法然に従う人々が多くなってくるにつれ、親しく教えを受けられない人が多くなっていき、教えの要点を記した文書の必要性が高まっていた。また、九条兼実は法然に教えをまとめてほしいという要請をしたらしい(『選択密要決』)。そういう事情から、建久9年(1198)に著されたのが『選択本願念仏集』である。ちなみに「選択」は、浄土宗では「せんちゃく」、浄土真宗では「せんぢゃく」と読む。
その基本的な構成は次のとおりである。まず経典とその古典的な解釈を本文で表示する。古典的な解釈とは、主に善導によるものだ。中国で7世紀に浄土教を大成した人物である。ただし、本文にも法然の考えは当然反映されている。次に、「私(わたくし)に云わく」とか「私に問うて云わく」などとして法然の私釈を述べ、適宜問答が挟まれている。私釈は本書では一段下げになっている。なお、法然は承安5年(1175)、善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』(『観無量寿経』の解説)で称名念仏による往生を確信し、この年は浄土宗では開宗の年と位置付けられている。
ちなみに、私は源信の『往生要集』を以前通読したが、本書の読後感はこれとは全く違う。『往生要集』が百科全書的な内容を持ち、各種の経典を縦横に引用して往生のための要点を考究していくという、壮大な伽藍のような書であるのに対し、こちらでは最初から結論が決まっていて、その結論に都合の良い論書を抄出している、という感じがする。つまり、源信は学究的ではあったが宗教的な確信は弱かった。一方、法然はあまり学究的という感じはしないが、宗教的な確信は強かったのである。源信がその『往生要集』の高名さにもかかわらず一宗の宗祖とならなかったのは、時代的な事情だけのことではなさそうだ。
そして、本書は日本の禁書第一号となったことでも知られる。これは門徒の密通の発覚という偶然も寄与していたが、本書の「結論ありき」で偏った内容が穏当な主流派からの反発を招いたことは想像に難くない。
本書は16のセクションで構成されている。原文で「第〇章」などと表示されているわけではないが、校注者に倣って以下便宜的に章分け表示する。また原文は漢文であるが、本書は読み下し文のみの収録である。
第1章:道綽の『安楽集』を引き、仏道には悟りを目指す「聖道門」と浄土への往生を目指す「浄土門」があるが、「今の時(道綽の時代=末法と位置付けられていた)」では聖道は難しく、浄土門に頼るほかないとする。
これに対し私釈では、宗義格別を主張し、それぞれの宗派で重視する事項はまちまちであることを強調している。この部分は、他宗を尊重する立場を表明しているものといえる。続いて浄土門においては、浄土往生を中心的な目的としている宗派と、副次的な目的にしている宗派(=華厳・法華等)があると述べる。
次に曇鸞の『往生論註』を引き、ただ仏を信じて往生を願う易行道と、自ら道心によって往生に至る難行道があることを述べ、易行道でも道心は得られるのだから易行道の方が優れているとする。そして最後に、「たとひ先に聖道門を学する人といふとも、もし浄土門において、その志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし(p.21)」と主張する。さっきの宗義格別はなんだったのか、とびっくりする展開である。
第2章:善導の『観経疏』を引き、「一心に専ら」阿弥陀仏を信じて称名念仏することを「正定(しょうじょう)の業」とし、礼誦(らいじゅ)等によって往生を願うことを助業としている。
私釈では、称名念仏が「正定の業」なのはそれが阿弥陀仏の願に従ったものであるからといい、次いでそれ以外の雑業を述べて5つの観点から比べている。当然に「正定の業」が優れているとする。
続いて本文に戻り、善導の『往生礼賛』を引いて、仏の本願に相応するものは往生は確実であるが、雑行を修する者は稀にしか往生しないと述べている。曰く「ただ意(こころ)を専らにしてなす者は、十は則ち十生ず(10人が10人とも往生する)。雑(ぞう)を修して心を至さざる者は、千が中に一もなし(p.38)」。ここで心の在り方を問題にしているのは興味深い。
第3章:『無量寿経』の第18願「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」を引き、阿弥陀仏を念ずれば必ず往生すると述べている。
私釈では、四十八願(阿弥陀仏の48の誓願)について説明し、その誓願とは、仏の「選択」の結果であったとする。「選択とは、即ちこれ取捨の義なり(p.44)」とし、往生のための行はさまざまあるけれども、仏は最善のものを選んだはずであるから、仏の選択したものを修するのが最善であるという(なんだかトートロジー的だ)。「即ち今は前(さき)の布施・持戒ないし孝養父母(きょうようぶも)等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す(p.49)」のである。一般的に善行とされる布施・持戒・孝養などを否定する論拠は、それが阿弥陀仏によって選択されていないからなのである。
そして法然は、この第18願を「本願」(阿弥陀仏の根本的な願い)ではないか、という(「故に劣を捨て勝を取つて、もつて本願としたまふか(p.51)」。ただし四十八願全体を本願とする考えも本書にはある)。しかも念仏は容易であるから、誰でも実践できる。造像起塔などが往生に必須だとなればそれが実践できるのは一部の人間に限られる。「難を捨てて易を取りて、本願としたまふか(p.52)」。阿弥陀仏が多くの人を救いたいなら、易行を選択したに違いないから「ただ称名念仏の一行をもつて、その本願としたまへるなり(p.53)」。この部分で、疑問形「たまふか」から「たまへるなり」に転換していることが法然の思想家としての回心を表しているようだ。この章は前半の中核をなすものである。
第4章:『無量寿経』を引き、人々の機根には上中下があるが、下輩でも「無上菩提の心を発(おこ)して、一向に意(こころ)を専らにして」念仏し往生を願うことはできるとする。本章の本文は全部が『無量寿経』の引用である。
私釈では、先の「無上菩提の心」が問題になる。法然はひたすら念仏すれば往生できると説いたが、経典では「無上菩提の心」も条件にあるじゃないか、というわけだ。そもそも経典には法然が「余行(よぎょう)」と位置付ける様々な善根の積み方が述べられている。なぜ余行を捨てて念仏のみを修せよというのか。これに対する法然の論説は苦しい。例えば「余行を知らなければ念仏が勝れていることは理解できないからだ」などというのは詭弁じみている。ともかく経に「一向に」と書いている以上、余行は捨てるべきだというのが法然の考えだ。ここで注目されるのは、法然は「末法だから念仏に頼るほかない」というような言説を全く表明していないことだ。
第5章:本文では『無量寿経』と『往生礼賛』(善導)から念仏の功徳を誉める文を引く。
私釈では、まず「念仏のみが讃嘆されるのはなぜか」との問いがある。菩提心をおこすことも素晴らしいはずだが、なぜ念仏だけが「無上の功徳がある」などといわれるのか。これに対し、「聖意測り難し」としながらも、余行がすでに捨てられた以上、念仏のみを誉めるのは当然といい、菩提心等の諸行も小利はあるが(←つまり全否定ではない)、無上の大利がある念仏を修する方がよいと述べている。
第6章:『無量寿経』から、「当来の世に、経道(きょうどう)滅尽せむ」時にも「この経を留めて」「皆得度すべし」という一文を引いている。
私釈では、経でいう「当来」を、「まさに来るべき世」ではなく、「末法万年後の百歳」と解釈する。つまりこの経文は「末法万年後には他の経典や修行は全て失われるが、念仏だけは残る」という意味だというのだ。これはかなり恣意的な解釈であろう。
ともかく、以後、「末法万年後」という気の遠くなる未来の話になる。諸行による往生は「末法万年」までは有効であるが、その以後には無効となり、ただ念仏だけが有効になるだろうという。それはなぜかといえば、末法万年後まで『無量寿経』が残るように釈尊が計らったからだ。ではなぜ釈尊は他の経典ではなく『無量寿経』を選んだのか。それは釈尊の慈悲によるという。念仏は誰でも修することができるのだから、他の経典では多くの人を救うことが不可能になると。このあたりは、「釈尊が選択した一つの経典以外は滅する」という前提で話が進む。だが全ての経典が失われるならまだわかるが、一つ以外は滅びるという前提そのものが恣意的だ(ただ、これは法然以前に形成された通念かもしれない)。そして、念仏は末法万年以後でさえも有効なのだから、当然今でも修するべきだと結んでいる。
法然は同時代を「末法に入って百年」と認識していたが、末法だから教えが意味がなくなるのではなく、末法万年までは他の経典や修行にも意味があると考えていたのが興味深い。念仏のみに頼らざるを得ないのは、あくまで「末法万年の後」という遥かな未来なのだ。
第7章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、阿弥陀の光明が念仏行者のみを照らすことを述べるが、これは経や疏には明確には書いていない(経には「阿弥陀の光明は遍く十方世界の全ての衆生を照らす」とある)。本文に問答があり、この疑義が俎上に上がるが、「自余の衆行は、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、全く比校(ひきょう)にあらず(p.86)」(=念仏とは比べものにならない)といい、念仏の功徳を一方的に主張する。この部分は引用ではなく法然の主張である。
私釈では、当然ながらこの主張を再確認し、その理由を「念仏はこれ本願の行(p.88)」であるからと押し通している。
第8章:『観無量寿経』を引き、往生を願うものは必ず①至誠心(しじょうしん)、②深心、③廻向発願心の3つを備えなければならないとし、『観経疏』(善導)によりこの三心を解説している。ここの本文も法然の解釈がすでに入っており、特に力説されるのが②深心である。深心とは「深信の心」であるとして、「疑ひなく」「一心にただ仏語を信じて」などと、とにかく信じることが重要であると述べる。それは「一切の別解(べつげ)・別行・異学・異見・異執」を退けるものである。法然は、悪く言えば「妄信」を求めている。
ここで面白いのは、当時「阿弥陀など虚妄だ」というような説があったらしきことである。それに対して法然は「皆が十方遍満して弥陀など虚妄だと言ったとしても、私は一念の疑心も起こさない!」と宣言している。このあたりは疑念がテーマになっている。仏典には様々なことが書かれており、名号念仏はそのごく一部分でしかない。であれば、念仏のみを信じろというのは、その他の仏典の文言を捨てることを意味する。どう解釈したらいいのか。ここで法然は、「仏のいうことは全て真実なのだから、帰するところは同じはずだ」といい、阿弥陀のみに従うことは他の仏説を否定しているわけではなく、究極的には「釈迦の所説・所讃・所証」を信じることと変わらないというのだ(かなりの強弁だ)。ここで、当時の常識である権実(ごんじつ)の枠組みが全く援用されていないことは注意される。
③廻向発願心の議論も長い。これは、善根を積み重ね、それを「皆真実の深信の心の中に廻向して」往生を願うことである。その意図するところはつかみ難い。この議論の中で、有名な「二河白道の譬え」が述べられる。火の河と水の河の間にある細い道を通って彼岸に至るとするもので、そういう危険な道を通ろうとすれば「そんな危険な道を行ったら死んでしまう。悪いことはいわないから引き返せ」という人がいるだろうというのだ。だがそういう声には耳を貸さずに道を進めと法然はいう。
なお火は瞋憎を、水は貪愛を譬えている。瞋憎や貪愛に陥らずに一心に念仏をすることが「二河白道の譬え」なのだ。しかしこの譬えは奇異だ。念仏による往生は誰でもできる易行ではないのか。死の危険があるような道をゆく難行とは違うはずである。しかしこの譬えは、念仏が難行であるといいたいのではなく、「周りがそんなのはやめておけと騒いでも、信じた道をゆけ」ということなのである。つまり周囲の雑音に惑わされるな、という話だ。法然が警戒するのは常に「疑い」である。
こうした議論の後、私釈では結論を確認するのみである。
第9章:『往生礼賛』(善導)によれば、念仏行者は4つの法を修する必要がある。①恭敬修(くぎょうしゅ)、②無余修(むよしゅ)、③無間修である(4つの法というのに、3つしかないのは脱落があると法然は述べている)。①恭敬修とは、一切の聖衆を恭敬礼拝すること、②無余修とは、余業をまじえず念仏のみに専修すること、③無間修とはそれらをずっと続けること、である。ここで窺基の『西方要決』が引かれる。それには上述の3つに加え「長時脩」があり4つとなる。
ここでも私釈は結論を確認するのみである。
第10章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、諸経を聞くことも功徳がないわけではないが、称名の功徳は「五十億劫の生死の罪を除く」と述べる。
私釈では「聞経の善はこれ本願にあらず」として、再び『観経疏』を引いてその主張を繰り返している。本章はとても短い。
第11章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、念仏者を讃嘆している。特に念仏者を「妙好人」と呼んだことは重要。
私釈では、念仏を修することのすばらしさを述べ、機根の優れた人も劣った人も皆念仏すべきだと主張する。一般的には、「造像起塔はお金持ちしかできず、修行によって悟ることも普通の人には難しいから念仏に頼るほかない」として専修念仏が勧められたとされる。だが、法然は貴賤の上下・機根の勝劣にかかわらず念仏すべきだという。それは「劣った人にでも効果があるのだから、優れた人に効果があるのは当たり前だ」との理由だ。また本筋ではないが、この議論の途中にある「また浄土に往生して、ないし仏になる(p.139)」との言葉は気になった。浄土では悟りが得やすいから、念仏で往生すれば成仏(悟る)こともできるとの主張である。
第12章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、「定散両門の益を説くといへども」称名念仏に専念すべしとする。
私釈では、「定散両門」の意味が解説される。これは「定善」と「散善」で構成され、「定善」には①日想観、②水想観から⑫雑想観までの12の観想法がある。これらを修することでも往生はできる。「散善」には、「三福」と「九品」の2種類がある。「三福」は父母への孝養、仏法僧への帰依、菩提心や大乗の経を誦することなどの善行である。「九品」とは、「三福」を上品上生から下品下生までの9つの機根に分けたものである。
法然はこれらの「散善」が善行であることを承認し、それらを実行することで往生できることも否定はしない。ここでは宗義格別の主張が復活し、例えば「たとひ余行なしといへども、菩提心をもつて往生の業とするなり(p.145)」などと諸宗派の認識を再確認する。
なお、ここで問題にされるのが、「読誦大乗(大乗の経を誦する)」である。その経の中に「何ぞ法華を摂するや」との問いがあるのだ。どうしていきなり『法華経』の話仁なるのか、いまいち理解できなかった。当時、最も偉大な経典とされていたのが『法華経』であるが、本書にはほとんど『法華経』への言及がない。意図的に避けていたのかは不明だが、この箇所の書きぶりからすると意識はしていた模様である。
このように、法然は定散両門の意義を正面切って否定はしないが、その意義は時代を経れば低下するという。そういう歴史観なのである。だが、念仏だけは釈尊が遠い未来にまで残るように計ってきたという。なぜそう断言できるかというと、「それが仏の本願だから」に尽きる。
であれば、なぜ諸経には念仏が説かれず、むしろ「定散両門」が力説されるのか。これに対し法然は「実行が難しい定散があることで、念仏の良さが際立つ」という。「定散は廃せむがために説き、念仏三昧は立せむがために説く(p.155)」というが、これはさすがに無理があると感じた。
さて、では定散両門の意義がなくなるのはいつなのか。それは「末法万年の後」なのだ。であれば、今(法然在世当時)はまだ定散両門は有効なのだ。今はまだ念仏しか頼れない時代ではないのである。だが法滅の世ですら頼れるのが念仏だとすれば、念仏は正法・像法・末法の全ての時代で頼りがいがあるのである(「念仏往生の道は、正・像・末の三時、および法滅百歳の時に通ず(p.160)」。
第13章:『阿弥陀経』と善導によるその釈を引き、「心を一(いつ)にして」念仏することで往生できると述べている。
私釈では、念仏は善根が多く、一方雑行は「これ劣の善根」であると切って捨てている。本章はとても短い。
第14章:善導の『観念法門』『往生礼賛』等を引き、臨終の時に念仏をすることで往生することができると述べる。
私釈では、それは「善導の意(こころ)によらば、念仏はこれ弥陀の本願なり(p.167)」だからだという。結局これに尽きる。
第15章:善導の『観念法門』等を引き、念仏行者は「六方恒河沙等の仏(あらゆるところにいる数多い仏)」によって護念される(厄難から守られる)と述べる。
私釈では、念仏をすれば、阿弥陀仏だけでなく数多くの仏から守護されることを強調している。
第16章:『阿弥陀経』を引き、仏が阿弥陀経を説いたことを述べ、善導の『法事讃』では「世尊法を説きたまふこと、時まさに了(おわ)りなむ」として、仏説の終結だとみなしている。善導は、「そこから時は流れ、今は人々の心が乱れてしまった」と嘆いている。
ここの私釈は本文とほとんど対応していない。まず三経(『阿弥陀経』、『無量寿経』、『観無量寿経』)に基づき、仏の「選択」がどこにあるかを検討する。「選択本願」「選択讃嘆」「選択留経」「選択摂取」「選択化讃」「選択付属」「選択証誠」などなど。それら総合的な選択の結果、称名念仏がある。
ここで、「華厳・天台・真言・禅門・三論・法相の諸宗においても浄土法門について考究している者はあるのに、なぜ善導のみを参照するのか」という至極当然の疑問が発せられる。これに対し、法然は「善導が浄土一筋だから」という。他の宗派は、往生一筋ではなく聖道門が中心だ。さらに「浄土門にも善導以外の思想家がいる」との反問があり、それに対して、それらの諸師は「いまだ三昧を発(おこ)さず」という。法然は、こういうところでは切って捨てるような言い方をする。さらに問う方も粘って「それでも善導の師である道綽がいるじゃないか」と食い下がる。だが法然にほれば、道綽は三昧をおこさなかったし、そもそも念仏での往生が可能かどうか善導に聞いているくらいだから、善導さえ参照すればよいという。
ここで『観経疏』(善導)が引かれ、面白い話が紹介される。それは善導が見た夢の話である。善導が毎日『阿弥陀経』3回読誦、阿弥陀仏3万遍を念じたところ、夢で浄土の様子を見るようになり、毎日夢に一人の僧が現れて『観経疏』の一部(玄義・科文)を授けてくれたという。こうして『観経疏』を書き終わって、今度は7日間、毎日『阿弥陀経』10回読誦、阿弥陀仏3万遍を念じようとしていたところ、第1日目には夢の中にラクダに乗った人が来て「往生すべし」と述べ、第2日目には阿弥陀仏に出会い、第3日目には二つの旗竿に5色の旗がたなびいている様子を見た。ここで善導は往生の確信を得、7日の予定を中断したのである。
法然は、毎夜現れた僧を阿弥陀が応現したものとし、『観経疏』は弥陀の教えだとする。さらには、大唐では善導自身が弥陀の化身であると言われているとし、「(善導は)仰いで本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱へ、念仏に憑(たの)みあり。俯して垂迹を訪へば、専修念仏の導師なり(p.188)」という。ここで本地垂迹説の枠組みが援用されて、本地-阿弥陀仏、垂迹ー善導という主張がされていることは興味深い。
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全体として強く印象に残ったのは、法然は「末法の世」だから云々といったことはほとんど述べていないことである。文庫カバーの紹介文では「末法の世では、自力で修行に励みこの世で悟りを得ることは困難で、ただ仏を信じ念仏することにより浄土に生まれ、来世に悟りを得るべきと説き…」とあるが、実際、このようなことを法然は説いていない。この紹介文を書いたのはおそらく編集者であるが、『選択本願念仏集』を誤読している。
まず、この世で悟りを得ることは困難かどうか、本書ではあまり述べられていない。確かに第1章で『大集月蔵経』を引き、「我が末法の時の中の億々の衆生、行を起し道を修せむに、いまだ一人として得るものあらじ(p.10)」とは言うが、これはあくまで道綽の時代(7世紀ごろ)の話である。また曇鸞の『往生論註』では、「謂はく五濁の世に、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす(p.18)」とある。「阿毘跋致(あびばっち)」とは道心堅固なことである。確かに悟りを得るのは難しい。しかし「末法だから困難」という言説はこれ以外に見出せない。
さらに、往生は念仏によるほかないとも書いていない。例えば、第7章の本文で「つぶさに衆行を修して、ただよく廻向すれば、皆往生を得」とある。これは問いの文の一部だが、「修行して廻向すれば皆往生できる」と言っている。なお、「来世に悟りを得る」というのも、確かにそのような主張もあるが決して中心ではない。
では本書の内容に基づいて法然の主張を述べるとどうなるか。
まず、法然は「念仏至上主義」というような立場に立った。念仏以外を「余行」とか「雑行」として、それらが善行であることは一応承認したが、同時に「余行は捨てるべきだ」と主張した。なぜ念仏以外を捨てるべきなのか。それは、念仏だけが仏の本願だからなのである。つまり、阿弥陀仏が念仏を「選択」したのだから、それ以外は捨てるべきだという。では阿弥陀仏が念仏を選択したのはなぜか。それは、造像起塔や写経、修行といったことを本願とすれば、それは一部の人しか実践できないからだ。仏が、一部の人だけを救うような方策を本願とするわけがない。そして、それは末法万年の後まで遺るように計らったのという。このように法然の思想の根本には、「仏は全ての人を救うはずだ」という、一種の平等観がある。念仏に頼るべきなのは、末法の世だからではなく、それが全ての人を救うものとして阿弥陀仏が定めたからなのである。
ここで重要になるのが、「一心に専ら」阿弥陀仏を信じて称名念仏しなくてはならない、ということである。なぜ「余行を捨て」「一心に専ら」阿弥陀仏のみを信じなければならないのか。これが法然教団の核心であるが、なぜ阿弥陀仏以外を否定しなければならないのか、本書からはいまいちわからない。「念仏はこれ弥陀の本願」だから他を否定するというのは、論理的ではない。しかも法然は余行の功徳も否定はしていない。余行を修したからといって、阿弥陀仏が嫌がるというような言説ももちろん存在しない。
ではなぜ法然は阿弥陀仏以外を否定しなければならなかったのか。その理由は、「二河白道の譬え」がヒントになる。ここでは易行であるはずの念仏が、火と水の河に挟まれた細い道を進む難行として描かれる。火や水ももちろん危険ではあるが、それよりも法然が警戒するのは「そういう危険な道はやめたほうがよい」という外野の声である。法然が念仏の障りと考えたのは、外野の声と、それによってもたらされる疑いなのである。
本書には、深く一心に信じること、一切の疑いを持たないことが力説される。これは、言い方は悪いがカルト教団と同じ主張であろう。法然は、一応、宗義格別の立場に立ってはいるが専修念仏以外を捨てるべきものとしている。専修念仏は、念仏カルト教団だったといっても、あながち間違いではないと思う。もちろん、「深く信じる」は法然が言い始めたことではなく、源信が『往生要集』で強調したことである。カルト的な性格は一切なかった源信も「深く信じる」を重視した。だがそれは阿弥陀仏が人の内面を覗くことができる能力があると捉えたからだ。一方法然にはそういう観念はなく、極端な念仏至上主義から妄信を求めた結果であった、と本書からは感じた。
法然が専修念仏運動の旗手となったのは、まさにこのためだったと思う。法然は一切経を5回も読んだというが、仏教の言説は膨大であり、そこから誰でも頼れる明快な教えをバランスよく抽出することは困難である。当時最も影響力が大きかったのは『法華経』であるが、『法華経』の7万字から教えの要点を抽出することでさえ困難だ。そこで法然は、念仏を「弥陀の本願」で押し通し、経に「一向に」と書いてあることのみを論拠として残りの仏説を全て切って捨てた。こういうことは、ちょっと常人にはできそうもないのである。『選択本願念仏集』という書名は、阿弥陀が念仏を「選択した」ということを意味しているが、法然にとっては「残りの仏説を全て切って捨てた」という選択だったのかもしれない。
また、法然といえば「善行を積むことができない下賤の人に念仏での往生を勧めた」と言われることがあるが、これも本書を読む限り違う。本書の書きぶりから判断すると、下賤の者が念仏に頼るほかないということは、法然以前に広まっていたように思われる。そして、法然の主張したのは、「念仏は下賤の人だけでなく、貴顕の人まで含めて全ての人が行うべきだ」ということだったのではないだろうか。
例えば、『観無量寿経』では、上・中二品では念仏を説かず、下品(げほん:機根の劣った人)に至って念仏を説いている(p.71)。『観無量寿経』では念仏は下品の人向けの行いなのである。これに関し、第10章の私釈にこういう問答がある。「何が故ぞ、上々品の中に(念仏を)説かずして、下々品に至つて、しかも念仏を説くや(p.132)」。法然は私釈で念仏者を「上々人」と位置付けているが、であれば、『観無量寿経』で上品の人々に念仏を説いていないのはおかしい。そして下品の人が念仏を実践したらそれはもはや「上々人」ではないかというのである。これに対して法然は真正面から答えず、「あに前に云わずや。念仏の行は広く九品に亘ると(p.133)」とする。念仏は九品、つまり全ての人が行うべきものだというのである。
では経で下品に至って念仏を説いているのはなぜかというと、下品下生(九品の最下位)は、「五逆重罪の人」で、そういう人は「ただ念仏の力のみあつて、よく重罪を滅するに堪へ(同)」るからだ。つまり重悪人は念仏以外での救済は不可能だから、あえて下品で念仏を説いているのだという。
この後いろいろ議論してから、面白い問答が出てくる。質問者曰く「下品上生(下品の中では優れた部類の人)は、これ十悪軽罪(きょうざい)の人なり。何が故に念仏を説くや(p.137)」。下品上生の人は重罪ではなくて軽罪なんだから、念仏以外でも救われるはずなのに念仏を勧めるのはなぜかという。これに対する法然の答えは、いかにも法然っぽい。「念仏三昧は、重罪なほ滅す、いかにいはんや、軽罪をや」というのだ。
こうした問答から判断すれば、造像起塔や写経を行い、または自ら修行するような貴顕の人々も念仏を行うべきである、と主張したことこそが法然の独創であったように思う。実際、本書は九条兼実の懇請によって著されたものというが、蹉跌の時にあったとはいえ、摂関家の兼実が法然に帰依したことはその主張を物語っているといえよう。ちなみに、兼実は貴族社会が没落していく中で国費を膨大に費やす政治を快く思わず、「政を淳素に反す」ことを宿願としていたらしいが、仏事に巨費が投ぜられていた当時の状況を思うと、兼実は専修念仏が緊縮財政に役立つと考えたのではないかと思った。
最後に法然の独創を繰り返すと、次の2点に集約できる。第1に、念仏以外を無用として切り捨てたこと。第2に、念仏は機根の劣った人だけではなく、貴顕の人も含め全ての人が行うべきであること。この2点ともその論拠は、「それが弥陀の本願である」からだ。
専修念仏教団を生み出した、念仏至上主義の書。
【関連書籍の読書メモ】
『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。
『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。法然については「Ⅴ 法然の思想構造とその歴史的位置」「Ⅷ 建永の法難について」を参照。
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