歴史・宗教・文化といったものからではなく、唯物論によって人が何を食べ、何を食べないかを説明する本。
インドでは牛が神聖視され食べられないし、一方イスラーム圏では豚が汚れたものとして忌避される。アメリカには馬はたくさんいるのにアメリカ人は馬肉を食べず、昆虫は西洋文明にとって身の毛もよだつ食材だ。ペットを食べるなどともってのほかと考える人もいれば、愛情たっぷりに育てたペットを食べるのは当然のことと考える人たちもいる。さらには、我々にとっては恐怖でしかない食人すら、全く公認されていた地域もあった。
こうした食文化の違いは、どうして生じたのか。これまでは、歴史や宗教の気まぐれ、そして合理的な思考ができない人々の遅れた考え方といったものがその原因ではないかと考えられがちだった。しかし、著者のマーヴィン・ハリスは、こうした一見つじつまが合わない食文化の多様性の背景には、そのものが食べるに適するか適さないかを支配するコスト・ベネフィットの構造、つまり合理性があるという。
例えば、インドで牛が食べられないのは、役畜として重要な役割を果たし、またミルクを供給しているから、 豚がイスラム圏で食べられないのは、中東に豚の飼育に適した森林が少なく、豚の餌が人間の食料と競合しているため、といった具合である(本書の説明を暴力的に簡略化しています)。つまり、その食料(になりうるもの)を生産・獲得するのに必要なコストと、それを食べることによるベネフィット(他の食料を生産しないで済むといったこと)を天秤に掛け、コスト・ベネフィットの帳尻が合うものは食べられるし、そうでないものは食べられないのだという。
著者の説明は、多くの場合非常に説得的である。人類学界では著者は「異端の人類学者」などと呼ばれ忌み嫌われているらしいが、私にとってはその論理は明解かつ合理的であって、別に「忌み嫌われる」要素があるとは思えなかった。それどころか、食の原価計算をするようなこうした無味乾燥で(!)唯物論的な考え方が、人類学の世界にもっと広まって欲しいと思う。
ただし、宗教的タブーに関する説明だけはちょっと疑問がある。例えば、インドでの殺牛のタブーである。インドでは牛は神聖なもので手厚く保護されており、牛を殺すことは重大な宗教的タブーであるが、それは著者の説明では牛を屠ることはインドではコストが高すぎるからだという。牛は棃を引いてくれる上に粗食に耐え、ミルクを出してくれる有り難い存在だから、食べることが罪になるというのだ。要するに、コスト的に引き合わないから殺牛はタブーになった、と著者は主張する。
これは一見もっともらしいが、「コスト的に引き合わないことをなぜあえてタブーにする必要があったのか」という新たな謎を生み、謎を謎で説明している感じがする。コスト的に引き合わないなら、別に禁止規定を設けなくても人はそれを積極的にしようとはしないだろう。実際、馬肉や昆虫食といった他の項目では、コスト的に引き合う時はそれらは食べられ、引き合わなくなったら食べられなくなる、といった説明がなされている。コスト的に引き合わないものをわざわざ禁止する道理はないのである。
ヒンズー教が牛を殺すことを重大な罪として禁止しているということは、禁止しなければ牛を殺して食べようという人たちが大勢いたはずだ。著者の言うことが正しいなら、そういう人たちはコスト的に引き合わないことを敢えてやろうとしていたということになるが、それはなんでなんだろうか。コスト的に引き合わないならそれは食べられなくなるのではないのか? これに対してはいろいろな説明ができることを承知してはいるし、本書にもそれなりに理屈を書いてはいるが、あまり説得的ではなく物足りなく思った。
もう一つの物足りない点は、本書で扱っているものが動物性タンパク質(要するに「肉」)ばかりで、野菜や果物、穀物といったものがほとんど登場しないことである。著者の主張はいろいろな食品に応用できるものだと思うので、肉以外の食品文化に「唯物論」を適用するとどのような説明が可能なのかは興味あることである。
タブーに関する説明は曖昧なところがあるが、食文化を経済面から解明する小気味よい本。
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