2025年6月22日日曜日

『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著

日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。

本書には、「権門体制」と「顕密体制」という二つの新しい見方を提示したという画期的な意義がある。そして本書は、中世の宗教を考察する上で避けて通れないものである。しかし私は、数年前に本書を手に取ったがなかなか読み進めることができなかった(が、今回は概ね面白く読めた)。当然だが、ある程度の前提知識を要する本である。

本書は11本の論文が収録されており、その中心は書下ろしの(!)第3部(全体で論文1つ)であり、第3部に到達するための準備が第1部と第2部という構成になっている。第1部が権門体制論、第3部が顕密体制論であって、第2部はそれを繋ぐものという構成である。

第1部

「I 中世の国家と天皇」では、権門体制論が提唱される。これは元々岩波講座『日本歴史』に書かれたものであるから、学会誌に掲載される論文とは少し違う、概説風の論文である。

著者は本稿について「貴族・武士を含めて全支配階級が農民その他人民を支配した諸々の機構を総体的に把握することを、目的としたい(p.5)」とする。本論文が発表された頃は、貴族が「古代的」で武士が「中世的」だという枠組で物事が見られていたが、著者はそうではなく、貴族も武士も封建領主として共通の土台に立っていたと見る。その共通の土台、機構が「権門体制」である。

古代の国家権力機構を「律令体制」、近世のそれを「幕藩体制」と呼ぶことができるとすれば、中世のそれをどう呼ぶべきか。一つの呼称は「荘園体制」であるが、それは経済制度の呼び方であって国家制度・機構の全体を表すものではない。そこで著者は「権門勢家が国政を支配する国家体制を指す概念として「権門体制」という語をあてることと(p.9)」した。なお「権門勢家(権門)」とは、「荘園の最高領主であって権威・勢力のゆえに国政上なんらかの力を持ち得た門閥家」(著者の説明を要約)である。

この定義から、院政を行う上皇や天皇もそれぞれ権門勢家といえるし、幕府を含めて武士の棟梁も権門勢家であった。荘園をめぐる権利関係は、結成と離合を繰り返し、徐々に権門が系列化した。そのうち雄なるものが成立して、諸政治勢力の中核となった。またそれらの権門は、それぞれに自己の門閥都市を独自に形成した。興福寺・東大寺・院政政権・平氏政権・鎌倉幕府などがそれにあたる。

こうした体制の画期となったのは院政期である。その国家機構は、令制に基づくものでななく権門の門閥的支配機関が中心だった。「院政は完全な意味での権門政治の最初の形態(p.21)」と言える。

「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は、諸々の権門に分掌されていた(p.23)」。現在の政治体制でも、国家の機構は当然さまざまに分掌されているが、ここでいう分掌の意味はそれとは異なる。それは、警察や軍事のような機構そのものだけでなく、その財源も含めて分割されていたのである。(こういう譬え方は本書でされているわけではないが)霞が関の各省庁が、財務省から予算配分を受けて働くのではなく、経産省は茨城を治め、文科省は群馬を治め…といったように各省庁が自治団体として財源とその徴収機構を持ち、国政の一部を担うのが権門体制と理解したらいいかもしれない。

このような状況で、天皇の権力はいかなるものであったか。著者は天皇を「政治的にはまったく無力であった(p.30)」という。だがそれは無用なものではなく、諸権門を超えて担うべき国家としての役割があり、「ありうべき支配体制の必要から(同)」存在したという。ここでさらに著者は、神国思想を取り上げ、それが「天皇の政治的地位の形式化・観念化(p.33)」に伴うものであったと示唆する。つまり天皇が諸権門を超越して存在していることと、それと同時に天皇が担うものが形骸化していったことの帰結として、「天皇はいわば「神国」の最高司祭者とさえ説かれるにいたる(同)」。それは荘園における主従制が、地代の徴収に収斂したことにより、領民と領主の心理的隔絶が大きくなり、天皇がその救済者として観念されたという事情もあるのかもしれない。

国家権力の機構が分掌されているということは、中央集権国家ではないのだから、それは「きわめて弱体・形式的で、非集権的であった(p.35)」。そこで建武新政では天皇中心国家へ組み替える試みが行われた。つまり権門体制の否定である。ただ、「建武政権は、権門体制を克服し切るだけの条件と方針(p.39)」とを備えていなかった。室町幕府は、鎌倉幕府を踏襲して権門体制を継続させたが、応仁の乱が起こると諸権門は天皇家も含めて権門たる実を失ってしまい、荘園制とともに終了した。

このように、権門体制は院政から応仁の乱までの国家権力の在り方を表す概念である。なお、本編の目的は権門体制の提唱よりも、それを前提として中世の天皇がいかなるものだったかを述べることにあったと思われるが、天皇についての考察は意外にもやや簡素である。

II 鎌倉幕府論覚書」では、権門体制の見方で鎌倉幕府を位置づけている。

鎌倉幕府は国家と言えるか? と昔から議論されてきた。鎌倉幕府の支配地域は概ね東国に留まっていただけでなく、検断権や裁判権など国家機構の一部しか担っていなかった。何よりその時代も朝廷は存在したのであり、宣旨や除目などは朝廷が行っていた。こうした議論に対し、著者は「そもそも幕府は権門の一つと理解すべき」と、鎌倉幕府が国家と言えるか論に応えている。朝廷と幕府は二重政権として矛盾対立していたのではなく、「一つの安定的体制(p.53)」だったというのである。

公武の両者は、権門として対立しつつも相互補完的であった。そして、幕府が国政全般にわたる権力を行使する時には、つねに宣旨が出されていた。このように幕府には国家そのものとはいえない特質が認められる。「現実に国家として絶対にみとめられえないもの(=幕府)を国家として探求しはじめたところに、誤りがあった(p.61)」と著者はいう。そもそも、幕府は国家を樹立する気もなかったと著者は考える。そもそも幕府は、所領を維持するため、「その支配階級としての地位を国家権力機構によって保証されること(p.69)」を求めた。そのためには権門体制がもっとも好都合であった。すなわち、権門体制という基盤があったからこそ、鎌倉幕府という一見中途半端な政権が生まれた。しかし著者は幕府の意義を認めないというのではない。辺境の一地方の政権というのではなく、武家の棟梁として新しい権門を構成したところに幕府の意義がある。

また本稿には、こうした考察の副産物として、天皇の権威についての独特の見方が提示されている。各種の権門が併存しているために(著者は朝廷も権門の一つと見なす)、権門ごとのそれぞれの領域内で処理しきれない事象が存在する。幕府が全国的な指令を出すにあたって宣旨を求めたように、主従関係の外にある人々に何かを働きかける場合などだ。そんな時には天皇の権威が必要だった。つまり権門が独立しているからこそ、天皇でなくては処理できない領域が生まれるのである。権力の分散と分権の結果、かえって天皇が超越的権威として必要とされた。つまり天皇は国家権威のための権門として機能したのである。

III 鎌倉時代の国家機構—薪・大住両荘の争乱を中心に」では、二つの荘園間の紛争を通じて鎌倉時代の荘園の実態と国家権力の在り方について述べる。

本稿の目的は「鎌倉時代の国家が(中略)全体としていかなる階級的性格のものであったか(p.73)」を考察することである。冒頭で公武の身分的秩序、農民との関係などが議論の俎上に挙げられ、荘園制について考えるために衆徒・神人についてケーススタディがなされる。題材となるのは、嘉禎元年(1235)から翌年にわたって山城国の薪・大住両荘の紛争である。紛争が起こったのは「関東御成敗式目」発布直後、北条泰時の執権期間という鎌倉武家政治の典型期である。

本稿ではこの紛争がかなり詳しく追及されるが、ここでは大略のみ記す。まず、薪は石清水八幡宮領で、大住は興福寺領であった。ただし、薪の方が興福寺に近く、大住は石清水八幡宮に近かった。そして大住の中に、石清水領の飛び地である橘薗という場所があった。こうしたやや複雑な関係が紛争の背景にある。紛争の内容は用水相論である。まずは水の用益権をめぐって、両荘で殺し合いが起こった。これは領主である石清水八幡宮と興福寺に持ち込まれ、興福寺側の衆徒が大挙して薪荘を攻めた。これに対し石清水は八幡の神輿を持ち出して朝廷に強訴せんとし、摂政九条道家はそれを慰撫するため石清水に因幡国を寄進することととした。ここで面白いのは、興福寺と石清水の用水相論であるにもかかわらず、それと全く無関係な朝廷が因幡国を寄進することで幕引きを図ろうとしたことだ。

「八幡や興福寺の上層部はどちらかといえば神人や衆徒の動きに振りまわされており、神人や衆徒が神威・寺威を主張してさまざまな要求を出すことに困惑(p.91)」していた。朝廷や上層部は事態の収拾を図っていたが、現場の人々は納得せず、紛争は3度繰り返された。3度目の紛争では、神人でも住人でもないもの同士が殺し合いをした(薪方が大住方を殺害)。彼らは何者だったのか? 著者は、後の「悪党」のような浮浪的存在であったと見る。彼らは地元住民にやとわれたというより、彼らが火に油を注いでいたのかもしれない。だが、百姓や神人(農村上層部)がそうした存在を抱きかかえたことも事実だ。

騒動は興福寺衆徒による強訴へと展開する。興福寺の衆徒たちはついに神木を平等院に遺棄して退散した。彼らが求めたのは石清水別当・権別当の配流と下手人の断罪である。興福寺内部では、ことを大きくすることに消極的な興福寺別当や氏長者のいうことを聞かず、祠官を衆徒が押さえつけていた。そして朝廷は彼らの要求を受け入れざるを得ず、因幡国の停止さえも裁許された。この衆徒は、僧侶というより、荘官職を持つ武士的なものであったことはもちろんだ。だが彼らは寺内の規式に従って衆議によって集団的に行動してもいた。つまり、彼らは形式的には興福寺の機構の一員であるが、私的な権益の確保のためにその機構を利用していた。皮肉なことに、それが「いわゆる「古代的」機構が緩慢にしか解体しない理由(p.112)」であった。

権門体制の内部で、このような衆徒はどう位置付けられるだろうか? 彼らはことを荒立てて氏長者・別当を追い込み、妥協を難しくすることで自らの存在を主張した。もちろん、究極的には氏長者・別当に従わざるをえなかったが、ある面では主導権を得たのである。しかしながらそれは権門という機構の弱体化が避けられないものであった。

なお、この騒動で最も苦しい立場に立たされたのは当事者でもなんでもない摂政九条道家であった。そもそも、荘園間の小さな争いに最高権力者が振り回されることが権門体制の一つの特質を表していた。どんな小さな争いであれ、権門間の利害の調停は、権門を超える権威=超権門としての天皇・朝廷しかできなかったのである。

石清水別当・権別当の配流、下手人の断罪、因幡国の停止で事件は落着したはずだったが、実は朝廷はこれを裁許しただけで実施する気はなかった(!)。衆徒はだまされたのである。これで収まる衆徒ではなかったが、興福寺内部での抗争(つまり内ゲバ)があり、問題は興福寺のガバナンス全体に及んできた。ここで幕府が積極的に事態の収拾に乗り出し、結局幕府は衆徒鎮圧のため大和国に守護を置き、衆徒の知行する荘園を没収して地頭を設置した。大和国は興福寺が治めており、そこには守護・地頭は設置されていなかったのであるが、「幕府のこの未曽有の強硬措置に、やがて衆徒は屈服を余儀なくされた(p.126)」。騒動が収まったのちに、幕府の守護・地頭は停止されたが、ここで幕府が超権門的な(=国家のような)ふるまいをしたのは注目される。

そもそも、幕府はこの騒動には何の利害もなかったのに、なぜわざわざ鎮圧したのか。著者は「まさに権門体制の国家権力の一部としての役割を果たしていたことを示すものではなかろうか(p.131)」と述べる。紛争の調停を指示する幕府の文書は常に「御教書」という私的文書であり、それが効力を持つには宣旨を必要とした。ということは、「幕府が独自の国家権力をなしていたのでなく、権門体制国家のなかの最有力な権門の一つにすぎなかったこと(p.134)」をも示すのである。

IV 延暦寺衆徒と佐々木氏—鎌倉時代政治史の断章」では、延暦寺衆徒と佐々木氏との2つの紛争から権門体制の在り方について述べる。

本稿で取り上げられるのは、建久年間と嘉禎年間に起こった2つの紛争である。佐々木荘は延暦寺の千僧供備進の荘園であったが、建久年間の紛争はこれが未進であったことを発端として起こった。近江国守護でもあった佐々木定綱はその下司であった。衆徒側が未進を責めたものの、佐々木定綱の子はこれを撃退。これは義務を果たさなかった佐々木氏側に落ち度があった。興福寺衆徒はこれを強訴して訴えが認められ、定綱らは処分された。この過程において頼朝は定綱に同情的で、関東へ下向した叡山の使者を丁重にもてなし、定綱の減刑を求めて交渉した。なおこれが鎌倉幕府成立後のはじめての「僧兵」蜂起事件であった。

頼朝は、定綱の赦免後には近江国守護に復帰させ、本知行地を悉く返給した上加増して与えた。このように頼朝は定綱を保護していたのに、彼は終始その罪を認める態度をとらざるをえなかったところが面白い。この騒動を主導していたのは衆徒であったが、朝廷はもちろん延暦寺上層部もこうした騒動を好ましく思わず、ことを収めるように協議した。そして定綱の配流、その子の斬罪などの処分が行われた一方で、衆徒の方には何の処分もなかった。頼朝は私情を抑えて国家に忠実な態度を貫いたのである。

次の騒動は、嘉禎元年(1235)に起こった。佐々木高信(守護佐々木信綱の子)が、地頭として日吉社神人に所役を課したため、それを不服とする日吉社・延暦寺との闘争になったのである。この騒動で延暦寺座主尊性法親王が辞職。だが衆徒はこれも不服として神輿動座の挙に出た。朝廷は高信の処分を決定、一方幕府は双方の処分を求めた。衆徒としては幕府に反抗して騒動を拡大させたが、幕府は態度を緩めず、結果として双方が処罰されたものと思われる。このように幕府が衆徒に対して強く出ることができたのは、衆徒の側が一枚岩でなく、在地農民派・悪僧派・良識派(座主派)・武家加担派などに分裂していたという事情もあるが、先の建久年間の紛争とは政治的状況が違っていることも窺える。

例えば、この時には「公家・座主・幕府間において建久年間のときのように相互の意向を打診し協議する動きがほとんど窺われない(p.160)」。特に、朝廷は幕府の意向を確認せず、独自に裁断している。これは朝幕関係が悪くなっていたのではなくて「先例の確認があれば改めて相互に意向を打診する必要がないほどに、諸権門相互間の権限がかえって安定・定着の傾向をみせて(p.162)」いたためではないかと著者は考える。そして頼朝が佐々木定綱に温情を見せたような、個人的な(主従関係に基づく)配慮もない。諸権門間が一見相互の連絡折衝を欠いているように見える意味は、それぞれが国家において担うべき役割が明確化して、機械的な処理ができるようになっていたからではないのかというのである。

「V 建武政権の所領安堵政策—一同の法および徳政令の解釈を中心に」では、元弘元年(1333)に発布された「諸国一同安堵の宣旨(一同の法)」と翌年の徳政令について考察されるが、私は建武政権に疎く、正直あまり理解していない。よってメモは割愛する。

第2部

「VI 鎌倉仏教における一向専修と本地垂迹」では、一向専修と本地垂迹が基本的に対立関係にあったと述べる。

著者は一向専修を「多神観を前提としてそれを克服する論理の形式を意味する(p.192)」という。阿弥陀信仰は一神教的な性格が顕著であるが、しからばこれは本地垂迹の理論とはどういう関係になっていたのか。

民衆の間に広まっていた浄土教は、狂躁的・呪術的・群衆的なものだったと著者は考える。信仰の内容は雑然としていたが、教理の上では一向専修に整理されていった。

一方、本地垂迹説の方はどうか。『神道集』に収録された説話を見ると、東国の話の場合は「あからさまな付会が目立ち、しかも神々が説話の全面に出てしまって本地仏のことは申しわけ程度にしか記されていない(p.202)」。要するに本地垂迹の理論が形式的にしか適用されず、実際には神々を中心に見る意識があった。「『神道集』は最も大切な本地垂迹の原理について不可避的に矛盾に陥らざるを得なかった(p.205)」。そして本地垂迹は人間にまで適用された。人、神、仏が雑然と垂迹関係で結ばれ、「本地」の持つ意味が希薄になった。「つまり説話を吸収しようとしたために、神格と人格、神話と伝説(ないし歴史)とが縫合され、呪術と精霊とがそのまま宗教的に神秘化され(p.206)」た。仏教が持つ彼岸性が本地垂迹説によって後退したといえる。

このような前提の上で、著者は親鸞以降の一向専修と本地垂迹の関係を考え、特に異安心(異端)の教説に着目する。詳細は省くが、「本願誇り」などによって極端な思想が社会との軋轢を招くと、親鸞の後継者たちは神祇信仰と融和するような主張をするようになった。これは、専修念仏の教団が神祇信仰と徐々に妥協したことを示すとともに、親鸞の一向専修と本地垂迹には元来は原理的な対立があったことも示している。

ちなみに著者は本地垂迹へ大変厳しい評価を随所で下しており、例えば「本地垂迹の基本的な性格は、民衆のもつ奔放な願望としての没論理性を、思考を放棄する低俗な没論理性へ導くところの付会的な系譜論であり、もってあらゆる要素を支配秩序に組入れる荘園制反動勢力の論理であった(p.216)」という。要するに、民衆的な雑然とした伝説を都合よく支配者側の思想大系に組入れることができるのが本地垂迹の論理であったというのだ。

本地垂迹の説話に民衆世界を見るか、それとも支配者側の作為を見るかによってその評価は正反対なものになりそうである。

「VII 愚管抄と神皇正統記—中世の歴史観」では、『愚管抄』と『神皇正統記』に現れた歴史観について述べる。

本稿は意外なところから始まる。11世紀の初頭ごろから流行した、聖徳太子に仮託される「未来記」というものがある。これは僧徒らが制作した予言の書である。それは当初は仏教の将来について語るものだったが、やがて政治的な内容に発展した。「未来記は、結局一種の歴史叙述を形成した(p.223)」。また「軍記」は武士の武勇を記録するために書かれ、これも「中世全般をおおうに足る厖大な歴史叙述をのこし(p.224)」た。しかもそれは、無常とか世の変転を基調としながら、主体的に動く人間を描いていた。このように、未来記の予言的神秘主義の歴史観と、軍記の英雄叙事的な歴史観は、中世における対蹠的な関係を持っていた。

この関係は、慈円の『愚管抄』と『平家物語』の関係にも擬えられる。 慈円の目的は、「政治の「道理」を説くことにあった(p.228)」。その道理は、歴史の形而上学を思弁するようなものでなく、実証的な歴史の動きを記述することで浮かび上がるもので、その目的のため『愚管抄』のほとんどが仮名書きされたことも、日常語による歴史記述として画期的な意義がある。そこに書かれたことは、王法が次第に衰え、末法へおちくだるという苦難の歴史であった。そして慈円は、それは偶発的事件の連続ではなく宗教的法則の展開、すなわち必然であったとする。しかも彼のいう道理は、夢告による神秘的な霊感によって体得されたものであった。道理という合理的な響きとは裏腹に、その歴史観は宗教的なものなのである。 

著者は次に北畠親房の『神皇正統記』を俎上に載せるが、その前に神国思想について考察する。「中世の神国思想は、中世社会における伝統・慣習・先例などを尊重する意識と密接な関係(p.238)」があり、宗教的・歴史的意識を基盤とするものである。そして重要なことは、神国思想を刺激したのは、禅と念仏が神国たることを無視していた(と批判者たちが見なした)ことで、旧仏教を擁護する概念としても神国思想が機能していたということである。

『神皇正統記』の目的は、「皇統が正理に基づいて伝えられたことをのべる(p.242)」もので、それはもちろん南朝の正統性を主張することに繋がっていた。このために好都合だったのが、「皇室中心的な神代紀を「神書」としてせんさくしていた(p.244)」伊勢神道であった。こうして北畠親房は、「新たな宗教的歴史叙述の形をつくり上げた(p.248)」。それは「教理(ドグマ)に照らして歴史を把握する(同)」ものであった。これは『愚管抄』の立場と似てはいるが、ドグマが固定的であるため歴史の動きが否定され、非歴史的となってしまった。

彼の皇統論は当時必ずしも大きな影響力を持ったとは言えないが、当時最大の精神的支柱であった思想「神国思想」に基づいた歴史であったたために、「封建社会が絶対主義に傾斜しはじめたとき、復活することとなった(p.251)」。 

「VIII 中世国家と神国思想」では、神国思想とは何かを様々な観点から考究している。

未だ神国思想の「学問的把握への設計図さえ提示されていない(p.255)」と著者は言う。神国思想には政治的性格が濃厚であるが、その政治性は強調されすぎたきらいがある。むしろ「神国思想を日本の中世宗教史に位置づけて理解する(p.256)」方が適切ではないか。

まず、神国思想の基盤として、「神祇不拝」「諸神軽侮」など言われた一連の運動があった。専修念仏運動では阿弥陀仏への絶対的帰依から、神祇不拝が言われるようになった。法然や親鸞がみずから神祇不拝を説いていたかどうかは確かではないが、彼らが神祇崇拝を重視しなかったことは確かで、神祇不拝を助長した。教団への攻撃を避けるべく、真宗の指導者たちは神祇への軽侮を誡めていたが、それは専修念仏に神祇不拝の態度が内在していたことを示している。

しかしながら、社会全体としては神祇崇拝が当然だったのはいうまでもない。特に農村では領主制と神祇崇拝が結びついていた。

また神国思想では、「日本は神が護っている国だから、敵国に侵略されることがない」とされる。これは蒙古襲来以前から言われており、国土を神聖なものとみなす観念である。では実際に蒙古襲来の時に武士は神国思想を抱いていたか。どうやら「武士が神国の意識をもって合戦に臨んだとすべき資料は、存在しないといってよい(p.273)」。にもかかわらず「神風」は吹いた。これによって「神明の威徳」「神祇の冥助」は明らかだとされ、引いては天皇の権威が観念的に高まっていくのである。

神国思想は、本地垂迹説と相即する。それは現世を賛美するものだからである。一方、専修念仏は、現世を穢土として否定し、浄土を目指すのであるからこれと基本的に相反する。が、14世紀にはいって、覚如・存覚の時に神国思想と本地垂迹説が真宗に持ち込まれた。これでは一向専修の論理が「骨抜き(p.278)」になってしまう。それは、神祇不拝の激発を防止するためだったのではないか、というのが著者の考えだ。それに、真宗では現世の規範などはなんら宗教的に与えられていなかったから、「現世擁護の神は、かくて必然的に要求され(p.283)」た。これは「浄土教の盲点(同)」であった。

真宗ですら神国思想を承認したことは、この時代「神国思想がすべての宗派に不可避的な力でおおいかぶさっていた(p.279)」ことの証左である。それは社会の封建化に伴うものであった。現世擁護を基調とする神国思想は封建領主と封建イデオロギーにとって都合がよかった。それは、超越者によって領主を相対化するのではなく、現世の在り方そのものを承認する思想であった。

では神国というときの「神」は誰なのか。もちろん天照大神のような神は中心的存在であったが、民衆世界には雑多な神々が祀られており、仏教では位置づけられないそれらの雑多なものを整理するため、当時は権社・実社の区別が行われていた。 だが権実の枠組みも空論になりかけたころ、いわゆる神本仏迹説が起こった。そして『唯一神道名法集』では、「神は、(中略)もはや神話や呪術の神々ではなく、汎神論的な霊物でもなく、唯一最高の絶対的造化神に昇華するいきおいをしめ(p.291)」している。

 一方、神国と浄土の関係はどうか。日本の国土が神々に守護された楽園なのだとすれば、後生に浄土を願う必要はないではないか。しかもその神々は、本地垂迹説によれば仏の化身であって、神国は仏国土でもあるのである。つまり、神国思想では「現世こそ浄土(p.299)」であった。神国思想は、浄土を否定するのではなく、現世を浄土として位置づけなおしたのである。

現世が神によって支配されるものだとすれば、人々はその支配にどう服すべきか。しかし神道には数々の禁忌はあっても教理や一貫した信条はない。「三種の神器」を持つ神の代理人である天皇の支配を受け入れる他ないのである。その非論理性に対し、神道書ではいつでも「神道のこと測り難し(p.303)」の言葉に逃避した。

神国思想を前提とすれば、その国家観念は極めて現状肯定的なものになる。慈円は神器の意味づけを通じて国家を密教の論理から把握し、本地垂迹説によって神と仏が無条件に接続されたことで、日本を仏教的=神道的な宗教国家として観念した。そして慈円は、国家の衰微や武家の世の到来を嘆きながらもそれを宗教的な「道理」として受け入れた。彼は「神国」とは言わなかったが、明らかに「神国思想と同内容の中世的国家観念(p.310)」を持っていた。

「我ガ朝ハ、神国也(頼朝)」は、当時の共通認識であるが、その神は元来は天皇ではなく、伊勢その他の諸社に祀られた神を示していた。しかし神国である以上、天皇は神格化されずにはおれない。特に幕府の伸長によって天皇が政治的実権を失ったこと、さらには神器が注目されることで、天皇は都合のよい宗教的権威として尊崇されることになった。

しかし神国思想は実態としては政治イデオロギーであるため、政治的な立場によって逆の結論が導き得る。典型的には南朝と北朝の対立がそれである。そして現世肯定的な思想は、農民の生活改善には何ら後ろ盾にならない。また一貫した教説を持たないことはその思想に多くの矛盾を内包した。しかしながら「本質的に対立する理論が成長して反抗運動を展開するまでの条件はなかった(p.323)」。

応仁の乱後、社会の在り方は大きく変わり、大名領国制へと転換したが、神国思想は存続した。「神国思想は一貫してつねに封建支配者の教説で(中略)かつて一度も民衆を解放する運動の合言葉にはなったことがない(p.327)」からだ。

これまでの説明で明らかな通り、著者は神国思想を思想としては全く評価しない。もちろん、神国思想は国家神道の淵源でもあったのだから、当時の雰囲気としても同様であっただろう。では思想として力がなかったのか、というとそうではなく、中世的な国家観念の核として機能したのが神国思想であり、当時の人が広く共有していたのが神国思想であった。だが著者は「神国思想は、みずからがなしくずしの不徹底な中世宗教であったばかりでなく、純粋な中世的宗教の発展を抑圧し、挫折させ、あるいは混濁させたのである(p.330)」とまでいう。

これを自分なりの言葉でいえば、国土の観念と宗教が一体化したことにより、本来は宗教が担うべき「聖なるもの」の観念を「国土」そのものが代替してしまった、ということになると思う。その意味で、神国思想は既存の宗教をある面で骨抜きにする論理だったのである。

「IX 一向一揆の政治理念—「仏法領」について」 では、仏法領に注目することで中世的宗教の在り方について考察している。

「仏法領」とは、蓮如の言葉に出てくる概念で、「仏法が支配する領域」といった意味である。それを著者は「世俗領主が所領・領国をめぐって争乱をつづけているなかにあって、かかる世俗的方法によらない信心者の集団の世界=「領」を意味するものであった(p.334)」としている。

蓮如の描く仏法領はユートピア的である。「世間には物も食すして寒かる者も多きに、食たきままに食て着たきままに物を着る事は聖人の御恩なり(p.338)」という。仏に全てを任せ、仏の絶対支配下の領域に入ることで、来世の浄土ではない「現世の仏世界」にゆけるという。これは、神国思想とパラレルなものであるように思われる。

来は来世での救済のみを企図していた親鸞の教団は、成長するに従って現世的な秩序を指向するようになった。そして親鸞は非僧非俗を標榜して戒律も守らなかったが、現世的な秩序のために事実上戒律が形成されていった。そしてその象徴が、現世での楽園であると同時に仏が支配する仏法領という観念なのである。

「X 中世の身分制と卑賤観念」では、中世の身分とはどのような観念であったかが検討される。

著者は中世の身分には4つの系列があったとする。第1には村落。ここでは「住人・村人」と流動的な層の「間人(もうと)」がある。第2には荘園・公領。「本家・領家・知行主・国主」「荘官・在庁・地頭」「本百姓・小百姓」「下人」などである。第3に権門の家産支配秩序。これには公家・武家・寺社などがそれぞれ身分秩序を定めていた。第4に国家体制に基づくもの。「帝王」「臣下」「諸大夫・官人」そして「平民」「奴婢」といったものである。

これらは別の系列をなしていたが、それをまとめると(1)王家・摂籙家、(2)司・侍、(3)百姓、(4)下人、(5)非人の5つに集約できる。これらが「身分」であるというのは、「「種」すなわち出生の別による「人間の品」(p.361)」と考えられたことによる。

では、先ほどの4系統に亘る多様な立場が、全て生まれながらの身分と固定化していたのかどうか。例えば寺社のそれは生まれながらの身分であるとは認められない。なぜなら僧侶の妻帯は戒律に違反していたからだ。しかしながら、社会的分業という意味では両者は同様に捉えられていた。

というわけで、例えば『普通唱導集』という史料では、職業・身分・階級関係などを2つの軸で四象限に分類している。それは「聖霊」と「芸能」という軸と「世間部」と「出世間部」という軸だ。例えば
聖霊の世間部:「天子」「主君」「養父」「子息」など
聖霊の出世間部:「僧正」「僧綱」「師範」「禅門」など
芸能の世間部:「武士」「歌人」「陰陽師」「巫女」「鍛冶」「瓦造」「博打」など
芸能の出世間部:「説経師」「律僧」「禅僧」「真言宗」など
である。

すなわち、尊卑の観念を考察するためには、「国家秩序に基づく身分(階級的身分)」と「社会的分業による身分(芸能的身分)」の2つを考える必要がある。そしてこの2つは多くの領域で重なって細かな身分を成立させたが、重ならない領域があった。つまり、芸能的身分のうち、「公事ではありえないもの」を担う人々で、「国家秩序に基づく身分」を持ち得なかったもの、がそれである。具体的には、商人・都市遊民・非人・乞食・遊女などである。ごく大雑把に言えば、体制内に位置づけられない人々がそれであった。

似て非なるものが「下人」である。彼らは特定の芸能を持たないが、主人に従属している存在であるから体制内の存在であることは明らかだ。「下人」が実態として「農奴」「奴婢」であったとしても、身分の上では非人などとは全然違うのである。

まずこのように身分の概念を整理してから、著者はこうした身分の特質を考察する。キーになるのが非人である。先述の通り非人は身分外の身分であるが、具体的にはどのような人々であったか。第1に、乞食や濫僧(乞食法師)などの貧者・廃疾者、第2に唱聞師・絵解き・傀儡子師など遊芸の人々(ただし、遊芸の人々は当時の史料では非人とされておらず狭義の非人ではない)、第3にキヨメ・河原者・ヱッタといわれた人たちである。

なお、高弁が「非人高弁」と自署したように、聖も体制から離脱した人たちであり、自覚的に非人と位置づけていたようである。「非人身分は、階級的な搾取関係を固定するために成立した身分ではない(p.385)」。とはいえ、全ての非人が体制から自由であったのでもなく(!)、散所非人や犬神人は、不浄な雑用のために使役されるべく支配秩序に組み込まれていた。キヨメなどもそうである。

日本の場合は、人種や種族に基づく差別はなかったのであるが、特定の芸能(死体の片付け、屠殺等)に基づく不浄視が種姓観念の確立に重要な役割を果たした。つまり、前世での宿業によって不浄な仕事をしなければならない境遇に陥ったのだ、という理解が、生まれながらの身分(種姓)観念の基盤となったという。

このような「中世の身分制は、ほぼ14世紀を境に異なった様相をみせはじめる(p.393)」。守護にしても国人層にしても、荘園制を否定はしなかったため、その支配のための身分秩序を否認することはなかったが、旧来の権門が退潮したことで階級的身分の枠組みが薄くなり、芸能的身分が濃厚になっていったのである。そして「惣」的結合が強固なものとなって村落共同体から外れた存在が賤視されるようになった。

さらに、非人集団を支配体制に組み入れる動きもあり(東寺の散所や大和の唱聞師)、元来は体制外の身分であった非人が、体制によって固定化され、差別が強化されていった。これは「個別人格支配による隷属関係でなく、中世にもましてはるかに徹底した総体的・階層的支配(p.397)」であり、「「穢多・非人」については、もはや社会的に自然発生的な体制外の存在などでは絶対になく、政策的に体制内に組み込まれ設定されそして固定された身分となったのである(同)」。

※本稿には「非人」の語義についてポルトガル人の辞書を参考に考察した「[付説]「七乞食」と芸能—ポルトガル人の日本語文典における部落史資料」が付されているがこれのメモは割愛する。

第3部

第3部は「XI 中世における顕密体制の展開」という書き下ろし論文のみで構成される。これは5つのパートに分かれており、本書の約5分の1を占めている。顕密体制とは「日本中世において正統的とみなされた宗教の独特のありかたを意味する概念(p.413)」であり、本稿は顕密体制の展開を見ることによって「日本中世の国家と宗教との関係の基本構造(同)」を考察することを目的としている。

「1 顕密体制の成立」では、顕密体制の成立過程について述べている。律令制古代国家の崩壊にともなって、国家とは何か、どうあるべきかという問いが為政者のみならず百姓にまで突きつけられた。

ここでは意外なことに、民衆の側の宗教意識が『日本霊異記』を題材にして読み解かれる。これは庶民の宗教的欲求をいくらか反映している。さらに9世紀の天台宗と真言宗にいたっては「豪民以下の地方庶民の要求に適合的であったことは確か(p.428)」である。そして彼らが喧伝した密教は、「全宗教の包摂あるいは統合(p.432)」を企図していた。日本人の宗教意識は密教を究極の原理として統合され、上は天皇から下は民衆までの需要に応えたのである。それは単なる呪術ではなく、「国土と人民とを鎮護する大乗仏教の理想(p.435)」にまで高められていた。 

続く10世紀には浄土教が発達した。 「貴族層の耽美的な観想の念仏と庶民の呪術的・狂躁的な念仏(p.436)」は対蹠的なものであったが、これには共通の基盤があったと理解した方がよい。著者は貴族と庶民を対立的に捉えるのではなく、むしろ宗教観念において共通するものがあったと見なす(「観想の念仏についても庶民的呪術的な「郷里の念仏」との異質性において特色づけたのでは、反って全般の動向を的確に把握できないのでなかろうか(p.439)」)。

そして念仏を基軸にして体制外に飛び出した宗教者「聖」の盛行も、「密教によって統合された宗教思想の一種として念仏が成熟したことを意味する(p.440)」という。国家的な仏教と決別して民衆に念仏を説いた聖たちは、一見、国家的仏教へのアンチテーゼのように見えるが、そうではなく、国家外にも密教や念仏といった宗教概念が確立していた証左だというのである。 

一方、顕教と密教は対立するかのように捉えられていたが、天台宗の主導的活躍により「顕密の一致・円融あるいは相互依存的な併存を最も妥当なものとみなす体制(p.442)」となった。それは教理的に整理されたというばかりでなく、民衆まで含めて国家全体で共有されたイデロギーとみなせるのである。これが著者のいう顕密体制である。

顕密体制では、「第一に、鎮魂呪術的基盤の上に密教による全宗教の統合が行われ、第二に、その上に各宗固有の教理や顕密融合についての種々の教説および各流派の密教的作法が成立し、第三に、そうした集団としての各宗(八宗)が世俗社会からその正当性を公認され一種の宗教的秩序を形成していた(p.445)」。

顕密体制が「正統的」というのは、国家によって承認されていたことはもちろんだが、それは国家権力によって承認されていたために「正統的」であったのではなく、民衆的基盤の上に正統的立場を獲得したというのが著者の考えのようである。

「2 王法と仏法—権門体制の宗教的特質」では、 王法と仏法の相依関係について述べる。

著者がその糸口とするのは、またしても意外なことに本地垂迹説である。「本地垂迹説が11-12世紀に急激に進展し新たな段階を劃したのは、以上のように荘園制支配の集中的な組織とそれを根幹とした政治・流通・通交・文化伝播などの諸交通形態の成立と密接な関係にあったものとみられる(p.452)」という。日本の各地にいる神々が本来は仏であるなら、地方—神—仏—国家というように、日本全体の国土をひとつの国家として統合することができる。

特に、権門勢家は実力(武力とか行政)よりも権威によって権門でありえたので、その権威は極めて観念的なものであった。そこに、権門体制において権門が宗教と結びつく蓋然性があった。そしてその頂点に位置する国家・天皇は、超権門的でなければならないために一層の権威性・宗教性が求められ、帝徳論や神器論によって神秘化された至高性が理論化された。

一方、鎌倉幕府は新興の権門であったために、伊勢・八幡など国家の宗廟神への崇敬の姿勢をはっきりと示し、「日本国総守護職」としての立場を顕揚した。

これらの事例からいえることは、朝廷や幕府は、それ自身が国家として不完全であったために、宗教的国家観念に寄生することで存在を補強したということだ。白河法皇が「王法は如来の付属に依て国王興隆す(p.464)」と述べるように、国家の究極の目的を「仏法流布」であると自ら規定することで国家の正当性を保証しえた。王法・仏法は相互に依存関係にあったが、「理念的・論理的には仏教が原理的な位置を占めてさえいた(p.465)」。

しかし、仏法の方は、国家とは違って一枚岩ではなく八宗や神祇信仰まで含めた「顕密主義」と表現すべき存在であった。よって唯一の正統的な宗教・教義が確立するということがなく、むしろ国王がもつ伝統的・宗教的権威が優越した。よって、仏教が原理的な位置を占めながら、「諸宗・諸寺院の貫主についての叙任権がいつも国王の側にあった(p.467)」のは一種の倒錯である。

「3 仏教革新運動—異端=改革運動の展開」では、 いわゆる鎌倉仏教を「異端=改革運動」と位置づける新しい見方を提示している。

従来、鎌倉仏教はあたかも当時の中心的な宗教運動であると見なされてきたのだが、著者は顕密主義こそが正統的地位にあり、それに対する改革運動こそが鎌倉仏教だったという。

その証拠に、仏教改革運動は「すべての段階でつねに、顕密主義と対峙しつつ展開した(p.480)」。彼らが挑む必要があったのが、正統的地位にある顕密仏教であり、それが攻撃目標となった。 彼らは密教の呪術性や現実肯定主義を克服し、個人の信仰と実践を重視した。そして顕密主義の総合性をなげうち、むしろもっとも時機相応の、もっともすぐれた(と彼らが考えた)方法を専修することで仏法本来の理想に立ち帰ろうとしたのである。

そしてその戦いは、王法と仏法が相依しているがゆえに、自然と国家権力と対決するものとなった。それは、民衆が国家によって一方的に支配されるのであなく、徐々に自立的な存在へと変貌していく中で、民衆の側の論理として成長していったのである。しかしながら、国家は異端=改革運動を弾圧はしたが、教義上の論争に介入したり、特定宗派を弾圧したりするということはしなかった。国家は、宗教を自らの管理下におこうという発想はなかったのである。

13世紀の後半になると、「顕密体制の体制的統制力は弛緩しはじめ(p.502)」、顕密仏教の内部も衆徒の横暴など頽廃の度を強めた。一方の異端=改革運動も、単純な反顕密主義ではなく、「正統=顕密主義との葛藤のなかではるかに複雑な経緯をたど(同)」った。様々な思想が入り乱れたのである。だが異端=改革運動の元来の性格から、それは「宗教改革」を指向するものであり、民衆的な抵抗運動と結びつく必然性があった。一向一揆によって「顕密体制が終末をつげる条件をつくったのも、ゆえなしとしない(p.503)」。

「4 中世の神国思想—国家意識と国際感覚」では、中世の神国思想が顕密主義に本来的な固有のものであったことを述べる。

平安末期から鎌倉中期にかけて「神祇についての人々の関心がなにか特別のたかまりをみせた(p.511)」。その理由を、著者は伊勢神道をケーススタディとして探っている。伊勢神道では心が一種の神であるとか(心神ハ則天地之本基)、神の基本的特性として「清浄」があるとか、あるいは正直の重視といったことを、儒家や五行説などを借りて主張した。そこには本覚思想の影響が濃厚である。つまり本覚思想が伊勢神宮に適用されたことで生まれたのが伊勢神道ではなかろうか。 

仏教と神道は元来は別物であったが、顕密主義ではそれが一つに統合されていた。しかし神道の側が仏教理論を適用することで、神道の方がより根源的な位置にあるのだと主張するようになった。「要するに神道は天地未分の混沌=本源のものであり、仏法はその後の我相憍慢の猥りな心の段階のものだ(p.520)」というのである。ここで注意すべきは、神道は仏教から独立したがっていたというのではなく、神仏が統合された世界において、神の方がより上位にあるのだと主張したということだ。もちろん、伊勢では仏法を忌むとされ、神仏を峻別する儀礼は存在していたのであるが、それは人々にとって不可思議なことであり、当の伊勢の神官たちも仏法を否定しようとはしていなかったのである。

このような神道説の盛り上がりの中、国土そのものを神聖視する神国の観念が成長していった。面白いのは、仏教の異端=改革運動が展開する中で、並行的に神国思想が強調されるようになったことだ。つまり神国思想は、旧体制を維持するための、支配者にとって都合のよい政治的・宗教的イデオロギーであった。それは蒙古襲来によって盛んになったというより、体制の弛緩を押し止めるために支配の正統性を補強する必要があったことによる。「つまり、神国思想は、都鄙民衆の素朴な寿祝的な神祇崇拝を「天下太平、国家安穏」という国家と権力の鑽仰へと結集するあからさまな国家イデオロギー(p.538)」となって、密教に変わる立場を占めるようになるのである。すなわち、現状肯定の思想が本覚思想→神国思想として発展し、「封建支配の反動イデオロギーの切り札(同)」になったのであった。

「5 日本思想史における顕密主義—歴史的展望」では、顕密体制/顕密主義の終わりについて述べる。

先述の通り、顕密体制/顕密主義は国家体制と相依するものであったために、体制の変革によって終わりを告げる運命にあった。また顕密主義の内部においても、天台・真言宗の堕落、禅・律諸派の興隆、禅宗の発展などによる変化が起こっていた。最終的に顕密体制が崩壊することになったのは、一向一揆・法華一揆・きりしたん一揆などである。これらの農民一揆において、その理念として宗教が掲げられ、王法と宗教とは別次元のものだという発想で運動が展開したことが重要なのである。これは王法・仏法の相依という顕密主義を真っ向から否定するものであった。

またここで留意すべきなのは、一見、仏法を貶める見方をしていた唯一神道が顕密主義の枠を出るものではなかったということだ。

近世になると、幕藩権力はあきらかに宗教を統制下におき、また仏教との絶縁を主張する神道が創唱された。顕密主義/顕密体制は、名実ともに終了したのである。

私なりに顕密体制を一言でまとめると、「国家の前に、国家的宗教があった」ということになる。不完全な国家(権門体制)は、図らずも成長していた「国家的宗教」を取り込むことで国家であることを仮構したのである。 

****

本書は全体として、どう歴史を見るか? どういう枠組みで歴史を理解するか? ということに強くこだわっている。

権門体制論にしろ、顕密体制論にしろ、歴史への見方・把握の枠組みを大きく変更するものである。そしてその論理は非常に特徴的だ。例えば、ある史料を提示して「この史料は、従来の見方では解釈できない」として新たな見方を提示するのが普通の歴史学であろう。ところが著者は、論文の冒頭で「こういう見方で歴史を把握してみることにする」と宣言する。

そして、その見方によって旧知の事項を徐々に整理していく。新しい史料を発掘して歴史の新事実を明らかにするのではなくて、旧知の事項を新しい見方で整理することで生みだされたのが「黒田史学」であると感じた。

この方法論は必然的に、具体的な史料や細かい歴史的事実の記述へと向かいにくい。つまり、文明史論的な大づかみの論理が中心となる。だから一見、難解な一次史料にあたる場面が少ないから初学者にもとっつきやすく感じるのだが、実際には咀嚼するのが難しいのが本書である。なぜなら、「旧知の事項の整理の仕方」にこそ著者の独創性があるからである。私自身、このメモを書きながら、なんとかその独創性に肉薄しようとしたのだが、どこまでそれが理解できたのか心もとない。業界では最重要の歴史家でありながら、黒田俊雄が一般にはほとんど認知されていない理由が分かった気がする。

中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。

【関連書籍の読書メモ】
『日本の歴史 (8) 蒙古襲来』黒田 俊雄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/8.html
蒙古襲来からの鎌倉幕府の滅亡までを描く。蒙古襲来を起点として鎌倉末期の諸相を描いた良書。神国思想についての記述があるが、本書は黒田が若いときの作品であるためその見方は少し異なる。

『王法と仏法—中世史の構図』黒田 俊雄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_10.html
仏教をキーにして中世社会を考察する論文集。やや専門的だが、今なお日本中世の社会の見方を再考させる力を持った論文集。 

『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。顕密体制論をさらに精緻化している。

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2025年6月8日日曜日

『日本法制史』瀧川 政次郎 著

日本法制史の嚆矢。

今でこそ日本法制史と題した本は何種類も出ているが、昭和3年に刊行された本書はまさにその種の本の始めであって、また瀧川政次郎の出世作でもある。なぜ昭和3年まで日本法制史が世に出来しなかったかというと、日本近代の法律および法学は海外からの移植を主としていたから、法学と日本史学の融合的分野である法学史が形成されるまでに時間を要したからであった。

日本法学史の形成には、不平等条約の改正も大きく影響している。単に西洋の法律を日本に移入するだけであれば話は簡単だったが、日本の場合は幸か不幸か幕末の不平等条約を克服しなければならないという課題があり、「西洋の法学を乗り越える」必要があった。そしてもう一つ影響したのは、「民法出でて忠孝亡ぶ」で有名な明治民法の制定を契機とした論争である。この論争では「我が国古来の醇風美俗」を保存するための旧慣保存が叫ばれた。この結果、明治26年に帝国大学法科大学に法制史の講座が設けられたのである。ただし、この頃の法制史学は資料収集と有職故実の保存が主眼であった。

明治の終わりには不平等条約も改正され、大正時代に入ると、大正デモクラシーの自由な雰囲気の中、日本の歴史を西洋の法学で検証する実証的な法学史が登場した。これには、西洋の法学と日本史という二つの専門分野の融合を必要としたが、「稀代の秀才」と謳われた瀧川政次郎はまさにこの仕事にうってつけであった。何しろ彼の母方の祖父(船木又兵衛)の家は代々有職故実の学をもって主君に仕えた家であり、政次郎自身もこの学問を授けられ、『職原抄』や『禁秘抄』を読んだのは驚くべきことに小中学時代であったという。

本書は「第1編 総論」に、法制史とは何か、その研究方法、沿革、法制史の区分などを述べ、その後具体的な時代ごとの法について述べている。ここで、法制史とは「古代法の解釈を行うことそれ自身が目的ではなくして、それによって古代人の法律生活を明確にすることが目的なのである(p.41)」としているのは重要だ。つまり、法律を明らかにすることで、古代人の生活がどうであったのかということの研究を行うのである。すなわち法制史学とは、人間の学なのである。

次に、時代区分について述べる。著者は日本の歴史を(1)固有法時代、(2)支那継受法時代、(3)融合法時代、(4)欧米継受法時代の4つの時代に分ける。

(1)固有法時代は国初より大化改新まで、(2)支那継受法時代は大化改新から鎌倉開府まで、(3)融合法時代はさらに3つに小区分され、①式目時代:鎌倉開府から応仁の乱前後まで、②国法時代:応仁の乱より元和偃武に至るまで、③元和偃武から大政奉還まで、そして(4)欧米継受法時代はそれ以降である。著者の法学史観は、この時代区分を見るだけでも窺われると思う。なおこの時代区分の呼称はその後の日本法制史にはあまり引き継がれていない。

なお、私自身が法制史に向き合う上では3つの関心があった。

第1に、律令制が有名無実化していく中で慣習法が制定されていくが、その法源と律令との整合性の問題について。著者は鎌倉開府を一つの区分けとしているが、鎌倉幕府の法律は必ずしも国政全般にわたって完備したものではなく、朝廷(宣旨、綸旨など)も重要な法源となっている。幕法と律令、宣旨や綸旨などの臨時法令はどのように共存したのか。著者の区分では(2)の後半から(3)の①までの話である。

第2に、江戸時代の法律について。江戸時代は、日本の歴史の中では律令制以来の法律的に完備した時代であった。しかも律令が多分に理念的であったのに比べて江戸時代の法令は実際的である。ここで一応、日本の法律が完成したといえる。しからばその内容はいかなるものであったか。

第3に明治初年に、どのように法律を移行させたか。明治政府は、江戸時代の法律を一度に廃止したのではなく、大政奉還後にも「高札を守るように」と民衆に指示している。では法律はどうやって移行させたのだろうか。

これらの関心に対する、本書からの所見を簡単に述べておく。

まず、第1の点に関しては、本書はあまり深く立ち入っていない。それは、本書では法律と慣習法(①明文的に定められているのではないが、当時の人が守るべきと考えていた規範、②臨時に出された行政文書の2つを含む)を弁別したり、その法源を考究したりすることに頓着していないためである。本書の視点はあくまで「人々がどのような法に規制されて(いると思って)いたのか」であり、法律そのものやその在り方の歴史を述べるものではない。それはもちろん、先ほど述べた著者の立場、すなわち「古代人の法律生活を明確にすることが目的」であるということから導かれるものである。

ちなみにこのことは本書を読む上では非常に重要で、著者の述べる歴史はあくまで法律の歴史ではなくて人間の歴史であるため、大きく歴史観に影響される。そして本書は昭和3年刊行のものであるから古い日本史学を前提としており、今では額面通りに受け取ってはいけない部分も多い。これについて著者自身が「歴史は歴史家の異なるに従って、常に書き換えられねばならない運命を持っている(p.58)」と述べる。では本書には骨董的な価値しかないかというと、そうともいえない。本書は、一人の歴史家が、法を通して日本史を通観したものとして価値があるのではないだろうか。

話を戻して、第2の点に関しては、下巻に関するものであるので、ここでは述べない。

第3の点に関しては、本書(上下巻)は(4)欧米継受法時代を全く取り扱っていないため、この関心には答えてくれなかった。

なお、上巻は(3)の①、すなわち「式目時代」までを取り扱う。本書は極めて浩瀚なものであり(上下巻あわせて約800ページ)、以下のメモは気になったところのみの備忘である。

第2編 固有法時代

この時代の記述は他の項目に比べれば比較的簡素である。目を引いたのは、この時代の「氏」というものが、さほど強力な団体であったとは見なしがたいこと、母権制は歴史時代にはほぼなくなっていることなどである。本書全体を通じて相続の制度については大きな重点が置かれているが、この時代は「相続の制度を知り得る材料も極めて貧弱(p.125)」としていて、詳細は不明とする慎重な立場に立っている。なお、本書では「十七条の憲法」など、法律そのものは基本的に引用されない(必要に応じて言及される)。しつこいようだが、本書は法律そのものの歴史というよりは、法律を解釈して構成した人々の生活の歴史なのである。

第3編 支那継受法時代

日本は唐の律令(唐律)を受け入れたが、律はほぼそのまま踏襲した一方、令(行政法)の方はかなり大きな変更を施した。例えば、僧尼令を新設したこと、神祇令の内容を日本の慣習に基づいたものにしたことなどである。日本の律令は、ある程度までは実施されたことは確実であるが、文字通りの施行ができたとしても一時のことで、次第に現実と乖離していった。こうして「平安朝以来法意に対して行事と称する実際的なる慣習法が、勢力を得るに至った(p.142)」。行事法の中でとくに 重要なのは「例」と「明法勘文(みょうぼうかもん)」である。例は臨時の処分を行った詔勅官符宣旨の類で、今でいえば行政からの「通達」である。明法勘文は当時の法律家による、律令格式の解説書であり、今でいえば「コンメンタール」であろう。このように、固定的かつ時代錯誤的な律令格式を基本に、通達やコンメンタールでもって規制を加えていたのがこの時代である(今もさほど変わらないかもしれない)。

職制についてはかなり詳しい紹介がある。ここで面白いのも、「令外官(りょうげのかん)」と言われた、例えば「検非違使」のような律令に規制がない官職が増加していくことである。しかも令外官の方が国政の実質を担い、令制官職の方は閑職となりつつ位階化(名誉職化)していく。

また蔵人所(くろうどどころ)は、元来は文書の保存を担うところであったが、次第に文書業務全般を担うようになった。令制では数々の決裁を要する煩雑な仕組みで文書を発給していたが、これが簡略化されて蔵人所で作成し天皇等の決裁で発給できる「宣旨」なる形式の文書が支配的になっていったのもまた面白い。

ともかく、令制では一般的に手続きには多くのプロセスを要し、複雑な指示命令をともなったため、それを実際的に簡略化した官職ややり方が瀰漫していくこととなった。また職務の内容についても、例えば国司は部民撫養といった民政面が忘れられて、公廨稲(くがいとう)の分配に与る収益権のごとく考えられ、ついには遥授国司(遥任国司)のように赴任さえ省略されたように、単なる権益のみの存在となっていく。それどころか権益さえもたず国司という官名を称する特権だけがある国司や、その希望者なきときは(国司の欠番を避けるため?)仮想の人物を国司に任じたことにすることまでも行われた(仮名(けみょう)国司)。それは律令国家の瓦解にともなって政府の役割が縮小していったことに対応してはいたが、全く法律が有名無実になるのではなくて、法律自体はあることにしておいて、それを換骨奪胎していくという、いかにも日本的なやり方であった。

律令国家の時代、非常に強力な制度だったのが土地の私有を禁じたことである。土地は政府によって支配され、それが口分田として班給された。ここで面白いのは、神社・寺院がすでに法人的なものとして扱われ、神田・寺田については6年ごとの班年に収授を行わなかったことである。これは後の時代の荘園制に大きく影響したように思われる。また、土地は全て国家の持ち物とされたが、「墓地の外は私人の私有を許さない(p.171)」としたのは注目される。つまり墓地のみは私有が認められていた。墓地の性格を考える上で重要である。

しかし、周知のごとく班田収授の法は様々な面で無理があり、班田自体が困難になっていく。その制度的弛緩は延暦20年(801)に六年一班(6年ごとに班田を収授する)の制を改めて十二年一班にしたことだが、なんと薩摩・大隅に初めて班田制が実施されたのはその前年の延暦19年(800)だった。なお、税率はたいだい全収穫の3%程度とされているが(←ただ、近年の研究では実質負担で考えるともっと高かったと考えられている)、延暦以後はさらに低くなった。それは、いろいろな理由をつけた不輸租田が増加したこと、すなわち徴税機構そのものが弛緩したためであった。

一方、人頭税(調庸)の方も、様々な理由で免除された。高位の人々が免除されたのはもちろんのこと、孝子とか義夫といった人までも調庸が免除されていたのは興味深い。しかしこれらは孝子のような立派な人を優遇した制度ではなく、富者の負担を軽くし、貧者の負担を重くする仕組みになっていた。当然に人々はこの不平等な制度から逃れようと種々の策を用い、戸籍や土地計帳はますます有名無実になっていくのである。

刑法が形無しになっていくのも似た理由である。元々、日本の刑法は中国のそれに比べて刑罰は軽かったが、検非違使庁の判例(庁例または流例という)によって量刑が行われるようになると、悪事に対して適切な刑罰が加えられなくなり、仏事供養による恩赦が濫発されたことでいっそう秩序が紊乱した。こうした状況になったそもそもの原因は、罪人を収監して労役を強制せしめたり、犯罪人を追捕したりする機構が維持できなくなったことにあるのだろう。よって、犯人速罰の実力を有する武士が検非違使に任じられることになったのである。

この他、物権法として不動産物権、動産物権、担保物権について述べ、さらに債権法として売買・交換、贈与、消費貸借、多数当事者の債務・債権、使用貸借・寄託、不法行為などについて述べている。この種の法規が詳述されることは本書の大きな特徴であるが、個人的には疎い分野なのでここでは割愛する。なお、この時代は財産は相続されたが債権は相続されなかった(p.248)ことは重要である。

次に、親族相続法について述べるが、ここは簡単ながら面白い。中古の戸(烟)は一個もしくは数個の家の集合体であったが、「中古の戸は自然団体といわんよりは、むしろ法律の定めた人為団体であるといった方が適当(p.266)」とし、著者はこの時代の家族制度は法律によって形成されたものだとする見解である。実際、家族制度には法律の規定と運用が違った部分が多い。例えば、養子は養親の四等以内に限られていたが、実際には異姓養子が普通に行われた。嫡子は法に規定されていたが、親は子を不孝(ふきょう=義絶)することで自由に嫡子を立てることができた、といった類である。なお、女性の権利は一般に高く、後のように男性に完全に従属する立場に置かれていたわけではない。

第4編 融合法時代前期(式目時代)

本編では鎌倉・室町時代の法令を取り扱う。鎌倉時代は、慣例法が発達した時代である。それは「理論を抜きにした極めて実際的なもの(p.286)」だ。この時代の慣例法には4つの系統があり、それは①検非違使の庁例、②摂関家の家司および荘園で行われたもの、③武家の間の法、④寺社内部の法、である。本編のタイトルに「式目時代」とあるが、式目が日本全体の法令であったと誤解してはいけない。この時代には、公家・武家・寺社がそれぞれの領域で統治を行っており、それらの多くが先例や先規によって行われた(寺社の場合は、神仏に誓う形の寺社法があり、衆議を重んじる点でも重要)。成文法である式目はむしろ例外に属する。であるだけに、『御成敗式目』の制定は画期的な意義も有しているのである。

なお、『御成敗式目』の第1条は神社のことを規定し、第2条は仏寺を規定している。これは律令に倣ったものという。また、幕府は随時必要に応じて将軍御教書の形式で追加法を出しており、これも式目と称している。ちなみに、『建武式目』は名前は式目だが、これは答申のごときものであり正確には式目(法令)ではない。ところで、幕府の組織について非常に注目されるのは、守護、地頭、奉行、探題、執権など、それまでになかった言葉で機構が表現されていることだ。もちろん国司のような旧来の機構も称号として残ったが、幕府(鎌倉・室町)は、律令の仕組みを援用するのではなく、最初から実働的なものとして組織を構成した。

次に具体的な法の内容だが、項目は「封建制度」「土地制度」「刑法及び司法制度」「人権法」「物権法」「債権法」「親族相続法」となっている。

封建制度については、主従関係がその中心になるが、当時の主従関係は双務的契約関係である。しかし当時の人はそれを法律的な権利義務ではなく、道徳的なものと感じていたという。よって奉公義務は御恩に対する分量的な反対給付ではない。御家人に対する御恩は基本的には土地の用益権であり、奉公は軍事動員への協力である。が、百姓の場合はどうなのか。本書では百姓は作手職などとして御恩を受け、これに対して課税されたという説明をしているがどうも腑に落ちない。また関所料や棟別銭など臨時的な課税は奉公とは見なしがたい。この時代に、領主と百姓の間に法律的な意味で御恩と奉公の関係があったのかどうか、はっきりしなかった。

土地制度については荘園制について述べているが、荘園制は本書以降に研究が長足の進歩を遂げた分野であるから読み飛ばした。

刑法は戦乱の時代に「ますます威嚇的、復讐的(p.353)」となった。罪人の首を晒すことも戦国時代には普通になった。また縁座の法の適用犯罪も拡大された。著者は、縁座法が濫用されたことが、後の五人組・十人組の制度につながったと見ている。

司法制度については、武家の訴訟法が「実に目覚ましい独自の発達(p.357)」を遂げたとする。訴訟は「所務沙汰(所領の争い)」「雑務沙汰(民事裁判)」「検断沙汰(刑事裁判)」の3つがあり、所務沙汰についてはだいたい書面審理だったというのが面白い。文書が非常に重要な時代だったことがわかる。

人権法、物権法、債権法の3つを通じて興味深いのは、それらの制度には社会における貧富の差を感じさせるものが多いということである。例えば、人権法では奴婢の規定があるが、これは貧富の差というよりは尊卑の差ともみなせる。ところが、担保や債権という制度はそうではない。お金を貸す方も、返される当てがあるからお金を貸すので、一方的な上下関係ではないのである。この時代の新傾向として「動産不動産の外に、人身及び債権が質権の目的に加わった(p.385)」が、人身(妻子・所従等)が加わったところに、尊卑ではなく貧富によって人が奴婢化していく時代の傾向が窺われる。また質営業(金融業)も盛んになり、室町幕府は土倉(とくら=質)に関する法令を盛んに作った。例えば法定利率、返済期月、質物の保管義務など細かく規定された。これは、質に関して様々な問題が噴出したことを示唆している。

借金について、幕府は様々に規制した。特徴的なのは、利子の合計の上限を元本の1倍と定め(1倍以上の利息は無効)、また利子を元本に繰り入れることも違法であるとしたことである(つまり複利は違法)。これは現代から見てずいぶん良心的に見える。また鎌倉幕府は債権の時効を10年と定めたが、室町幕府はこれを緩和(?)して、10年後も銭の3割を返済させた。にしてもまだ良心的な設定といえる。しかし、こうした禁令がしばしば発せられたことは、高利での借金や苛酷な取り立てが行われたことを示唆しており、こうした禁令が実際にはあまり守られていなかったことをも窺わせる。

これからもわかるとおり、室町時代は貨幣経済が進展するとともに商業が発達した。それにより富の集積と没落が起こっていく。しかし御家人が没落して所領を売買してしまうと、主従性の根幹である御恩と奉公が崩壊する。これは幕府にとっては都合が悪い。そこで幕府は所領の売買を禁止したが、金に困って売っているのであるからこの法令は必ずしも守られなかった。そこで幕府はしばしば徳政令を発し、所領の売買を無効とした(所領の取り戻しの意味での徳政の初出は永仁5年(1297))。ところが、これが無効とされてしまうと債務者が困る。そこで債務者は数々の予防線を張った。例えば、証文に「徳政あっても変改しない」といった特約を注記するとか(徳政文言)、借金のカタではなく「事情があって所領を譲った」とする譲状にすることなのである。こうした方法が有効であったのかどうかは定かではないが法律上は無効であった。

金融業の発達によって為替も発達した。遠隔地にある所領から収穫物を運搬することが困難であったことが為替の発達を促した。特に当初は寺院が為替の役割を担ったが、これは本寺末寺の関係があったことが為替の取り組みに便宜がよかったためだろうという。

親族相続法については、まず一門とか一家とかの範囲が軍事的統率権に基づくもので、何親等以内が一門だというような規定がなかったことが述べられる。統率権の及ぶ範囲が一門とか一家なのだ。そして主従性の観念が家族内にも浸潤して、女性の地位が低くなった。それでも女性はなお離婚する自由を持っていたものの、中世後期には制限されるようになった。親子も主従のようなものとなり、父権は強大となった。子を義絶することも親の当然の権利であった。よって不孝の子を義絶して器量の良い子を養子にすることが行われた。相続に関する規定は数多いが、それは相続が重大な社会事象であったことを示唆している。そして中世後期には、前代の分割相続とは違い、嫡子に財産を一括して相続する一跡相続が行われ、戦国時代の分国法では恩領の分割そのものが禁じられた。

財産の相続が重大事になるに伴い、財産の生前相続による「隠居」が一般の習慣となった。この意味の「隠居」の初出は、『難太平記』である。なお、隠居の元来の主旨は、老齢では軍役を勤めることができないという事情によるものと思われる。

(つづく)

【関連書籍の読書メモ】
『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/03/blog-post.html
荘園の通史。荘園を学ぶ上での基本図書。

『中世の罪と罰』網野善彦・石井 進・笠松宏至・勝俣鎮夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post.html
日本中世における罪と罰の在り方を考察する論文集。中世の罪観念を繙き、そこから中世社会の特質を窺うエキサイティングな本。

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2025年4月30日水曜日

『後白河院――王の歌』五味 文彦 著

後白河院の生涯とその時代を述べる本。

本書の副題には「王の歌」とある。これは『梁塵秘抄』の歌を表す。いうまでもなく『梁塵秘抄』とは後白河院が編纂した、今様(いまよう)という歌の集成だ(『口伝集』という今様論を含む)。

先日、私は『梁塵秘抄』をざっとではあるが通覧した。そこに表現されていたのは、同時代の勅撰和歌集などとは全く違う世界だった。当時の和歌が、本歌取りや序詞や、さまざまな隠喩を織り交ぜた、難解で不自由(だからこそ面白くもある)なものであるのに比べ、『梁塵秘抄』の今様は、直截的かつ説明的で、しきたりに捉われない新鮮な自由さがある。

本書の主人公後白河院は、若いころから今様に熱中し、遂に『梁塵秘抄』を編纂するに至るのだが、今様のこの独特な調べを知ると、俄然後白河院に興味が出て来た。今様は明らかに当時の貴族文化とは違う、あえて言えば武士的な雰囲気の文芸なのである。後白河院のセンスは異様なのだ。

異様なのはセンスだけではない。彼の人生そのものが通常の尺度では評価しがたい。無責任な動きが多く暗主ともされるが、後白河院についての数多くの本が出版されており、間違いなく人気がある。本書は、そんな後白河院の生涯について、『梁塵秘抄』を横軸にして語るものである(ただし以降のメモでは、本書に縦横に引用された『梁塵秘抄』の歌は一切割愛した)。

後の後白河こと雅仁は、皇位継承があまり期待できない立場であった。長兄の崇徳が天皇になっていたので、本来なら出家していてもおかしくなかった。だが藤原通憲(後の信西、雅仁の乳母の夫。当時の姓は高階)は後白河に期待してあえて出家させなかったと見られる。ともかく天皇になれる見込みは薄かったので、雅仁は帝王学を学ぶこともなく、今様に熱中した。「声を破る事は三箇度」に及んだという。どうやら今様は詠唱の芸術らしい(和歌を詠んで声を破った話は聞かない)。

ちなみに若いころの雅仁の今様の師匠は「かね」という神崎の遊女であった。皇子が遊女を師匠にするとは異様だが、当時の貴族たちは様々な芸能をたしなんでおり、芸事に入れ込んだのは雅仁だけではなかった。特に「花園の左大臣」こと源有仁は、後三条天皇の孫にあたり、父の皇位継承が果たせず源氏姓を与えられ風雅の世界に生きた人で、「百大夫」と呼ばれる芸能にたけた人たちがその邸宅に出入りした。雅仁はこの源有仁に大きな影響を受けたらしい。どことなくキャリアパスのモデルだと感じていたのかもしれない。

しかし思わぬ方向に事態は動く。崇徳天皇は退位させられ、藤原得子(美福門院)と鳥羽院の間に生まれた近衛天皇が皇位を継いたのだ。そして得子は雅仁の子の守仁を養子にした。そして近衛天皇が跡継ぎを儲けないまま17歳で亡くなると、白羽の矢が立ったのが守仁である。美福門院は、せめて自らの養子を天皇にしたかったのだ。こうして、守仁の父である雅仁が中継ぎとして天皇になり、守仁が皇太子となった。「父を差し置いて子を帝位につけるのはよろしくないとの信西らの意見が容れられた(p.36)」からだ。

鳥羽院が死去して政治的空白が生まれると、主導権を取ったのは信西だった。保元の乱では、後白河天皇は主体的に動いたのではないが、「この乱を通じて、天皇であることの意味を強く自覚し、武者の姿を間近に見て、武力のあり方をよく学んだ(p.40)」と著者は考える。保元の乱は後白河天皇側、つまり信西の勝利に終わり、信西は天皇を前面に押し立てて、様々な改革を実行した(保元新制)。特に荘園整理のための記録所の設置、大内裏の復興・行事の再興は重要である。信西は後白河を暗愚と見ていたが、一度聴いたら忘れない抜群の記憶力には一目置いていた。

後白河天皇は次々と仏教行事を内裏で行い、出家前から袈裟を着ていた(『愚管抄』)。彼は即位後は今様を謡わなくなっていたらしいが、「乙前」という遊女を師匠にして今様を再開し、また様々な芸能の人々を召すようになった。これは、政治をないがしろにして遊んでいたというよりは、むしろ芸を通じて人々を収攬する意図ではないかと著者は推測している。

美福門院は守仁の即位を信西に迫り、二条天皇として即位。結果、後白河は上皇となってより自由にふるまうことができるようになった。そんな中、院の近臣として目立ったのが藤原信頼である。彼は院の男色の相手だったらしい。そして信西と信頼の対立が軸になって平治の乱が起こった。信西は追い詰められて自殺、信頼が勝利したかに見えたが諸勢力は彼を認めず、結局孤立して討たれた。こうして上皇は、平治の乱で二人の近臣を共に亡くしたのである。

一方、平治の乱の恩賞によって一躍力をつけたのが平家一門。特に平清盛は後白河院を経済的に後援して地位を不動のものとした。ところで、この時期に院は御所を造営したが、そこで永暦元年(1160)に日吉社と熊野社を勧請して御所の鎮守(新熊野社、新日吉社)としたのは注目される。本書では簡単に書いているが後白河の独特な思想を感じる。この勧請の直後、美福門院が死去。後援者を失った二条は後白河と対立するようになり、この二人の間を「アナタコナタ(『愚管抄』)」に調整した清盛が主導権を握るようになる。一方、後白河は清盛の妻の妹滋子を寵愛し皇子を儲けた。後白河としてはこの皇子に期待するのが当然だ。この動きに危機を覚えた二条天皇は院政を停止し、清盛を味方につけて後白河を排除した。

失意の後白河は蓮華王院の造営に邁進。院政は停止されていたが、院庁がなくなったわけではなく、蓮華王院を核に後白河は所領を集積させた。蓮華王院には内外の宝物が集められて国王のコレクションの意味を担うようになった。一方の二条は体調を崩し、子に譲位(→六条天皇)して、「天皇の未来を平家一門に託した(p.75)」。二条はその一月後に死去したが、「この葬儀に出席したのは、公卿九人と殿上人少々ほどであったという(同)」。栄枯盛衰が甚だしい。

こうして後白河院政が復活。滋子との子の憲仁が皇太子に立てられ、清盛が東宮大夫になった。東宮を平氏が支える体制である。清盛が後白河院政を経済的に支えたのは言うまでもない。さらに後白河は清盛を太政大臣に任じたが、清盛はわずか3か月後に辞職して長子の重盛に地位を譲ることを示した。「平氏は直接に国政の運営に参加しようとはしなかった(p.82)」。このような状況の中で清盛が急病に倒れて出家。六条天皇を退位させて憲仁が即位した(高倉天皇)。

『梁塵秘抄』が編まれたのはこの頃である。後白河は今様を和歌と並ぶ芸術へと昇格させたかったらしい。そして後白河は神仏からの守護を得る望みを今様に託し、「神仏の意思を直接聞くためにも今様が必要と考えた(p.88)」。そして後白河は出家した(→法皇)。ただし院政には大きな変更はない。なお後白河と清盛は同時に東大寺で受戒している。

清盛の娘徳子が法皇の猶子となって高倉天皇に入内。清盛はかつての摂関家のような立場になった。得意の絶頂にあった清盛は、福原で法皇を迎えて大規模な千僧供養を行った。千人も持経の僧を集めるのは大変なことだったという。

承安2年(1172)ごろからは、法皇を中心にした芸能の催しが広く行われ始める。芸能を通じて院と近くなっていったものは多い。法皇は暗君らしく(⁉)政治からは遠かったが、この芸能を通じた近臣たちが、しだいに反平氏の動きをとるようになっていくのは歴史の面白さである。とはいえ、後白河は(上皇としては)前代未聞の厳島参詣をするなど、この段階では清盛と二人三脚のつもりでいる。なおこの頃、『年中行事絵巻』が製作された。これは本書には詳らかではないが後白河法皇が中心となって編纂したものだ。法皇は、伝統を保存し、そして復興させようという意思があったと思われる。承安4年(1174)の相撲(すまい)の節会の復興もその一環である。ただ、法皇は伝統主義者ではなかった。これも面白いところである。

さらに承安5年(1175)、蓮華王院の鎮守として惣社がつくられた。これは二十二社のうちの伊勢神宮を除く二十一社と、熱田社(尾張)・伊津岐神社(安芸)・日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)(紀伊)・気比社(越前)をあわせた25社の神を勧請したものである。列島の神々によって王権を守護する体制を作ろうとしたのであろう。なお、この勧請にあたっては、各社に本地の画像を描かせて注進させた。本地の明らかでない社では鏡が用いられた。蓮華王院が王権の中心になったのだ。

安元2年(1176)、建春門院(滋子)が35歳で亡くなった。なお遺体は蓮華王院の東に作られた法華三昧堂の下に石の辛櫃で埋葬された。建春門院は平氏と院の間をとりもってきたから、その死は政情を不安定化させた。高倉天皇にはまだ子がなかったし、平氏に対抗する勢力が育ってきていた。ここで立て続けに起こったのが山門の強訴・京都の大火・鹿ケ谷事件である。ようやく徳子が高倉天皇の子を生むと、清盛は天皇の外戚へ一歩近づき法皇とも融和ムードになったものの、息子と娘(重盛と盛子)が続いて死去。そして重盛の知行国越前が院近臣に与えられた。この措置に清盛は激怒。数千人の大軍を擁して上洛し院の邸宅に迫ったのである。こうしてあえなく院政が停止された。院近臣は大量に解官、あるいは斬首・配流され、後白河は幽閉された。

こうして「これを契機に武士が積極的に政治に介入する道が開かれ(p.152)」た。ところが清盛は、大量の知行国を平氏一門の手に納めるとさっさと福原に戻った。そして清盛は高倉天皇を譲位させ、幼い安徳天皇を即位させた。ついに天皇の外祖父になったのである。このような中で以仁王の乱が起こったがすぐさま鎮圧。さらに清盛は福原遷都を断行した。やりたい放題である。このあたりで反平氏の動きははっきりとしてきた。東国では頼朝が活動し、南都の勢力が胎動していた。そこで清盛は東大寺などを維盛に命じて焼き討ちしたのである。

治承5年(1181)、清盛は亡くなった。後事を託されたのは宗盛。清盛は「追善の仏事を毎日行う必要はない」と遺言しているが、これは清盛の宗教観が窺えて興味深い。そして、高倉天皇はすでに亡くなっていたので後白河院政が再び開始された。法皇は法住寺御所に戻ると、南都復興に着手した。この頃が養和の飢饉。3度目の院政を敷いた法皇は、東大寺再建のほか藤原俊成に勅撰和歌集の編纂を命じるなど、意欲的に「政治」に取り組んでいる。

このような中で、木曽義仲が挙兵すると法皇は密かに比叡山へ登った。掌中の玉を失った平氏は天皇を奉じて西海へ下るほかなかった。法皇は比叡山に逃れるだけで平氏を都から追いやったのである。そして朝廷が天皇を失ったため、法皇は神器なしで新帝を立てた。これが後鳥羽天皇である。

法皇は、頼朝を反平氏の勲功ありと認めていたが、法皇の立場で頼朝を見るとその動きは不気味だ。例えば清盛は、院に取り入って朝廷を牛耳ることで立場を固めた。だが頼朝は明らかに院に取り入ろうとも、官職を得ようともしていない。違うルールで動いている感じなのだ。自分の土俵で勝負しているといってもいい。一方、木曽義仲は、かつての平氏と同じやり口だった。義仲は武力によって朝廷を牛耳り、征東大将軍にも任じられ頼朝を打つ構えだったが、義経に敗北し討ち死にした。こうして武士の棟梁は頼朝に一本化された。頼朝はその勲功賞も朝廷に任せず、自らが行った。頼朝は独自の権力を率いている意識が明確だったのである。一方、義経は検非違使に任官されたり内裏への昇殿を許されるなど、院近臣の道を歩んでいた。法皇にとっては御しやすい相手である。頼朝が義経を粛清せねばならなかったのは当然のように見える。

義経は暗殺されかけたため、法皇に3度も院御所に参り、頼朝追討の勅許を認めさせた。2度しぶったのは、頼朝追討がリスキーだと法皇もわかっていたのだろう。だが3度目に認めたのが暗主たるゆえんかもしれない(笑)。当然、頼朝配下のものが宣旨一枚で動くはずもなく、この宣旨は空手形になり、逆に義経は追い詰められ、義経追捕の院宣が出された。この朝令暮改ぶりを「世間の天変、朝務の軽忽」と兼実は批判している。頼朝の前に院近臣も恐れをなし、頼朝の守護地頭の設置を認めざるを得なかった。

続いて頼朝は朝廷改革に着手した。法皇の専制から衆議に基づくものに変更するものである。朝廷から距離を置いていた頼朝が、朝廷の事情を踏まえた的確な改革を指示したのがまた不気味だ。ちなみに、この改革のおかげでようやく摂関になったのが九条兼実である。

そして武家は、朝廷を守護するものと位置付けられ、その代わり東国の支配権が認められた。本書は武士論ではないので頼朝の論理に深入りしていないが、これが「落としどころ」というものだったのであろう。ただし、頼朝が東大寺再建に莫大な寄進をしていることは、朝幕は並び立つものであるという認識であったことを示唆している。熊野御幸に倣って箱根・伊豆両権現への二所詣を開始したり、石清水八幡の放生会に倣って鶴岡八幡宮で放生会を始めたりしたのも、意図的に朝廷を模倣している。しかし形式的には武家は朝廷の下に位置づけられていた。

一方、義経は奥州に逃れて密かに藤原秀衡の下に保護されていたらしい。頼朝にとってこれを断つことは必須だ。義経の存在もさることながら、奥州藤原氏がいる以上、頼朝の東国の支配権は完全でないからだ。秀衡の没後、それを継いだ泰衡にゆさぶりをかけた結果、義経は自害。泰衡は義経の首を送ってきたにもかかわらず、頼朝は院からの追討宣旨を待つことなく泰衡を攻めた。ここで宣旨を待たないのがいかにも頼朝である。奥州合戦は大義名分なき戦いなのだ。結局、宣旨が届いたのは泰衡の殺害後であった。

文治5年(1189)、頼朝は満を持して上洛した。法皇とその取次役だった丹後局には大量の贈り物をし、千騎もの行列で六波羅の邸宅に入った。法皇は蓮華王院の宝物を見せようとしたが頼朝が丁重に断っているのが面白い。法皇の支配に服さないことの意思表示である。王のコレクションが政治的にどのような意味を持っていたかを如実に示すエピソードだ。法皇は頼朝に「貴族なら誰しもが喜ぶ右近衛大将に任じた(p.218)」が、頼朝はこれを一応受けたもののすぐに職を辞退してもいる。

建久3年(1192)、法皇は66歳の生涯を終え、法住寺殿の法華堂に葬られた。兼実が「仏教の徳に帰依すること、殆ど梁の武帝より甚し」と述べるように仏教への帰依は深く、それは『梁塵秘抄』の仏教歌にも窺える。また熊野詣の頻繁さも特筆すべきものである。院近臣の立場から法皇の治世の意義を語った『六代勝事記』では、「御賀・御逆修・高野詣・御登山、勝地・名所、叡覧をきはめ、験仏霊社臨幸を尽くし、四明には大乗戒をうけ、三井には密教をならひ、東大寺は聖武製草の跡をとめて、金銅の霊像は御手を下して開眼し給ふ(p.237)」と述べている。ここに描かれるのは、法皇の極めて行動的な姿である。また法皇は一身阿闍梨となって、伝法灌頂も受けている。勧進活動を保護したのも重要だ。仏教を保護したばかりでなく、自ら実践し、また各地へ足を運んだのが後白河法皇であった。

本書では、後白河は暗君とも賢君とも言っていない。軽挙妄動が目立つのは確かだが、「芸能を中心とした政治」という新たな政治形態をもたらした面もある。頼朝を御しきれなかったこと、すなわち武家政権を許したことは大きな失態のようにも見えるが、時の上皇が誰であっても、頼朝はとても朝廷の太刀打ちできる相手ではなかったかもしれない(武力以上に不気味な存在と感じた)。

後白河法皇の視点から鎌倉幕府の始まりを見る視点が独特な本。

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2025年4月5日土曜日

『葬儀の歴史』芳賀 登 著

日本人の葬儀の歴史。

著者の芳賀登は、幕末の国学の研究者である。幕末において、国学者たちはあの世観・霊魂観に対して様々な新しい考えを提唱していた。それは仏教的な死後の観念に対する戦いであったと思う。私は、彼らが戦っていたものの具体的な姿に興味を持っており、本書にはそういう視点が盛り込まれているかもしれないと手に取った。

結論から先に言うと、本書は幕末におけるあの世観・霊魂観の攻防はそれほど書いていなかった。本書の中心は思想よりも事例である。

「はしがき」に引用された六人部是香の言葉は興味深い。「其精神は、神より賜りたる物にして、清浄なるものなれば、死するや否、忽、其地の産須那社に伺候して、其下知を守り居り、屍は、穢に属して、墓所に葬る習なり(『産須那社古伝抄』)(p.2)」。ここでは魂は清浄で神社へゆき、死体はケガレているから墓所に葬る、という神道と仏教の二元論がある。これがやがて神道のみでの葬祭に舵が切られていくのであるが、それにはそもそもなぜ墓をつくるのかという理由、つまり日本人のあの世観・霊魂観を改変する必要があったのである。

なお、墓に対する著者の見方は、やや否定的である。本書の冒頭では葬式無用論が俎上に挙げられるが、葬式無用の考えは早くも明治40年頃から出てきているとし、近世においても墓守がちゃんとされなければ(=寺院にとって収入が見込めないならば)無縁仏として処分されたという。はっきりとそう言っているわけではないが、著者は「墓ってそれほどありがたいものなの?」と懐疑的な感情を抱いているようだ。

第1章では古墳について、第2章では火葬の広がりについて考察している。ここでは葬制の移り変わりが中心となるが、その背景となる思想の移り変わりについてはあまり述べていない。例えば古墳の築造にはどんな思想・霊魂観があったのか。そしてそれがどう変わって古墳が造られなくなったのか、といったことは手薄である。一方、著者が力を入れているのは山中他界観である。ここで山中他界観を山岳信仰と直接結びつけていないのは著者の慎重な姿勢を感じさせる。山岳信仰が広がったのは近世だとし、山中他界は山岳信仰とは別に霊の行先として観念されたとしている。

第3章では、葬祭を仏教が担うようになった次第を、様々なトピックから述べている。著者は葬式仏教化に対して批判的である。ただし、遺骸・遺骨に意味を付与していたのは民間信仰の方であり、仏教側が葬式の重要さを喧伝したのではない。仏教は民間信仰を無視しえなかったため、ある宗派はそれを積極的に取り込んで経営に生かし、ある宗派は消極的に認めたのである。例えば浄土真宗では死者は速やかに浄土にゆくと考えられ追善や墓の造営に熱心ではなかったが、真宗の中心である大谷廟においては明らかに親鸞の遺骨を崇敬している。人々のあの世観・霊魂観は必ずしも仏教諸派の教義と整合的ではなかった。

第4章では、墓塔の造立について述べる。石塔墓の成立については本書以降に研究が進んでいるので改めるべき点もありそうだが、とりあえず本書によれば、
(1)五輪塔の最古は保安3年(1122)建立の法勝寺小塔院跡発見の軒丸瓦文様、文献上の最古は平信範の『兵範記』の仁安2年(1167)7月27日条。
(2)宝篋印塔の最古は宝治2年(1248)在銘の鎌倉市ヤグラ出土塔。(川勝政太郎)
(3)板碑は1230年代から存在する。
なとどしている。層塔、宝塔、無縫塔については取り上げられておらず、簡略な印象である。ただし鎌倉のヤグラが取り上げられているのは興味深い。ヤグラは鎌倉幕府内墳墓造営禁止によって成立したと簡単に書いているが、これについては追って調べてみたい。

第5章では、日本人の死霊観が分析される。日本人は祖先の霊が死んでしばらく(33年ないし50年間)は個別的性格を保持しつづけるが、その後は「トムライアゲ」によって死者の霊は神となって子孫を見守り続けると考えた(桜井徳太郎の説)。そしてその先祖の霊がゆくと考えられたのが山である。ここでいう山には里に近い山と、広い信仰圏をもつ霊山の場合があるが、ここで検討されるのは霊山である。具体例として恐山と巫女(イタコ)が取り上げられ、「いずれにせよ恐山信仰は、仏教とか神道の教理、信条に即応して成立した宗教でないことは確かである(p.114)」としている。霊山は日本各地にあるが、それらの霊山は「信者がそれぞれの地方より、まったく宗旨を無視して詣ってくる(p.117)」。また、山へ登ることがトムライアゲと関係している場合も多い。ただし霊山への参詣は近世には遊興化した。

道祖神や賽の河原についても経典には全く触れられていない。お盆については経典はあるものの、例えば山からの道の草を払う「道刈り」や迎え火を焚くことなども経典に基づかない。彼岸についてもそうである。このように、日本人の重要な祖先祭祀の行事は民間信仰に基づくものが多い。そして人間社会において重要な儀式である葬送は、元来はケガレを避けるため被差別民によって担われていた。仏教とも神道とも違う、周辺から葬送や祖先祭祀の習俗が生まれて来たのである。

第6章では、葬儀と菩提寺の発展が述べられる。近世の檀家制度により葬式仏教が発展し、それにともなって葬儀が形式化したり豪華になったりした。だが面白いのは「原則としては、葬儀は当主またはそれに準ずる人以外にはしなかったらしい。それが近世中期の宝暦ごろになると、次、三男も、早産で死んだ子供の戒名さえも(墓石に)のるようになっている(p.138)」ということだ。ただしこの記述の根拠は明らかでない。本式の葬儀はしなかったにしても、何らかの葬送が行われたと考える方が自然だ。

元禄3年の大坂では、葬式の華美化を戒める町触が出た。身分をわきまえない葬式が行われているからという。葬式の華美化は寺院側が主導したのではなく、民衆側が求めた結果である。葬式は檀家寺の僧侶だけが行ったのではなく、豪家では様々な寺の僧侶を呼んだらしい。ちなみに死後出家ではちゃんと髪を剃っていた模様である。

一方、大名の葬式や墓所は庶民とは比べものにならないほど豪華で、その思想が投影されていることも面白い。水戸光圀の墓所は儒教風である。

ここで著者は両墓制について紹介し、両墓制は死体を穢れと見る観念と死者の為に墓塔を建てる新しい観念が両立した地域に現れ、また火葬の場合にはこれが起こりづらという。また両墓制はそんなに古いものではなく、元禄から享保期に一般化したとみている。

第7章では、変わった葬儀の例を列挙している。織田信長(死体がなかったから沈香の木でつくった像を棺に納めていた)、徳川家康(墳墓のほかに中国風の御霊屋を作った。日本では稀)、古賀精里(儒葬。位牌に相当する神主は「顕考掌教官精里府君霊」。墳墓をつくり墓表を立てた)などである。

さらに一気に時代が飛んで、明治後の自葬禁止や神葬祭について述べるが、神葬祭でも等級付けを否定できなかったために、結局身分に応じた葬祭という江戸時代以来の観念が継続し「葬式仏教にかわる葬式神道として(p.185)」行われたにすぎなかったとしている。このあたりの筆致は鋭い。さらに平田派国学者の角田忠行の『葬事略記』の内容を詳しく紹介していてこれが面白い。そこでは「死体はいくら洗っても清浄ではない」としているのだが、同時に亡父を「父命(チチノミコト)」といっている。これは一見矛盾する。なぜなら、亡父は神になったのにその遺体は穢れているといっているからだ。神になったなら遺体も聖なるものであるべきだ。これは冒頭に述べた二元論の考え方である。さらに、死後50日は毎日墓参りせよといっているもの興味深い。これは明らかに仏教の49日に準じている。

第8章では、改めて江戸時代の墓と葬式が振り返られる。 まず墓塔の形態について整理した後、普通ではない死亡をした人の墓の例が提出される。殉死者の墓、不受不施の墓、処刑された人の墓(渡辺崋山の例は面白い。法諡は「一心院遠思花山居士」だったが後に「文忠院崋山伯登居士」と変えられた。最初の法諡は遠慮していたのだという)、南千住の刑場の墓(檀那寺ではなく刑場と提携した寺院に埋葬される。墓石はないが、これは「遠慮して建てなかった」とされる)、梅田雲浜の墓(獄中で死亡。「雲浜先生之墓」を後に建立し、文久になって建碑が許された)、藤田小四郎の墓、堺事件志士の墓などである。これらに共通していることは、罪人などは墓を作ることを許されない場合があり、墓石を建てる場合でも遠慮が見られることである。そして政情が変わった後に改めて顕彰の意味も含めて立派な墓石が建立されている。なお私には、権力者が罪人の墓を作らせなかったらしいのが不思議に感じる。現代の常識から考えれば、墓の建立を妨げる理由がわからないのだ。当時は、墓の建立自体に一種の顕彰の意味が込められていたと考えられる。

次に、特殊な葬儀を行った人の例が提出される。本居宣長の葬儀と墓の遺言は詳しく記述されるがこれが面白い。宣長は妙楽寺に埋葬させる一方、樹敬寺に葬儀をさせ墓塔を建立させた。妙楽寺では埋葬地の塚に桜の木を植えさせるという神道?式のやり方をし、樹敬寺では通常の仏式の葬送を行ったのである。もちろん宣長は仏教を軽んじていたのだが、面白いのは樹敬寺でも月忌に墓参するよう指示していることだ。なお神号は「秋津彦美豆桜根大人(アキツヒコミヅサクラネノウシ)」。実際の葬儀では妙楽寺でも念仏を伴った仏式だったのは宣長の本意に適うものだったのかどうか。

頼山陽は、檀那寺は光林寺だったのに、墓地が気に入らないといって長楽寺に葬られた。なお光林寺にあった亡児の墓塔の石名に戒名「山紫水明居士」を刻ませている(亡児の戒名ではなく頼山陽の戒名を亡児の墓塔に刻むのはどういうわけなのか?)。一方、長楽寺の墓には戒名はなく「山陽頼先生之墓」と書かれている。戒名に対するこの微妙なスタンスも不思議である(戒名を全く使わないなら分かるが、自分の墓塔には書かないというのが謎だ)。この他、漢詩人大窪詩仏、国学者の権田直助などの例が述べられる。

さらに、坂本龍馬、滝沢馬琴などの墓の例を踏まえ、江戸時代には山中他界観が薄れてきたとし、次いで遊女の墓、長崎の寺と異人の墓、水難供養の千人塚、楠木正成の墓(顕彰碑)、独特なデザインの「たのしい墓」などを述べている。中でも一番独特だったのが、沢庵の墓である。彼は遺詔により「只土を掩うて去れ、経を読むことなかれ、斎を設くることなかれ…(中略)…塔を建て、像を安置する事なかれ。碑を立つる事なかれ、諡号を求むる事なかれ、(後略)」といっているのである。この極端な薄葬思想は、どこから来たのだろう。だが門人たちは何もやらないことに耐えられなかったのか、埋葬地に松の木を一本植えている。

第9章では、著者の葬儀・墓制に対する考え方が述べられる。まず明治維新後から戦後までの墓地の変遷について述べた後、再び時代を溯って江戸時代の葬送が華美化したことに触れ、また神葬祭について改めて批判するなど、錯雑とした印象の記述が続く。 その中で大正期に出来た滋賀県のある村の隣保会準則には、分不相応なことをしないとか、分限に応じて酒食を出すとか、江戸時代以来の観念が明確に表現されていることが目を引いた。最後に、靖国神社や忠霊塔、近代墓地の建設、墓地整理など現代的な問題に触れて擱筆されている。

本書は全体として、話が全く編年的でないので読みづらい。概ね中世以前については前半にまとまっているのでいいとして、問題は近世・近代・現代の事例である。これが著者の考察に振り回されて入り乱れているのである。これは編年的に書いてもらった方がよほど分かりやすかった。その著者の考察の要点を言えば、
(1)近世以前は山中他界観に基づいて墓が作られていたが、近世中期からそれが薄れて都市に墓がもうけられるようになった。
(2)近世には葬儀や墓は家格誇示や顕彰の意味が大きくなり、幕藩権力はこれを規制した。
(3)国学者や儒学者は普通の葬儀・墓塔ではない、特殊なものを実行・建立した。国学者や儒学者でなくても、変わった墓を建てている人は思いのほか多い。
(4)明治以降の神葬祭は、仏式の葬祭にあった問題点を解決するのではなく、神道を仏教の立場に横滑りさせるものであったので上手くいかなかった。
(5)伝統的とされた墓の在り方は家制度に支えられていたため、家制度が崩壊したことにより維持されづらくなっている。
というところである。

ただし、本書は変わった葬儀や墓の事例は次々と紹介されるが、平凡な人の墓はほぼ全くといっていいほど扱われない。その時代の思潮を分析しようと思ったら、平凡な人について調べることが重要だと私は思うのだが、著者はむしろ変わった人について好んで取り上げている。著者のやり方はやや偏っているように感じられ、試論という雰囲気を強く感じた。

変わった葬儀や墓の例を中心にして、その移り変わりを述べた葬儀史の試論。

【関連書籍の読書メモ】
『葬式仏教』圭室 諦成 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html
仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。葬式仏教論の嚆矢である名著。本書でも大きく援用されている。

『葬式と檀家』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post_21.html
檀家制度がいかにして生まれ、それが何をもたらしたか述べる本。近世の檀家制度成立をわかりやすくまとめた良書。

『日本葬制史』勝田 至 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/02/blog-post.html
日本の葬制史の概説。葬送史をまとめることで、死への考え方の変遷まで垣間見える労作。

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2025年3月31日月曜日

『三彜訓』柏原 祐泉 校注(『近世仏教の思想(日本思想大系57)』所収)

三教一致を主張する本。

『三彜訓』は浄土宗の僧侶、大我の書である。大我は京都石清水の正法寺22世住持。宝暦8年(1758)の序・跋があり京都・大坂・江戸で刊行された。原漢文。

まず冒頭の署名に目を引かれた。「日本 釈大我絶外 述」とあるのだ。ここに「日本」と記した意味は大きい。「日本」と記すということは、つまり国外に目を向けているということを示す。黒船以前に世界に意識が向いていたことの傍証である。その「世界」が中国とインドに限られているとしてもだ。そしてその中で、あえて「日本」を自負しているのである。ここにはナショナリズムが見え隠れしている。

 『三彜訓』の内容は、神仏儒の三教一致の思想を説くものである。

まずは儒教について。儒教の古典の該博な知識に基づき、中国の故実を援用した流麗な文章が続く。著者の学問は、明らかに儒学をベースとしている。その中に面白い表現がある。「我、方外に遊びて、織らず耕さず、飽煖乏しきことなし。残賊の甚だしき者にあらずや(=私は仏教界に入り、労働しないにもかかわらず贅沢をしている。ろくでもない人間ではないだろうか)」というのだ。こういう指摘がすでに社会からされていたのだろう。この自問に対して「以て国恩を報ぜんがために注するのみ(=だからこそ国の役に立つように書こう)」と自答しているのも注目される。「国恩」という言葉にも、仄かなナショナリズムがある。

そして大我は「道は仁義より大なることなし。仁義の道大なり。しかうして、その実、親に事へ兄に従ひ賢を喜び人を愛むより大なることなし」という。彼は儒教道徳を完全に承認する。ここには仏教的な出世間主義は全くない。出家して俗縁を切り、愛欲の妄執を離れることが理想だという考えは微塵もないのである。このように儒教を完全に肯定してから、大我は「噁、茂卿が狂なる(=まったく、荻生徂徠ときたら狂っている)」と激しい徂徠批判を展開する。いうまでもなく、荻生徂徠は古文辞学によって儒学の元来の姿を考究した大学者であり、また仏教の批判者でもあった。大我の徂徠批判の要諦は、「徂徠は論語読みの論語知らずだ」ということだ。「学問はすごいかもしれないが、その心は卑賎である」というようなことを縷々述べている。

そして、儒教と仏教が背馳するものではないことを『先代旧事本紀大成経』を引用して述べている。これは古代の書物であるとされていたが、実は潮音道海という僧侶が江戸時代に偽作したものであった。 『三彜訓』の時点ではまだ偽作が明らかでなかったのかもしれない(未調査)。そして、徂徠派の人たちは「ただ文辞の間にありて、以て儒術を学びたりとするのみなる者なり」という。このように徂徠批判は激しいが、それはあくまでも徂徠に対するものであり、儒教そのものへの批判は一切ない。それどころか大我は「先王の教、世に行われざるを見るに忍び難く、まさに力を尽くして以て儒教を主張せんと欲すること久し」という。本当に大我は僧侶なのか、と思ってしまう。

次に、話題は仏教に移る。儒教側からの批判の一つとして「釈家にもかくの如きの治国斉家の道ありや(=仏教でも儒教のような統治論・社会秩序論があるのか)」が取り上げられる。排仏論を主張する人はこういう批判をしていたのだろう。これに対し大我は、儒教では韓愈・欧陽脩・程兄弟・朱熹が排仏論を主張してきたが、彼らは仏教をよくわかっていなかったとする(ただし、朱熹は僧侶だったはずなので、大我の主張がどこまで歴史的事実に基づいているのかは要検討だ)。そして「華和の鄙儒、愈が瞽説を沿□(※衣遍に龍)す(=中国・日本のいやしい儒者が、韓愈のつまらない説を踏襲してきたせいだ)」という。

つまり、仏教に「治国斉家の道」がないというのは誤解で、それどころか仏教の側も「日として仁義忠孝を説かざることなし」と大我はいう。だから「なんぞ仏に天下を安んずるの道なしとは謂はんや」。私からすると、これはさすがに仏教を曲解しているのではと思う。仏教が国家や社会や家という世俗秩序を否定し、そこから離れることを勧めているのは事実だからだ。しかしそういうことは「販仏売法の巧言(=食うために仏法を売りものにする者の口先だけの言葉)」なのだという。結構過激な主張である。ともかく、仏教と儒教は、帰するところは一なのだ、というのが大我の主張だ。

であるが、仏教には儒教より優れた点があると大我はいう。それは儒教が人の生きるべき道を指し示すだけなのに対し、仏教では道から外れた者は地獄に落ちるとするから、より強制力があるというのである。仏法を信じるものは、悪事を行って地獄に落ちることを恐れ、心を恣(ほしいまま)にしないという。だから仏法が中国・日本に広まったのは当然だとしている。

こうして仏儒を国家的・通俗道徳的に評価してから「吾が神にも仏儒の如く天下を安んずるの道ありや」として次に神道の検討に移っている。ここで特徴的なのは、「天下を安んずるの道」という、国家的観点から評価しようとしているところである。大我の発想は、常に「国」を出発点とする。当時は個人の幸福とか、善悪といったような内面については大きな問題ではなかったという事情はあると思うが、それにしても大我はやや「国」よりの視点だと感じる。

さて、大我の神道への態度は、仏儒の場合とは大きく異なる。なんだか無条件に称揚する感じなのだ。大我は「吾れ神の遠孫を辱(かたじけな)うす(=私は神の遠い子孫なのを身に染みてありがたく思う)」と述べ、日本を「吾が神国」とし、「神皇先王を詆訶(ていか)する者は、靦然(てんぜん)として人面なりといへども、人にあらず(=神代からの歴代天皇をそしる人間はあつかましく、もはや人ではない)」とまで言い切っている。そして「もしただ異邦を褒して神国を貶すの心あらん者は、以て吾が神国に居すべからず(もし外国を褒めて、神国日本を貶すようなやつは、日本から出ていけ)」という、現在のSNSでいわれるような言辞を弄している。

そして日本を「百王不易の皇統、万代弗革の聖洲」と呼んで憚らない。これは明治後の日本の自意識とほとんど異ならないと思う。「万世一系、万古不易」の先駆けだ。これが宝暦年間に主張されていたとはびっくりである。本居宣長『古事記伝』もまだ刊行されていない頃だ。冒頭で感じた仄かなナショナリズムは、今やはっきりと主張される。そして当然だが大我には神話や古代日本の知識も豊富である。そして、『古事記』『日本書紀』『旧事本紀』などを研究した結果、「神の神宣、一言として治国斉家修身誠意の大訓にあらざるはなし」という。これはまた、神道の曲解に感じるのは私だけだろうか。神の言葉は、そんなに国家的・道徳的なものであったかと立ち止まってしまう。ちなみにこのあたりで、「荻生徂徠・太宰春台は神道をよく知らなかったのだ」と改めて批判されている。

このように、大我は神道>仏教>儒教の順に重きを置く。ただし一番位置づけが軽い儒教については該博な知識を持ち、理解も正統的なものであると思われるが、仏教はやや曲解されており、神道についても一面的な語り方になっている。そして大我の三教一致思想は、三教を融和させようという意識は薄く、儒教的な枠組みに仏教と神道をはめ込むものである。表面的には異なるように見える三教があるのは、仏神聖賢が人々を教化するために三国(印度・中国・日本)に現れたからだという。これは本地垂迹説と似ているが大我は垂迹と述べないのは注目される。ともかく「これを以て、三教、途を殊にすといへども、その帰、一なり」なのだ。にもかかわらず三教が対立しているのは平凡な人間は争いを好むからだという。

特に批判されるのはここでも儒者で、「鄙儒の妖言、毒を海内に流す。往往その毒を歠(の)みて、以て狂疾を発する者、都甸(とでん)に嗷(うれ)ふ(=いやしい儒者のあやしい言葉が害毒を世間に広めてきた。しばしばその害毒を啜って狂った者が都鄙でやかましく騒いでいる)」という。「海内に流す」のは徂徠派の一部の儒者だとしても、それを真に受けて騒いでいるのが「都甸」にいるというのは驚きである。ただし、これまでの言説でわかるとおり、大我は偏屈な変わり者であるという印象が強い。彼のいうことを額面通り受け取らない方がいいと思う。最後の署名は「孤立道人釈大我絶外」。「孤立道人」という雅号(?)には、周りに理解されなかった彼の孤独感が表明されているような気がする。

それでも、本書が三都で出版されたことは、彼の主張が相手にされないものではなかったことを物語る。問題は、誰が本書を読んだかである。本書は、これまでの引用でもわかるとおり結構難しい。和漢の故事が踏まえられ、難しい漢字が多い修辞的な文章は理解に骨が折れる。日本思想大系本ではたった25ページほどしかないが、私は読むのにかなり苦労してしまった。註がある読み下し文でもそれだから、原文ではもっと難しい。これを読めたのはおそらく儒者だけだろう。本書では儒者(特に徂徠派)が口を極めて批判されているが、本書を読めたのは儒者しかないとなれば、本書の主張する三教一致の意図するところは、「儒者は仏教や神道を批判するのを辞めろ」というものであるような気がする。だがそんな主張の本をわざわざ儒者たちが高いお金を払って読んだかどうか。本書がどう受容されたのかが気になった。

ナショナリズムが濃厚で僧侶が神道を持ち上げる三教一致論。

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2025年3月27日木曜日

『呪術と占星の戦国史』小和田 哲男 著

戦国時代における呪術について述べた本。

本書は「戦国期の古文書、古記録に散見される呪術や占星にかかわる記述を通して、従来描かれている戦国史とは違うものを書けないだろうか(p.10)」との思いで書かれたものである。

戦国時代といえば、血で血を洗う闘争の時代であり、呪術のような実効性のあやしいことをやっている暇はなかったのではないかと思いがちだ。ところが戦国武将たちは、日の吉凶で進軍を決めたり、呪術による敵の調伏を行ったり、鬮(くじ)で戦術を決めたりしていた。そんなことをしていれば合理的な思考を持った敵にやっつけられてしまうのではないかと思うが、ことはそう簡単ではない、と著者は主張する。

武田氏の史料である『甲陽軍鑑』には「弓矢はみなまほうにて候」との言葉があるが、この時代、呪術(魔法)と現実の武力には境目がなかったのである。

戦国武将の甲冑には仏教の法具などがあしらわれたものがある。島津貴久の兜には三鈷杵が、森蘭丸の前立てには「南無阿弥陀仏」が用いられていた。北条早雲の家訓の第一条は「仏神を信し申へき事」である。軍幟にも「南無〇〇、〇〇大菩薩云々」と掲げられていた。本来、殺し合いや争いとは最も遠いところにあるはずの仏教が、奇妙なことに戦の最前線に駆り出されていた。

戦国武将たちが戦にあたって頼ったのは、毘沙門天、摩利支天、勝軍地蔵、妙見菩薩そして別格なのが八幡大菩薩である。特に毘沙門天、摩利支天、勝軍地蔵などは、それぞれ修法があり、修験山伏が、あるいは武将本人がそれを行っていた(例えば細川政元)。本書では強調されていないが、これらの修法を僧侶ではなく、修験などが行っているのが重要である。そして、そうしたものとは別に、戦場での加護、あるいは万一死去した場合に備えて「陣仏(じんぼとけ)」というものを携行することも多く行われた。兜の中に兜仏をしのばせることが一般的だったが、わざわざ従軍者に「陣仏」を背負わせていたこともあるようだ。

現在でも神仏に勝利を祈願することは多いが、戦国武将も当然のように祈願を行っている。ただしそのやり方は現在とは異なり、「この戦に勝利をしたら〇〇を寄進します」とか「占いの結果、勝利と出たのでよろしくお願いします」というような祈願が多い。つまり、いわゆる「神頼み」的ではなく、仏神を説得・納得させるような部分があるのが面白い。そしてこうした祈願は精神的なものではなく、寺社に関係ある山伏が具体的に動く場合もあった。「戦勝祈願を受けた側が、何らかの形で動いたことがあったことは事実と見てよい(p.43)」。神官が山伏を遣わすというのがどういう関係なのかわからないが、寺社への祈願は、寺社や山伏を味方につけるという意味もあったようだ。

なお合戦前に連歌会を開き、その連歌を神前に奉納することで戦いに勝つという信仰もあった。これは神を喜ばすことで加護を期待したものだろう。

戦国武将の側近くには、軍配者(軍敗者とも書く)といわれる軍師がいた。彼は呪術的軍師であり、占筮(=易・占)を行って戦術を決めていたのである。中には陰陽師を軍師として召し抱える武将もいた。戦国時代になっても、物忌みや方違えのような陰陽道の迷信は根強かったし、星や暦は戦の日程を決めるのに重要だった。「こうした「天文」や周易の研究教育センターの役割を果たしていたのが下野の足利学校(p.51)」である。

足利学校の卒業生だけでなく、山伏、博士(陰陽道)が戦の日取りを決めるための占いを担当していた。それは家来とは限らず、現地人であるケースもあったようだ。前田利家はある戦で「上手のはかせ(=陰陽師)」がいるからと現地人に日取り・時取りを行わせている。攻撃の日程のような最重要のことを、家来でもない現地人に決めさせるとはびっくりである。これは軍記物の記述であるので事実でない可能性があるが、古文書に登場するのが上杉景勝お抱えの呪術者、清源寺是鑑(ぜかん)である。彼は越後国安国寺の住持だった。彼が合戦の日時・吉凶を占っていたことは確かである。修験でも陰陽師でもない、れっきとした禅宗の僧侶が占いをやっていることは注目される。

大友宗麟の軍配者には角隈石宗(つのくま・せきそう)という者がいた。彼の出自は不明だが、受領名を持っていたことと出家していたことは確かで、足利学校の卒業生だった可能性がある。 また武田信玄の軍配者・駒井高白斎は毎日日記をつけているが、それは雲の観察記録といってよいものがかなりの比重を占めている。軍配者が天気予報を行っていた可能性は高い。武田信玄の下にいた山本勘介入道は「気の立ち方」を見ていた。これなどは呪術でもあると同時に観天望気でもあるようだ。

ところで、呪術者Aが吉日だといい、呪術者Bが悪日だと言っていることもあっただろう。また、呪術者が悪日だといっているその日が、戦略的に最適な進発の日だということもあるだろう。そんなわけで、武将は必ずしも呪術者の言いなりだったわけではない。例えば秀吉は、「真言の護摩堂の僧」が「8日の出陣をとりやめた方がいい」と言ってきたのを、理由をつけて「そうであるならかえって吉日である」といって進軍した。また扇は悪日を吉日に転換させるためのアイテムだったらしい。しかし軍配者は城攻めの時に城からの炊煙を見て攻めるタイミングを見たり、天気予報をするなど、必ずしも呪術的観点しかなかったわけではない。また「敵・味方ともに共通する悪日は、一種の休戦日としての意味も持っていた(p.72)」ようだ。

また、出陣におみくじを使うこともよく行われていた。特に島津氏ではおみくじが活用された。意見が割れた場合などは、大事な軍事行動であればこそ最終的な判断を神意に委ねていた。なお、このおみくじは神前での厳粛な御鬮であったが、戦場での先発・後発を決めるなどでは普通の意味でのくじもあったようである。

戦では、五行思想も無視し得なかった。例えば大将が木姓の人は、十干の庚および辛の日に出陣しない方がよい、といったものである。占星術も兵法の一種として受け取られていた。上杉謙信は彗星の出現を見て、その吉凶を軍配者に占わせている。この時は北条氏にとって凶であるとされ、小田原へ攻め入った。一方、誕生日による占星術は、戦国時代にはあまり一般的でないようだ。

敵の調伏祈祷をリードしたのも軍配者であった。応仁の乱の時、東軍の細川勝元は「五壇法」を行わせているが、この時は青蓮院・妙法院・三宝院・聖護院、それに南都の門跡の僧たちが動員されていた。これはかなり大規模な祈祷である。毛利元就と尼子晴久・義久の戦いでは、双方が様々な修法を行っていたとされる(ただし、軍記物にはあるが古文書で裏付けることはできない)。 

呪術とはいえないが、戦場では小さなことでも「奇瑞」を見出し、兵士を鼓舞することが行われた。例えば「鳩が敵陣へと飛んでいった。だから我が軍の勝ちだ」というようなものだ。軍記物にはそうしたエピソードが多く出てくる。それらが史実かどうかはともかく、実際に大将は戦意高揚を図るため、「この戦いは勝てる」という暗示を行ったことは事実であろう。そういうものの極端な例は「夢」である。「こういう夢を見た」といえば、それが嘘でも誰にも見抜けないわけで、まことに都合がよい。ただ、当時の人は夢に神秘的な意味を見出していたので、舌先三寸でデタラメを言っていたのではなく、「こういう夢を見たがこれは吉兆か凶兆か」と占っていたりする。夢が真面目に受け取られていたからこそ、暗示にも活用されたのだ。

そして、縁起かつぎや禁忌といったもの、今なら「ジンクス」というようなものも、戦国時代には大量にあった。北を忌むとか、四という文字を忌むといったようなものもあるし、「疵がうずいたら自分の小便を飲め」とか「川を渡るとき水を飲み過ぎたら尻の穴に石灰を押し込め」というような無茶なものもある。また、旗の竿がどこで折れたかで吉凶を判断し、(ほとんど吉となるようになっていたため)旗がここで折れたから勝ち戦、などと言っていた。

戦いは単に力と力のぶつかり合いではなく、メンタルな部分が大事であるため、各種の儀式もあった。今なら「ルーティーン」というようなものである。例えば三献の儀式というものは、出陣の前に打鮑・勝栗・昆布を肴に酒を飲むものである。そこに意味を見出していたことも間違いはないが、それより、戦の前にそれをやるというルーティーンによって気持ちを入れていたのだろう。秀吉は3月1日に出陣するのがお決まりで、島津氏は雨の日を出陣に好んだ(島津雨)。こういうものは「ジンクス」であり「ルーティーン」でもあったのだろう。

一方、戦が終わった後の処理も重要だった。戦では数千人の死者が出ることも少なくなかったから、そのままでは大量の怨霊が生じてしまう。処理の第一は「勝鬨(かちどき)」を上げることだった。勝鬨は、「えいえいおう」のようなものではなく、一種の呪術だったらしい。はっきりとは分からないが、死体の弔いや処分と鬨の声がセットになったようなものであり「どことなく「怨霊封じ」の儀式(p.153)」なのだ。首実検も、死体に敬意を払い、運び方・据え付け方・捨て方にも作法があった。島津氏の家臣上井覚兼の日記には、首実検のやり方が細かく記されているが、それを読むと怨霊となることを防ぐ意味合いが看取される。

さらに「首供養」も行われた。これは「ちゃんと弔えば祟らない」という観念があったために行われたものだろう。戦没者をまとめてではなく、33の首毎に首供養を行ったという記録がある。また首を集めた首塚も作られた。今も残る首塚や戦人塚・千人塚は戦死者を埋めた墓であることが多い。また武将によっては供養のために寺を建てている場合もある(徳川家康は武田勝頼の戦没地に景徳院という寺をつくっている)。また島津義久は、耳川の戦いにおける大友軍の戦死者の七回忌のために大施餓鬼会を行っている。戦国武将の施餓鬼会は、その後の盆行事の展開にも影響を与えている可能性は大きい。

そして戦場での自らの死去に備えては、陣僧を従軍させた。貴顕の人だけでなく、かなりの陣僧が従軍したようで、誇張もあるようだが、フロイスによれば武田軍には600人の陣僧がいたという。

築城にあたっては、やはり吉凶を気にしたし、また城内に鎮守を勧請することが行われた。石垣に意図的に石塔を転用した石を使っているらしいのも、なんらかの呪的な意味が込められていたかもしれない。また、切り出して運んだにもかかわらず城の石垣などに使わずに放置された残念石と呼ばれる石があるが、これは運んでいる途中に落ちてしまったからという。落城はあってはならないから、「一度でも落ちた石は城には使わない」というタブーがあったようだ。ちょっと気にしすぎな感じはするが、当時の人にとっては大きな意味があったのである。

さらに本書では、呪符・護符の木簡についても紹介されるが、これについては詳細は割愛する。

本書を読むうえでの私自身の興味は2つあった。第1に、当時の仏教は呪術に対してどのように関与していたのかということ、第2に、戦没者(特に敗者)の弔いはどうしていたのかということである。

第1の点に関しては、やはり呪術の中心は修験道や陰陽道であって、普通の仏教の存在感はそれほど大きくない。だが清源寺是鑑のように、仏教寺院の住持でありながら占いを行っているものもいる。足利学校の卒業生(おそらく多くが禅僧)も軍配者として活躍したことを考えると、鎌倉仏教の諸派において呪術や占いは教義的に位置づけられなかったものの、僧侶個人で見るとそうした活動に従事したものは少なくなかったと見られる。一方、真言宗や天台宗では修法を行っていたであろうが、軍配者のようなフリーランスの立場での活動とは違ったのかもしれない。

第2の点に関しては、本書では1章が割かれているものの、あまり深入りしていない印象である。例えば室町幕府は成立にあたって安国寺と利生塔を全国に設置したのであるが、これについて本書が述べるところはない。施餓鬼会についても説明は簡略である。ただ、これは本書の中心的主題とは少しずれるのでやむを得ないところであろう。

なお、本書は全体として軍記物が出典に多用されているため、史実であるか慎重にならなければならない部分が多く、著者もそれについてたびたび触れている。そのうちいくばくかは、後世の脚色なのだろう。ただ、戦の勝敗はメンタル面がモノを言うことは事実で、吉凶やジンクスを武将たちがかなり気にしていたのは間違いない。修法に頼ったのもおそらく事実だろう。それは、迷信に捉われていたという面が半分だが、吉凶や占いをうまく使って兵士たちを鼓舞していたという面も半分ある。無神論的、合理的な織田信長でさえ、こうした面はそれなりに持っていたのである。筋金入りの合理主義者や科学的な思考の人物が武将であったからといって、兵士たちが命を捨てるかどうかは別問題である。神仏を崇敬する人物が武将であった方が兵士がついていった可能性は大きい。このあたりは想像してみると面白い。

戦国時代の武将たちのメンタル面を呪術から窺う独特な視点の本。

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2025年3月26日水曜日

『呪いと日本人』小松 和彦 著

日本人にとっての呪いの本質を考察する本。

本書は光文社のカッパ・サイエンスの一冊であったものの文庫化である。学術的な著作ではないので非常に読みやすいが、著者自身の研究に基づいたものであり、それまでにほとんど史学面での研究がなかった呪詛を日本史に位置づけるという意欲作である。

著者はまず丑の刻参りは現代でも行われていることを指摘し、科学的・合理的思考が広まっている現代でも「呪い」はなくなっていないという。

呪いは、「呪い心」「呪いのパフォーマンス」、「呪われる側の心情」で成り立つ(著者の用語を改変)。「呪い心」は明らかだろう。誰かを憎らしく思い、しかも実力行使では相手をどうにもできない時に人は呪いに頼る。そこに、例えば丑の刻参りのような「呪いのパフォーマンス」が行われることで呪いが成立する。ここで面白いのは、呪われる人が「呪い心」や「呪いのパフォーマンス」を知らなくても呪いは成立するということだ。というか丑の刻参りは誰にも見られてはならないとされている。つまり「呪われる側の心情」だけでも呪いは成り立つ。「最近調子が悪いが、もしかしたら誰かが呪っているのではないか」そう思っただけでも呪いは成り立つ。そして「祟り」など、死者からの呪いは、「呪い心」を持つ人間も「呪いのパフォーマンス」も不在なのに成立している。このように、呪いは一方通行なのだ。

著者が呪いについて研究するようになったきっかけは、高知県香美郡物部村(ものべむら)に伝わる「いざなぎ流」という民間信仰を知ったためである。著者はもともと、この村に人類学的調査をするために入った。そこには太夫(たゆう)という宗教者がおり、様々な祭祀・祭儀を行っていた。この不思議な民間信仰について著者は『憑霊信仰論』にまとめ、これが「いざなぎ流」研究の出発点になった。なお私は同書を20代の時に読んでいるが、今ではすっかり内容を忘れてしまった。

いざなぎ流では、医学ではなかなかよくならない病気や度重なる不幸の原因に「すそ」というものがあると考える。「すそ」は「呪詛」であり、「社会秩序や自然秩序のゆがみから生じた、人々に害をもたらす「ケガレ」(p.28)」であると著者は考える。では「すそ」は何で起こるか。面白いのが、「すそ」は「呪い心」によって本人の知らない間に生霊が発動することもあることだ。また物部村では「犬神統」といった動物霊を祀る家があり、その家の者は知らないうちに「呪い心」から動物霊が発令して「すそ」を生じることもあると考えられている。なお動物霊は血筋によって受け継がれるもので、その家筋は差別されていたという。太夫は、さまざまな事情で生じた、不調の原因である「すそ」を占いによって特定し、「みてぐら」と呼ばれる人形(ひとがた)に移して、村はずれなどに送り出して解決するのである。

これまでの説明でわかる通り、これらの呪いはいずれも「呪われる側の心情」のみで成り立っている。太夫はいざとなれば「呪いのパフォーマンス」も行うとされているが、現代ではこれはほとんど行われず、呪いを解除することが中心だ。いざなぎ流は呪いの解除を中心とする民間信仰なのである。

そして、いざなぎ流の中核には陰陽道的な知識がある。特徴的なのは、「すそ」を祓うためなどに行う祭儀の中心に法文という呪文があることだ。そのいくつかが紹介されているが、おどろおどろしい土俗的な言葉遣いが興味深い。さらにいざなぎ流の起源神話「祭文」というものも面白い。その起源神話では、いざなぎ流は「日本から天竺にやってきた天中姫によって日本に伝えられた(p.57)」ものだとされている。また「呪詛(すそ)の祭文」というものは呪いの物語であるが、「唐土(とうど)じょもん」なるものが登場する荒唐無稽・珍奇な話である。ともかく、いざなぎ流では、術者が修行するとかではなく、法文・祭文というテキストの方が中心になっている。

著者はさらに、日本史における呪いの事例をいくつか述べている。まずは長屋王の呪詛事件と称徳女帝への厭魅などだ。「こうした呪詛事件のほとんどがでっち上げだったらしい(p.82)」。これらの呪い担当したのは呪禁師(じゅごんし)という、中国由来の「呪いのスペシャリスト」だった。

平安期になると、死者の呪い(怨霊の祟り)が大きな問題になる。生きている人間が呪っているならそれを実力行使で止めればよいが、死者の呪いは対処のしようがない。 そこで呪いを除去する特別な方法が考案されていくのである。また9世紀頃には、怨霊は恨みの対象の人間だけでなく、社会全体に災厄を及ぼすと考えられるようになった。これが「御霊信仰」である。御霊信仰では、怨霊を神として祀り上げて災厄を停止させようとした。中世には、怨念すなわち「呪い心」をやわらげなごませ、神に祀り上げて昇華するというセオリーが確立したが、これは能の筋書きに濃厚である。

そこからいっきに時代が飛んで明治時代の話になる。明治天皇は崇徳上皇の怨霊を宥める宣命を読んでいるが、これは中世初期から続けられてきた怨霊宥めの一環であった。文明開化が強調されがちな明治維新にあって、怨霊対策も行われていたとは面白い。

ところで、「呪いのテクノロジー」は、①呪禁道(奈良時代)、②陰陽道、③密教とそのバリエーションである修験道、の3つに大別することができる。その手法として、①=蠱毒、厭魅、②=式神、③=さまざまな調伏法などがある。特に「密教各派とも天皇や貴族に取り入る方法として、難解な教義を説くよりも、病気治しや延命法、怨敵調伏など、さまざまな修法(ずほう)による呪的効果をアピールするという「戦略」をとったために、修法の開発競争に拍車がかかった(p.148)」のである。狐を操る「荼枳尼天(だきにてん)法」・「飯綱の法」も有名である。

そして江戸時代には、陰陽師や密教僧に頼らずに、自ら寺社に打ち込む「丑の刻参り」が定式化する。面白いのは、釘を神木に打ち込んだ後に「黒い大きな牛が寝そべっている。それを怖れることなく乗り越えて帰ると、みごと呪いが成就する(p.170)」と考えられていたことだ。そんなに都合よく黒牛が寝ているものだろうか。なかなか丑の刻参りも成就は難しそうである。なお、この丑の刻参りは、陰陽道の影響が大きいと思われる。 

最後の1章は、呪いを払う方法の背景にある思想を分析している。それを単純化していえば、人々の「悪」が「ケガレ」と観念され、それが実体化したのが「呪い」であり、さらに具象化したのが「鬼」であるということだ。よって責任が重いものほど「ケガレ」=罪が積み重なる。特に天皇は社会のケガレを一身に受ける存在であるためにそのケガレを祓うには細心の注意を要した。そしてケガレを実体化した「鬼」を払うことが分かりやすいパフォーマンスであったために、鬼がどんどん具象化したのである。近世では被差別賤民が鬼役を演じさせられた。疫病が流行ったとき、「町によっては「賤民」をやとって風の神に見立て、橋の上から突き落としたりした。これも「ケガレ」を引き受ける鬼の役を人間に演じさせた一例(p.210)」である。

つまり、ケガレを払うことは、一種のガス抜きでありスケープゴートであった。為政者にとってはまことに都合のよい理屈で、自らの行いを改めることなく罪が剪除されることとなった。中世では神仏までもケガレを引き受けさせられ、追放させられた。なんとも身勝手な話である。しかし一方から見れば、それは為政者・権力者の責任をケガレとして顕在化させ、ガス抜きとはいえなんらかの対処を求めるものではあった。それは一般民衆における呪いでも同様である。丑の刻参りは、実力行使ではどうしようもない相手へ働きかける数少ない手段であった。では、科学・合理的思考が呪術・儀礼・祭祀を無用なものとして追いやってしまった現代で、例えば丑の刻参りが果たしていたものはどうなったのだろうか。

実力行使ではどうしようもない相手へ働きかける手段はあるのだろうか? 著者は、そういうものは現代ではなくなってしまい、呪いの代わりになるようなものを現代人は見つけられていないと述べる。それは決して「現代でも呪いを活かそう」というのではないが、呪いが果たしていたものは決して不必要なものではなかったということなのである。 

本書は全体として、簡潔ながら日本文化・日本史における呪いの社会的機能について考察するものになっている。つまり史学というよりは文化人類学的な視点の著作である。呪いの概論として有用であるが、ちょっと足りないと思ったのが幽霊についてである。江戸時代には幽霊が大流行するのだが、本書は幽霊についてはほとんど触れていない。著者が幽霊について本格的に研究するようになったのは本書の後のようである。また、ケガレと呪いの接続については、やや図式的・観念的に感じた。

日本における呪いの概論。

【関連書籍の読書メモ】
 『陰陽道の神々 決定版』斎藤 英喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/03/blog-post.html
陰陽道を呪術的な側面を中心に語る本。陰陽道の神々を題材にして、陰陽道への見方そのものに再考を迫る良書。

『神と仏—民俗宗教の諸相—(日本民俗文化体系4)』宮田 登 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/4.html
神と仏をめぐる民俗文化の考察。「第6章 魔と妖怪」(小松和彦)では、柳田国男以来の妖怪の概念を再検討し、「魔」と「妖怪」について述べている。

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