2015年12月2日水曜日

糞尿の文学

『ガルガンチュアとパンタグリュエル』という、もう書名を目にした瞬間にうずうずしてしまうような偉大な文学作品がある。
 
この本を初めて見たのは神保町の古本屋だった。古びた岩波文庫の5冊揃い。渡辺一夫訳の伝説的な作品。

当時は絶版の岩波版がほとんど唯一の『ガルガンチュア』だったから、確か9000円くらいしたと思う。お金がない時で、当然買えなかった。神保町へ行くたび、もうちょっと安いセットはないものかと一時期は探していた。

ちくま文庫から宮下志朗訳が出版されたのが2005年。もちろんすぐに購入した。この世界文学史に燦然と輝く作品が、一体どのようなものなのか期待してページをめくったのを覚えている。

それは、期待以上の読書体験だった。この本は、とにかく、笑える。荒唐無稽な巨人王の生涯! ナンセンスと言葉遊びの嵐! 下品なことも高尚なこともごった煮にした、百科全書的で無秩序な物語。

鋭い社会風刺、文明批判、そういうものもあるが、それは横に措いてもとにかく面白い(もちろん理解すればもっと面白い)。16世紀のユマニスム——つまり「人間中心主義」が作品のありとあらゆるところに横溢している。「ガルガンチュア伝説」という中世的な素材を扱いながら、教条主義に凝り固まった無益な規矩から解き放たれた人間が「自由」を存分に謳歌する。ここでは優等生的な人間でなく、ありのままの人間そのもの(巨人だからスケールは桁外れだが)が主人公である。

ぜひ紹介したいのが第13章「グラングジェ、ある尻拭き方法を考案したガルガンチュアのすばらしいひらめきを知る」。主人公たる巨人のガルガンチュアは、この章では「何を使ったら一番気持ちよくお尻が拭けるか」を父上のグラングジェに講釈する。

ビロードのスカーフ、深紅のサテンでできた頭巾の耳当て、母上の手袋、で拭くのもまずまず宜しいそうである。逆にカボチャやほうれん草の葉っぱ、レタスやバラは気持ちよくないらしい。カーテン、クッション、ゲーム台、そういうものは気持ちよい。

最上のお尻拭きを明らかにする前に、ガルガンチュアは「脱糞人に雪隠が話しかける歌」をグラングジェに聞かせる。
うんち之助に、
びちぐそくん、
ぶう太郎に、
糞野まみれちゃん、
きみたちのきたないうんこが、
ぼたぼたと、
ぼくらの上に、
落ちてくる。
ばっちくて、
うんちだらけの、
おもらし野郎、
あんたの穴がなにもかも
ぱかんとお口を開けたのに、
ふかずに退散するなんて、
聖アントニウス熱で焼けちまえ!
すばらしい「世界文学」! 下品なものを下品なままで文学に表現出来るようになったのが、16世紀のユマニスムであるような気がする。ユマニスム万歳!

さらにガルガンチュアの試行錯誤は続く。おんどりやめんどり、子牛の皮、ウサギ、ハト、弁護士の書類袋などでも尻を拭いてみた。が、「しかしながら、結論として申しますれば、うぶ毛でおおわれたガチョウのひなにまさる尻拭き紙はないと主張いしたしたいのであります」とのことである!

フランソワ・ラブレー先生の世界文学上に名だたる作品が、こういう調子なのだから、これはもう驚きというより痛快な読書体験であった。ありのままの人間を描こうとするなら、その最も汚い部分、つまり排泄だって描く必要がある。人は誰でも食べてそして排泄する。我々は誰でも「うんち之助」であり「糞野まみれちゃん」なのである。

こういうテーマをそれまでの文学ではあまり扱ってこなかった。というより、未だにそうである。

でも世の中にはやっぱりそういうテーマで文学を書いてみようという人もいるもので、安岡章太郎はそういう作品だけを集めた『ウィタ・フンニョアリス』というアンソロジーを編んだ(これも題名が洒落ている。「ウィタ・フンニョアリス」はもちろん森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』のもじりだ)。

この本では、主に日本近代文学の書き手による糞尿やトイレを題材にした短編が集められており、芥川龍之介、谷崎潤一郎、吉行淳之介、北 杜夫、遠藤周作といった名前が並ぶ(『ガルガンチュア』の第13章も渡辺一夫訳で所収)。全体を通じて意外に思うのは、糞尿が汚いものという観念が薄く、厠の匂い(当然昔は水洗便所ではなかった)には一種の情緒すらあるという考えである。作家たちには、世の中が水洗便所に変わっていき、清潔第一になってしまったことが何か寂しいという郷愁があるようだ。

私などは水洗トイレの方がいいだろ! という現代人で、汲み取り式便所の匂いにどんな情緒があるのか理解できないが、明治や大正の文豪たちにとっては、糞尿は現代の人に比べてずっと身近なものだった。何しろ、昔(といってもそんなに昔ではない)は人糞は肥料として使われていたので、それは大切に集められていた。

以前、江戸時代の農書の勉強をしていたとき、「上農(上手な農家)はあたりかまわず小便をしない」というようなことが書かれていて、何のこっちゃと思ったら、小便はちゃんと溜めておいて肥料に使うべきで、畑の隅で立ち小便をしているようではダメだ、という意味だった。汚いからとか、はしたないから立ち小便をしてはダメということではないのである。

そういう次第だから、化学肥料と水洗便所以前の人たちにとっての糞尿は、今の私たちとは全然違うものとして認識されていた。だが化学肥料が利用できるようになると、自ずから糞尿は役立たずとなり、ただ穢らしいもの、処分すべきもの、できれば目にしたくないものに変わっていった。

そうした風潮に真っ向から異議申し立てをし、糞尿こそ世界を救うとのたまった学者がいる。中村 浩という人だ。

この人の『糞尿博士・世界漫遊記』という本は、めっぽう面白い。中村 浩は幼少の頃よりなぜか糞尿に心惹かれ、微生物学者となってからも「ウンコ博士」として糞尿の研究を続け、ついに糞尿からクロレラを培養して直接的に食糧生産する方法を編み出す。妖気漂う臭気芬々たる研究室から、「緑のパン」が生みだされたのだ。

この功績により、中村はソ連から招聘される。宇宙空間では糞尿はたくさん溜めておけないので、その水分を浄化し、栄養分を食糧生産に使えるなら、宇宙での長期滞在の役に立つ。そういうわけで、日本では奇人・変人扱いされていたウンコ博士が、ソ連へは重要人物として招聘されたのだった。このほか中村は、香港、インド、エジプト、イタリア、スイス、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカと巡り、各地で糞尿談義をふっかけるのである。

中村の夢は、糞尿という毎日生ずる大量の有機物を有効活用し、クロレラを中心とした食糧生産をすることで地球から飢えの心配をなくすという「食糧革命」なのだが、世界各地での彼の興味関心は、糞尿をどうやって排泄し、利用し、処分するかという実務的な面だけでなく、糞尿をどう語り、どう扱うかという文化的側面にまで渡っている。それどころか、本書には「糞尿からの文明批評」というべき風采があって、「糞尿をキタナイもの、イヤラシイものと目のかたきにしていては、人類の進歩はのぞみえない」とか、「人間は糞をひる葦である」といった面白い警句が並ぶ。しかもユーモアいっぱいの!

本書の白眉は、水と太陽と糞尿さえあれば人は自給自足できるんだ! という「食糧革命」の理論を証明するために、自らアリゾナ砂漠で「人体実験」をするくだり。砂漠の朽ちた一軒家に身を寄せて、小さな池を掘り、そこに糞尿を栄養としてクロレラや水草を培養、それらを食べて3ヶ月生きるという何ともワイルドな実験である。

そして中村は池を掘ってから3週間で自給自足の体制を整えた。農業だったらこうはいかない。自給自足できるのに1年はかかるし、その上かなりの面積が必要だ。たった5坪の池で大人一人が生きていくというのは、ものすごい生産性である。中村の夢見る「食糧革命」も絵空事ではないのだろう。

本書のエピローグにはこういう言葉がある。「人間の生活をみてみても、食べることには熱中するが、フンベンなどは口にするもいやらしいこととして葬りさっている。この誤った観念が今日の公害問題を引き起こしたのである。近代工業においても、生産品を高く売りつけて儲けることには熱中するが、工業廃棄物などはコッソリ始末してしまえという安易な考えがあった」その通りであると思う。

ところで、糞尿が社会から隠されてしまうと、逆にそれを覗き観たいと思う人が現れてくる。隠されたものを愛でる行為はそれだけで淫靡なものである。この世界にはそういう、糞尿をなぜだか偏愛している人たちがいて、スカトロジストと呼ばれている。

ある種のポルノビデオには、そういう人たちのための過激な排泄や糞尿表現があるだけでなく、糞便を食べることすらする。ちょっとここまでくると、厠の匂いの情緒とかそういう文学的なものから離れて、ただのゲテモノ趣味のようにも見える。

でも、知り合いからホンモノのスカトロジストの話を聞いてみたら、その活動(?)は結構真面目で、まず彼らはご飯をいただくというところからするそうだ。そのご飯が体内を通って、そして糞便になって出てくる。それをまたいただく——というのが私には全く理解できないが、そういう行為を通じて「生の営み」を実感するんだとかなんとか。

その話を聞いて、最高のスカトロ文学というのが何かひらめいた。それは、『Dr.スランプ(アラレちゃん)』である。アラレちゃんはいつもうんちを持って走り回っているが、それはアラレちゃんがロボットであるため自分には絶対にうんちができないからで、要するにアラレちゃんにとっての生命の象徴がうんちなのだ(と鳥山 明が実際に考えたのかどうか知らないがそういうことにしておく)。

うんちは汚いが、その汚さは人工的に生み出せるものではなく、生命にしか生み出しえない汚さなのである。だからアラレちゃんはうんちに憧れている。かつて、これほど純粋に糞尿に憧れる主人公を登場させた文学作品があっただろうか。

ラブレーが『アラレちゃん』を読んだら歯ぎしりするに違いない。糞尿への憧れが、ロボットによって表現されるなんて、なんて文学的なんだろうか!

2015年11月25日水曜日

『食と文化の謎』マーヴィン・ハリス 著、板橋 作美 訳

歴史・宗教・文化といったものからではなく、唯物論によって人が何を食べ、何を食べないかを説明する本。

インドでは牛が神聖視され食べられないし、一方イスラーム圏では豚が汚れたものとして忌避される。アメリカには馬はたくさんいるのにアメリカ人は馬肉を食べず、昆虫は西洋文明にとって身の毛もよだつ食材だ。ペットを食べるなどともってのほかと考える人もいれば、愛情たっぷりに育てたペットを食べるのは当然のことと考える人たちもいる。さらには、我々にとっては恐怖でしかない食人すら、全く公認されていた地域もあった。

こうした食文化の違いは、どうして生じたのか。これまでは、歴史や宗教の気まぐれ、そして合理的な思考ができない人々の遅れた考え方といったものがその原因ではないかと考えられがちだった。しかし、著者のマーヴィン・ハリスは、こうした一見つじつまが合わない食文化の多様性の背景には、そのものが食べるに適するか適さないかを支配するコスト・ベネフィットの構造、つまり合理性があるという。

例えば、インドで牛が食べられないのは、役畜として重要な役割を果たし、またミルクを供給しているから、 豚がイスラム圏で食べられないのは、中東に豚の飼育に適した森林が少なく、豚の餌が人間の食料と競合しているため、といった具合である(本書の説明を暴力的に簡略化しています)。つまり、その食料(になりうるもの)を生産・獲得するのに必要なコストと、それを食べることによるベネフィット(他の食料を生産しないで済むといったこと)を天秤に掛け、コスト・ベネフィットの帳尻が合うものは食べられるし、そうでないものは食べられないのだという。

著者の説明は、多くの場合非常に説得的である。人類学界では著者は「異端の人類学者」などと呼ばれ忌み嫌われているらしいが、私にとってはその論理は明解かつ合理的であって、別に「忌み嫌われる」要素があるとは思えなかった。それどころか、食の原価計算をするようなこうした無味乾燥で(!)唯物論的な考え方が、人類学の世界にもっと広まって欲しいと思う。

ただし、宗教的タブーに関する説明だけはちょっと疑問がある。例えば、インドでの殺牛のタブーである。インドでは牛は神聖なもので手厚く保護されており、牛を殺すことは重大な宗教的タブーであるが、それは著者の説明では牛を屠ることはインドではコストが高すぎるからだという。牛は棃を引いてくれる上に粗食に耐え、ミルクを出してくれる有り難い存在だから、食べることが罪になるというのだ。要するに、コスト的に引き合わないから殺牛はタブーになった、と著者は主張する。

これは一見もっともらしいが、「コスト的に引き合わないことをなぜあえてタブーにする必要があったのか」という新たな謎を生み、謎を謎で説明している感じがする。コスト的に引き合わないなら、別に禁止規定を設けなくても人はそれを積極的にしようとはしないだろう。実際、馬肉や昆虫食といった他の項目では、コスト的に引き合う時はそれらは食べられ、引き合わなくなったら食べられなくなる、といった説明がなされている。コスト的に引き合わないものをわざわざ禁止する道理はないのである。

ヒンズー教が牛を殺すことを重大な罪として禁止しているということは、禁止しなければ牛を殺して食べようという人たちが大勢いたはずだ。著者の言うことが正しいなら、そういう人たちはコスト的に引き合わないことを敢えてやろうとしていたということになるが、それはなんでなんだろうか。コスト的に引き合わないならそれは食べられなくなるのではないのか? これに対してはいろいろな説明ができることを承知してはいるし、本書にもそれなりに理屈を書いてはいるが、あまり説得的ではなく物足りなく思った。

もう一つの物足りない点は、本書で扱っているものが動物性タンパク質(要するに「肉」)ばかりで、野菜や果物、穀物といったものがほとんど登場しないことである。著者の主張はいろいろな食品に応用できるものだと思うので、肉以外の食品文化に「唯物論」を適用するとどのような説明が可能なのかは興味あることである。

タブーに関する説明は曖昧なところがあるが、食文化を経済面から解明する小気味よい本。

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2015年11月9日月曜日

『食の思想と行動』石毛直道 監修、豊川裕之 責任編集

本書は、「講座 食の文化」の一冊で、この叢書は味の素食の文化センターがやっている「食の文化フォーラム」の研究成果をまとめたものである。監修は、世界各地で実際に食べ歩いてフィールドワークをしてきた「鉄の胃袋」の異名を持つ石毛直道氏。

本書の構成は若干散漫なものである。元々、この叢書自体が研究の寄せ集めであるためさほど体系的でないが、「食の思想と行動」という大上段に構えたテーマからすると内容の方は少し物足りない。

まず、本巻の責任編集をしている豊川裕之氏の序章「複雑系としての食」は本巻全体に通底するパラダイム的なるものを示したものだが、これがあまりいただけない。多分、同氏は「複雑系」というものをあまり理解していないし、「複雑系」の視点によって食文化にどのような新たな知見がもたらされるのかも全く見通しがない。ただ、これまでの唯物論的・機械論的な食文化の分析だけでは解明できないことがある、と言いたいらしい。

しかし私の見るところ、食文化については唯物論的・機械論的な見方の研究すら端緒に付いたばかりの状況なので、こういう批判をしなくてはならない意味が分からなかった。

その他、「食の思想」を銘打つにはあまりに個別的な研究が多く、それぞれは興味深い部分もあるが全体としてまとまりがない。ただ、「食の思想」というテーマが非常に難しいものであるだけにしょうがないのかとも思う。しかしここに収録された多くの研究が、フィールドワークに基づいた具体的・帰納的・現実的な事実を蔑ろにしていて、理念的・演繹的・図式的な理解に留まるものであることは、そのテーマが「思想」であるにしても残念である。

「食」という非常に現実的な対象を扱うわけだから、あくまでも現実の食べ物を相手にして考察を行うべきであり、理屈をこねくり回すだけの研究はしてほしくない。確かに要素に分けていって分析するという旧来の科学の手法では、食文化という総合的な現象は解けないのかもしれない。しかし「食文化は複雑系なのだから、要素に分けないでありのままに考察すべきだ」というような主張からは、結局表面的な結論しか出てこないということが、本書により図らずも露呈した感じがする。

とはいえ、面白い論考も中にはある。「医食同源」は日本で作られた漢語だとして薬膳理解を促す「薬膳と医食同源の由来」(田中静一) 、日本での脚気研究の展開を見る「鷗外と高木兼寛」(山下光雄)、茶の湯がもたらした料理への影響を語る「つつしみの美—近世初頭にみる料理観の転回」(平田萬里遠)、日本近代文学における粗食派と美食派について語る「文学にみる粗食派と美食派」(大河内昭爾)などは面白く読んだ。

まとまりがなく玉石混淆な、食文化に関する論考集。

2015年11月1日日曜日

『今こそ伝えたい 子どもたちの戦中・戦後 小さな町の出来事と暮らし』 野崎 耕二 著

南さつま市万世に育った著者が、戦中・戦後の出来事を思い出して書いた画文集。

著者の野崎 耕二さんのことは、萬世酒造の展示施設「松鳴館」で知った。松鳴館は基本的には焼酎造りの見学をするところだが、最後のスペースに野崎さんが描いた絵が常設してあったのだ。芸術的にどうこうということはよくわからないが、昔の素朴な暮らしぶりが生き生きと描かれていて、すごく好感を持った(参考:南薩日乗の記事)。

本書は、その野崎さんがかつて執筆した『からいも育ち』という画文集を大幅に増補改訂したものである。私は『からいも育ち』を読んでいないのでどこが増補されているのか正確には分からないが、本書のあとがきによると「戦中・戦後のことを十分に伝えられなかったとの思いを、ずっと抱いてきました」とあるから、多分戦争の話が補われているのではないかと思う。

しかし著者が戦争を体験したのは主に小学校低学年の時で、10歳くらいの時の話なのに、よくここまでいろいろ覚えているものだと感心する。しかもエピソード的に覚えているだけでなく、記憶から呼び起こして絵まで描いているわけで、それだけ戦争というものが強く記憶に残る出来事だったのかもしれない。

本書では、「小さな町の出来事」が全て一人の少年(だった人)の視点で書かれている。戦争への批判もあるにはあるがそれは思い返してみればの話で、子どもの頃は意外と何もわかっていなかったということが率直に語られる。特攻というものを知らされずに学校で特攻隊の見送りをしたエピソードや、戦争が唐突に終わっていたという話(ラジオがなかったので玉音放送を聞いた人はほとんどいなかった)は当時の実情の象徴だと思った。

そしてそういう深刻な話があるかと思えば、かなりの紙幅を割いて当時興じた遊びの数々もいろいろと説明されている。松林で遊んだ思い出、虫や小動物を獲った思い出、大勢で遊んだ思い出、全てみずみずしく語られて、他人事ながらノスタルジックな気持ちになった。

それから、個人的な関心としては、やはり昔の農業のことがとても気になった。サツマイモ、小麦、大麦、米、カボチャといったものの栽 培方法がところどころで書かれていて興味深い。現在と違う部分もあれば、同じ部分もある。特にカボチャの立体栽培をしているのは大変気になるところで、な ぜ昔の人は敢えて立体栽培をしていたのか非常に疑問である。

万世の戦中・戦後を、一人の少年とともに追体験する本。

2015年10月25日日曜日

『李陵』護 雅夫 著

李陵の存在を手がかりにしながら、匈奴の社会について考察する本。

本書は、中島 敦の『李陵』に刺激されて書かかれたものである。 古代遊牧民族の研究者である著者は、中国人としての李陵の生き様だけでなく遊牧騎馬民族の視点も加えて李陵のことを語ってみたくなり、この書をものしたという。

李陵は、漢の武帝の厚い信頼を受け、軍隊を率いて匈奴と戦ったが、行き違いや勘違いから匈奴に寝返ったと誤解され、親族を誅殺されてしまう。 これに激怒した李陵は、その本心では漢へ戻りたかったにも関わらず、本当に匈奴へと寝返り、以後匈奴の忠臣として栄達することになる。一方、同じような境遇にあって匈奴へは寝返らず、あくまで漢の臣すなわち敵国人として匈奴の地で辛い生活に耐えた蘇武との鋭い対照もあって、李陵の物語は永く中国大陸で語られてきた。それ恰も、我が国における判官伝説のようなものであるという。

著者はこの物語の背景にある匈奴と漢の関係、言い換えれば遊牧民族国家と農耕民族国家の関係を考察する。李陵は、ただ匈奴へと投降したのではなく、単于(ぜんう)からの誘いを受けて匈奴の将軍となっているが、敵国人を将軍にするというのはどうしてか。

しかも独り李陵のみではなく、意外と多くの漢人が匈奴へと亡命し、匈奴社会において軍人や官僚として栄達の道を歩んでるのである。李陵も単于の娘を娶っており、相当な権勢を誇っていたようであるし、彼らは現代社会での亡命者のイメージとはかなり違う。

そして、それは漢人が優秀だったから遊牧民族社会で成功した、ということではおそらくない。それよりも、単于は積極的に漢人をリクルートしてポストを準備しており、かなりの数の漢人が匈奴に亡命して住んでいたらしいことを考えると、匈奴の社会構造自体が、亡命漢人の存在を前提にしたものだったように思われる。

なぜ匈奴の社会は亡命漢人を必要としたのか? 著者の考えはこうである。匈奴は文字を持たなかった。しかし広大な匈奴を文書を使わずに治めていくのは困難で、人口や生産力の把握といった基本的なことでも、文字がないととても管理しきれない。そこで漢人を官僚として使い、支配機構に組み込むことで国家体制を維持していたのではないか。

とするなら、匈奴と漢の戦いというと、遊牧民族と農耕民族の争い、というように見がちなのだが、それは妥当な見方ではなく、匈奴は遊牧民族と農耕民族のハイブリッドで出来た国家であり、漢なかりせば匈奴もなかったということになる。

ところで本書のエピローグは、まるで本編とは違うテーマのことが書かれていて、唐帝国と突厥、そしてそこに活躍したソグド人たちについて述べられている。実は私が本書を手に取ったのは、まさに護 雅夫がソグド人に深い関心を寄せていたからで、李陵を中国史からの視点だけではなく、中央アジア史からの視点から書いているのではないかと期待したからであった。

著者がエピローグでソグド人に触れているのは、突厥を内部で支えて(あるいは操って)いたのがソグド人だったからであり、突厥が遊牧民族とソグド人のハイブリッド国家であったとするなら、匈奴も遊牧民族と漢人のハイブリッド国家であったといえぬこともなかろう、と傍証する意図のようである。

本書は漢文に親しんだ人でないとちょっと読みにくいところがあり(読み下し文にはなっているが)、地の文も文語体になっているところがあって(中島 敦の影響だと思う)、そのテーマもやや専門的なので少し取っつきにくい本である。しかし遊牧民族国家というものを考える時、面白い切り口を提供していると思う。

文学でなく史学として李陵を考察した真面目な本。

2015年10月1日木曜日

『ハイパー・インフレの人類学:ジンバブエ「危機」下の多元的貨幣経済』早川 真悠 著

ジンバブエで著者が経験したハイパー・インフレについて見聞記的に語る本。

著者はジンバブエの大衆音楽の人類学的研究をするために同国へ滞在していた。そこで図らずもハイパー・インフレーションという異常事態を経験して音楽の研究どころではなくなり、研究テーマを急遽ハイパー・インフレに変更、ハイパー・インフレ下という混乱の中を自ら生きながら、社会がどのようになってしまうのかを現地で見つめ、博士論文として書いたのが本書(の元になったもの)である。

こういう言い方は不謹慎だが、ハイパー・インフレ下の社会の混乱は、はたから見る分には面白い!

ジンバブエのハイパー・インフレはもの凄いもので、2008年7月の公式統計では月間2600%ものインフレとなっていた。その後インフレがすさまじすぎてインフレ率を計算することもできなくなり公式統計が停止。インフレ末期の2009年11月では何と月間769億%ものインフレとなっていたと推計されている。これは年間インフレ率にすれば897垓(10の20乗)%という天文学的数字になる。

ここまで来ると「ものの値段が上がる」とか「お金が減価する」というような甘いものではなく、「経済自体が解体」されていってしまう。本書は、経済がどのように解体されていったのか、ということの観察が主要なパートになっている。

インフレも月間インフレ率50%〜150%あたりをうろうろしていた2007年頃は、人々はそれなりに対応していた。それどころか、こうした混乱を商機として零細な商売が活発にすらなった。サラリーマンや公務員は月給制であるためインフレには脆弱だが(何しろ1ヶ月で給料の価値が半分程度になる!)、その日暮らしの零細商売の場合は逆に強いからだ。

そして政府がインフレをコントロールしようとする価格統制などの措置が、さらに公式経済を衰退させた。実質的にインフレしているのに、価格統制されたら商売あがったりなわけで、スーパーマーケットからは商品が姿を消し、生活必需品にすら事欠く有様となった。こうした中、人々は露天商や闇市といった「非公式経済」に頼るようになり、携帯電話の通話カードを売る露天商が公務員やサラリーマンにお金を貸すようにもなってゆく。

インフレとは、ただお金の価値が減じていくだけではない。ジンバブエでは深刻なお札不足にも陥った。ジンバブエのお札はドイツの会社が印刷していたが、EUによる制裁措置(選挙での不正への罰則)としてドイツからお札を仕入れられなくなった。預金しておいてもどんどんお金の価値が下がってしまうので、インフレ下ではただでさえ人々は預金ではなく現金を持ちたがる。しかし現金を引き出そうとしてもお札が足りない!

これに対し政府は預金の引き出し制限を実施。引き出し上限額は当初はそれなりに合理的だったが(約60米ドル/日)、やがてインフレに応じて引き出し上限額をどんどん引き上げても追いつかなくなり、2008年7月には、1日の引き出し上限額では新聞を1部買うこともできなくなるという有様(1.1米ドル/日)。これでは給与生活者は、たとえ毎日銀行に並んでも生活に必要なお金を手に入れることが全くできなくなったのだ。

こうしてジンバブエでは預金と現金が「非公式には」全く違うものとして扱われた。額面価格は同じでも、預金でのお金と現金でのお金では、現金のお金の方が高い価値を持つものとされた。つまり現金と預金の間の闇の為替レートがあったわけだ。さらに、外貨との為替レートも公式レートと闇レートがあって、さまざまな価値尺度に公式と非公式が入り交じり、ものの価格を表すのに、預金ならいくら、現金ならいくら、外貨ならいくら、と様々な表現手段が用いられた。

このようになってくると、なぜ人々は価値の安定している外貨を使わないのか、という疑問が生じる。ジンバブエドルを手に入れたら、それをすぐに米ドルに替えるのが合理的な気がするが人々はそのようにはしない。本書のテーマの一つは、価値がすさまじい速さで減じていくジンバブエドルを人々がいつまでも使い続け、外貨経済に移行しないのはなぜなのか、ということである。

ただ、これについては現地の状況を見てみるとそこまで不思議なことでもないらしい。というのは、外貨はその経済にとって例外的な存在で、いくら価値が安定しているといっても人々はそれを普段の生活で使うものとは見なしていない。そしてそれ以上に、外貨は絶対的に不足しているということがある。例えば米ドルを使うにしても、1米ドル札だけでは事足りない。1枚の1米ドル札に対してずっと多くのおつりの貨幣が準備されていなければ、商売は成り立たないのだ。しかし外貨の小額硬貨をまとめて入手するのは困難だ。銀行ではジンバブエドルですら僅かずつしか引き出せない状況だというのに! おつりを準備することができないという現実的な問題から、草の根の自主的な対応としての外貨への移行は決して簡単なものではなかったのである。

やがてジンバブエのハイパー・インフレは、天文学的領域へと突入していく。本書の白眉がここだ。

あまりにもインフレ率が高くなりすぎ、商店では1日に3度も価格を付け替えるようになる。そして誰も本当のジンバブエドルの価値がわからなくなり、ものの値段もつけられなくなっていくのである。価値が変動しているのは「お金」だったはずなのに、「ものの価値」の方も解体していってしまうのだ。

それはこういうことだ。例えば、タバコ1箱というのは、それなりに安定した価値があると見なせるだろう。タバコ1箱が500円だったとして、それが翌月に1000円に値上がりしたとすると、お金の価値は半分になったと考えられる。これが普通の「ハイパー・インフレ」の世界である(ちなみに、ハイパー・インフレとは月間インフレ率が50%以上のインフレのこと)。しかし翌日に1箱が1500円になり、その次の日に3000円になるような世界だったとするとどうだろう。商店主は、400円で仕入れたタバコをいくらで売れば商売が成り立つのか、それすら分からなくなる。今そのタバコの価値はどれくらいなのか、売っている本人の方も知らないという事態が生じるのだ。

そうなると、タバコの価値はもはや客観的には決められない。首尾一貫した価格付けはもうできないのだ。タバコを売ってくれという客が、どれだけ切実にタバコを求めているか、商店主がタバコを早く現金化したいと思っているかどうか、そういったことの総体として暫定的にタバコの価格が決まるのである。だから、タバコが1箱500円の時に、横に置いてあるティッシュペーパーが4000円もする、というような奇妙な事態が起こりうる。要するに、価格付けはめちゃくちゃになって、その場しのぎでしか価格が決まらなくなってしまうのだ。

価格がめちゃくちゃになるということは、ものの価値が人間関係やその場での状況に寄るということである。もうこの段階にまで来ると、人々は持ちつ持たれつでお金ともののやりとりをするようになって、ジンバブエドルの「存在」そのものが無価値になっていく。お金によって作られた価値体系が崩壊して、人間関係と社会的文脈による価値体系が澎湃として沸き上がってきたのだ。それでなくてもジンバブエは、インフレ・もの不足・金不足のために、人々は路上で、職場で、どこででも、立ち話をして情報交換をし合う社会になっていた。今日牛乳を売っているのはどこか、今の闇為替レートはどれくらいか、乗り合いタクシーに乗るのに今日はいくらかかるのか。それに社会階層は関係なかった。露天商、公務員、サラリーマン、知っている人も知らない人も、普段は交わることのない人々がごた混ぜになり、ある意味で社会が一体化したのである。

その頃になるとインフレが激しすぎて零細商すら没落。社会全体が混乱の渦に巻き込まれどうにもならなくなり、政府は外貨を公式に認めてインフレが終熄(ジンバブエドルも引き続き公定通貨ではあったが実質上廃止)。

それによって社会はどうなったか。これまで路上で長話をしていた人はいなくなり、これまで親しげに話していた露天商とサラリーマンはまた他人のようになってしまった。人々を結びつけていた何かはもうなくなって、何も面倒なやりとりをしなくてもお金が決める価値によってスムーズに取引ができる社会になった。もちろんそれはいいことだ。牛乳一本買うために、人間関係がどうだこうだ、という社会はいやだ。しかしジンバブエの経験した一時期は、「お金の存在そのもの」に対して鋭い問題提起をしているように見えてならない。

本書は、出版社の紹介文によれば「一元的貨幣論に縛られた経済学への反論」だそうだが、そんなつまらないものではないと思う。著者は(専門ではない)経済学の勉強は実直にこなした印象があるが、経済学的な分析についてはさほどのことが書かれていない。もちろん人類学的な分析というのも深くはなく、見聞記のレベルを出ていない。しかし単なる見聞記だからこそ、お金というものが社会をどう形作っているのかまでも垣間見た気がする。著者自身の深い洞察というものはないが、実体験した人だからこそ書ける貴重な記録である。

ハイパー・インフレを通じて「お金の存在そのもの」の意味を考えさせられる面白い本。


2015年9月24日木曜日

『万能人とメディチ家の世紀―ルネサンス再考』池上 俊一 著

フィレンツェの万能人アルベルティとメディチ家のあれこれを述べてルネサンスの雰囲気を説明する本。

本書の内容はあまりまとまりがない。タイトルが「万能人とメディチ家の世紀」であるが、万能人の活躍について体系的に述べるでもないし、メディチ家の繁栄について詳しい説明があるわけでもない。ただ万能人とかメディチ家といったわかりやすい言葉を軸にして著者の考える「ルネサンス」をとりとめもなく語っていくというようなスタイルである。

もちろん章立てはちゃんとあるし、著者なりの主張もあるのだが、それが体系的に示されるということがなくて、書きたいことを書いているという感じである。

また文章もよくない。悪い意味で「文学的」であり、文飾には大変力が入っているが、それが虚飾になってしまっている。表現に具体性がなく理念的・概念的・総論的な説明が多い。大体の雰囲気を摑もうという本だから、それでいいのかもしれないが私には物足りなかった。

著者がのお気に入りの万能人といえるアルベルティ(レオン・バティスタ・アルベルティ)に関してはかなり詳しい説明がある。伝記的な情報だけでなく、アルベルティの著作の紹介も1次資料をちゃんと読み込んで真面目に書いている印象でそこは好感を持つ。

でもやはり書きたいことを書いている、というようなつまみ食い感があるのは否めない。アルベルティがどうして重要なのか、というのが最後までよくわからなかった。その後のルネサンスの「万能人」の原型になったのがアルベルティだ、というのがポイントなんだろうか? それとも様々な著作を通じ後世の人に影響を与えたということ? いろいろ書かれてはいるものの何だか頭にスッキリと入ってこない構成の本である。

アルベルティとメディチ家を巡る、エッセイ的な本。