2024年11月16日土曜日

『出羽三山―山岳信仰の歴史を歩く』岩鼻 通明 著

出羽三山についての概説。

出羽三山とは、山形県のほぼ中央に位置する三つの山であり、修験道の修行の山として栄えた有名な霊場である。だが私にとって出羽三山は土地勘のない東北のことなので、どうも印象がボンヤリとしている。そこで手に取ったのが本書である。

出羽三山は、かつては月山(1984m)、羽黒山(414m)、葉山(1462m)の3つの山を指したが、近世以降は葉山に変わって湯殿山(1500m)が三山に加わった。三山の中で羽黒山だけが低山なのが特徴的だ。

月山の史料上の初見は早く、平安時代に編纂された法制書『新抄格勅符抄』に宝亀4年(773)のこととして、「月山神」に神封2戸を寄せられたとある。『日本三代実録』にもしばしば月山神が登場する。

羽黒山が登場するのは古代から中世への過渡期である。その縁起によれば、崇峻天皇の子供である蜂子皇子が能除大師として羽黒山を開いたという。ただし、これは朝廷からは認められていなかった説である(神仏分離後に認められた)。なお羽黒山は熊野信仰との密接なかかわりがあったらしく、羽黒山には熊野権現が勧請されたのだという(『羽黒山縁起』)。

湯殿山の信仰はちょっと変わっている。山そのものがご神体なのではなく、山中にある温泉の成分が凝固した赤茶けた巨岩がご神体だからである。神仏分離以前は「ご宝前」と呼ばれたそうだ。史料に現れるのは中世後期の戦国時代である。

葉山に代わって湯殿山が出羽三山に含まれるようになったのは、信仰上の変化とともに、峰入りのルート整備に関わる理由ではないかという。

中世の羽黒山は諸宗派から構成されていた。「山頂のご本社を取り巻く寺々は真言宗、五重塔の周囲と門前町の寺や坊は天台宗で、臨済宗の寺も二カ寺あり、念仏寺院も三カ寺(p.42)」あったという。「羽黒修験」と呼ばれる存在は、こうした寺にそれぞれ所属していたのか、あるいはこれらの寺と独立に存在していたのかよくわからないが、ともかく江戸幕府の政策で、修験と認められるためには「本山派」か「当山派」のいずれかに属さなくてはならなくなった。そこで羽黒山別当の天宥は、寛永18年に天台宗の天海に弟子入りし、羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した。こうして羽黒山は本山派・当山派とは別の独立した地方修験の山として公認された。

だがその統一によって、三山の内部の天台宗と真言宗との争論が勃発した。出羽三山には7つの登山口があり(八方七口)、それぞれを別当寺が管理していた。うち3つが天台宗で羽黒山、うち4つが真言宗で湯殿山を押さえていた。それらが、寛永・寛文の二度にわたって湯殿山の祭祀権をめぐって争論を行ったが、それを「両造法論」という。この結果、幕府は羽黒山と月山は天台宗側に、湯殿山には真言宗側に祭祀権を認めた。出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分割されたことになる。地理的には「月山・湯殿山」が一体で、羽黒山が離れているのにこのように分割されたのは非常に政治的だ。

羽黒山は寛永寺の末寺になったことで後ろ盾を得、天宥以降の別当は日光山輪王寺宮門跡が務めることになった。また文政6年(1823)には羽黒権現は式内社の伊氐婆(いでは)神社であると主張して「出羽神社羽黒山三所権現」に正一位の位階が贈られた。また開山の能除太子に「照見大菩薩」の諡号も贈られた。三山の中では一番低い羽黒山が出羽三山で一番の権威を持っていたようである。

明治維新後、庄内藩には神仏判然令が明治2年5月に伝えられた。羽黒山は出羽神社(現在の出羽三山神社)と改められたが、寺院や堂塔などは仏地として残された。また月山山頂は神社とするが胎内岩付近は仏地とすることなどが取り決められた。このあたりは簡潔にしか書いていないがどういう線引きだったのか興味深い。さらに明治6年には西川須賀雄が出羽神社の初代宮司として赴任してきた。西川は、「すでに復飾していた羽黒山内の清僧修験の院坊を破却して山内から追放した(p.49)」。

羽黒山には、妻帯せずもっぱら修行に勤しむ清僧修験と、妻帯して宿坊を営み参詣者の受け入れを行う妻帯修験がいた。このうち「清僧修験の院坊」とは何なのか、本書には詳らかでないが気になった。彼らの住居だろうか。西川は仏教徒に転じていた妻帯修験にも神道への転換を迫った。西川は赤心報国教会を組織し、これが宿坊と各地の信者のつながりを認めたため、かつての修験たちは次第に神道へと属していった。

神仏分離に対しては三山それぞれと八方七口ごとにいろいろな対応があった。まとめると以下の通りである(p.65)。なお以下のリストで、「手向」等は七口の名前であり正式には「手向口」などであるが、「口」は省略した。

羽黒山    手向(とうげ)    寂光寺(天台宗)→ 出羽三山神社
月山  肘折  阿吽院(天台宗) → 八幡神社
月山  岩根沢 日月寺(天台宗) → 出羽三山神社
月山・湯殿山 大井沢  大日寺(真義真言宗) → 湯殿山神社
月山・湯殿山 本道寺  本道寺(真義真言宗) → 湯殿山神社
湯殿山    七五三掛(しめかけ)    注蓮寺(真義真言宗)→ 注蓮寺
湯殿山    大網  大日坊(真言宗豊山派)→ 大日坊

大雑把に言えば、羽黒山・月山は神道化、湯殿山は仏教に留まったということになるが、羽黒山でも手向の300余りの宿坊のうち正善院のみは仏教寺院として残った(戦後、天台宗から独立して羽黒山修験本宗となった(p.54))。上のまとめはあくまで別当寺の対応であって、その下にあった多くの宿坊はそれぞれの判断を迫られたのである。なお三山の祭祀権は、近世まではそれぞれの別当寺が保持していたが、神仏分離以後には、羽黒山の三山神社に祭祀権が一括された(p.51)。

こうした経過から、出羽三山は神仏分離によって(神道に全部変わったのではなく)神道と仏教に分かれ、現在でも伝統的な修行「秋の峰」は神道側と仏教側に分かれてそれぞれ行われている。出羽三山の興味深いところは、まさにこの神道・仏教が分割・共存の道を選んだところであろう。

ところで手向の宿坊では、妻帯修験は「霞」という中世以来の縄張りと、「檀那場」という信者の開拓を行った地域を持っており、「霞」は東北地方に、「檀那場」は関東地方に広がっていた(なお、他の口の宿坊はどうだったのか記載がない)。妻帯修験にも、別当直参の「恩分」と「平門人」という二つの身分があった。「恩分は別当から霞を支配する免許状を与えられ、帯刀を許され、役職に任じられた(p.69)」。檀那場を開拓したのは「平門人」の方である。また「羽黒山では、清僧修験に院号、妻帯修験に坊号が与えられた(p.70)」。…とあるが、「羽黒山が与えた」というのは、実際誰が与えたのかよくわからなかった。

ここまでが本書の第1章で、第2章では近世から現代までの出羽三山の参詣の実態、第3章では羽黒修験の修行(近世以前および現在のもの双方)について述べている。ここで少し疑問なのは、出羽三山と「羽黒修験」の関係である。すでに述べた通り出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分かれていたのであるが、「湯殿修験」が別に存在したとは書いていない。「羽黒修験」は出羽三山で活動した修験者の総称なのか、それとも羽黒山を拠点としていた修験者を指すのか本書には詳らかでない。なお第3章の記載によれば、羽黒修験の修行は「月山・羽黒山」で行われており(主な舞台は月山)、湯殿山には登らないようだ。

なお、天台宗側(月山・羽黒山)と真言宗側(湯殿山)では参詣の装束が異なっており、両山の境界には「装束場」という場所があり、そこで装束を着替えたのだという(p.153)。ということは、修行の場所が完全に分離していたのではなく、装束を替えて両山を参詣する人が多かったということになる。修験者は持ち場があったに違いないが、参詣の人にとっては境界は形式的なものだったかもしれない。

第4章は出羽三山の観光案内的な地理の説明で、特に「湯殿月山羽黒三山一枚絵図」という幕末に印刷された絵図を紹介して、近世における出羽三山がいかに盛況していたかを述べている。なおこの図は、一応「三山」となっているが、天台宗側(つまり月山・羽黒山)しか描かれていない。これは天台宗側によって作成されたからなのか、「語らずの湯殿山(湯殿山については語ってはならないとするタブー)」のためなのか分からない。

第5章では湯殿山に残る即身仏について述べている。即身仏とは仏教の捨身的な修行によるミイラである。庄内地方には6体の即身仏があり、うち1体は湯殿山の注蓮寺にある。出羽三山の即身仏は、湯殿山の仙人沢で「一世行人(ぎょうにん)」と呼ばれる宗教者が、人々の苦しみを代わりに受け止める(代受苦)修行によって、生きたまま土中に埋められて成仏したものをいう。だが近世では即身仏についてはあまり注目されておらず、あくまでも一世行人の生きている時の活動を人々はありがたいと思っていたようだ。それが近代に入ると即身仏は信仰の対象になるようになった。そこには、出羽三山の祭祀権を失った湯殿山が、新たな信仰の対象を求めたためではないかという。

第6章では出羽三山の食文化について述べている。羽黒修験たちの入峰修行の際の食事は極めて質素であったが、一方で宿坊で参詣者に提供される食事は食べきれないほど豪華なものだった(もちろん高額な謝礼を払った)。参詣が遊興化していたことは食事の面からも明らかである。

本書は全体的に簡明で読みやすく、わかりやすい……といいたいところだが、一読した印象は平易ながら、メモを取りながら再読してみるとどうもよくわからない部分が多い。それは近世以前の修験者および修験道の在り方について、わかったようでわからない概念的な説明をしているからである。

例えば、「羽黒山別当の天宥が、寛永18年に羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した」という記載についても、まず「羽黒山別当」の意味がよくわからない。出羽三山には八方七口にそれぞれ別当寺があったという記述はあったが、羽黒山の別当とは具体的に何を指すのか(寂光寺別当のことかもしれない)。また「羽黒山を末寺にする」とは一体何か。具体的にはどの寺院が羽黒山の末寺になったのだろうか。そして、仮に羽黒山を代表する寺院(寂光寺)が天台宗になったとして、「羽黒山を天台宗に統一した」ということの意味もよくわからない。真義真言宗の寺院が現実に存在しているのに、羽黒山を天台宗に統一するということの意味はなんなのか。こうしたことが、本書では全く説明されない。他の項目についても推して知るべしである。

だが、これが本書の大きな瑕疵とはいえない。本書を手に取る人の多くは「出羽三山のことについて大まかに知りたい」という人だろうから、あまり細かい話に立ち入る必要はないだろう。とはいえ第1章はもう少し説明がないと、修験道の知識がある人以外には理解が困難だと思う。

それから、これは編集の方針かもしれないが、出羽三山のそれぞれをあまり区別せずに書いているのもわかりづらい原因のように思う。「月山・羽黒山」と「湯殿山」の二本立てにして記述した方が私にとってはわかりやすかった。

出羽三山の概説としては簡明で平易だが、修験道関係の記述は理解が難しい惜しい本。

【関連書籍の読書メモ】
『修験道史入門』時枝 務・長谷川 賢二・林 淳 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_5.html
修験道史の研究状況を整理した本。「第8章 羽黒派」(高橋 充)では、羽黒派の歴史と研究状況をまとめている。

『維新の衝撃 近代日本宗教史第1巻』(島薗 進、末木 文美士、大谷 栄一、西村 明 編)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/07/1.html
幕末から明治10年代くらいまでを中心とした日本宗教史。「第5章 近代神道の形成」(三ツ松誠)では、西川須賀雄を取り上げて近代神道の形成過程を追っている。

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2024年11月12日火曜日

『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)

日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。

本書は、日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるといっても過言ではない。その結論は「解説」で新谷尚紀が端正に要約している。曰く「人は死ねば子や孫たちの供養や祀りをうけてやがて祖霊へと昇華し、故郷の村里をのぞむ山の高みに宿って子や孫たちの家の繁盛を見守り、盆や正月など時をかぎってはその家に招かれて食事をともにし交流しあう存在となる。生と死の二つの世界の往来は比較的自由であり、季節を定めて去来する正月の神や田の神なども実はみんな子や孫の幸福を願う祖霊であった(p.734)」。

こうして書いてみると平凡なようだが、それまでの日本人は六道輪廻の仏教理論とか平田国学といったものしかあの世の理論を持っておらず、この一見平凡に見える理論は、柳田が収集した膨大な民俗資料から帰納してまとめられた、初めて文章化された「平凡な日本人が抱いていた信仰・あの世観」なのである。

柳田はこの本を、昭和20年、空襲警報が鳴り響く中で執筆した。このような本を戦争中の切迫した状況で執筆するとは驚きだが、そこには、特に戦死したものをどうやって祀るかという問題意識と、家の断絶への危惧があった。ここが出発点となったことは柳田の限界というか時代の制約であった。しかし、国家神道が最も国民生活を支配した時期に書かれたにもかかわらず、本書は国家神道の影響が慎重に排除されており、ほとんど時代を感じさせない普遍的な価値がある。なにしろ、幸か不幸か、戦争中は柳田の学問が最も充実した時期にあたっており、しかも柳田はこの著作に渾身の力を込めたのである。ちなみに執筆期間はたったの2か月だという。

本書は(というよりも柳田の著作のほとんどがそうであるが)、随筆とも論考ともつかない文体で書かれており、芋ずる式に考察が進んでいく。それははっきりとした結論を積み重ねるのではなくて、いわば飛び石のように様々な事例をまたいで進んでいく方法であり、ここにその論理を要約することは難しいが、できるだけ要点を抽出してみたい。(以下、メモの部分は柳田ではなく「著者」に統一した。)

まず、そもそも「先祖」とはだれか。例えば、藤原家は遡れば藤原鎌足の血筋となるが、鎌足を先祖としては祀らない。先祖とは遺伝的な祖先であるばかりでなく、他でもないその家の始祖となる人物でなくてはならない。言い換えれば、他の家では始祖として祀らない人物がその家の祀るべき先祖なのである。だから分家は本家の始祖は祀らない。本家の始祖を祀るということは、本家の特権なのである。

ところで、平民の間での重要な祭りは正月と盆である。では正月はどんな神様を迎える祭りであるのか。それは、一軒一軒に訪れる神として観念された。であれば歳神様は一国を統べる大神であったはずはない。一方で盆は先祖の霊を迎えるものである。この二つは、日ごろはどこか遠くにいる存在が、決まった日に訪れるという共通した構造を持ち、一方は神事、一方は仏事であるが構造上の一致は偶然とは思われない。そして一軒一軒を訪れ、それぞれの家ごとに幸福を与えてくれる神は、先祖の以外には考えられない。歳神様は先祖の霊ではないかというのが著者の推測である。

ではなぜ正月に先祖の霊を祀るか。正月と盆は一年をほぼ二分する季節の分かれ目であり、暦という生活を支配するものの象徴であったからであろう。先祖の霊を祀るならばその先祖の年忌(命日)に祭りをすればいいような話であるが、もちろん命日などわからない先祖は多く、また命日に祀ることにすると、「命日に祀る先祖」と「命日に祀らない先祖」という区別を生じることとなる。もちろん家の始祖からの先祖全ての命日で祭りをするということは可能であるが、時代を経るにつれて煩瑣になっていく。よって、個別の先祖を祀るのではなくて、死後一定の時間がすぎたら、それは「先祖」 の「みたま」というものにまとめてしまうということが合理的だったに違いない。そうして、個別的でない「先祖」の概念が形作られ、歳神様と習合してしまったのだろう。なお、正月の16日が先祖を拝む日となっている地方は多い。

ところで、日本では田の神は山の神が下ってきたものとされる。そして稲の生育を見守った後で冬には山に帰っていく。これは日本全体に普遍的に見られる観念である。しかも面白いことに、漠然と春に来て冬に去るのではなく、特定の日に迎えて、特定の日に送るという民俗行事があり、気候の違いにもかかわらずその日が全国でかなり共通している。ここにも祖先の霊を祀るのと同じ構造がある。

盆は仏教行事ではあるが、それは元来の仏教にあったものではない。そもそも、死んだら輪廻するというのが仏教の考えなのに、なぜ毎年その霊が帰ってきて供養を求めるのか、仏教教理では説明ができない。しからば盆とはいったい何なのか。これが「盂蘭盆」の省略とは信じがたいと著者はいう。

ここで著者は「盆」をその古訓から考察する。「盆」の古代での訓は「ホカイ」であったのではないかと推測される。そして「祀」の訓も「ホガル・マツル・イノル」であったという。では「マツリ」と「ホカイ」は同じものであったか。著者はその用法を検証し、「マツリ」は祀る者と祀られる者の関係で成立するのに対し、「ホカイ」はその周囲に「不特定の参加者」を持つものであったと考える。乞食が『倭名鈔』で「ホカイビト」とあるのもその意味がある可能性がある。

しからば「盆(ホカイ)」とは何か。著者は、素焼きの土器であったろうという。つまり盆とは、供物を素焼きの容器に入れて奉げる祭りであったことになる。「その字がはからずも盂蘭盆会の中にもあるところから、これが大いに行われたものあろうと私は想像している(p.116)」。ただしこの説の弱点は、盆は中世以前には「瓫」の文字を使っていることで、「瓫」の字が「ホカイ」と訓じた例はまだ見つかっていない。

なお「盆」は、『和名抄』には「缶(保度岐=ホトキ)」とあり、『字鏡』にも「盆」を「保止支=ホトギ」と訓じている。こうしたことから著者は「死者を無差別に皆ホトケというようになったのは、本来はホトキという器物に食饌を入れて祭る霊ということで、すなわち中世民間の盆の行事から始まったのではないか(p.118)」という。

むかしの日本人は外来語の「仏(ブツ)」に「ほとけ」の訓を与えたが、では「ほとけ」という和語はもともと何を表していたのか。これは著者に指摘されるまで私も考えたことのない問題だった。著者の推測をもう一度繰り返すと、(1)素焼きの器に食饌を入れて祖霊を祀る行事があり、その器を「ホトキ」といい、そうすることを動詞化して「ホカフ」、それが名詞化して「ホカイ」となった。(2)「ホトキ」によって祀られる霊が「ホトケ」であった。(3)それが仏と習合して、仏を「ホトケ」と呼ぶようになった、ということである。

ただし、この仮説は「仏」を「ほとけ」と訓じたことのわかる古い事例を集めて検証してみなくてはならないが、本書では推測に留まり、コーパス的な調査はなされていない。

先祖を祀る方法は、第1に墓、第2に盆棚、第3に仏壇、第4に神棚、第5に村の氏神がある。墓は永続的なものではなく、盆棚や仏壇も一応三十三回忌を以て「弔いあげ」として供養を終わりにする場合が多い。そうして抽象的な祖霊となったものを神棚に祀るという構造になっているのではないか。では「氏神」はどうなのか。個々の家に祀ったものと重複しているのではないか。この「氏神」に対する著者の説明はなんだか歯切れが悪い(正直、よくわからない)。氏神を祀ることが国家的政策だったからかもしれない。

ともかく、墓に埋葬した時点では「荒忌の穢れ」があるが、それが仏壇、神棚、氏神と進むにつれて清浄になってゆくということはいえるようである。

では、死んだ魂はどのような世界へいくのか。日本神話には「黄泉の国」があり、また仏教には六道輪廻がある。黄泉の国は現世と別にあるものであり、六道輪廻でも魂は生まれ変わったり地獄に落ちたりして、ともかく魂は個性を保ったまま現世にとどまっていることはない。しかし日本人は、先祖の霊がさほど遠くないところにとどまっていて、子孫の生活を見守っていると考えていたらしい。そして六道説などと妥協するために、魂は実は「魂魄(こんぱく)」の2つがあって、「魂」は冥途に行くが「魄」は現世に留まるなどと無理に考えたものもあったのである。

では「あの世」はどこにあるか。この問題は、黄泉の国や六道輪廻の理論のためにかえって閑却され続け、平田篤胤が考究するまで誰も考えてこなかった「新しい問題」だという。著者は様々な事例から「あの世」を抽出して考察しているが、第1に「霊は(国に)留まって遠くは行かぬと思ったこと(p.166)」と第2に「顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけでなしに(中略)招き招かれることがさまで困難でないように思っていたこと(同)」をその特徴を挙げている。

であれば、そこは具体的にどこなのか。どうやら日本人は、そういう魂がふわふわとそのあたりに漂っているとは考えていなかったらしい。しかしそれがどこなのか、はっきりと表明されたことはついぞなかった。ここで著者は4月8日の大祭に注目する。「『神社大観』や『明治神社誌料』の類を読んでみると、旧暦四月八日を大祭の日としていた神社は、郷社以上にも相応に数が多(p.172)」い。また、4月8日に山登りをする習慣がそれとは別にある。それは別の行事ではあるが、そこに共通の何かがあったのではないか。

ここで著者は「賽(さい)の川原」に注目する。「さいの川原」は、川下ではなくなぜか山中に存在し、「地獄谷」のような地名も存在する。また、かつての常民は死者を山に葬っていたと思われる。とすれば、「さいの川原」はそういう墓所の名残ではないのか。つまり日本人は、「あの世」を漠然と山にあるものと観念していたのではないかというのが著者の推測である。

最後に著者は、日本人が最後の一念を重視する傾向、小さな子供が死んだ場合は生まれ変わりがあると思っていたこと、魂の若がえりの問題などに触れて擱筆している。

冒頭に述べたように、本書は日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるが、今ではやや批判的に触れられることが多い。このメモを読んだだけでも、その理由はわかると思う。第1に、日本人の信仰の多くが祖先祭祀に還元しうると著者は述べるが、その扱いが恣意的である。例えば祖霊である山の神もあるかもしれないが、自然信仰の山の神もたくさんあるだろう。第2に、日本全国でそれほどまでに家の構造が強固だったとは思われない。例えば私の住む南九州では、明治になるまで「氏神」など祀っていなかったようだし、百姓には公式には名字もなかったから家の観念が強固だったとは思えない。第3に、本書は膨大な民俗事例が引かれているが、歴史の史料は比較的参照されない。著者は民俗学は歴史の学問だと考えていたのだが、歴史が手薄なのだ。

このように、本書は随筆とも論考ともつかない体裁とも相まって批判は容易だ。しかし、だからといって本書の価値が低いということはもちろんない。著者自身も本書の脇が甘いことは十分に認識しながら、将来への課題としてまとめたものなのである。では、その後日本人の他界観が柳田國男以上に分析考究されたことがあったか。私はこういう分野を比較的読書しているが、未だ本書以上の論考は著されていないように思う。

日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

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2024年11月9日土曜日

『高野山信仰と霧島山信仰――薩摩半島域における修験道の受容と展開』森田 清美 著

薩摩半島における民俗文化を山岳信仰および修験道と関連させて述べる本。

本書では、紫尾山、冠岳、金峰山など、山岳を中心としてその周辺の民俗文化や神話・伝承を紹介している。

紫尾山では、石童丸物語が地元に実際にあった話として伝承されている。石童丸物語とは、「かるかや(刈萱)」として知られる説経物語で、本来の物語の場面は高野山(と比叡山)である。

紫尾山は「西州の高野山」と言われたというが、この石童丸物語が鶴田町や東郷町に残っており、「石堂山」という山もあるそうだ。東郷町(南瀬と斧淵)には、石童丸物語が人形浄瑠璃で伝わっている。

では、なぜ紫尾山周辺に石童丸物語が、史実として伝承されたのか。はっきりとは分からないが、著者は紫尾山には古くから熊野修験がやってきており、著者はその影響を重視している。高野聖もそこに関与していた可能性はあるが、むしろ熊野修験の関わりが大きいという(ただ、このあたりの根拠はよくわからない)。

本書ではあまり考察されていないが、仮に熊野修験や高野聖がやってきていたとして、なぜ石童丸物語が地元の史実として伝承されてきたのか、ということは不可解だ。彼らは熊野や高野山のありがたさを強調したはずで、紫尾山でそれを代用するとは思えないからだ。なお紫尾山には、高野山と同じく遺骨や毛髪などを山中に納める風習があったという(『三国名勝図絵』)。熊野修験や高野聖の直截の影響よりも、それが「民俗化」していったことを考えなければならないのかもしれない。

また紫尾山麓の「現王(げんのう)様」という不思議な信仰が紹介されている。これは本書中で最も興味深かった。現王様とは、さつま町泊野・白男川・二渡折小野、薩摩川内市旧高城町・吉川・長野などにみられる信仰である。現王様は、都から「泊野現王・津田万右衛門・笹野道清」といった三兄弟(あるいは三俣容良を加えた4兄弟、さらに折小野五郎七も加える場合もある)が下ってきて、田畠を切り開いたとか、超人的な力を持っていとかで、後に神として祀られた、とされる。それは農耕神というより狩猟神であったようだ。

この信仰の背景には、日光修験による狩猟民俗があったのではないかと著者は推測している。ただ、「(現王様は)現人神と呼ばれる霊験あらたかな人神という意味である(p.95)」などと速断しているようにも見受けられる。それは貴種を先祖とする伝説ではあっても、現王様には人神の要素は薄いように思った。また著者は東北のマタギ集団が来ていたのではと推測しているが、これも根拠はよくわからない。ところで知人に「現王園(げんおうぞの)さん」という人がいる。これは現王信仰とかかわりのある名前である。他の地域にはない独特な信仰がなぜ紫尾山麓にのみ見られるのか、不思議である。

冠岳と金峰山については、さまざまな史跡を紹介し、特に霧島山信仰と日向神話との関わりについて述べている。著者は、これらの地域が神話のふるさとであるということを主張しているのではないが、地域の神話や伝説に対して批判的でもない。具体的に言えば、「こういう神話がこの地域に残っていることは事実」として話を進めたがる。それは事実には違いないが、ではなぜ日向神話がそこに残っているのか、ということはあまり検証されない(というより本書の対象外である)。そして最後に、「こうした神話の伝播には修験者が関わっていたのかもしれない」というようにまとめている。

本書は全体として、修験道研究というよりは民俗学のフィールドワークの記録であり、そこに掲載されている事例はどれも興味深いが、それらを通じて何かがわかるというものではない。それは、民俗文化というものが、そもそもはっきりと開明できるような、理屈に基づいたものではないということを示しているのかもしれない。

【関連書籍の読書メモ】
『説経集(新潮日本古典集成)』室木 弥太郎 校注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_5.html
中世の説経の代表的作品を収録した本。「かるかや」についてはこちらのメモを参照。

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2024年11月2日土曜日

『島津氏——鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』新名 一仁・徳永 和喜 著

ポイントを押さえた島津氏の歴史。

本書は、帯では「専門家による「島津氏」通史の決定版」と銘打っているが、「はじめに」にも「あとがき」にも、本書が通史であるとは一言も書いていない。「はじめに」では、「長期にわたる同じ一族による支配の維持、政権との距離感、敗北後の危機回避など、七百年におよぶ島津氏の九州南部支配からは、現代においても学ぶべき点が多々あるのではないか。そうした観点から本書をお読みいただき(後略)(p.5)」とあるので、通史的に島津氏の支配の特質について述べることが目的ではあるが、通史そのものではないと理解できる。

本書では、島津氏の歴史を当主の治世を区切りとして記述している。章のタイトルも「第一章 島津忠久の治世——元暦二年(1185)〜嘉禄三年(1227)」などとなっている。

これを年表風に簡略化すると次のようになる(だいたい50年を1行として適宜間を入れた)。

┃第1章 島津忠久(1185〜1227)


┃第2章 島津貞久・氏久(1318〜1387)
┃第3章 島津元久・久豊(1387〜1425)
┃第4章 島津忠国・立久(1425〜1474)

┃第5章 島津忠良・貴久(1527〜1566)
┃第6章 島津義久・義弘(1566〜1599)
┃第7章 島津家久(1601〜1638)
┃第8章 島津光久(1638〜1687)


┃第9章 島津重豪(1755〜1787)

┃第10章 島津斉彬(1851〜1858)
┃第11章 島津久光(1858〜1869)

これを見ると、鎌倉時代後期と江戸時代中期の間が大きく、本書が通史ではないことは明らかだ。

なぜこんなことをくだくだしく書いているかというと、私は最初、本書を「通史」だと思って読み始めて途中で違和感を抱き、よく確認してみると著者たちはこれを通史であるとは言っていないことに気づき納得したからである。

なお、はっきりと明示されていないが、前半1〜6章は新名一仁が、後半7〜11章は徳永和喜が執筆しているようだ。以下前半と後半に分けてメモする。

前半は、鎌倉時代後期を欠いているとはいえ、通史といって差し支えない。それは、島津氏が薩隅日の三か国の守護として南九州を統治する過程を述べたものであり、またその後(義久・義弘の時代)は、その版図が九州全域にまで広がっていく次第を説明している。

初代の島津忠久は、近衛家の下家司(しもけいし)を独占的に継承していた惟宗家の出で、頼朝の御家人になると元暦2年(1185)に島津荘下司職に任じられた。その翌年には「島津荘地頭」と呼ばれており、やがて島津荘目代、押領使となって薩摩・大隅両国の「家人奉行人」に任じられ、後に日向国も兼務したようだ。これは後の守護のことらしいが、ここに薩隅日三か国支配の原型が見られる。

ただしその後「比企の乱」のため、島津荘の所職や守護職は剥奪された。追って忠久は「和田義盛の乱」で軍功を上げ薩摩方地頭職に任じられたものの(守護職にも復帰したとみられる)、大隅・日向の守護職は鎌倉幕府滅亡まで北条氏が相伝した。なお、この時代の守護職は、後のように領域的支配権は持っていない。

島津氏が再び薩隅日三か国の守護職を手に入れるのは約130年後で、島津貞久が鎌倉幕府滅亡の際に足利方についた軍功による。しかしこの時期の守護職もまだ領域的支配権はないので、領内には島津氏と敵対する在地勢力がたくさんあった。日本は南北朝時代へ突入し、南九州でも複雑な対立の構図となった。島津氏としては特に大隅の肝付兼重への対策が重要だった。

ちなみにこの時代(14世紀後半)、貞久は鎮西管領の斯波氏経に対し「島津氏は薩隅日三か国の支配権を領有している」と強く主張しているのが興味深い。次代の島津氏久は志布志での中国交易を重視し、志布志の宝満寺・大慈寺を庇護した。ここに島津氏の交易重視政策が形成された。同時に、倭寇もこの頃盛んになってくる。九州南部は倭寇の拠点の一つだった。中国との貿易を目指す幕府にとって倭寇の存在は迷惑であったが、そのために倭寇対策が政策課題となり、島津氏が貿易のキーとなっていくのが面白い。

九州探題今川了俊との抗争に勝利した島津氏は、薩隅日三か国の実効支配を幕府に認めさせ、氏久を祖とする奥州家が三か国の守護職を兼帯した。氏久を継いだのが子の元久(母は伊集院忠国の娘)。なお応永元年(1394)、石屋真梁(伊集院忠国の子)を開山として福昌寺が創建され、島津氏の菩提寺となった。奥州家は伊集院氏と深い関係にあった。

実子の男子が出家していた元久は、妹と伊集院頼久の間に生まれた初犬千代丸に家督を譲ることとしており一門も了承していたが、元久の異母弟久豊はこれに異を唱え、伊集院氏から元久の位牌を奪って守護所鹿児島を占拠し、また福昌寺を保護した。伊集院氏との抗争の後、久豊が権力を確立して足利義持から三か国の守護職に任じられた。こうして奥州家が守護職を相伝し「三州太守」と表現されるようになった。

久豊の長男、忠国の時代は、山東(宮崎県西都市)の伊東氏との関係が大きな政策課題となった。忠国の母は伊東祐安の娘だったが、伊東氏と対立するようになったのである。そうした状況で伊集院煕久が反島津方国人を糾合し一揆を起こした(国一揆)。忠国はこれを制圧できず和睦。伊東氏とも和睦していた。これを不服としたグループは忠国の弟持久を擁立し、忠国を隠居させた。持久は福昌寺で父久豊の十三回忌法要を行って家督相続を確かなものにしたかに見えたが、ここで「大覚寺義昭事件」が起こる。

ことの次第はこうである。足利義教の弟・義昭が京都から出奔。これが後南朝勢力と結ぶことを恐れた幕府はこれを探索したが見つからなかった。そんな中で義昭が義教追討の檄文を忠国方の樺山孝久(のりひさ)に発したため、樺山は幕府に通報。このため幕府は忠国に対して義昭追討を命じたのである。忠国は末吉に隠居中だったが、自派の武将に命じ嘉吉元年(1441)、日向国櫛間院の永徳寺を包囲させ義昭は切腹。これで幕府の信任を得た忠国は返り咲いた。一方、持久は北薩と南薩を治める薩州家を創始した。

一方、忠国の治世は安定せず、これに不安を覚えた嫡子立久と重臣は忠国を強制的に隠居させた。立久はアメとムチで経営を行い、伊東氏とも和睦して領国内を安定させた。この際に、相州家豊州家も創出され、「有力御一家・国衆を相互にけん制する体制(p.74)」が作られた。

一方、忠国の三男久逸(ひさやす)が、断絶した系統を養子となって引き継いだのが伊作家。伊作家は伊東氏との合戦に敗れ、また久逸の子善久が奴僕に殺害されて風前の灯となったが、その妻常盤が相州家の島津運久(ゆきひさ)に再嫁し、それによって善久の子忠良が伊作家・相州家を相続した。一方で、奥州家は忠昌が自害、その後嫡男の早世が二人続くなどして弱体化し、反島津勢力が蜂起した。

そうした状況を利用して、忠良は奥州家(島津忠兼=勝久)に自身の子虎寿丸(後の貴久)を養嗣子とすることを受け入れさせた。これは事実上のクーデターであった。薩州家の島津実久はそれを認めず、自らが「三州太守」を継承したと標榜してクーデターを仕返したが、忠良・貴久は薩州家を打倒。荒廃していた福昌寺の寺領を安堵し、「三州太守」として認められた。こうして貴久は奥州家当主として地位を確立させた。貴久はさらに在地勢力を次々と下して薩摩統一を実現した。

貴久の子供が、有名な島津四兄弟(義久義弘・歳久・家久)であり、義久・義弘の時代に島津氏は最強となった。彼らは大隅と日向を統一して、ここに「三州統一」が成し遂げられた。彼らの目標はあくまでも「三州統一」であったが、九州六か国の守護職と九州探題であった大友宗麟とのパワーバランスから、肥後の国衆から救援を求められ、また島津氏の重臣たちも外征に積極的だったため、北部九州に侵攻していくこととなった。特に龍造寺隆信を圧倒的少数で撃破した(沖田畷の戦い)ことで九州で島津一強となり、残すは大友氏との対決となったが、このタイミングで豊臣秀吉が九州へ征伐へ動いたため、島津氏はやむなく降服した。秀吉は、義久に薩摩国、義弘に大隅国、義弘の子の久保に日向国真幸院を安堵している。

秀吉は明らかに義弘を当主として扱ったが、義久を主君とする家臣団もおり、島津氏は分裂気味になった。さらに太閤検地では多くの家臣が減封となり不満が高まった。そんな中で独り勝ち状態だったのが伊集院幸侃(忠棟)であるが、義久の子忠恒(のちの家久)は伊集院幸侃を突如惨殺、追って子の伊集院忠真とその一族も誅殺した。なお、義弘は実際には家督は継承していないが、後の島津氏の公式見解では義久-義弘-忠恒と家督が継承されたことになっている。

ここからは後半である。前半とは打って変わって通史風の記述はなくなり、著者(徳永)の重視する事項を詳しく述べていくスタイルになる。島津家久と続く光久の時代については、交易の記述がほとんどである。

薩摩藩は琉球国を通じて南蛮(東南アジア)・中国と交易を行っていた。それは近世初期では自由貿易を志向しており、近畿の貿易商人にも支えられていた。この交易は薩摩藩を繁栄させ、島津領内では中国人が多く居住していた。もちろん島津氏自身も貿易を行い、島津氏は最大級の朱印船貿易家であった。また島津氏が取得した貿易の権利を民間に譲渡した場合もあり、これについて本書では「大迫文書」からその実態を考察している。

家久は慶長14年(1609)に琉球侵攻を行い、琉球国を属国にした。これは琉球の貿易権を薩摩藩の管理下に置くことが目的であった。琉球は中国の冊封体制に組み込まれながら、同時に薩摩藩にも隷属するという二重の支配を受けた。そのおかげで、薩摩藩は琉球の朝貢貿易を通じて中国の物品を入手することができたのである。

それは逆に言えば、中国への輸出品を入手する必要があったということだ。薩摩藩にとってこれは大きな負担でもあり、その費用を取り戻すためにも琉球口交易は必要だった。農地に恵まれない薩摩藩にとって琉球口交易は重要な財源でもあったが、その負担もまた大きかった。続く光久の時代も琉球口交易の確立に絞って記述されている。

ここから時代が一気に飛んで島津重豪の時代となる。重豪の時代には、薩摩藩の膨大な借金の整理が重要な政策課題となった。そんために抜擢されたのが調所広郷である。調所は様々な改革を行って借財の整理・減免・返済を行ったが、本書では特に琉球口交易の拡大が焦点となっている。

次の島津斉彬の時代では、斉彬の世界観とそれに基づく近代化政策が触れられる。特に西洋通事の養成の中で、唐通事の石塚崔高が紹介されているのは目を引いた。薩摩藩では蘭学から英学へ路線変更するが、そこで上野景範が比較的詳しく紹介される。上野景範は独断で上海に渡航して西洋にいこうとした人物である。本来脱藩の罪に問われるべきところ、彼は逆に薩摩藩開成所の句読師に抜擢されている。

島津久光の時代については、幕末史を足早にまとめ、その頃の薩摩藩の財政を支えた「琉球通宝」などの通貨鋳造事業について述べている。なお、通貨鋳造事業は「琉球通宝」は幕府から許可を得ているので「偽金」ではないが、「天保通宝」は許可を得ているのか得ていないのか定かでない(記録も関係者の証言も曖昧)。なお、ここでは幕府から鋳造許可を得た日付がどうであるのかなど、かなり細かい議論があり、この辺りは全く通史的ではない。

なお、著者には『偽金づくりと明治維新』(新人物往来社、2010)という前著があるが、不思議なことにこの本は本書では参照されていない(参考文献に挙げられていない)。もしかしたら旧説を改める意図があるのかもしれない。

本書は、前半と後半では良くも悪くも調子がだいぶ違う。私は前半は通史として読み、後半は薩摩藩論として受け取った。だが後半は、薩摩藩論だとしても特定事項に記述が偏っていることは否めず、わかったようなわからないような感じである。

一方前半は、島津氏が薩隅日三か国を統一する次第が端正にまとめられており、頭の整理に非常に役立つ。著者(新名一仁)はこれまで、戦国島津に関する本や論文を多数著しており、本書によってそれらの著作を俯瞰することができると思う。

前半を読んで改めて思ったことは次の3点である。

(1)島津氏にとって「三州太守」すなわち薩隅日三か国を統治するというのがアイデンティティとなっていた。大隅の肝付氏や、川内川流域の渋谷一族など、島津氏と対抗する勢力がなかったわけではないが、そうした「支配者としてのアイデンティティ」を持っていたのは島津氏だけだった。

(2)伊集院氏と島津氏の関係が興味深い。島津氏は多くの庶流・分家を持っていたが、中でも伊集院氏とは独特な関係があったように思われる。島津氏の菩提寺である福昌寺は実質的に伊集院氏が創建しており、伊集院氏の初犬千代丸は島津家の家督を狙える位置にあった(これは伊集院氏による乗っ取りのようにも見える)。そして戦国末には、伊集院幸侃は豊臣支配の矛盾を押しつけられる形で斬殺されるのである。伊集院氏から南九州・島津氏の歴史を見るとどうなるのか、興味が湧いた。

(3)福昌寺が、島津氏の家督継承に大きな役割を演じているらしい。歴代の島津家当主にとって、福昌寺の寺領を安堵し、またそこで先祖の法要を行うことが大きな意味があったように見受けられる。福昌寺は荒廃していた時期もあるので、常にそうであったとは限らないが、家督継承の正統性や権力基盤が弱い時期に担ぎ出されたのが福昌寺だった。菩提寺を正統性の源泉としていたのは他の戦国武将たちでも同じなのか、それとも島津氏の特質なのか、どちらなのだろうか。

 

【関連書籍の読書メモ】
『日向国山東河南の攻防—室町時代の伊東氏と島津氏』新名 一仁 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/07/blog-post_11.html
鎌倉から室町までの日向国山東河南の歴史について、島津氏と伊東氏の関係を軸に語る本。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名一仁)は渋谷氏との関係を軸として南北朝・室町期の島津氏の歴史を述べている。

『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post_20.html
島津義久・義弘を中心とした歴史書。戦国末の薩摩の歴史書としては、現時点で最良唯一の平易な良書。

『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html
鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。

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2024年10月22日火曜日

『認識と超越<唯識> (仏教の思想4)』服部 正明・上山 春平 著

唯識(ゆいしき)とは何か述べた本。

かの玄奘がはるばるインドまで旅して求めたのが、アビダルマ哲学と唯識の本だったという。唯識はインドの仏教思想においてその到達点といえるものである。

しかし私は唯識はあまり日本の仏教に影響を与えていないと考え、これまでこれを知らずに済ませて来た。先日『往生要集』を読んで、本当に日本仏教に唯識があまり取り入れられていないのが検証する必要を感じ手に取ったのが本書である。

唯識の源流は『華厳経』の「三界唯心」の一文である。「三界はただ心なり」、これは鴨長明が『方丈記』の終わりにいう「夫(それ)、三界は只心ひとつなり」の元ネタである。世界に存在するのは心だけだという認識は、インドではどう発展していったか。

本書にはそれが丁寧に跡付けられているが、私にはよくわからなかったことも多いので、大まかにメモする。

紀元1世紀ごろに、インドではアビダルマ(論・哲学)が盛んになった。これは仏教的な哲学で、存在論である。アビダルマでは、存在するということを思弁的に考え、いくつもの存在の基本単位(原子のごときもの=法:ダルマ)を措定した。地水火風空といった物質(色)についてはもちろんのこと、アビダルマでは心理作用とか文章のようなものも法があるとみなした。物質のみならず現象にも、心とは独立して原因の元があると考えたのである。

一方で2世紀には、空思想がナーガルジュナ(龍樹)によって大成された。紀元後に述作されていた大乗仏典にはすでに空の思想が説かれていたが、これを精緻に理論化したのがナーガルジュナの『中論』である。空とは、この世の全ては相互依存的に存在しており、絶対的な実体はないとする思想である。

ところがすぐにわかる通り、これはあらゆるものに原子のごとき普遍の素(法)があると考えたアビダルマ哲学と矛盾する。そこで2~4世紀頃には、アビダルマ哲学を受け継ぎながら、その存在論を転換させ、空の理論を取り入れた認識論である唯識が『解深密教(げじんみっきょう)』において登場するのである。

これを受けて唯識思想を体系化したのが、マイトレーヤ(彌勒、ただし実在の人物ではない可能性が高い)であり、アサンガ(無着)・ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟であった。特に重要な著作としては、マイトレーヤの『瑜伽師地論』、アサンガ『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』、ヴァスバンドゥ『唯識二十論』・『唯識三十頌』が挙げられる。5世紀ごろまでに現れたこれらの著作が唯識の基礎を築き、6世紀にはこれを発展させるとともに、それらに対する注釈の形で理論が精緻化した。

そうした仕事をしたのが、例えばディグナーガ(陳那)、ティラマティ(安慧)、ダルマパーラ(護法)、パラマールタ(真諦)である。中でもダルマパーラの『成唯識論』は基本原典の位置づけが与えられ、法相宗の根本経典となった。なおこの頃に玄奘はインド旅行をした。さらに7世紀には、ダルマキールティ(法称)が出て認識論、論理学を発展させた(有形象唯識論)。この頃にインドを訪れたのが義浄である。

日本で唯識をはっきりと受け継いでいるのは法相宗である。法相宗大本山の興福寺には、有名な無着・世親像があるが、あれこそが日本における唯識のアイコン的なものであろう。

ではその思想はどのようなものだったか。

それを簡単に言うと、「この世界には実在するものは何もなく、それは幻のようなものである」ということである。これは西洋哲学でいえば、ソリプシズム(独我論)にあたる。もう少し正確に言えば、唯識派は、あらゆる外界の対象は実在せず、ただ表象とその認識だけがあると考えた。だから「唯識」なのである。

例えばここに牛が歩いているとする。だが唯識の考えでは、実際には牛は存在しない。ただ「牛が存在する」との認識だけがあるのである。さらに牛の前に大きな岩があったとしよう。唯識ではもちろん岩も存在しないが、牛は岩を避けて歩くであろう。存在しないはずの岩をわざわざ牛が避けるのはなぜか。またこの牛が視界から過ぎ去ったとする。もはや牛は認識されないので、存在しない。しかし、その先で別の人は存在していないはずの同じ牛を見ることになる。このように、明らかに牛も岩も存在しているように見える。どういうことか。

これに対し、『解深密教』ではアーラヤ識というものを考えた。アーラヤ識とは、「無限の過去世から、現象にかかわる心のはたらきの余習を蓄積しながら流れを形成している潜在意識(p.55)」である。つまり、誰かが牛を認識したことはアーラヤ識という識のアーカイブに記憶されているため、別の誰かもその牛を認識するのである。

ところで、単純な独我論では、世界で確実に存在しているのは自分(の心)であるとされる。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」といったように、外界の対象が全く幻に過ぎないとしても、それを知覚している自分というものは存在すると考えるほかない。では唯識では自己及び他者をどう考えるか。

唯識では、自己は識の集合体であると規定される。つまり識(認識作用)がまとまったものが人間である。もちろん他者もそうである。認識作用のみがあるのである。西洋哲学の独我論では、自己は存在したとしても他者は幻かもしれないと考えるのだが、インド哲学の特徴なのか、唯識では自己と他者は峻別されずに考察されている。本書では詳らかでないが、おそらくは生物は全て識の集合体と考えられているようである(もしかしたら無生物もそうかもしれない)。

では、牛という実体は何もないのに、なぜ我々は牛を認識するか。言い換えれば、アーラヤ識はどのような原理で我々に牛を認識させるか。細かい議論は省くが、アーラヤ識にはあらゆる現象の種のようなものが内包されており、その種が現勢化することで牛が認識される。ところで唯識に先行するサーンキヤ学派では、現象のすべては因果律に支配されていると考え、その根源に第一原因を考えた(新プラトン学派と全く同じである)。ところが唯識になるとアーラヤ識が因果律の体系であるとはみなされず、識は瞬間ごとに生成・消滅するとされる。アーラヤ識に因果律が内包されているのではなく、それはあくまで種が現勢化することで識を変化させる。

つまり識は、素朴には認識作用ではあるのだが、認識というのは対象があって初めて成り立つ。対象がないのに何を認識するのかというと、アーラヤ識によって識自体が変化するのみなのだ。これを「識の変化<パリナーマ>」という。

このように考えると、煩悩や輪廻といったものも、アーラヤ識によってある(ように見える)ものであるのは明らかだ。すなわち解脱とは、アーラヤ識の流れを断ち、アーラヤ識から自由になることに他ならない。それが真如の境地なのである。

これはずいぶん思弁的な観念論に見える。ところが実はそうではないのである。唯識派は観念論を弄んだ学者だったのではなく、瑜伽(ヨーガ)を実践していた人たちだったのだ。

彼らは、ヨーガによって深い瞑想に到達し、そこに真理の世界を見た。その実践から得られたことを理論化したのが唯識だったと考えられる。例えば、瞑想していると、如来や菩薩が現れ、いろいろ教えてくれたりする。そうしたものは虚妄であろうか? さらに深い瞑想に入っていくと、全宇宙の真理が溶解した光の世界などに到達するとされるが、それはただの幻覚なのだろうか?

瑜伽行者たちは、現実の方がかえって虚妄であり、ヨーガの実践によって見られる世界の方に真如があると考えた。これが唯識の基本的な立場である。瞑想の時に見る世界は、何ら外界の対象が存在せず、瞑想が終わったら消えてしまう。しかし現実世界も似たようなものではないか、と彼らは考えた。むしろ、現実世界の流れ(アーラヤ識の作り出す流れ)を断ち切った世界にこそ、真実があると確信していた。

唯識は、一種の存在論・認識論であるが、観念的な哲学ではなく、むしろヨーガ理論であると考えた方がよいのである。実際、唯識の諸著作ではヨーガの実践によって得られる境地を10とか12に分けて細かく説明しているのである。

ただし、ディグナーガ=ダルマキールティの系統は、ヨーガの実践は遠のいて認識論・論理学の方向に進んでいる。

この世に実在するものは何もない、という思想は、世間的なものに執着しない態度を予想させる。例えば美女も美食も、実体は何もないのだから捉われるな、という態度である。しかし唯識ではそうは考えない。美女や美食を認識するという識(認識作用)こそが汚れであるとするのである。その識の働き(正確には、識を機能させているアーラヤ識)をヨーガの実践により断つことで煩悩をなくすのである。先述の通り自己も識の集合体であり、それを存立させているのもアーラヤ識である。ということは、アーラヤ識が断たれたら、自己も無になる。それが真如の境地なのである。

なお本書は、3部に分かれている。第1部が服部正明による唯識の概論、第2部が上山春平と服部の対談、第3部が上山による解説である。このシリーズは上山春平と梅原猛が仏教思想について繙くという構成をとっており、上山の専門は西洋哲学であるが、非専門家の立場から見た唯識が語られている。しかし意外と西洋哲学との対比や類比はなく、アビダルマからの思想的発展とヨーガとの関連を中心に述作されている。

ちなみに本書は唯識が日本にどう影響を与えたかはテーマの範囲外であるため述べられていないが、日本の法相宗が上述のような議論を盛んにしていたという話は聞かない。そもそも法相宗では唯識は「学問」であり、ヨーガの実践を伴っていなかった。ヨーガがなくては唯識の真の価値は発揮できなかっただろうと思う。

今でこそ唯識について述べた本はたくさん刊行されているが、本書の原著刊行の時点(昭和45年)では、本格的かつ平易に唯識を紹介した一般書としては貴重なものだったと思う。

唯識を思想的に平易に解説した良書。

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『天皇の祭祀』村上 重良 著

天皇制を支える祭祀について述べる本。

国家元首としての天皇、そして天皇を神と見なす観念などを含む「国家神道」は、戦後にGHQの指導の下で解体されたが、その祭祀については天皇の私的な行為(内廷行為)ということで存続を許され、今でも行われている。だが、皇室祭祀は「天皇の私的な行為」どころか、「天皇の祭祀王権の基盤(p.iii)」であり、天皇制の核であるともいえる。

しかし大嘗祭がニュースになるくらいで、一般にはあまり知られていないのが皇室祭祀である。

本書はこの皇室祭祀の全貌を述べるものである。

まず、「天皇の宗教的権威は、イネの祭り新嘗祭に淵源している(p.1)」という。新嘗祭は古代から行われた稲の収穫祭であり、神に稲をささげるという役目を負った(別の面からいえば、ささげる権利を持った)のが天皇である。

新嘗祭は、古代においては11月下卯日(月に3回卯日があるときは中卯日)であった。これは、稲の収穫からは遅い。本書では、神嘗祭の方が先にあり、遅れて新嘗祭ができて、さらに冬至祭と複合したのではないかとしている。

新嘗祭の前日夜には天皇の鎮魂祭が行われる。これは宮中の綾綺殿(りょうきでん)で行われる、天皇の魂を神にする(霊力を高める)参列者のいない秘儀で、鎮魂祭の間は天皇は真床(まどこ:神聖な席)で追衾(おぶすま:神聖な寝具)をかぶって物忌みする。これは天孫ニニギの降臨の故事に基づくとされるが、実際にはこれを反映してニニギの神話がつくられたものとみられる。

新嘗祭は神嘉殿で行われる天皇の親祭(みずから行う祭)であり、天皇は他と違い純白の絹の装束を着て行う。その中心は、神饌の供進と直会(なおらい)である。

天皇の一代一回の新嘗祭が大嘗祭であるが、これは大極殿(平安時代以降は紫宸殿)の前庭に大嘗宮(悠紀殿・主基殿)が特別に建てられて行う。大嘗祭は天武天皇の時代から行われるようになったらしい。

ちなみに、皇位のしるしである三種の神器は、その由来がはっきりしない。それを語る神話は後世の作為であると見られる。伊勢神宮がもともと鏡を神体としていて、それから鏡が三種の神器のひとつとなった…というような流れが自然だが、実態は不明である。しかも、9世紀初頭には「本来の宝鏡、宝剣は天皇もとにはなく、皇位のしるしである鏡、剣は、宝鏡、宝剣の模造品であるという不自然な説明が定着(p.25)」した。ともかく、宮中の鏡は(模造品であれ)伊勢神宮の鏡と一体であるとされ、別殿にまつることとし、これを温明殿(うんめいでん)と呼び、また賢所(かしこどころ)、内侍所(ないしどころ)とも称した。

大嘗祭では、鏡と剣が用いられていたが、賢所の成立によって(?)、剣と玉を使うようになり(本書には理由が書いていない)、剣と玉はあわせて剣璽とされ、剣璽動座(天皇が一日以上の旅行をする際に剣璽を侍従が奉持する)も平安時代に始まったとされる。

ちなみにこの剣は、源平の争乱の壇ノ浦に安徳天皇とともに沈んでおり、後に伊勢神宮の神庫にあったものを代わりとした。宝剣の本体は熱田神宮に祀られているが、何人も見ることができない建前なので実態は不明。玉も古代以来宮中に伝わっているとされるが、それを納めた箱は天皇と言えども見ることができず実態は全くの不明である。

神祇制度は平安時代に完成を迎えたが、南北朝の動乱によって天皇の宗教的政治的権威は失墜し、皇室祭祀の多くが廃絶した。ただし、この南北朝動乱期に「三種の神器」の意義が強調されるなど、天皇制の理論化が起こっていることは面白い。

また興味深いことに、平安期から天皇・皇室の密教化が進んでいた。平安期には大内裏の中和院の西に「真言院」が設けられ、天皇のための御修法(みしほ)がさかんに行われた。承久の乱後には泉涌寺(真言宗)が皇室の菩提寺となり、天皇家の葬送は仏教式で行われた。さらに室町時代には、後土御門天皇が勅願随一の精舎として伏見に般舟(ばんじゅう)三昧院(天台宗)を開創し、禁裏道場として栄えた。

宮中には「お黒戸」と呼ばれる独立の建物が作られ、仏像を安置して歴代の天皇、皇后の位牌をまつった。このように、中・近世を通じて皇室は真言宗の檀家であり、天皇は仏式で葬られていた。

江戸時代には天皇は形式的なものとなって、叙任・叙位、元号の制定、作暦の3つの権限を持つにすぎず、これらも名目のみにとどまった。幕府は皇室を「禁中並公家諸法度」で統制したが、一方で門跡寺院の権威を認めるなど、天皇を頂点とした権威の仕組みを利用した。なお門跡は寺格化し、皇室が衰微した時期には、その付与は国師号の宣下などとともに有力な収入源となった。

また幕府は、皇室祭祀の再興を後押しした。新嘗祭は東山天皇の1688年に225年ぶりに復活(この時は吉田家で行った!)。1740年には天皇(桜町天皇)の親祭による旧儀にほぼ復したものの、幕府の意向で神今式は省かれたままであった。ちなみに大嘗祭は新嘗祭復興の前年1687年。これも1738年、桜町天皇のときにはほぼ旧儀に復興した。

明治維新が起こると、政府は祭政一致国家を志向し神仏分離を行った。また天皇と神道を密接化させ、追って宮中の神仏分離を行い、「お黒戸」を泉涌寺へ移築した。また社寺の土地を取り上げる社寺上知令では、泉涌寺と般舟院の土地も取り上げられて(皇室の墓域まで官収された!)、両寺はたちまち衰微した。

一方、新たに設けられた神祇官に八神殿が設けられ、八神、天神地祇、歴代皇霊が祭られたが、神祇省への格下げに伴って歴代皇霊については賢所に移され、追って「神殿」が建築されることとなった。さらに神祇省の八神殿も廃止され、八神・天神地祇も「神殿」へ遷されることとなったが、1873年に皇居が炎上したため赤坂離宮の仮皇居に遷された。新神殿=賢所・皇霊殿・神殿という宮中三殿ができたのは明治22年(1889)である。

宮中三殿の後ろには綾綺殿、少し離れて横に神嘉殿があり、賢所を最高の中央神殿として体系づけられた。「皇居内に、このような整った形式の神殿を設けることは、古代天皇制以来の伝統にはない近代天皇制国家の創案であり、天皇の祭祀の拡充強化に見合う新機軸であった(p.67)」。

明治政府は祭祀にも新機軸をもたらした。天皇親祭の13の祭祀のうち、(1)新嘗祭のみは古代の皇室祭祀を受け継いでいたが、他は新たに制定された(あるいはアレンジされた)祭祀だった(以下、便宜のために番号を付ける)。

そのうち、新嘗祭以外で古くからあるのは(2)神嘗祭である。これは元来、皇室ではなく伊勢神宮の重儀であるが、伊勢神宮を重視する明治政府の政策によって、明治4年(1871)に宮中でも遥拝と賢所神嘗祭が行われることとなった。これは神宮と天皇が一体であることを国民に示すためであった(明治12年には、祭日を一か月ずらして10月17日に改めた)。

(3)元始祭:天孫降臨を祝う祭り。明治3年(1870)正月3日に八神殿で行われたものを定例化し、明治5年(1872)から元始祭の名称を用いた。賢所・皇霊殿・神殿で親祭が行われるのは皇室祭祀の中で元始祭のみであり、新嘗祭に次ぐ重要な祭典である。

(4)紀元節祭:神武天皇の即位を祝う祭り。明治6年の太陽暦採用にあたって神武天皇紀元が制定され、明治6年1月29日が旧暦元日だったことから紀元節祭が行われ、その後、2月11日に再設定されたが日程の根拠は詳らかでない。紀元節祭は皇霊殿で天皇が親祭するものであったが、昭和3年(1928)からは賢所・皇霊殿・神殿の親祭に改められた。

(5)神武天皇祭:現天皇が神武天皇に大孝をのべる祭りで、明治3年の祭日だった3月11日は神武天皇の命日とされる。その後2回日程が変わり明治7年(1874)からは4月3日となった。朝昼夕の3回、皇霊殿で天皇が親祭した。

(6)春季皇霊祭、(7)春季神殿祭、(8)秋季皇霊祭、(9)秋季神殿祭:当初、新政府は歴代天皇の祥月命日全てで祭典(正辰祭)を行ったが、天皇以下の式年祭と併せてあまりに数が多いので、明治11年(1876)にこれを廃止して春季・秋季の皇霊祭にまとめた(皇霊殿で行う)。これは国民に定着していた春秋の彼岸を皇室祭祀に直結する狙いがあったものとみられる。また、これに合わせて従来春分・秋分に行われていた天神地祇の祭りも神殿でとりおこなったため、同日に皇霊祭と神殿祭の2つの祭典が開催されることとなった。

(10)孝明天皇祭:先帝である孝明天皇の命日(太陽暦1月30日)の祭り。皇霊殿で天皇が親祭した。

(11)先帝以前三代の式年祭、(12)先后の式年祭、(13)皇妣たる皇后の式年祭(これら3つは皇霊殿で行う)

このほか、建前としては天皇が行うことになっているが賞典職が天皇に代わって奉仕し、天皇は拝礼のみを行うものとして、祈年祭・賢所御神楽・天長節祭・明治節祭・節折(よおり)・大祓がある。

明治政府は、復古を建前としていたから、祭祀のみならず諸儀式についても一応は復興を企図してはいたが、古制を廃止して新たな方式としたものが散見される。例えば即位式は陰陽道に基づく大旌(だいせい:いろいろな幢(とう)と旛(ばん))を廃して真榊にするとか、中国風の礼服袞冕(こんべん)を廃止するといったものである(特に礼服は天皇以下全て新たに定めた)。

天皇の祭祀のうちで最も重要な大嘗祭も、明治4年(1871)には初めて東京で行い、その際に「簡素を旨として、名目だけの古制は廃する(p.115)」こととした。この大嘗祭は、古式に擬した新儀であった。

新政府は、追って様々なことを天皇中心に作り替えた。一代一元制の採用、また元号を天皇の諡号にするということは、天皇が時を支配する観念を植え付けた。民衆の間では、年は干支で数える風習があったが、これを太陽暦の採用とともに廃止し、元号のみに一本化した。

また、休日(祝祭日)についても、伝統的な五節句と八朔(8月1日)を廃止し、皇室祭祀や行事に基づくものに変更した。「祝祭日の体系的設定は、天皇の祭祀を原基とする現人神天皇の存在を、国民の生活のすみずみにまで浸透させる役割を果たした(p.127)」。日の丸や「君が代」の制定も、外交上の必要性があったとはいえ、国家意識を国民に植え付ける一助となった。

さらに本書では、神社の再編成(近代社格制度の制定)、神社祭式の統一的制定(明治8年の「神社祭式」、明治40年の「神社祭式行事作法」、大正3年の「官国幣社以下神社祭祀令」)、勅使の派遣と奉幣の制度などに触れ、皇室神道と神社神道を直結させたことを述べている。

それに続き、皇室典範と大日本帝国憲法により、皇室の位置づけが法的にも強固になり、また天皇が軍を統帥するという、歴史的に異例の役目が与えられた。これに著者は「軍人天皇」という用語を与えている。「明治維新以前の天皇の属性であった祭司王という基本的性格にかわって、現人神がその属性となった(p.151)」。こうして天皇は、政治大権、軍事大権、祭祀大権の3つを備えることとなった。このような超越的な天皇の存在を国民に植え付けるため、教育勅語、御真影が大きな役割を果たしたことはいうまでもない。

一方、祭祀大権については皇室典範にも憲法にも規定はなかった。これが制定されたのは明治40年(1908)の「皇室祭祀令」で、先の13の親祭がここに規定された。続いて「登極令」、「摂政令」、「立儲令」、「皇室成年式令」などが次々と定められて皇室の儀礼制度は体系的に整えられた。

これらは、日本の敗戦によって全面的に改められ、天皇は政治大権、軍事大権も失った。当然、祭祀大権も否定されたが、天皇の私事として祭祀は続けられた。法的には天皇の祭祀は国民とは無関係となったのだが、今でも天皇が「国家の祭祀」を担っているとの観念は国民の間に根強い。その上、日本政府も祭祀を国家的なものにすることに力を入れた。

例えば昭和34年(1959)、明仁皇太子(現上皇陛下)の立太子にあたって神道儀礼である「賢所大前の儀」は国事として行われた。また翌年には、内閣総理大臣池田勇人は、八咫鏡について「皇祖が皇孫にお授けになった」など、神話的由来を国家として認める答弁書を出している。皇室祭祀についても、前述の13の親祭のうち、廃止されたのは紀元節祭のみであり、他はほぼ旧「皇室祭祀令」等の規定通りに行われている。

また、新嘗祭等には総理大臣以下が「私人として」参列し、「神社、寺院への勅使の差遣や、大師号、国師号等の宣下も、天皇の私事という名目で、戦前と同様に行われている(p.217)」。これら「私人」や「天皇の私事」は建前に過ぎず、天皇は今でも祭司王であり、それを国家として承認していることは「いささかも疑う余地がない(同)」。天皇の祭祀王の性格は、今でも生きているのである。

本書は全体として、象徴天皇制の下での祭祀を問題にしているが、私自身の興味は、純粋に天皇の祭祀の全貌をつかむことにあった。特に下線を付けたように、その祭祀がどこで行われるのかに着目してみたところ、皇霊殿と賢所に中心があることは明らかである。これは天皇の祭祀がはっきりと祖先崇拝に組み替えられたことを意味する。天皇の祭祀は、本来は天照大神と八神(神話の最初に出てくる主要な8柱の神)、天神地祇を祀るものであった。それらの祭祀をとりおこなったのが神嘉殿だったのだが、維新後の神嘉殿は脇役的なものになってしまった。

また、古代の祭祀と近代のそれとの大きな違いは、天皇が親祭する祭祀が著しく増大したということである。古代祭祀において天皇が親祭したのは、新嘗祭と年に2回の神今食(じんこんしき、かみいまけ)の3つしかなく、国家は各地の大社に幣帛を班つという間接的な祭祀を中心としていた。古代の班幣の祭りは、月次祭、祈年祭、三枝祭、鎮花祭など数多く、特に月次祭は重要なものであった。

明治維新は復古を旗印にはしていたが、祭祀に限ってみても古代への回帰の要素は少なく、新たな祭祀体系の創始を志向していたことは明らかである。そしてその変更点は、第1に天皇親祭、第2に皇祖信仰、第3に仏教的要素の除去、という3点に集約できるだろう。

天皇の祭祀を詳しく紹介した良書。

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

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2024年10月13日日曜日

『「戦後」を読み直す—同時代史の試み』有馬 学 著

本の再読によって戦後を歴史化しようと試みた本。

著者は「同時代を歴史として語る形式を見つけたいと考えてきた」という。

自分が過ごしてきた時代は、「歴史」ではなく「経験」であり、それをいくら客観的な「歴史」として語ろうと思っても、なかなか難しい。そこで著者は「後世の研究者に、その時代の日本社会を描くならこれがいい史料になると教えたくなるような本(p.6)」を「読み直すことを通して、「戦後」を再考(同)」しようとした。

これには少し説明を要するだろう。そこで本書にこういう説明があるわけではないが、私が括弧付きで使う「歴史」についてちょっと補足したい(本書では歴史を括弧付きで使っていない)。

最近の若者言葉に「黒歴史」という言葉がある。自分の恥ずかしい過去や、振り返って考えると恥ずかしくなる自分の作品などを表すネットスラングである。例えば若い頃に書いた詩や小説がそれに当たる。この言葉に「歴史」が入っているのは、なかなか鋭い言語感覚だ。詩やマンガを書いたのは自分でも、それをある程度の距離から離れて見ると、ダメすぎて目も当てられない…ということは、自らの「経験」を客体化、すなわち「歴史」化しているからだ。このように、「歴史」は、現象を「ある程度の距離から離れて見る」という作業が必要なのだ。

つまり、「経験」をそのまま語るだけでは決して「歴史」にならない。仮に源頼朝が鎌倉幕府を開いた時の自叙伝を書いていたとしても、それは第一級の史料ではあるが、そのものは歴史書ではない、というのと同じである。

そして「ある程度の距離から離れて見る」ということは、「歴史」は必然的にナマの「経験」からは変質したものとなる。それはあたかも、モザイク画は近くから見ると幾枚かのピースが無造作に並んだものであるが、遠くから見れば一枚の絵になるのと似ている。

であれば、自らの「経験」を「歴史」として語るにはどうしたらいいのか。著者は若い頃に読んだ、時代を象徴する本を再読するという手法を考案した。再読してみれば、かつてとは違った印象が得られる。なぜ違った印象になるのか、それは、「ある程度の距離から離れて見る」からに他ならない。すなわち、「経験」は、時間をかけて自らの中で変質しており、わずかに「歴史」化しているのである。

このように、いくつかの本について再読した時の印象の差異を細かく考察することで、自分の中にある「歴史」を抽出しようと試みたのが本書なのである。

なお、以下のメモで「著者」と書くときは、(取り上げられた本の著者ではなく)常に有馬学を指す。

第1章では、その本として小学校5、6年の国語の教科書が取り上げられる。「ぼくらの村」や「T・V・Aの話」といった題材が取り上げられるが、その要点は「綴方(つづりかた)教育」にある。綴方教育とは、「日常生活のありのままを書く」という一種の作文指導法である。「ぼくらの村」などは、まさにその綴方教育運動の中心を担っていた人たちによるものだった。しかしこれらを今見直してみると、国土計画と身近な改革によって社会が進歩していくという「ありのままイデオロギー(p.41)」に過ぎないように見える。

「日常生活のありのままを書く」指導を受けた(はずの)個別的な「経験」が、振り返ってみればありのままを書くという要素は極めて希薄で、それどころか国語の授業なのにイデオロギーを吹聴するものに過ぎなかったことが明らかになる。このようにして著者は「歴史」を語るのである。

それにしても、著者の記憶力は異常である。小学5、6年の国語で何を習い、何を思ったか、そんなことは漠然として覚えていないのが普通だ。私の世代で言うと、かなり印象的な宮沢賢治の“クラムボン”ですら、元のタイトル「やまなし」を覚えている人は僅かだし、カニたちがどうなったか記憶している人はほとんどいない(私もそうだ)。なのに著者は国語の教科書がどんな文章であったかを相当の精度で記憶している。本の再読という手法は、この記憶力の良さがものを言っている(=普通の人には不可能)。

第2章で取り上げるのは、むのたけじ『たいまつ十六年』と山口瞳『江分利満(えふりまん)氏の優雅な生活』である。

著者は若い頃『たいまつ十六年』を読んで魂をゆさぶられる体験をしたが、再読してみれば「イライラすることも少なくなかった(p.52)」。「黒歴史」と一緒である。なぜイライラするのか、それを細かく検証していくことが、「経験」がどう「歴史」に変質したかを探る作業となる。

『たいまつ十六年』は、反骨のジャーナリストむのたけしの自叙伝である。彼は農村のリアルを描き、社会矛盾を糾弾した。そしてその現実を変えるために日本共産党に入党し、政治家にもなった。いわば彼は「正義漢」なのだ。しかし著者が『たいまつ十六年』を読み直すと、「民族」よ団結し「独立」を勝ち取れ、のような主張には、当時から共感はしていなかったものの強い違和感があった。その主張は、(そうとは本書には書いていないが、)戦中のスローガンを変奏したものに過ぎなかったからではないか。

『江分利満氏の優雅な生活』は、サラリーマンという存在を活写した本である。戦前生まれの江分利満氏は、昭和30年代の社会をサラリーマンとして生きる。「優雅な生活」は反語であるが、それでも、どんどん豊かになっていった時代であり、サラリーマンを悲哀に満ちた存在などとは全然書いていない。だがその背景には、「個人の努力で豊かになったのではなくて、それは時代の趨勢に過ぎなかった」として、個人の人生に対する悪戦苦闘が無効化される風潮に対するそこはかとない反発があったように思える。「だって時代がよかったんでしょ?」そう言われれば終わり……なのか?

ここで著者は、「高度経済成長」という大文字の「歴史」に、個人的な「経験」から微妙な修正を迫ろうとする。それは、「サラリーマン」が高度経済成長という波に乗った存在として「歴史」的に位置づけられることへの異議申し立てであるような気がする。

第3章では、『暮しの手帖』、特にその中の「ほくさんバスオール」という移動型簡易シャワー付お風呂と、アラジンの「ブルーフレーム」(ストーブ)の検証記事が取り上げられる。高度経済成長の中で、たくさんの商品が粗製濫造された。それらを評価し、買うべきもの・買わないべきものを見極める指針となったのが『暮しの手帖』である。

これを読み直すことで見えるのは、『暮しの手帖』は一見冷徹に商品を評価するようでありながら、「その商品で満足せざるを得ない層」への配慮が働いていた、ということだ。今見れば明らかなその配慮が、逆に昭和30〜40年代の「歴史」を物語っていた。

ところで、『暮しの手帖』の花森安治は、戦中にはプロパガンダ広告を手がけていた(大政翼賛会宣伝部)のは有名で、それはほとんど『暮しの手帖』のスタイルを予言している。それは「ぜいたくは敵だ」のような言い切りの短いスローガン型ではなく、読者に語りかけ、考えさせるコピーである。

本書の主張とは少し違うが、著者の語る『暮しの手帖』から、私は「消費社会」に向けた方向性を感じた。昭和30〜40年代に『暮しの手帖』を読んでいた家庭は、「賢い買い物」をしようとしていた。『暮しの手帖』は「賢い消費者」になるための雑誌だった。賢い消費者は粗悪品を買わず、無駄遣いをせず、暮らしを美しく整える。しかし「消費者」であることそのものに欲望(つまり無駄遣い)が内包されていたのではないか。

著者は「ブルーフレーム」を皆が欲しがったのは、暖房器具が欲しいという実利的な理由より、「青い炎が美しい」という情動の方が先立っていたのではないかという。いかに「賢い消費者」であっても、それは「消費者」であることから免れない。消費者は製品を「評価」する。そこに、生産と消費を分離する現代社会の溝がある。消費者は、商品を評価する側に立っていながら、あくまで受け手にすぎないのである。そして『暮しの手帖』が「消費者」を創り出したことは、皮肉なことに「高度経済成長」の先の「大量消費社会」を準備したように思われる。

第4章では、萩元晴彦ほか『お前はただの現在にすぎない—— テレビになにが可能か』と小林信彦『テレビの黄金時代』を取り上げ、テレビについて考察している。

ここで著者は、ラジオをどう聞いていたかとか、自分の家にテレビが来た日、のような回想をやや丁寧に述べている。もちろん本書は同時代史を語る試みなので、本章以外にも回想は多い。ところが本章では、「こんなことを並べていてもきりがない? その通りだろう(p.131)」とか、「どうでもいい話をくり返しているように思われるかもしれないが、私はこういった些末な事情も、いやそれこそが、メディア体験を構成する要素だと思っている(p.138)」と言い訳(?)しているのが面白い。

というのは、著者はそれらを個人的な「経験」にすぎないと思っているのだが、我々から見るとそれこそが「歴史」なのだ。つまり著者が「こんなこと」とか「どうでもいい話」と思っていることは、この場合には「源頼朝の自叙伝」みたいな一級史料なのである(と私には見える)。にもかかわらずなぜ著者は読者がそう見なさないと思っているのか。それは逆説的だが、著者にとってその時代がまさに「経験」であって、未だ「ある程度の距離から離れて見る」ことができていないからに思われる。こういう些末なエピソードこそ、「ある程度の距離から離れて見」なくては、「歴史」としての重要性がわからないのではないか。

『お前はただの現在にすぎない』は、テレビ放送が開始してからわずか10年ほどで、業界人がテレビの本質に迫りつつあったことを示し、また『テレビの黄金時代』は、その頃からたった10年でテレビの黄金時代が終焉したことを述べる。テレビの黄金時代は1961年〜71年(あまく見て73年)だという。

黄金時代が終わったとはどういうことなのか、本書からは詳らかでないが、要はテレビの前に釘付けになる時代が終わったということなのだろう。高度経済成長のお陰で、人々はテレビという虚構の世界に夢を見るだけでは飽き足らなくなり、現実の楽しみ(私は「レクリエーション」という言葉を使いたい)に興じるようになっていた。テレビは「夢」ではなく、「日常」を描く装置になっていく。

第5章では、関川夏央『ソウルの練習問題—— 異文化への透視ノート』と『別冊宝島39 朝鮮・韓国を知る本』を取り上げる。

まず告白すると、私は韓国について全く無知である。だから、本章については正直なところよく分からなかった。『ソウルの練習問題』は、関川夏央がイデオロギー抜きに、韓国の普通の街と普通の人と出会った記録である。この「イデオロギー抜き」というところが重要で、それまでは韓国を語る時に何らかのイデオロギーが必ず混入するものだったのである(←このことすら私は知らなかった)。

関川はそれを意識的に排除して、いわば「体当たりで」異文化に接する。こういう態度は当時として画期的だったという。人は、何らかの枠組みを持って社会を見ている。では「韓国を見る枠組み」を取っ払ったら何が見えるか。それが「練習問題」なのである。そして『朝鮮・韓国を知る本』も、『練習問題』と同時期に出された本で、似た態度で書かれている。

しかしその内容より、私には気になったことがある。それは例えば「この本のPART 1は「同世代の韓国人たち」である。しかし「同世代の(北)朝鮮人たち」という章はないのだ(「朝鮮・韓国を知る本」だよ!)(p.165)」とか、「私ははじめて目にしたとき、『練習問題』と並んで『知る本』を画期的な本だと思い、その出現に感動した。がっかりさせて申し訳ないが、事実だから仕方がない。そう、当時はこのくらいで感動できたのですよ(p.166)」といった書きぶりだ。

前者の「「朝鮮・韓国を知る本」だよ!」というツッコミや、「当時はこのくらいで感動できたのですよ」という言葉が示すのは何か? 著者はなぜ「今から見ればレベルが低くても、そんな時代だったんです」という時代の弁明をしているのか? 世代がずっと下の私なら「当時としては画期的だった」の一言で済ますようなことを、いちいち著者は「そんな時代だったんです」と付け加える。それはまさに、著者がその時代を生きた人で、その時代から「ある程度の距離から離れて見る」ことができず、いちいち弁明したくなってしまうからだと私は思う。面白いことに、本書は後半になるにつれ、この種のことが多くなる。著者は「経験」を「歴史」として語ろうとしながら、その時代を完全には客体化できないということなのか。

その意味するところはともかく、これは読んでいる方としては面白い。このようなことを付け加えたくなるのは、著者が紛れもなく同時代人であることを物語っているからだ。

第6章では、辻豊・土崎一『ロンドンー東京5万キロ—— 国産車ドライブ記』と徳大寺有恒『間違いだらけのクルマ選び』を取り上げる。

『間違いだらけのクルマ選び』は他の本とちょっと違う。それは単発の本ではなく、1976年からほぼ毎年刊行されたのだ。これでクルマを巡る価値観がどう変わったかを検証できる。その要点は、当初はオリジナリティも実用性もない(のに無駄な装飾は多い)と酷評されていた国産車だが、その刊行の終点あたり(80年代後半)には、オリジナリティはなくとも、安く完成度が高いものならばよい、と肯定的に変化したということである。そして徳大寺は「普通グルマ」という「車のことなど忘れていられる」というありふれた財としての車が理想のものだという評価へ落ちつくのである。

私には、その価値観は大きく変わったようには思わないが(というのは、実用性を第一に考えるという点で徳大寺は一貫している)、同時代を生きた著者はそこに微妙な差異を読み取る。それは、「昔の国産車は、ユーザーの要望に応じて無駄な装飾を付けていたわけで、そこにはユーザー側の責任も大きかった。今の車は、ユーザーの要望に応じて実用一点張りになっている。ユーザーの要望に応えるという意味では同じだが、今のユーザーの要望は健全になっている」というような、(製品ではなく)ユーザーへの評価の変化が伴っているとみるからだ。

要するに、資本主義・大量消費社会ではユーザーとメーカーには一種の共謀関係が成立するが、 それが成熟してくると悪くないところへ落ちつく、ということなのだろう。『間違いだらけのクルマ選び』は、ユーザーとメーカーとの共謀関係が、どう変化し落ちついていったかを、その共謀関係からは一歩引いたところにいた徳大寺が克明に記録した本だと言えるのである。

ところでここでも、著者の「時代の弁明」が私には面白い(←意地悪な読者である)。『ロンドンー東京5万キロ』は、朝日新聞の企画で国産車(トヨペット・クラウン)でロンドンから東京まで走破するドキュメントであるが、「連載の開始にあたって掲載された社告のような記事(一面だぜ!)(p.212)」は、「「辺地」だの「めずらしい風物」だの、営業部の筆になるとしてももう少し洗練された表現を望みたいというのは、こんにちの目である(同)」と著者は述べる。

前半、括弧内で「一面だぜ!」というのは、おどけてツッコミを入れているようであるが、反面では「こんな企画でも一面で取り上げられる時代だったんですよ」という照れ隠しだと見えなくもない。さらには「…のは、こんにちの目である」というが、 わざわざそんなことを言わなくても普通の乗用車でロンドンから東京まで走破する(しかも当時は今と比べものにならない悪路続きなのだ)というのは今から見ても十分にすごいし、表現に時代を感じるというのは当たり前ではなかろうか。

このように、同時代を生きた著者だからこそ、言葉の端々に「当時のことは割り引いて見なければならない」という(しばしば過剰な?)抑制を働かせている痕跡がある。これはやはり、その時代から「ある程度の距離から離れて見る」ことができていないことを示唆している。章が進むにつれ(すなわち時代が進むにつれ)、「歴史」を語ろうと努めていた著者は、いつのまにか「時代の弁明人」になっていくのである。このスタンスの微妙な変化は、私にとって極めて興味深い。

終章では、山田風太郎『戦中派不戦日記』・『滅失への青春——戦中派虫けら日記』を取り上げる。 

これらは、山田風太郎が戦後に刊行した、自身の戦中(および戦後直後)の日記である。本書(『「戦後」を読み直す』)は、「かつて私が読んだ本をかなりの時間を距てて再読することで、その間の時間的距離の測定を試み、それを通して私自身が生きた時代を歴史としてとらえ直すという、かなり面倒でひねくれたもの(p.231)」であるが、これらの本は、再読しても印象が変わらなかったという。

本書の方法論からは、再読した時の印象の差異によって「時代的距離の測定」を行うのであるが、本書の場合は「なぜ今になっても読後感が変わらないのか」ということを考えることで「歴史」を述べようとする。その答えがはっきり書いているわけではないが、それは山田風太郎が「等身大の日記」を残しているからではないだろうか。

「不戦日記」と銘打ってはいるが、山田風太郎は反戦派ではなかったし(かといって戦争翼賛でもない)、当時の若者が書く妙に立派な文章とも違って、だらしなくダメなのだ。数学の試験が空襲警報によって中止された時には「大東亜戦争は余のこの日のために勃発したるにあらずやと感涙にむせぶ(p.251)」とまで書いている。これぞ青春の身勝手さである(笑)。

こんな「等身大」さは、きっと時代を超越している。イデオロギーや消費の在り方や、メディアとの付き合い方や外国への向き合い方といったものは、時代につれて変わっていく。だが「等身大」の若者は、どんな時代でも似たようなものなのだ。著者はこういう風に『戦中派不戦日記』を読むわけではない。だが私にはそんな風に理解する方がしっくりくる。

ところで本章のキーワードの一つは「自註」である。中井英夫の戦中日記『彼方より』が、戦後に中井自身の註記を付して刊行されていることに触れ、「戦後の註記こそは、(中略)私たちがそれだけの時間を経て読むことに自覚的であるべきことを促すものである(p.255)」という。

中井はどんな註記を施しているかというと、例えば少年航空兵を軽蔑して「要は彼らにただ黙って死なせることだ」、などと嘯いている戦中の日記に対し、「このいい方は、いま書き写しながらも不愉快である。(中略)その彼をも職業軍人として見ていたのかと思うと、心の狭さが情けないが、ともかくもこのとき、私は軍人を憎むことにけんめいだったのである(p.254)」と自註した。中井にとって、この日記は「黒歴史」だったのかもしれない。それに自註を付して刊行したことは、中井の強靱な精神を窺わせる。中井は自らの「経験」を、自註を付すことで「歴史」にしたのだ。

本書は全体として、たいへん緻密である。著者は「経験」を掘り起こすとともに、取り上げる本が歴史的にどう位置づけられるか考究する。一方、私は、著者のその考察が、私の感覚とどう乖離しているかを見ることで著者の「戦後」を感じた。著者にとっては「戦後」は、自らの「経験」と相即不離にあるが、1982年生まれの私にとって「戦後」は最初から「歴史」なのだ。だから著者が語ろうとする「戦後」と私の中での「戦後」の差異を微細に測定すれば、「経験」が「歴史」に変わろうとする力学を感じ取ることができるはずだ。少なくとも理論的には。

その作業の一部が、著者の「時代の弁明」に注目することであった。もちろんこれは本書への向き合い方としてはひねくれている。

だが著者が自分で「かなり面倒でひねくれたもの」だと言うとおり、本書も一筋縄ではいかない本だ。正直にいって、著者が「再読」という方法論で描いた「歴史」とはなんなのか、私には読解できなかった。というのは、私には本書を読解するために必要な戦後史の知識が欠如しているのだ。

とはいえ大雑把にまとめれば、戦後の「歴史」とは、「高度経済成長に続いて大量消費社会が確立し、その背後に平和憲法と国際協調主義があった」というものだろう。一方で、個人の「経験」には、高度経済成長も大量消費社会もなく、平和憲法も国際協調主義もなかった、というのが本書の言いたいことの一つ(のごく一部)だ。しかし、それが「高度経済成長」や「大量消費社会」という「歴史」のキーワードを修正するものであるかというとそうではない。

モザイクのピース一つひとつには「高度経済成長」などはないのだが、モザイクを離れて見てみればやっぱり「高度経済成長」が見えるからだ。では本書は「戦後」を読み直して、何を見たのか。著者はそこに大上段の結論を持ち出さない。それはむしろ(本書の主張とは真逆だが)、自分が生きた時代を「歴史」にされること(歴史家としては「「歴史」にしなくてはならないこと」)への弁明であるのではないだろうか。

弁明という言葉が言い過ぎなら、それを著者に倣って「自註」と呼ぼう。著者は後半になるにつれて「時代の弁明人」になると書いたが、それは時代から「ある程度の距離から離れて見る」ことができないというよりも、「経験」に自註を付けることによってそれを「歴史」化しようとする、著者の苦闘の跡だったのかもしれない。中井英夫がそうだったように。

著者も「私たちは中井の自註に代わるものを自分で創るしかないのである(p.256)」という。 

本書は、戦後史の見方に大きな変更を迫るものではないが、同時代を生きたものとして、それにせめて自分なりの註を付けさせてくれという静かな要求をしている本なのかもしれない。その弁明・自註にこそ、私は「経験」のリアル、「歴史」のリアルを感じるのである。  

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