所領分割の競争時代だったため、その競争に打ち勝つ必要があったためである。顕密仏教内部の仏教改革運動は、戒律の復興として現れたが、王権との相互依存の枠内での仏教改革運動であったために、名利や私欲を断って仏法興隆に努力しても、結局は朝廷・幕府の物質的援助への依存を強め、朝廷・幕府の後ろ盾にならざるを得ないという陥穽に陥っていった。

戒律復興は、鎌倉時代後期に「禅律僧」という独特の宗教者も生み出した。これは戒律を護持した黒衣の遁世僧である。彼らは僧位僧官を持たなかったが、朝廷は紫衣勅許や菩薩号・国師号を授与して国制の中に包摂され、禅律僧は顕密僧とは別の集団になった。彼らは①勧進による顕密寺社の修造、②架橋・作道などの交通路整備、③葬送への従事や光明真言・釈迦念仏・融通念仏などの庶民信仰の鼓吹に活躍した。彼らにより、これまで領主層に限られていた葬祭儀礼が13世紀末以降に民衆の間にも広まっていった。

このような中で専修念仏はどう位置付けられるか。彼らは、諸行の価値を否定した異端派であった。その根底には、人間の機根は平等だとみなす観念仏法を王権に依存しない観念がある。そして造寺起塔のような可視的行為ではなく、信心という内面的世界に限局して仏法を考えた。それにより「現世的秩序への批判精神を守り抜いた(p.488)」のである。

南北朝・室町期では、顕密寺院は遠隔地荘園の多くを失って弱体化し、変わって幕府の庇護を受けた五山派が力を持った。だが五山派は幕府の下部組織のようなもので独自の権力は形成しなかった。一方、かつて異端派であった教団は権力と妥協し、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗は顕密仏教と同化し、その故に大きく発展していった。「「鎌倉新仏教」は戦国時代になって初めて、その名にふさわしい社会的実体を獲得(p.493)」したのである。

****

本書は全体として、「浄土教中心史観からの脱却を図り、古代中世仏教史像の組み替えを企図したものである(p.515)」。

その主張から個人的に気になった点を改めて繰り返すと次の4点である。

  1. 中世仏教は、古代寺院の堕落と貴族の没落によって興ったのではなく、僧尼令が国家によって放棄され、顕密仏教の寺院が荘園領主として転生したことで生まれた。その際に活用されたのが末法思想イデオロギーであった。
  2. 顕密仏教はすでに悪人正機や女人成仏など、専修念仏教団が創始したと言われている言説を生み出している。専修念仏はむしろそうした言説を乗り越えた。
  3. 専修念仏は、諸行を全否定するという極端な立場をとっていたため異端認定されたが、それは人々の機根が平等であるという宗教的平等観から不可避的に演繹されたものである。
  4. 特に専修念仏は、造寺起塔や仏事などの目に見えるものの価値を認めず、信心だけに価値があるとした。
  5. 女人成仏論は、女性への救済ではあっても、現世での女性差別観を助長するものである。

このうち著者が厳密な史料批判によって力を込めて論を展開するのが1と2である。著者専修念仏を顕密仏教の延長ではなくその否定であると述べるが、それは同時に専修念仏が顕密仏教から生まれたものであることも意味している。となれば、顕密仏教の実態はどうであったのかという疑問が生じるが、本書は専修念仏とかかわりのある顕密仏教の様相は詳細に述べるものの、膨大で多様なその実態のほとんどは手つかずである。

というのは、著者の関心は親鸞にあり、本書収録の論文は親鸞研究の前提をなすものと位置付けられているため、専修念仏の動向を追うことが中心であって顕密仏教そのものについては手薄にならざるをえなかったらしいのだ。私は院政期の顕密仏教を知りたくて本書を手に取ったのだが、その点は少し残念だった。ただ最後の「中世仏教の成立と展開」は端正にまとまった顕密仏教論として非常に参考になる。

そして、気になったのは4である。 確かに専修念仏は信心為本の立場を打ち立てた。しかし、状況証拠から考えると、それも顕密仏教の思想だった可能性が高い。源信は『往生要集』で信心が最も大事だとする思想を表明しているし、聖覚も『唯信鈔』で「信」を強調している。修辞的表現かもしれないが、東大寺が「信心」の衰えについて述べたのも気になる。つまり信心為本自体は顕密仏教が打ち立てたもので、専修念仏はそれ以外の価値を否定したということに意義があったのではないだろうか。この点は著者はあまり厳密に考察していないようだ。

また、5については、著者は女性差別は家父長制成立とともに昂進したとするが、顕密仏教では家父長制成立以前から女性の疎外が見られることが気になる。例えば女性の顕密僧は史料に現れてこないが、なぜ女性の顕密僧がいなかったのか。これは家父長制成立に先立つ話である。著者は日本では女人成仏を否定する思想家はいなかったと述べるものの、同時に仏教教団の側こそが、率先して女性差別を始めているような形跡がある。つまり、女人結界や変成男子といった女性差別的思想は、世俗社会の女性差別観を追認して生まれたものではなく、逆に顕密仏教の側が女性差別観を生みだし、それが世俗世界にも影響していったと考える方が自然ではないかと思った。

ちなみに、本書を土台として著者は後に『歴史のなかに見る親鸞』を著している。

専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。

【関連書籍の読書メモ】
『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
厳密な史料批判に基づいた親鸞の生涯。歴史学における親鸞研究の到達点。

『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。信心についての議論はこのあたりが出発点になる。

2025年1月9日木曜日

『日本の祭』柳田 國男 著(柳田國男全集13)

日本の祭の本質を考究する本。

本書は、昭和16年に東京帝国大学で行った全7回の教養特殊講義の講義録である(終わりの2章は事情があって講義を中止したらしく手控えの浄書)。

その最初に、私はちょっと度肝を抜かれた。著者は青年たちを前に説教するのである。

曰く、「青年時代は、地元の祭のやり方を継承していく大事な時期である。しかしそんな時期に君たちは勉強ばかりして、地域から離れてしまった。そんなだから地域の祭が廃れるのだ。それどころか君たちは、地元の人々をまるで別民族を見るように蒙昧だとみなし、無意味なことを続けているとさえ思っている。しかしそれこそが無学であり無智なのだ」というようなことを諄々と述べるのだ。なんと講義の第1回は丸々この説教である。東京帝国大学の学生たち(いうまでもなく超エリートだ)も、これにはびっくりしたと思う。

この初回の説教には、著者の問題意識が明確に表れている。著者は、このままでは祭は衰微し、元来どうであったかがわからなくなってしまうと強く危惧している。そして目の前にいる学生(と、その背後にいた官僚)は、まさにその原因となっている存在だったのだ。祭は、「大学の繁栄と学者の増加とによって、あるいは断絶してしまうかと恐れている日本の伝統(p.237)」なのである。

日本には数多くの祭がある。それらに共通した要素もあるが、まちまちの要素もある。ではそれらの根源とは何だろうか。著者は最後まで「祭の根源とはこれだ」とは言わない。ただ民俗学の知見を使って、より古い姿、より根源的なものに迫っていく。

最初は、祭と祭礼についてである。祭と祭礼は同じものではない。祭礼というと、いろいろな趣向が凝らされ、催し物が付け加わる。そしてしばしば神輿の渡御を伴う。つまり祭礼とは遊興的なものだ。元来の祭にはこういうものはなく、厳粛なものであったと考えられる。ではなぜ祭が遊興化したか。それは信仰をともにせず祭りを見物するだけの人々が登場したことによるのではないか。

次に、「祭には必ず木を立てるということ、これが日本の神道の古今を一貫する特徴の一つである(p.264)」と述べ、祭場の標示について考察する。ここでいう木は、自然の木や枝もあれば、木を削ってつくった大小の棒もあるが、生木の方が古い民俗だと考えられる。古い時代にはかなり高い木・柱を祭に立てたらしい。柱と祭と言えば、諏訪の御柱(おんばしら)であるが、著者は、これは御柱のために祭をするのではなく、「私はむしろ反対に、六年一度の大きな祭をするために、必ずこの高い樹を立てることになったものと考えている(p.271)」とする。

この木は、祭の庭を標示して、その周り(またはそれで囲まれた領域)を清浄に保つという機能を果たしていたのかもしれない。ともかく、祭を行うということは、その場の清浄が保障されることが必要だった。

また、祭への参加(特にその主宰)には物忌・精進を必要とした。これはなかなか大変なことで、精進屋という仮小屋で一定期間生活しなければならないような場合もあった。また、祭の日には集まって食事を共にする場合が多い。これを懇親会のように考えている者も多いが、これは単なる楽しみの寄り合いではなかった。むしろ「「籠る」ということが祭りの本体だったのである。すなわち本来は酒食をもって神を御もてなし申す間、一同が御前に侍坐することがマツリであった(p.300)」。

しかも籠る=物忌というのは、結構期間が長かった。この物忌みの期間は、元来、食物の規制は弱かったらしいが、音を出してはいけないという禁忌があったり、針仕事をしてはいけなかったり、地域によっていろいろで、なかなかやかましかった。物忌とは通常生活(特に生産生活)から離れるということに本質があり、毎日働かなければならない者にとっては負担が大きかった。

これと似ているが別系統と思われるのが祓(ハラエ)で、こちらの淵源はミソギにありそうである。ミソギとは水によって身を清めることだ。この、水をもって身を清めた上でないと神前に進めないという習俗は、今でも手水鉢となって残存している。いうまでもなく、これは祭の清浄性と関わっている。なお面白いのは、物忌では髪を洗ってはならないなど、清浄性とは真逆の規制があることである。

祭では馬と弓の競技のような様々な催しが行われ、灯明や篝火を焚いて普段は食べられぬような食事が供されることが多い。これらは貴人を歓待するやり方と同じであることは注意される。また、祭には舞と踊りが付属することも多いが、舞については貴人歓待というより、元来は神のよりましとなって神託を受けるためにトランス状態になったもののようだ。それは女性や幼童の役目であった。

このように一応祭を構成する要素を検討してから、著者は「改めて再び祭の中心はどこにあるか、何が最も主要な事務であったかを、できるだけ単純に考えてみなければならぬ(p.356)」と述べ、後半に続く。

ではマツリに必ず備わっている要件はなにか。それは第1にミテグラを立てること、第2に必ず飲食を伴うことの2つである。第1の点は御幣・玉串・笏や扇子などいろいろとあって一定せず、必ずしも共通とはいえないが、第2の点は著しい全国の共通点である。では神にどうやって飲食を進めたかというと、鳥についばませたり、狐に持っていかせたりする地域、また小児を神の代わりにした地域もある。神に飲食を進めるというのは、ただお供えするだけではなかった。

またその料理も、特別の鍋釜や膳椀があり、いつもは食べないものを用意した。また平生は忌むようなやり方で食物を供する場合もある(膳の木目を縦にするなど)。

直会(なおらい)というのは、祭の後に関係者で食事をすることであるが、これは今では神にお供えした食物の「おさがり」であると思っている人が多い。しかしそうではなく、そもそも祭の本質とは、神と人が特別な食事を相饗(あいあえ)することにあったのではないか。

今ではこの観念が衰退して、魚とか野菜を生のまま神へ奉げることが多くなったが、元来は特別に調理したものを奉げていたのは疑いない。そして神様用、人間用(直会用)とが別になってしまい、神との相饗という要素が減退してしまった。それは、祭に新たな要素(遊興的な要素)が付け加わっていった結果、その中心が供饌(ぐせん)以外のものに移行してしまったためであろう。

次に、祭を取り仕切る者を見てみると、大まかに分けてハフリと神主がある(ただし区別されていない地域もある)。おそらくはハフリ(祝)は職業ではなく地位を示すものであった。これが大夫(タユウ)になると、神職が職業化する一歩前の段階になる。家の特権として神役を世襲し、これが進んで専業の神職へなっていったと思われる。そしてこうした神職には、古来から神勤を世襲してきた家柄である場合と、後になって外部から移住してきた者による場合の2通りがあったようだ。特に移住してきた神職が神社の由緒を説くようになると、神社縁起は潤色された。それは元来の由緒縁起を攪乱することであったが、そうでもなければわざわざ神社縁起など残っていなかったかもしれない。

そして近世には、専業神主が現れるようになる。その要因は2つあった。第1に神道家が神事のやり方を煩瑣に規定して素人では果たしがたくし、また秘伝や口伝などを用い専業以外を締め出すようなことをしたこと、第2に祭に必要な物忌・斎忌を厳密に守ることは普通の人には困難で、専門の人に任す方がよいという趨勢があったことである。特に第2の点については、忌を完全に守らないと祭の効果が現れないばかりか、かえって悪い結果を招くとまで観念されていた。こうした風潮の中、代願・代参・代垢離のような、一人を代理者と決めてその一人に忌を厳重に守らせ、代行させる風習も盛んになった。こうなると専業神職にゆだねることになったのは自然の成り行きであろう。

それから、神社を参拝・参詣するとはどういうことか。当たり前のようだが、著者はこれを検討の俎上に載せる。こういったところに著者の慧眼が光っている。そしてこれを考えるため、著者は「お賽銭箱がいつから、いかなる必要に基づいて始まったか」を考察する。そして、これは「オヒネリ」から来ているのではないかと推測する。オヒネリ(またはオセンマイ)とは、洗米を紙に包んだもので、著者の経験ではこれを賽銭箱の上に撒いたのだという。つまり元々、紙に包んだ洗米を神社に奉納する慣習があり、これがいつのまにかお金に変わったと考えられる。そしてこれは、神社への参詣の道を開くものであった。

元来、神社は氏子が祭の時に集うもので、旅のものが気軽に参詣するものではなかったと思われる。「祭と参詣は、最初から二つ別々のものであった(p.402)」のだろう。しかし旅に出ることは神への信心を高めることとなり、旅先の神社に参詣することはまた重要な経験であった。

そもそも、神社に行って何を拝むか。そこで拝む神というのは、具体的に何を指しているものか。ここでいう神というのは、歴史ある大社のそれではなく、地域の社、すなわち鎮守とか氏神とかウブスナと呼ばれている神社のそれである。著者はいろいろと考察した末、「神が祖霊の力の融合であったということは、私はほぼ疑っておらぬ(p.425)」としながらも結論は避ける(これは後に『先祖の話』で結論づけた)。

そして最後に、明治政府の決定では、神道は宗教ではなく、また神社も宗教ではないとされたことに触れ、それには「普通の定義によればこれは信仰であり、また系統があるから一つの宗教であるともいえる(p.427)」とし、政府が神道や神社の興隆に力を入れている一方で、それがかつての伝統をないがしろにするものではないかとやんわりと危惧を表明している。

さて、本書には神社論として大きな特徴がある。それは、神話と天皇について全く何も触れていないということである。当然、著者が見落としていたのではなく、意図的にこれを避けたのだ。昭和16年といえば皇紀2600年にあたり、国家神道が最も高揚していた時期である。当時の神社や神道に関する本を読んでみれば、「かけまくも畏き天皇陛下」に言及しないものはなく、敬神が「国民の精神」であったと強調し、また日本の神話が歴史的事実であったことは前提となっている。そんな中で、本書に神話と天皇が全く登場しないことは、著者の強い意志を感じる。

それは、神話と天皇については、当時の状況からして学問的に批判検証することができないため、あえて不問にしようという態度なのに違いない。よって祭神についてもほとんど議論はない。そういった議論になりそうになるとあえて迂回するのだ。こうした迂回を行うことそのものが、今から見ると政府に対する不満の表明のようにも見える。

しかし著者は、政府の宗教政策をやんわりと批判はするが、決して真正面から否定はしない(といっても、そのやんわりとした批判すらも、柳田國男にして可能となったものなのだろう)。そして神話や天皇に関することでなくても、意図的に曖昧に書いているらしき箇所がある。特にそれを感じたのは、「神社に神は常在したか」という問題が、提起されながらも考究されなかった箇所である。

本書全体の議論を踏まえて要約すれば、日本の祭の根源的な姿というものは、「一年の特定の日に、山などにいる神を清浄な場所にしつらえた依りましに下ろす(依りましはモノの場合と人の場合がある)。そしてこの日のために一定期間物忌を行って身を清めた参加者が集い、神と共に特別な飲食を分配して食べる。時には、神が一定のコースで移動し、人々はそれと共に行列をなす。そして祭が終わると神は帰っていく」というようにまとめられる。

であれば、明らかに神社に神は常住していない。祭の行われていない時の神社は、敬うべきものではあっても、拝むものではない。にもかかわらず、政府が毎朝神拝をさせていることに「合点がゆかぬ」と著者はいう。神は、毎日拝むようなものでも、そうたびたび参拝するようなものではなかった。明治政府は、祭の根源ではなく、新しく付け加わった要素の方を中心として新しい神道を構築したのである。そしてその中心が、神話と天皇であった。

そうではあるが、神話と天皇は祭や神社に歴史的にも深くかかわっている。よって、本書の考察に神話と天皇が入っていないことは、その論考を少しいびつな構造にした。これは著者も十分認識していたと思う。そのために本書は不完全なものになったが、一方で、現代でも通用する神道論になったのもこのおかげだ。

なお、本書を読みながら気になったことがある。これは本書にはあまり書いていないことだが、本来、神が下りてくるのは夜だったのではないかということだ。つまり日本の祭は基本的に夜に行われていたのではないだろうか。同じことをやるのでも、昼やるのと夜やるのではかなり違う。この点は改めて考えてみたい。

また、書いていないといえば、本書にはご神体についての議論もない。これも政治的なことから避けたのであろう。だが全国の神社のご神体が何であるか、これは著者に民俗学的見地からまとめてほしかった。太平洋戦争の頃、柳田の学問は完成期を迎え、最も充実していた。もし、この時期が少しずれていたとしたら、神話や天皇についても考察に含めた「日本の祭」が分析されていたかもしれないと思う。それが書かれなかったのは実に惜しかった。

不自由な状況の中で日本の祭を考究した異形の講義録。

【関連書籍の読書メモ】
『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

★Amazonページ
https://amzn.to/4fowgHu

2025年1月4日土曜日

[論文]「日本中世における在俗出家について」平 雅行 著

日本中世における出家の要因を分析した論文。

本論文は、同著者の「出家入道と中世社会」に続くものである。この論文では中世において〈出家入道〉と呼ばれる存在が、社会のあらゆる階層に大量に存在していたことを示した。しかし彼らがなぜ出家したのかは、10の要因が概略的に述べられるのみであった。そこで本論文は、彼らが出家した理由を史料を博捜してまとめ、分類整理している。一見してわかるように本論文は非常なる労作である。

なお、前掲論文では「家督を保持したままの出家得度者」を〈出家入道〉と定義していたが、本論文では「寺院に所属しないまま世俗活動を行っている僧形の人々」を「在俗出家」と規定し、また明示はされていないが、そのような出家そのものも「在俗出家」と呼んでいる。さらに「在俗出家のうち、出家した後も家長・家妻として家督・家政権を維持して世俗活動を継続するもの」を〈出家入道〉と定義しなおしている。両論文で用語の使い方に微妙な差があることに注意しなくてはならない。やはりここでも家督がポイントになるのだが、本論文を読んでも家督の有無にどういう重要性があるのかはよくわからなかった(例えば家督を継承していない嫡子が在俗出家する場合は〈出家入道〉ではないが、そういう区別が議論のどこに効いてくるのか)。

また、本論文で分類整理される出家の理由では、在俗出家の場合と、在俗出家後に世俗活動を停止する〈遁世〉の場合の2種類を区別していない。これは実際上区別が難しいためである。ただし顕密僧になるための出家は除かれている。

本論文は、史料上から理由が明確な、あるいは推測が可能な在俗出家・遁世の出家の事例が40ページ以上にわたって掲載されており俯瞰は困難だが、自分なりに以下にまとめてみた(番号は著者によるもの)。またそれぞれについて主な事例(人名と出家の年)を適宜抜き書きした。

1.自発型出家

①病
 死を覚悟した出家(藤原道長1019←権力者の在俗出家の嚆矢となった重要事例)
 出家による治病効果を期待したもの(後三条上皇1073)
②厄
 厄による死を覚悟した出家(洞院公賢1359)
 厄払いを目的とした出家(後三条天皇1073)
③発心(狛則康1156、源雅定1154、藤原兼房1199、殷富門院1192)
④高齢(藤原宗忠1138)
⑤充足(後白河院1169、後深草院1290)
⑥他者の死
 (a)主人(源顕基1036←天皇の死に殉じた出家の早い事例。殷富門院の女房多数1192、北条時頼の御家人多数1263)※鎌倉時代に膨大な事例がある。
 (b)夫(後三条院・後白河院・後嵯峨院・亀山院・伏見院の女御、坊門信清女1219)
  ※夫からの相続を確定させる意味もあった。
 (c)妻(九条兼実1201、後宇多院1307←純粋な思慕から!)※事例少数
 (d)子(白河院1096←郁芳門院の死:重要な事例)※事例少数
 (e)養君(乳母・乳父の出家)(北畠親房(1330))※詫びの意あり事例多数
 (f)父母(聡子内親王1073)※不婚内親王に多い
 (g)きょうだい(良子(後三条天皇の姉)1073)
⑦同心の出家←誰かと同時に行う出家。
 (a)主従(花山天皇・藤原義懐・藤原惟成986、亀山院・北畠師親1289)
  ※栄誉の意味があり事例多数だが、近臣にしか認められなくなる
 (b)夫婦(藤原忠信夫妻993)※夫婦で同心出家すると治病効果が高いとされた
 (c)親子(仁明天皇と皇子850)※中世では確認できず
 (d)きょうだい(藤原定家の娘姉妹1233)
⑧政治的敗北
 (a)左遷回避(藤原伊周996)※左遷先の大宰権帥が朝廷官職だったため
 (b)引責・謹慎・助命(安倍則任1062、源為義1156、高師直1351)
  ※事例多数。次第に単なる出家では許されなくなり、黒衣・喪無衣といった遁世僧の装いを要件とするようになった。
 (c)嫌疑を晴らすため(斉世親王901←在俗出家ではない、宇都宮頼綱1205)
⑨失意・諦念(惟康親王1289、四条隆顕1276、新陽明門院1290)※宮中の女性に多い。
⑩恥辱(下河辺行秀1193、藤原季輔1130、吉田経藤1261)
⑪不満・抗議
 (a)官位官職への不満(藤原通憲(信西)1143、新田政義1244)
 (b)政治的抗議
  (b1)権勢者による権力闘争の一手段(後深草院1274(未遂)、足利義嗣1416)
  (b2)政治的下位者による抗議(北条貞時後家ほか1326、飯尾元連ほか40名1485)
    ※ストライキのような集団出家が行われていた。事例多数。
 (c)親または子への抗議(藤原公賢1226←愛妾との離縁を迫る父への抗議、紀良子1374)
 (d)夫への抗議(小川禅啓妻1425←新妻に嫉妬、北政所吉子1348)
  ※夫の了解ない出家は離縁された。むしろ離縁のための出家もあったかも?
⑫主従関係の解消としての出家(荻野景継1212、西園寺公経1217)
⑬政争や戦乱に巻き込まれるのを回避するための出家(和田朝盛1213、金沢貞顕1326、葉室長隆ほか1336、宣政門院1339)
 ※近親者の死などを名目として、主君から距離を置くため出家した。
⑭政治的野心のないことを表明するための出家(伏見宮貞成1425、足利義視1489)
 ※自ら身を引くことで自分の子息を要職に就かせる意図もある。
⑮入道成(村や町で入道として扱われるための出家)

2.強制型出家

①政治的軍事的な敗北者に対する強制的出家(源頼家1203、足利直冬1349、後鳥羽院1221)
 ※出家を条件に助命するなど。 
②(敵対関係にない)上位者からの出家の提案によるもの(千種忠顕ほか1336)
③同心出家の強制(四辻季顕・斯波義将・大内義弘ほか多数1395←足利義満との同心。義満は同心出家したものを優遇した)
④後家に対する強制的出家(菊亭公行女1425)
 ※夫が死去したら後家は出家するものという社会通念の押し付け。

3.複合型出家

①一般複合型(九条頼経1245←年来の素懐+彗星+病気)※ほとんどの出家は複合型
②口実型(大庭景義1193、新田政義1244、名越光時1246)
 ※本当の理由は処罰・抗議などであったとしても、角が立つのを避けるために出家を口実にした。

4.死後出家

(藻璧門院1233、後光厳院1374、後円融院1393)
※院政期には必要とはみなされておらず、鎌倉時代までは例外的。室町時代になると相当な広がりがある。

以上である。ここまででも本論文が恐ろしく濃密であることがわかると思うが、これに続いていくつかの考察を加えている。

まず、在俗出家は戒律を気にしたか。これは、禁欲を貫くか、最初の頃だけ禁欲するか、ほとんど禁欲を意識しない、という3タイプがあり、人それぞれであった。また性的禁欲はせずとも魚を食べないといった禁欲もある(白河院)。ちなみに後白河院は全く禁欲を意識しなかったタイプで、著者は「とても出家者の振る舞いとは思えない」と述べている。持戒持律は少数派であったが、それは「中世では本当の意味での自発的な出家が少なく、社会的要因によって出家を余儀なくされることが非常に多い」ためだという。

次に殉死について(出家と直接の関係はない)。中世では殉死の例は少ない。なぜ殉死が少ないのか。著者は、そこに輪廻転生の死生観(仏教的六道観)が影響していたと見る。生まれ変わっても主従になるとは限らない。だから殉死の意味が薄いのだという。ただし、ともに浄土に行くという観念を持っている人もいる。こういう場合は殉死が行われた(本願寺実如の死(1495)では切腹した門徒がいた)。

次に、なぜ〈出家入道〉が盛行したのかという要因を考察している。それをまとめると、第1に藤原道長を嚆矢として権勢者が出家し、人々がそれに倣ったこと、第2に中世人が仏道に強く憧れており、世事と仏事の二兎を追いたい心情があったこと、第3に道心にもとづかない出家が大量に存在し、特定の状況になった時に出家すべきだという同調圧力や権力者に媚びを売るための出家さえあったこと、第4に中世では諸職が相続されるようになった結果、父権が非常に強くなり、朝廷や幕府の官職を退いても世俗社会の実権を掌握していた家督保持者が現れたこと、第5に〈出家入道〉でも世俗活動を続けてもよいという社会通念が形成されたこと、第6に〈出家入道〉の在り方を本覚思想が正当化したこと、である。

「むすびにかえて」では、まず〈出家入道〉の服装について述べている。〈出家入道〉は必ずしも僧衣ではなかったようだ(黒衣と聖道の2通り)。そこで室町時代の幕府の規定では服装が「俗人」「僧侶」「〈出家入道〉」の3本立てになったらしい。その規定を見ると〈出家入道〉は法皇や貴族の顕密僧の身分標識を流用していた模様である。つまり〈出家入道〉になると身分が少し上がったようになるのである。だが皆が皆そういう装束をつけていたわけではなく、貴族出身の〈出家入道〉でもそれとわからない黒衣の者もいた。つまり〈出家入道〉は服装も境界的なのである。

次に専修念仏との関係について簡単に触れ、「ほぼ無関係」と結論し、「〈出家入道〉とは基本的に顕密仏教の浄土教にものづくもの」であったとしている。そして最後に「〈出家入道〉の衰退に関わる難問」として、〈出家入道〉が16世紀に急減する現象の理由について「今の私には答えが出せていない」と述べている。最後に「出家・遁世の要因については、一層精緻な検討が必要であろう」として擱筆されている。

さて、私自身の関心としては、なぜ人々はわざわざ在俗出家したのか、ということにある。前論文での私の理解は、「出家とは現代の人が要職を退くのと似たようなものだった」というものだったが、本論文を読むとそこまで単純なものではないと感じた。また、著者は中世人は仏道に強く憧れていたと強調するが、それは事実としても、時代が進むにつれて自発的なものより「やむをえず出家した」というケースが増えるように思われる。なんだか出家が「目的」ではなく「手段」になっている。

そういう意味で注目したのは斯波義将の場合である。彼は足利義満が出家した際に「断り切れなくて」出家した。そして斯波義将が出家したことで〈出家入道〉の管領が誕生している。なぜ注目したのかというと、彼が出家したくなかった理由がわからないのだ。なにしろ、出家したからといって彼の人生に不利益が生じるようなおそれはなかった。もしかしたら、彼は出家したら持戒しなくてはならないと考えていたのかもしれないが、であるにしても「世事」と「仏事」の二兎を追うことができるのを喜ばしく思わないのだろうか。さらに義満は、この時いろいろな人に強引に同心出家を押し付け、万里小路嗣房は「出家料」として従一位に叙せられている。出家した者への優遇措置まであったのだ。となれば出家に及び腰になる理由はない。「手段」としても悪くはないのだ。それでも斯波義将が出家したくなかった理由は何か。これは中世の在俗出家を考える上での糸口かもしれない。

斯波義将のように本心では出家したくなかった人はたくさんいて、強制型出家は当然として、自発型でも⑧政治的敗北、⑨失意・諦念、⑩恥辱、⑪不満・抗議、⑫主従関係の解消としての出家、⑬政争や戦乱に巻き込まれるのを回避するための出家、⑭政治的野心のないことを表明するための出家、などはそれにあたる。在俗出家が一般的になった結果、特定の状況になった場合には出家するべきだ、という通念さえ生じたのである。

つまり出家とは、「自ら望んでそうする人にとっては名誉なことだが、やむを得ずそうする人にとっては罰則的な意味があり、またある文脈でそれをすることは抗議やストライキの意味も持つ」といった行為であった。これは前述のとおり現代での「要職を退く」のと概ね共通している。

だが「要職を退く」ことは実際に仕事から手を引くことであるが、在俗出家の場合は、引き続き従前の仕事を続けていることも多い。この点で出家は「要職を退く」のとは決定的な違いがある。ただし、本書の事例を見てみると、「やむをえず出家した」場合は実際の社会生活の面でも引退・縮小を余儀なくされている場合が多いようである。

つまり在俗出家は自発的な場合と、やむを得ない場合で違う扱いがあったのかもしれない。であっても、やはり斯波義将が出家したくなかった理由は謎だ。彼の場合は社会的な面で不利益がないからだ。仏法が好きでなかった、なんてことはないと思うのだが。

また、やむを得ない出家の場合に社会生活の引退・縮小が必要なのだとすれば、なおさら出家の持つ意味がよくわからなくなる。つまりこの場合の出家の本質が社会生活の引退などであれば、むしろ出家自体が不要で、引退さえあればいいのではないか。わざわざ出家させなくても、免職・隠居などを求めれば済む。実際、江戸時代にはそうなっている。出家の持つ意味はなんなのか。

これは入道成(にゅうどうなり)でも似たようなことが指摘できる。町や農村において、指導者層の仲間入りするために出家するのが入道成である。なぜ出家すると指導者層として扱われるのか。本論文では出家成の際に町に祝儀を納める必要があったことを指摘し、「在俗出家を行うために共同体に米銭を納めているわけであるが、それは逆にいえば、出家することが、世俗社会における地位の上昇につながっていることを意味して」いるのだとする。これは、現代の社会で、それなりの社会的地位の人・企業が祭の協賛金を一定以上出す暗黙の了解があるのと似ている。とはいえ、入道成の本質が米銭の納入にあったとすると、わざわざ出家する必要はなく、ただ費用負担さえすればよいということにならないか。やはり出家の持つ意味はなんなのかという問題になってくる。

それから、在俗出家を考えるにあたって本論文が全く触れていない点がある。それは還俗(げんぞく)だ。還俗とは出家を辞めて俗人に戻ることである。社会生活の引退や米銭の納入と出家とが決定的に異なるのは、出家が一方通行であることだ。一度出家したら後戻りすることができない、と中世の人は考えていたようだ。だが、近世になると還俗はありふれたものになる。もし還俗ができるならば斯波義将も出家をためらうことはなかっただろう。中世人が出家に意味を付与していたのは一方通行だったからと考えられる。

とすれば、著者が不明とする「〈出家入道〉が16世紀に急減する現象の理由」も、このあたりにあるかもしれない。還俗することが普通になると、「やむをえず行う出家」などあまり意味がなくなるからだ。本論文は在俗出家の事例を幅広く探った、いわば「在俗出家の歴史」であるが、これと対をなす「還俗の歴史」を解き明かすことによって、在俗出家がより深く理解できるのではないだろうか。

※大阪大学大学院文学研究科紀要、2015