鹿児島県薩摩半島南部(南薩)における灌漑事業を中心として、農業や暮らしについてエッセイ的に語る本。
著者は鹿児島県庁にかつて勤め、南薩における灌漑事業を手がけた人物。今は、農業のテーマパークである「アグリランドえい」に附設された学習施設である「畑の郷 水土利館(みどりかん)」の管理人を務める。
私は、本書をフォトエッセイ的なものかと思って手に取ったのだが、実際には写真と文章はあまり関係がなく、写真はいわば刺身のツマとして添えられるに過ぎない(ちなみに写真は頴娃に住む写真家の東 桂子さんという人の作品)。中心は、南薩の灌漑事業を推進した著者が、実際に事業の行方を見つめながらいろいろ感じたことや考えたことである。
灌漑事業自体は、大規模な畑地を形成し、生産性の高い農業を実現できたという点で成功したけれども、人々が生きる条件が変わったことで集落のありようも少しずつ変わっていき、非常に大きな影響を及ぼしたということに関しては功罪がある。昔の悲惨な農民の暮らしということを思う時、灌漑事業は大きな価値があった、と著者は振り返り、基本的にその価値を今でも信じているのであるが、どうもそうとも言い切れない部分があるのか、あるいは灌漑事業だけでなく、個々の農業経営まで地道に革新していく努力をもう少しすればよかったという後悔があるのか、少し文章の歯切れが悪い。
だが、その歯切れの悪さというか、言い訳じみた部分が本書の魅力の一つでもあり、県庁の担当者が思う南薩の灌漑事業を垣間見ることができる。本書において、著者はエッセイ風に灌漑事業そのものには関係がないことや、少し気の利いた文明批評的なことをも書こうとするのであるが、正直なところ、その部分はあまり面白いものではない。見方が凡庸で、オヤジの床屋談義の域を出ないような退屈なものだ。面白いのはいかにも役所風な記載のところで、データと建前論的な無味乾燥な文章が続くけれども、ここは実直に書いていて、さすが元担当者というか、現場にいた人間の息づかいが感じられる。
読み物として面白いものでもないが、あと何十年かして南薩の灌漑事業について振り返る時が来たら、必ず繙かれるべき本であると思う。このような資料的価値が高い本が、鹿児島県内の図書館にはほとんど置かれていないというのはゆゆしきことである。ちなみに、鹿児島市にあるジュンク堂書店には在庫がたくさんあったようなので必要な方はそちらでお買い求めありたい。
2013年6月21日金曜日
2013年6月4日火曜日
『僧侶と海商たちの東シナ海』 榎本 渉 著
9-14世紀の日本と中国大陸間の僧侶の動きを追った本。
私自身の興味としては、僧侶よりむしろ海商の方にあり、この期間に海商たちが東シナ海においてどのような活動を繰り広げていたのか、という疑問を念頭に置いて読み始めたのであるが、実際には海商についての記載は少ない。
著者はもともと仏教史の専門家ではなかったが、必要に迫られて仏教側の史料を読み込むうち、ちゃんとした記録がたくさん残っていてこれをその他の史料と対照することでより具体的な渡航の姿がわかるということに気づき、次第に仏教史側へと傾いていった。本書では、むしろ僧侶の動きが話の筋になっており、海商はそれにスパイスを添える存在に過ぎない。
そして本書で述べられる僧侶と海商の関係を一言で要約すれば、「遣唐使以降は、日中間には海商の日常的往来があり、それによって僧侶が移動することができた。また僧侶は海商経由で大陸の情報を入れることも多かった」となるだろう。つまり、海商は僧侶の渡航のツールとしてしか描かれていないのである。
そういうことで、本書では、あくまでも僧侶が主人公であるために、私が期待していたような海商の実態はほとんどわからなかったし、僧侶に関する記載もかなりマニアックなことが多く、著者自身の研究ノート的な、やや散漫な記載も見受けられる。素人考えだが、著者の専門の通り、海商の動向を中心に据えつつ、僧侶を脇役にして描いた方が、完成度の高い本になったような気がしてならない。
僧侶の渡航の実態については詳細な記述があるので、そこを知りたい向きにはよいだろうが、タイトルが内容と乖離している本。
私自身の興味としては、僧侶よりむしろ海商の方にあり、この期間に海商たちが東シナ海においてどのような活動を繰り広げていたのか、という疑問を念頭に置いて読み始めたのであるが、実際には海商についての記載は少ない。
著者はもともと仏教史の専門家ではなかったが、必要に迫られて仏教側の史料を読み込むうち、ちゃんとした記録がたくさん残っていてこれをその他の史料と対照することでより具体的な渡航の姿がわかるということに気づき、次第に仏教史側へと傾いていった。本書では、むしろ僧侶の動きが話の筋になっており、海商はそれにスパイスを添える存在に過ぎない。
そして本書で述べられる僧侶と海商の関係を一言で要約すれば、「遣唐使以降は、日中間には海商の日常的往来があり、それによって僧侶が移動することができた。また僧侶は海商経由で大陸の情報を入れることも多かった」となるだろう。つまり、海商は僧侶の渡航のツールとしてしか描かれていないのである。
そういうことで、本書では、あくまでも僧侶が主人公であるために、私が期待していたような海商の実態はほとんどわからなかったし、僧侶に関する記載もかなりマニアックなことが多く、著者自身の研究ノート的な、やや散漫な記載も見受けられる。素人考えだが、著者の専門の通り、海商の動向を中心に据えつつ、僧侶を脇役にして描いた方が、完成度の高い本になったような気がしてならない。
僧侶の渡航の実態については詳細な記述があるので、そこを知りたい向きにはよいだろうが、タイトルが内容と乖離している本。
2013年6月2日日曜日
『幸せに暮らす集落―鹿児島県土喰集落の人々と共に―』ジェフリー・S・アイリッシュ 著
著者は世界的な一流大学であるエール大学を出て清水建設に入社、その後なんと甑島に移住し漁師の仕事をしばらくした後、ハーバード大学と京都大学の大学院で民俗学を学び、1998年から川辺の土喰(つちくれ)集落というところに移り住んだ。翻訳や論文の編集、講演で生計を立てながら、この限界集落の小組合長(自治会長)も務めるという、なんというか超弩級の変わりモノである。
その内容は、変わりモノの著者自身に関する部分はあまりなく、集落の日々の様子、おばあちゃんやおじいちゃんから聞いた話、そして後半は、集落の人間がどう死んでいったかというもので、特にこれというところはないのに引き込まれる。著者の人を見る暖かい目、それに細やかな観察眼、深い思索に裏打ちされながらも素朴にまとめられた文章が心地よい。
この本には、教訓めいた部分はほとんどなく、日本の片隅で静かに滅びゆく小さな集落の日常が淡々と描かれるだけである。それなのに、人間にとってとても普遍的な何かが伝わってくるような気がする。それが何なのか、明確に述べるのは難しい。内容を要約できる本ではなく、完成された文学のように、何も言っていないのに何か大事なことが述べられている本。
2013年5月19日日曜日
『砂糖の世界史』川北 稔 著
砂糖の生産と消費の動向を巡って世界史を逍遙する本。
岩波ジュニア新書ということで、その語り口は極めて平易なのであるが、内容は充実していて、砂糖という「世界商品」を巡って歴史が動いていく様子が生き生きと描かれている。
著者はイマニュエル・ウォーラーステインのいう「世界システム」、すなわち近代世界をひとつながりのものと認識する考えを援用しつつ、サトウキビの生産が不可避的に奴隷労働と植民地を生み出し、植民地のみならず本国の歴史すら動かす大きな力となったことを解き明かす。
こうしたことは、概略的には高校の世界史あたりでも習うことではあるが、著者の筆致は非常に具体的であって、一般論に陥ることなく、当時の事情から「どうして今ある世界はそうなっているのか」を説明している。
砂糖、という具体的な商材にフォーカスすることで、「世界システム」をリアリティをもって感じることができる内容である。モノが語る世界史、というのは個人的に注目していたが、本書を読んでこれからいくつかその類の本を読んでみたいと思わされた。
大げさに言えば、歴史を学ぶ醍醐味を感じることのできる本だろう。
【関連書籍】
『砂糖百科』高田 明和、橋本 仁、伊藤 汎 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/09/blog-post_9.html
砂糖についての科学的知識を網羅的に提供してくれる本。
砂糖についてたった一冊で深く知ることができる。
岩波ジュニア新書ということで、その語り口は極めて平易なのであるが、内容は充実していて、砂糖という「世界商品」を巡って歴史が動いていく様子が生き生きと描かれている。
著者はイマニュエル・ウォーラーステインのいう「世界システム」、すなわち近代世界をひとつながりのものと認識する考えを援用しつつ、サトウキビの生産が不可避的に奴隷労働と植民地を生み出し、植民地のみならず本国の歴史すら動かす大きな力となったことを解き明かす。
こうしたことは、概略的には高校の世界史あたりでも習うことではあるが、著者の筆致は非常に具体的であって、一般論に陥ることなく、当時の事情から「どうして今ある世界はそうなっているのか」を説明している。
砂糖、という具体的な商材にフォーカスすることで、「世界システム」をリアリティをもって感じることができる内容である。モノが語る世界史、というのは個人的に注目していたが、本書を読んでこれからいくつかその類の本を読んでみたいと思わされた。
大げさに言えば、歴史を学ぶ醍醐味を感じることのできる本だろう。
【関連書籍】
『砂糖百科』高田 明和、橋本 仁、伊藤 汎 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/09/blog-post_9.html
砂糖についての科学的知識を網羅的に提供してくれる本。
砂糖についてたった一冊で深く知ることができる。
『山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰』吉野 裕子 著
著者の主張によれば、山の神信仰には2つの考え方が影響しているという。第1に祖霊信仰としての原始蛇信仰。第2に五行説による猪信仰だ。
原始蛇信仰については、別の著書で著書はより詳細に論じているので、本書ではサワリを紹介する感じになっているが、正直なところあまり説得的な論拠は呈示されない。蛇が信仰された理由も、「蛇は男根型だから信仰された」というようなあまりに一面的な見方をされており、例証する様々な事例も牽強付会の謗りを免れないものであって、極めて不用意である。それにしても、著者は細長いものを見るとすぐに「男根型」を想起するのであるが、もう少し慎重に検証をしてもらいたいと思う。
猪信仰については、陰陽五行説において太陰にあてられる亥が山の神に見立てられたのではという推測から、山の神信仰の謎を解き明かしている。これは見方として独自なものがあり、興味深い点も多い。しかしながら、やはり結論が先にありきで例証をつまみ食いしている感が強い。
そもそも全体の調子が、推測を重ねながらそれをすぐに断定へと変化させ、軽々しく「謎が解けた」とする部分が多く、学術的に未熟である。処女作の『扇』ではそういう素人的な見方が面白かったが、著作を重ねてもそういう軽挙妄動を繰り返しているのを見ると、この人はずっと素人としての研究者だったのだなと感じる。もちろんそれが面白い部分もあるが、基本的には一部の好事家が喜ぶだけのものに終わってしまっている。
本書は書き下ろしではなく各誌に発表した論考をまとめたものであり、全体的なまとまりもイマイチである。学術文庫で900円は、正直過大評価と思う。見るべき部分もたくさんあるが、学問的な未熟さや軽率さが先に目に付いてしまう本。
2013年5月10日金曜日
『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
神仏分離と廃仏毀釈については大体理解しているつもりだったが、基礎的事実をちゃんと押さえておこうと思い本書を手に取った。少しいかがわしい(?)書名とは裏腹に、堅実な書きぶりであって、目から鱗が落ちるというわけにはいかないが、基本事項の復習にはよい。
本書によって改めて認識させられたのは、神仏分離はともかく、廃仏毀釈については元々明治政府の企図するところではなかったということだ。地方政府が中央政府の意を汲んで、というよりも深読みをして、また僧侶に対してやや不満を持っていた社人たちが率先して行った、暴動的な、偶発的な現象ということができる。平たく言えば、廃仏毀釈とは地方政府のフライングであろう。それは明治政府がむしろこれを規制し、勝手に廃仏をしないようにと諫めていることでも分かる。
ところで、この廃仏毀釈という逆風に対してかなり粘り強く立ち回ったのが浄土真宗であり、それがゆえに廃仏後の回復が早く、結果として信徒を多く獲得するに至ったということは特筆すべき現象のように思われる。本書では、このあたりのことはごく軽く触れられるに過ぎないが、もう少し浄土真宗(特に西本願寺派)の動向を詳しく知りたいものである。
全体として、概説書であるために詳細な説明はなされないが、神仏分離にしろ廃仏毀釈にしろ、概略だけではよくわからない部分もあり、隔靴掻痒の感は否めない。特にそれを感じるのは、これらについて定量的な記載があまりないことで、全国でどれくらいの社寺がなくなったのか、というような事がわからないことだ。というような不満はあるものの、新書としては大変水準が高く、コストパフォーマンスが優れている本。
2013年5月8日水曜日
『道教史』 窪 徳忠 著

著者は道教研究の泰斗である窪 徳忠氏。1977年の出版ということで、近年注目を浴びて急に研究が進展してきた道教に関する著作としてはやや心許ないところもあるのだが(随所に「今後の研究に期待」と書いてある)、平易かつ実直に道教の歴史が纏められており、この分野の基本文献と呼べるだろう。
私自身の興味としては、宋代の道教に関心があって読み始めたのだが、それ以外の時代に関しても目から鱗が落ちるような記載がたくさんあり、蒙を啓かれる思いであった。
本書を通読して大変印象に残るのは、古来より仏教と道教はあまり区別されておらず、互いに大いに影響し合いながら発展してきたということだ。道教は民間信仰に立脚していたため、仏教のような体系的な教義や布教組織を持たない時代が長かった。だからきっと仏教に対抗意識があったのではと思いがちだが、著者によるとそうとも言えないという。むしろ仏教寺院に神仙の像が置かれたり、僧侶が道観(道教のお寺)で修行したりするなど、仏教側からの交流も盛んだったようだ。もちろん、道教側については言うに及ばず、神仙のみならず仏像も礼拝したのであった。
さらには、禅宗と道教の類似も言われてみれば著しいものがあり、禅宗とはある意味で道教化した仏教なのではないかと思うほどだ。ちなみに、宋代には儒仏道の三教を糾合させたようなコンセプトを持つ全真教が登場し、ここに道教と仏教の垣根は限りなく低くなったのであった。
本書は非常に勉強になるが、もちろん足りない部分もある。その一つが図像発展の歴史がほぼ全く取り上げられていないことである。本書が語る歴史のメインは時の政権と道教の関係にあり、 これはこれで重要だがビジュアルの情報がほとんどないのは残念だ。とはいっても、これはようやく中国に渡航できるようになった時代に出版されているわけだから、テキストベースの研究がメインになるのはしょうがない。
そしてもう一つが、教義史や政治史ではなく、民衆と道教との関わりがあまり丁寧に扱われていないことだ。民衆の信仰は文字に書かれないものだから、これもしょうがない面があるが、どのような社会階層の人が、どうしてその宗教を信仰したのか、というのは宗教学的には大変重要なことと思われるので、こういう面をもっと具体的に語れるように研究が進展して欲しいと願うばかりである。
いろいろと不完全なところはあるにせよ、本書はおそらく初めて纏められた一般向けの道教通史であり、その読みやすさ、情報量、そして著者の見識も含め全てが水準が高い。道教を深く知ろうと思ったら、必ず手に取るべき本であると思う。
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