2025年3月31日月曜日

『三彜訓』柏原 祐泉 校注(『近世仏教の思想(日本思想大系57)』所収)

三教一致を主張する本。

『三彜訓』は浄土宗の僧侶、大我の書である。大我は京都石清水の正法寺22世住持。宝暦8年(1758)の序・跋があり京都・大坂・江戸で刊行された。原漢文。

まず冒頭の署名に目を引かれた。「日本 釈大我絶外 述」とあるのだ。ここに「日本」と記した意味は大きい。「日本」と記すということは、つまり国外に目を向けているということを示す。黒船以前に世界に意識が向いていたことの傍証である。その「世界」が中国とインドに限られているとしてもだ。そしてその中で、あえて「日本」を自負しているのである。ここにはナショナリズムが見え隠れしている。

 『三彜訓』の内容は、神仏儒の三教一致の思想を説くものである。

まずは儒教について。儒教の古典の該博な知識に基づき、中国の故実を援用した流麗な文章が続く。著者の学問は、明らかに儒学をベースとしている。その中に面白い表現がある。「我、方外に遊びて、織らず耕さず、飽煖乏しきことなし。残賊の甚だしき者にあらずや(=私は仏教界に入り、労働しないにもかかわらず贅沢をしている。ろくでもない人間ではないだろうか)」というのだ。こういう指摘がすでに社会からされていたのだろう。この自問に対して「以て国恩を報ぜんがために注するのみ(=だからこそ国の役に立つように書こう)」と自答しているのも注目される。「国恩」という言葉にも、仄かなナショナリズムがある。

そして大我は「道は仁義より大なることなし。仁義の道大なり。しかうして、その実、親に事へ兄に従ひ賢を喜び人を愛むより大なることなし」という。彼は儒教道徳を完全に承認する。ここには仏教的な出世間主義は全くない。出家して俗縁を切り、愛欲の妄執を離れることが理想だという考えは微塵もないのである。このように儒教を完全に肯定してから、大我は「噁、茂卿が狂なる(=まったく、荻生徂徠ときたら狂っている)」と激しい徂徠批判を展開する。いうまでもなく、荻生徂徠は古文辞学によって儒学の元来の姿を考究した大学者であり、また仏教の批判者でもあった。大我の徂徠批判の要諦は、「徂徠は論語読みの論語知らずだ」ということだ。「学問はすごいかもしれないが、その心は卑賎である」というようなことを縷々述べている。

そして、儒教と仏教が背馳するものではないことを『先代旧事本紀大成経』を引用して述べている。これは古代の書物であるとされていたが、実は潮音道海という僧侶が江戸時代に偽作したものであった。 『三彜訓』の時点ではまだ偽作が明らかでなかったのかもしれない(未調査)。そして、徂徠派の人たちは「ただ文辞の間にありて、以て儒術を学びたりとするのみなる者なり」という。このように徂徠批判は激しいが、それはあくまでも徂徠に対するものであり、儒教そのものへの批判は一切ない。それどころか大我は「先王の教、世に行われざるを見るに忍び難く、まさに力を尽くして以て儒教を主張せんと欲すること久し」という。本当に大我は僧侶なのか、と思ってしまう。

次に、話題は仏教に移る。儒教側からの批判の一つとして「釈家にもかくの如きの治国斉家の道ありや(=仏教でも儒教のような統治論・社会秩序論があるのか)」が取り上げられる。排仏論を主張する人はこういう批判をしていたのだろう。これに対し大我は、儒教では韓愈・欧陽脩・程兄弟・朱熹が排仏論を主張してきたが、彼らは仏教をよくわかっていなかったとする(ただし、朱熹は僧侶だったはずなので、大我の主張がどこまで歴史的事実に基づいているのかは要検討だ)。そして「華和の鄙儒、愈が瞽説を沿□(※衣遍に龍)す(=中国・日本のいやしい儒者が、韓愈のつまらない説を踏襲してきたせいだ)」という。

つまり、仏教に「治国斉家の道」がないというのは誤解で、それどころか仏教の側も「日として仁義忠孝を説かざることなし」と大我はいう。だから「なんぞ仏に天下を安んずるの道なしとは謂はんや」。私からすると、これはさすがに仏教を曲解しているのではと思う。仏教が国家や社会や家という世俗秩序を否定し、そこから離れることを勧めているのは事実だからだ。しかしそういうことは「販仏売法の巧言(=食うために仏法を売りものにする者の口先だけの言葉)」なのだという。結構過激な主張である。ともかく、仏教と儒教は、帰するところは一なのだ、というのが大我の主張だ。

であるが、仏教には儒教より優れた点があると大我はいう。それは儒教が人の生きるべき道を指し示すだけなのに対し、仏教では道から外れた者は地獄に落ちるとするから、より強制力があるというのである。仏法を信じるものは、悪事を行って地獄に落ちることを恐れ、心を恣(ほしいまま)にしないという。だから仏法が中国・日本に広まったのは当然だとしている。

こうして仏儒を国家的・通俗道徳的に評価してから「吾が神にも仏儒の如く天下を安んずるの道ありや」として次に神道の検討に移っている。ここで特徴的なのは、「天下を安んずるの道」という、国家的観点から評価しようとしているところである。大我の発想は、常に「国」を出発点とする。当時は個人の幸福とか、善悪といったような内面については大きな問題ではなかったという事情はあると思うが、それにしても大我はやや「国」よりの視点だと感じる。

さて、大我の神道への態度は、仏儒の場合とは大きく異なる。なんだか無条件に称揚する感じなのだ。大我は「吾れ神の遠孫を辱(かたじけな)うす(=私は神の遠い子孫なのを身に染みてありがたく思う)」と述べ、日本を「吾が神国」とし、「神皇先王を詆訶(ていか)する者は、靦然(てんぜん)として人面なりといへども、人にあらず(=神代からの歴代天皇をそしる人間はあつかましく、もはや人ではない)」とまで言い切っている。そして「もしただ異邦を褒して神国を貶すの心あらん者は、以て吾が神国に居すべからず(もし外国を褒めて、神国日本を貶すようなやつは、日本から出ていけ)」という、現在のSNSでいわれるような言辞を弄している。

そして日本を「百王不易の皇統、万代弗革の聖洲」と呼んで憚らない。これは明治後の日本の自意識とほとんど異ならないと思う。「万世一系、万古不易」の先駆けだ。これが宝暦年間に主張されていたとはびっくりである。本居宣長『古事記伝』もまだ刊行されていない頃だ。冒頭で感じた仄かなナショナリズムは、今やはっきりと主張される。そして当然だが大我には神話や古代日本の知識も豊富である。そして、『古事記』『日本書紀』『旧事本紀』などを研究した結果、「神の神宣、一言として治国斉家修身誠意の大訓にあらざるはなし」という。これはまた、神道の曲解に感じるのは私だけだろうか。神の言葉は、そんなに国家的・道徳的なものであったかと立ち止まってしまう。ちなみにこのあたりで、「荻生徂徠・太宰春台は神道をよく知らなかったのだ」と改めて批判されている。

このように、大我は神道>仏教>儒教の順に重きを置く。ただし一番位置づけが軽い儒教については該博な知識を持ち、理解も正統的なものであると思われるが、仏教はやや曲解されており、神道についても一面的な語り方になっている。そして大我の三教一致思想は、三教を融和させようという意識は薄く、儒教的な枠組みに仏教と神道をはめ込むものである。表面的には異なるように見える三教があるのは、仏神聖賢が人々を教化するために三国(印度・中国・日本)に現れたからだという。これは本地垂迹説と似ているが大我は垂迹と述べないのは注目される。ともかく「これを以て、三教、途を殊にすといへども、その帰、一なり」なのだ。にもかかわらず三教が対立しているのは平凡な人間は争いを好むからだという。

特に批判されるのはここでも儒者で、「鄙儒の妖言、毒を海内に流す。往往その毒を歠(の)みて、以て狂疾を発する者、都甸(とでん)に嗷(うれ)ふ(=いやしい儒者のあやしい言葉が害毒を世間に広めてきた。しばしばその害毒を啜って狂った者が都鄙でやかましく騒いでいる)」という。「海内に流す」のは徂徠派の一部の儒者だとしても、それを真に受けて騒いでいるのが「都甸」にいるというのは驚きである。ただし、これまでの言説でわかるとおり、大我は偏屈な変わり者であるという印象が強い。彼のいうことを額面通り受け取らない方がいいと思う。最後の署名は「孤立道人釈大我絶外」。「孤立道人」という雅号(?)には、周りに理解されなかった彼の孤独感が表明されているような気がする。

それでも、本書が三都で出版されたことは、彼の主張が相手にされないものではなかったことを物語る。問題は、誰が本書を読んだかである。本書は、これまでの引用でもわかるとおり結構難しい。和漢の故事が踏まえられ、難しい漢字が多い修辞的な文章は理解に骨が折れる。日本思想大系本ではたった25ページほどしかないが、私は読むのにかなり苦労してしまった。註がある読み下し文でもそれだから、原文ではもっと難しい。これを読めたのはおそらく儒者だけだろう。本書では儒者(特に徂徠派)が口を極めて批判されているが、本書を読めたのは儒者しかないとなれば、本書の主張する三教一致の意図するところは、「儒者は仏教や神道を批判するのを辞めろ」というものであるような気がする。だがそんな主張の本をわざわざ儒者たちが高いお金を払って読んだかどうか。本書がどう受容されたのかが気になった。

ナショナリズムが濃厚で僧侶が神道を持ち上げる三教一致論。

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2025年3月27日木曜日

『呪術と占星の戦国史』小和田 哲男 著

戦国時代における呪術について述べた本。

本書は「戦国期の古文書、古記録に散見される呪術や占星にかかわる記述を通して、従来描かれている戦国史とは違うものを書けないだろうか(p.10)」との思いで書かれたものである。

戦国時代といえば、血で血を洗う闘争の時代であり、呪術のような実効性のあやしいことをやっている暇はなかったのではないかと思いがちだ。ところが戦国武将たちは、日の吉凶で進軍を決めたり、呪術による敵の調伏を行ったり、鬮(くじ)で戦術を決めたりしていた。そんなことをしていれば合理的な思考を持った敵にやっつけられてしまうのではないかと思うが、ことはそう簡単ではない、と著者は主張する。

武田氏の史料である『甲陽軍鑑』には「弓矢はみなまほうにて候」との言葉があるが、この時代、呪術(魔法)と現実の武力には境目がなかったのである。

戦国武将の甲冑には仏教の法具などがあしらわれたものがある。島津貴久の兜には三鈷杵が、森蘭丸の前立てには「南無阿弥陀仏」が用いられていた。北条早雲の家訓の第一条は「仏神を信し申へき事」である。軍幟にも「南無〇〇、〇〇大菩薩云々」と掲げられていた。本来、殺し合いや争いとは最も遠いところにあるはずの仏教が、奇妙なことに戦の最前線に駆り出されていた。

戦国武将たちが戦にあたって頼ったのは、毘沙門天、摩利支天、勝軍地蔵、妙見菩薩そして別格なのが八幡大菩薩である。特に毘沙門天、摩利支天、勝軍地蔵などは、それぞれ修法があり、修験山伏が、あるいは武将本人がそれを行っていた(例えば細川政元)。本書では強調されていないが、これらの修法を僧侶ではなく、修験などが行っているのが重要である。そして、そうしたものとは別に、戦場での加護、あるいは万一死去した場合に備えて「陣仏(じんぼとけ)」というものを携行することも多く行われた。兜の中に兜仏をしのばせることが一般的だったが、わざわざ従軍者に「陣仏」を背負わせていたこともあるようだ。

現在でも神仏に勝利を祈願することは多いが、戦国武将も当然のように祈願を行っている。ただしそのやり方は現在とは異なり、「この戦に勝利をしたら〇〇を寄進します」とか「占いの結果、勝利と出たのでよろしくお願いします」というような祈願が多い。つまり、いわゆる「神頼み」的ではなく、仏神を説得・納得させるような部分があるのが面白い。そしてこうした祈願は精神的なものではなく、寺社に関係ある山伏が具体的に動く場合もあった。「戦勝祈願を受けた側が、何らかの形で動いたことがあったことは事実と見てよい(p.43)」。神官が山伏を遣わすというのがどういう関係なのかわからないが、寺社への祈願は、寺社や山伏を味方につけるという意味もあったようだ。

なお合戦前に連歌会を開き、その連歌を神前に奉納することで戦いに勝つという信仰もあった。これは神を喜ばすことで加護を期待したものだろう。

戦国武将の側近くには、軍配者(軍敗者とも書く)といわれる軍師がいた。彼は呪術的軍師であり、占筮(=易・占)を行って戦術を決めていたのである。中には陰陽師を軍師として召し抱える武将もいた。戦国時代になっても、物忌みや方違えのような陰陽道の迷信は根強かったし、星や暦は戦の日程を決めるのに重要だった。「こうした「天文」や周易の研究教育センターの役割を果たしていたのが下野の足利学校(p.51)」である。

足利学校の卒業生だけでなく、山伏、博士(陰陽道)が戦の日取りを決めるための占いを担当していた。それは家来とは限らず、現地人であるケースもあったようだ。前田利家はある戦で「上手のはかせ(=陰陽師)」がいるからと現地人に日取り・時取りを行わせている。攻撃の日程のような最重要のことを、家来でもない現地人に決めさせるとはびっくりである。これは軍記物の記述であるので事実でない可能性があるが、古文書に登場するのが上杉景勝お抱えの呪術者、清源寺是鑑(ぜかん)である。彼は越後国安国寺の住持だった。彼が合戦の日時・吉凶を占っていたことは確かである。修験でも陰陽師でもない、れっきとした禅宗の僧侶が占いをやっていることは注目される。

大友宗麟の軍配者には角隈石宗(つのくま・せきそう)という者がいた。彼の出自は不明だが、受領名を持っていたことと出家していたことは確かで、足利学校の卒業生だった可能性がある。 また武田信玄の軍配者・駒井高白斎は毎日日記をつけているが、それは雲の観察記録といってよいものがかなりの比重を占めている。軍配者が天気予報を行っていた可能性は高い。武田信玄の下にいた山本勘介入道は「気の立ち方」を見ていた。これなどは呪術でもあると同時に観天望気でもあるようだ。

ところで、呪術者Aが吉日だといい、呪術者Bが悪日だと言っていることもあっただろう。また、呪術者が悪日だといっているその日が、戦略的に最適な進発の日だということもあるだろう。そんなわけで、武将は必ずしも呪術者の言いなりだったわけではない。例えば秀吉は、「真言の護摩堂の僧」が「8日の出陣をとりやめた方がいい」と言ってきたのを、理由をつけて「そうであるならかえって吉日である」といって進軍した。また扇は悪日を吉日に転換させるためのアイテムだったらしい。しかし軍配者は城攻めの時に城からの炊煙を見て攻めるタイミングを見たり、天気予報をするなど、必ずしも呪術的観点しかなかったわけではない。また「敵・味方ともに共通する悪日は、一種の休戦日としての意味も持っていた(p.72)」ようだ。

また、出陣におみくじを使うこともよく行われていた。特に島津氏ではおみくじが活用された。意見が割れた場合などは、大事な軍事行動であればこそ最終的な判断を神意に委ねていた。なお、このおみくじは神前での厳粛な御鬮であったが、戦場での先発・後発を決めるなどでは普通の意味でのくじもあったようである。

戦では、五行思想も無視し得なかった。例えば大将が木姓の人は、十干の庚および辛の日に出陣しない方がよい、といったものである。占星術も兵法の一種として受け取られていた。上杉謙信は彗星の出現を見て、その吉凶を軍配者に占わせている。この時は北条氏にとって凶であるとされ、小田原へ攻め入った。一方、誕生日による占星術は、戦国時代にはあまり一般的でないようだ。

敵の調伏祈祷をリードしたのも軍配者であった。応仁の乱の時、東軍の細川勝元は「五壇法」を行わせているが、この時は青蓮院・妙法院・三宝院・聖護院、それに南都の門跡の僧たちが動員されていた。これはかなり大規模な祈祷である。毛利元就と尼子晴久・義久の戦いでは、双方が様々な修法を行っていたとされる(ただし、軍記物にはあるが古文書で裏付けることはできない)。 

呪術とはいえないが、戦場では小さなことでも「奇瑞」を見出し、兵士を鼓舞することが行われた。例えば「鳩が敵陣へと飛んでいった。だから我が軍の勝ちだ」というようなものだ。軍記物にはそうしたエピソードが多く出てくる。それらが史実かどうかはともかく、実際に大将は戦意高揚を図るため、「この戦いは勝てる」という暗示を行ったことは事実であろう。そういうものの極端な例は「夢」である。「こういう夢を見た」といえば、それが嘘でも誰にも見抜けないわけで、まことに都合がよい。ただ、当時の人は夢に神秘的な意味を見出していたので、舌先三寸でデタラメを言っていたのではなく、「こういう夢を見たがこれは吉兆か凶兆か」と占っていたりする。夢が真面目に受け取られていたからこそ、暗示にも活用されたのだ。

そして、縁起かつぎや禁忌といったもの、今なら「ジンクス」というようなものも、戦国時代には大量にあった。北を忌むとか、四という文字を忌むといったようなものもあるし、「疵がうずいたら自分の小便を飲め」とか「川を渡るとき水を飲み過ぎたら尻の穴に石灰を押し込め」というような無茶なものもある。また、旗の竿がどこで折れたかで吉凶を判断し、(ほとんど吉となるようになっていたため)旗がここで折れたから勝ち戦、などと言っていた。

戦いは単に力と力のぶつかり合いではなく、メンタルな部分が大事であるため、各種の儀式もあった。今なら「ルーティーン」というようなものである。例えば三献の儀式というものは、出陣の前に打鮑・勝栗・昆布を肴に酒を飲むものである。そこに意味を見出していたことも間違いはないが、それより、戦の前にそれをやるというルーティーンによって気持ちを入れていたのだろう。秀吉は3月1日に出陣するのがお決まりで、島津氏は雨の日を出陣に好んだ(島津雨)。こういうものは「ジンクス」であり「ルーティーン」でもあったのだろう。

一方、戦が終わった後の処理も重要だった。戦では数千人の死者が出ることも少なくなかったから、そのままでは大量の怨霊が生じてしまう。処理の第一は「勝鬨(かちどき)」を上げることだった。勝鬨は、「えいえいおう」のようなものではなく、一種の呪術だったらしい。はっきりとは分からないが、死体の弔いや処分と鬨の声がセットになったようなものであり「どことなく「怨霊封じ」の儀式(p.153)」なのだ。首実検も、死体に敬意を払い、運び方・据え付け方・捨て方にも作法があった。島津氏の家臣上井覚兼の日記には、首実検のやり方が細かく記されているが、それを読むと怨霊となることを防ぐ意味合いが看取される。

さらに「首供養」も行われた。これは「ちゃんと弔えば祟らない」という観念があったために行われたものだろう。戦没者をまとめてではなく、33の首毎に首供養を行ったという記録がある。また首を集めた首塚も作られた。今も残る首塚や戦人塚・千人塚は戦死者を埋めた墓であることが多い。また武将によっては供養のために寺を建てている場合もある(徳川家康は武田勝頼の戦没地に景徳院という寺をつくっている)。また島津義久は、耳川の戦いにおける大友軍の戦死者の七回忌のために大施餓鬼会を行っている。戦国武将の施餓鬼会は、その後の盆行事の展開にも影響を与えている可能性は大きい。

そして戦場での自らの死去に備えては、陣僧を従軍させた。貴顕の人だけでなく、かなりの陣僧が従軍したようで、誇張もあるようだが、フロイスによれば武田軍には600人の陣僧がいたという。

築城にあたっては、やはり吉凶を気にしたし、また城内に鎮守を勧請することが行われた。石垣に意図的に石塔を転用した石を使っているらしいのも、なんらかの呪的な意味が込められていたかもしれない。また、切り出して運んだにもかかわらず城の石垣などに使わずに放置された残念石と呼ばれる石があるが、これは運んでいる途中に落ちてしまったからという。落城はあってはならないから、「一度でも落ちた石は城には使わない」というタブーがあったようだ。ちょっと気にしすぎな感じはするが、当時の人にとっては大きな意味があったのである。

さらに本書では、呪符・護符の木簡についても紹介されるが、これについては詳細は割愛する。

本書を読むうえでの私自身の興味は2つあった。第1に、当時の仏教は呪術に対してどのように関与していたのかということ、第2に、戦没者(特に敗者)の弔いはどうしていたのかということである。

第1の点に関しては、やはり呪術の中心は修験道や陰陽道であって、普通の仏教の存在感はそれほど大きくない。だが清源寺是鑑のように、仏教寺院の住持でありながら占いを行っているものもいる。足利学校の卒業生(おそらく多くが禅僧)も軍配者として活躍したことを考えると、鎌倉仏教の諸派において呪術や占いは教義的に位置づけられなかったものの、僧侶個人で見るとそうした活動に従事したものは少なくなかったと見られる。一方、真言宗や天台宗では修法を行っていたであろうが、軍配者のようなフリーランスの立場での活動とは違ったのかもしれない。

第2の点に関しては、本書では1章が割かれているものの、あまり深入りしていない印象である。例えば室町幕府は成立にあたって安国寺と利生塔を全国に設置したのであるが、これについて本書が述べるところはない。施餓鬼会についても説明は簡略である。ただ、これは本書の中心的主題とは少しずれるのでやむを得ないところであろう。

なお、本書は全体として軍記物が出典に多用されているため、史実であるか慎重にならなければならない部分が多く、著者もそれについてたびたび触れている。そのうちいくばくかは、後世の脚色なのだろう。ただ、戦の勝敗はメンタル面がモノを言うことは事実で、吉凶やジンクスを武将たちがかなり気にしていたのは間違いない。修法に頼ったのもおそらく事実だろう。それは、迷信に捉われていたという面が半分だが、吉凶や占いをうまく使って兵士たちを鼓舞していたという面も半分ある。無神論的、合理的な織田信長でさえ、こうした面はそれなりに持っていたのである。筋金入りの合理主義者や科学的な思考の人物が武将であったからといって、兵士たちが命を捨てるかどうかは別問題である。神仏を崇敬する人物が武将であった方が兵士がついていった可能性は大きい。このあたりは想像してみると面白い。

戦国時代の武将たちのメンタル面を呪術から窺う独特な視点の本。

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2025年3月26日水曜日

『呪いと日本人』小松 和彦 著

日本人にとっての呪いの本質を考察する本。

本書は光文社のカッパ・サイエンスの一冊であったものの文庫化である。学術的な著作ではないので非常に読みやすいが、著者自身の研究に基づいたものであり、それまでにほとんど史学面での研究がなかった呪詛を日本史に位置づけるという意欲作である。

著者はまず丑の刻参りは現代でも行われていることを指摘し、科学的・合理的思考が広まっている現代でも「呪い」はなくなっていないという。

呪いは、「呪い心」「呪いのパフォーマンス」、「呪われる側の心情」で成り立つ(著者の用語を改変)。「呪い心」は明らかだろう。誰かを憎らしく思い、しかも実力行使では相手をどうにもできない時に人は呪いに頼る。そこに、例えば丑の刻参りのような「呪いのパフォーマンス」が行われることで呪いが成立する。ここで面白いのは、呪われる人が「呪い心」や「呪いのパフォーマンス」を知らなくても呪いは成立するということだ。というか丑の刻参りは誰にも見られてはならないとされている。つまり「呪われる側の心情」だけでも呪いは成り立つ。「最近調子が悪いが、もしかしたら誰かが呪っているのではないか」そう思っただけでも呪いは成り立つ。そして「祟り」など、死者からの呪いは、「呪い心」を持つ人間も「呪いのパフォーマンス」も不在なのに成立している。このように、呪いは一方通行なのだ。

著者が呪いについて研究するようになったきっかけは、高知県香美郡物部村(ものべむら)に伝わる「いざなぎ流」という民間信仰を知ったためである。著者はもともと、この村に人類学的調査をするために入った。そこには太夫(たゆう)という宗教者がおり、様々な祭祀・祭儀を行っていた。この不思議な民間信仰について著者は『憑霊信仰論』にまとめ、これが「いざなぎ流」研究の出発点になった。なお私は同書を20代の時に読んでいるが、今ではすっかり内容を忘れてしまった。

いざなぎ流では、医学ではなかなかよくならない病気や度重なる不幸の原因に「すそ」というものがあると考える。「すそ」は「呪詛」であり、「社会秩序や自然秩序のゆがみから生じた、人々に害をもたらす「ケガレ」(p.28)」であると著者は考える。では「すそ」は何で起こるか。面白いのが、「すそ」は「呪い心」によって本人の知らない間に生霊が発動することもあることだ。また物部村では「犬神統」といった動物霊を祀る家があり、その家の者は知らないうちに「呪い心」から動物霊が発令して「すそ」を生じることもあると考えられている。なお動物霊は血筋によって受け継がれるもので、その家筋は差別されていたという。太夫は、さまざまな事情で生じた、不調の原因である「すそ」を占いによって特定し、「みてぐら」と呼ばれる人形(ひとがた)に移して、村はずれなどに送り出して解決するのである。

これまでの説明でわかる通り、これらの呪いはいずれも「呪われる側の心情」のみで成り立っている。太夫はいざとなれば「呪いのパフォーマンス」も行うとされているが、現代ではこれはほとんど行われず、呪いを解除することが中心だ。いざなぎ流は呪いの解除を中心とする民間信仰なのである。

そして、いざなぎ流の中核には陰陽道的な知識がある。特徴的なのは、「すそ」を祓うためなどに行う祭儀の中心に法文という呪文があることだ。そのいくつかが紹介されているが、おどろおどろしい土俗的な言葉遣いが興味深い。さらにいざなぎ流の起源神話「祭文」というものも面白い。その起源神話では、いざなぎ流は「日本から天竺にやってきた天中姫によって日本に伝えられた(p.57)」ものだとされている。また「呪詛(すそ)の祭文」というものは呪いの物語であるが、「唐土(とうど)じょもん」なるものが登場する荒唐無稽・珍奇な話である。ともかく、いざなぎ流では、術者が修行するとかではなく、法文・祭文というテキストの方が中心になっている。

著者はさらに、日本史における呪いの事例をいくつか述べている。まずは長屋王の呪詛事件と称徳女帝への厭魅などだ。「こうした呪詛事件のほとんどがでっち上げだったらしい(p.82)」。これらの呪い担当したのは呪禁師(じゅごんし)という、中国由来の「呪いのスペシャリスト」だった。

平安期になると、死者の呪い(怨霊の祟り)が大きな問題になる。生きている人間が呪っているならそれを実力行使で止めればよいが、死者の呪いは対処のしようがない。 そこで呪いを除去する特別な方法が考案されていくのである。また9世紀頃には、怨霊は恨みの対象の人間だけでなく、社会全体に災厄を及ぼすと考えられるようになった。これが「御霊信仰」である。御霊信仰では、怨霊を神として祀り上げて災厄を停止させようとした。中世には、怨念すなわち「呪い心」をやわらげなごませ、神に祀り上げて昇華するというセオリーが確立したが、これは能の筋書きに濃厚である。

そこからいっきに時代が飛んで明治時代の話になる。明治天皇は崇徳上皇の怨霊を宥める宣命を読んでいるが、これは中世初期から続けられてきた怨霊宥めの一環であった。文明開化が強調されがちな明治維新にあって、怨霊対策も行われていたとは面白い。

ところで、「呪いのテクノロジー」は、①呪禁道(奈良時代)、②陰陽道、③密教とそのバリエーションである修験道、の3つに大別することができる。その手法として、①=蠱毒、厭魅、②=式神、③=さまざまな調伏法などがある。特に「密教各派とも天皇や貴族に取り入る方法として、難解な教義を説くよりも、病気治しや延命法、怨敵調伏など、さまざまな修法(ずほう)による呪的効果をアピールするという「戦略」をとったために、修法の開発競争に拍車がかかった(p.148)」のである。狐を操る「荼枳尼天(だきにてん)法」・「飯綱の法」も有名である。

そして江戸時代には、陰陽師や密教僧に頼らずに、自ら寺社に打ち込む「丑の刻参り」が定式化する。面白いのは、釘を神木に打ち込んだ後に「黒い大きな牛が寝そべっている。それを怖れることなく乗り越えて帰ると、みごと呪いが成就する(p.170)」と考えられていたことだ。そんなに都合よく黒牛が寝ているものだろうか。なかなか丑の刻参りも成就は難しそうである。なお、この丑の刻参りは、陰陽道の影響が大きいと思われる。 

最後の1章は、呪いを払う方法の背景にある思想を分析している。それを単純化していえば、人々の「悪」が「ケガレ」と観念され、それが実体化したのが「呪い」であり、さらに具象化したのが「鬼」であるということだ。よって責任が重いものほど「ケガレ」=罪が積み重なる。特に天皇は社会のケガレを一身に受ける存在であるためにそのケガレを祓うには細心の注意を要した。そしてケガレを実体化した「鬼」を払うことが分かりやすいパフォーマンスであったために、鬼がどんどん具象化したのである。近世では被差別賤民が鬼役を演じさせられた。疫病が流行ったとき、「町によっては「賤民」をやとって風の神に見立て、橋の上から突き落としたりした。これも「ケガレ」を引き受ける鬼の役を人間に演じさせた一例(p.210)」である。

つまり、ケガレを払うことは、一種のガス抜きでありスケープゴートであった。為政者にとってはまことに都合のよい理屈で、自らの行いを改めることなく罪が剪除されることとなった。中世では神仏までもケガレを引き受けさせられ、追放させられた。なんとも身勝手な話である。しかし一方から見れば、それは為政者・権力者の責任をケガレとして顕在化させ、ガス抜きとはいえなんらかの対処を求めるものではあった。それは一般民衆における呪いでも同様である。丑の刻参りは、実力行使ではどうしようもない相手へ働きかける数少ない手段であった。では、科学・合理的思考が呪術・儀礼・祭祀を無用なものとして追いやってしまった現代で、例えば丑の刻参りが果たしていたものはどうなったのだろうか。

実力行使ではどうしようもない相手へ働きかける手段はあるのだろうか? 著者は、そういうものは現代ではなくなってしまい、呪いの代わりになるようなものを現代人は見つけられていないと述べる。それは決して「現代でも呪いを活かそう」というのではないが、呪いが果たしていたものは決して不必要なものではなかったということなのである。 

本書は全体として、簡潔ながら日本文化・日本史における呪いの社会的機能について考察するものになっている。つまり史学というよりは文化人類学的な視点の著作である。呪いの概論として有用であるが、ちょっと足りないと思ったのが幽霊についてである。江戸時代には幽霊が大流行するのだが、本書は幽霊についてはほとんど触れていない。著者が幽霊について本格的に研究するようになったのは本書の後のようである。また、ケガレと呪いの接続については、やや図式的・観念的に感じた。

日本における呪いの概論。

【関連書籍の読書メモ】
 『陰陽道の神々 決定版』斎藤 英喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/03/blog-post.html
陰陽道を呪術的な側面を中心に語る本。陰陽道の神々を題材にして、陰陽道への見方そのものに再考を迫る良書。

『神と仏—民俗宗教の諸相—(日本民俗文化体系4)』宮田 登 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/4.html
神と仏をめぐる民俗文化の考察。「第6章 魔と妖怪」(小松和彦)では、柳田国男以来の妖怪の概念を再検討し、「魔」と「妖怪」について述べている。

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2025年3月23日日曜日

『陰陽道の神々 決定版』斎藤 英喜 著

陰陽道を呪術的な側面を中心に語る本。

陰陽道について先駆的な研究をした村上修一は、祇園社に祀られる牛頭天王を陰陽道の神だと述べたが、私はなぜ牛頭天王が陰陽道の神なのかずっと疑問に思っていた。そこで手に取ったのが本書である。

※以下の章題では、副題は割愛した。

「序章 陰陽道と安倍晴明の基礎知識」では、陰陽道が概説される。

陰陽道は平安時代に日本で生まれた「信仰、祭祀、呪術の体系(p.20)」である。陰陽道は元来「陰陽寮」に所属する役人(陰陽師)が担ったものであるが、有名な安倍晴明は陰陽寮を退官した後に活躍している。官職ではなく、陰陽師が個人の資質で活動するようになったことは陰陽道の確立に重要なことだった。晴明から5代後の安倍泰親(やすちか)は晴明を顕彰し、陰陽道の家としての安倍家を盛り立てた。室町時代には安倍家は土御門家という貴族になり、江戸時代には陰陽道の元締め(土御門家の許状を得ないと陰陽師になれない)となった。なお安倍家と並ぶ陰陽道の家・賀茂家は勘解由小路家となっている。

「第1章 追われる鬼、使役される神」では、陰陽師が使役する神を述べる。

陰陽師は鬼を退散させることができた。しかしそれは鬼を退治するというより、鬼を祀る・饗応することで本来いるべき場所へ移動させるという性格が強い。面白いのは、鬼を払う「方相氏」という神が、いつのまにか払うべき鬼として扱われるようになったことだ。方相氏は4つ目がある異形の神であるが、鬼を払ってくれる方相氏も祀られ饗応されるため、それが混同されるようになったらしい。

そして陰陽道の神といえば「式神」だが、これは当時の記録にはほとんど出てこない(2例あるのみ!)。一方、当時ポピュラーだったのは「護法童子」である。験者(げんざ)は護法童子を使役して物の怪に取りつかれた人の体内から鬼などを追い出す。この護法童子は経典の力が具現化されたもので、低位の鬼神などではない。

ところで、陰陽師の占いに「式占(しきうら)」というものがある。これは、天体の秩序を象徴する「式盤」というものに、様々な神(貴人・天后・大陰・玄武…)を召喚して占いをするものである。式神とは、元々はこの神々だったのではないか。これが護法童子と習合して後世にイメージが膨らんだのが式神であるらしい。

「第2章 冥府と現世を支配する神」では、陰陽道を象徴する泰山府君について述べる。

安倍晴明が祀り始めた神に「泰山府君」がある。泰山府君は中国の道教の「東岳泰山」の信仰に基づく、人間の寿命を管理するとされた神で、配下に司命・司禄がいる。彼の管理する寿命が記録された帳簿(死籍)を書き換えてもらうことで延命を願ったのが泰山府君祭である。なおその際に書き換えを依頼する手紙を「都状」という。一方、密教でも延命は願われたが、その本尊は焔魔天(≠閻魔)であり、その修法が「焔魔天供」であった。こちらでも泰山府君は登場するものの、焔魔天の眷属の一人としてである。この道教と密教のそれぞれの泰山府君がミックスして形成されたのが日本の泰山府君信仰である。

安倍晴明が泰山府君祭を創案したのは老齢になってからである(当然陰陽寮とは何の関係もない)。晴明がひとりの宗教者として泰山府君祭を行うようになったことで、「あらたな「宗教」としての力(p.93)」を陰陽道が持ち始め、陰陽道は密教と浄土教と並ぶ「第三の新興勢力(p.94)」となっていった。

泰山府君祭は、異界の役所である「泰山府」の役人へ死籍を書き換えるよう依頼するものであるから、都状はあたかも役所へ書類を提出するかのような体裁を持ち、多くの神々を祀った。さらに都状では、北斗七星への依頼も行われている。北斗七星が人間の運命を掌るという占星術的な思想が組み合わさったのである。こうして11世紀初頭には貴族たちの間に泰山府君祭の信仰が広がった。

さらに泰山府君祭は、昇進を祈願するものとしても行われるようになった。泰山府君は人間の運命を掌り、「天地の理」そのものを表象するものとして認識されたのである。安倍泰親は九条兼実のために本命日(生まれ年の干支と同じ日)には定例として泰山府君祭を行っている。

鎌倉時代には、これに密教占星術の「宿曜道」がプラスされ、「密教・禅・陰陽道・宿曜道が連結した、あらたな祈祷システム(p.105)」が出来上がっていった。陰陽師は幕府に重用され、「御簡衆(おふだしゅう)」という幕府を構成する一員になっている。陰陽道が幕府権力の維持装置になっていくと、それまでの泰山府君祭では十分ではなくなったのか、修法がインフレし始め多様な祭祀が考案実行された。そして行われるようになったのが「天曽地府祭」である。天曽・地府・北帝大王・五道大王・泰山府君など陰陽道系の諸神を総動員して延命除災などを祈願するものである。天曽地府祭ではもはや泰山府君は絶対的な神格ではなくなっている。

室町時代になると、先述の通り土御門家・勘解由小路家が確立するとともに、陰陽道祭祀は圧倒的に種類が減少し、「泰山府君祭」「天曽地府祭」「三万六千神祭」に整理された。これは権力と結びつくことで祭祀が形骸化したためと考えられる。そして、これらの祭祀で祀られる大勢の神々は、「はたして個別的な「神」としての来歴や働きとして祀られているのか、ただ単に名前だけが羅列されているにすぎないのではないか(p.110)」と考えられる。つまり陰陽道の神々は、観念上の存在になっていったのである。

「第3章 牛頭天王、来臨す」では、牛頭天王について述べる。

牛頭天王といえば、京都の祇園社の祭神である。あの豪壮な山鉾が繰り出す祇園祭の本当の中心は、祇園社から3基の神輿が繰り出され、「お旅所」に留まって再び神社に帰ってくる神幸祭・還幸祭にある。山鉾は、神輿の通り道をお祓いしているのである。この3基の神輿で渡御するのが、素戔嗚尊・稲田姫・八柱御子神(やはしらのみこがみ)である。このうちスサノオは、明治以前には牛頭天王であった(明治時代の神仏分離によって牛頭天王からスサノオに祭神が替えられた)。

では牛頭天王とはどんな神か。インドで釈迦が修行した祇園精舎の守護神であったということになっているが、牛頭天王はインド由来の神ではないどころか、来歴がよくわからない。史料に現れるのは11世紀あたりからで、「「祇園天神」という天神信仰に関わる神格が、祇園御霊会の展開のなかで、いつからか「牛頭天王」と同一視されるようになったと考えられ(p.121)」る。祇園社では、八王子・蛇毒気神・大将軍など仏教でも神話の神でもない異形の神を祀っていた。そしてこれらが、「すべて陰陽道に関わる恐ろしい「暦神」(p.122)」なのだった。

伝説では、牛頭天王は遠い海から来臨した。牛頭天王を兄の巨旦将来は泊めなかったが、弟の蘇民将来はもてなした、という話の筋を持つ伝説だ。なお元来の伝説ではその名前は「武塔(むとう)の神」である。そこでは牛頭天王とは言っていないのに、この伝説が「祇園社の本縁」として祇園の縁起譚として扱われるようになったらしい。この伝説と祇園とをつなげたのが卜部兼方の『釈日本紀』の記述で、兼方は武塔神=スサノオ=牛頭天王と結んだ。そこには異国神を日本の神であると解釈しようとする「中世的なナショナリズム(p.139)」があるという。

さらに室町時代になると、「暦家」である賀茂家が牛頭天王を「天道神」とみなすようになった。牛頭天王は暦・方角に関わる神であるというのである。その主張をしたのが『簠簋内伝(ほきないでん)』という本。『簠簋内伝』は安倍晴明著という触れ込みだったが、実際には鎌倉末期から南北朝時代に著作されたと見られる。『簠簋内伝』における牛頭天王の伝説は、武塔神のそれと大同小異だが、ただ牛頭天王が帝釈天のもとに「天刑星(てんぎょうせい)」として仕えていたのは注目される。宿曜道・密教的な世界観で牛頭天王が語られているのである。さらに牛頭天王と八王子の災厄を防ぐために行われるのが「太山府君王法」というもの。ということは、牛頭天王は悪神であったのだ。だがそれよりも強力な悪神が巨旦の方で、巨旦を呪詛・調伏することで災厄を防ぐのが「五節の祭礼」であった。

こういう、不思議な伝説の後、『簠簋内伝』では暦・方角のタブーを牛頭天王の物語に由来するものとして述べている。なぜ牛頭天王と暦が接続されたのかは明らかではないが、ともかく『簠簋内伝』によって牛頭天王は陰陽道の神として変容していったのである。

「第4章 暦と方位の神話世界」では、『簠簋内伝』の神話とその来歴が述べられる。

江戸時代、土御門泰福(やすとみ)は『簠簋内伝』は安倍晴明の著作ではないことを主張した。泰福は、土御門家を陰陽道の元締めと幕府に認めさせたが、この体制の構築のため、陰陽道を神道に近接させた。『簠簋内伝』と安倍家(土御門家)とを切断したのは、神仏習合的な『簠簋内伝』から離れる必要があったためと思われる。なお泰福は山崎闇斎に入門し(→垂加神道)、伊勢流の神道も学んだ。そして「土御門神道」「安家(あんけ)神道」「天社神道」と呼ばれる神道宗派として陰陽道を創出した。

『簠簋内伝』の実際の作者は、おそらく安倍家とは無関係で、「暦家」であったと見られる。安倍家=土御門家は「天文家」なのだ。大雑把にいえば陰陽道にはこの2つの流れがあった。なおどちらの系統でも、宮廷陰陽道ではタブー等の由来を説くにあたって典拠の書物を示すことが必要だったが、『簠簋内伝』では典拠が示されていないため、在野的な陰陽師の著作であると思われる。

では『簠簋内伝』ではタブー等の由来をどう説いているかというと、牛頭天王を中心とした陰陽道の神々の世界での仕組みが根拠になっているのである。特に巻第二では宇宙創成の神話が語られ、そこには「盤牛王(ばんごおう)」という始原神が登場する。これは中国の宇宙創世神話の「盤古」が影響しているらしい(しかしわざわざ「牛」と変換しているのがミソ)。そして盤牛王の数多くの妻・子供・孫たちが十干十二支を形成したとする。盤牛王こそは「暦の始原神」なのだ。そして禁忌や吉凶の根拠は、その神話であった。

真言宗小野流では『簠簋内伝』の影響を受けた『神像絵巻』が14世紀に作られており、小野流の僧侶たちはこれらの神話を受け入れて発展させた。なお『神像絵巻』では牛頭天王が至高の歴神として描かれた。近世初期には『簠簋内伝』の仮名書き注釈書『簠簋抄』が多数作られるなど普及した。『簠簋内伝』は中世神話の重要な要素となっていたのである。

本章の最後に、あらためて『簠簋内伝』の作者は誰かということが考察される。奈良には、賀茂家=暦家の流れの陰陽師(=奈良陰陽師)が中世後期に活動しており、彼らは「南都暦」「奈良暦」を頒布していた。『簠簋内伝』の作者は特定はできないものの、状況証拠からはこの南都陰陽師の中から生まれたのではないかと考えられる。

「第5章 いざなぎ流の神々」では、現代に生きる陰陽道的な民間信仰「いざなぎ流」について述べる。

高知県香美郡物部村(ものべむら)には、「いざなぎ流」と呼ばれる民間信仰が残っている。これは、太夫(たゆう)という人が様々な呪術を行うものである。「いざなぎ流」には、オンザキ神とか王子・式王子といった耳慣れない神が祀られ、あるいは使役される。特に呪詛は特徴的だ。いざなぎ流の呪詛は「呪詛(すそ)の祭文」という呪文が使われるが、これを分析してみると様々な宗教が混淆したものであることが窺われる。そして特に陰陽道の影響が大きいのである。紙で作った人形に呪いを憑依させて場末に送る手法は極めて陰陽道的だ。とすれば「いざなぎ流」の太夫たちは陰陽師の末裔なのだろうか?

しかし彼らは、自分たちが陰陽師だという認識はないどころか、陰陽師の存在そのものを知らなかった。状況証拠からは太夫=陰陽師なのに、なぜそのような伝承はないのか。そこには、土御門家が陰陽道を神道化し、活動内容を規制していったことが働いていたらしい。「いざなぎ流」は土御門家から禁止された呪術を主にやっていた「博士」の系譜を引く存在だったようなのだ。要するに陰陽道から切り離された存在の一部が「いざなぎ流」として残った、ということらしい。

「終章 「陰陽道」の神々のその後」では、神仏分離による陰陽道の抹殺が簡単に述べられる。

明治維新の神仏分離令では「牛頭天王」が名指しで否定され、また明治3年(1870)には土御門家に対して「天社神道免許」で門人を取ることを禁止された(=陰陽道禁止令)。陰陽道の神々は単一の神話体系によるものではなく、中世神話が複雑に習合した存在であった。そういうものを明治日本は消し去ったのである。

※以下は増補された章である。

「断章1 いざなぎ流への旅」では、物部村でホトケとなっていた先祖の霊をカミ(ミコ神)に祭り上げる事例が語られる。

これは非常に興味深い。物部村では、死後33年とか49年経つとこの祭り上げが行われる。面白いのは、故人の魂はホトケとなっているはずなのに、太夫は「地下に眠る死者の霊」に対して呼びかけることだ。また太夫によって呼び出された死者の霊は、「行文行体(ぎょうもんぎょうたい)」という修行を積み重ねてミコ神となるのだという。この過程で死者の霊が霊感の強い人に乗り移り、やっと神となれたことを「うれしいぞよ、うれしいぞよ」と述べる出来事を著者は実見した。いざなぎ流の祭は、単なる因習ではなく神を実感するものであり、また日ごろの単調な暮らしを打ち破り精神を開放する非日常な「祝祭空間」なのである。

「断章2 安倍晴明ブームの深層へ」では、安倍晴明ブームを考察し、またいざなぎ流と著者とのつきあいを述べている。

「補論 牛頭天王の変貌と「いざなぎ流」」では、いざなぎ流の祭文と『簠簋内伝』の内容、土御門系の陰陽道を検討することで、土御門家が捨象していった陰陽道について考察している。特に牛頭天王は土御門系の陰陽道には全く登場しない。詳細は割愛するが、その中でいざなぎ流では「血の穢れ」「御産の穢れ」が強調されていると指摘しているのは興味深い。

「付論 折口信夫の「陰陽道」研究・再考」では、折口信夫が先駆的に陰陽道を研究し、宮廷陰陽道と民間の陰陽道の2つの系統があったことが早くから指摘されていたことを述べ、民間陰陽道の方が活気をもって広く拡がったとしている。さらに、陰陽道禁止令がなぜ行われたのかを考察し、それが土御門家からの編暦権の奪取が目的であったとする。またそれが「陰陽道」ではなく「天社神道」であったことは、神道の純化・国教化にともなうものでもあったことも示唆している。その後陰陽師たちは徐々に陰陽道を復活させ、明治25年(1892)には「陰陽道本院」や「陰陽道本庁」の設立も計画された。一方、非土御門系の陰陽師たちは、明治9年(1876)に創成された「神道修成派」に加入していったという。

ここから陰陽道についての研究史が整理されて、比較神話学・民俗学の観点から陰陽道が研究されていった様子が、柳田国男や三河納などの研究を紹介しながら述べられる。それは神社神道を絶対化する見方への異議申し立てでもあった。

*****

本書は、「陰陽道の歴史」、「『簠簋内伝』の神話・伝説」、「いざなぎ流の民俗学的研究」という3つの性格の文章が混じっているため、ややわかりづらい。この3つの関係は次のようになっている。

まず、平安時代の陰陽道は道教をベースとした呪術の体系であり、安倍家と賀茂家の2つの門流があった。鎌倉時代にはこの呪術大系が最高潮に盛り上がるが、室町時代には整理されて一種の形骸化がなされる。それとともに、安倍家→土御門家、賀茂家→勘解由小路家と貴族化し、幕府を支える権力装置となっていった。

その中で、土御門家は「天文道」として天体観測・暦の作成を担い、勘解由小路家は「暦家」として暦や方角の吉凶の占いをメインにするようになった。さらに賀茂家の末流からは奈良陰陽師など民間陰陽師が輩出され、宮廷系の陰陽道とは違う習合的な世界が展開していった。この論拠となったのが『簠簋内伝』であった。一方、宮廷系陰陽道の正統であった土御門家では、近世には陰陽道から呪術的・習合的な要素を捨象し、「天社神道」として自らの体系を再定義し、神道へ接近した。そうすることで土御門家は幕府から陰陽道の元締めと認められたのである。陰陽師を名乗るには土御門家の許状が必要になったことで、民間陰陽師のいくらかは呪術的要素を捨てたと見られる。

そんな中で、土御門家の許状を取得しなかった民間陰陽師もいた。彼らは「陰陽師」を名乗れなかったため、「博士」など陰陽師の異称を名乗り活動した。その末裔が「いざなぎ流」の「太夫」なのである。土御門家の陰陽道は「正統」が確定していたが、民間の陰陽道は絶対的な権威がなかったために中世的な混淆がそのまま継続したらしい。明治時代の神仏分離で陰陽道は禁止され、土御門系も民間のものも陰陽道は抹殺されてしまったが、民間の陰陽道はより実態が不明になってしまった。だが「いざなぎ流」の祭文などを研究することで、失われた民間の陰陽道を復元できるのではないだろうか? 復元まではいかなくても、少なくとも民間陰陽道の世界の一端を窺うことはできだろう。

それは決して「土御門系以外」というような異端だったのではない。『簠簋内伝』を中心とした豊かな神話が展開したことを鑑みると、それは傍流の陰陽道ではなく、むしろ中世陰陽道の中心だった可能性がある。陰陽道の歴史は、「いざなぎ流」から窺える民間陰陽道によって書き換えが必要になるかもしれない、ということなのだ。

ところで、本書は2007年に刊行された著作が、2012年に増補版が出て、それが2024年に文庫化されたものである。著者は癌のため病床で校正を行い、あとがきで「本書が刊行されたときには、研究、教員生活に復帰しているはずだ」と書いているが、退院はしたものの刊行を待たず著者は死去した。つまり本書は著者の遺作である。なお、著者の死去は本書の印刷後であったらしく、そのことは本書には書いていない。

陰陽道の神々を題材にして、陰陽道への見方そのものに再考を迫る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『日本陰陽道史話』村上 修一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/03/blog-post_28.html
日本史における陰陽道の話題をわかりやすく語る本。日本における陰陽道の存在感に改めて光を当てる良書。

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2025年2月24日月曜日

『選択本願念仏集』法然 著・大橋 俊雄 校注

法然の主著。

法然に従う人々が多くなってくるにつれ、親しく教えを受けられない人が多くなっていき、教えの要点を記した文書の必要性が高まっていた。また、九条兼実は法然に教えをまとめてほしいという要請をしたらしい(『選択密要決』)。そういう事情から、建久9年(1198)に著されたのが『選択本願念仏集』である。ちなみに「選択」は、浄土宗では「せんちゃく」、浄土真宗では「せんぢゃく」と読む。

その基本的な構成は次のとおりである。まず経典とその古典的な解釈を本文で表示する。古典的な解釈とは、主に善導によるものだ。中国で7世紀に浄土教を大成した人物である。ただし、本文にも法然の考えは当然反映されている。次に、「私(わたくし)に云わく」とか「私に問うて云わく」などとして法然の私釈を述べ、適宜問答が挟まれている。私釈は本書では一段下げになっている。なお、法然は承安5年(1175)、善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』(『観無量寿経』の解説)で称名念仏による往生を確信し、この年は浄土宗では開宗の年と位置付けられている。

ちなみに、私は源信の『往生要集』を以前通読したが、本書の読後感はこれとは全く違う。『往生要集』が百科全書的な内容を持ち、各種の経典を縦横に引用して往生のための要点を考究していくという、壮大な伽藍のような書であるのに対し、こちらでは最初から結論が決まっていて、その結論に都合の良い論書を抄出している、という感じがする。つまり、源信は学究的ではあったが宗教的な確信は弱かった。一方、法然はあまり学究的という感じはしないが、宗教的な確信は強かったのである。源信がその『往生要集』の高名さにもかかわらず一宗の宗祖とならなかったのは、時代的な事情だけのことではなさそうだ。

そして、本書は日本の禁書第一号となったことでも知られる。これは門徒の密通の発覚という偶然も寄与していたが、本書の「結論ありき」で偏った内容が穏当な主流派からの反発を招いたことは想像に難くない。

本書は16のセクションで構成されている。原文で「第〇章」などと表示されているわけではないが、校注者に倣って以下便宜的に章分け表示する。また原文は漢文であるが、本書は読み下し文のみの収録である。

第1章:道綽の『安楽集』を引き、仏道には悟りを目指す「聖道門」と浄土への往生を目指す「浄土門」があるが、「今の時(道綽の時代=末法と位置付けられていた)」では聖道は難しく、浄土門に頼るほかないとする。

これに対し私釈では、宗義格別を主張し、それぞれの宗派で重視する事項はまちまちであることを強調している。この部分は、他宗を尊重する立場を表明しているものといえる。続いて浄土門においては、浄土往生を中心的な目的としている宗派と、副次的な目的にしている宗派(=華厳・法華等)があると述べる。

次に曇鸞の『往生論註』を引き、ただ仏を信じて往生を願う易行道と、自ら道心によって往生に至る難行道があることを述べ、易行道でも道心は得られるのだから易行道の方が優れているとする。そして最後に、「たとひ先に聖道門を学する人といふとも、もし浄土門において、その志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし(p.21)」と主張する。さっきの宗義格別はなんだったのか、とびっくりする展開である。

第2章:善導の『観経疏』を引き、「一心に専ら」阿弥陀仏を信じて称名念仏することを「正定(しょうじょう)の業」とし、礼誦(らいじゅ)等によって往生を願うことを助業としている。

私釈では、称名念仏が「正定の業」なのはそれが阿弥陀仏の願に従ったものであるからといい、次いでそれ以外の雑業を述べて5つの観点から比べている。当然に「正定の業」が優れているとする。

続いて本文に戻り、善導の『往生礼賛』を引いて、仏の本願に相応するものは往生は確実であるが、雑行を修する者は稀にしか往生しないと述べている。曰く「ただ意(こころ)を専らにしてなす者は、十は則ち十生ず(10人が10人とも往生する)。雑(ぞう)を修して心を至さざる者は、千が中に一もなし(p.38)」。ここで心の在り方を問題にしているのは興味深い。

第3章:『無量寿経』の第18願「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」を引き、阿弥陀仏を念ずれば必ず往生すると述べている。

私釈では、四十八願(阿弥陀仏の48の誓願)について説明し、その誓願とは、仏の「選択」の結果であったとする。「選択とは、即ちこれ取捨の義なり(p.44)」とし、往生のための行はさまざまあるけれども、仏は最善のものを選んだはずであるから、仏の選択したものを修するのが最善であるという(なんだかトートロジー的だ)。「即ち今は前(さき)の布施・持戒ないし孝養父母(きょうようぶも)等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す(p.49)」のである。一般的に善行とされる布施・持戒・孝養などを否定する論拠は、それが阿弥陀仏によって選択されていないからなのである。

そして法然は、この第18願を「本願」(阿弥陀仏の根本的な願い)ではないか、という(「故に劣を捨て勝を取つて、もつて本願としたまふ(p.51)」。ただし四十八願全体を本願とする考えも本書にはある)。しかも念仏は容易であるから、誰でも実践できる。造像起塔などが往生に必須だとなればそれが実践できるのは一部の人間に限られる。「難を捨てて易を取りて、本願としたまふ(p.52)」。阿弥陀仏が多くの人を救いたいなら、易行を選択したに違いないから「ただ称名念仏の一行をもつて、その本願としたまへるなり(p.53)」。この部分で、疑問形「たまふか」から「たまへるなり」に転換していることが法然の思想家としての回心を表しているようだ。この章は前半の中核をなすものである。

第4章:『無量寿経』を引き、人々の機根には上中下があるが、下輩でも「無上菩提の心を発(おこ)して、一向に意(こころ)を専らにして」念仏し往生を願うことはできるとする。本章の本文は全部が『無量寿経』の引用である。

私釈では、先の「無上菩提の心」が問題になる。法然はひたすら念仏すれば往生できると説いたが、経典では「無上菩提の心」も条件にあるじゃないか、というわけだ。そもそも経典には法然が「余行(よぎょう)」と位置付ける様々な善根の積み方が述べられている。なぜ余行を捨てて念仏のみを修せよというのか。これに対する法然の論説は苦しい。例えば「余行を知らなければ念仏が勝れていることは理解できないからだ」などというのは詭弁じみている。ともかく経に「一向に」と書いている以上、余行は捨てるべきだというのが法然の考えだ。ここで注目されるのは、法然は「末法だから念仏に頼るほかない」というような言説を全く表明していないことだ。

第5章:本文では『無量寿経』と『往生礼賛』(善導)から念仏の功徳を誉める文を引く。

私釈では、まず「念仏のみが讃嘆されるのはなぜか」との問いがある。菩提心をおこすことも素晴らしいはずだが、なぜ念仏だけが「無上の功徳がある」などといわれるのか。これに対し、「聖意測り難し」としながらも、余行がすでに捨てられた以上、念仏のみを誉めるのは当然といい、菩提心等の諸行も小利はあるが(←つまり全否定ではない)、無上の大利がある念仏を修する方がよいと述べている。

第6章:『無量寿経』から、「当来の世に、経道(きょうどう)滅尽せむ」時にも「この経を留めて」「皆得度すべし」という一文を引いている。

私釈では、経でいう「当来」を、「まさに来るべき世」ではなく、「末法万年後の百歳」と解釈する。つまりこの経文は「末法万年後には他の経典や修行は全て失われるが、念仏だけは残る」という意味だというのだ。これはかなり恣意的な解釈であろう。

ともかく、以後、「末法万年後」という気の遠くなる未来の話になる。諸行による往生は「末法万年」までは有効であるが、その以後には無効となり、ただ念仏だけが有効になるだろうという。それはなぜかといえば、末法万年後まで『無量寿経』が残るように釈尊が計らったからだ。ではなぜ釈尊は他の経典ではなく『無量寿経』を選んだのか。それは釈尊の慈悲によるという。念仏は誰でも修することができるのだから、他の経典では多くの人を救うことが不可能になると。このあたりは、「釈尊が選択した一つの経典以外は滅する」という前提で話が進む。だが全ての経典が失われるならまだわかるが、一つ以外は滅びるという前提そのものが恣意的だ(ただ、これは法然以前に形成された通念かもしれない)。そして、念仏は末法万年以後でさえも有効なのだから、当然今でも修するべきだと結んでいる。

法然は同時代を「末法に入って百年」と認識していたが、末法だから教えが意味がなくなるのではなく、末法万年までは他の経典や修行にも意味があると考えていたのが興味深い。念仏のみに頼らざるを得ないのは、あくまで「末法万年の後」という遥かな未来なのだ。

第7章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、阿弥陀の光明が念仏行者のみを照らすことを述べるが、これは経や疏には明確には書いていない(経には「阿弥陀の光明は遍く十方世界の全ての衆生を照らす」とある)。本文に問答があり、この疑義が俎上に上がるが、「自余の衆行は、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、全く比校(ひきょう)にあらず(p.86)」(=念仏とは比べものにならない)といい、念仏の功徳を一方的に主張する。この部分は引用ではなく法然の主張である。

私釈では、当然ながらこの主張を再確認し、その理由を「念仏はこれ本願の行(p.88)」であるからと押し通している。

第8章:『観無量寿経』を引き、往生を願うものは必ず①至誠心(しじょうしん)、②深心、③廻向発願心の3つを備えなければならないとし、『観経疏』(善導)によりこの三心を解説している。ここの本文も法然の解釈がすでに入っており、特に力説されるのが②深心である。深心とは「深信の心」であるとして、「疑ひなく」「一心にただ仏語を信じて」などと、とにかく信じることが重要であると述べる。それは「一切の別解(べつげ)・別行・異学・異見・異執」を退けるものである。法然は、悪く言えば「妄信」を求めている。

ここで面白いのは、当時「阿弥陀など虚妄だ」というような説があったらしきことである。それに対して法然は「皆が十方遍満して弥陀など虚妄だと言ったとしても、私は一念の疑心も起こさない!」と宣言している。このあたりは疑念がテーマになっている。仏典には様々なことが書かれており、名号念仏はそのごく一部分でしかない。であれば、念仏のみを信じろというのは、その他の仏典の文言を捨てることを意味する。どう解釈したらいいのか。ここで法然は、「仏のいうことは全て真実なのだから、帰するところは同じはずだ」といい、阿弥陀のみに従うことは他の仏説を否定しているわけではなく、究極的には「釈迦の所説・所讃・所証」を信じることと変わらないというのだ(かなりの強弁だ)。ここで、当時の常識である権実(ごんじつ)の枠組みが全く援用されていないことは注意される。

③廻向発願心の議論も長い。これは、善根を積み重ね、それを「皆真実の深信の心の中に廻向して」往生を願うことである。その意図するところはつかみ難い。この議論の中で、有名な「二河白道の譬え」が述べられる。火の河と水の河の間にある細い道を通って彼岸に至るとするもので、そういう危険な道を通ろうとすれば「そんな危険な道を行ったら死んでしまう。悪いことはいわないから引き返せ」という人がいるだろうというのだ。だがそういう声には耳を貸さずに道を進めと法然はいう。

なお火は瞋憎を、水は貪愛を譬えている。瞋憎や貪愛に陥らずに一心に念仏をすることが「二河白道の譬え」なのだ。しかしこの譬えは奇異だ。念仏による往生は誰でもできる易行ではないのか。死の危険があるような道をゆく難行とは違うはずである。しかしこの譬えは、念仏が難行であるといいたいのではなく、「周りがそんなのはやめておけと騒いでも、信じた道をゆけ」ということなのである。つまり周囲の雑音に惑わされるな、という話だ。法然が警戒するのは常に「疑い」である。

こうした議論の後、私釈では結論を確認するのみである。

第9章:『往生礼賛』(善導)によれば、念仏行者は4つの法を修する必要がある。①恭敬修(くぎょうしゅ)、②無余修(むよしゅ)、③無間修である(4つの法というのに、3つしかないのは脱落があると法然は述べている)。①恭敬修とは、一切の聖衆を恭敬礼拝すること、②無余修とは、余業をまじえず念仏のみに専修すること、③無間修とはそれらをずっと続けること、である。ここで窺基の『西方要決』が引かれる。それには上述の3つに加え「長時脩」があり4つとなる。

ここでも私釈は結論を確認するのみである。

第10章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、諸経を聞くことも功徳がないわけではないが、称名の功徳は「五十億劫の生死の罪を除く」と述べる。

私釈では「聞経の善はこれ本願にあらず」として、再び『観経疏』を引いてその主張を繰り返している。本章はとても短い。

第11章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、念仏者を讃嘆している。特に念仏者を「妙好人」と呼んだことは重要。

私釈では、念仏を修することのすばらしさを述べ、機根の優れた人も劣った人も皆念仏すべきだと主張する。一般的には、「造像起塔はお金持ちしかできず、修行によって悟ることも普通の人には難しいから念仏に頼るほかない」として専修念仏が勧められたとされる。だが、法然は貴賤の上下・機根の勝劣にかかわらず念仏すべきだという。それは「劣った人にでも効果があるのだから、優れた人に効果があるのは当たり前だ」との理由だ。また本筋ではないが、この議論の途中にある「また浄土に往生して、ないし仏になる(p.139)」との言葉は気になった。浄土では悟りが得やすいから、念仏で往生すれば成仏(悟る)こともできるとの主張である。

第12章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、「定散両門の益を説くといへども」称名念仏に専念すべしとする。

私釈では、「定散両門」の意味が解説される。これは「定善」と「散善」で構成され、「定善」には①日想観、②水想観から⑫雑想観までの12の観想法がある。これらを修することでも往生はできる。「散善」には、「三福」と「九品」の2種類がある。「三福」は父母への孝養、仏法僧への帰依、菩提心や大乗の経を誦することなどの善行である。「九品」とは、「三福」を上品上生から下品下生までの9つの機根に分けたものである。

法然はこれらの「散善」が善行であることを承認し、それらを実行することで往生できることも否定はしない。ここでは宗義格別の主張が復活し、例えば「たとひ余行なしといへども、菩提心をもつて往生の業とするなり(p.145)」などと諸宗派の認識を再確認する。

なお、ここで問題にされるのが、「読誦大乗(大乗の経を誦する)」である。その経の中に「何ぞ法華を摂するや」との問いがあるのだ。どうしていきなり『法華経』の話仁なるのか、いまいち理解できなかった。当時、最も偉大な経典とされていたのが『法華経』であるが、本書にはほとんど『法華経』への言及がない。意図的に避けていたのかは不明だが、この箇所の書きぶりからすると意識はしていた模様である。

このように、法然は定散両門の意義を正面切って否定はしないが、その意義は時代を経れば低下するという。そういう歴史観なのである。だが、念仏だけは釈尊が遠い未来にまで残るように計ってきたという。なぜそう断言できるかというと、「それが仏の本願だから」に尽きる。

であれば、なぜ諸経には念仏が説かれず、むしろ「定散両門」が力説されるのか。これに対し法然は「実行が難しい定散があることで、念仏の良さが際立つ」という。「定散は廃せむがために説き、念仏三昧は立せむがために説く(p.155)」というが、これはさすがに無理があると感じた。

さて、では定散両門の意義がなくなるのはいつなのか。それは「末法万年の後」なのだ。であれば、今(法然在世当時)はまだ定散両門は有効なのだ。今はまだ念仏しか頼れない時代ではないのである。だが法滅の世ですら頼れるのが念仏だとすれば、念仏は正法・像法・末法の全ての時代で頼りがいがあるのである(「念仏往生の道は、正・像・末の三時、および法滅百歳の時に通ず(p.160)」。

第13章:『阿弥陀経』と善導によるその釈を引き、「心を一(いつ)にして」念仏することで往生できると述べている。

私釈では、念仏は善根が多く、一方雑行は「これ劣の善根」であると切って捨てている。本章はとても短い。

第14章:善導の『観念法門』『往生礼賛』等を引き、臨終の時に念仏をすることで往生することができると述べる。

私釈では、それは「善導の意(こころ)によらば、念仏はこれ弥陀の本願なり(p.167)」だからだという。結局これに尽きる。

第15章:善導の『観念法門』等を引き、念仏行者は「六方恒河沙等の仏(あらゆるところにいる数多い仏)」によって護念される(厄難から守られる)と述べる。

私釈では、念仏をすれば、阿弥陀仏だけでなく数多くの仏から守護されることを強調している。

第16章:『阿弥陀経』を引き、仏が阿弥陀経を説いたことを述べ、善導の『法事讃』では「世尊法を説きたまふこと、時まさに了(おわ)りなむ」として、仏説の終結だとみなしている。善導は、「そこから時は流れ、今は人々の心が乱れてしまった」と嘆いている。

ここの私釈は本文とほとんど対応していない。まず三経(『阿弥陀経』、『無量寿経』、『観無量寿経』)に基づき、仏の「選択」がどこにあるかを検討する。「選択本願」「選択讃嘆」「選択留経」「選択摂取」「選択化讃」「選択付属」「選択証誠」などなど。それら総合的な選択の結果、称名念仏がある。

ここで、「華厳・天台・真言・禅門・三論・法相の諸宗においても浄土法門について考究している者はあるのに、なぜ善導のみを参照するのか」という至極当然の疑問が発せられる。これに対し、法然は「善導が浄土一筋だから」という。他の宗派は、往生一筋ではなく聖道門が中心だ。さらに「浄土門にも善導以外の思想家がいる」との反問があり、それに対して、それらの諸師は「いまだ三昧を発(おこ)さず」という。法然は、こういうところでは切って捨てるような言い方をする。さらに問う方も粘って「それでも善導の師である道綽がいるじゃないか」と食い下がる。だが法然にほれば、道綽は三昧をおこさなかったし、そもそも念仏での往生が可能かどうか善導に聞いているくらいだから、善導さえ参照すればよいという。

ここで『観経疏』(善導)が引かれ、面白い話が紹介される。それは善導が見た夢の話である。善導が毎日『阿弥陀経』3回読誦、阿弥陀仏3万遍を念じたところ、夢で浄土の様子を見るようになり、毎日夢に一人の僧が現れて『観経疏』の一部(玄義・科文)を授けてくれたという。こうして『観経疏』を書き終わって、今度は7日間、毎日『阿弥陀経』10回読誦、阿弥陀仏3万遍を念じようとしていたところ、第1日目には夢の中にラクダに乗った人が来て「往生すべし」と述べ、第2日目には阿弥陀仏に出会い、第3日目には二つの旗竿に5色の旗がたなびいている様子を見た。ここで善導は往生の確信を得、7日の予定を中断したのである。

法然は、毎夜現れた僧を阿弥陀が応現したものとし、『観経疏』は弥陀の教えだとする。さらには、大唐では善導自身が弥陀の化身であると言われているとし、「(善導は)仰いで本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱へ、念仏に憑(たの)みあり。俯して垂迹を訪へば、専修念仏の導師なり(p.188)」という。ここで本地垂迹説の枠組みが援用されて、本地-阿弥陀仏、垂迹ー善導という主張がされていることは興味深い。

****

全体として強く印象に残ったのは、法然は「末法の世」だから云々といったことはほとんど述べていないことである。文庫カバーの紹介文では「末法の世では、自力で修行に励みこの世で悟りを得ることは困難で、ただ仏を信じ念仏することにより浄土に生まれ、来世に悟りを得るべきと説き…」とあるが、実際、このようなことを法然は説いていない。この紹介文を書いたのはおそらく編集者であるが、『選択本願念仏集』を誤読している。

まず、この世で悟りを得ることは困難かどうか、本書ではあまり述べられていない。確かに第1章で『大集月蔵経』を引き、「我が末法の時の中の億々の衆生、行を起し道を修せむに、いまだ一人として得るものあらじ(p.10)」とは言うが、これはあくまで道綽の時代(7世紀ごろ)の話である。また曇鸞の『往生論註』では、「謂はく五濁の世に、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす(p.18)」とある。「阿毘跋致(あびばっち)」とは道心堅固なことである。確かに悟りを得るのは難しい。しかし「末法だから困難」という言説はこれ以外に見出せない。

さらに、往生は念仏によるほかないとも書いていない。例えば、第7章の本文で「つぶさに衆行を修して、ただよく廻向すれば、皆往生を得」とある。これは問いの文の一部だが、「修行して廻向すれば皆往生できる」と言っている。なお、「来世に悟りを得る」というのも、確かにそのような主張もあるが決して中心ではない。

では本書の内容に基づいて法然の主張を述べるとどうなるか。

まず、法然は「念仏至上主義」というような立場に立った。念仏以外を「余行」とか「雑行」として、それらが善行であることは一応承認したが、同時に「余行は捨てるべきだ」と主張した。なぜ念仏以外を捨てるべきなのか。それは、念仏だけが仏の本願だからなのである。つまり、阿弥陀仏が念仏を「選択」したのだから、それ以外は捨てるべきだという。では阿弥陀仏が念仏を選択したのはなぜか。それは、造像起塔や写経、修行といったことを本願とすれば、それは一部の人しか実践できないからだ。仏が、一部の人だけを救うような方策を本願とするわけがない。そして、それは末法万年の後まで遺るように計らったのという。このように法然の思想の根本には、「仏は全ての人を救うはずだ」という、一種の平等観がある。念仏に頼るべきなのは、末法の世だからではなく、それが全ての人を救うものとして阿弥陀仏が定めたからなのである。

ここで重要になるのが、「一心に専ら」阿弥陀仏を信じて称名念仏しなくてはならない、ということである。なぜ「余行を捨て」「一心に専ら」阿弥陀仏のみを信じなければならないのか。これが法然教団の核心であるが、なぜ阿弥陀仏以外を否定しなければならないのか、本書からはいまいちわからない。「念仏はこれ弥陀の本願」だから他を否定するというのは、論理的ではない。しかも法然は余行の功徳も否定はしていない。余行を修したからといって、阿弥陀仏が嫌がるというような言説ももちろん存在しない。

ではなぜ法然は阿弥陀仏以外を否定しなければならなかったのか。その理由は、「二河白道の譬え」がヒントになる。ここでは易行であるはずの念仏が、火と水の河に挟まれた細い道を進む難行として描かれる。火や水ももちろん危険ではあるが、それよりも法然が警戒するのは「そういう危険な道はやめたほうがよい」という外野の声である。法然が念仏の障りと考えたのは、外野の声と、それによってもたらされる疑いなのである。

本書には、深く一心に信じること、一切の疑いを持たないことが力説される。これは、言い方は悪いがカルト教団と同じ主張であろう。法然は、一応、宗義格別の立場に立ってはいるが専修念仏以外を捨てるべきものとしている。専修念仏は、念仏カルト教団だったといっても、あながち間違いではないと思う。もちろん、「深く信じる」は法然が言い始めたことではなく、源信が『往生要集』で強調したことである。カルト的な性格は一切なかった源信も「深く信じる」を重視した。だがそれは阿弥陀仏が人の内面を覗くことができる能力があると捉えたからだ。一方法然にはそういう観念はなく、極端な念仏至上主義から妄信を求めた結果であった、と本書からは感じた。

法然が専修念仏運動の旗手となったのは、まさにこのためだったと思う。法然は一切経を5回も読んだというが、仏教の言説は膨大であり、そこから誰でも頼れる明快な教えをバランスよく抽出することは困難である。当時最も影響力が大きかったのは『法華経』であるが、『法華経』の7万字から教えの要点を抽出することでさえ困難だ。そこで法然は、念仏を「弥陀の本願」で押し通し、経に「一向に」と書いてあることのみを論拠として残りの仏説を全て切って捨てた。こういうことは、ちょっと常人にはできそうもないのである。『選択本願念仏集』という書名は、阿弥陀が念仏を「選択した」ということを意味しているが、法然にとっては「残りの仏説を全て切って捨てた」という選択だったのかもしれない。

また、法然といえば「善行を積むことができない下賤の人に念仏での往生を勧めた」と言われることがあるが、これも本書を読む限り違う。本書の書きぶりから判断すると、下賤の者が念仏に頼るほかないということは、法然以前に広まっていたように思われる。そして、法然の主張したのは、「念仏は下賤の人だけでなく、貴顕の人まで含めて全ての人が行うべきだ」ということだったのではないだろうか。

例えば、『観無量寿経』では、上・中二品では念仏を説かず、下品(げほん:機根の劣った人)に至って念仏を説いている(p.71)。『観無量寿経』では念仏は下品の人向けの行いなのである。これに関し、第10章の私釈にこういう問答がある。「何が故ぞ、上々品の中に(念仏を)説かずして、下々品に至つて、しかも念仏を説くや(p.132)」。法然は私釈で念仏者を「上々人」と位置付けているが、であれば、『観無量寿経』で上品の人々に念仏を説いていないのはおかしい。そして下品の人が念仏を実践したらそれはもはや「上々人」ではないかというのである。これに対して法然は真正面から答えず、「あに前に云わずや。念仏の行は広く九品に亘ると(p.133)」とする。念仏は九品、つまり全ての人が行うべきものだというのである。

では経で下品に至って念仏を説いているのはなぜかというと、下品下生(九品の最下位)は、「五逆重罪の人」で、そういう人は「ただ念仏の力のみあつて、よく重罪を滅するに堪へ(同)」るからだ。つまり重悪人は念仏以外での救済は不可能だから、あえて下品で念仏を説いているのだという。

この後いろいろ議論してから、面白い問答が出てくる。質問者曰く「下品上生(下品の中では優れた部類の人)は、これ十悪軽罪(きょうざい)の人なり。何が故に念仏を説くや(p.137)」。下品上生の人は重罪ではなくて軽罪なんだから、念仏以外でも救われるはずなのに念仏を勧めるのはなぜかという。これに対する法然の答えは、いかにも法然っぽい。「念仏三昧は、重罪なほ滅す、いかにいはんや、軽罪をや」というのだ。

こうした問答から判断すれば、造像起塔や写経を行い、または自ら修行するような貴顕の人々も念仏を行うべきである、と主張したことこそが法然の独創であったように思う。実際、本書は九条兼実の懇請によって著されたものというが、蹉跌の時にあったとはいえ、摂関家の兼実が法然に帰依したことはその主張を物語っているといえよう。ちなみに、兼実は貴族社会が没落していく中で国費を膨大に費やす政治を快く思わず、「政を淳素に反す」ことを宿願としていたらしいが、仏事に巨費が投ぜられていた当時の状況を思うと、兼実は専修念仏が緊縮財政に役立つと考えたのではないかと思った。

最後に法然の独創を繰り返すと、次の2点に集約できる。第1に、念仏以外を無用として切り捨てたこと。第2に、念仏は機根の劣った人だけではなく、貴顕の人も含め全ての人が行うべきであること。この2点ともその論拠は、「それが弥陀の本願である」からだ。

専修念仏教団を生み出した、念仏至上主義の書。

【関連書籍の読書メモ】
『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。法然については「Ⅴ 法然の思想構造とその歴史的位置」「Ⅷ 建永の法難について」を参照。

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2025年2月12日水曜日

『待賢門院璋子の生涯――椒庭秘抄』角田 文衛 著

待賢門院璋子の生涯を詳しく解き明かした本。

本書は、美川圭氏によって「衝撃の書」と評された本である。崇徳天皇が白河法皇と待賢門院璋子の不義の子であるという『古事談』にある逸話を執拗なまでに論証し、事実であると認定したのが本書なのである。

しかし、『古事談』の逸話が事実であることを確かめた、というだけが本書の価値ではない。そこにいかなる関係があったのか、当時の日記や記録を渉猟し、人の心の襞の襞まで追いかけて追及することで、もはや文学的といえるまでの世界を描き出したのが本書なのだ。

ただ、私が本書を手に取ったのは先述の論証を読むためではない。待賢門院ではなく、白河法皇の内面について知りたかったのである。白河法皇はどんな人物だったのだろうか。私が本書を読む上での視点は、待賢門院との関係を通じて白河法皇の人物像を自分の中に描きたいということだった。

白河天皇は中宮・藤原賢子(かたこ※最近は「かたいこ」と読む)を溺愛していた。賢子は敦文親王、善仁親王(→堀河天皇)、媞子(やすこ)内親王、令子(よしこ)内親王、禛子(さねこ)内親王を次々に生んだが、わずか28歳で亡くなる。白河天皇が死の穢れも気にせずその死に寄り添ったのは有名なエピソードだ。白河の悲しみは深く、翌年になっても悲傷のために寝所に籠りきりだった。また白河はその追善の為に、円徳院、勝楽院、円光院、常行堂(法勝寺内)を建立している。

この悲しみから、白河は后や女御、すなわち公的な妻を新たに置かず、手近な女房に非公式に手を付けた。次々と子どもは生まれたが誰一人認知はされなかった。こういう荒淫が治まったのは、寛治7年(1093)ごろ、「祇園の女御」と呼ばれる女性を寵愛するようになってからである。この頃白河は堀河天皇に譲位して上皇となっていた。

なお「女御」は俗称であって、彼女は正式な女御ではなかった。著者の推測では彼女は「(藤原)顕季の縁者で、三河守・源惟清の妻であったらしい(p.7)」。惟清とその一家が上皇を呪詛したとして配流されたのは、白河上皇は彼女を独占するためであった…と著者は推測する。

祇園の女御には子供ができず、藤原公実の末娘・璋子を養子にした。公実がまだ嬰児だった娘を自分より家格が劣る祇園の女御の養子にしたことは、白河法皇の猶子にすることが目的であったのだろう。公実の藤原氏閑院流は、摂関家に代わって王家との婚姻を深め栄達してきた系統で、堀河天皇の崩御後、公実は摂政を望んでいたほどであった。鳥羽天皇の即位にあたってその希望は叶えられなかったものの、璋子の存在によって一族はさらに栄達することになる。

どうやら、公実の系統は美男美女がそろっていたらしく、璋子も相当かわいい女の子だったらしい。白河法皇はこの娘を溺愛し、いつも添い寝して璋子の足を懐に入れて温めていた。璋子は、気難しい専制君主の愛を一身に受けて育った。

白河法皇が璋子の結婚相手に選んだのは、関白・忠実の息子忠通である。忠実の本妻源師子は、賢子の異母妹で、かつて法皇の寵愛を受けて後の覚法法親王を生んでいた。家柄も法皇との関係も申し分ない相手である。ところが忠実はあれこれと理由をつけて忠通と璋子の結婚を先延ばしさせ、法皇にあきらめさせた。この婚姻は、閑院流に水をあけられていた摂関家にとっても悪い話ではなかったのに、なぜ忠実は認めなかったのか。

それは、法皇が璋子を鳥羽天皇に入内させることにした時の忠実の日記で明らかになる。その日記によれば、璋子は備後守・藤原季通と密通し、権律師・増賢の童子とも関係しているふしだらな女で、「奇恠(きかい)不可思議ノ女御」「乱行ノ人」だといい、そのような女が入内するというのは「日本第一ノ奇恠ノ事」だというのである。璋子の「乱行」は事実であったらしく、季通が失脚したのは法皇が璋子との関係を激怒したためという。

だが、平安時代は性におおらかな時代で、複数の異性と関係することは決して珍しくなく、非難されるようなことでもなかった。忠実自身、正妻はほったらかしにして様々な女性に子を生ませている(次々に僧籍に入れた)。その忠実が「奇恠不可思議」「乱行」というのは、日記にははっきり書いていないが、璋子と白河法皇に性的な関係があったために他ならない。養父と養女が交わるというのは、平安時代の常識でも人倫に悖ることで、そのような女性を孫の鳥羽天皇の中宮にするというのは「日本第一ノ奇恠ノ事」だったのである。

入内の日、法皇は皇居の筋向いの邸宅に御幸したが、これは全く前例のないことで、おそらくはその当日にさえ法皇と璋子は同衾した。そして璋子は、病と称してしばらくは鳥羽天皇とは褥を共にしなかったらしい。これも忠実の日記に書いてあることである。このように、鳥羽天皇との入内の後も、璋子と法皇との性生活は続いた(ただし璋子は、鳥羽天皇にもやがてはしぶしぶ肌を許した)。

ところで白河法皇の熊野信仰は熾烈で、何度も熊野詣をしている。4度目の熊野詣にあたり、精進に入る前に法皇は5日間(9月20~25日)、璋子と同殿した。そして翌年の5月28日に璋子は皇子・顕仁(あきひと)を生むのである。受胎から娩出までの平均期間が271~264日であることを考えると、まさにこの期間が受胎期間と考えられ、顕仁は鳥羽天皇ではなく白河法皇の子であることが推知されるのである。

本書では、璋子の生理周期・月経の期間と突合してこの結論を導くが(!)詳細は割愛する。また、鳥羽天皇は皇子・顕仁を『叔父子』と呼んでいた(『古事談』)。その頃鳥羽天皇と璋子は性的交渉がなかったために、天皇はそれが自らの子でないことをすぐに見抜いたのである。しかも『叔父子』、つまり祖父の子であると呼んだことは、白河法皇と璋子との関係が公然のものだったことを窺わせる。これは「日本の歴史で前後に例を見ない不祥事(p.87)」であった。

では、白河法皇はこれを不祥事と捉えていたかどうか。それがどうやら、自分では全く不祥事と思っていなかったどころか、むしろ嘉事であるとさえ思っていた形跡がある。子供ができたのはめでたい! そんな調子で璋子の係累の位階を昇叙し、その異常な人事は世間の耳目を驚かせた。また法皇は頻繁に璋子の邸宅を訪問し、その鹵簿(行列)を見物した。ちなみにその出産においても白河法皇は産事に関する一切の采配を振るい、盛大な祈祷を行っている。そして顕仁の成長に伴う数々の行事は全て白河法皇が深く関与し、「名義上の父である鳥羽天皇は、全く聾棧敷(つんぼさじき)に置かれていた(p.97)」。

そして皇子誕生の後も、璋子と法皇の逢瀬は控えられるどころかますます繁くなる。璋子の月経を検証してみると、月経が終わるとすぐに法皇と同殿しているありさまなのである。本来、月事を穢れと見なした当時の観念からは月事の最中は内裏を離れ、それが終わると戻ってくるのが普通なのに、璋子はその逆をやっているのだ。二人が性的な関係にあったことは疑いえない。宗忠は『中右記』でこのことについて「人々秘して言わず。また問わず。何事も知らざるなり」と述べている。公然の秘密とはまさにこのことであろう。ちなみに二人が頻繁に睦み合っていた元永2年~保安元年(1119~1120)、璋子は18~19歳、法皇は66~67歳である。

ではこの異常な関係を鳥羽天皇はどう思っていたか。もちろん苦々しく思っていたに相違ないが、璋子を憎むどころか、かえって璋子を恋焦がれたようなのだ。ここに奇妙な三角関係が現れた。そもそも、性的関係を続ける気であったらしい法皇が璋子を鳥羽天皇に娶せたのはなぜか。ここには祇園の女御を独占するため源惟清を失脚させたのとは違う心理がある。その考察は本書にはないが、私なりの考えを言えば、法皇は璋子をナンバーワンの女にしたかったのだと思う。当時のナンバーワンは、天皇の妻であり母であることだ。そのためには既に退位している法皇では役に立たず、鳥羽天皇の中宮にすることが必要だったと思われるのである。そして法皇は孫の鳥羽天皇も大変愛していた。だからこそ最愛の璋子を娶せたのである。

保安2年(1121)、璋子は皇女禧子(よしこ)を生んだ。これが天皇と法皇のどちらの子なのかは不明である。しかし法皇がまたしても安産の祈願で度外れた仏事を修していること、誕生後わずか56日で准后の宣旨があった(これは異常だ!)ことからすると、これまた法皇の胤だったのかもしれない。それに保安元年までの頻繁な情事を考えると、少なくとも二人には子作りの意図があり、法皇は禧子を我が子だと信じたであろう。そして溺愛する璋子の立場を高めるためには、法皇はなりふり構わなかった。まだ21歳の鳥羽天皇に退位を求め、5歳の顕仁を皇位につけたのである(→崇徳天皇)。この頃の法皇には焦りが感じられる。小作りに励んだのも、子をなすことが難しくなるという気持ちからだろう。そこに鳥羽天皇への遠慮などまったく感じられないのである。

天治元年(1124)には、璋子はまた皇子通仁を生んだ。この際の安産祈願も法皇は盛大に行い、それはもはや常軌を逸した狂態でさえあった。翌年も璋子は皇子君仁を生んでいるが、これらの皇子は鳥羽上皇の子供らしい(なおこの二人の皇子は通仁が目が見えず、君仁は身体障害者であった)。この頃、鳥羽上皇と璋子は仲睦まじかったという。

天治元年には、璋子は待賢門院となっている。国母である璋子が女院となるのは既定路線であったが、法皇はその宣下を急いだ。24歳というずいぶん若い女院の誕生である。ちなみに待賢門院の号には根拠がなく、その後に住居の位置とはかかわりなしに門院号を使う先例となったと兼実は『玉葉』で嘆いている。法皇は、自らの命が幾ばくもないことを自覚していたから、璋子の立場を固めるのを急いでいた。

白河法皇が先例を無視して女院の係累を昇進させたのも、単なる情実人事ではなく女院の立場固めだと思われる。まだ35歳の天台座主仁実(璋子の異母兄弟)を僧正にしたのもその一例である。

ところで、法皇・上皇・女院の奇妙な三角関係は実際どうであったか。これが意外なことに、表面的には極めて円満であった。当時の記録にはいたるところで「三院御幸」と出てくる。白河院と鳥羽院が同車し、待賢門院がその後の唐車に御すという形で移動していた。白河法皇と鳥羽上皇が良好な関係を続けられたのは、凡俗の我々には理解しがたい。

理解しがたいといえば、法皇の信仰も狂乱に近い。大治4年(1129)に行われた女院の平産祈願は空前の物量で行われている。ちなみにこの一環と思われるが璋子は授戒している。それ以前からも法皇はさかんに成功(じょうごう=人事の見返りに経済的奉仕を行わせること)を活用し、また国帑を費やして仏事を行い、堂塔を作らしめた。特に塔の造営は特筆すべきもので、待賢門院のための御願寺・円勝寺だけでも中塔(三重塔)、東塔(五重塔)、西塔(三重塔)が成功によって造進されている。このような狂気に近い信仰は、当時流行の浄土教信仰とはあまりかかわりなく、自身の延命を願い、女院の息災を祈るものであった。面白いのが、法皇が帰依を始めたという「六字明王」など、オリジナルの信仰を生み出していることだ。法皇には、神がかったところがあったのかもしれない。「白河法皇の信仰は、まことに複雑怪奇(p.144)」なものだった。

平産祈願が盛んに行われる中、法皇は体調を崩し、覚法法親王から授戒され、これまでの延命祈禱の甲斐もなく77歳で亡くなった。ちなみに法皇は「葬儀に関する詳しい定め書きを遺(p.152)」していた。ちなみに「白河院」という諡号も自ら指示していた。当時は穢(けがれ)を忌んだため、崇徳天皇は言うまでもなく、鳥羽上皇も女院も、法皇の通夜にも葬儀にも参加していない。法皇自身が「穢れるから私のそばを離れなさい」と命じていた。賢子の死に寄り添った時とは違う心持だったのかもしれない。

法皇が亡くなってからしばらくは、女院の立場も鳥羽上皇との関係もさして変わりがなかった。女院は国母であり、縁故の者で固められていた。しかし女院の栄華には微妙な陰が差し掛かっていた。例えば女院の御所はたびたび火災にあい、このうちいくつかは放火であったと考えられている。そして、鳥羽上皇は女院以外の女性と寝所を共にするようになった。法皇の在世中は、女院以外の女性に手を付けると法皇が激怒していたらしい。これまた凡俗には理解しがたいことで、法皇は自ら璋子と密通しながら、鳥羽上皇が他の女性と関係を持つのを許さなかったのである。ところが法皇亡き後、そういう遠慮をする必要がなくなった上皇はいろいろな女性と関係した。

さらには、摂関家からのたっての要望で、忠実の娘勲子(いさこ)が鳥羽上皇の皇后となった。勲子はすでに37歳で、上皇は興味を持たずまた勲子も男嫌いだったらしい。双方にとって義理のための婚姻であった。なお勲子は泰子と改名し、後に高陽(かや)院と号した。彼女はなかなか聡明な女性であったらしく、上皇の寵愛はなかったものの、待賢門院とは険悪なライバル関係になった。

待賢門院は、かつての法皇のように造寺造仏に積極的に精を出し、また高僧による祈祷を頻繁に行った。大治4年の御産の後には、大威徳明王像百体の供養を行っているが、これについては側近の源師時ですら「仏体、群蝸の如し。御産に非ず、御悩にも非ず。(中略)誠に是れ国の弊(つひえ)、世の損(そこなひ)なり」とあきれている。法皇の度外れた、物量に物を言わせたなんでもありの信仰を待賢門院は受け継いでいた。

白河法皇の熊野詣は12回に及んでいるが、待賢門院はそれを上回る13回だった(ほとんどは法皇や上皇との同道)。それは輿に乗っていたから体力的にはそれほどきついものではなかったが、「13回全部について好い季節が選ばれず、いつも寒い時分に行われている(p.187)」ことから物見遊山でななかったことは確実である。ちなみに女院は熊野詣の時に「女山臥装束」をつけていたらしい。これは本筋とは関係ないが気になった。

そして女院は、仁和寺の寺域に新たな御願寺を建立することとした。女院の御願寺はすでに円勝寺があったが、これは実質的には法皇が建立したもので女院は主体でなかった。今度は、自分の御所を兼ねた真の御願寺、金剛法院である。金剛法院は「単なる寺院ではなく、阿弥陀堂、御所、庭園の三要素からなる当時流行の特殊な寺院(p.203)」であり、特に池と背後の山(五位山)といった自然の景観が生かされていることは、どことなく鳥羽殿を髣髴とさせる。追って三重塔や九体阿弥陀堂も造営された。

鳥羽上皇が藤原得子(なりこ)を寵愛するようになると、待賢門院の立場は徐々に弱くなった。上皇は得子を溺愛し、閨房の絶える夜はなかったという。一方、崇徳天皇は母の立場を悪くする得子を憎み、得子の一族に圧迫を加えた。得子の一族はあまり高い家格ではなかったが、得子産んだ皇女叡子(としこ)が泰子の養子となり、待賢門院と対抗する勢力になっていった。また、得子は次々と鳥羽上皇の子を生んだ。得子は后でも女御ではなかったのでその子には皇位継承権がなかったが、崇徳天皇と中宮の養子にするという苦肉の策で體仁(なりひと)が東宮となり、追って即位した(→近衛天皇)。ところが、その宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」に譲位するとなっていた。これでは崇徳天皇は天皇の父でないので院政を敷くことができないし、待賢門院も院の母ではない。この奸計の背後には摂政・藤原忠通がいたようだ。そして待賢門院の関係者は呪詛の嫌疑により処分を受けた。待賢門院の命脈は尽きていたのだ。

あれほど栄華を極めた待賢門院も、法皇の後援がなくなり、上皇の寵愛がなくなり、天皇の後援がなくなると、打つ手はなしだった。彼女は康治元年(1142)出家し、女院の側近も次々と出家した。そして久安元年(1145)、女院は三条高倉第でその生涯を閉じた。45歳であった。面白いのは、女院は法金剛院の裏山に土葬せよと遺言していたことだ。そしてその墓の上には、小さい廟宇が建てられ「法金剛律院」と名付けられたという。女院には白河法皇とは違う埋葬の考えがあったようだ。なお「女院は、よほど魅力的な人柄であったと見え、側近に仕えていた女房たちの悲嘆は、ひとしおであった(p.282)」。

待賢門院の人生は、晩年は斜陽になっていたとはいえ、栄耀栄華を極めていたし、寵愛を失った晩年ですらも鳥羽法皇から敬われていた。鳥羽法皇は月忌には三条高倉第に御幸していたという。全体として、待賢門院の事績は嘉例と見なされていたことも疑いない。ただ、彼女が自分の人生をどう感じていたのか、その内面は明らかでない。彼女のサロンにはかの堀河(百人一首の「待賢門院堀河」だ)を始め才媛が犇めいていたのに、彼女自身は歌が不得意だったと見え、一首も残されていないのだ。和歌が内面を述べるものだとはいえないが、それにしても一首の和歌さえ残されていないことは、内面を窺うよすがさえない。

著者は、待賢門院はひたすらに法皇を愛していたと考えるが、それすらも確かではない。ただし状況証拠からすれば、確かに彼女は法皇の愛人であることには誇りを持っており、法皇に強く影響されていたのは間違いない。

一方、私が興味があった白河法皇の方は、常人には理解しがたい存在だという思いを新しくした。先例を無視する専制君主であるとか、好き嫌いの激しい気難し屋といったありきたりな形容に収まらないのが白河法皇だ。こういう君主に振り回された近臣は、「日本第一ノ奇恠ノ事」にたびたび遭遇しただろう。院政という新しい政治形態が出現したのは、社会情勢もさることながら、この白河法皇の強烈な個性によるところが大きいような気がする。

本書は全体として、普通の歴史書では書かれないような非常に細かい事項を書き連ねた本である。しかし読みにくくはなく、歴史のディテールが丁寧に繙かれるのはむしろ心地よい。そして、そこに現れる白河法皇・鳥羽上皇・璋子の奇妙な三角関係は、読者の心を引き付けて離さない。大上段の歴史論が展開されるのではなく、歴史の一断面が丁寧に描かれ、熱中して読んだ。

院政の内実を待賢門院から見る「衝撃の書」。

【関連書籍の読書メモ】
『白河法皇――中世をひらいた君主』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/02/blog-post.html
白河法皇の評伝。院政の成立を考える上で重要な白河法皇に初めて向き合った良書。

2025年2月9日日曜日

『白河法皇――中世をひらいた君主』美川 圭 著

白河法皇の評伝。

白河法皇は、院政を始めた人物として画期的な意義を持っている。ところが、白河法皇は昔から人気がなく(!)、本格的な評伝が全く書かれていなかった。人気がないのは彼が専制君主であったためというが、そんなことで評伝が書かれないとは不思議な気がする。

ともかく、その知名度からすると驚くべきことに、本書が初の白河法皇の評伝なのだ。

その生涯の意義は、第1に院政を開始したこと、第2に仏教を興隆させたこと、第3に白河や鳥羽という京都近郊を開発し、「権門都市」を出現させたこと、である。

なお、私は白河法皇の人間性や家族関係、その思想に興味がある。要するに私は彼の内面を知りたい。しかし本書は白河法皇の内面についてはあまり触れていない。本書の力点は、白河法皇その人よりも社会情勢にある。そのため私にとっては本書は少し期待外れだったが、それでも白河法皇の評伝が読めたことはありがたい。

まず、なぜ彼が院政を創始することになったか。

白河の父の後三条天皇は、170年ぶりの摂関家を外戚としない天皇であり、摂関家に対抗する意思を持っていた。後三条天皇を盛り立てたのが、藤原頼通の弟能信(よしのぶ)である。なぜ摂関家の能信が後三条天皇を後援するのかというと、彼は頼通との出世競争に敗れ、官位は44年間も権大納言のまま、位階も正二位に留められており、頼通に対抗する意図で後三条天皇に肩入れしたらしい。本来、即位からは遠かった後三条天皇が東宮になり即位できたのは能信のおかげである。それは「摂関家傍流の主流に対する反乱(p.26)」であった。

そして能信は自らの養女茂子(実父は藤原氏北家閑院流の公成)を後三条天皇(その時はまだ東宮)に輿入れした。そうして生まれたのが貞仁、のちの白河法皇である。

後三条天皇は、摂関家に対抗する意味もあって積極的に政務に取り組んだ。特筆すべきは荘園の整理である。彼の荘園券契所は、天皇の認可権を明確化する上で画期的な意義があった。ちなみにその仕事を裏で支えたのが博覧強記の大江匡房である。

この頃、たびたび内裏が焼亡していたが、その復興を行ったのも摂関家に対抗する意味があった。摂関家の屋敷はちゃんとあるのに、内裏は焼失したままで、天皇は居場所を転々としていたのである。なお内裏再建の膨大な費用を賄うため、公領と荘園の両方に税を課す必要があり、これには当然ながら荘園領主の協力を得なければならない。だから荘園の権利関係を明確化するためにも、荘園券契所が必要だった。

このように意欲的な親政を布いた後三条天皇は、突如として子の貞仁に譲位する。白河天皇である。この譲位の意図がなんであったか様々な論争があったが、現在では、白河天皇を中継ぎとして、白河の異母弟実仁を次の天皇とするための策であったと考えられている(吉村茂樹氏の説)。実仁の母は皇族出身の源基子で、摂関家の血から遠い。実仁が即位すれば摂関家の影響がより低下し、天皇家の独立性が高まるのである。

しかし白河天皇としては、異母弟の実仁に譲位するより、自分の子に譲位する方がもちろんいい。こうして意外なことに対立してきた摂関家の藤原師実(頼通の嫡子)と白河の利害が一致し、二人は手を組んだのである(ちなみに師実の娘、賢子が白河の中宮)。このあたりの歴史ドラマは極めて面白い。そして後三条天皇は実仁の即位を見届けることなく、譲位の約半年後に40歳で病没してしまい、後三条天皇の宿敵だった藤原頼通も相次いで亡くなった。こうして23歳の白河天皇と34歳の関白師実のコンビを中心とした新体制ができるのである。

藤原賢子が白河との間に産んだのが媞子、後の郁芳門院であるが、この愛妃賢子もわずか28歳で亡くなってしまう。死去の時、白河は死の穢れを気にせず賢子から離れようとしなかったという(『古事談』)。近臣の源俊明(としあきら)が「天皇が死に立ち会う例はない」と諫めると「例ハ此ヨリコソ始メラメ」と述べたという(p.48)。いろんな意味で白河の人間性を窺わせるエピソードである。

その約10年後、ライバルだった実仁も疱瘡で病死。しかしまだ実仁には弟の輔仁がおり、母陽明門院も健在だった。ゆくゆくは実仁の系統を天皇にするという後三条天皇の遺言はまだ生きていた。ここで何らかの工作が行われ、白河天皇はまだ8歳だった実子の善仁に譲位した。堀河天皇である。輔仁への譲位の動きが具体化する前に先手を打ったのだ。もちろんこれは摂関家との共謀があった模様である。

寛治8年(1094)、関白が師実から子の師通(もろみち)に譲られると、師通は白河上皇には臣下としての礼を取らず、強権的な政治を進めた。師通が関白の地位にあるのは白河のおかげではなく、父から譲られたのだし、師通にとって白河は引退した人だった。この時点では、院政は現れていない。

この頃(嘉保3年(1096))、都では田楽が大流行した(永長の大田楽)。田楽とは、派手な服を着て音楽に乗り、踊りや遊興を熱狂的に繰り広げるものである。彼らは「きらびやかな錦繍や金銀の装束、礼服や甲冑を身につけ、禁制の摺衣(すりごろも)を身につけ(p.34)」るなど、服飾の秩序を無視していたが、決して無秩序な群衆ではなかった。後のバサラに似たところがある。これに白河院は積極的で、楽器を提供さえしている。それは愛娘の郁芳門院が田楽が大好きだったことによるようだ。朝廷としては身分秩序を乱す田楽を規制しようとしたのだが、上皇がこれを好んでいたのは面白い。

ところが、大田楽を見た直後、郁芳門院が21歳の若さで突如死去してしまったのである。これにより貴族社会では大田楽が不吉なものとして捉えられるようになった。白河院は悲嘆のあまり出家してしまった(→法皇)。そしてしばらくして師通も38歳の若さで急死してしまう。かくもあっけない師通政権の幕切れであった。

師通を継ぐべき息子忠実はまだ22歳で権大納言。大臣にもなっていないので関白就任には早い。この摂関不在の状況で、堀河天皇の親政が展開する。天皇と院に対立があった時代である。ところが嘉承元年(1106)にふたたび田楽が大流行。永長の大田楽より過激に秩序が破壊された。そしてこの不吉な田楽と関係があるのかないのか、翌年堀河天皇が29歳の若さで亡くなってしまう。堀河の息子宗仁はまだ5歳。ここで35歳の輔仁の即位がいよいよ現実的となるが、どうしても輔仁の即位を阻止したい白河は幼い宗仁を強引に即位させた。鳥羽天皇である。

後日、輔仁の勢力による天皇の呪詛が明らかになったとして関係者が流罪となり、輔仁勢力が排除されて白河法皇の権力が確立した。では摂関家の方はどうなっていたか。師通の息子忠実は、関白にはなったものの権力基盤が弱かった。第1に忠実は外戚でもなんでもない上に若く経験が足りず、第2に藤原氏が分裂気味であり、忠実は摂関家も掌握しきれていなかった。ところが堀河天皇が亡くなったときに、忠実は鳥羽天皇の摂政として横滑りした。これにより外戚関係にかかわらず摂関家が摂関を世襲していく体制ができた。白河院政は摂関家を確立させる副次的な効果をもたらしたことになる。

しかし摂関家には手ごわい相手がいた。それが閑院流藤原氏、公成の系統である。白河天皇の母賢子から天皇家との姻戚関係が続き、急にのし上がってきたのが閑院流である。閑院流から白河上皇の養女(正確には、その寵姫祇園女御の養女)になった後の待賢門院、璋子(本書では「しょうし」と読む)も白河の寵愛を一身に受けた。白河は忠実の息子と璋子を結婚させようとしたが忠実はこれを断る。それならばと白河は璋子を鳥羽天皇に入内させた。この経過において、裏で忠実は璋子を悪し様にののしっている。璋子は淫乱でたくさんの男と関係しており、あろうことか養父白河とも性的関係が疑われていた。おそらくはこの悪口(あっこう)が白河に漏れ、忠実は罷免された。こうして摂関家は弱体化させられ、白河上皇の専制権力、すなわち院政が確立したのである。

この後、本書では院政とは何か、具体的に院政ではどのように物事が決定されたか、といった院政論が述べられる(第2~4章)。院政といっても、政務は天皇・太政官が担った。これに非公式的に関与したのが院である。それは役割分担などではなく、建前上の政治機構はそのままに、それを院が背後から支配していく体制であった。そして家格によって地位が固定化していた太政官に替わって、受領のような新興の貴族は院近臣としてのし上がった。それは、太政官の完僚制とは違って、院との主従関係に基づくシステムであった。

そしてこの院政のシステムに適応し躍進したのが平氏であり、寺社の強訴や地方での反乱に備えて院が育成したのが武士だった。武士は院を脅かすような存在ではなく、むしろ院政によって主従関係に基づく軍事力として育成されたものである。

次に仏教の興隆について。

院政期は、寺社の強訴が頻発した時代であった。なぜ彼らは強訴したのか。まず、当時の寺社は武装していた。意外なことに、僧侶の下層階級だけでなく上層部(学侶)も武装していた(しかし考えてみれば武士階級出身の僧侶もたくさんいたのだ)。ちなみに、「僧兵」という言葉はネガティブな意味で江戸時代になって使われるようになったものなので、最近は使わないようになっている。この寺社の強訴はこの武力を背景にしてはいたが、朝廷や院に対して武力が発動することはまれであった。なぜなら、寺社は政権と敵対する時もあったが、人事権を朝廷に握られており、武力衝突までいくといいことがないからである。

寺社の強訴が急増するのは師通が死んで院の専制権力が確立していった時期である。院は寺社の人事に容喙し、先例を無視した情実人事を行ったため、それに寺社は反発したのである。しかしそれは先述の通り武力攻撃を仕掛けたのではなく、仏法を笠に着ての示威行動であった。例えば承暦3年(1079)の延暦寺僧徒による祇園社別当職をめぐる強訴では、600人が大般若経各1巻ずつ、200人は仁王経を各1巻ずつ持ち、他の200人が武装していた。今でいうデモ行為である。強訴は寺の意思を代表する三綱や所司などの役職者も参加し、朝廷に要求が容れられれば即撤退した。反政府的なものではないのである。

また、この時期には延暦寺と園城寺のナワバリ争い、それらと興福寺との末寺末社争いなど、寺社内部にも火種を抱えていた。そして院の人事介入がきっかけとなって、反主流派が院の威光を背景に勢いづいて寺院内部の争いを顕在化させ、ことを大きくしたのが強訴なのだ。つまり、「強訴とは、当時の朝廷の政治が生み出したもの(p.178)」だ。院の関係した事態だから、朝廷ではなく院に対して処置を求めることになり、それが院の主体性を高める結果にもなった。

しからば院はなぜ寺院社会の内部に関与することとなったのか。

この時代、比叡山を中心に学問的水準が著しく高まったが、その要因の一つとして「中世学僧の昇進ルートが、当時の天皇や院によって確定されていったこと(p.183)」がある。従来、興福寺維摩会・宮中御斎会・薬師寺最勝会という3つの法会(南京三会)の講師を歴任すると僧綱に任じられる制度があった。しかしこれらが事実上興福寺に独占されたため、これらの法会ではなく権力者の加持祈祷を行うことで僧綱に任じられることが多くなっていった。そうなると教学が振るわなくなるのは当然である。その反省から、最勝寺法華会・法勝寺法華会・円宗寺最勝会という新しい3つの法会(北京三会)が僧綱への昇進ルートとして設けられた。これは延暦寺・園城寺の天台系中心の昇進ルートであった。また、尊勝寺では結縁灌頂が始められ、ここで小灌頂阿闍梨をつとめた僧が僧綱に任じられるようになった。いうまでもなく、最勝寺・法勝寺・円宗寺・尊勝寺は全て天皇・院の御願寺である。

白河法皇は熊野詣に入れ込んだことでも知られる。これは物見遊山的な要素が大きかったとも言われるが、園城寺長吏の行尊が白河法皇の後援を勝ち取るために運動した結果だったかもしれない。園城寺長吏は熊野三山検校を兼ねる慣習になっていった。

そして白河院政後期では、大量の仏像が作られたり、一切経が作られたり(摂関家に倣って院は紺紙金泥一切経を作った!)している。大規模に仏事を修し、昇進ルートを押さえることで、院は寺院社会を再編したのである。それにしても「晩年の法皇の仏教への帰依は、常軌を逸している(p.264)」。

次に、白河や鳥羽という「権門都市」の開発である。

平安京は律令制の理念で建設されていたが、それは陸上交通のみを考えた設計で、効率的でなかった。また左右対称の都市計画も理念倒れであった。そこでこれが現実に合わせて変わっていったのが摂関院政期である。ここで面白いのは、白河法皇の院御所は、京外の白河殿・鳥羽殿が有名だが、京内御所の方が数多いことだ。六条院・大炊(おおい)殿・土御門殿・閑院・高松殿などなど、本書には22もの(!)院御所となった邸宅が挙げられている。そもそもなぜ院御所はそんなにも変転したのか。この時代火災が多かったことも背景にありそうだがそれだけでは説明がつかない。場所と権力の独特の結びつきがあったのだろうか。中でも重要だったのが六条院で、ここを白河法皇は気に入っていた。そして愛娘郁芳門院がここで亡くなると、その菩提を弔うためここは万寿禅寺(六条御堂)となった。死んだ場所に菩提寺を建立するという思想が窺えて面白い。

京外の白河はもともとは摂関家の所有で、これが摂関家との協調期に師実から白河法皇に献上されると、法皇はここに度外れた寺院法勝寺を建立した。八角九重塔はそのシンボルである。法勝寺は摂関家の法成寺に対抗する意図があったとされる。ちなみに法勝寺は、二条大路を東側に延長した場所に位置し、白河には平安京と似た坊条が敷かれていた。平安京に似た都市計画があったのである。

そして白河には、六勝寺という御願寺群があったが、それまでの御願寺(仁和寺付近の四円寺など)が真言宗の影響下にあったのに比べ、六勝寺の場合は天台系との関連が深い。白河が比叡山の麓、園城寺への通路に位置している立地なのも意味があるのかもしれない。ちなみに法勝寺には、当初常住の僧侶はほとんどおらず、法会の際にはそれぞれ本寺を別に持った僧侶が集まってきた(だからこそ法勝寺法華会などが昇進ルートとしての意味を持った)。つまり普段はがらんとした場所だった。白河地区は古代都城と似た雰囲気で、六勝寺の伽藍配置も古代寺院に倣っていたようだ。賑やかな都市をつくろうという意図はハナからなく、権威の象徴としてのモデルルームのような場所であったように思われる。

ところが法勝寺の建立から20年ほど経って白河に院御所が設けられ、法勝寺にも住学僧が常住するようになり、白河北殿では国政レベルの公卿会議が開かれるようになる。モデルが実質化してできたのが白河の「権門都市」だ。

一方、白河とは全く違う思想で作られたのが鳥羽殿である。鳥羽の地は、白河天皇が在位中、譲位後の後院(ごいん)として開発を着手した。白河とは違うのが、坊条制が全く見られないこと、自然の景観(とくに面積の半分を占める巨大な池!)が生かされていること、面積が桁外れに大きいこと、寺院ではなく院御所の建設が先行していることなどである。そして国家的・公的なモデルルームが白河であったとすれば、鳥羽の方は私的な遊興の場だった。それは白河法皇の楽しみであり、政治をそこでするつもりはなかったのだが、院政の実質化に伴って「遊興というものの政治的な性格が表面化(p.242)」し、鳥羽殿は遊興の場でありながら政治の場ともなっていった。しかし鳥羽殿での公卿会議の議題を見てみると、寺社や騒乱に関する国家的に重要なものではなく、王家の家政に関するものがほとんどとなっている。しかも召集されている公卿も限定的だ。つまり鳥羽殿は、院と近臣という主従関係を基礎とした「権門都市」になっていったと考えられるのである。

ちなみに、摂関家の宇治にも坊条区画があったことが知られている。しかし意外なことにこれは摂関全盛期に整備されたものではないらしい。もちろん宇治の開発自体は平等院の建立など摂関全盛期から着手されている。ところが坊条ができたのは、忠実の時代らしいのだ。ということは、宇治は白河に対抗して作られた「権門都市」だったということになる。

白河法皇は77歳まで生き三条烏丸亭で亡くなった。同時代の評価は、藤原宗忠の『中右記』が著名である。それによれば「自分の好き嫌いで人事を行い、天下の秩序を破壊してしまった」という。さらに日記の裏書には、「法皇の御時はじめて出来の事」が列挙されており、例えば受領の情実人事などとともに「御出家の後、御受戒なきこと」が挙げられているのも面白い。

白河法皇は、鳥羽に三重塔を建てて自らの遺体を納めるよう早くから遺言していた。だが死の半年前、法皇は翻意して火葬して納めるよう命じた。死体が暴かれることを憂慮したらしい(『長秋記』)。師通の死後、山門大衆がその遺体を暴いて処刑しようとしたという噂を聞いたためだ。三重塔への埋葬も含め、死体に対する新しい観念を窺わせるエピソードである。

ところで、「例ハ此ヨリコソ始メラメ」(これが先例になるだろう)の言葉に象徴されるように、白河法皇が先例を尊重しない君主であったことは時代の変化を加速させたと思われる。なにしろこの時期の貴族は、先例と故実に明け暮れていたのである。そんな中で、専制君主が先例を全く意に介さなかったことは巨大な影響を及ぼしたことだろう。

本書は全体として、読みやすく端正にまとめられた白河法皇伝である。割合に図版が多く掲載されているのも親切だ。巻末につけられた年譜も便利である。系図は簡略であるが、人間関係にはそれほど深入りしていないので、ややこしくない。ただし、白河法皇の人事や行動がどのような事情に基づいていたのかを、法皇の内面に肉薄して知りたいと思う箇所もあった。

それから、本書には意外と荘園制との関連が書いていない。白河法皇の時代には院にはさほど荘園が集積していなかったということだろうか。院が荘園を集積していくのは御願寺を通じてであり、白河法皇の時代にはまだ荘園は副次的な役割しかなかったということなのかもしれない。

院政の成立を考える上で重要な白河法皇に初めて向き合った良書。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

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