2022年2月25日金曜日

『戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人』遠藤 正敬 著

戸籍と国籍からみる近現代の歴史。

「近代日本では戸籍法が、「国民」や「家族」をめぐるある種の道徳というべきものを生み出してきた(p.15)」。戸籍は単なる国民の登録ではなく、「日本人」を統制する装置であり、国民の「純血」を演出さえしてきた。本書は戸籍が「民族・血統・日本人」という虚構をどう形作ってきたか述べるものである。

「第1章 戸籍とはなにか」では日本の戸籍制度の総論が語られる。欧米にはない日本の戸籍の特異性は、第1に家族を編成の単位とすること、第2に本籍という観念的な場所に結び付けられていること、第3に「続柄」の記載があること、に集約できる。

欧米の身分登録制度は教会での登録を淵源に持ち、個人単位で記載事項も最小限のものとなっている。一方日本の戸籍では身分登録を越えた過剰な個人情報が記載されている。戦前の戸籍では、族称(士族・平民など)、犯罪歴や私生児・庶子の別なども記載され、婚姻や養子縁組に伴う身分変動と親族関係を時系列的に把握できたのである(徐々に改められていった)。これは戸籍がもともと治安維持の観点から編成されていたことの名残ではあるが、住民登録としては本来不要であるはずの時系列情報まで記載され、しかもそれが公開されていたことで戸籍を「純潔」に保たなくてはならないという意識が国民に生じた。「戸籍が汚れる」といった表現があったのはさほど昔のことではない。

また、戸籍は日本の家族観にも大きな影響を及ぼした。例えば夫婦同姓も日本古来の習慣ではなく、戸籍法成立時においては夫婦異姓(妻は元の苗字を維持する)であったのが、民法成立によって夫婦同姓が強制された。夫婦同姓は血統の因習に基づくものと考えられているが、むしろ戸籍制度によって生み出されたものであった。純粋に住民登録の面だけ考えれば、個人の姓の在り方を規定する必要はなかったのだ。

戸籍は単なる住民登録を越え、「日本人」の在り方を作ったとさえ言える。

「第2章 国籍という「国民」の資格」では、日本では国籍がどのような考えで規定されていたかを述べる。

国籍を定める原則には、その国で生まれたら自然に国籍を取得できるという「出生地主義」、父または母の国籍を受け継ぐという「血統主義」の大きく分けて二つがあり、各国の慣習や事情が違う以上、国際的に統一されていないのはもちろんである。

戦前の日本の国籍の原則は、父系血統主義で、外国籍者が取得(帰化)することは非常に困難で、また自らの意思では喪失もできない、ということが特徴であった。よって在米の(日本人の父を持つ)日系二世は日本の国籍を持ちつつ(離脱することができず)、出生地主義を採用する米国の国籍を持つ二重国籍となったため、戦争において日本に徴兵される可能性があり、米国では差別や収容の原因となったのだった。

そもそも誰を「日本人」とみなすか(日本国籍を与えるか)、という方針には戦争への動員が念頭に置かれていたことは言うを俟たない。帰化の要件は国家への貢献度をみる政治的な判断を要したため、国籍行政は外務省ではなく内務省の管轄となっていた。

もう一つの戦前の日本の国籍の特徴は、夫婦同一国籍であった。国際結婚の際、日本人男性+外国人女性ならば外国人女性が「日本人」となったが、これは「家」が個人より上位概念として規定されていたことの帰結であった。「家の一体性を維持するには家族は同一国籍の「日本人」であるべきという原則は、戦後に家制度が廃止されるまでかたくなに維持された(p.103)」

戦後は、国際的に国際法が父母両系主義へ改正される傾向となり、日本でも女子差別撤廃条約を締結したため、これに合わせて国籍法が父母両系主義へと改められた。これは「日本の国籍法をめぐる一大改正であった(p.106)」。

「第3章 近代日本と戸籍」では、近代の戸籍成立が概観される。

日本の戸籍は古代の「庚午年籍」から始まった。鎌倉時代には戸籍は編成されなくなるが、人的管理の必要性から「人別帳」が作られるようになり、幕藩体制では「宗門改」と「人別帳」が結合して「宗門人別改帳」が各地で作られた。これは支配階級である武士と「宗門改」を実施する僧尼は対象外であった。また江戸の人別改では、神職、修験、陰陽師、願人(門付けや大道芸人)、神事舞太夫といった宗教芸能者は町方では記載せず寺社における人別改の対象とするなど、調査範囲や扱いがまちまちで統一的なものではなかった。

明治維新になると脱籍者(住所不定になったもの)を厳しく取り締まるようになる。明治維新自体が、そういう浪人や藩の利害を超えたものによって成し遂げられたのだが、政府は治安維持の観点からそれらに「復籍」を勧告した。明治元年には「京都府戸籍仕法」が制定された。これは身分登録と家の系譜という後の戸籍の原型となった。また東京・京都・大阪では人口の流入が激しくなったことから明治3年9月には「脱籍無産の輩復籍規則」が制定され、村町の負担費用によって脱籍者を送り返すこととなった(だがあまり実行はされなかった)。

そして明治4年に戸籍法が制定され、翌5年に「壬申戸籍」が編成された。これは、族称を掲載するなど身分差別的側面を有してはいたが、僧侶などを特別扱いせず、個人を天皇の「臣民」として水平関係に凝集させるものだった。また戸籍は神道支配にも利用された。戸籍調査の際に氏神の「守札(まもりふだ)」をあわせて調査し、個人が属する神社を戸籍に記入したのである。戸籍1区に一つの郷社を置き、個人はその郷社に所属するものとされた。「守札」とはその郷社から戸長を通じて授与されるもので、「生まれてから死ぬまで一生これを所持し、戸籍と並ぶ「帝国臣民たる国籍所有の証明書」となりうるものであった(p.124)」。氏子調査規則は明治6年5月には早々と廃止されたが、区内氏神神社を記載する戸籍書式は明治18年(1885)まで続き、「神社組織を戸籍の行政単位に対応した形で再編(同)」する政策は長く尾を引いた。

しかしながら壬申戸籍は驚異的なスピードで編成されたものの、脱漏が多く制度には欠陥があった。特に戸籍に兵役逃れの抜け道があったことなどから、明治19年に諸規則を改正して新たな戸籍制度を設けた。これを「明治19年式戸籍」という。これは戸籍編成の原理を変えたのではなく、書式や事務管理を統一して厳密に作成できるようにしたものである。

さらに明治31年(1898)、「明治民法」の成立により戸籍は「家」中心の社会観を補強するものとなった(明治31年式戸籍)。というより戸籍そのものが「家」だった。「家」とは、「いわば明治国家において創作された概念(p.132)」であり、その具体的形態が戸籍だったのである。そして「戸主」の同意なくしては婚姻や養子縁組など新たな家族関係は形成することができないようになり、さらに戸主には祖先祭祀の権利などの特権が付与された。

もう一つの変更点は「本籍」が戸籍編成の基本となったことだ(それまでは家屋が基本)。そして外国人は戸籍の対象から排除された。血統主義、一家一籍、純血主義を戸籍が表現した。ただし明治31年式戸籍では身分登記簿が新設された。戸籍から徴兵や警察的機能の必要性が薄れたことを背景に、主務官庁が内務省から司法省に移管され、個人単位の管理が試みられたのである。しかし大正4年の改正で身分登記簿は廃止され、戸籍から個人主義的要素は一掃された。これ以後、戸籍法は戦後まで根本的な改正はない。

日本はその版図の拡大に伴い、戸籍の網も広げていった。樺太や琉球では、表向きには「臣民」として日本国籍が与えられたが、樺太では「旧土人」と載されるなど差別的扱いがあった。琉球の場合は家族制度や名前の方式が本土とは異なったため、日本式に名前を付けなおす琉球版「創氏改名」が行われた。

「第4章 植民地と「日本人」」では、植民地における戸籍政策が批判的に述べられる。

朝鮮、台湾、樺太は内地のみならずそれぞれの地域間でも法令が異なる異法地域だった。それらの地域で戸籍がどのように編成されたかは煩雑なので割愛する。しかし総じて、「外地」(日本の法が適用されない日本領土=植民地)の人を日本臣民として「保護」する一方で「抑圧」するという相反する目的が戸籍に付与され、同じ日本臣民でありながら内地人とは別に管理された。朝鮮では「創氏改名」が行われ、朝鮮人を日本人化したのに、実際には内地人と別に管理していた。

日本の植民地政策は「同化政策」であったと思われがちだが、実際には厳然とした外地人の差別があり、例えば内地人と外地人の結婚は、適用される法が異なるために有効に処理されない問題(共婚問題)もあった。日本は「多民族国家」になったが、それは制度上では統合されていない、見せかけだけの「多民族国家」であった。

そして外地と内地の戸籍法に通底するのは、「家」と「本籍」の原理であった。自由に移動できない「本籍」という観念的な場所に「家」があり、それを基準として戸籍が編成され、内地人と外地人の婚姻も「家」の原理で処理された。しかし外地では人々がダイナミックに移動し、また日本とは違った家族や社会の在り方があったので、「家」と「本籍」の原理は実態に即しておらずうまく機能しなかった。例えば在中国台湾人、在満州朝鮮人などは把捉自体が難しかった。

満州国に至っては、満州国が「建国」されたにも関わらず、満州国の「独立」をしつらえたい一方、満州における日本人の特権的地位をどのように規定するか結論が出ず、国籍法自体が成立を見なかった。満州国は体裁上独立国家であったにも関わらず、満州国国籍の明確な規定が存在しなかったのである。ただし国籍法・戸籍法に替わって身分登録法である民籍法が制定された。これは本籍のような観念的な場所を基準にするのではない居住登録制度であり、日本人が民籍に登録されても日本国籍は失わなかった。「日本人の処遇にかまけて肝心の「国民」も「国籍」も創出できなかった満州国に、日本の”傀儡国家”ではなく”独立国家”たる面目を見出すことは無理(p.224)」だった。

「第5章 戦後「日本人」の再編」では、戦後、旧植民地出身者の戸籍がどうなったかを述べる。

戦後、日本は外地=植民地を手放すことになったが、その際に驚くべき決定をする。これまで「日本臣民」として扱ってきた外地籍の人たちを、個人の意思とは関係なく「外国人」とするという決定だ。それまでは形の上では「同胞」として扱っていたのが嘘のようだった。特に在日朝鮮人や台湾人はすでに日本人化していたのに、それに選択の機会すら与えず強制的に外国人化したのは、とても近代国家の対応とは呼べない。在日朝鮮人が日本国籍であるにも関わらず外国人登録を受ける、という奇観を呈したのは、元をただせばこの対応に問題がある。

「戸籍を原初的な「民族」の表象とみなし、かつ壬申戸籍を源流として受け継ぐ内地戸籍こそが正統なる「日本人」の証しであるという思考は、「戸籍原理主義」と呼びうるものである(p.251)」。

一方、大陸に渡っていた「日本人」にも過酷な運命が待ち受けていた。終戦時、満州国には155万人の日本人が在住していたが、自国民救済の措置として引き上げ事業が行われたものの、1万4千人ほどは生死不明として一方的に戸籍を抹消されて事業が打ち切られたのである。また樺太にわたっていた朝鮮人については引き上げ事業すら行われず放置された。

沖縄については戦後米軍の統治下になり、従前の戸籍がほとんど戦災で焼失していたこともあって琉球籍が新たに編成された。だが誰を「琉球人」とみなすかは全くの米軍の随意であり、また琉球籍と日本の戸籍には互換性がなかった。しかし1953年に沖縄が軍人恩給の対象地に加えられると、激戦地だった沖縄では恩給を受給するために戸籍を作る必要が生じ、琉球政府ではマスメディアを活用しての「戸籍整備キャンペーン」が行われた。これには、「戸籍業務を通じてなしくずし的に沖縄と本土との一体化を図り、本土復帰への道筋を見出そうという日本政府の意図があった(p.274)」という。

このように、ひとたび「外国」となった沖縄でさえある程度柔軟に対応された戸籍業務が、外地においては非合理的なほど一律・暴力的に処理されたことは疑問を禁じ得ない。まさに戸籍は「融通無碍に政治権力によって駆使される「国民」選別の装置(p.274)」であった。

「第6章 戸籍と現実のねじれ」では、いまだに戸籍が抱えている問題が述べられる。

第1に、戸籍は外国人を排除している。戸籍が純粋な住民登録なら外国人の住民も対象にすべきなのに、戸籍は「日本人」を示す国籍の役割も兼ねているため、外国人は戸籍を持つことができない。「外国人登録制度」が廃止されて外国人も住民基本登録台帳で管理されるようになったことで制度的差別は若干軽減されたが、戸籍を持てないことによる生活者としての不利益は続いている。

第2に、婚外子への差別である。戸籍にはいまだに「嫡出」「非嫡出」の別が書かれている。そもそも、戸籍にこのようなことを書き入れる合理性は全くない。また、嫡出/非嫡出は、当の本人にとっては自分ではどうしようもないことであり、「法の下の平等」に反する憲法違反である(事実、相続における非嫡出子への差別は2013年に違憲判決が出た)。戸籍は、「本来は国家が干渉すべきではない親子関係について、それが「正統」なものか否かを法の名において当事者の意思を排して決定(p.280)」しているのが現実だ。

第3に重国籍者の取り扱いである。日本の法制度では重国籍者が存在しないように気を使ってきた。しかし世界的には重国籍は当たり前のものとなっている。重国籍だからといって国家に不都合はほとんど存在しないからだ。現在は、重国籍の発生防止よりもむしろ「無国籍」の発生防止の方がずっと国際的に重視されている。日本が重国籍を排除する背景には、「単一民族国家」という「血統」の理論がいまだに生きているからかもしれない。

第4に、日本の戸籍制度は非常に守旧的である。東アジアではかつて戸籍が広く用いられてきたが、韓国では民主的な要求によって家を基準にした戸籍法が廃止された。台湾ではまだ戸籍が残っているが、日本のそれとは違い生活の場所を基準としたもので、しかも本籍は廃止された。こうした東アジアでの戸籍の動向を鑑みると「日本の戸籍制度の守旧性が鮮明(p.295)」である。

「おわりに」では、戸籍の歴史と現在が総括される。

日本の戸籍とは、住民登録のような実用的なものではなく、観念的なものだ。それは「家」という枠組みで「日本人」の「純血」を示し、戦前においては他民族からの優越さえ戸籍によって仮構した。いまだに国家と個人を「本籍」という観念的な場所によって結び付けているのは、日本の戸籍の虚構性が失われていないことを意味する。戸籍の歴史と現在を考えてみれば、戸籍制度が抜本的な改革を迫られているのは自明であろう。

本書は、日本の近現代の戸籍にまつわる問題を包括的に取り上げた初の本だと思う(本書執筆の後、著者は『戸籍と無戸籍――日本人の輪郭』という本をまとめており、今はそちらの方がまとまっているかもしれない。未読)。それまでにも、家制度の問題などトピック的に取り上げた研究は多かったが、本書は戸籍制度が内包する問題を、歴史を概観して見通しよく整理したのが特色で、非常に価値の高いものである。

ところで、私自身の興味は第2章の戸籍成立の過程にあったが、壬申戸籍において、なぜ明治国家は西洋へのキャッチアップを目指したのに住民登録については独自の「戸籍」を選んだのだろうか、というところが気になった。当時の欧米の身分登録制度はどのようなもので、日本の為政者はどのように見たのだろうか。

戸籍を考えるための必読書。

【関連書籍の読書メモ】
『天皇と戸籍』遠藤 正敬 著
書径周游: 『天皇と戸籍』遠藤 正敬 著 (shomotsushuyu.blogspot.com)
天皇と戸籍の関わりについて述べる本。皇族の人生を戸籍の観点から繙き、皇族とは何か、戸籍とは何かを考えさせるエキサイティングな本。

2022年2月21日月曜日

『氏名の誕生 ——江戸時代の名前はなぜ消えたのか』尾脇 秀和 著

今の日本人の「氏名」がどうして生まれたのか解明する本。

「氏名がどうして生まれたのかって? そんなものずっと前からあっただろう」と思う人もいるかもしれない。もちろんずっと前から呼び名はあった。だがそれは、今の名前の常識とは全然違うもので、しかも武家と公家で別の常識の下に構成されていたのである。

本書では、「氏名」の創出について説明する前に、その前提となる江戸時代の「名前の常識」が丁寧に解説される。史料を読むうえで必要な「名前の常識」は、こうしてまとまって説明されることは意外と少ない。本書の前半は日本史を学ぶものにとっては必須のものであると感じた。

実際には身分によって違うのでかなり複雑だが、要点のみそれをまとめておく。

【武士の場合】

まず、江戸時代までの男性は頻繁に改名した。武士では、少なくとも、幼名、成人名、当主名、隠居名という4つの名前を経るのが一般的だった(と本書にはあるが、さらに戒名=死後の呼称を加えてもいいかもしれない)。名前は頻繁に変わるのが常識だったし、それに不便を感じてもいなかった。それは、名前が社会的立場を表すものだったからである。身分の変動に応じて改名を行うことは道理にかなっていたのだ。

そして名前を構成する要素も今とは異なっていた。例えば、幕末の薩摩藩主「島津斉興(なりおき)」は当時の名前では「松平大隅守斉興(まつだいら・おおすみのかみ・なりおき)」である。ここで(1)「松平」は幕府から許されている苗字、(2)「大隅守」は幕府から許されている正式な官名、(3)「斉興」は「名乗(なのり)」と呼ばれるものだ。

(1)の苗字「松平」はいいとして(いや、「島津」はどこに行ったの? と思うかもしれないがそれは置いておく)、(2)の「官名」は名前の構成要素なの? と思うかもしれない。しかし「名前が社会的立場を表すもの」である以上、むしろ当時の常識としてはこれが名前の本体だった。平常使用する名前はこの「官名」だった。今でいえば、「総務課長~!」と役職で呼ぶ感覚に近いかもしれない。「総務課長」は会社の中だけだが、江戸時代の「大隅守」は日本全体で通用するのである。

「大隅守」のような上級の官名は幕府の許可を要し、また朝廷からの「従四位下」のような叙位と任官(叙任)の手続きも必要だった。手続き自体は簡単だったが叙任には少なからぬ費用もかかった。だからこそ上級の名前として意味があった。そして注意すべきは、この手続きは「大隅守」という役職につけてもらうことではなく、あくまで「改名」の手続きであったことだ。

なお「官名」は、斉興の場合は「大隅守」が実態にも即しているもののこれは例外で、一般的には例えば「信濃守」と名乗っていても信濃を治めている人とは限らないし、「越中守」が何人もいる、といったことも普通だった。これらはもともとは守護の官名に由来してはいるが、その元来の意味は忘れられ、ただ「偉い人がつける名前」としての機能のみが残っていたのである。

ちなみにもっと身分の低い人の場合は、「疑似官名」というそれっぽいものがそれに宛てられていた。「近江」とか「主膳」「伊織」といったものだ。これらは官名に基づきながら正式なものではなかったので自由に使えた。しかし「疑似官名」すらも使わず、「三郎右衛門」とか「源兵衛」といった名前もあった。これらは元は官名の変形であったが次第に一般化して庶民的な名前になっていた。「官名」「疑似官名」や庶民的名前も含め、この事実上の個人名となっている部分を「通称」という。

(3)の「名乗」の方は、今から見ると名前に近いように見えるが、これは平常は全く使用しないものだった。当時の人が「斉興殿!」と呼びかけることはなかった。では何に使っていたのかというと、「書判(かきはん)」というサインに小さく添えるものだったのである。それでも身分の高さや血統を示す役割はあったので、上流の武士はあるルールに沿って作られた「名乗」を「設定」していた。

これだけでもややこしいが、さらに「本姓」がある。これは「源」「藤原」「橘」などの貴種からの来歴を示す(ということになっていた)もので、これが正式な(=書面上の)姓であった。斉興の場合は「源」が「本姓」だ。だがこれも斉興を「源さ~ん!」などと呼ぶことはありえなかった。

そして「本姓」に付属するものとして「尸(かばね)」があった。「尸」はもともとは氏姓(うじ・かばね)の「姓」だが、これだと字面上ややこしいので本書では「尸」で統一されている。朝廷が与えた「八色の姓」…「真人」「宿禰」「朝臣」などに由来したもので、斉興の場合は「朝臣」になる。

ということを全部まとめれば、斉興の名前は「松平 大隅守 源 朝臣 斉興」ということになるが、これは便宜的に繋げて書いただけで当時このような名前が使われていたということではない。あくまでも名前の本体は「松平大隅守」=「苗字+通称」であったことに注意が必要である。他の要素はそれを修飾するものであったといえる。そして今の感覚ではこうした名前はややこしいと感じるが、当時の人は全く不便は感じておらず、むしろ名前が秩序を形成するものであった以上、その目的に最適なものと捉えられていた。

【公家の場合】

公家の名前も、見た目は武士の場合と似たような構成だった。 例えば、「権大納言正三位藤原朝臣稙房(ごんのだいなごん・じょうざんみ・ふじわらのあそん・たねふさ)」といった調子だ。「権大納言」(官位)と「正三位」(位階)が先頭に置かれているのは大きな違いだが、その構成要素は似ている。

武士の「苗字」 に当たるものを公家では「称号」(今の称号とは違う意味)と呼び、例えば「近衛」「九条」といったものがあったが、これは決して「名前」とは見なされず、正式な署名である「位署書(いしょがき)」 には書かれなかった。先ほどの「稙房」の称号は「万里小路(までのこうじ)」である。

このように公家の名前も武家と似たような要素で構成されていたものの、そこには重大な違いがあった。第1に、公家は武士のように「改名」をしなかった。武士以上に複雑に「官名」は変わっていったが(つまり昇進していったが)。それは名前が変わったとは見なされず、名前はあくまで「姓・尸・名」つまり先ほどの例では「藤原朝臣稙房」であった。ただし、通常「藤原稙房さん」と呼ばれることはなく、実名を呼ぶのを憚って「万里小路権大納言」などと呼んだ。であるから、実態としては武士と同じように「称号」(武士の場合の「苗字」)+「官名」で呼び、頻繁に名前が変わっていたにもかかわらず、それを名前だとは認識していなかったわけだ。

第2に、公家の官名は武士のように名目だけのものではなく、ちゃんと定員があった。もちろん律令制における官職は有名無実のものとなり、公家たちも官名に見合った仕事をしていたわけではなく給与もなかった。しかし公家では官名を実態を伴ったものと擬装し、少なくともそれが擬装に足るものでなくてはオカシイと考えた。武士が使っていた「疑似官名」のようなものは、公家からすれば笑止千万なのだ。それはそれっぽいだけで全く由緒もなにもない、官名のような響きがするだけの言葉だったのだから。

これまでのことを「島津斉興」を例にしてまとめると、次のようになる。

┌武士が認識する名前┐
(1)苗字 (2)官名・通称 (3)本姓  (4)名乗 ←武家側の呼称
松平   大隅守     源 (朝臣)  斉興
(1)称号 (2)官名・通称 (3)姓・尸 (4)(実)名 ←公家側の呼称
           └公家が認識する名前┘

つまり、同じ名前を見ても、どこを「名前」と認識するのかという常識が公家と武家では違った。とはいえ公家は、武家が「疑似官名」のような正式な官職を無視した名前を使うのを苦々しくは思っていたが、別段この二つの常識が併存していて何ら問題はなかったのである。

問題は、明治維新政府が公家と武士の連合政権として出発したために、この「名前の常識」を統一しなければならなくなった時に起こったのである。

【明治維新後】

新政府は「王政復古」の名の下に太政官とその下の七官を置いて、さらにその序列を明らかにするため各職名に1〜9等の「官等」を定めた。例えば「会計官の副知官事」は2等官、といった具合である。

これが名前の混乱の元となった。明治政府には「官位秩序の範囲にあった朝廷や諸侯の世界に、無位無官の「徴士」が入り込んできた(p.179)」ために、上司より部下の方が「名前の上では」偉い、ということが起こったのである。例えば明治元年の会計官用度司は、長官である知司事が城田図書(きだ・ずしょ)という無位無官の徴士(水口藩士)、その部下の判司事には鈴木右近将監(うこんのしょうげん)という従五位下の地下(下級公家)、といった具合である。「図書」は「疑似官名」で、「右近将監」は朝廷が任命した正式な「官名」である。もちろん「右近将監」の方が名前上ではずっと偉い。これでは「名前が社会的立場を表すもの」という常識が通用しないのである。

そこで朝廷では、無位無官だった徴士に職名に見合った位階を授け、それを名前にすることにした。「大隈八太郎」は「大隈四位」(もちろん大隈重信のこと)といったように。しかしこれは辞退する人が大量に出たのでうまくいかず、そもそも下級公家は多くが最下級の8等官だったが名前の上では高位だったので整合がとれなかった。名義上の「官名」と実際にある「官職」、名義上の「位階」と実際の「官等」が別個に存在していた。

そこで政府は明治元年11月、出仕中は「官位」「官名」を使わないように命じた。下っ端のくせに高い「官位」で偉そうな「官名」を名乗っているのは混乱の元だから名前自体を使うな、というのである。もちろん名前がなくなると困るので、各自「官名」以外の名前に改名した。

また、新政府は各国諸侯等の名前を把握する必要があったが、実際に名前を提出させてみると武家と公家では「名前の常識」が違ったので提出された名前の構成がまちまちであった。そこで政府では名前を文書上「苗字+官名」に統一することにした。それまでは諸侯(大名)は「領国名+官名」で名乗っていたが、これ以降は苗字が使われるようになった(例:肥前少将→鍋島少将)。

一方、旧幕臣に対しては、旗本は「官名」の停止がなされ、下大夫以下については強制的に「官名」を奪われた(官位褫奪(ちだつ))。 例えば「高木伊勢守」は「高木伊勢」といった具合だ。官員の場合は「官位」以外の名前に自由に改名できたのに、旧幕臣は「守」(下司)を除くなど強制的な措置によって新たな名前がつけられた。

こうした潮流の中、明治2年6月の版籍奉還に伴って中央政府の機構改革が行われ、大蔵省や民部省といった古代律令制を模した組織へと鞍替えされた(二官六省制)。こうして古代の官職が復活した結果、今まで有名無実化していた「官名」が一斉に廃止され(百官廃止)、今後は実質を伴った新官名=職名のみを使うこととなった。「越前守」のような旧来の「官名」は一切の例外なく使用禁止となったのである。このような強硬な改革が行われたのは、結局、「名前が社会的立場を表すもの」という常識が通用しなくなった結果、名実を一致させることが現実的に便利でもあり、また官名・官職を実質化しようとしていた公家の思惑とも合致していたからであろう。

この結果、日常の「名前」は次の3パターンに整理された。①苗字+官名(官員のみ)、②苗字+位階、③苗字+通称、である。

しかしこれにも問題は多かった。①の場合、例えばある役職に同じ苗字の人が複数人いると同じ名前になってしまい区別ができない。実際篠山藩では「吉原大参事」が二人いて困ったので一人を「東吉原大参事」に改名した。わざわざ苗字の方を変えたのは、役職の方が社会的身分を表示するために重要だったからだ。

②でも同様の問題が生じた。だが明治3年11月、旧官人と元中大夫らの位階を全て廃止するという強硬手段によって、彼らの名前は半ば強制的に「称号(苗字)+実名」とされた。

なお③の場合では、少数の者は「実名」を「通称」にも使用した。先ほどの斉興の例では、「大隅守」が使えなくなったので代わりに「斉興」を「通称」とした、ということになる。なお中には「通称」を廃して「実名」のみを使用する、という認識でそうした者もいたようだ。

そして明治3年12月、名前を巡る問題を解決する大転換がなされる。先ほどの①のように、同姓同官のものが複数いる場合の不便を考慮し、新政府は「官名+苗字+実名」の順で標記するように決定したのである。これまで「加藤大学大丞」と書いていたものを「大学大丞加藤弘之」と書くようにしたわけだ。つまり、「官名」を名前扱いするのを辞め、あくまでも肩書きとして扱うようになった。

明治4年の廃藩置県に続いて行われた官制改革で政権から多くの公家が排除されると、それまで公家の常識で行われてきた名前政策が転換する。明治4年10月には公家がこだわってきた姓尸の使用があっさりと廃止された。こうして名前を構成する要素は「苗字」「通称」「実名(名乗)」の3つになった。

さらに明治5年5月7日、太政官は「通称と名乗はどちらか一つだけにせよ」という布告を出した。「通称」「名乗」の両方があるのは煩瑣で、それまでの名前の改革によって二つある現実的な意味が薄れていたからである。こうして「通称」「名乗」はなし崩し的に統合され、全く新たな概念として「名」が登場し、名前は「苗字(氏)+名」になったのである。「氏名」誕生の瞬間であった。

【氏名と国民管理】

本書は「氏名」誕生について述べた後、「氏名」と国民管理について述べる。これまでの話は武士と公家についてだったが、ここからは庶民まで含めた話になる。

まず、明治政府は明治3年9月に「苗字自由令」を出した。それまで庶民は苗字を公称するのを禁じられていたがその規制が撤廃された。だがどうしてその規制を撤廃したのかという理由は詳らかではない。著者は、それは租税増徴を図るため「江戸時代の身分格式を整理する一環としてなされた措置であって、それ以外の目的はなんら見出し得ない(p.261)」とし、「この時期の政府は、平民の人名とか苗字なんぞに関心がない(同)」と言い切っている。

続いて明治5年9月には、それまで苗字を持っていなかった僧侶に苗字を必ず設定するように命じた。「なんでもいいから苗字をつけろ」という命令であった。なぜ由来・由緒など全く無くても構わないのに、苗字を強制的につけさせたのか。それは国民管理の都合上であった。明治4年には戸籍法が定められ、明治5年には戸籍の編成が行われていたからだ。苗字がなくては不都合だったのだ。

そして、明治5年11月の徴兵詔書・徴兵告諭によって徴兵令が定められ、徴兵制度を厳格に実行するため国民管理をさらに厳密にやる必要があった。当初、徴兵対象者の80%が兵役を逃れていたのである。

そこで山県有朋は「徴兵の取り調べ」のために平民にまで苗字を強制的に名乗らせることを提案し、明治8年2月、政府はなぜ苗字を名乗らなければならないのか一切説明しないまま「苗字を必ずつけるように」とする太政官布告を出した。「現在日本人が、氏と名という組み合わせを絶対に使用するようになったのは、この布告が事実上の起点なのである(p.267)」。

なお時間が前後するが、「氏名」の誕生から僅か3ヶ月後の明治5年8月には「改名禁止」の太政官布告も出されていた。それまでは頻繁に改名することが普通だったし、「壱人両名」といって一人の人物が二つの名前で立場(武士と百姓とか)を使い分けていたことがあった。そうしたことが禁止され、この太政官布告以降、生まれた時から変わらない一つの名前を名乗るようになったのである。もちろんこの措置は、名前がコロコロ変わると管理の手間がかかるという都合によって行われたのである。

明治元年からのたった5年あまりで日本人の「名前」は大きく代わった。名前は「苗字」と「名」から構成され、それは一生涯変わらない、という新たな常識が樹立されたのである。

なお、本書では女性の名前についても最後に簡単に触れられる。女性の名前に「通称」「実名」の区別はないが強いて言えば「実名」に近い。しかし男の場合と決定的に違うのは苗字を冠することがないことで、結婚して姓が変わる変わらないなどという観点がそもそもなかったという。

私が本書を手に取ったのは、この後半部分の「氏名と国民管理」に興味があったからだが、前半の江戸時代の名前の解説も非常にためになった。そして、著者が「苗字の強制を「明治政府によって苗字を名乗る自由を得た、封建社会から「解放」された」など——なんらかの政治的目的や思想的影響のもと、そんな妄想が語られたこともあり、今なおそれを信じさせられている人も多い(p.291)」と述べるそのままの妄想を信じていたのが私である。

しかしそれが「妄想」であることをちゃんと理解するには、江戸時代の名前の扱いについて正確に認識しておく必要があった。本書によってようやくその蒙が啓かれたところである。

日本人の「名前」について知るための必読書

2022年2月13日日曜日

『改造社と山本実彦』松原 一枝 著

『改造』と円本を生んだ山本実彦の評伝。

戦前の言論において『中央公論』と並ぶ時事評論誌であるとともに、多くの文豪が活躍していた雑誌『改造』。これを発行していた改造社を個人事業として経営していたのが山本実彦である。

実彦は鹿児島県の薩摩川内市大小路町に生まれた。生家は士族で鍛冶屋を営んでいたが、父親が酒飲みでしかも連帯保証人の債務で田畑を失い零落する。こうして実彦は赤貧洗うがごとき少年時代を過ごした。向学心にあふれた実彦は中学に進学するが生活が成り立たず退学。家族を養うため沖縄にわたって教師となった(小学校の代用教員→国頭郡農学校助手等)。実彦は教師としては「ペスタロッチの再現」と言われるほど熱心であったが金が溜まるとさっさと辞めて鹿児島に帰り、ついで上京した。

東京で実彦が頼ったのが同じ鹿児島出身(宮之城)の大浦兼武であった。大浦兼武は警保局主事として選挙での野党弾圧(大干渉選挙)の指揮を行って出世し、その後大臣を歴任、大隈内閣では内相に任命されたが、選挙での収賄を弾劾されて(大浦事件)政界を引退した人物である。実彦が頼ったころは第1次桂内閣で逓信大臣を務めていた。大浦は、実彦には大学に通うようアドバイスしたようだ。

実彦は昼間は働いて法政大学に通ったらしい。「らしい」というのは、実彦が自分で書いた履歴書には「日大卒」となっていて詳しいことはわからない。大浦との関係も実態は不明である。しかしどうやら大浦の影響で、実彦は政治家になるという決意を固めたとみられる。

実彦は大学を卒業すると「やまと新聞」に入社。これは桂内閣の御用新聞である。ここで実彦はスピード出世をする。入社後2年で実彦はやまと新聞のロンドン特派員となった。ロンドンで実彦は広い視野を身につけ、また東郷平八郎元帥と親しく知り合ったことも大きな収穫だった。帰朝後、実彦は東京市議会議員に当選して若干29歳の青年政治家が誕生した(大正2年)。

ところが、東京市議員の仕事は本書には詳らかではない。実彦は同時期、東京毎日新聞社を買収して社長となったからだ。同社は経営難に陥っていたとはいえ、買収費用はどうまかなったか正確にはわからない。後藤新平が当初の資金を出し、また板垣退助の台湾旅行をバックアップするという条件でどこからか金が出たらしい。実彦は政治家とのつながりでのし上がった。

さらに大正4年、第12回総選挙が行われると実彦は鹿児島で与党憲政会から立候補した。しかし当確を目前に実彦は台湾総督府に呼び出される。台湾の林本源からの収賄容疑であった。実彦は無実を主張したが、どうも後ろめたい金の動きがあったのは事実のようだ。当然選挙はご破算となり、実彦は台湾で拘留後投獄された。帰国後、母の訃報を聞き帰省。一度は郷里で隠退するつもりになったほどだった。

しかし実彦は再起を誓う。まずは東京毎日新聞社を売却して資金を手に入れ、さらにどこからか1万円が懐に入ったので、それを元手に実彦はシベリアに向かった。当時日本軍はシベリアに出兵しており、実彦は軍(陸軍参謀総長)と親密な関係を築き、それを土台にいろいろな策動をしたようである。実彦は久原鉱業から6万円もの大金を「調査謝礼」としてもらったといわれている。久原鉱業はシベリアで鉱山を手に入れようとし、その手先となったのが実彦だった。結局、大正11年にシベリア派遣兵は撤退し久原鉱業の件は頓挫するが、この6万円が『改造』の基を作るのである。

実彦はその金のうち3万5千円を使って南品川浅間台に豪邸を建てた。そして新聞社に勤めている仲間たちと、次の選挙までのつなぎの活動を何にするか相談しているうちに雑誌『改造』の創刊が決まる。あくまで実彦の選挙運動を側面支援するための雑誌企画で、資金も全て実彦持ちだった。

『改造』の創刊は華々しかった。大正8年に文壇の名士たちを招待して発行の披露宴を開いたのである。参加した作家は、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥、佐藤春夫他そうそうたる面々だ。実彦はこういうハッタリは上手だった。ところが中身は伴っていなかったのですぐに経営が行き詰まった。2万部刷った創刊号の返品率は6割もあり、第3号で限界を迎えた。実彦の選挙を応援するために片手間で作った雑誌である。斬新さもなく評判は悪かった。

実彦はすぐに廃刊しようとしたが、それに編集者たち(横関愛造、秋田忠義ら)が反対した。1号だけ自分たちに全部まかせてくれというのである。そのころ、労働争議や組合運動が勃興し、社会思想が広まりかけていた。彼らは雑誌の売れ行きを考えて、当時関心が高まっていた思想を取り上げて4号を作ったのである。実彦は自分の政治生命がなくなるかもしれないのにこの反体制的編集方針を黙認。するとこれが発売2日で3万部が売り切れた。こうして『改造』は新たに生まれ変わった。実彦自身は明確に体制派で、社会思想とは相いれない思想の持主であったと思われるのに、『改造』が真逆の道を歩んだのが面白い。体制派の実彦の下で、発禁ギリギリの左翼雑誌が作られていった。

実際、『改造』はたびたび発禁処分を食らった。また経営は必ずしも順調ではなく倒産の危機も多かった。しかし実彦は「これなら売れる」という嗅覚がきき、独断で重要な決断を下しヒット作に恵まれた。例えば賀川豊彦『死線を越えて』は、編集者全員が反対していたのに実彦の独断で『改造』に掲載して単行本化し(改造社の処女出版)、百万部のヒットとなった。

実彦はこれで儲けたお金でバートランド・ラッセル、続いてアインシュタインを招聘する。特にアインシュタインの招聘は、ちょうどノーベル賞受賞のタイミングと重なったこともあって日本中が熱狂した。相対性理論を理解できるものは当時わずかしかいなかったが、これが日本の思想界・学界に及ぼした影響は大きかった。一雑誌社社主が私財で行う事業をはるかに超えた招聘だった。

大正12年、関東大震災が起こると、改造社社屋と印刷機、蔵書が全焼。それでも実彦邸に事務所を移して『改造』は1号も休むことなく続けられた。しかも体制強化のため、初めて編集者を公募し(それまでは縁故採用のみ)、初任給100円という高給で藤川靖夫を採用した。帝国大学出のエリートの初任給が60円ほどだった時代である。

しかし経営は非常に厳しかった。社員の給料が払えず、実彦は一度は自殺を考えたほどだった。それを救ったのが藤川のアイデアだ。震災で本が焼けてしまい、本の需要は大きかったが金のある研究者にしか新たに揃えることはできない。明治以来の著名な文学者の代表作を集めた全集を安く出版してもらえたら――。このアイデアに実彦はすぐに反応。円本(えんぽん)つまり定価1冊1円での「現代日本文学全集」として結実した。従前に比べると10分の1くらいの価格設定だった。

円本は売れに売れた。予約締切の夕方には改造社まで長い行列ができたという。社員は休みなし、残業代なし、徹夜料もなしで働いた。こうして売れたのは60万部とも80万部ともいわれる。円本はその後、経済学全集、日本地理大系、マルクス・エンゲルス全集などに拡大された。円本は出版文化における革命だった。一気に読書の大衆化が進んだのである。他社もこれに追随。春陽堂「明治大正文学集」、新潮社「世界文学全集」、平凡社「現代大衆文学全集」などを刊行した。追って、岩波茂雄も円本に刺激されて岩波文庫を創刊した。

円本で息を吹き返した改造社は、昭和3年、10周年を記念して懸賞小説を応募するようになった。1等賞金は破格の1500円。また昭和4年には一度だけ文芸評論を募集し、これでデビューしたのが宮本顕治(後に日本共産党の書記長になった活動家)、小林秀雄だった。

そんな中、昭和5年には第17回総選挙で実彦は鹿児島から立候補して当選。社会思想、左翼思想を訴えて世に受け入れられている『改造』の社長が、与党民政党から立候補したとはどういうわけか。実彦にとって政治とは現実に社会を動かしてはじめて意味を持つものであった。野党では意味がないのである。『改造』は言論で世論をリードしていたが、実彦自身は言論の力をあまり信じていなかったように見える。社員は当然、文壇の著名人たちも実彦が政治に足を突っ込むのを快く思わず、出版業に専念してほしいと思っていたが、実彦自身は政治に金をつぎ込むために『改造』で儲けていた。

『改造』は文壇から高く評価され、『改造』に掲載されることは文壇への登竜門ともなった。『改造』の原稿料は常に『中央公論』より高く、実彦は借金してでも高額な原稿料を支払った。一方、社員は薄給で、実彦は気に入らないことがあればすぐに殴った。同時に自分の遊びには豪快に金を使い、花柳界で名をはせた。また実彦は戦前は大臣以上でなくては頭を下げなかったといわれる。そんな実彦だったが情に厚く、社員を殴りながらもその親に送金していたこともある。良くも悪くも封建的、親分肌で権威主義的な実彦だった。

昭和7年、第18回総選挙でも鹿児島から立候補したが落選。無名だった林芙美子の『放浪記』がヒットし、後に名作と呼ばれる純文学作品(志賀直哉『暗夜行路』、堀辰雄『風立ちぬ』など多数)がどんどん掲載されて改造社は順調だったが、政治の面ではうまくいかなかった。昭和10年代になるとファシズムが亢進して言論弾圧が激しくなり、『改造』論壇の主流派だった労農派は排除された。

改造社はそうした弾圧によってふたたび経営難に陥ったが石坂洋二郎『若い人』、火野葦平『麦と兵隊』のヒットによって経済的余裕ができ、『新万葉集』の刊行など意欲的な事業に取り組んだ。同時に実彦は中国へ入り、混迷する日中関係を間近で見て時論を『改造』に掲載した。毛沢東を最初に日本に紹介したのは『改造』だったといわれる。中国通を自認した実彦は、中国事情を紹介する雑誌『大陸』を創刊、『改造』本誌は文化と教養主義に編集を転換して、体制迎合的な『時局版』を創刊した。

改造社はこれらの雑誌を発禁ギリギリの線で編集していたが、昭和17年に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が軍部に問題視され、細川の家宅捜索で一枚の写真が共産党再建準備会だとでっち上げられて検挙された(横浜事件)。実彦は編集者を擁護するどころか、「自分は挙国一致に協力しているのに部下の不注意から事件に発展した」と自分を被害者だとみなした。軍部の弾圧と実彦の姿勢から改造社は有能な編集者を失っていく。

実彦は陸軍の最高人脈と深いかかわりがあったが、軍部からの命令により昭和19年6月号で自主的に廃刊させられ、改造社も解散した。実彦は軍部の横暴を怒ることもなく、改造社の過去の栄光を懐かしむでもなく、ただ茫然自失となって、なげやりで無責任に改造社を終わりにした。実彦は解散にあたって社員の退職金を出し惜しんだ。

戦後、言論が復活すると実彦はさっそく『改造』を復活させたが、岩波茂雄など他の言論人が戦争協力を反省したのとは対照的に、そこには過去への反省はなかった。

戦後初の総選挙にはまたしても鹿児島から立候補し当選。実彦が党首を務める協和党は全国で14名の当選者を出した。実彦には入閣の打診があったが党議により断った。この時のことを二階堂進は「実に寂しそうだった。大臣になりたかったのだ、とその心情を思いやりました(p.225)」と後年語っている。

さらに昭和21年には、実彦は戦中の体制迎合的な雑誌が見咎められ「軍国主義者、極端な国家主義者」とされ公職追放処分を受けた。こうして復活した改造社の社長を務めることもできなくなった。しかし実彦自身は逆境にあることでかえって闘志がわいたらしい。そして改造社には、私的な事務所で執務をするという理由でかかわり続けた。

そのころ、改造社では労働問題が起こっていた。改造社内で労働組合結成の動きがあり、実彦はそれが気に食わなかった。結成された労働組合は早速賃上げを要求。社内は組合派と反組合派に分裂した。そんな中、実彦が公職追放中にも関わらず改造社に出入りしていることが告発され、実彦は有罪判決を受ける。おそらくは社内からの密告だという。『改造』では労働問題を取り上げ続けていたのに、社内の労働問題を弾圧しようとした実彦という人物の不思議さを思わずにはいられない。

またGHQは共産主義的な言論の統制と弾圧(「赤狩り」)に乗り出し、改造社も目をつけられて編集長他3名を解雇せざるを得なかった(十二月事件)。その後編集長に就任したのが小野田政(後、産経出版社長)だった。小野田はこれまでの左翼的傾向を『改造』から除き、新保守主義者を執筆者に使った。さらには昭和25年には昭和天皇に原稿を依頼し、歌7首を巻頭に置いた特集で9万部を売った。「マルクス、レーニン主義で売った「改造」が天皇の歌で売れた(p.251)」のは栄光の歴史が終わったことの象徴だっただろう。

その後の改造社をめぐる動きはゴタゴタしているので省略する。しかし要するに、実彦の死とともに改造社は終わりを告げた。形式的には山本家が改造社を引き継いだが、社員との対立や一方的な解雇、それを不服とした言論人からの反発、それに応えての和解などがあったものの、改造社の命運は尽きていたのである。

私が本書を手に取ったのは、「円本をつくった山本実彦とはどういう人物だろう?」という興味だった。私はてっきり、「庶民にまで本をいきわたらせるため」というような高邁な理想から円本が作られたと思っていたのだ。しかし実際にはそうとは言い切れない。実彦にとっては「売れることが第一」であった。事実円本で儲けたのである。また、体制派で軍部ともつながっていた実彦が左翼雑誌を作っていたのは、それが売れるからだった。労働者の保護や左翼思想など(当時の)進歩思想を、彼がどこまで真剣に受け取っていたか定かでない。

実彦はロマンチストではあった。ラッセルやアインシュタインを招聘したり、『新万葉集』を編纂したりといった、私財を投入した文化活動も行った。しかしそれすらも、人文主義的な理想から出た事業であるとは思えないところがある。だが円本の流布は日本の出版文化に革命をもたらし、文化人の招聘は学界に刺激を与えた。実彦の事業は打算的・場当たり的であったかもしれないが、結果としては日本の言論や大衆の読書習慣に大きな影響を与えた。

実彦が鹿児島選出の国会議員として力を入れた仕事は、川内川の改修であった。確かに川内川は暴れ川で地域の人たちは度重なる水害に悩まされていた。そういう事業に力を入れたのは評価できる。一方で、実彦の限界はそこにあったともいえる。土建屋や行政と一体となってインフラを整えるのが、あくまで実彦の「政治」だったのだろう。そこに理想社会を実現するための「思想」はなかったのかもしれない。

良くも悪くも人間らしい、出版界の風雲児山本実彦を知れる好著。


2022年1月15日土曜日

『明治留守政府』笠原 英彦 著

明治留守政府の混乱した政治を描く。

明治4年11月から6年9月まで、岩倉使節団が洋行する。この間に国政を預かったのが留守政府である。岩倉使節団には政府首脳がゴッソリと入っていたから、留守政府は政権運営に苦労することになった。なにしろ明治政府は稼働して僅かな時間しか経っておらず一枚岩ではなかったし、その上廃藩置県を断行した直後だったのである。

岩倉使節団と留守政府の間は、留守中の政治について「12箇条の約定」を交わしていたが、そこには「新しい改革は進めないように」 とする文言と「準備してきた改革は進めるように」という矛盾する文言が含まれており、留守政府内ではこの解釈の相違も相俟って混乱がもたらされるのである(ちなみに本書には「12箇条の約定」の全文が掲載されていないのが不便だった)。

そして、それと同時に、留守政府が混乱したのは「太政官三院制」というもののせいであると著者は見る。これは廃藩置県に後に行われた政府の機構改革によって生まれたものだ。元々の太政官制では諸省を統べるものとして太政官が置かれていたが、ここに意志決定機構である「正院」「左院」「右院」を置いたのである。

「正院」は太政大臣、左・右大臣、参議で構成する最高意志決定機関である。「左院」は議長、副議長、議官で構成する立法諮問機関、「右院」は各省の卿、大輔で構成する行政機関であった。そしてこの下に太政官とその下の各省が置かれた。本書ではこの体制に「矛盾」があったしているが、どこがどう矛盾していたのかは曖昧な記述である。

ただ、今の体制になぞらえれば、「左院」は内閣法制局、「右院」は内閣に相当するわけであるが、最高意志決定機関である「正院」が内閣から浮いた存在であった、ということは制度の欠陥と見なせるであろう。「正院」には、具体的な行政を所管している責任者が誰一人メンバーに入っていなかったのである。

そしてさらにこの体制の欠陥は、各省の利害が対立した場合に、それを調停する仕組みがなかったことである。今の体制では、予算は国会で審議するし、それでなくても閣議があって、重要事項は閣議決定を経なければならない。しかし「太政官三院制」においては、どうやら今の閣議決定にあたる決裁を経なくても、各省が独自に施策を実行することが可能であった。そのため各省は急進的な施策を矢継ぎ早に実施することとなった。

また、留守政府の混乱には、大蔵省の在り方も一役買っていた。岩倉使節団の出発前には、民部省が大蔵省に合併されるという改革が行われ、巨大化した大蔵省のトップ(卿)には大久保利通が就任した。この人事にはいろいろ裏があったらしい。大蔵省は基本的に長州閥が幅をきかせていたが、そこに薩摩閥の大久保が据えられたのはなぜか。木戸孝允は他の人事面で大久保の意向を尊重する代わりに、逆に大蔵卿に大久保を据えることで大久保を牽制しようとしたのではないか、というのが著者の考えのようだ。

ともかくも、巨大化した大蔵省は大久保の手に余るものであった。今でいうと、総務省(地方行政、郵便行政)、法務省(戸籍)、経済産業省、国税庁、財務省を合わせたのがこの頃の大蔵省である。国政の7割は大蔵省が担っていたという。しかも、留守政府は極度の財源不足に見舞われていた。この頃、予算の約4割が華士族への賞典・秩禄の支払いに充てられており、身動きが取れなくなっていたのである。大久保は省内で微妙な立場に居続けるより、いっそ洋行して不在にしていた方がうまくいくと考え、責任放棄して岩倉使節団に参加するのである。

では大久保が離れた大蔵省がスムーズに運営されたかというと、案の定うまくは行かなかった。大蔵省は各省からの予算要求に応えることができず、予算協議は紛糾した。不思議なことに、大蔵省は非常に大きな所掌を持っていたが、どうやら立場は弱かったらしい。大蔵省は、各省から予算をくれと突き上げられていたように見える。所掌は大きかったがそれに見合う権限は与えられていなかったのだろうか。本書には詳らかでない。

本書はこうした混乱を主に派閥の対立の構図から描いているが、何について対立していたのか、という政策面の記述は薄く具体性に欠けると感じた。

ともかく、留守政府のガバナンスは散々であったことは間違いない。ところが、このだらしない政府の下で開明的施策がどんどん実現していくのである。封建的身分制の廃止、徴兵制の実施、田畑の売買の自由化(地券制度)、地租改正、全国戸籍調査、学制の頒布、太陽暦の採用、国立銀行の創設などといった近代化施策が留守政府の手によって実現された。毛利敏彦は「これほどの仕事をした政府は史上にも稀であった」と評している。

これをどう考えたらいいのか。一つには、薩摩と長州が冷戦的なかけひきをしている中で、開明派の肥前閥が国政実務を担うことになったという理由がある。肥前といえば、近代化制度について超人的嗅覚を有し司法卿として司法制度の確立に心血を注いだ江藤新平、文部卿として学制頒布を実施した大木喬任、外務卿として台湾問題を処理した副島種臣、そして参議の大隈重信がいた。8名の省卿のうち半分の4名を肥前出身者が占めていたのである。

そしてもう一つ、本書を読みながら思ったのは、ガバナンスがない方がむしろキチンとした仕事ができるという日本人の気質があるのではないか、ということだ。どうも今の社会から推して考えれば、この頃の「政治不在」の状況は、かえって開明派官僚にとってやりやすい状態だったのかもしれない。

しかしながら、政府としての統制が取れない状況は、特に予算配分など各省の利害を調停する必要がある場面では不都合である。そこで明治6年5月(つまり岩倉使節団帰国直前)には、太政官三院制の「潤色」(と言う名の改革)が行われる。「潤色」というのは、「12箇条の約定」において改革が停止されていたためこういう呼び方がされている。この「潤色」では、あまり機能していなかった「左院」「右院」は事実上棚上げされ、権限を「正院」に集中した。これには新たに参議に就任した江藤新平の寄与があったのではないかという。

しかしこの改革の翌日、井上馨と渋沢栄一(共に大蔵省)は辞表を提出する。この「潤色」が強大すぎる大蔵省を統制下に置く意味があったことは明瞭であるが、一方で「正院」には省卿が参加しておらず実務と切り離されていたという本質的欠陥がそのままになっていたことも否めない。結局、留守政府は政治的混乱を解決できないまま終局へ向かった。

ところで、留守政府の首脳でありながら、イマイチ働きが明確でないのが西郷隆盛である。彼は「島津久光問題」(久光が明治政府+西郷・大久保と敵対していた問題)を抱えていたという事情があるにせよ、留守政府で目立った働きをしていないというのは不思議だ。しかも派閥間の闘争にも超然としているように見える。留守政府における西郷の立場は謎めいていると感じた。

本書は最後に附論として「太政官三院制に関する覚書」という論文が収録されており、本書全体はこれを一般向けにかみ砕いて説明したものという印象を受ける。しかし先述のとおり、具体性に欠ける記述が散見されかえって分かりづらい感じがした。附論の論文の方がわかりやすいと思う。また、政治的対立をテーマにしているため、留守政府が何をしたのかという記述が少なく、その点でも不十分な印象を持った。例えば徴兵制、太陽暦の導入、国立銀行の設立などは本書には全く出てこない。

また留守政府において大蔵省を揺るがした「山城屋和助事件」「尾去沢銅山事件」「小野組転籍事件」なども全く記述されないが、これなどは政争にも影響を及ぼした事件であり記載した方がいいと思った。

留守政府について述べる一般書としては貴重だが、政争というテーマがやや上滑りした印象がある本。

【関連書籍の読書メモ】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html
いわゆる「征韓論」の虚構を暴き、その真相を究明する本。明治六年の政界を実証的に解明した名著。

 『江藤新平—急進的改革者の悲劇』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post_22.html
江藤新平の驚くべき先見的業績を通観する本。時代を先んじた江藤新平の悲劇によって、維新後の日本が向かう暗闇さえ幽かに感じさせる良書。

2022年1月10日月曜日

『天皇と戸籍』遠藤 正敬 著

天皇と戸籍の関わりについて述べる本。

天皇は「日本人」だろうか? 多くの人はそんなもの当たり前だろ! と思うかも知れない。私もそう思っていた。ところが、「日本人」を「日本国籍を持つ人」と言い換えるとこれが怪しくなる。「日本国籍」というのは「日本の戸籍に登録された人」ということになるが、天皇(と皇族)は戸籍を持っていないからである。(ついでにいえば天皇はパスポートも持っていない)

皇族の場合は「皇統譜」というものが戸籍の役割を果たす。これは、戸籍と似たような機能を持つものであるし、事実皇統府と戸籍は同様の思想の下に作られているが様々な違いもある。本書は、皇族のライフイベントが皇統譜でどのように扱われるのかという様々なケーススタディを通じて、その思想をあぶり出すものである。

そもそも戸籍の元となる民法は、明治から戦前までと戦後で大きく変わっており、それは皇室の扱いについても同じである。よって本書では、旧制度ではこう、新制度ではこう、と対置するような書き方で説明している(時系列的な書き方ではないということ)。なお皇室の場合は、江戸時代までと明治民法でもかなり扱いは変わっているので、明治前の説明も追加されている。

ところで、戦前・戦後で制度が大きく変更されているのは確かなことながら、やはり変わらないものもある。例えば氏(名字)の扱いや、続柄を戸籍に記入すること、といったことだ。特に続柄は、家制度が廃止され家督相続といったものがなくなった以上、記入することには何の意味もないにもかかわらず存続しているものだ。続柄は、家族の成員を戸主を頂点として序列化する仕組みであったが、その残滓は意識されぬまま戸籍に反映しているのである。

一方、続柄や家父長主義については、皇統譜においては全く無くなっていない。それは、男系相続による「万世一系」が重要であった天皇家の場合は当然のことともいえるし、皇位継承の順序を明解にする意味でも続柄は意味がある。このような皇族における「籍」の在り方が、国民の戸籍にも強く影響しているというのが著者の考えだ。

ところで、「戸籍」と「皇統譜」には決定的な違いがある。それは戸籍は基本的に届出主義で明治以降の情報が対象になっているのに対し、皇統譜は過去の天皇の系譜全てを対象としているということである。つまり皇統譜は戸籍と違って天皇家の歴史を記述するものなのだ。とはいえ、南北朝自体を事例に出すまでもなく天皇家の系譜は錯綜しており、その作成は明治3年にも遡り、江戸時代以来の国学者たちが研究に勤しんでいたにも関わらず、旧皇室典範で皇統譜が明記されてから36年もの間実際には確定しなかった。ひょんなことから国会答弁で「皇統譜が実際には明治天皇以後しか存在しない」ことが明らかになって関係者が衝撃を受け、それまで作成されていた草稿をとりあえず決定することによって成立したのが現在の皇統譜なのである。

戸籍というテーマを深掘りするため、本書は「臣籍降下」の歴史を詳しく述べている。皇族の子どもが全員皇族なら、文字通り皇族はネズミ算式に増えていく。かつては天皇は数多くの愛妾を抱えてたいへん多くの子どもをもうけることも珍しくはなかったからなおさらだ。よって、「臣籍降下」すなわち皇族の身分から臣民の身分(臣籍)に移行するということが歴史を通じて行われた。本書ではこの事例を大量に提出し、どのような力学によって臣籍降下が行われたのかを分析している。それが結果的に、皇族(天皇家)とは何なのかという考察になっているように思われる。

なお「臣籍降下」にはいろいろな場合があり、例えば結婚、賜姓(天皇には姓がなく、姓はあくまで臣下に与えるものである)、懲戒などがある。一方、出家については臣籍降下ではないがそれと同じような効果を持つ(皇位継承権の放棄など)。近世には幼少の皇女が軒並み出家して(させられている)のを見ると、出家が体のよい口減らしのために行われたのは明らかだ。出家の場合は結婚と違って結納・支度金・婚礼費用などが必要なく安上がりだったからである。

さて、ひとたび「臣籍降下」したら皇族には復帰できなかったのかというとそうでもない。それどころか臣籍に移されたものが皇族に復帰した事例は数多いのである。醍醐天皇の例は特に興味深い。彼は父・宇多天皇が臣籍にあった時に「源維城(これざね)」として生を受け、父の皇族復帰に伴って皇族の身分を得、宇多天皇からの譲位で天皇に即位したのである。臣民が天皇にまでなったのは唯一無二の存在だそうだ。

ともかく、かつて皇族と臣民の関係は「ゆるやか」なものだった。それが厳格化されて一度臣籍降下したら皇族に戻れない、となったのは旧皇室典範の制定からである。旧皇室典範の制定時においては女性天皇容認論も出たものの(周知の通り女性天皇は歴史上数多い)、結果的には歴史的にそうであった以上に男系男子主義を徹底させたものとなった。

その結果、皇族の婚姻については徹底的に夫唱婦随なものとなった。例えば皇族男子が一般女子と結婚しても皇族であるが、皇族女子が一般男子と結婚すれば臣籍に入ることになるのである。これは明治民法における「家」の概念からは当然のことであったが、戦後の民法で「家制度」がなくなっても、皇族の場合は「女子の身分はその夫の身分に従う」という規定は変わらなかった。この夫唱婦随の原則は伝統に則ったものであったかもしれないが、「一般国民の夫婦観念に与えた影響は、現在も根強い夫婦の「氏」をめぐる慣習——妻が夫の氏に合わせる——をみても明瞭であろう(p.209)」。

そして、そもそも皇族の婚姻は個人の自由で行えるものではなかった。皇族の結婚は勅許(天皇の許可)を必要とし、一種の人事の性格を帯びていた。戦後にも、勅許から「皇室会議」の許可に変わっただけで本質的には変わらなかった。

しかし、日本人なら誰でも今は「両性の合意(憲法第24条)」のみによって結婚できるのではないだろうか(大日本帝国憲法では「戸主の合意」が必要だった)。それとも皇族は日本国民ではないのだろうか? 三笠宮寛仁は率直にこう述べた。「僕なんか住民税まで払わされるわけよ。戸籍がないのに……。(略)伯父様(高松宮宜仁)よくおっしゃるけど、われわれはある意味で無国籍者なんだな(p.89)」「我々には基本的人権ってのはあんまりないんじゃない?(同)」

皇族は、日本国憲法の埒外にある、というのは確からしい。皇族は、日本国民なら誰でも認められている自由をいろんな形で奪われている。特に天皇は、人生そのものに大きな制限があり、国民はそれを当然のこととして考えている。本書には、その問題提起はサラリと書かれるに過ぎないが本書全体を通じてそうした反省をせざるを得ないように思う。

ちなみに皇族は戸籍を持たないだけでなく、住民基本台帳にも登録されていない。つまり住民票もない。健康保険にも加入していない(ここでも国民皆保険の原則から外れているわけで、皇族は国民扱いされていないわけだ。実際には医療費は全額税金から支払われるにしても)。戸籍そのものはともかくとして、普段のいろいろな手続きで住民票は必須なのだから、いったい皇族の生活はどれだけの制限があるのだろうと思った。例えば銀行口座の開設は可能なのか? 国家資格の取得はできるのか?  本書は皇族のライフイベントを戸籍の観点から述べるものであるためそういったことは書かれていないが、多くの制限が課されていることは想像に難くない。

皇族の人生を戸籍の観点から繙き、皇族とは何か、戸籍とは何かを考えさせるエキサイティングな本。

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2022年1月3日月曜日

『困ってるひと』大野 更紗 著

難病を生き延びた記録。

著者は大学院で難民問題について研究し、たびたび東南アジアにフィールドワークにも出かけていたエネルギッシュな女性だったが、あるとき原因不明の症状に犯される。病院に行ってもロクな診断は出ず、どんどん体は衰弱していくのに治療すらされない。難民について研究していたはずが、自分自身が「医療難民」となったのだ。

たくさんの病院を巡って疲れ切り、死にそうになりながら、最後の望みをかけた病院で、壮絶な検査地獄の果てにようやく診断が下りる。「筋膜炎脂肪織炎症候群」という世にも稀な、治療法がない難病だった。

こうして、生きるための手探りの戦いが始まる。といっても、ひたすら痛みに耐えるとか、薬の副作用に耐える以外にも著者の戦いは展開される。それは、「制度」との戦いだ。入院ひとつとっても様々な矛盾がある。私物は小さなロッカーひとつ分しか認められていないのに、紙おむつなどの消耗品は自分で調達して保管しなければならない。大量のおむつはどこに置いたらいいのか? そしてそれ以前に、ベッドから起きあがるだけでも一苦労な人が、どうやって紙おむつを買いに行くのか?

それは、家族や友人などの付き添いの人が代わりに調達する以外ないのである(病院では手に入らない!)。そんな馬鹿な、と思うがそういう制度になっているのが現実だ。これはほんの小さな事例ではあるが、ギリギリの状態で生きている著者には非常な負担になる。そういうことが山のように積み重なっている。

さらにもっとやっかいのは書類だ。難病の医療費の減免申請も、障碍者手帳の申請も、大量の書類をそろえて役所に提出しなくてはならない。しかも本人が! 手助けはゼロではないが、入院しながらそういった書類をそろえることがいかに大変か。(行政書士に頼めば多少は軽減されるはずだが、そもそも難病で高額な医療費がかかっていて、本人は働くことなどできない状態なので、そういう依頼は現実的ではないのだろう。)

結局、医療も、役場のシステムも、苦しい立場にある人の事情など一切斟酌しない、非人間的な「制度」に基づいていたのだ。もちろんそこには、病人を救いたいと必死になって働いている有能な医師がいて、人に寄り添ってくれる役場の職員だっている。しかしそれでも、〇〇のためには〇〇が必要、と制度で決まっていればそれを出してもらう必要があるし、あるいは〇〇はできるけど〇〇はできない、と決まっていれば、どんなに患者がそれを求めていても与えることはできない。「制度」にとっては、個別の事情など知ったこっちゃないのである。

では頼れるのは両親や友人なのか? 実はそれも違う。著者は東北の生まれで両親は働いており(そうしないと医療費も払えない)、日常的に頼ることはできない。それに親はいつかは亡くなる。一方、友人はそれなりにいるが何か月間も「あれを持ってきて、これを買ってきて」と頼るうちに、すっかりと援助を依存するようになってしまった。いくら死にかけた友人のためとはいえ、何か月も無償でこまごまとした用事をこなしていれば、関係がギクシャクしていくのは自然なことだった。

そうして著者は「頼れるものは、最後は制度しかないのだ」と悟る。制度は、大量の書類というモンスターを片付けなければ使えないし、それ自体が穴だらけで、非人間的な仕組みかもしれないが、結局、困ってる人を継続的に救ってくれるのは制度だけなのだ。これは難民支援の現場でも同じだった。難民は善意の人の支援を期待しない。使える「制度」を利用する以外、生きていく道はないのだ。

こうして、本書は、次々に襲ってくる「制度」との戦い、というカフカ的な不条理を描きながら、皮肉なことに、その「制度」とやらをうまく利用するしか生きるすべがない、というところへたどり着く。それが結論的に書かれているわけではないが、私は本書をそういう風に読んだ。

ところで、もう死んだ方が楽だ、というようなひどい病気のさなかに「やっぱり、生きたい」と著者が思ったのは、闘病中にできた恋人のおかげである。生への意思は「愛」によって生まれ、それを現実化するのは「制度」なのだ。これは結婚でもなんでも同じかもしれない。珍しい難病、という極限状態にある人に、それが先鋭的な形で現れたのである。

本書は、病院を離れて(一応退院だが、病気が治ったわけではない)、一人暮らしを始めるところで筆が擱かれているが、その後についてインターネットで調べると、著者は明治学院大学大学院社会学研究科に入学して博士まで取得し、今は東京大学医科学研究所で研究員をしているそうだ。病気は多少寛解したのかもしれない。よかったよかった。

ちなみに本書は、難病(や制度)との戦いを描いているとは思えないくらい軽快な筆で書かれている。ところどころにジョークすら入る。単に自分の体験を描くだけでなくそれを客観的に描く知性とユーモア、そして余裕がある。(編集者が大いに助けたのだとしても)死にかけながら、こういうのを書けるのはすごいなと思った。

難病だけでなく、それに伴う「制度」との「仁義なき戦い」を描いた軽妙洒脱な本。


2022年1月1日土曜日

『定家明月記私抄』堀田 善衛 著

藤原定家の「明月記」を読む。

定家の「明月記」は、よく歴史書・研究書に引用され名高いものであるが、解読が必要な独特の漢文で書かれていることもあり、「少数の専門家を除いては、誰もが読み通したことがないという、それは異様な幻の書であった(あとがきより)」。

著者は戦時中に「明月記」の一文を知る。19歳の定家が記した「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ(=戦争なんて俺の知ったことか)」という言葉だ。時代の動きをとらえつつ、自己自身の在り方を昂然と記したこの言葉に著者は衝撃を受ける。まさに戦争によっていつ死ぬともしれぬ状況にいた著者は「この定家の日記を一目でも見ないで死んだのでは死んでも死に切れぬ(p.8)」と思い、なんとか日記を手に入れた。

しかしなかなかこの日記は難解であり、また退屈でもある。それは当時の日記は文学的なものではなく、有職故実(=しきたり)を「秘伝」として記録し後の世に備えるためのものであったからだ。よって儀式や行事があった際のやり方、服装、使われた器具などを事細かに記録するのが主目的だったのである。

ところが定家の日記はもちろんそれにとどまらない。60年間にわたって、彼は毎日日記を書き続けた。この執念は何に基づいていたか。定家は異常に細かい有職故実の記録を書き留めながら、やはりそこに人間性の発露とでも呼ぶべきものを記録した。本書は、それを丁寧に、一歩一歩読み解いていく本である(ちなみに執筆時に著者はバルセロナ在住であり、参考資料の手に入らない中、6年かかったという)。

一年一年、定家の日記に付き合っていくと、時代の大きな動きが克明に記録され、そこに翻弄されている様子もまた伝わってくる。「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と言って戦乱との距離を置いても、職業歌人としてのプライドからくだらない遊興を拒否しても、定家はやはり後鳥羽院に振り回され、宮廷をうまく立ち回ることでしか生きていけない二流貴族なのだ。

「明月記」にはその悲哀を感じさせる場面が多い。例えば、定家は所有する荘園から満足に貢納がやってこない、といったようなことだ。ちなみにこの頃の宮廷では官職には給与がない。無給なのである。荘園からの収入が頼みだ。その荘園が、現地管理人の横暴などで有名無実化していたのだ。これは当然、戦乱のせいである。これを改善するにはヤクザ者を派遣して力づくで上がりものを出させるか、それでなければ武家政権との関係を樹立する必要がある。「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と言っている場合ではなかった。

さらには、後鳥羽院が異常なほどエネルギッシュな君主であったことが、定家にとっては(というより多くの宮廷人にとって)災いした。後鳥羽院はこの混乱の時代を有り余るエネルギーで泳ぎながら、次から次へ遊びまくったのである。しかもその「遊び」は競馬、相撲、蹴鞠、闘鶏、囲碁、双六、別邸と庭園の建造…何をしても規格外であり、その遊びに付き合わなければならない宮廷人にとってはたまったものではない。

そして彼らの芸術(=和歌)は、そうした冴えない現実からはすっかり遊離した抽象的なものになっていた。定家が頭角を現した「初学百首」などは、京に餓死者が4万2千以上も放置された養和の大飢饉のさなかに詠まれるのである。宮廷人たちは、社会が阿鼻叫喚になっているというのに、そんなことはどこ吹く風と「遊び」に興じていたのである。だが定家にとって歌は「遊び」ではなかった。彼にとっては歌が本気も本気、歌だけは二流であってはならなかった。歌が彼の存在を支えていた。

では定家の歌、というか当時の歌はどんなものだったか。著者の評価は両義的だ。歌は現実から遊離して、本歌取りといういわば「二次創作」のような手法が普通となり、言葉の上だけの抽象芸術、美のための美となっていた。このように高度に抽象的な言語芸術は、同時代の世界を見回しても存在しない。しかしながらそのために歌は真の意味での創造力を失ってもいた。そしてまさにその抽象言語芸術の極限にいたのが定家だった。定家は自身困窮に喘ぎながら、優にして雅、鑑賞にも繊細な感性を必要とする玄妙な歌を作っていたのである。

それは最初は十分に評価されず「達磨歌」などと誹られたが、「初度百首和歌」が後鳥羽院に認められ、後鳥羽院直属の歌人となる。定家が39歳の時だった。さらに定家は正四位に叙せられる。またこの頃、新古今的な作風を確立して、歌におけるピークを迎えた。しかし同時に「作歌について深甚な倦怠感をもちつづけている(p.168)」。

しばらくすると、どうやら経済面でも上向いてくる。念願だった左近衛権中将にも任じられる。これでも官位は低く、自分の息子ほどの若輩と肩を並べなくてはならない。今や定家がつまらない現実に飽いている様子がはっきりと日記に感じられる。父俊成の90歳の祝賀とそれに続く一大遊興も、日記に全く記されていない。日記には無学な宮廷人への罵詈雑言が書かれる。それでも、定家は宮廷人として生きるしかない。まさにそれこそが定家という人物を興味深くしている。

そしてついに新古今和歌集の編纂が彼の人生に入ってくる。職業歌人として譲れぬものがあったにしろ、後鳥羽院の壮大な計画に定家は巻き込まれ、彼はうんざりさせられる。後鳥羽院の情熱は驚くべきもので、歌の入れ替え(切継)はなんと11年も蜿蜒と続いたからだ。しかも歌を入れるかどうかが人事のようになり、選考は思うままにならなかった。

本書は定家48歳(承元3年=1209)の日記までで擱筆されている。続きは続編にて。

それにしても、本書はある意味で単なる日記の読解なのであるが、めっぽう面白い。定家はジャーナリストとしての才能もあった人らしく、当時の事件が詳説されるうえに、他の宮廷人とは一歩引いた彼独自の観点から書かれるのがスパイスとなっている。また、定家には例えば「方丈記」とか「愚管抄」が持っているような大局的な批評精神・歴史観はなく、あくまでも宮廷の中で呻吟している人、つまり現場にいる人であることがかえって面白みを加えていると思う。

堀田善衛がそういう「読み」を共有してくれたことは非常にありがたかった。この本のおかげで、「明月記」は我々がアクセスできるものとなったのである。

「明月記」を蘇生させた、優れた読解の文学。

※文中ページ数は単行本版のもの。


【関連書籍の読書メモ】
『時代と人間』堀田 善衛 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/06/blog-post_16.html
「時代の観察者」を通じて、人間について深く考えさせる優れた本。

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