2021年12月30日木曜日

『第二の性 III 自由な女』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳

『第二の性』、5分冊のうちの第3巻。

本巻には、「永遠の女性とは?」「ナルシスムの女」「恋する女」「神秘家の女」「自由な女」「結論」が収録される。原書では本巻が全体の最後の部分であり(翻訳の都合で原書後半の方が先に訳出された)、よって「結論」が『第二の性』全ての総括になっている。

また本巻冒頭の「永遠の女性とは?」は、本来は第2巻のまとめとして位置づけられる章であるが、分冊の都合により第3巻に収録されたものである。

【参考読書メモ】『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/09/ii.html

第2巻では、女性の人生を辿りつつ女性が置かれた暗鬱な状況がこれでもかと列挙されたのであるが、「永遠の女性とは?」では、女性の<性格>がそういう状況によって生みだされたものであることが改めて詳述される。ことあるごとに男性は女性を劣ったものとして扱うが、それは女性がずっと「世界」から閉め出されおり、成長の機会を満足に持つことができなかったからだ。「世間は女を台所や寝室に閉じ込めてきながら、その視野展望がせまいといって嘆く(p.18)」のである。

女性は、自らの置かれた状況を改善する能力を涵養できないようにさせられているから、「男性にむかって挑戦できるような堅固な<反・世界>を自分達でつくることに成功しない(p.35)」。それどころか、女性は男性から虐げられていながら、女性同士で連帯することもなく、むしろ反目し合う。それは男性優位の社会で利益を得ている女性も多いからで、「こういう女性の空虚な傲慢さ、その絶対的な無能、頑固な無知は彼女たちを人類が生み出したもっとも不必要な、無能な存在にしている(p.50)」。

ボーヴォワールはこのように言うが、本書を読みながらこうした姿勢こそが女性運動を難しくする一因のように感じもした。「女にとっては、自分の解放のためにはたらくことしか、ほかにどんな出口もないのである。(中略)この運動はぜひ集団的でなければならない(p.51)」と呼びかけながら、ボーヴォワールは男に反抗しようとしない女を切り捨てているように見える。

次の「ナルシスムの女」 「恋する女」「神秘家の女」の3章は、厳しい状況に置かれながらもなんとか自己実現しようとする哀れな女の姿を描く(なお「自己実現」とした部分は、本書では「実存」とか「超越」とか、実存主義哲学の用語で述べられるが煩瑣なので単純化する)。

常に男の付属物にさせられようとする力を受けている女性が、それでも自己実現していくためには、自らを「特別なもの」にしつらえる必要がある。女は「ありのまま」では男社会に飲み込まれてしまうのである。そんな方途の一つが「ナルシスム」だ。これは文字通りの自己愛だけでなく、たとえば自分を「不思議ちゃん」にするといったことも含まれる。

「私って変わってるの」と言いふらし、自分は普通人と区別される存在だと思い込む。あるいは自分は世界で最も不幸な女性だと思い込むのも特別な存在になるための別の一手だ。こういう「異常な宿命に印された無数の女性たちに共通した特色は、自分がひとに理解されていないと感じること(p.64)」である。しかも彼女は自分しか見えていないのに、外の世界に評価されたいと望む。しかしその評価は十分に得られることはなく、「ナルシスムの女」は残酷なことに加齢によって凡庸な存在へと堕してしまう運命にある。

この章は、ボーヴォワールが毛嫌いするタイプの人間を容赦なく批判しているような内容である。「そりゃそうかもしれないけど、そこら辺で勘弁してあげなよ」と思うような辛辣さである。

次は 「恋する女」である。「彼女は自ら隷属を熱望することによって、自己の隷属を自己の自由の表現のように思いこもうと(p.81)」し、「恋が彼女にとって一個の宗教になる(同)」。愛する男性にその身を全て献げることは、神に全てをゆだねる信仰者のそれと等しい。「恋人の要求に応じることによって彼女は自分を必要なものに思うのである(p.93)」。これは最初のうちは確かに彼女の救済になる。ところが恋人に自分の存在を委ねることで、彼女は徐々に「自分」を失っていく。今の言葉でいえば「依存症」になる。

女は男の要求次第でどんな人間にも変わる。本来の自己が忘れられ、男に気に入るためにどんんどん要求に応えようとする。もちろんそれが恋人達に幸せをもたらすこともある。しかし男性に全面的に依存してしまった女の幸せが永続的であることは少ない。

まず、相手を偶像化するような恋愛は愛する男に絶対的な価値を与えるが、実際にはそんな価値を持った男はいやしないということだ。「あの男はあなたがそんなに愛するねうちのある人間じゃない(p.99)」と周りの人にはすぐわかる。さらに、男の方では暴君になるか、逆に自分に全面的に依存する女を疎ましく思うようになる。

結局、「恋する女の不幸の一つは、その恋愛自体が彼女をゆがめ、彼女を滅ぼしてしまうこと(p.117)」なのだ。ボロボロになってしまった女をもはや男は愛すことはない。「捨てられた女はもはや何物でもなく、何物ももっていない(p.119)」ということになる。

もちろん、男の方でも熱烈な恋愛に身を滅ぼすことはある。しかし男の場合は仮に女に依存していたとしても、現実の世界への足がかりが常に用意されているのに対し、女が恋に身を滅ぼした場合は、「社会復帰」が非常に難しいという事情がある。

本章における著者の主張は極めて明解である。それは、依存的な恋はよくない、ということだ。そして依存的でない「真正の愛は、二つの自由が互いに相手を認めることの上にうちたてられ(p.120)」るということなのだ。

これまでの二つの事例は、自己・恋人へいれあげる女性であったが、これが神に対するものになると「神秘家の女」ということになる。女性は現実の世界で自己実現ができないから、非存在の世界に赴くわけだ。こういう女性は単に度を超して敬虔なだけでなく、神の幻覚を見、恍惚とし、神と対話する。そして病人や貧しい人に対するマゾヒスティックなまでの奉仕に幸福を感じる。そして自分が神に選ばれた女であると思い、極端な場合には教派を起こす場合もある。本章は比較的短く、「ナルシスムの女」 「恋する女」のような辛辣な批判はないものの、女が神にいれあげるのは、結局は女性が現実世界で存分に自己実現できないことの埋め合わせであるとボーヴォワールは喝破するのである。

「自由な女」では、これまでの暗鬱な調子とはうって変わって、このように厳しい状況の中でも自己実現を果たした女、そしてそうなるためにはどうすればよいのかが力強い調子で語られる。

まず、女性は経済的に男性と平等でなくてはならない。男性と同じ条件で労働に参画し、正当に評価され、誰にも依存せずに自立した暮らしを送れるようにすべきだ。それが、女性が自ら男性に依存するようにしむけることで存立している旧システムを破壊する第一歩である。

そして性的にも女性は男性と対等でなければならない。今の社会で自立した女・自由な精神を持つ女は、自分の性を拒みがちだ。なぜならそういう女は「もっぱら男を誘惑することしか考えていないおしゃれ女(p.145)」と自分を同じ種族だとは見なしたくないからだ。しかし性を拒否することもまた自分を不具にすることになる。だから「男がもし奴隷女でなく、自分と対等の者を愛する気になるなら、(中略)女も女らしくすることをいまほど気にすることはなくなる(p.147)」はずだ。

ただし女性が男性と対等になっても、「母性」だけは女性だけが引き受けなくてはならない。職業を持つ女性には、自ら子供を持たないことを選ぶ人もいるが、それ自体も女性には負担である。仕事と母性の最適なバランスを見出すことが難しいのは事実である。

そして今(※約70年前のフランスで)、どうにか自立した「自由な女」であろうとする女性も出てきている。しかしボーヴォワールには、彼女らの苦闘は生ぬるく見えるようだ。多くの働く女性は、男性優位の社会を所与のものと考えて、いわば「控えめに」仕事する。男性の世界を乗っ取ろうとはしない。そして「自分は女性なんだから、一流の仕事ができなくても仕方がない」と考えて貪欲にトップを目指さない。もちろんそれは、いわゆる「ガラスの天井」があることを理解しているからだし、いくら仕事で業績を出しても家庭での義務(家事や育児)から免除されるわけではないという事情があるからだ。

文学の世界を考えてみても、ドストエフスキーとかスタンダールのような偉大な作品を女性はまだ生みだしていない。それは女性作家は、ただ自己を確立するということのために多大なエネルギーを費やさねばならず、それ以上の冒険に行くまでに力尽きたからだ、という事情もある。しかし昔に比べれば、女はずっと自己を解放することのできる条件が整ってきている。もはや女性も、スタンダールに比肩する作品を生みだしてもよい頃だ。芸術でも仕事でも、あらゆる分野で女性は男性と同じ高峰に登って仕事ができる能力があるのだ。

ではなぜ未だに女性はそういう業績を生みだしていないのか? それは、女性自らが、無意識に己に制限を加えているからだ、というのがボーヴォワールの考えだ。長年にわたって「第二の性」の立場に甘んじてきたから、女性は本当は自分が男性と同じ能力があるのだと信じ切ることができないのだと。

世界を変えなければならない、と考えるボーヴォワールにとって、男が作った世界から一歩も出ないことは真の意味で「自由な女」ではない。女性も男性と等しく世界を創造する必要がある。しかし「彼女がまだ人間らしい人間になろうとしてたたかわねばならぬかぎり、創造者となることはできない(p.180)」。だから、まだしばらくは「自由な女」は生まれないかもしれないが、「いまこそ女自身のためにもすべての者のためにも、女にあらゆる機会を開いてやるべき時であること、それだけはたしかなことだ(p.191)」

終章の「結論」では、これまでの様々な議論が別の形で繰り返される。しかしその主張はやや意外な展開を見せる。「男の世界への反抗」を呼びかけるのかと思いきや、むしろ男女が仲違いするのは必然ではないとし、互いに相手を対等だと認め合うことで今ある悶着が片付くのだと述べる。本書はあくまで女性差別を告発するものであり、理想の社会をどうやって実現するかという方策を述べるものではない。だから、男女が対等なものとなったら、社会や個人(男も女も)が抱えている多くの問題が解決するだろうとは予言するが、そこへ至るまでの道筋は語らない。

ただし、本巻の結語でボーヴォワールはこう述べる。「現実世界のまんなかに自由の支配を到来させることが人間に課された仕事だ。この崇高な勝利をかちえるためには、何よりもまず、男女がその自然の区別をのりこえて、はっきりと友愛を確立することが必要である(p.216)」と。すなわち必要なのは女性による「男の世界への反抗」ではなくて、まず人間として互いを理解する態度だというのである。これは、その後にフェミニズム運動の内部で起こる様々な軋轢を予言しているようで意味深な結語であると思った。

全体を通じ、女性を称揚するのではなく、むしろねじくれた女を執拗に描いているような感じを受けた。そしてねじくれた女を描けば描くほど、彼女らがねじくれなければならなかったのは、女性の天性ではなくて、彼女らが置かれた状況がいかに矛盾に満ちたものであるかを痛感させられる仕掛けになっている。そしてその矛盾を解消するのに必要なものは、闘争ではなくて友愛だと結論づけたのが印象的だ。実際には闘争でしか不平等は解消できないとしても、この長大な告発の書がそのような結論に行き着いたこと自体が興味深い。

女性運動の預言の書。

 

【関連書籍の読書メモ】
『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_31.html
この巻では、女性が生まれてから成年になるまでを取り扱っている。

『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/09/ii.html
この巻では、成人してから亡くなるまでの女性の生活が活写される。


2021年12月28日火曜日

『ガメ・オベールの日本語練習帳』ジェームズ・フィッツロイ 著

珠玉のエッセイ集。

著者のジェームズ・フィッツロイ氏は、「大庭亀夫」、「ガメ・オベール」(いずれもgame overのもじり)の筆名でブログを書いてきた。今は閉鎖され閲覧することはできないが(※)、「十全外人ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.〇」というタイトルだったと記憶する。

著者は英国生まれで、現在(本書刊行時)はニュージーランドに在住。若くして数学を修め、おそらくはその能力による発明? によって大金を得、企業経営しつつ投資家として暮らす、という輝かしい経歴を持つ。しかもその上、超弩級の知性を持っており、古今の書物を跋渉した博覧強記の知識人であると同時に、数か国語を操る多言語人でもある。

そんな多言語の一つが日本語であり、ブログのタイトルに「日本語練習帳」が冠されているのは、日本語の練習のために書かれたもの、という形式をとっているからだ。本書はそのブログから44編が選ばれて掲載されている。

このように書くと、多くの人はエリート成功者が上から目線で世の中を斬るような内容を想像するかもしれない。しかし実は真逆も真逆で、この超弩級の知性を持ったニュージーランドの詩人は、最も弱い立場に置かれた人間に寄り添って語り掛けるのである。

いや、「知性」とは、もともと、社会を訳知り顔に解説するためのようなものではなくて、ぎゅっと握りしめた掌の中にある「やさしさ」そのものなのだと、本書を読んで気づかされる。

その内容は、人生に打ちのめされた人間への言葉、鮎川信夫と岩田宏を中心とした日本の現代詩、太平洋戦争とその後の近代史、言葉について、この社会から抜け出すための助言など…で構成されている。どれもこれも、深い洞察と見聞や経験に裏打ちされているだけでなく、日本社会を外から見ている人ならではの視点がとても新鮮である。このように日本社会を理解している「外国人」が他にいるだろうか。

しかも本書が驚異的なのは、日本語を母語とする人が書いたものではないにも関わらず、その日本語がとんでもない高みに達していることである。これほどの高みに達した日本語を書いた人は、私の知る限りでは幸田露伴、南方熊楠くらいだ。単なる名文ではなく、言語そのものが我々をどこかに連れて行ってくれるような天衣無縫さがあるのだ。

さらに驚くべきことは、表現上の工夫が違和感なく取り入れられている、ということだ。例えば本書には、読点で蜿蜒とつながれた長い長い文が時おり登場する。こういうのは、近頃は悪文とされるに違いない。しかし幸田露伴の文章にそういう長大な文が登場するように、あるいは源氏物語が途切れのない、どこで息継ぎしていいかわからないような文だらけであるように、日本語の特性が生かされた文章は、決まって長大な文で構成されているものである。その他にも、現代詩のような文章もあれば、手紙風文章、改行が多用された文章など、いろいろな工夫がちりばめられており、「日本語練習帳」の名に恥じぬ多彩さである。それと同時に、それらが単なる表現上の工夫であるだけにとどまらず、ぴったりと内容に合致し、現代的な軽やかな表現となっているのが特徴だ。

もはや本書の出版は、日本語の歴史におけるひとつの事件だ、とさえ思う。このような日本語が登場したことは長く記憶されるに違いない。私も一人の日本語を使う人間として、この日本語には嫉妬せざるを得ないのである。

ところで本書は、どん詰まりにある人に一縷の光を投げかけるような「救い」が随所にみられる。だから、弱り切った人にこそぜひ手に取ってほしい。私自身、出版前に予約して手に入れたものの、実際には読まないで取っておいて、原因不明の肋間神経痛で仕事ができなかったときに本書を開いた。そういうときに寄り添ってくれるのが本書である。上述の説明でもしかしたら誤解された方もいたかもしれないが、本書に難解な部分は全くなく、病床にある人に、陽の刺す窓のカーテンを開けてくれるような本なのだ。

最高の「知性」による名編中の名編。

※現在は著者による別のブログが公開されている。
ガメ・オベールの日本語練習帳ver.7
https://james1983.com/

★Amazonページ
https://amzn.to/491RXKB

2021年12月20日月曜日

『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著

島津義久・義弘を中心とした歴史書。

本書は、戦国時代末期から江戸時代の当初を記述の対象とし、当時の島津家の当主である島津義久、その弟の義弘、義弘の息子忠恒の動きを中心にして記述した歴史書である。

彼らの活躍した時代、島津家は破竹の勢いで九州をほぼ統一する。豊臣秀吉に下った後、関ヶ原では西軍に参加して外様となったものの外交によって本領を安堵されて薩摩藩を確立するなど、激動のまっただ中にあった。そんな中で、巷間に流布されている説では、義久・義弘は固い兄弟の結束によって難局を切り抜けてきたとされてきた。

しかし実際には、兄弟の方針はバラバラで、しかも家臣団を統制することができない状況にあり、「強大な戦国大名」というイメージとは裏腹に非常にあやうい状態であったのである。本書は、そのあやうさを一次史料に基づいて丁寧に描くもので、特にこれまであまり注目されず伝記も明治以降出版されていない島津義久を丁寧に描いたところが新鮮である。

「第1部 戦国期の義久・義弘兄弟」では、島津家が三州(薩隅日)統一し、続いて九州をほぼ制圧するが秀吉に下るまでが記述される。第1部はほとんど、戦がいかにして起こり、それを収めたかという記述である。そこで強調されていることは、当主義久は、重臣談合——重臣たちの話し合い——の結果を尊重し、基本的にはそのまま承認して意志決定していたということである。つまり義久はボトムアップ型のリーダーだった。

そして島津家の行動原理は、「自他之覚」「外聞実儀」を重視するものだった。つまり「外から見てどう思われるか」ということをいつも気にしていたのだ。九州統一戦も、実は最初から九州を統一しようと思ってやったのではなく、あちらを倒せばこちらが頼ってくる、こちらを助けるとあちらと戦わねばならなくなる…といったように、行き当たりばったりで対立と和平が繰り返されて結果的に成し遂げられたもののようだ。ちなみに義久自身はほぼ常に慎重派・和平派で鹿児島を動かなかったのに対し、義弘は血気にはやり各地を転戦していた(といってもこの頃は家臣の立場なので自分の意志のみで転戦していたわけではない)。

この九州統一戦の中で、一つの重要な決定がなされる。義弘を当主の「名代」「守護代」とするというものだ。これは、島津家の領土が拡大したことから鹿児島にいる義久だけでは意志決定が遅くなったこと、義久に後継者がなく健康が勝れなかったことなどからなされた決定である。こうして義久・義弘の両頭体制が敷かれることとなった。ただ、この二人はお互いに尊重し合ってはいたが、戦略を共有していたとはいえない。豊臣秀吉との決戦においても、義久は一刻も早い講和を望んでいたらしいが、義弘は戦端を開き敗北している。こうして島津家の九州統一戦は終わりを告げ、義久は出家して秀吉に恭順の意を表した。

「第2部 豊臣政権との関係」では、朝鮮出兵への対応と秀吉の死までが記述される。島津氏は秀吉に下り、交渉の末に本領を安堵されたが、全てが当主義久に帰属したのではなく、直接に秀吉の家臣となったもの(御朱印衆)も多かった。御朱印衆の場合は秀吉から直接所領を宛がわれたため、彼らは義久の家臣であると同時に秀吉の家臣でもあるというねじれ状態になった。

義弘も御朱印衆となり、豊臣政権と接近していく。義弘は「両殿」ではあったが、家臣達は義久を当主と見なしており鹿児島では基盤が脆弱だった。しかも、朝鮮出兵において派兵された義弘は鹿児島からろくな補給を得られないまま孤立し、鹿児島への不信を強めていく。そうしてむしろ豊臣政権をバックにして鹿児島を動かすしかないと感じていくのである。

それでなくても強権的な秀吉の力を利用してのし上がろうとするのは御朱印衆にとっては自然なことだった。石田三成とその家臣安宅秀安に取り入り、豊臣政権との連絡役を買って出て家老から大名的な存在にまでなったのが伊集院忠棟であり、忠棟は三成の手代となって次期当主として義弘の息子島津忠恒を指名させるとともに太閤検地を主導した。三成の太閤検地とその所領分配は従前の領地を大きく入れ替えるもので、特に義久を鹿児島から追い出して義弘を代わりに据えようとし(しかし実際には義久はそれを遠慮して本拠地を帖佐とした)、さらに忠恒の所領を組み込んで、鹿児島で義久[浜之市]・義弘[帖佐]・忠恒[鹿児島]の三分割(三殿)体制が出現することとなった。

一方、義久は一貫して豊臣政権とは距離を取り、家臣団の再編成と信頼の回復に努めると共に豊臣政権の内政干渉を無効化しようと試みた。例えば太閤検地において分配された領地を旧来の領地割に戻そうとしたり、上知された(取り上げた)寺社領を戻そうとしたりといったことである。義久は明らかに政権の命令をのらりくらりとはぐらかそうとしていたが、それでも強制的に排除されることがなかった要因として、義久が琉球とのパイプを独占していたらしきことがあるようだ。豊臣政権は島津氏の代表を当主義久ではなく義弘としていたのだが、こと琉球との外交に関しては義久を経由しているのである。

「第3部 庄内の乱と関ヶ原の戦い」では、徳川幕府の樹立と薩摩藩の琉球侵攻、そして後日談的な義久・義弘の老後が記述される。先述の通り、忠恒は伊集院忠棟を通じて石田三成に取り入って家督相続を確かなものにしたが、あろうことか伊集院忠棟を茶会に招いて斬殺する。伊集院忠棟は、薩摩の太閤検地を主導してただひとり大幅な領地の加増を受けており、豊臣政権の力をバックにした専横が多くの家臣から恨みを買っていた。しかしながら彼を殺害することは公然とした石田三成への反逆であった。忠恒は直ちに蟄居させられたが、幸運なことに石田三成が失脚しその罪がうやむやになった。

しかしそれでは伊集院一族は黙ってはいられない。こうして島津家への反乱「庄内の乱」が起こった。忠恒はこれを鎮圧しようとしたがなかなか手こずった。忠恒は家臣を未だ統制できておらず、戦のセンスもなかったのである。

伊集院忠棟の誅殺は島津家として計画したものではなく突発的なものだったようだが、石田三成=伊集院忠棟への領内の反発が大きかったのは事実であり、京都に在番していた義弘も徳川家康について伏見城の警護を命じられていた。ところが関ヶ原の戦いが起こると、義弘は行きがかり上西軍に参加する。手勢の少ない状態であった義弘は本国に増援をお願いするが、反三成で合致していた国元の義久・忠恒はこれをほぼ無視。義弘を見捨てたのであった。

結果的にはこの判断が島津家を救った。島津家は明らかに西軍に参加しながら、義久・忠恒は「西軍へ参加したのは義弘の独断で島津家としては家康に従っていた。義弘も参加したくて参加したのではない」という理屈で押し通し、なんと本領の全ての安堵を受けるのである。なお、徳川政権と島津家の和平に当たっては、義久の上洛と謝罪が一つの焦点になっていたことが面白い。豊臣政権においては義弘が島津家の代表として扱われていたが、徳川政権になると義弘が西軍に参加したためもあり、再び義久が主役になってくるのである。

しかし義久はなかなか上洛せず、最終的には一度も上洛しなかった。どうやら富隈衆(義久の家臣)には、徳川政権と徹底抗戦を主張するものがいて、義久はそれに配慮して上洛ができなかったようだ。あまりにも義久が動かないため、家康の方が逆に下手になっていく感じが興味深い。普通なら逆心有りとして怒りそうなところである。そしてこの交渉中に忠恒へ家督が継承され、当主となった忠恒の上洛によって和平(本領安堵)と義弘の赦免が実現するのである。

さらに忠恒は、これまでほとんど軍功がない弱みを克服するためもあってか、琉球侵攻を計画する。先述のように琉球関係は義久が独自のパイプと権益(朱印状発給の権利)を持っていたのだが、それを忠恒は奪って琉球侵攻を徳川政権に認めさせ、また実際の侵攻にあたっては大きな戦いなくあっさりと琉球を制圧して属国とした。名実共に島津家の家督は忠恒に移ったのである。

本書は全体を通じ、こうした歴史の動きの背景にある義久・義弘の人間性に着目しているところが面白い。義久は鋭い大局観を持ったリアリストであり、大きな方針を示して細かいところは家臣たちの意志を尊重するリーダーだった。一方で義弘は上から示された方針を遮二無二貫徹するタイプで、情に篤く義理堅く多くの人から信頼された。同時に家臣や息子にやたらと細かく指示を下したり細かいことで叱責を加えるようなところもある、義久とは真逆の人間だったと言える。戦国末期にこの正反対の名将が対立しつつもバランスをとって島津家を支えたことが、難局を乗り切れた一因であったという。

戦国末の薩摩の歴史書としては、現時点で最良唯一の平易な良書。

 

2021年12月9日木曜日

『江戸の女』三田村 鳶魚 著

江戸の性風俗を述べる本。

著者の三田村鳶魚(みたむら・えんぎょ)は、明治生まれの江戸文化・風俗の研究家である。本書は、江戸時代の女性研究の嚆矢であり、当時の随筆・文芸作品などから女性の在り方を探った先駆的作品だ。

江戸には男が多く女が少なかった、とよく言われる。だから男は女を求めて遊郭に足繁く通ったのだと。しかし実は、男女比がひどく偏っていたというわけではない。それよりも重要なことは、江戸には江戸詰と呼ばれる出向の男が多かったということだ。これは妻子を残して江戸の藩邸などで働く今で言う単身赴任である。女の方も、江戸に奉公に出向くことは多かった。つまりフリーな(?)男女が寄せ集められていたのが江戸の町であった。その場限りの色恋へと傾いていくことは自然の流れだったのである。

とはいえそれは、江戸の世界の半分でしかない。なぜなら江戸は武家の世界と商人(町家)の世界がはっきりと二つ併存していたからだ。だから江戸の文化・風俗を見る場合には、武家と商人をくっきり分けて考える必要がある。

武士の世界には「号令結婚」が行われた。これは家の命令によって結婚させるものである(命令だからお見合いもない)。上級武士(国主、城主、一万石以上等)になると結婚に将軍の許可も必要とした。こういう次第であるから、一般の武士は婚礼を挙げるということも少なかった。結婚が「人事」の一種なので、披露の必要がなかったからだ。結婚は「取引」だったのである。ちなみに最も早くには延宝8年の『名女情比(めいじょなさけくらべ)』で恋愛結婚が唱えられているが、色も恋もない号令結婚でも大抵は済んでいたようである。

町家の方ではそういう窮屈なやり方は行われなかったが、若い男女の自由になるというのでもなかった。婚姻という人生の最も基本的な要素が人事として行われていたことは武家の江戸風俗の根幹を作ったようである。

江戸の男女の仲では(特に女性にとって)「情け」ということが重要だった。先述の『名女情比』でも情けが大事だ——人に想いを懸けられたらそれを無下にするのはよくない。たとえ自分に夫があっても——というようなことが述べてある。女は貞節が求められる、ではないということは、むしろ女が積極的に男を選び、おのれを高くする態度を生じてきた。情け重視のゆきつくところ皮肉なことに悍婦・驕女がつくり出されてゆくのである。 

だが実際には寛保の頃から姦夫姦婦(不倫)は男女とも死罪だった。しかしこの罪は犯した方ではなく犯された方にとって恥なので、この法令は厳格に執行されることはなく、むしろ穏便に済まそうという風を生じた。よって間男が流行し、ほとんど放っておかねばならぬなりゆきとなったのである。

そして江戸の人間は泰平に狎れて、次第に自重とか忍耐とかいうことは忘れ、ただ快楽を求めるようになっていく。規制と威厳の箍に嵌められていた武家の生活が緩んで自堕落な暮らしになる。そして町人は生活のモデルを芝居者や遊女の方においてより自由にやってきたところが、武家はそれに引き寄せられて真似するようになり、生活風俗において武家と町家の境が溶け合ってくるのである。特に文化・文政の頃になると姿や風俗が武家らしくなくなって町家の方がお手本になった。幕府が亡びるよりずっと早く、武家の根性が亡びた。それは一方では堕落であるが、無意味な規制からの「解放」の面があったことも否めない。そこには素朴な人間中心主義の萌芽もまた認められるように思う。

そういう変化が窺われるのが看板娘の扱いだ。商家では店先に女を出さないのがしきたりであったが、宝暦頃には看板娘がおかれるようになった。これはいかがわしい商人として軽蔑される風があったが、文久頃になるとそれが珍しくないようになる。

では看板娘をいかがわしいと思わせるくらい江戸の女は奥ゆかしかったか。それが周知の通りそうでもない。遊女ばかりでなく、料理茶屋にいた踊子も売笑行為を行っており、そのために料理茶屋は盛況した。踊子たちにとっても、それは当然金になったばかりでなく売笑行為を通じて大名に抱えられるという「出世」がありえた。大名の妾になって女の子を生めば「御腹様」、男の子なら「御部屋様」になってとんでもない出世になり、場合によっては親にまで扶持が出て生まれもつかぬ武士に取り立てられることもあった。

男女の道は公然と金儲けのために使われて、遊女と素人の区別が曖昧になってくる。素人も素人らしくせず、公然と売笑を行うようになり、特に安永・天明度からは、専門の遊女の方もだんだん遊女らしくせず「愛嬌がある」「ういういしい」とする方が喜ばれるほうになった。遊女と素人を分けていた社会規範が失われていったからだ。こうしていよいよ性は紊乱していく。

ついには亭主が女を買えば、女房も負けずに役者を買う、というようになった。元々日本は一夫一婦制ではないので、一人に義理立てしなくてはならないというものでもないし、「号令結婚」の場合はそもそも愛情もへったくれもなかったのである。お互いの都合で一緒になっているだけの夫婦であれば、互いに婚姻の利益を受ければそれでよく、色恋の方はお互いに楽しめばよろしいということになってきた。

こうなると女性は容色を維持することが重要になってくる。情人に大事にされるためにはやはり美しくあることが一番だ。子孫を残すなどどうでもいいので、避妊や堕胎が横行し、一時の快楽の方が重視される。子どもを産んだ場合も乳母を使う。授乳すると容色が早く衰えるからである。しかしどうしても容色は衰える。そうなってから離縁されてはかなわない。そこで持参金というものが重要になってきた。

諸道具・持参金を返還した上でなければ離婚はできないので、金の力で妻の立場を保護したのである。ところが多くの持参金が結婚につきものになると、今度は持参金目当ての結婚が横行した。元々、結婚が人事の一種であってみては、結婚が金目当てになっていくのも当然だった。そして正徳・享保あたりには、嫁入り支度・嫁入り衣装が凄まじいことになった。そうした豪華な道具を揃えることが娘の頼りになったからである。

このように男女の道が紊乱したことが幕府衰亡の一因ではないかと著者は言う。「男女の道が紊れた結果、遂に武家を破り、武家を倒すに至った、武家がなくなったから、幕府も倒れたのだ、という見方は、従来誰もしておらぬように思う。これは是非考えてみなければならぬことであります。(p.221)」

ところで、男女の道が売買取引になってしまうと、逆にプロっぽくない女が好まれることになる。江戸では「水茶屋の女」(今でいえばカフェ店員といったところか)が流行した。値札の付いた遊女より、値札のない素人女の方が却って高くついたという。そのため水茶屋が江戸では繁盛することとなった。また、どこそこの誰が綺麗だ、という評判は浮世絵にも取り上げられ、まるで役者のような扱いになった。

もう一つ、女の生きる道として重要だったのが「下女」である。本書では詳しく「下女」の在り方を考証している。「下女」たちは、身分の低い家柄の女子がつとめていたというよりは、田舎から出てくる働きものの女性であった。当初は農閑期だけにやってくる季節労働者であったが、やがて「下女」が彼女らの生きる道になって渡り者になった。これは今で言えば非正規労働者みたいなものではあったが、需要が大きかったので給金は時代が経るにつれて上昇しており、また江戸の暮らしに慣れて次第に驕慢の風を生じてきた。

化政の頃には、小身の武士の妻女などは、服装の上では下女と見分けがつかないようになっていたという。なお下女は決して出稼ぎではなかった。それは、主人の家の風儀を学び、将来の結婚のために必要な知識や経験を得るということも目的だった。大きな家の女中などは、むしろ田舎から仕送りしてもらって勤めるというような場合もあったようである。つまり下女は女性にとっての一種の教育の場だったのである。

この他本書では、「麦湯の女」「女巡礼」「囲い者」(月々いくらで契約する妾)について解説されており、特に「囲い者」は短いながら江戸の様子の移り変わりを如実に示すものとして面白く読んだ。

全体を通じて、本書は江戸の女の全体像を体系的に示すものではないながら、次々に興味深い話題が提出されて、その中からボンヤリと当時の女性像が浮かび上がってくるような仕組みとなっている。それは、虐げられていただけともいえないし、著者が強調するように「驕慢」ともいえないように思う。

後の研究によって、江戸時代の女性史は修正され、今では本書で述べられる若干一面的な見方はされなくなっている。しかし本書は、なんでもないような人々の風俗を等身大に見つめる手法によって、当時の人の暮らしや考えを非常に身近に感じることができる。江戸時代の性風俗というと、とにかく「芸者」と「遊女」のファンタジーを思い描くのであるが、本書はそういう単純化をしていないのが先駆的だと思った。

江戸時代の女性研究の古典。


2021年11月21日日曜日

『日本茶の自然誌―ヤマチャのルーツを探る』松下 智 著

茶の原産地と日本への伝来について述べる本。

著者の松下智は茶の原産地研究の第一人者である。本書は100ページに満たぬ小さなブックレットであるが、著者のこれまでの研究が簡潔にまとめられている。

著者の研究キャリアの出発点となったのは、茶の原産地はどこかという昭和28年に提議された問題で、特に日本には「ヤマチャ」と呼ばれる自生の茶があったことから、渡来説と自生説が対立していた。著者は日本の「ヤマチャ」研究に着手して日本各地の産地に足を運び、10年を要して「日本のヤマチャは中国から渡来した茶が自生化したもの」との結論に達した。

その時は中国は国交自由化していなかったため原産地調査はできなかったが、その後自由化されて著者は西双版納(シーサンパンナ:雲南省南部)だけでも9回も訪問して茶の原産地と思われるところを特定した。本書は、そうした一連の研究を一般向けにまとめたものである。

そもそも茶は、東アジアの照葉樹林帯の本来的な構成植物ではないようだ。茶は照葉樹林文化圏において広範囲で焼畑植物として栽培されていたが、それは自然に任せた栽培ではないのである。茶の木自体は本来山地(高山性)の植物なのだ。

ヤマチャは暖地に多いが特に九州山地に多く、山奥であっても消費地に運んでいけるところに生育している。これは茶が人々の自家用で栽培されていたというより、最初から商品作物として栽培され、それが自生化したことでヤマチャが生まれたのではないかということを示唆するのである。また遺伝的にもヤマチャは中国の品種と等しい。このような状況証拠を積み重ね、著者は「日本に茶の原産地は認められない」と結論づけた。

では茶の原産地はどこか。著者は中国・東南アジアを調査し「茶は雲南省南部の山中に原産したが、その地方に住んでいた人々は茶の木を利用するということはなく、漢文化がこの地方に及んでから茶の利用が始まった」と考える。少数民族の茶の栽培と利用、茶の遺伝的多様性(葉っぱが大きな大葉種とか高木性の茶の木、逆に小さな茶の木などがある)などを調査した結果である。

また茶の原産地問題を考慮するにあたり、ベテルと呼ばれるものが取り上げられる。これは「アレカヤシ(ビンロウジュ)」 の実をキンマの葉に石灰を塗ったもので包んで口にする古くからの嗜好品である。ベテル(檳榔)文化圏と茶の文化圏が雲南あたりで重なり合っていることは注目される。雲南あたりも元来はベテル文化であったものが、茶の効用を知り飲茶へと変化していったことが予測できるからだ。

こうして生まれた茶の文化は、どうやって日本まで到達したか。本書では唐代から宋代の「華中・江南ルート」(抹茶)、明代から清代の「華南・閩南ルート」(蒸した茶を揉む煎茶の製法)が簡単に検証されている。しかしながら、中国側の事情には詳しいものの、日本側のことについてはちょっと手薄な印象であり、概略的な説明である。ちなみに、このあたりは日本側資料を詳細に分析した神津朝夫『茶の湯の歴史』がずっと参考になる。

最後に本書では日本の茶文化の成立について語っているが、高尚な「茶の湯」ではなくて、どちらかというと僻地に残った古い茶の製法や飲み方について述べている。茶は「タンニンの渋みを味わうもの。茶の他に渋みを味わう食材はほとんどない」という指摘は、簡単ながら頷くところ大であった。柿にはタンニンが豊富だが、柿の場合は渋みを抜いて食べるのでタンニンを味わうというのは日常生活では茶だけかもしれない。

なお、より詳細な茶の原産地研究については、その後『茶の原産地を探る』として出版されている。

茶の原産地についての著者の半世紀にわたる研究が簡潔にまとまっている本。

 【関連書籍の読書メモ】
『お茶のきた道』守屋 毅 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/11/blog-post.html
お茶の起源をめぐるフィールドワークの記録。西双版納の旅行記は茶の原産地の記録として面白い。

 

2021年11月17日水曜日

『お茶のきた道』守屋 毅 著

お茶の起源をめぐるフィールドワークの記録。

著者はお茶の研究者ではなく、日本文化(芸能や民俗)を専門とする国立民族学博物館助教授(当時)だ。しかしお茶の起源について興味を持ち、機会を捉えて中国や東南アジア等に「観光」に出かけていく。観光といっても実態はフィールドワークに近い。本書はその旅行記をまとめたものである。

「第1章 茶の原郷を訪ねて」では茶の原産地と考えられている西双版納(シーサンパンナ)、四川に赴く。シーサンパンナとは雲南省の最南部、ラオスとの国境に接するところでタイ族の自治区である。ここは長く外国に閉ざされたところだったが1979年に外国人が訪れることができるようになったため、著者らはここを訪れる。ここでは、「茶樹王」と呼ばれる野生の大茶樹(野生とはいいつつも、かつて栽培されていたものが野生化したもの)、焼畑による茶園の造成(茶は焼畑の植物であるという性格が強い)、プアール茶の栽培と販売の様子などを見ている。ここには遺伝的にも、利用的にも多様なお茶が存在している。

茶はシーサンパンナで生まれたが、それを「文化」にまでしたのは四川である。四川では大まかに緑茶、紅茶、そして「辺茶」が作られている。辺茶とは、辺境向けの茶であり、チベットや青海省へ運ばれていく。これは長い距離を輸送するため、レンガ状(楕円形もある)に固められた茶であり、本書ではその製法を詳しく紹介している。なお、固められたお茶をより広く総称して磚茶(緊圧茶)と呼ぶ。 

「第2章 <たべるお茶>をもとめて」では北部タイとビルマに赴く。食物の歴史を考えてみると、茶が最初からお湯で煮出して飲むものだったとは考えがたい。茶もその起源においては食べるもので、それが発展して飲み物になったのだろう。と考えると東南アジアにある「ミエン茶」はその起源的形態に近いのかもしれない。ミエン茶は、ひとつまみのミエン(茶葉)に塩を加えてくちゃくちゃ噛み続けるガムみたいなものである(ただし最終的には飲み込む)。時にはナッツや生姜、肉や脂を加えることもある。

著者はこのミエン茶がどのように生産され、消費されているか実地調査した。具体的にはタイの農村に分け入り、僅かな手がかりからミエン畑(茶畑)とその加工を行っている村を訪れたのだ。ミエン畑は高木の茶畑である。畑といっても整然としたあの茶畑ではなく、焼畑から自然発生的に生えてきた茶の木、しかも無剪定の大きな木によじ登って葉っぱを摘む。この葉を蒸して、それをキレイに束ね、土中の穴に1ヶ月から1年つけ込む。ミエンとは茶の漬物なのである(ただし塩漬けするわけではない)。

一方、ビルマでは「ラペ・ソゥ」というたべるお茶がある。これは付け合わせのおかずと一緒に食べるお茶である。ミエンのようにくちゃくちゃ噛むのではなくレッキとした食べ物だ。こちらの方も、生産・加工している村を探して著者は奥地へ分け入っていく。ここでも茶樹は剪定しない高木性のものとなっている。ラペ・ソゥは茶の葉を茹でて揉み、水にさらして出来上がるが、本格的にはさらにつけ込みの作業をする。竹筒に茶を入れて密閉し、8ヶ月ほど土の中で熟成させるのである。2年間は保存がきくという。

「第3章 世界の紅茶地帯をゆく」ではアッサムとシッキムに赴く。この頃アッサムは政情不安定でインド政府はアッサムを外国人に閉ざしていたため、著者らは「アッサムを訪れた最初の日本人団体客」だったそうである。ではなぜ入域が認められたのかというと、それが学術研究ではなく「観光」だったからだそうだ。アッサムといえば紅茶で名高いわけだが、アッサムがどんなところなのかは私自身全くイメージがなかった。著者によればアッサムは「日本の中世」のようだということである。アッサムの街並みは「洛中洛外図屏風」や『一遍聖絵』に描かれた風景を彷彿とさせるという。紅茶の産地が日本の中世のようだったとは面白い。

ちなみにアッサムには元々茶の文化はなく、アッサム茶を「発見」したイギリス人によって産業として紅茶の生産・製造が導入されたものである。著者はダージリンにも訪れているが、こちらもいかにも植民地産業的な茶栽培が行われている。ミエンとかラペ・ソゥのお茶のような、古く自由な栽培とは全く異質な、工業的な茶園が広がっている。

ダージリンのそばにシッキムがある。アッサムよりもさらに秘境だったのがシッキムで、著者らはアッサムには割とあっさり行くことができたがシッキム(インド軍の統治下にあった)には入るのに苦労し、しかもほぼ入域の許可が下りなかったためたいした見聞はできなかった。さらに著者らはネパール、チベットへ赴いている。チベット式のお茶の取材とともに、文化面の記述が多い。

「第4章 茶堂・碁石茶・釜炒茶」では、四国山地へ赴く。四国には「茶堂」と言われるものがある。これは山中の街道の路傍にあって、道をいく旅人がしばし疲れをいやしたお堂である。他の地域でいう「辻堂」にあたり、おおよそ一間四方で、中にはご本尊の石仏などがある。かつてはこの小さなお堂で旅人を茶でもてなしたことから茶堂を言われるようになったそうだ。私は茶堂について以前興味を持ったものの満足な情報が得られなかったことがあるが、その実態を知ることができて大変参考になった。

ではなぜ四国には「茶堂」があるのか。ここに面白い統計が紹介されている。明治25年の段階で、愛媛のお茶栽培面積は静岡について全国2位だったというのである。かつて一時期、愛媛は全国有数の茶産地だった。これは松山藩や伊予藩が茶業を奨励していたためらしい。そのためか四国には「茶堂」のような独特の茶文化があるのである。さらに阿波晩茶、土佐の碁石茶は極めて特異な製法のお茶であり、日本国内では類例がない。むしろ東南アジアの茶に近いような製法なのである。しかしながらそれがどのような来歴によるものなのか、両者に関係があるのかは全くの謎である。

全体を通じ、本書は茶の研究書ではなくて紀行文であるため平易で読みやすい。しかも他では得られない現地情報が生き生きと述べられており、学術的にも参考になる部分が多いと思われる。なおお茶がその起源において食べられるものであり、しかも入手が困難な辺境地帯にもそれが辺茶として運ばれているということは、単なる嗜好品ではなく栄養学的な根拠がありそうなものだが、本書はあくまで紀行文であるためそうした分析はなされていない。

それから、お茶は原産地においては、焼畑の後の自然発生的な植物として栽培され、剪定もされない粗放な管理が普通な一方で、加工にはかなり手間がかかっている。東南アジアでは多種多様なお茶が作られているが、全てに共通して加工には手間がかかるのである。唯一の例外はラペ・ソゥの簡易版である。食べ物よりも飲み物の方に手間をかけるというのは世界中で普遍的な現象だが、それがお茶にも当てはまるのが面白い。

一つ心に残ったことは、第2章の「たべるお茶」の文化はタイやビルマの若者にはすでにあまり馴染みがなく、本書執筆の時点において消え去りつつあるものとして描かれているということだ。茶の文化は、いろいろな地域で多様に育まれてきた。しかしそれが資本の力によって画一化され産業となっていく。新しい茶の文化は高効率ではあるかもしれないが、土着の豊かな文化を潰滅させてしまうという面も否定できない。しかも古いお茶の栽培の仕方・お茶の飲み方・食べ方は現代化した暮らしに合うものでもない。本書は消えゆく文化の記録としても読めるだろう。

茶の起源を巡る貴重なフィールド・ノート。

【関連書籍の読書メモ】
『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』角山 栄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/04/blog-post_19.html
茶の近代貿易のありさまを通じて歴史のダイナミズムを感じる本。植民地化と茶についても詳しい。

 

2021年10月11日月曜日

『ベートーヴェンとバロック音楽—「楽聖」は先人から何を学んだか』越懸澤 麻衣 著

ベートーヴェンがバロック音楽からどのように影響を受けたか述べる本。

バッハを「音楽の父」と呼ぶことがある。しかし近代西洋音楽の父は間違いなくベートーヴェンの方である。ベートーヴェンは、西洋音楽の歴史を転回させたといっても過言ではない。それまでの古典派音楽と比べると、ベートーヴェンの音楽の響きは恐ろしく現代的だ。ところが驚くべきことに、この独創的な音楽を作った男は、名をなしてからも過去の音楽を学び続けており、実は伝統的な書法に基づいて曲を作っていたのである。

ベートーヴェンが生きていた頃は、まだバッハが再評価される前だったし、ヘンデルですらも「メサイア」以外はさほど演奏されていない(ヘンデルの全集が出たのはベートーヴェンの晩年だった)。ベートーヴェンは、いわば「自然体」ではそうした古い音楽を利用することはできなかったのである。彼は積極的に、わずかな機会を捉えてバロック時代の音楽の楽譜を手に入れていた。

本書では様々な証拠から、ベートーヴェンが入手していた楽譜、聞いていたはずのバロック音楽を推測・整理している。それは、現代の目からは非常に限られたものであると感じる。バッハについては、『平均律クラヴィーア曲集』以外若い頃のベートーヴェンはほとんど知らなかった。1801年から『バッハ作品全集』がホフマイスター社により刊行され、ベートーヴェンはこれを手に入れたらしいが遺産目録にはこの楽譜は完全には残されていない。

ところがこの限られた環境で、ベートーヴェンはバロック音楽を非常に熱心に研究した。楽譜の一部をスケッチ張に書き写し、自作のアイデアに活かしたのである。それはほぼ対位法的なものに限られ、フーガが探求された。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』でもフーガは何曲も書き写されているのに、プレリュードは一曲もそこに登場していない。なおベートーヴェンは若い頃からバロック音楽に関心があったらしいが、特に集中的に楽譜を書き写して研究したのは1817年頃である。47歳ほどの頃ということになる。既に名声と作曲スタイルが確立してからこうした研究を行っていることは特筆すべきことだ。

その研究の結果生まれたのが、<ハンマークラヴィーアソナタ>作品106のフィナーレのフーガである。この「非常に斬新に響くこの楽章は、しかし「技法」として見るならば、伝統的なフーガの技法をほぼ網羅的に使用している。とりわけ逆行形は、理論書には説明されていても、実際に作品に用いられるのは珍しい(p.118)」 と述べられ、本書では詳細に分析されている。このソナタは傑作であるばかりでなく、「ピアノ・ソナタの歴史の転換期をなす(p.120)」ものとなった。

さらにこのフーガ書法は、<大フーガ>作品133、<弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調>作品131などで活かされているが、これらについての紹介は簡略である。<大フーガ>については有名な作品でもあり、もう少し丁寧に解説してもらえたらありがたかった。

一方、ヘンデルからの影響については、 <「ユダス・マカベウス」の主題による12の変奏曲>WoO45が取り上げられ、ヘンデルの音楽をいかにベートーヴェンがアレンジしたかという視点で考察されている。また当時からヘンデル風とされた<自作主題による32の変奏曲>WoO80と<献堂式>序曲作品124についてそのヘンデル的特徴を分析している。

さらに分析は晩年の大作<ディアベッリ変奏曲>作品120へ進む。この有名な変奏曲で、ベートーヴェンははじめの方では近過去の音楽の書法を用い、終盤にはバロック音楽的な変奏曲となっていく。特に終わりの第32変奏はヘンデル的な長大なフーガとなる。この第32変奏の何が「ヘンデル的」なのかの解説は大変参考になった。

そしてベートーヴェン自身が最高傑作と位置づけていた<ミサ・ソレムニス>作品123。その<クレド>は壮麗な二重フーガで書かれ、バッハやヘンデルに比肩するものとなった。この作曲にあたり、ベートーヴェンはバッハの<ロ短調ミサ曲>を知っていたかどうかは論争となっているが、状況証拠を総合してみると「曲の存在自体は知っており、楽譜の一部も見たことがあったかもしれないが楽譜自体は持っていなかった」というところらしい。むしろベートーヴェンは<ミサ・ソレムニス>作曲後に<ロ短調ミサ曲>への関心が高まったようである。

さらに晩年、ベートーヴェンはヘンデルの様式でオラトリオ<サウル>を作曲しようとした。当時のウィーンではヘンデルのオラトリオ人気には陰りが見えていたが、オラトリオ自体は非常に重要な形式であり、折よくオラトリオ作曲の委嘱を受けたベートーヴェンはかなりのこだわりでこれに向き合ったようである。しかし具体的な作曲作業に入らないうちにベートーヴェンは死去してしまった。

ちなみにバッハについては、ベートーヴェンはいわゆる「B-A-C-Hモティーフ」を使って生涯に何度もバッハを顕彰する作品を作ろうとした。 フーガや序曲の構想がスケッチ帳に残されている。これらは結局完成させられることはなかったが、もしベートーヴェンが「バッハ序曲」を完成させていたら、その後のバッハ受容史は変わったものになっていたかもしれない。

本書ではこれらの他、コラムとして「バロック音楽を愛したパトロンたち」と題してべートーヴェンのパトロンが取り上げられている。具体的には(1)ヴァン・スヴィーテン男爵、(2)ルドルフ大公、(3)リヒノフスキー侯爵、の3人である。

ルドルフ大公はベートーヴェンの唯一の作曲の弟子であり、ルドルフ大公が対位法書法に関心を抱いていたことがベートーヴェンの作曲活動にも影響を与えていたかもしれない。リヒノフスキー侯爵はライプツィヒ大学で学んでおり、最初のバッハ伝を編んだフォルケルとも親しかった。1796年、ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵とライプツィヒやベルリンを巡る旅をしており、その詳細は不明ながらバッハとベートーヴェンを繋ぐ一つの要素であったと考えられる(ちなみに1789年、モーツァルトもリヒノフスキー侯爵と同様の旅をして、ベルリンで印象深いバッハ体験をした)。

なおコラムには取り上げられていないが、ラファエル・ゲオルグ・キーゼヴェターという人物にも興味を持った。彼は古い音楽に興味を持ち、多くの楽譜を蒐集。1816〜38年にかけて定期的に「歴史演奏会」を開催した。そこではバッハやヘンデルが取り上げられ、「この時期のバロック音楽、あるいはさらに古いルネサンス 音楽についてのキーパーソンであり、ヴァン・スヴィーテン男爵亡きウィーンでは、貴重な存在であった(p.209)」という。

本書は、著者が東京藝術大学に提出した博士論文を元にしたものだが、とても読みやすく平易にまとまっている。ただし基礎的な楽典の知識を有していた方が理解はしやすい。とはいえ楽譜はいくらか挙げられているものの、楽典的説明を読み飛ばしても論旨の理解には問題ないと思われる。

ベートーヴェンとバロック音楽についての繋がりを丁寧に解きほぐした良書。

【関連書籍の読書メモ】
『ベートーヴェンの生涯』青木 やよひ 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/blog-post_23.html
実証的な資料によって構成したベートーヴェンの伝記。偉大な音楽家の真実の姿を平易に述べる、ベートーヴェン伝の新しい基本。