日本への道教伝播に関する重要な論文をまとめた本。
本書は、「選集 道教と日本」の第1巻を飾るもので、日本への道教伝播について考察する1920年代の津田左右吉の「天皇考」、黒板勝美の「我が上代に於ける道教思想及び道教について」といった先駆的論文から始まり、1980年代の論文まで収めた、この研究分野の発展史を縦覧するような本である。
道教の日本への影響についてはとかく「これまで閑却されてきた」などという枕詞がつくことが多いが、現代提示されているような日本文化への影響については、既に1920年代に指摘されていたことを知った。第1部に収録されている、津田左右吉、黒板勝美、妻木直良、小柳司気太、那波利貞の各論考では、現代における当該テーマの基本的着眼点が大凡提示されていると言っても過言ではない。
本書は日本文化と道教ということを考える際に土台となる部分を提示するものであるが、決して基礎的な内容ではなく、例えば「功過格」「老子化胡経」といった言葉が注釈なしで出てくるために、ある程度の道教の知識を前提としている。既に日本への道教の影響がボンヤリと見えている人が、その輪郭をはっきりさせるために読む本という感じで、ある意味では退屈な部分もあるが、必ず一度は目を通すべき内容と言える。
道教と日本という大きなテーマに分け入っていく上で、先人の考察の肩に乗るための本。
2014年1月16日木曜日
2013年12月1日日曜日
『近代日本の戦争と宗教』小川原 正道著
明治時代の戦争に、各宗教団体がどのように「対応」していったかを詳述する本。
明治政府というものは事実上クーデターによって成立したため、その正統性があやふやなところがあったし、一方、各種宗教団体は自らの存在意義を政府に認めてもらうため積極的に政府に協力する素地があった。そのため、両者の利害が一致し、かくして宗教団体は明治政府の戦争を積極的に支持し、寄付を集め、戦地へ赴くものを激励し、皇恩に報いよと教えたのであった。
この基本構造は、仏教も神道も、そしてキリスト教においても変わらない。ごく少数の例外はあったけれども、当時の宗教界は諸手を挙げて開戦に賛同し、戦争で人を殺すことはなんら教義に悖るものではないと人々を諭したのであった。ただ、もちろん、具体的にどのような協力をしたかは、各団体がおかれていた状況によって異なることは言うまでもない。
本書を読む上での私の関心は、浄土真宗西本願寺派の動向にあったのであるが、同派は明治期の戦争協力において、宗教団体として最大の貢献をしている。信徒から莫大な金を集め政府に寄附し、戦地へ従軍僧侶を大量に送りこんだ。そして、戦後は台湾、朝鮮、満州において積極的な布教活動を展開している。
どうして西本願寺派がこのように政府に協力的な姿勢を見せたのかというと、神道を国家の祭祀としていた明治政府に対し、真宗の存在意義を示す必要があったということ。そして本願寺派と政府要人との関係が深かったということがあるだろう。
本書の白眉は、西南戦争の項目である。私自身、西南戦争と宗教の関わりについてはあまり認識していなかったのであるが、蒙を啓かされる思いであった。西南戦争について、著者は別に一巻の本をものしておられるので、そちらも読んでみたい。
戦争と宗教ということについては、従来様々な研究があるが、このように通史的にまとめられたのは稀有であり、しかも、やや引用が煩瑣に過ぎるきらいはあるとはいえ、各種の資料を縦横に駆使しているため記述が総論的になることはなく具体的であり、しかも物語性と臨場感もある。完全な書き下ろしではないが、労作といえよう。
ただし、少し不満な点もある。それは神道界の動向がややあっさりと記述されていることだ。浄土真宗西本願寺派の必死の戦争協力に比べれば、神道界の動きは地味であったのは間違いないが、何しろ「国家の祭祀」であるわけで、もう少し丁寧に書いて欲しかった。国家神道の成立過程については既にたくさんの書があるということで、少し遠慮したのではないかと見受けられたが、せっかくの「通史」であるのでより詳しく説明した方がよかったと思う。
明治政府というものは事実上クーデターによって成立したため、その正統性があやふやなところがあったし、一方、各種宗教団体は自らの存在意義を政府に認めてもらうため積極的に政府に協力する素地があった。そのため、両者の利害が一致し、かくして宗教団体は明治政府の戦争を積極的に支持し、寄付を集め、戦地へ赴くものを激励し、皇恩に報いよと教えたのであった。
この基本構造は、仏教も神道も、そしてキリスト教においても変わらない。ごく少数の例外はあったけれども、当時の宗教界は諸手を挙げて開戦に賛同し、戦争で人を殺すことはなんら教義に悖るものではないと人々を諭したのであった。ただ、もちろん、具体的にどのような協力をしたかは、各団体がおかれていた状況によって異なることは言うまでもない。
本書を読む上での私の関心は、浄土真宗西本願寺派の動向にあったのであるが、同派は明治期の戦争協力において、宗教団体として最大の貢献をしている。信徒から莫大な金を集め政府に寄附し、戦地へ従軍僧侶を大量に送りこんだ。そして、戦後は台湾、朝鮮、満州において積極的な布教活動を展開している。
どうして西本願寺派がこのように政府に協力的な姿勢を見せたのかというと、神道を国家の祭祀としていた明治政府に対し、真宗の存在意義を示す必要があったということ。そして本願寺派と政府要人との関係が深かったということがあるだろう。
本書の白眉は、西南戦争の項目である。私自身、西南戦争と宗教の関わりについてはあまり認識していなかったのであるが、蒙を啓かされる思いであった。西南戦争について、著者は別に一巻の本をものしておられるので、そちらも読んでみたい。
戦争と宗教ということについては、従来様々な研究があるが、このように通史的にまとめられたのは稀有であり、しかも、やや引用が煩瑣に過ぎるきらいはあるとはいえ、各種の資料を縦横に駆使しているため記述が総論的になることはなく具体的であり、しかも物語性と臨場感もある。完全な書き下ろしではないが、労作といえよう。
ただし、少し不満な点もある。それは神道界の動向がややあっさりと記述されていることだ。浄土真宗西本願寺派の必死の戦争協力に比べれば、神道界の動きは地味であったのは間違いないが、何しろ「国家の祭祀」であるわけで、もう少し丁寧に書いて欲しかった。国家神道の成立過程については既にたくさんの書があるということで、少し遠慮したのではないかと見受けられたが、せっかくの「通史」であるのでより詳しく説明した方がよかったと思う。
2013年11月30日土曜日
『日本の道教遺跡を歩く―陰陽道・修験道のルーツもここにあった』福永 光司、千田 稔、高橋 徹 著
かつては日本には道教は(少なくとも体系的には)伝わってこなかったと考えられてきたのであるが、近年日本文化にも道教が様々な影響を及ぼしてきたことが徐々に認知されてきた。本書は、著者たちが「これも道教関係ではないか?」と考える史跡を次々に列挙していくというものである。
彼らがそれらを道教関係と考える根拠には、ナルホドと思わされるものもあるし、うーん、それは牽強付会ではないかなあと思うものもある。随所に「〜かもしれない」「〜の可能性もある」と畳み掛け、遂には「〜であることは容易に想像される」などとまとめる。私は、こういう推測と断定が混淆した論考というのは苦手である。
とはいうものの、これまで看過されてきた道教の影響力に注目した功績は大きいものがある。面白いと思ったのは、浦島太郎と八幡神社、妙見菩薩信仰について道教の影響を指摘した点である。浦島太郎の伝説は中国にそのプロトタイプのようなものがあり、妙見菩薩信仰については道教の星辰信仰の影響は明らかである。八幡神社については、やや関係は薄い部分も感じるがどうも道教的な何かがそこに混入していることは間違いないようだ。八幡神社についてはそもそも謎が多いので、これは大変面白い切り口であると思う。
本書は、朝日新聞に連載されたものを大幅に加筆して執筆されたものであり、元が新聞連載であるだけに少し散漫な点も見られる。特に副題になっている「陰陽道・修験道のルーツもここにあった」というのは看板に偽りありで、陰陽道については触れられるが修験道についてはほとんど取り上げていない。私は修験道と道教の関係に大変強い関心をもっているので、ここがほとんど閑却されていることには少し落胆させられた。
道教と古代日本文化の関係を考える上では導入として面白い本。今後のより体系的な論考が期待される。
2013年11月24日日曜日
『生活の世界歴史(6)中世の森の中で』木村 尚三郎、堀越 孝一、渡辺 昌美 著、堀米 庸三 編
当時の世界観、食と住、都市の構造、城の生活、キリスト教による支配とそれへの反発、そして叙情詩の登場前夜がテーマである。
本書の最大の問題は、後半の渡辺昌美氏の担当部分が他に比して読みにくいことだ。論旨が不明確で表現が文飾に流れ、悪い意味で「文学的」。興味を惹く記述がないではないが、読んでいて後味の悪い文章である。
それ以外は、ややとりとめのない部分が見受けられるとはいえ、よく纏まっている。特に前半の森との関わりについては、面白く読ませてもらった。その他、中世の人は僧職以外は裸で寝ていた(その理由は書いていない)とか、風呂が盛んで公衆浴場(混浴)が賑わっていたとか、意外な記述がたくさんあり、16世紀以後のヨーロッパの風情とは随分異なる部分があることに驚いた。
そして、中世というと停滞した時代、どんよりと澱んだ社会と思いがちなのであるが、本書では中世を「身構えた社会」と捉える。これは、いつ何時でも忍傷沙汰が起こるか知れぬ社会、主従関係が簡単に破棄される社会、頻繁に暴動が起きる社会であった。要は、社会の秩序が十分に確立しておらず、暴力同士の危うい均衡が社会を支えていたのであった。
その他、私個人として気になった所は、中世の農業の著しい低生産性である。播いた種を僅かに超えるほどの収穫しか得られなかったというのは、農業の常識からすると俄には信じ難い。そういう状態で生活を営めたという秘密はどこにあるのだろうか。ドングリなどの採集による食糧確保が大きかったのかとも思うが、一方で「中世の人はパンをよく食べた」という記載もあり、どうやって小麦やライ麦を確保していたのか謎である。
2013年10月10日木曜日
『明治大正史 世相篇』柳田 國男 著
明治大正の世相の移り変わりを文明批評風に述べた本。
本書の構想は独特であって、普通の「歴史」の本ではない。明治大正史と言っても、明治維新も大正デモクラシーも、日露戦争も出てこないのである。では何が描かれるかというと、著者が「毎日われわれの眼前に出ては消える事実のみに拠って、立派に歴史は書けるものだと思っている」と自序で述べるとおり、普通の人の普通の暮らしがどのように変わったか、ということが主眼である。
しかし、実はそれすらも歴史風には語られない。例えば、郵便がいつごろ普及したとか、乗合馬車がどう現れたのか、というようなことはほとんど触れられない。庶民の暮らしの変転を語る中で、そうしたこともごく僅かに顧みられるが、それよりももっと力が割かれているのは、衣食住の変化、ありふれた町の風景の変化、庶民の人生の変化である。
その上、そうした変化自体もさらりと書かれるに過ぎない。では何が書かれているかというと、明治に世が移って社会が様々な面で変化した結果、人々の暮らしへ向けた態度や心持ちが、どのように移ろっていったのか、ということが本書の核心である。
明治、そして大正へと世の中が進んでいく中で、いままで薄ぼんやりとした認識しかなかった広い世界がだんだんとその姿を現すと共に、自らの暮らしぶりや村のあり方がそうした広い世界に位置づけられ、緩やかにではあるがあらゆる面で自由が拡大していった。そうして、人々は、江戸の眠りから醒めたように、自らの行動を意識的に、あるいは無意識的に改めて、足早に新様式の暮らしへと進んでいったのであった。
新様式へ進んでいった人達が、どのような気持ちで歩みを進めたのかということは、説明がある場合もあればない場合もある。衣食住・仕事・社会生活といった面において、明治から大正のスナップショットを撮ってみたという風情であり、そこに社会学的な分析を加えようというものではないからだ。しかし、そうしたことを淡々と述べる中で、明治大正という時代が人々の心にもたらした巨大な変化とその影響が澎湃と姿を現す思いがする。
それは、意外に現代の人が直面しているものに近い。いや、本質的には、むしろ明治大正の人々が取り組んだものと全く同じものが我々にも突きつけられているのだということを、本書を読むと痛感する。特に後半の章は、百年前の人々のことを描いているとは思えない。我々は、明治大正の人間が未解決に残した問題を、未だに先延ばしにしているのだろう。
本書の構想は独特であって、普通の「歴史」の本ではない。明治大正史と言っても、明治維新も大正デモクラシーも、日露戦争も出てこないのである。では何が描かれるかというと、著者が「毎日われわれの眼前に出ては消える事実のみに拠って、立派に歴史は書けるものだと思っている」と自序で述べるとおり、普通の人の普通の暮らしがどのように変わったか、ということが主眼である。
しかし、実はそれすらも歴史風には語られない。例えば、郵便がいつごろ普及したとか、乗合馬車がどう現れたのか、というようなことはほとんど触れられない。庶民の暮らしの変転を語る中で、そうしたこともごく僅かに顧みられるが、それよりももっと力が割かれているのは、衣食住の変化、ありふれた町の風景の変化、庶民の人生の変化である。
その上、そうした変化自体もさらりと書かれるに過ぎない。では何が書かれているかというと、明治に世が移って社会が様々な面で変化した結果、人々の暮らしへ向けた態度や心持ちが、どのように移ろっていったのか、ということが本書の核心である。
明治、そして大正へと世の中が進んでいく中で、いままで薄ぼんやりとした認識しかなかった広い世界がだんだんとその姿を現すと共に、自らの暮らしぶりや村のあり方がそうした広い世界に位置づけられ、緩やかにではあるがあらゆる面で自由が拡大していった。そうして、人々は、江戸の眠りから醒めたように、自らの行動を意識的に、あるいは無意識的に改めて、足早に新様式の暮らしへと進んでいったのであった。
新様式へ進んでいった人達が、どのような気持ちで歩みを進めたのかということは、説明がある場合もあればない場合もある。衣食住・仕事・社会生活といった面において、明治から大正のスナップショットを撮ってみたという風情であり、そこに社会学的な分析を加えようというものではないからだ。しかし、そうしたことを淡々と述べる中で、明治大正という時代が人々の心にもたらした巨大な変化とその影響が澎湃と姿を現す思いがする。
それは、意外に現代の人が直面しているものに近い。いや、本質的には、むしろ明治大正の人々が取り組んだものと全く同じものが我々にも突きつけられているのだということを、本書を読むと痛感する。特に後半の章は、百年前の人々のことを描いているとは思えない。我々は、明治大正の人間が未解決に残した問題を、未だに先延ばしにしているのだろう。
2013年10月8日火曜日
『日本の歴史をよみなおす(全)』 網野 善彦 著
従前のイメージでは、江戸時代は自給自足的な農本主義の時代と思われており、農業以外の産業はあまり注目されてこなかったため、例えば山奥にあるとか、水田の適地がないというような村は貧しかったに違いないと思いがちだったのであるが、著者はそれは正しくないという。江戸時代においても、金融や商業、そして海運といった産業は重要な役割をになっており、都市的な場とそのネットワークは日本全体に広がっていたため、山奥の村が意外に流通の拠点になっていたり、耕地をほとんど持たない人が大変裕福に暮らしていたりした。
また、非人は次第に被差別階級化していったのであるが、これは非人が貧しく汚らしかったということではなく、むしろ金融や商業によって裕福だったため、その反発もあったのではないかと示唆する。このあたりは欧州におけるユダヤ人の被差別の歴史も想起させられるところだ。
本書は、こうした著者の提唱する新しい江戸時代のイメージを若い世代に向けて講演したものが元となっていて、あまり込み入った話はなく、江戸時代の金融・商業の重要性を例証するようなものの列挙といった側面が強い。
そして読者として不満なことは、それらが重要とはいっても、何においてどのように重要なのか、という点についてあまり明快に語られないことだ。最後の方では、
そのように考えてみたときに、日本の近世社会、あるいは中世後期から江戸時代にかけての時代がどのように見えてくるか、またそれをどのように規定すべきかについては、まったくの未知数、未開拓の状態で、私にもいまは積極的な意見を出すことはできません。(本書p.401)と著者自身が述べており、「だから何?」という状態ではある。つまり、非人や悪党が担う金融や商業といったものが、どのように重要かはわからないが、重要に違いない、というのが著者の信念なのである。それは理解するが、そういう視点で見たときに日本の歴史がどう再解釈されうるのか、という可能性すら提示できないのは残念だ。『日本の歴史を読みなおす』というタイトルも名折れで、『読みなおしたい』くらいのニュアンスが適当であろう。
近世社会の商業主義について新たなイメージを提供するが、それ以上に踏み込んだ歴史観については黙して語らない本。
2013年6月30日日曜日
『土とは何だろうか?』久馬 一剛 著
書名の通り、「土とは何か」を平明に解説する本。
土壌学というのは農学の中でも特に難しい学問である。土は物理性、化学性、生物性の3つの観点から分析することができるが、その根幹には土がどのような成分で出来ているかというところが重要で、これを記述するためには数々の化学式が出てくる。
しかも、土壌学における化学式というのは、フラスコの中での反応とは違って、土の中でゆっくりと進む複雑な反応を記述するものなので、これをしっかりと分析しようとすればいきおい複雑にならざるを得ない。
そのため一般向けの土壌学の本はあまり多くないのであるが、この状況を憂慮した著者が満を持して世に問うた本が本書である。
その内容は、①土が何から出来ているかから説き起こし、②植物にとっての土の役割をまとめた後、②日本の畑の土と、③水田の土を解説し、④土中の生き物について述べ、⑤世界の土と日本の土を外観して、⑥環境問題と土について考察し、⑦「人間にとって土とは何か」というやや文明論めいた章で終わる。
特に面白かったのは③の稲作と土についてであって、日本の土は意外に肥沃ではなく畑作に向かないため水田稲作が安定的であったという指摘は、とても参考になった。私は日本の土はとても肥沃だと思い込んでいたのだが、それは間違いだったようだ。
その他にも、へー、と唸るような、ことがたくさん述べられており、これまで縁遠かった土壌学が少し身近に感じられるようになった。難しくて取っつきにくい土壌学の大変よい入り口を提供してくれる本。
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