2024年7月20日土曜日

『宗教以前』高取 正男・橋本 峰雄 著

近代以前の宗教意識を民俗から探る本。

本書は、「民俗から見た日本人の宗教意識」を考えた1967年のNHKの番組「宗教の時間」を基にまとめたものである。著者の二人は、番組では対談したのではないかと思うが、どんな番組であったのかは本書からはわからない。また、著者二人の担当部分が明確に分けられているわけではなく、全章が二人で書いた体裁になっている。

本書の前半は、様々な民俗を取り上げている。主なものを挙げると、(1)死穢を避けること、(2)女人(特に出産出産)を穢れたものとする意識、(3)名前のない神(土間の神)を祀る行為と名前のある神(座敷の神)を祀る行為の併存、(4)神仏習合などである。

特に強調されるのは(3)で、神道では神はとらえどころのないもの(=「神道不測」)であったとされ、より正確には、「土間の神」「座敷の神」に「天皇神」を加えた三重構造であったという。

次に、神道の基層にあるシャーマニズムが取り上げられる。日本の神はしばしば託宣し、それはシャーマンによって伝えられる。古代には託宣が頻発したため、国家は卜占によって託宣の虚実を判定したほどだ。中世になると託宣が見られなくなるのに代わり、夢想・夢告が多くなる。また中世には神仏の性格の違いが明確になり、「神仏の分業」の体制が成立したとする。

次に、産土神と祖先祭祀が取り上げられる。産土神は共同体の神であり、祖先は家の神である。家の者が死ぬと、その魂は一年の一定の時期に家に戻ってきて祭りを受けるという観念があった。しばらくたつと、その魂は固有の名前を失って漠然と「祖先」となった。私が興味を抱くのは、祖先祭祀は果たしてそんなに古い民俗なのだろうか、ということである。さらには、産土神への信仰と、祖先祭祀はどのような関係であったのだろうか。

祖先祭祀は家の形態と深い関係があることは言うまでもない。著者は「西日本の開発の古い地域には同族の組織はもともとなかったのではなかろうか(p.158)」と述べているが、同族組織がなければ当然祖先祭祀もない。また、祖先祭祀は父系の意識が強く、しばしば女性を排除した祭りが行われるが、「古い時代ほど女性が神祭に重要な役割を果たした(同)」ことを考えると、父系の祖先祭祀は後発の民俗であることは間違いない。

逆に、「父母双系出自を重視すれば(中略)、通婚範囲である一定地域、したがって村落全体に拡散する(p.159)」。小さな村なら、何代かさかのぼれば全員が親戚ということになってしまうかもしれず、産土神と祖先祭祀は一致するのである。これは極端な仮定であるが、祖先祭祀や産土神は自明なものではないのである。

また本書では、柳田国男の祖先崇拝の理論(『祖先の話』)を批判的に紹介している。その要点は「極端ないいかたをして一言でいえば、柳田氏は日本の神々すべてを祖霊に還元する(p.163)」が、一方で「日本人の古い宗教が家父長制的な「家」の観念から出発したものであるかは、きわめて疑問(p.165)」だということに尽きる。柳田国男の宗教観には、家の祭祀から国家の祭祀までがつながる国家神道的なものが濃厚だ。

さらに日本人の死生観が世界の諸宗教と比べられ、特に「祖先祭祀」「魂の不死/普遍・個」「輪廻」「顕幽交通」の4つの観点から分析されている。「日本の宗教の特異な点は、死者の霊魂のあの世での浄化を、生者がこの世から援助できるということであろう(p.195)」という指摘は面白い。ただ、これは厳密に言えば正しくないような気はする(例えば、チベット仏教にもあると思う)。そして著者は葬式仏教を積極的に評価するが、その死生観は現代の日本人にまともに受け取られていないとして、仏教は「家の宗教という外面的な宗教から必然的に個人の内面的な宗教に転換ないし回帰せねばならなくなっている(p.198)」という。

最後に、国家・科学・宗教の相互の関係が西欧社会(キリスト教社会)と対比しつつ整理される。しかしそれは歴史的にどうであったかということよりも、これからの宗教はどうあらねばならないか、ということが中心だ。ここは、同時多発テロやその後のイスラーム社会とキリスト教社会の反目などを知っている現代のわれわれからすると、ずいぶん理念的で楽観的な宗教の将来像と言わざるを得ない。

全体として本書は、(おそらく橋本による)哲学や宗教学の考察が展開されながらも、本格的な論考に入る前に話題が移ってしまうようなところがあり、なんだか消化不良な読後感がある。ただしヒントになるような事例が随所に盛り込まれているのが面白い。一番面白かったのは、本書冒頭に紹介される、著者(おそらく高取)が昭和34年に奈良県で老人に猪狩りについて聞き取りをしたエピソードだ。老人は猪の習性について理路整然と語りつつ、「弾丸が逸れたときはどうするのか」との質問に対して平然と「そのときは暦をみる」といい「猪は暦でふさがっている方角へ逃げるから、そちらへ先まわりしてもう一度マチウチしたらよい」と答えたのである。これはもちろん迷信だ。だが、老人の中では猪の習性に対する経験的知識と、暦云々の迷信的知識は矛盾したものではなかったのだ。これは日本人のかつての生活態度を濃厚に残しているといえる。

本書を読みながら一番気にかかったのは、「宗教」なる概念を自明のものとしているところである。日本人はかつて「宗教」という概念で神仏を見ていたのではないし、「宗教」と「科学」という別の体系があるとも認識してはいなかった。だからこそ、本書はタイトルに「宗教以前」を掲げているのである。そして「「宗教以前」は、いわゆる近代の宗教「以前」、前近代の宗教を意味している(p.26)」というが、「宗教以前」のなかに「前近代の宗教」という「宗教」が入っているのは、概念整理の結果とはいえ、いささかおかしい。

結局、「宗教以前」を取り扱うにあたり、「宗教」を自明なものとしていることが違和感の元にある。「日本人の民俗宗教」とはいったいどのような「宗教」なのか。このあたりのことを曖昧にして、西欧社会との対比を中心に民俗文化を分析しているので、何か地に足がつかないものを感じるのである。とはいえ、1963年に出版されたものであることを考えると、本書は当時としてはかなり多角的に民俗文化を捉えたものとして評価できる。先駆的と言って差し支えないであろう。名著とされるのもゆえなしとしない。

「宗教以前」の考察は少し物足りないが、日本の民俗文化を考え直すヒントに溢れた先駆的な本。

※引用のページ数は原著のNHKブックス版による。

【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

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2024年7月17日水曜日

『近世の仏教―華ひらく思想と文化』末木 文美士 著

近世の仏教の概説。

辻善之助の『日本仏教史』において、近世の仏教は堕落していたとされ、それが通説となってきた。近世の仏教界は檀家制度に安住し、僧侶は戒律を守らず肉食妻帯し、思想的な発展もなかったのだと。しかしそれは一面的な見方だと今では修正が必要になっている。転機になったのはヘルマン・オームスの『徳川イデオロギー』だ。歴史を振り返れば戒律を守っていない僧侶はいつでもいたし、近世に仏教の学問的発展がなかったわけでもない。そこで近世の仏教について改めて総合的に捉えたのが本書である。

中世末期は、非常に宗教の力が強かった。浄土真宗(一向一揆)が約1世紀の間、加賀国に宗教国家を実現させたのはその象徴である。日蓮門流が京都の自治権を獲得したものそうである。よって強大な宗教勢力を打破することが近世の統一政権樹立にあたって必要であり、そのために近世では強力な宗教統制が行われた。

江戸幕府では本末制度が定められて、本山から末端寺院までが上下関係で結ばれ、本山を幕府が抑えるという形ができあがった。またキリシタン対策のために、民衆は必ずどこかの寺の檀家になるという寺壇制度が整えられた(仏式以外の葬祭は禁止された)。幕府の政策に直接影響を与えたわけではないが、鈴木正三がこの理念を非常に近い形で提示している。それは寺院を世俗社会に役立てようとする企てであった。

さらに幕府は、家康を神格化した。それには家康・秀忠・家光三代の師として権勢を振るった天海の影響が大きい。彼の影響で家康を天台宗の山王一実神道(日光中心の新しい山王神道)の形式で日光東照宮に祀るようになり、また寛永寺が仏教界の中心となった。なお日光東照宮に色濃い現世主義の基盤には、中世の本覚思想の影響があるのではないかと著者はいう。

近世は儒教の時代だと言われることがある。藤原惺窩や林羅山は禅寺を出て儒者になっており、仏教から儒教への流れがあったことは間違いない。しかし儒者は僧侶のような独自の集団をつくれず、また日本社会は儒教を全面的に受容してもいなかった。林羅山と松永貞徳(不受不施派の日蓮宗の在家信者)による儒仏の優劣を争った論争で、来世の問題が取り上げられているのは興味深い。儒教では祖先祭祀を重視するが、なぜ祖先祭祀が必要なのかという理由を突き詰めれば、死後の観念に行きつかざるを得ないからである。羅山は天海の山王一実神道に対抗して理当心地神道を唱え、『本朝神社考』を著わすなど、神道を神仏習合から解放するとともに天皇に結び付けようとした。

キリスト教への対応はどうか。日本人は戦国時代末にはキリスト教に好意的で、ザビエルもまた日本人に好感を持った。しかし特に地獄や創造神をめぐる日本人の疑問は宣教師たちにも手ごわいものであった。そんな中ハビアンの『妙貞問答』で仏教とキリスト教が比較されキリスト教が選ばれているのが面白い。そこでは、「仏教の立場に立つ以上、極楽であっても本当の実在ではない(p.72)」から後生の願いはむなしい。キリスト教の方が死後の幸せを実現できる、といった論法がとられている。ところが、その後の禁教政策もあり、キリスト教批判の書が多くなり、ハビアンも棄教した。

江戸幕府の成立時は、中国では明と清の交代期にあたっていた。明末は仏教復興の機運があった時代で、この時代の仏教が日本に直接入って来た。その中心となったのが隠元隆琦である。隠元はたびたび日本側からの招請を受け来日。宇治に黄檗山万福寺を建立し、黄檗宗(臨済宗の一派)を伝えた。万福寺は純中国風の寺院で、13代までは中国僧が住持を勤めた。黄檗宗は社会活動を重視し、また教学の振興を図った。近世仏教の多様な側面を支えたのは黄檗宗である。隠元は分かりやすく理路整然と教えを説いた。「娑婆・極楽は只当人の心念浄染(しんねんじょうぜん)の間にあり(p.83)」とする唯心主義的な教説は注目される。

江戸時代には、日本で初めて大蔵経が開版された。まずは天台宗の宗存が着手し、それを天海が上野の寛永寺に経局を設けて完成させた。民間では、隠元に学んだ鉄眼道光が大規模な募金活動を展開して資金を集めて完成させた。初刷は後水尾天皇に献上されている。この普及に力を尽くしたのが同じく黄檗宗の了翁道覚。彼は欲望を断つために男根を断ち、左の小指を叩き砕いたが、その痛みを抑えるために調合した薬(錦袋円)がヒット商品となった。彼はこの売上で鉄眼版を各宗の寺院に寄進したのである。そして大蔵経は死蔵されたのではなく、学問に活用された。

この他にも、妙心寺の道忠は中国語の俗語に通じて、理解が困難だった禅籍を正確に読み込んだ。これは荻生徂徠の古文辞学と通じる成果だった。卍元師蛮は通宗派的な『本朝高僧伝』をまとめた。

このように、「近世前半の仏教界はきわめて活気に満ちて、全国規模で大きな事業が起され、成果を挙げ(p.101)」た。特に印刷物の流通は、写本による口伝の継承よりも、公開された合理的な解釈が力を持つようになった。それにより批判的な仏教解釈もなされるようになる。

霊空光謙は本覚思想を批判した。東照大権現には、中世天台の檀那流の「玄旨帰命壇」の本尊である摩多羅神が家康とともに祀られているが、霊空はこれを『闢邪編』で批判。本覚思想でありのままを肯定するのは、善を勧め、悪を止む仏の教えと相容れないというのである。本覚思想の批判は広がりをもち、そこから浄土とは何かという問題も引き出された。

近世には、各宗派で戒律の復興運動が行われた。その中でも大きな問題となったのは天台宗の安楽律運動である。これは霊空光謙らが、最澄以来の大乗戒だけでなく、中国で正統とされた四分律も必要だとして政治的に運動したものである。権力闘争の末、安楽律派が勝利したが、こうした運動が行われた根底には「釈尊への復帰」がある。徳門普寂は宗派の枠にはまらず、小乗を再評価した南山律宗への復帰を唱えた。彼の主著『顕揚正法復古集』では仏教を歴史的に把握し、小乗に回帰することを志向した。

慈雲飲光(おんこう)も、「正しい作法に則った仏法に復古することの必要を痛感(p.117)」して、戒律復興に取り組み、また『梵学津梁』一千巻を著してサンスクリットの研究をまとめた。彼の十善戒は著名である。また、神道の研究も行っており、「雲伝神道」と呼ばれる独自の神道説を完成させた。 

鳳潭僧濬(そうしゅん)は、「鉄眼、霊空という当代最新の仏教を学び、それをもとに先入観に捉われない独自の仏典解釈を展開した(p.120)」。それは中国華厳の系譜を検証し、第四、五祖を認めないというものだった。伝統的に認められた相承説を堂々と否定したのは画期的だ。なお、普寂は鳳潭の学問を受け継ぎつつも批判も加えている。

富永仲基は、教団外から仏教を研究して、各種の経典は釈尊が説いたものではなく、歴史的に形成されたものであるという画期的な説を提唱した(『出定後語』)。そして仲基は釈迦の教えの原形、つまり原始仏教を志向した。これは普寂と同様の考えであるが、普寂が大乗仏教も仏教と考えたのと違い、仲基は大乗仏教は仏教(釈迦が説いた教え)ではないという衝撃的な結論に至り、仏教の信仰の前提を壊した。

このような仏教の原点に帰ろうとする運動とは別に、世俗道徳を肯定する仏教も盛んになった。その先駆けになったのは鈴木正三で、彼は『万民徳用』で日常の暮らしがそのまま仏道修行であるとしている(「修行ノ為ニハ奉公ニ過タル事ナシ」)。近世中期には、盤珪永琢や白隠はわかりやすく庶民に禅の教えを説いた。彼らの教えは難しい仏教教理ではなく、世俗倫理や封建体制を前提とする善悪を基本とするものだった。真宗でも『妙好人伝』に代表される、模範となる篤信者が称揚された。仏教者から封建体制を乗り越える言説は現れなかった。

近世に排仏論も盛んになった。儒教の方で大きな問題になったのが、先述した来世の扱いで、新井白石は『鬼神論』で仏教の輪廻説を批判した。魂の輪廻では祖先崇拝、家の倫理は成り立たない。祖先の善悪が積み重なって子孫に及ぶ、と考えなければならないからだ。だが儒教ではどうしても死後の問題が曖昧であった。そこで平田篤胤は『鬼神新論』を著し、新たな霊魂観を提唱している。

一方、仏教側は排仏論に対抗し、神仏儒の調和を説いた。これは世俗倫理を前提とする反論である。また三教一致の典拠として『先代旧事本紀大成経』が用いられた。これは実は黄檗宗の潮音道海が神道家水野采女と制作した偽書であり、禁書となったにもかかわらず広く流布した。

ところで、こうした宗教界は外国人からどう見えていたか。エンゲルベルト・ケンペルはドイツ人の医師で、オランダ商館付の医師として長崎に5年間滞在した。その間の日本研究をまとめたのが大著『日本誌』である。この本の第三部には宗教についてまとめられているが、神道に関する記述が大部分を占め、仏教はあまり触れられていない。シーボルトの『日本』でも、やはり神道のほうが中心である。ただし、『日本』では土佐秀信の仏教図鑑『仏像図彙』のドイツ語訳が付録として収録されており、これは単なる翻訳を超えた学術的な成果である。これはシーボルトの助手ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンの仕事である。外国人は、仏教を認知しつつも、神道をより重要な宗教として認識していた。

しかし仏教の信仰には、意外と広がりがあった。『近世畸人伝』では貧困の中に自由な生き方をした僧・出家者がたくさん登場する。仏道修行をする女性も多く、本書では大奥で仏法を説き心の在り方を重視し形式的な参禅を批判した祖心尼、柳沢吉保の側室で我が子を三人失うという過酷な経験から実践的に禅を深めた橘染子が取り上げられている。

そのほか、民衆の間ではご利益を求めて多様な神仏が信仰され、巡礼・遍路も盛んになった。仏教とは違うが、近世には妖怪の存在がクローズアップされてくるのも面白い現象である。また旧来の宗教に飽き足らず、如来教や天理教など新しい宗教が幕末に起こってくるのも注目される。しかもそこに世界創造の最高神が措定されているのは、仏教にない考えが求められていることを示唆する。

造形については、鉈彫りの円空や、素朴な木喰などが注目される。また白隠や仙厓の自由な禅画など、民衆的で従来の枠にはまらない表現がなされるのが近世の特徴である。

これまで述べたように、近世の仏教は、封建制肯定の側面はあったが、ずっと停滞していたわけではない。しかしながら、幕末には次第に活力を失っていった。その代わりに勃興したのが、国学であり、それは時代を逆行する観がある霊魂論や神話を伴っていた。

本書は、おそらくは近世仏教の初めての概説書であり、それだけで価値が高い。しかし200ページ余りの小著に抑えるため、各事項についてはかなり簡潔にまとめている印象である。もう少し詳しく書いてほしかった項目は多い。特に後半は駆け足であったような気がする。また、辻善之助以来の近世仏教研究では、制度面が割と大きく取り上げられてきた。本書ではおそらくそこを意識的に捨象し、これまで看過されがちだった教学の面を大きく取り扱っている。例えば門跡寺院とか、触頭寺院のようなものは本書では取り上げられないが、門跡寺院に残された華麗な文化については記述があってもよかったかもしれない。

とはいえ、本書は興味深いことが盛りだくさんで、特に前半はたいへん参考になった。

近世仏教の世界を平易に案内する試論。

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2024年7月12日金曜日

『中世芸能講義――「勧進」「天皇」「連歌」「禅」』松岡 心平 著

中世の芸能について、勧進・天皇・連歌・禅の視点から語る本。

本書の原著(『中世芸能を読む』)は、岩波セミナーで講義した速記録を加筆修正したもので、それを若干修正し4つのコラムを付け加えたのが本書である。

勧進

勧進は、近年様々な面で注目されている。中世、勧進聖は一種の企業体・商社のような集団を形成し、お金を集め、プロジェクトを行って、再配分していくような流れがあった。そのモデルになったのが重源の大仏再建である。意外だったのは重源が「南無阿弥陀仏」という名前を名乗っていることだ。阿弥号を持つハシリなのだ。

勧進の際、お金がちゃんとプロジェクトに投資されるという信頼がなければ金は集まらない。その信頼をつくったのは律僧だと著者はいう。戒律を厳粛に守るからお金にクリーンだったというのだ。一方、重源は律僧でなく、なぜ重源が信頼されたのか不明な面もあるという(やはり入宋三度が信用をつくっていたのかも)。

勧進の背景には、貨幣経済の進展もある。中国から大量の銭が入ってきたのだ。中世には徴税のシステムが脆弱で、小さな国家であったことも、勧進が重用される理由だった。融通大念仏会のような大規模な宗教イベントを勧進聖がプロデュースし、そこにはいろんな芸能者も集められた。金を集めるには人呼びが必要だからである。これが興行型勧進である。さらには勧進聖自身が芸能化していくことになった。なお、こうしたイベントでは、仏教的には正統ではない「亡者の供養のため」が目的として押し出されている。勧進の性質上、民衆の需要に沿った来世観になっているのが興味深い。

芸能化した勧進聖としては、まず「踊り念仏」の一遍と、踊る説教師の自然居士(じねんこじ)が注目される。彼らは身体的パフォーマンスを仏教に持ち込んだが、当然ながらこれは旧仏教(天台宗)から強く批判された(『天狗草紙』)。自然居士が、有髪だったというのは面白い。「ヒッピー的な禅者といっていい(p.48)」。

文保元年(1317)、勧進興行に猿楽が参加した最初の例が現れる(『嘉元記』)。そこでは法隆寺の神社(惣社)で法華八講(法華経を八座に分けて購読する法会)が行われ、合わせて猿楽の太夫が芸をしているのである。著者は、このように勧進興行に芸能が入っていって「宗教的な磁場からあぶり出され(p.52)」て成立したのが複式夢幻能だと考えている。勧進聖たちの話を踏まえた劇にすることで複式夢幻能が生まれたというのだ。また、その場はギャラもとてもよかったと考えられ、芸能の側はそれで活性化したと考えられる。

天皇

著者は能楽の成立を天皇制や国家との関係に注目して語っているが、あまり明快ではなく正直よくわからなかった。まず、触穢思想が取り上げられ、天皇を中心とする同心円状に穢れが排除されていたとする。天皇は清浄であらねばならなかったからである。では、能楽の元になった猿楽はどうであったか。著者は「芸能者としての猿楽もまた、穢れの側にいる存在と考えられていただろうと思います(p.84)」としているが、実ははっきりしない。

一応、天皇から遠ざけられていたと思われる猿楽が、どうして国家の芸能になり、能になっていったか。それを解く鍵は仮面にあると著者は考える。猿楽では仮面はなく、能になってから仮面劇となっている。この仮面は、修正会の追儺(ついな)から来ているのではないか。院政期には、法勝寺など大寺院が天皇によって建立され、そこで国家の行事として修正会が行われた。修正会は一週間ほど行われたが、その間には法会だけでなく様々なパフォーマンスがあったらしい。そこに芸能者が「呪師」として関与していたのである。最終日に行われる追儺は、悪鬼を追い払う儀式であるが、その悪鬼の役を務めたのがステータスの低かった猿楽であると推測される(詳細は「毘那夜迦考」)。

そして追儺は、法会の中で最も重要なパートであり、諒闇(天皇の喪中)でも行われていた。本来、穢れた賤民として天皇から最も遠ざけられるはずだった猿楽が、悪鬼を演じるために仮面をつけて国家の中枢に入り込んだことが、能の成立につながったというのである。ただし、同時代に朝鮮半島でも仮面戯が成立していることも視野に入れる必要がある。

連歌

中世は連歌の時代でもあった。上皇から庶民まで連歌に熱狂したのが中世である。連歌は5・7・5と7・7の句を繋いでいく芸能であるが、重要なのは場面の転換である。その基盤となったのは本歌取り。本歌の世界を単に踏まえるだけでなく、その意味をズラしたり読み替えたりして変換することで、新しい世界を構築するのが本歌取りであった。次々に場面を転換させていく面白さが連歌を成立させた。

しかし連歌は、なんでも句を継いでいけばいいというのではなく、宗匠が司り、また煩わし規則があり、宗匠が認めなければ句が却下された。連歌は当初こそ貴顕の人々の遊びであったが、そういうルールがあったからこそ、人々は身分の上下に捉われず、優れた句を認めるようになったのだろう。連歌の一大行事が「花の下(もと)連歌」と呼ばれる、枝垂桜の木の下で行われるお花見兼大連歌会である。これは一般大衆にも開かれた場で(一般ギャラリーからも自由に句を出してよかった)、しかも採用された句には懸賞がかけられた。「かなりいいものがかけられたに違いない(p.134)」という。

花の下連歌は1240年頃から百年ほど盛んに行われた。その場として重要なのが法勝寺や毘沙門堂である。ここで、世俗の身分がある程度無効化される寺院という場が新しい文化の揺籃の地となっていることは注目される。

花の下連歌が寺院で行われたのには、「花鎮め」の要素もある。桜の花びらが散る頃に疫神がまき散らされるため、それを鎮めるというものだ。そこには枝垂桜の下には冥界があるという意識がある。花の下連歌は、この冥界の霊たちを鎮めるための花見であり、どんちゃん騒ぎであり、芸能なのである。連歌の一座を構成する宗匠や連衆は、主に念仏聖だったことも注目される。14世紀からは、連歌の中心は北野神社に移ったが、北野天神を本尊としてその前で連歌会を催したのも怨霊鎮魂の意味があるのだろう。「連歌自体の面白さが呪術力をも生む(p.164)」。

なお、一揆(新しい社会結合)も連歌とのかかわりが深い。誰でも参加できる連歌が、徐々に人々のサークル(連歌講)とつながっていくのが面白い。逆ではないのだ。

禅は、日本文化に大きな影響を与えた……とされているが、それは「考えられているようで、じつはあまりちゃんと考えられていないところでもある(p.171)」とし、著者はいわば試論として、禅と日本文化の関わりを述べている。

禅は、日本にとってかつてないインターナショナルなものだった。村井章介は、13世紀中頃からの約100年間を「渡来僧の世紀」と呼んでいるが、中国からエリート僧が来て、日本からも中国へ盛んに留学した。中国僧(例えば竺仙梵遷)も日本語を解し、また日本僧も中国語を話した。京都では従来の仏教の力が強く禅はストレートには入ってこなかったが、鎌倉へはかなり大量に入っていった。そして東国の武士たちはこれに強く影響されるのである。その一つの象徴が、禅宗風の遺偈を詠んで死ぬ人が多くなったことである。禅は日本人の新たな死のスタイルをさえもたらした。

禅と連歌にも関連がある…と著者はいうが、具体的にはっきりとはわからない。一瞬の勝負の連続という連歌の性質が禅と通じるところがある、ということのようだ。連歌は鎌倉でも流行した。

鎌倉で生まれた早歌(そうか)は、「日本の歌謡史上革命的な歌謡(p.214)」である。それまでの歌では母音を長く伸ばして詠唱していたのを、八拍子のリズムをとって一字一音で歌いこんでいくのが早歌である。これを演劇に取り込んでいったのが観阿弥であり世阿弥で、「早歌というベースがなければ能の謡も可能にならなかったというくらいの大きな革命(p.218)」である。ただし禅とのかかわりは不明である。

鎌倉では、闘犬と田楽が流行したのも注目される。田楽とはアクロバチックな身体芸である。また、闘犬については『太平記』では鎌倉の町に4、5千匹も犬がいたとされ、それは誇張としても、かなり多くの犬が飼われ、しかもそこには「錦を着たる奇犬」がいたというのだから面白い。この時代、早いスピードで行われる、派手な芸能が人気となっていったということだ。こういう趨勢がバサラ文化を生む。

禅といえば幽玄とか侘び寂びと思いがちだが、「禅は感覚的なレベルでも精神的なレベルでも、バサラのきらびやかでエキセントリックな、日本文化全体からすると異質な文化と思われている文化を支えていた可能性がある(p.225)」。

著者はこのように指摘するものの、禅と日本文化のかかわりについては、先述のように試論的であることを差し引いても、明快さに欠け、一面的であるように感じた。例えば茶については法華宗が大きな存在感があったし、芸能では阿弥衆のことは看過できない。禅が日本文化にインターナショナルな新しい要素をもたらしたことを強調するあまり、それ以外の要素が過度に捨象されているように感じた。

本書は全体として、講義の文字起こしであるため大変読みやすい。しかしそれだけに、記述はあまり論理的でない。、特に「天皇」と「禅」については話があっちにいったりこっちに行ったりしており、「結局どういうことだったんだろう」とわからなくなった。

ただ、そうはいってもいろいろ面白いことが述べられていて、特に芸能における法勝寺の重要性については蒙を啓かされた思いである。平安京遷都以降、国家仏教に懲りていたのか、天皇家は仏教と一定の距離を置いていたが、白河天皇はこの政策を転換し、巨大寺院を建立して六勝寺の先駆けとなった。これにより、天皇―寺院―一般民衆というクロスオーバーな場ができたのではというのが本書の面白い視点で、もしかしたら賤民が皇子を始祖として仰いだり、賤民的芸能民が朝廷とつながったりすることの淵源はこのあたりにあったのかもしれないと思った。

論理的一貫性はいまいちだが、読みやすく刺激的な講義録。

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2024年7月10日水曜日

『もう一つの中世像――比丘尼・御伽草子・来世』バーバラ・ルーシュ 著

女性や絵解きなど、看過されがちだったものに光を当てる論文集。

著者のバーバラ・ルーシュは、コロンビア大学の大学院生だった時、京都大学に在籍して中世の小説の研究をしていた。そして京都で偶然、浮世絵を扱う古物商らしきイギリス人と食堂で出会い、奈良絵本について語り合う。そしてそのイギリス人は「アイルランドのダブリンにある小さな図書館に、そういう作品がたくさんあったはずだ」と言った。この不確かな情報は、著者の心にひっかかる。そもそも、奈良絵本について知っている外国人がいるだけでびっくりなのだ。そして著者はアイルランドに行き、ほうぼうで訪ね歩いて、それがチェスタービーティ図書館であることを突き止め、たくさんの中世の絵巻物が無造作に所蔵されていることを発見するのである。

この劇的なエピソードは、中世の絵入り絵本について著者が本格的に研究するきっかけとなり、著者は後に第1回奈良絵本国際研究会議を発足させることになるのである。

こうした奇縁もあって、著者は、日本で顧みられていなかったものを、女性で外国人、という二重のマイノリティの目で発見していった。それをまとめたのが本書である。

本書で提起されるそれらのものの第1は、尼僧である。中世、実に多くの女性が剃髪した。しかし尼僧や尼寺の歴史はいまだ本格的に研究されていない。「中世社会で尼僧であるとはどういうことであったのか。尼寺というのはそもそもどういう制度であったのか。実はこれらについては誰にも正確なことはわかっていない(p.12)」。

本書ではケーススタディ的に無外如大が取り上げられる。彼女は無学祖元のもとで禅を学び、その後継者となり、京都に景愛寺を建てた(応仁の乱で焼失されたと伝えられる)。旧仏教では、「女性は罪深く悟りに達することはできない」とされていたが、鎌倉新仏教の諸派では「仏の慈悲は男女の別なく及ぶ」と説き、道元は徹底して男女平等の立場に立った。こういう趨勢の中で無外が現れた。彼女の生涯は、恵信尼、阿仏尼(『十六夜日記』や『うたたねの記』の作者)、『とはずがたり』を書いた二条殿とも重なっている。

阿仏尼や二条殿は、出家する前は貴族だったが、「二人が尼になったことの意味、尼僧としての生活といった面はまだ誰も十分な検討を加え(p.20)」ていない。しかし中世では、女性が出家すれば、母とか妻といった枠組みから離れ、自由で独立した、いわば社会規範から逸脱した生き方をすることが受け入れられていたのだとは言える。これは「一つの解放の道」「革命的な自由の道(p.24)」であった。

第2に取り上げられるのは、中世文学である。これは著者の専門であるだけに多面的に語られる。中世文学は、それが広く語られるものであったということが平安時代のサロン文学と著しい対照をなす。絵解法師や熊野比丘尼は絵解きし、琵琶法師や瞽女(ごぜ)は謡った。写本の流通よりも、それを「上演」する者の移動によって広まったのが中世文学である。そしでその上演に携わったものが、宗教的遊行芸人であったことは注意される。著者は中世文学(絵巻と絵冊子(奈良絵本))こそ「日本最初の国民文学」だという。

そしてそれらの物語は、特に神仏の加護がテーマになっていた。「一寸法師は住吉明神の申し子であり、物ぐさ太郎は善光寺の申し子(p.147)」なのだ。成功の秘訣は、神仏の加護にあり、しかもそれは求めて得られるというよりも、運命的なものなのだ。「中世文学の中心的な原動力は運命であり、野心ではなかった(p.148)」。そして、それらを読むことは、どうやら神聖な力を呼び起こすと考えられていたようだ。『物ぐさ太郎』では、その結語部で少なくとも日に一度音読するように勧めているが、これはそうすることで「所有者を護り、ご利益をもたらすお守りだった(p.167)」からに違いない。『物ぐさ太郎』だけでなく、熊野比丘尼たちが配布した小冊子にも魔術的宗教的性質があったし、「神仏の前で病いが治ることを願って能楽や連歌を奉納した例(p.170)」は多い。芸能は一種の呪術なのだ。

なお、これを上演する者が各地に移動することができたのは、古代よりもずっと移動が容易になっていたからだ。また中世人は新しい経済観念を持ち、起業家的な行動をするものが現れた。観音や大黒、恵比須、毘沙門天といった現世利益的な神が人気となったのも経済観念と関係があろう。

「こうして中世は、日本全土にはじめて共通の神々が生まれた時代だった。(中略)一つには巡礼、二つには労働を通じて、(中略)あらゆる土地の人々を、いわば全国的な信者のネットワークへと結びつけることになったのである(p.43)」。大げさにいえば、この共通の神が、一つの国としての日本をつくった。

第3には、女性芸能者が取り上げられる。あずさ巫女、傀儡子(くぐつ)、そして傀儡子から派生したとみられる白拍子など。「平安時代末期以後の歌謡や舞の分野では、少なくともその重要なジャンルはすべて、今様にしろ小歌にしろ(中略)あるいはややのちの、人形浄瑠璃、歌舞伎、そして三味線語りなど、みななんらかの形で女性の歌い手、踊り手の影響を帯びている形跡があるという事実(p.57)」がある。

第4に、平家物語を創作した明石覚一について。平家物語は誰でも知っているが、なぜかその作者覚一はあまり知られていない。覚一は書写山で仏道修行し、盲目になってからはそこで琵琶法師として修練を積んだ。そして平氏と源氏の戦いの歴史を、勧善懲悪的ではなく、仏教的な無常観で編集し、女性への救済を織り交ぜ、新しい神話といえる作品を作り上げた。著者はこれをバッハの作品に比している。これは初めての国民的叙事詩であった。「これほど広範な規模で厖大な人々に語りかけ、訴えかけた作品(p.77)」はかつてなかった。

このほか、顧みられていないものではないが、中世の来世観が取り上げられる。これは短いながら的確な指摘が多い。通説とは違い、日本人は輪廻転生を額面通りには受容せず、来世観は「みごとに非論理的で(p.252)」折衷的であったと著者はいう。そして「今日の学者に従えば当時の人々がひろく受け入れていたはずのパラダイムを、むしろ軽蔑しているように思われる場合すら少なくはない(p.216)」。『源氏物語』でも六道が言及されるのは1カ所であり、「宿業の結果」と述べられてもそれが惨めな境遇に生まれ変わることを意味してはいない。死んだ人の霊魂はいつまでも現世にとどまり続けるというのが普通の感じ方だったのだ。

そして、極楽という存在は、美徳に対する報奨としてではなく、「ごく普通の人間が、特別に徳が深くなくとも、親にも似た仏や菩薩の慈悲によって、恩恵として往生できる所(p.230)」とされることが多い。仏教の来世観の中で、人々を救済したのは極楽の観念であったと著者は考える。黄泉の国や常世の国よりも、死者が極楽で憩うと考えることは悲しみをやわらげただろう。

一方、地獄については、「地獄破り」という新しいテーマが注目される。地獄に赴いた武者が、地獄の連中を打ち負かすという話だ。『義経地獄破』や『朝比奈物語』がそれにあたる。そこに示されるのは、僧や宗派の力など借りなくても閻魔大王や鬼を打ち負かすことができるということで、つまり地獄が超越的でない存在だと認識されているのである。

中世は地獄や六道が絵画にたくさん描かれ、しばしば暗黒時代とされてきた。しかし多彩な明るい絵巻も同じくらいたくさんある。「庶民の姿は、なるほど見すぼらしい身なりではあるにしても活気があり、いかにも健康な雰囲気がある(p.250)」。

本書は全体として、中世の思想を通説とは別の面から述べるものとなっている。だがその主張は穏当で、非常に説得的である。私自身の興味としては、尼僧や尼寺について興味があり本書を手に取ったが、その重要性を主張しつつも「研究がまだ進んでいない」として具体論はほとんどなかった。本書の刊行は1991年。それから30年以上が経過しているが、現在でも尼についてはあまり研究が進展していない。ただし尼門跡の研究は次第に進んだ(著者も研究に取り組んだ)。

なお本書は翻訳ではなく、著者自身が日本語で執筆した。第1回南方熊楠賞・第7回青山なお賞受賞。本書を含め、尼門跡寺院の研究などが認められ、著者は第18回山片蟠桃賞を受賞している。

尼や奈良絵本の重要性について指摘した慧眼の書。

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2024年7月2日火曜日

『橙書店にて』田尻 久子 著

橙(だいだい)書店を訪れるお客さんを描いたエッセイ。

私自身は行ったことがないが、熊本の街中に、橙書店という本屋兼喫茶店がある。ここは、故渡辺京二さんが主筆(みたいな立場)だった『アルテリ』という雑誌の編集室であり、各種の文化的な催しが行われるなど、熊本の文化の拠点のような書店である。

【参考】橙書店
https://zakkacafe-orange.com/

橙書店は、個人経営の小さな書店である。それが、どうして熊本の文化の拠点になったのだろうか。私はそれが知りたくて本書を手に取った。

しかし、本書は橙書店そのもののことは意外と書いていない。店主であり著者である田尻さんのプライベートなことや、経営についての考えなどもほとんど全くと言っていいほど書いていない。というのは、本書(の原著である晶文社版)は、編集者から「お客さんのことを書いてください」と言われて制作されたものだからだ。お客さんの話題以外があまり書いていないのはしょうがない。

しかし、私は橙書店そのものに興味がある。というわけで、本書に書いていないことに注意して、橙書店がなぜ文化の拠点となりえたのか考えてみたい。だが予め断っておくと、書いていない内容について読み解くのは本の読み方としては邪道である。当然ながら、本は書いてあることを味わうのが一番だ。

第1に、本書にはお金の話がほとんど出てこない。自営業者がエッセイを書くと、別に書きたくなくてもお金の話が出てくるものだ。お客さんのことがテーマであるにしても。だが本書で唯一あった金の話は、移転前の橙書店の家賃はかなり高くて支払いに苦労した、ということのみだった。

第2に、本書には「本が売れない」という話が全く出てこない。全国的に、本屋の経営は厳しく、本が売れないという話題には事欠かない。にもかかわらず、本書では本が売れた話しか出てこないのだ。橙書店では本がドンドン売れているということだろうか。もしかしたらそうなのかもしれない。しかしそうではない可能性の方が高い。

第3に、本書には社会や政治や世の中の風潮に対する非難がましい言葉が全く出てこない。橙書店は弱者に寄り添った選書がされているらしい(お客さんの一人が言っている)。水俣病患者とか、震災被害者とか、戦災者といったものに着目した本が選ばれているんだとか。著者の政治的志向といったことは本書に全く述べられていないが、現今の日本政府に不満がないわけがない。また、文化事業に取り組んでいる人はみな、「文化関係の予算が少ない」とか、「メディアが権力者寄りすぎる」とか、「みんなスマホばかり見ている」といった社会全般に対する不満やボヤキを抱いている。しかし、本書にはそうした不満やボヤキは一切ないのだ。もしかしたら、こうした記述は削除する編集方針だったのかもしれない。だが私には、著者が意図的にこうした言説を避けているように思われた。

第4に、本書にはお客さんへの感謝の言葉がない。これは一番意外だった。普通、店主がこういうエッセイを書くと、ことあるごとに「当店はお客様に恵まれて」とか「続けられたのもお客様のおかげ」といった文章を書いてしまう。ところが本書には一切これがない。上記1~3については、テーマがお客さんだから書かれていないのだろう、とも受け取れるが、これについては明らかに著者の人となりに基づいている。

では、著者はお客さんに感謝していないのか。これは本書を読むと明らかだが、著者は「店主」と「客」という枠組を全く意識していない(あるいは意識的に排除している)。要するに、「客」を「客」として見ていない。「店主は不愛想だ」といって憚らないのも、営業スマイルをしないからだと受け取れる。店主は、お客をあくまでも固有の名前(多くの場合それはあだ名)を持つ人として認識し、初対面でこそ「客」かもしれないが、すぐに それは「仲間」に変わってしまう。本書は「お客さんのことを書いてください」と言われて執筆されたものだが、実際には「客」ではなく「仲間」のことを書いている。だからわざわざ感謝の言葉など出てこないのである。

それが傍証されるのが、店主は年間300日は差し入れをもらう、という記述である。確かに店をしていると、意外なほど差し入れをもらう。しかし年間300日は異常だ。これは、お客さんの方も店主を「店主」としてではなく、「仲間」として認識している証である。

つまり、橙書店では「店主」と「客」ではない、「仲間」同士のサークルが形成されている。文化的な活動に不可欠なのが、この「サークル」なのだ。いかに見識の高い「文化人」が一人いたところで、文化は生まれない。文化の成長に必要なのは、日常に飽き足らない想いを抱いている人たちで構成されたサークルだ。橙書店には、それがある。

では、どうして橙書店にはそういうサークルが形成されたのだろうか。一番知りたい、この部分が本書ではわからない。店主田尻さんの人柄によるのはもちろんで、その分け隔てなさや面倒見の良さが効いていることは想像に難くないが、それだけでは説明が困難だ。

というわけで、ここからは完全に邪推の領域になるが、ちょっと思ったことを書いてみたい。

さて、先述の通り、本書には、いかにも書いてありそうなことが書いていないという不思議な特徴がある。だいたい、こういう書店の店主というのは変わり者であるのが定番なのに、変わり者を彷彿とさせる記述がほとんどないのも考えてみれば不思議だ。唯一それを感じたのは、喫茶店兼雑貨屋をやっていて、隣の空き物件で本屋をやったら面白いと考え、衝動的に物件を借りるところくらいである(その後、移転して現在の店舗になる)。スタッフにも一言も相談がなかったそうだから、これはなかなか変わっている。だがそれくらいなのだ。著者の変わり者エピソードは。

これらから示唆されるものは何か? それは、本書が極めて抑制的に書かれたということではないだろうか。つまり、自然体で書いたのではなく、何を書くべきで何を書くべきでないのか、著者は注意深く取捨選択しているのである。であれば、著者が「世間」というものに全幅の信頼を置かず、「確実に理解されるものだけ書いておこう」という慎重な姿勢で本書を執筆したということになる。

仮にそうだとして、「仲間」たちとの間でもそのような態度であるかはわからない。たぶん違うのだろう。だが本書から受ける印象では、著者は「仲間」たちとの間でさえ、いわば「名物店主」として自由気ままに放談している印象はない。大勢の「仲間」に囲まれ、刺激的な企画の渦中にありながらも、著者の心の奥底には「本当の私をわかってくれる人はいない」というような、そこはかとない孤独感があるように感じられる。

まさにその、そこはかとない孤独感こそが、人を引き付ける魅力になっている、ということなのかもしれない。なにしろ、文化の成長に必要なのはサークルであるが、そこに内心の孤独感がなければ、ただ騒いで終わりなだけの集まりになってしまうからである。

著者に物を書くのを勧めたのは渡辺京二さんだという。思ったことを何でもペラペラしゃべってしまう人に、渡辺京二さんが物を書くように勧めるとは思えない。そして、物を書くことは孤独を癒す。世界のどこかに、自分をわかってくれる人がいるかもしれないのだから。

読書メモなのに、内容を離れてずいぶん勝手な妄想を繰り広げてしまった。実際には全然違っていたらすみません。

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