出羽三山とは、山形県のほぼ中央に位置する三つの山であり、修験道の修行の山として栄えた有名な霊場である。だが私にとって出羽三山は土地勘のない東北のことなので、どうも印象がボンヤリとしている。そこで手に取ったのが本書である。
出羽三山は、かつては月山(1984m)、羽黒山(414m)、葉山(1462m)の3つの山を指したが、近世以降は葉山に変わって湯殿山(1500m)が三山に加わった。三山の中で羽黒山だけが低山なのが特徴的だ。
月山の史料上の初見は早く、平安時代に編纂された法制書『新抄格勅符抄』に宝亀4年(773)のこととして、「月山神」に神封2戸を寄せられたとある。『日本三代実録』にもしばしば月山神が登場する。
羽黒山が登場するのは古代から中世への過渡期である。その縁起によれば、崇峻天皇の子供である蜂子皇子が能除大師として羽黒山を開いたという。ただし、これは朝廷からは認められていなかった説である(神仏分離後に認められた)。なお羽黒山は熊野信仰との密接なかかわりがあったらしく、羽黒山には熊野権現が勧請されたのだという(『羽黒山縁起』)。
湯殿山の信仰はちょっと変わっている。山そのものがご神体なのではなく、山中にある温泉の成分が凝固した赤茶けた巨岩がご神体だからである。神仏分離以前は「ご宝前」と呼ばれたそうだ。史料に現れるのは中世後期の戦国時代である。
葉山に代わって湯殿山が出羽三山に含まれるようになったのは、信仰上の変化とともに、峰入りのルート整備に関わる理由ではないかという。
中世の羽黒山は諸宗派から構成されていた。「山頂のご本社を取り巻く寺々は真言宗、五重塔の周囲と門前町の寺や坊は天台宗で、臨済宗の寺も二カ寺あり、念仏寺院も三カ寺(p.42)」あったという。「羽黒修験」と呼ばれる存在は、こうした寺にそれぞれ所属していたのか、あるいはこれらの寺と独立に存在していたのかよくわからないが、ともかく江戸幕府の政策で、修験と認められるためには「本山派」か「当山派」のいずれかに属さなくてはならなくなった。そこで羽黒山別当の天宥は、寛永18年に天台宗の天海に弟子入りし、羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した。こうして羽黒山は本山派・当山派とは別の独立した地方修験の山として公認された。
だがその統一によって、三山の内部の天台宗と真言宗との争論が勃発した。出羽三山には7つの登山口があり(八方七口)、それぞれを別当寺が管理していた。うち3つが天台宗で羽黒山、うち4つが真言宗で湯殿山を押さえていた。それらが、寛永・寛文の二度にわたって湯殿山の祭祀権をめぐって争論を行ったが、それを「両造法論」という。この結果、幕府は羽黒山と月山は天台宗側に、湯殿山には真言宗側に祭祀権を認めた。出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分割されたことになる。地理的には「月山・湯殿山」が一体で、羽黒山が離れているのにこのように分割されたのは非常に政治的だ。
羽黒山は寛永寺の末寺になったことで後ろ盾を得、天宥以降の別当は日光山輪王寺宮門跡が務めることになった。また文政6年(1823)には羽黒権現は式内社の伊氐婆(いでは)神社であると主張して「出羽神社羽黒山三所権現」に正一位の位階が贈られた。また開山の能除太子に「照見大菩薩」の諡号も贈られた。三山の中では一番低い羽黒山が出羽三山で一番の権威を持っていたようである。
明治維新後、庄内藩には神仏判然令が明治2年5月に伝えられた。羽黒山は出羽神社(現在の出羽三山神社)と改められたが、寺院や堂塔などは仏地として残された。また月山山頂は神社とするが胎内岩付近は仏地とすることなどが取り決められた。このあたりは簡潔にしか書いていないがどういう線引きだったのか興味深い。さらに明治6年には西川須賀雄が出羽神社の初代宮司として赴任してきた。西川は、「すでに復飾していた羽黒山内の清僧修験の院坊を破却して山内から追放した(p.49)」。
羽黒山には、妻帯せずもっぱら修行に勤しむ清僧修験と、妻帯して宿坊を営み参詣者の受け入れを行う妻帯修験がいた。このうち「清僧修験の院坊」とは何なのか、本書には詳らかでないが気になった。彼らの住居だろうか。西川は仏教徒に転じていた妻帯修験にも神道への転換を迫った。西川は赤心報国教会を組織し、これが宿坊と各地の信者のつながりを認めたため、かつての修験たちは次第に神道へと属していった。
神仏分離に対しては三山それぞれと八方七口ごとにいろいろな対応があった。まとめると以下の通りである(p.65)。なお以下のリストで、「手向」等は七口の名前であり正式には「手向口」などであるが、「口」は省略した。
羽黒山 手向(とうげ) 寂光寺(天台宗)→ 出羽三山神社
月山 肘折 阿吽院(天台宗) → 八幡神社
月山 岩根沢 日月寺(天台宗) → 出羽三山神社
月山・湯殿山 大井沢 大日寺(真義真言宗) → 湯殿山神社
月山・湯殿山 本道寺 本道寺(真義真言宗) → 湯殿山神社
湯殿山 七五三掛(しめかけ) 注蓮寺(真義真言宗)→ 注蓮寺
湯殿山 大網 大日坊(真言宗豊山派)→ 大日坊
大雑把に言えば、羽黒山・月山は神道化、湯殿山は仏教に留まったということになるが、羽黒山でも手向の300余りの宿坊のうち正善院のみは仏教寺院として残った(戦後、天台宗から独立して羽黒山修験本宗となった(p.54))。上のまとめはあくまで別当寺の対応であって、その下にあった多くの宿坊はそれぞれの判断を迫られたのである。なお三山の祭祀権は、近世まではそれぞれの別当寺が保持していたが、神仏分離以後には、羽黒山の三山神社に祭祀権が一括された(p.51)。
こうした経過から、出羽三山は神仏分離によって(神道に全部変わったのではなく)神道と仏教に分かれ、現在でも伝統的な修行「秋の峰」は神道側と仏教側に分かれてそれぞれ行われている。出羽三山の興味深いところは、まさにこの神道・仏教が分割・共存の道を選んだところであろう。
ところで手向の宿坊では、妻帯修験は「霞」という中世以来の縄張りと、「檀那場」という信者の開拓を行った地域を持っており、「霞」は東北地方に、「檀那場」は関東地方に広がっていた(なお、他の口の宿坊はどうだったのか記載がない)。妻帯修験にも、別当直参の「恩分」と「平門人」という二つの身分があった。「恩分は別当から霞を支配する免許状を与えられ、帯刀を許され、役職に任じられた(p.69)」。檀那場を開拓したのは「平門人」の方である。また「羽黒山では、清僧修験に院号、妻帯修験に坊号が与えられた(p.70)」。…とあるが、「羽黒山が与えた」というのは、実際誰が与えたのかよくわからなかった。
ここまでが本書の第1章で、第2章では近世から現代までの出羽三山の参詣の実態、第3章では羽黒修験の修行(近世以前および現在のもの双方)について述べている。ここで少し疑問なのは、出羽三山と「羽黒修験」の関係である。すでに述べた通り出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分かれていたのであるが、「湯殿修験」が別に存在したとは書いていない。「羽黒修験」は出羽三山で活動した修験者の総称なのか、それとも羽黒山を拠点としていた修験者を指すのか本書には詳らかでない。なお第3章の記載によれば、羽黒修験の修行は「月山・羽黒山」で行われており(主な舞台は月山)、湯殿山には登らないようだ。
なお、天台宗側(月山・羽黒山)と真言宗側(湯殿山)では参詣の装束が異なっており、両山の境界には「装束場」という場所があり、そこで装束を着替えたのだという(p.153)。ということは、修行の場所が完全に分離していたのではなく、装束を替えて両山を参詣する人が多かったということになる。修験者は持ち場があったに違いないが、参詣の人にとっては境界は形式的なものだったかもしれない。
第4章は出羽三山の観光案内的な地理の説明で、特に「湯殿月山羽黒三山一枚絵図」という幕末に印刷された絵図を紹介して、近世における出羽三山がいかに盛況していたかを述べている。なおこの図は、一応「三山」となっているが、天台宗側(つまり月山・羽黒山)しか描かれていない。これは天台宗側によって作成されたからなのか、「語らずの湯殿山(湯殿山については語ってはならないとするタブー)」のためなのか分からない。
第5章では湯殿山に残る即身仏について述べている。即身仏とは仏教の捨身的な修行によるミイラである。庄内地方には6体の即身仏があり、うち1体は湯殿山の注蓮寺にある。出羽三山の即身仏は、湯殿山の仙人沢で「一世行人(ぎょうにん)」と呼ばれる宗教者が、人々の苦しみを代わりに受け止める(代受苦)修行によって、生きたまま土中に埋められて成仏したものをいう。だが近世では即身仏についてはあまり注目されておらず、あくまでも一世行人の生きている時の活動を人々はありがたいと思っていたようだ。それが近代に入ると即身仏は信仰の対象になるようになった。そこには、出羽三山の祭祀権を失った湯殿山が、新たな信仰の対象を求めたためではないかという。
第6章では出羽三山の食文化について述べている。羽黒修験たちの入峰修行の際の食事は極めて質素であったが、一方で宿坊で参詣者に提供される食事は食べきれないほど豪華なものだった(もちろん高額な謝礼を払った)。参詣が遊興化していたことは食事の面からも明らかである。
本書は全体的に簡明で読みやすく、わかりやすい……といいたいところだが、一読した印象は平易ながら、メモを取りながら再読してみるとどうもよくわからない部分が多い。それは近世以前の修験者および修験道の在り方について、わかったようでわからない概念的な説明をしているからである。
例えば、「羽黒山別当の天宥が、寛永18年に羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した」という記載についても、まず「羽黒山別当」の意味がよくわからない。出羽三山には八方七口にそれぞれ別当寺があったという記述はあったが、羽黒山の別当とは具体的に何を指すのか(寂光寺別当のことかもしれない)。また「羽黒山を末寺にする」とは一体何か。具体的にはどの寺院が羽黒山の末寺になったのだろうか。そして、仮に羽黒山を代表する寺院(寂光寺)が天台宗になったとして、「羽黒山を天台宗に統一した」ということの意味もよくわからない。真義真言宗の寺院が現実に存在しているのに、羽黒山を天台宗に統一するということの意味はなんなのか。こうしたことが、本書では全く説明されない。他の項目についても推して知るべしである。
だが、これが本書の大きな瑕疵とはいえない。本書を手に取る人の多くは「出羽三山のことについて大まかに知りたい」という人だろうから、あまり細かい話に立ち入る必要はないだろう。とはいえ第1章はもう少し説明がないと、修験道の知識がある人以外には理解が困難だと思う。
それから、これは編集の方針かもしれないが、出羽三山のそれぞれをあまり区別せずに書いているのもわかりづらい原因のように思う。「月山・羽黒山」と「湯殿山」の二本立てにして記述した方が私にとってはわかりやすかった。
出羽三山の概説としては簡明で平易だが、修験道関係の記述は理解が難しい惜しい本。
【関連書籍の読書メモ】
『修験道史入門』時枝 務・長谷川 賢二・林 淳 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_5.html
修験道史の研究状況を整理した本。「第8章 羽黒派」(高橋 充)では、羽黒派の歴史と研究状況をまとめている。
『維新の衝撃 近代日本宗教史第1巻』(島薗 進、末木 文美士、大谷 栄一、西村 明 編)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/07/1.html
幕末から明治10年代くらいまでを中心とした日本宗教史。「第5章 近代神道の形成」(三ツ松誠)では、西川須賀雄を取り上げて近代神道の形成過程を追っている。
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