バッハの生涯を思想面で辿る本。
本書は、一見バッハの伝記のような構成を持っている。しかし内容は伝記ではなく、バッハの伝記的知識を既知のものとして、その思想に影響を与えたに違いない当時の思潮や神学、思想的な時代の趨勢について述べる本である。
本書では、バッハが過ごした地域の有力者の思想的立場や同時代に影響を与えた神学書、哲学書といったものがこれでもかと紹介される。また、バッハの学歴や蔵書、その転職遍歴などからその精神面が推測され、それが創造に与えた影響が考察されている。こうした手法によってバッハの思想を物語るものであるから、本書は音楽史的著作であるにもかかわらず、具体的な作品についてはあまり語らない。
その生涯の思想的な歩みをまとめれば、次のようになるだろう。バッハはルター派正統主義の色が濃い地域に育ちそれを生涯護持したが、その遍歴時代には敬虔主義的な地域でも仕事をし、己の正統主義と敬虔主義とを妥協させなければならなかった。さらに晩年になると、啓蒙主義の波がバッハにも押し寄せた。キリスト教にも合理的精神でメスを入れる啓蒙主義とバッハの信仰とは相容れなかったため、バッハは啓蒙主義に立ち向かうべく最高の作品を残したのであった。
さらに本書によれば、バッハは若い頃に人生の目的を「整った教会音楽」を創るということに置き、その職歴・遍歴は全てこの目的を成就するための必然と見なしうるというのだが、それはちょっとありそうにもないことだ。また、本書では思想的な展開と人生の転機を相即不離な関係と見なす見解が多く、これは後付けの理屈という側面が強い。さらに本書はやや古いものであるため、今では否定されている伝説や伝記的に不正確な事実が用いられており、その点注意を要する。
しかしながら、バッハの思想、特にルター派の護持者としての面を考える時は、本書は必ず参照すべき本であると思う。バッハの伝記については不十分なところがあるとしても、このように当時の思想世界を詳細に明らかにした本は画期的であり、大変な労作である。バッハを取り囲む思潮を手軽に知れる本は本書以外ないだろう。
なお音楽ファンとしては、著者フレート・ハーメルは、ドイツ・グラモフォンの古楽レーベル「Archiv(アルヒーフ)」を立ち上げた人物として記憶に留めるべき存在である。
バッハを巡る思潮を丁寧に解きほぐした労作。
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