嵐山光三郎がきだみのるの晩年を描く本。
きだみのるは、名著『気違い部落周游紀行』の著者。フランス語とギリシア語を操り、桁違いの教養と学識を持ちながら、世間のはみ出し者として各地を漂流し、行く先々で知り合いの家に押しかけて家の中を絶望的に汚し散らかしていった破天荒な人物。著者嵐山はきだの晩年に担当編集者となり、一時期行動を共にする。
きだは謎の少女ミミくんと共に旅をしていた。やがてミミくんはきだの隠し子であることがわかってくる。きだはどこでも女と関係を持ち、分かっているだけで7人もの子どもがいたが、ミミくんは晩年に生まれた最後の子どもだった。
本書の前半部分は、きだの破天荒ながら憎めない人柄と学識の背景を伝える評伝となっている。 『気違い部落周游紀行』に至るまでの道と、それから「部落」を著作の中心テーマに据えてからの活躍について。この部分は、これはこれで興味深い。本書を手に取る人は、誰しも「きだみのる」を知るためにページをめくるであろうから、その期待に応える内容が書かれている。
しかし後半部分は、思わぬ方向に話が展開していく。 ミミくんをどう育てていったらよいのかというきだの葛藤と、周囲の心配が重奏していくのである。ミミくんは学齢期に達しながら小学校に通っていなかった。きだが定住していなかったからだ。きだが各地を巡る中で実践的な教育を施してはいたが、きだは教育者としては不安定すぎ、父親としては性的に放縦すぎた。そもそも、自分が父親であることをミミくんに明かしていなかった。
そして、ミミくんはきだの子どもというよりも、むしろミューズに近かった。きだは各地を巡る際に、ミミくんの目を通して社会を観察していた。学識のないミミくんの反応を手がかりに、素のままの社会の有様を摑もうとした。きだにとってミミくんは必要な目であった。だからきだは、ミミくんが学校に通わなければならない年齢になっても手元から逃したくなかったのだ。きだは反国家、反権力、反文壇、反知識人で、優等生的な勉強よりも、野生の感性や土着の論理をずっと信頼していた。
しかしきだは一方で学校教育を重視していた。破天荒なくせに、学歴はひどく気にした。ミミくんに教育を施すには、どうしたって定住しなければならない。車に寝泊まりしながら全国を移動する生活では、小学校に通わせられない。だからきだは迷った。そして迷いながら決断を先延ばしにすることで、バツが悪い思いをしていた。「ミミくんをどうするつもりですか」と問われるたび、言葉を濁す有様だ。ミミくんは、いつしかきだの最大の負い目になっていた。
結局、きだはさる「熱血教師」三好京三にミミくんを養子にして教育を任すことにした。教育資金は負担した。きだは貧乏ではなかった。ミミくんにはよい教育が与えられるはずだった。しかし結果的に見れば、この決断はミミくんにとってよくないものだった。三好は破天荒に育てられたミミくんを型に嵌めようとし、矯正を試みた。さらに三好はミミくんを文学に利用し、まるで「狼少女」を育てている風なことを書いて文学賞を獲得したのである(『子育てごっこ』文學界新人賞及び直木賞)。奇妙なことに、ここでもミミくんはミューズにされた。そして真偽のほどは定かでないながら、三好はミミくんを性的にも弄んだ。
ミミくんを利用して文学界でのし上がった三好は、文学作品だけでなく多くの教育論も著したが、ミミくんが性的虐待の告発をしたり、ヌード写真集のモデルになったことでスキャンダルとなり、親子関係も崩壊。ミミくんとの養子縁組は解消された。こうした悲しい結末を迎えたのは、本書を読む限りきだの判断ミスの面が大きいように感じさせられる。ミミくんとの関係を正常化できず、親子関係を隠したまま養子に出したというそのことだけを見ても、いかにきだがミミくんという存在を持てあましていたか物語っている。
本書で知るきだみのるは、鋭い目をした社会学の異端児でもなければ、破天荒な怪人でもない。もちろんそうした面を持ちながらも、娘の扱いに悩んであたふたと醜態を演じる普通の父親であるという印象の方が、ずっと強いのである。しかし著者は、決してきだみのるの伝説のベールを剥がそうというつもりで本書を書いたわけではない。いやむしろ、本書から伝わってくるきだは、怪人的社会学者としてのきだよりも、ずっと生き生きしていて、人間味がある。立派な父親だったという評価は出来ないが、少なくとも娘の行く末を案じ、自分にできることを精一杯果たそうとした父親だったとは思える。
このように、本書はきだみのるの評伝である以上に、ミミくんをめぐる物語であり、非常なる迫力がある。特に後半は、本を置くことが出来ないほど熱中して読んだ。
破天荒な一人の男とその娘の先の見えない人生が気になりすぎる傑作。
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