2012年8月27日月曜日

『米・百姓・天皇 日本史の虚像のゆくえ』 網野 善彦、石井 進 著

日本史の水田中心主義に対して意義を唱えながらも、それに代わる見方も未熟で生煮えな本。

本書は日本史学者二人の対談であり、正直なところ、日本の歴史学界への単なる愚痴にすぎないところが多い。その意味で、極めて内輪的な本である。さらに、対談の中で体系的・理論的な主張がなされるわけではなく、床屋談義的に雑談が進むだけであって、内容も学術文庫にふさわしいレベルではない。

特に最大の問題は、従来の常識に対して意義を唱えながらも、それに代わる見方でどのようなことがわかるのかが全く見えないことで、「〜も重要だ」「〜にももっと注目すべきだ」などと言いながら、それに着目することによるメリットが全く説明されない。

本書のポイントは、
江戸時代は農本主義であったと考えられがちだが、これは百姓=農民ではないのに、いろいろな生業を全て農業にくくってしまうイメージ操作による部分がある。実際には農民の割合は40%程度であったと考えられ、百姓は様々な職業で生計を立てていたわけで、米だけに注目すると、漁業、林業、養蚕、果樹栽培などの重要な生業を見落とすことになる。米だけが注目されてきた理由は、律令国家の成立において租税体系の基礎に水田を措いたことの影響であろう。
と要約できると思う。

まあ、この主張自体はよい。だが、漁業、林業、養蚕、果樹栽培などに注目すると、何がわかるのだろうか? この本にはその説明は全くない。これらの分野は研究が進んでいないからよくわからない、というだけである。『甘藷の歴史』において鮮やかにその影響を描いた宮本常一とは何という違いだろうか。

その他にも、農業という用語の定義について何ページにも渡って議論したり、「日本」と「倭国」の使い分けについて議論したり、(学者にとっては意味があるのかもしれないが一般読者にとっては)非生産的で退屈な部分も散見される。興味深い部分もあるにはあるが、内容に重複が多く編集も雑な感じがするし、全体的に粗雑で生煮えな本と評価せざるを得ない。はっきり言って、タイトルが大げさすぎである。

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