2022年11月12日土曜日

『大江戸庶民いろいろ事情』石川 英輔 著

江戸の実態をさまざまに述べる本。

著者の石川英輔は、『大江戸神仙伝』という小説を書くために江戸の風俗を綿密に調べ始めた。小説に書くためには、当時の人にとっては当たり前のことを知っておかなくてはならない。しかし当たり前のことはあまり記録されない。だから苦労して調べつつ小説を書くのだが、『神仙伝』の姉妹編を何冊か書き江戸の実態がわかってくるようになると、江戸時代の風俗の専門家とみなされるようになってきた。そして本業(印刷業の技術者)の観点から『大江戸えねるぎー事情』などの江戸の社会を見直す本を書くようになった。

本書もこうした一連の本の一冊で、技術者的な観点から様々な江戸時代の文化風俗を見直したものである。

本書では、江戸の実態を推測するために多くの絵図を援用している。「当たり前のことはあまり記録されない」のは文章の中だけで、絵になると皆がよく知っていることは細部に至るまで正確に描かれることが多いため、記録として非常に価値が高い。江戸時代の木版画は恐ろしく高い技術によって作られているので、江戸時代の実態を知るには必須の史料である。

特に『江戸名所図会』は質と量ともに抜群で、「『江戸名所図会』がなければ、われわれの江戸に対する知識は一桁も二桁も少なくなるのではないか(p.67)」というほど重要で、「図会ものの最高峰(同)」である。著者は偶然にこの完全な美本を手に入れ、それを底本にして田中優子氏との共同監修で評論社から原寸復刻版を刊行している。

以下、本書の内容から興味を引いたものをいくつかメモする。

江戸時代の人がどんなものを食べていたか。具体的にはどんなおかずを食べていたかという料理の種類の話になるが、これが意外なことに、現代でもそれがどんなものかわかるほど馴染みのあるものなのである。食は保守的でなかなか変わらない。

江戸時代の庶民の遊びは豊富だった。余暇が多く識字率が高かったため(江戸時代の日本は世界的に見て出版大国だった)、遊芸が盛んになり、俳句や川柳、狂歌、連句などは高度な水準に達した。

「拳」については本書で初めて知った。これはジャンケンのような遊びであるが、ルールはもっと複雑で「本拳」とか「三竦み拳」といったいろいろな種類があった。ルールからは純粋な確率のゲームに見えて、実際は高度な心理戦でありその道の名人は相当に強かったらしい。「拳」はごく一部を除いて現代ではすっかり廃れた。

著者は江戸の武家地・寺社地・町屋(町人居住地)の分類に疑問を持ち、『復元 江戸情報地図』という資料によって種目別の土地の割合を計算した。結果は、農地が第1位で、続いて武家地、町屋、寺社地、河川の順となる。考えてみれば当たり前のことだが、江戸でも農地が多い。意外なのは河川が約4%を占めていたことで、江戸は水の都だったのだと再認識させられる。

そして江戸は上水道がかなり整備されており、「江戸の水道網は当時の世界では、給水人口、給水面積、給水量のいずれをとっても飛び抜けた規模だった(p.32)」そうだ。江戸の上水道には元来の神田上水と、後からつくった玉川上水の二系統があり、本書ではその成立について詳しく書いている。江戸が当時世界一の人口を擁したのは、玉川上水のおかげが大きいそうだ。庶民も武士もちゃんと上水道料金を払っていたというのが面白い(もちろんメーターなんかはないが)。

また著者は「木戸」について詳しく実態を調べている。 「木戸」とは街のあちこちにあった区切りであり、元々は防衛上・治安上の意味があったらしい。ところが太平の世が続く中で形骸化していった。著者は絵図から、木戸には戸がほとんど失われてしまったことを解明した。

ところで、本書ではちらっと書かれるだけだが、「庶民でも、旅行の時は、一尺八寸までの脇差しを帯びた(p.321)」とあった。これは何のためなのか(護身のためなのか?)気になった。

なお全篇にわたり、「現代社会は限界を迎えているので、江戸時代の持続可能な社会の在り方を見直すべきだ」「江戸時代は不当に低く評価されてきた」といった趣旨の主張があり、その通りだと思うものの、あまりにも頻繁に書かれるのでややくどい。これがなければ本書は専門書にも引けを取らない内容を持っていると感じる。

主に絵図を使い江戸時代の実態をいろいろに語る参考書。


2022年10月7日金曜日

『回想の明治維新—一ロシア人革命家の手記』メーチニコフ 著、渡辺 雅司 訳

明治時代に日本に来たロシア人の回顧録。

本書の著者メーチニコフは、一口に言えば「お雇い外国人」ということになるのだろうが、通り一遍の「お雇い外国人」と彼は全然違う。なにしろ彼は、革命家として日本に来たのである。

彼は母国ロシアから亡命してヨーロッパに逃れた。ロシアでの革命を目指し、それが挫折した結果だった。しかしかれは生来語学の天才で、世界各地を流浪してヨーロッパ諸語だけでなくアラビア語、トルコ語、中国語までもマスターし、さらには各地の地理や民族を研究した学者でもあった。そんなメーチニコフは明治維新という「革命」を知り、日本に憧れを持つようになる。彼は明治維新を内発的な革命と見なし、それを高く評価した。そしてロシアでそのような革命を成し遂げるために日本への渡航を目論見、日本語を勉強するのである。

一方明治2年頃から、薩摩藩出身の大山巌はヨーロッパ(この時はフランス)に留学していた。しかしフランス語の勉強がなかなか進まず苦労する。そんなときに、大山は偶然メーチニコフに会う。日本語を学びたいメーチニコフと、フランス語を学びたい大山は、相互に語学を教え合うことになり、フランスで毎日のように親密に交流した。彼は大山巌の恩人といっていいのだという。

さらにメーチニコフは、洋行中の岩倉使節団とも会い、木戸は都合5時間もメーチニコフと会談した。彼らはペテルブルグを公式訪問した後だったが、ロシア政府を打倒しようとしていたメーチニコフとも親しく付き合ったのが面白い。ともかく岩倉使節団と邂逅したことでメーチニコフは要人との繋がりを得、日本に招聘されるのである。用件は、西郷隆盛が江戸につくる薩摩藩の学校で教えて欲しいということだった(この学校の詳細は不明。なお当時は廃藩置県後なので正確には薩摩藩自体がもう存在しない)。

ところがほとんど無一文になりながら日本に着いてみれば、西郷隆盛は明治六年政変(征韓論争)で政府にいなかった。しかし同じく薩摩藩出身の高崎正風の周旋によって、メーチニコフは文部省の役人になり、東京外語学校魯語科の教師となった。彼が日本で教鞭を執ったのは明治7年からたった1年半であったが、彼の影響で魯語科にはナロードニキ系亡命ロシア人が集まり、二葉亭四迷を始めとした人材が育っていくのである。また明治8年に東京外語学校長として中江兆民が赴任している。二人の交友は短い間だったがお互いに影響を与えたという(解説による)。

メーチニコフは、この短い日本滞在の間に、なぜ明治維新が成し遂げられたのかという秘密を探っていく。本書の半分強はその日本論である(なお1881年にメーチニコフはフランス語で『日本帝国』という大部の日本論を書き上げた)。彼は、日本の歴史を概観して、明治維新が外圧によって起こったのではなく、そのずっと以前に内発的な政治変革を来していたと見なし、むしろ日本の方からヨーロッパを目指すことになっていたと考える。

そしてその重要な基盤となっていたと彼が考えたのが、民衆の教養の高さであった。彼はどの町にも本屋が無数にあるのに驚いている。当時、小さな新聞などが大量に発行されていたし、召使いたちでさえ暇さえあれば小説をむさぼり読んでいたのだ。そういう小説は(彼にとって)真面目なものではなく、好色的要素があるようなものだったとしても、下層民までも読書の習慣があることに目を見張った。なおメーチニコフによれば1870年代の日本には年平均して1500点の新刊書が出ていたという。

民衆までも書物的知識と教養を持ち、作法やふるまいが文化的であることに日本の特質を見、「土着的な」革命として明治維新が成し遂げられたと彼は考えた。その見方が正鵠を射たものであるかは今となっては怪しい。しかし多くの国を巡り、多国語を操ったメーチニコフがそのように感じたということは注意すべき事実である。今の日本はどうだろうか。

明治7〜8年の日本を活写した一編。


2022年10月5日水曜日

『明治維新と文明開化(日本の時代史21)』松尾 正人 編

明治時代の初期を通史とトピックで述べる本。

本書は、通史であり概論でもある松尾正人の論考(3分の1ほど)と、トピック毎の6つの論考で構成される。全体的に平易で読みやすく、本文で直接参照されないものまで含めて図版が豊富なのが嬉しい(特に巻頭のカラー図版がよい)。通史・概論はやや簡略で、正直言えばもう少し分量があった方がよかったように感じたが、バランスを考えると端正な編集方針と言える。

本書が記載の対象とする時代は、明治維新後およそ10年間である(明治20年くらいまでが対象であるが中心は10年間)。シリーズ「日本の時代史」全体の構成を考えると、これは短い期間を詳述している方に属する。それだけ大きな変化が短期間に起こったということなのだろう。

巻頭の松尾正人「明治維新と文明開化」は、維新政府の成立から西南戦争までを政局を中心として述べる。本稿の特徴は、維新政府の動向もさることながら、その対抗勢力の方を丁寧に描いていることで、特に鳥羽・伏見の戦い〜戊辰戦争の展開は類書に比べ詳しい。彼らの抵抗はそれほどの成果を上げなかったが、維新政府の樹立にはそれなりの軍事行動を伴ったことは注意しなくてはならない。

新政府の制度設計で大きな役割を果たしたのが福岡孝弟(たかちか)であるというのが面白い。維新政府は当初の「政体書」の体制で既に革新を指向していたものの、五カ条誓文の翌日の「五榜の掲示」が示すように、「「万機公論」と「国威宣揚」を国家的目的に掲げながらも、一般に対する支配を封建体制のままに受け継いでいた(p.29)」。

維新政府に対決したのは、攘夷実行を求めるグループや守旧的な宮廷勢力(=「太政官ノ役人ヲ見ルコト仇讐ノ如キ」(p.35))であったが、それらと軋轢を抱えながらも東京遷都、一世一元制の実施など徐々に改革を行っていった。

廃藩置県の説明は、版籍奉還からの経過が詳しい。その中で明治2年4月の「官吏公選」が目を引いた。これは、輔相・議定・参与について、行政官の弁事と各官の判事および府判事、一等県の知事までの三等官以上によって選挙するものである。これは公論の重視というより政権の中枢から公家・諸侯を排除して三条・岩倉派を確立するものであった。一般的には廃藩置県によって公家勢力が政権から排除されると理解されるが、版籍奉還の前にこのような人事が行われていることが興味深い。また版籍奉還と同時に、公卿・諸侯の称が廃されて「華族」に統一されたことも軌を一にするものである。そして版籍奉還後は、知藩事の世襲が否定され一門以下平士までが「士族」となった。

また「藩制」では、各藩の財務が規定され、藩札の回収が命じられる。しかし財政的に限界を迎えていた諸藩では、これを実行するには多大な困難があった。廃藩置県の前に既に藩体制の解体が進んでいたのである。

廃藩置県後の太政官三院制では、政局を中心に事態が変転。その帰結が岩倉使節団だったと言える。 そして岩倉使節団は欧米の実態を見ることで、幕末の「攘夷」の思いが完全に一掃された。

岩倉使節団と前後して、戸籍法の施行など一連の開化政策が実施される。高等教育から初等教育の充実へと舵を切った「学制」、徴兵令、壬申地券(土地の売買自由化)と地租改正、鉄道敷設などである。日本は早足で近代国家建設を進めていった。

しかしそこに注目すべきことがある。幕末に開港した横浜では、既に慶応3年に横浜本町一丁目に洋風石造り2階の横浜運上所(日本初の洋風石造り建築)が建設されているのである。文明開化は何も維新政府の専売特許ではないということになる。明治2年には早くも姿見町の料理人が西洋割烹の店を開いた。さらに横浜で最初の新聞『ジャパン・ヘラルド』(週刊)は文久元年(1861)の創刊だ。そうしたことを考えると、文明開化は幕末に始まっていたと考えざるを得ない。

ところで新政府へと反発したといえば、やはり農民である。新政府は旧藩主を東京に集住させ(地元民との紐帯を断ち切り)、新税や徴兵など農民の負担を増やしたから一揆が頻発した。そして新政府はこれらを弾圧する。中でも地租改正反対の「伊勢騒動」(明治6年12月)は、絞首刑一人を含む5万人もの処分者を出した。翌年、政府は地租を地価の3%から2.5%へ減額することを余儀なくされているが、基本的には民衆の要求はあまり顧みなかったと言ってよい。

その後に起こってくるのが征韓論を巡る政変であるが、これについては随分記載が簡略である。その代わりに台湾出兵が割と詳しく述べられており参考になった。そして征韓論政変で下野した板垣退助・後藤象二郎らが民撰議院設立建白書を出し、これから民撰議院論争が起こってくる。最後に、秩禄処分と士族反乱について簡潔に述べて稿を終えている。

「Ⅰ 明治維新の光と影」(松尾正人)では、戊辰戦争のさきがけとなった高松隊について詳しく述べている。高松隊とは、公家の高松実村(さねむら)を盟主とした草莽隊(自主的に編成された民間の軍)である。隊を組織したのは小沢一仙という宮大工の長男に生まれた者である。しかし民間とはいえ、この隊には参謀に岡谷繁実(館林藩の家老格の家柄)がおり、低い身分の者が一旗揚げるために集まっただけではなかった。彼らは戊辰戦争の勃発にあたり挙兵しようとするが、岩倉具視に止められる。しかしそれを振り切って京都を脱走して挙兵。

公家が旗印になっていたこともあり、ほとんど戦闘を経ずに、しかも周囲から軍用金がどんどん寄附されて甲府までも進軍した。ところが高松隊が甲府に入城した日、東海道先鋒総督兼鎮撫使の総督橋本実梁(さねやな)が甲府に到着し、甲府城を同軍に引き渡すよう求めた。高松隊は京都を脱走して進軍しており、綸旨も持っていない勝手な行動である。近代の軍制に即して考えれば軍法会議で処罰される重罪だ。昨日までの意気軒昂は消え失せ、また周囲からは悪口雑言が浴びせられた。そして小沢は甲州で布告したとされる偽の勅条目の責任を問われ打ち首になった。彼は勤皇に恩賞を与えるといい、年貢半減など民衆の負担軽減を勝手に約束していたのである。

しかも岡谷繁実は、横浜を攻撃するとの書状を携えていた。新政府にとって横浜の外国人を襲撃することは外交問題になることで厳禁である。京都の高村保実(実村の父)は高松隊の処分を軽減するよう必死に運動し、実村は謹慎処分へと落ちついた。しかし岩倉具視の制止を振り切って脱走したことは大きく響き、赦免が遅れたのみならず、結局その後も活躍の機会がなく任官も思うようにいかなかった。一方で参謀の岡谷繁実はコネがあったのか赦免も早く、要職に起用され、新政府で活躍した。高松実村と岡谷繁実は、僅かな条件の違いでその後の人生の明暗が分かれたのであった。

「Ⅱ 巡幸と祝祭日—明治初年の天皇と民衆」(牧原憲夫)では、天皇という存在が開化をどうリードしていったかが述べられる。明治政府は「復古」を旗印としたが、それは一見「開化」と矛盾する。しかし奇妙なことに、「復古」のためには「開化」=西洋化が必要だと大久保らは考えていた。天皇を西洋風の君主にしつらえることが「復古」なのだ…と彼らが本気で信じていたのかはわからないが、「開化=復古」の論理は「明治政府の”転向”を糊塗し、神道家や国学者の原理主的非難を封じる妙手だった(p.155)」。

西洋風の君主として、国全体で天皇誕生日を祝うこととされ(というのは、誕生日を祝う風習は日本にはなかったからだ)、これまで御簾の奥に引きこもっていた皇后は外交の場に出てきた。急進的な政策を次々と実施する新政府への理解を得るため、天皇は「仁君」として国民に姿を現した。天皇が初めて大衆に身をさらしたのは1870年4月。意図的に君主を「見せる」演出であった。そして天皇はことあるごとに仁君として下賜金を振る舞ったのである。一方で、皇居は聖域化し、人がみだりに立ち入ることができない領域へと変貌していった。にもかかわらず、政府は天皇の「生き神様」化には警戒していた。そうした「迷信」が政府の手に負えなくなることを心配していたのだ。

本稿ではこうしたことのケーススタディとして、1872年、1876年の巡幸が詳しく述べられる。巡幸の対応を通じて、天皇と国民の関係性が確立していった。国民は天皇と皇后の一挙手一投足に注目し、その行動を「見ること」を通じて「国家」の一員になっていったのである。

「Ⅲ 岩倉使節団と信仰の自由」(山崎渾子)では、岩倉使節団における宗教の対応を通じて日本の信教自由の成立過程が述べられる。日本の鎖国政策はキリスト教禁止が大きな特徴であった。幕末に開国はされたが、キリスト教は引き続き禁じられていたから、必然的にそこに矛盾が生じた。当然、欧米列強は日本にキリスト教解禁を求め、それが条約改正の前提条件となっていた。条約改正の準備もその目的にあった岩倉使節団は、この件が各国から指摘されると予想し、「近いうちにキリスト教解禁にするつもりだが、これは日本国内では影響が大きいので秘密にしておいて欲しい」との密約で各国との交渉をやり過ごそうとした。

外国人へはキリスト教の公認を仄めかしつつ、実際には禁制を続けたのは、初代外務卿の沢宣嘉(のぶよし)と外務大輔の寺島宗則の神道主義のキリシタン政策の頃からのことだった。

しかし現実には日本国内でキリスト教徒が迫害されていたから、これは各国で問題視され、特にアメリカではこの密約の効果はなかった。一行は委任状がないという形式面での不備を指摘され大久保らが一時帰国するが、その全権委任状の下付願いでも第1条にキリシタン解禁の条項があった。また一行は欧米諸国の様子を視察する中で、「文明国」の多くでは信教の自由政策をとっており、キリスト教は特に大事にされていることを確認してゆく。

だが彼らは、不思議なことに信教の自由やキリスト教解禁が必要だとはみなしていない。彼らはあくまでも外交問題として「信教の自由」を捉えていた。当時の日本ではキリスト教に邪教のイメージがあったのだが、彼らは欧米諸国でキリスト教の実態に触れたはずである。アメリカでは教会にも行っている。何の問題もなくキリスト教徒が暮らしているのを見ながら、日本でキリスト教が広まるのを懸念しているのはなぜなのだろうか。彼らはキリスト教の何を懼れていたのだろうか。本稿にはそれは書かれていないがそこが気になった。

それはともかく、岩倉使節団がまだ外遊中の明治6年2月、キリスト教禁止令を含む五榜の掲示が撤回された。しかしそれは高札を取り外したのみで伝達方法を変更したに過ぎず禁教は続いた。各国は密約が裏切られたこの処置に失望し、国内でもむしろキリスト教徒への弾圧が激しくなってしまった。

岩倉使節団帰国後も、日本は神道主義と西洋化という矛盾した目標を追い求める。文部卿の森有礼や外務卿の寺島宗則は、日本も信教自由にすべきだと建白しているがこれは例外的であった。寺島の後継、外務卿の井上馨は漸進主義を取り、徐々にキリスト教黙許の立場へと進み、明治22年の帝国憲法によって条件付きとはいえ信教の自由が公言された。日本における信教の自由は、人間と宗教、国家と宗教、人権といった観点から実現したのではなく、対外的な都合、外交問題から規定された面が大きかった。

「Ⅳ 文明開化の時代」(中野目徹)では、文明開化とは何だったのかが再考される。福沢諭吉は明治8年(『文明論之概略』)には熱烈な文明開化論者であったが、その3年後には「文明国の中に文明を見出すことができない」とぼやいた。彼は僅か20年の間に、最初の家を純洋風に、次の家を応接間等のみ洋風に、そして最後の家は純和風につくった。あの福沢にとってすら文明開化は変容していったのである。

文明開化の旗手だった明六社・『明六雑誌』は、大新聞(おおしんぶん)に文明開化を鼓吹する論説を発表したが、大新聞の雑誌欄や小新聞(こしんぶん)では早速それが揶揄された。例えば「ホラヲフクサハ(福沢) 馬鹿ヲイフキチ(諭吉)」といったように。文明開化の絶頂期ですら、西洋そのものでない西洋の物真似が嘲笑されていたのだ。福沢が明治4年に慶應義塾出版局の中に「衣服仕立局」を開業したのは、「物真似」から西洋に近づいていこうとした当初の文明開化を象徴しているかもしれない。

洋装は、幕府時代は「異形」であり「見掛次第召捕」の罪であった。であるから洋装そのものにも変革のムードは確かにあったのだ。だがそれが見た目先行であったこと、「西洋」をごった煮にした鵺(ぬえ)的なものであったことは、はやり文明開化の限界を表していた。

しかし明治8年には讒謗律・新聞紙条例が定められ、無秩序で自由で活気のある状態は終わりを告げ、「言路閉塞」になっていく。明六社は実質的に活動を終了。福沢はじめそのメンバーは「東京学士会院」に横滑りしたが、これは御用組織であり明六社とは根本的に違う存在だった。そして福沢自身、ナショナリズムに傾斜し、西洋ではなくアジアを異質なものと見なす『脱亜論』(明治18年)へ進んでいった。

「Ⅴ 博覧会時代の開幕」(國 雄行)では、文明開化に対し博覧会が果たした役割が概説される。19世紀の後半の半世紀は、ヨーロッパでは博覧会の時代とも言えるほど盛んに博覧会が行われた。日本も幕末からこれに参加することによって国際社会に歴史や実態を伝え、工芸品などを売り込んでいった。

博覧会は日本国内でも、各地域の産物を調査し産業奨励を行う目的で開催された。それが明治10年、大久保利通が殖産興業政策の一環として建議して開催された内国勧業博覧会である。それは自主的な出品というより、官側が物品を中央に集めるという性格が強く、府県別で対抗心を煽る工夫があった。それでも内国博は「文明の利器」を具体的に見せる啓蒙的な場として機能した。ただし第1回内国博で展示され最も普及したのは欧米製の機械ではなく、臥雲辰致(がうんたっち)の棉紡機「ガラ紡」だったというのは面白い。

なお、内国博には全国の府県が参加したが、西南戦争の影響で鹿児島県だけは参加しなかった。西南戦争が勃発しながら、大久保内務卿は博覧会強行を主張し、それどころか西郷軍壊滅の後、博覧会場で総督有栖川宮の凱旋祝賀を実施したのである。

「Ⅵ 士族反乱と西郷伝説」(猪飼隆明)では、士族反乱の論理が述べられる。士族反乱は、武士の特権が奪われたことへの不満によっておこったのではなく、権力闘争であったと著者は見る。それは、天皇への上奏ルートが一本化されて「有司専制体制」が生みだされ、このルートから排除された官吏や勢力の権力奪還や反抗の試みが征韓論や自由民権運動であり、その一つが士族反乱なのだという(私自身は、腑に落ちないが…)。

西郷隆盛も、武士階級の解体には一切阻止的な役割は果たしていない。とはいえ「参議の地位にありながら、目の前の政治の現実にしっくりいかないもの、居心地の悪さを感じていたことは確か(p.283)」という。

佐賀の乱では挙兵の理由として「奸臣専横」が挙げられており、神風連の乱でも「政府文武官吏」が問題だとしている。秋月の乱でも「奸人政権」の専横、萩の乱でも「小人在位、以擅国権(以て国権を擅(ほしいまま)にす)」が問題だとされた。彼らの多くは尊皇攘夷を続けてもいたのだが、開国・開化政策が貫徹され、また天皇権力に一元化してゆけば武士階級は解体せざるをえない。よって政権担当者を「奸臣」だとして非難したのだろう。

しかし西南戦争の場合は西郷隆盛も出兵の目的を一切語っていない。そのため西郷軍には不平士族だけでなくその真逆の民権派も参加しており、そこに「西郷伝説」が生まれていく素地があった。

本書全体を通じて感じたのは、文明開化は幕末に始まっており、明治政府はそれをある程度継続させたがむしろそれに掣肘を加えたということだ。江戸幕府もヨーロッパに使節を派遣したし、万国博覧会に出品した。福沢諭吉が『西洋事情』初編3冊を出版するのは慶応2年である。文明開化というと明治維新と結びつけてしまいがちだが、むしろ幕末からの連続性の方が大きいのではないかと思った。しかし明治維新後の文明開化は、幕末のそれとは著しく異なる点がある。それは明治10年頃から天皇中心の価値観で「文明」が取捨選択され再構成されていったということである。西洋中心から天皇中心へと転回していったのが明治の「文明開化」であった。

文明開化を様々な角度から検証する参考書。


2022年9月17日土曜日

『明治維新と宗教』羽賀 祥二 著(その2)

 (前回からのつづき)

 III 国民教化の思想と方法

「第7章 地方教化体制と仏教」では、教部省体制における具体的な教化活動として東北地方を担当した石丸八郎の例が述べられる。石丸八郎は教部省の官員として東北地方を巡回した。地方教化の中心となったのは、各地方の中教院だったが、本章では東北の中教院がどのような動きをし、どのような課題を抱えていたのかを詳細に明らかにしている。

教部省/大教院は神仏合同の国民教化運動を進めたが、国民への具体的な働きかけの中心となったのが中教院であった。そして重要なこととして、中教院では教導職試験が行われた。神官・僧侶どちらの場合でも、その試験結果が具申されて教導職が任命されていたのである。真宗はそれに反発し、単独での試験を企図したが、それが大教院体制からの真宗分離運動に繋がっていった。

なお、試験結果が芳しくなかったものには、学寮での一定期間の勉学が義務づけられた。しかしこの「学寮」の内実はなかなか整わなかった。何しろそこで教える人材が不足していたし、カリキュラムも確定していなかった。 

また教化活動にかかる費用には国家補助は出なかった(教導職は無給の官吏)。教導職たる僧侶や神官たちは、手弁当で(あるいは各教団からの費用で)教導活動をしていたことになる。これでは教化活動が進むはずもない。そこで地方官(地方官庁)と連携した活動が重要になってきたが、秋田県で布教係の設置が見送られるなど、必ずしも連携はうまくいっていない。

岩手県では石丸の提案で区戸長が教導職を兼務する試みが行われるなど、中教院側は地方官と共同歩調を取りたかったが、地方官の方では大教院等に官員派遣のお願いをするなど、国民教化に人員を割くのは難しかった。

というのは当時、地方官は矢継ぎ早に出される新たな政策の対応に追われていた。とても宗教的な国民教化など取り組む余裕はなかった。それよりも新たな布告や布達類を解説し人民に徹底させることこそが「国民教化」に求めるものであった。彼らは「新しい政府の法令を遵守させ、諸改革を受容させていくような説教を「教導活法」と呼んだ(p.417)」が、大教院や中教院の思うような国民教化は地方の現場から全く求められていなかったのである。

「第8章 「敬神」と「愛国」の思想」では、明治初期における敬神愛国思想の成り立ちが回顧される。従来の研究では、「愛国」は外来の概念であり、教育勅語によって封建倫理や「敬神」と接続されたと見なされてきたきらいがあるが、実際には国民教化運動の中ですでに「愛国」は中心的なイデオロギーとなっていた。なにしろ、明治国家の建国過程は、「「万国の総帝国」たる神国の発展をめざすという壮大な国家意識(p.436)」が内包されていたのである。

国学者たちは、天皇の権威は天祖の血統に基づき、君臣の関係が不変であるがゆえに国民は天皇(国家)に従わなければならない、と考えていた。一方、明治初期の啓蒙的な人々は「権利と義務」に基づいて国民が国に尽くすべきという論理を主張した。

実際の国民教化運動は、教部省の「三条の教則」によって行われる。ここでは敬神愛国が神話・神学によって基礎付けられ、「皇恩への報謝」が強調されて、そのために国に尽くすべしと説明された。ところが国民の側には未だ客分的な意識があり、なぜ国を愛さなければならないのかピンと来なかった。当時の民衆感情から乖離していたのである。また「皇恩への報謝」というフィクションは、文明開化期の進取・自立の精神からも齟齬を来していた。そして愛国は、神話に基づくのではなく、富国強兵のための手段として説明されるようになる。教部省もこれを追認したのか、「三条の教則」を補足する「十七兼題」では宗教性を後退させた近代化政策としての愛国論に変容した。 しかしそれにより 「神道的な論理や儒教倫理と折衷されて、奇妙な権利・義務の解釈が展開されることになった(p.456)」 

一方、三条教則の愛国を批判したのが島地黙雷など真宗の僧侶であった。彼らは愛国に敬神概念を持ち出す必要はなく(何しろ西洋諸国には神とは無関係に愛国的な国民がいたのだから)、国民意識こそ「真の愛国」であると主張した。

また、民権派もまた違った角度から愛国を叫んだ。民権派は、愛国公党・愛国社などの結社名や『愛国雑誌』など雑誌名が示すように、民権運動そのものが愛国運動でもあった。彼らは政府に厳しく議会設置を求めるなど一見国家に対立していたが、むしろ積極的に国政へ関与していこうとする意味では一種の国家主義であった。そして自由と権利を持つ個人が自発的に国に貢献しようとすることを理想とし、そのためには立憲制こそ全国民を愛国者へ育成する制度だと考えた。それには、かつて滅私奉公していた(=愛国的であった)士族の精神を継承するのだという士族のリバイバルの要素も入り込んでいた。

このようにして、明治10年代には「忠君愛国論」において敬神イデオロギーが後退した。そして「神道は宗教ではない」とされ、儒教倫理を中心とする新しい国教路線が敷かれる中、「徳」としての忠君愛国が主張されるようになった。神道が宗教でなくなった結果、造化三神以下の神々への敬神は宙に浮いた恰好になったが、皇祖神への敬神はそうではなかった。神々への敬神に代わって、皇祖神・天皇への敬神と愛国が結びつき、「敬神愛国思想」は明治20年代に教育勅語とともに新たな装いで登場することになったのである。

IV 近代天皇と「神道」

「第9章 神社と記念碑」(書き下ろし)では、国事に殉じたものの鎮魂と顕彰という新しい儀式について、米沢と金沢を事例に論じている。米沢と金沢は、旧藩主を神格化した神社(上杉神社と尾山神社)を創建し、それが後に別格官弊社に列格された。明治維新が否定したはずの旧藩主を祀って、それが国家にも認められたのはなぜか。

維新後の神仏分離政策では「社(やしろ)」が「神社」と改められたように、仏教だけでなく神社が大きな改変を受けた。 一村一社といった強権的な神社整理を行う一方で、仮に県社であっても氏子の寄附のみで運営させ公費を支出しないなど、国民に神社の維持を命じつつも神社のあり方には大きな制限を加えたのである。

しかし明治11年に社寺創建の許可が地方官に委任されると状況は一変する。神社の創建願いが急増したのである。これに応じて明治19年には創建に一定の制限が加えられ、明治23年(帝国憲法発布の年)には「民族国家の宗教理念に基づいた創建神社の時代は終わった(p.502)」。これらの神社創建は何に基づいていたか。

この前提となったのが、明治10年代の墓碑・記念碑が建立される趨勢であった。それには暗殺された大久保利通らへの墓碑撰文が嚆矢となった。国家に殉じた者の顕彰のために立派な墓碑や記念碑が建立され、また中国の伝統になぞらえてそこに漢文の碑文が刻まれることがスタンダードになっていく。

特に西南戦争の死者の慰霊碑はその象徴である。例えば 滋賀県では、都市を見渡すことのできる場所に立派な慰霊碑が建立され、また大仕掛けの祭典が営まれた。そうした見晴らしのいい場所は鎮魂の場所として相応しいという観念も育っていく。なぜ西南戦争の慰霊碑がビッグイベントとして建立されたたのかといえば、新政府の政策によって動揺する人心を死者を持ち出すことによって鎮める意味があった。現在の太平は戦死者のおかげだと強調し、良民になるための「躾」を、死者を模範として行おうとした。

また神社は、廃藩置県後に立場的にも精神的にも不安定な立場になっていた士族たちを、精神的につなぎ止めておくためにも必要とされた。旧米沢藩では、廃藩置県直後に上杉謙信と鷹山の祭祀を神祭により行うこととし、社殿を旧本丸に修築することとした。これが上杉神社に繋がっていく。 

追って、山形県令に赴任した三島通庸は鷹山の位階を進めるよう運動し実現した。彼は既存の権威を利用して自らの立場を固めようとしたのである。

一方、金沢でも西南戦争記念碑が建立された。またそれに先駆けて、明治5年には教部省官員と石川県参事により、前田利家を祀っていた卯辰八幡宮を旧主の別館に移転して郷社とすることで尾山神社が創建されていた。このように、「著しく功績を挙げた郷土の人物たちが、新しい秩序の構築に際して動員されていった(p.517)」。明治32年には前田利家の死後300年祭が大がかりに挙行される。地域の歴史を新しい国家の中に位置づけてその顕彰を行うことで、郷土意識と国家意識を接続しようとしたのである。

こうした動きの中で全国的に最大のものは、明治28年の平安遷都1100年祭である。そこでは桓武天皇を祀る平安神宮が創建された。「旧藩主、顕彰碑などの新しい施設とその祭典が「神道」を形成する推進軸となっていった(p.523)」。

「第10章 顕彰政策と「以心伝心」のシステム」では、功臣や立派な人物の顕彰によって「歴史」が政治的に再構成されていく次第を述べている。18世紀末以降に「民心一致」「民心収攬」などのスローガンがしきりに叫ばれ、「民心」が為政者に注目されていた。19世紀には欧米の心理学や教育学が知られるようになり、「民心」論は国民と国家の関係を考える上で重要なものとなった。

帝国憲法発布の前年明治22年、西郷隆盛へ正三位、藤田東湖・佐久間象山・吉田松陰へ正四位の位階が贈られた。明治24年にはこうした顕彰の叙位がいっせいに実施されている。対象となったのは各藩の尊攘派の志士。彼らはこの時に初めて国家から「志士」として認定され、功績を挙げたものとして序列化され歴史に組み込まれたのである。

この頃、たえず顕彰されるべき人物が発掘され、位階が贈位された。それは「歴史の土壌に国家の根を張りめぐらそう(p.541)」とする取り組みであった。草莽市井の無名の人々に勤皇の精神があり、それが発露されて明治維新に結実したという歴史観を醸成していったのである。

しかし、そうして顕彰された人々は、必ずしも個人として讃えられたのではなかった。そこでは個人の功績は誇ってはならず、功績は皇恩に対する恩返しであるから、君主・祖先・父母に献げなくてはならないのだと迫っていた。つまりそうした顕彰は、個人の功績を国家が回収していく装置として働いたのである。

そうした顕彰システムの原型は、早くも明治10年に宮内省が作成した『明治孝節録』に現れている。これは孝子とされる人物を紹介した修身書であるが、そこでは父母に尽くし、家業に精励し、家を維持した人々が立派であると称揚されている。それは、個人が活躍するのではなく、自らを犠牲にしてまで社会に従属する存在として生きることが立派だとする価値観が提示されていた。本書には記載がないが、これは幕末に『靖献遺言』に触発されて破滅的なまでに尊皇な行動をとった志士たちとの鋭い対照となっている。

このように国家は、自らにとって都合の良い人物や歴史を、戦死者記念碑・忠魂碑・贈位などによって顕彰する制度を整備していった。その対象の選定には国家の微妙な価値判断があったのは当然である。そして、こうした動きの一環として歴史的遺物の保存が注目されてくる。

そのきっかけとなったのが天皇の行幸である。行幸では地域の名所旧跡を巡ったり宿泊・休憩した。風光明媚な土地のみならず、大小の神社や名士の墓を巡る中で、そうした場所の歴史の調査が命じられ、それを天皇が認めることで地域の景観・歴史が国家にとって価値あるものとして再定義されていく。こうして「近代日本国家の形成過程において、社会と政治の領域に「歴史」の価値が徐々に浸透していった(p.561)」。

教育勅語の草案(の一つ)を書いた中村正直は、忠孝の「元ハ天ニ出ツ」としており、個人は「天」との関係において独立していた。しかし教育勅語が完成していくなかでこの「天」が否定され、それは「「歴史」におきかえられたのであった(p.563)」

「第11章 宗教・歴史・「神道」」(書き下ろし)は、近代日本の宗教政策が日本人にもたらしたものを俯瞰して述べるもので、大著の結びに相応しい論考である。

明治前期の宗教政策では、宗教は政治の支配下に置かれた。しかし明治7年の真宗問題(真宗が大教院体制から離脱)を契機として、政治と宗教を分離すべきだと傾斜していく。当初、国家はキリシタン禁制を敷いていたがこれも信教自由によって緩和された。

こうした政策の直後の宗教論の代表として、明治16年の福地源一郎『宗教論』が紹介される。そこでは既に宗教が歴史的なものとして把握されていた。明治20年代になると、進歩した社会では宗教は哲学に進化するのだという考えが進歩的な人々によって主張された。政府の政教分離・信教自由政策と、宗教を前時代の遺物と見なすような風潮が、次第に宗教から歴史を分離していく作業を促していった。

そこには皮肉なことに、古社寺の保存も一役買っていた。政府として古社寺の保存が課題になった最初は、明治9年の天皇の東北旅行に同行した木戸孝允が、日光の荒廃を目にしたことだという。明治12年には大隈重信が意見書を出し、それに従って内務省社寺局長の桜井能監は太政官伺を作成した。そこでは「勝区旧跡古代之建物ヲ保存スルハ国光ヲ保有スル(p.595)」から重要だと述べられていた。

古社寺の保存は、宗教的価値はもちろん、美的な価値によってなされたものでもない。「国光」のためなのだ。 明治17年成立の管長制でも、寺院は歴史的な由緒に関わりなく一律に国家との関係が規定されていた。古社寺を保存していこうとする動きは、国家が失われゆく古き良き宗教の遺風に気付いたのではなく、むしろ信仰とは区別された社寺の公的な価値に着目した結果であった。

それは既に述べたように、「天皇を含めて歴史的な人物や遺跡に対する保護と敬礼のあり方が重要な課題となって、宗教とは区別される歴史的な存在への配慮の問題が浮上してきた(p.589)」ことと軌を一にしていた。国家は、歴史を通じて不変の国民的精神を再定義しようとしていた。日本人の優れた固有性—忠孝・廉恥・清潔・貞節といった封建道徳は、宗教の力によるものではなく、歴史を通じて自然発生的に培われてきたものだと見なしたのである。

 そして政教分離体制の中で、「神社神道と仏教から歴史的な要素を抽出し、それを民族の歴史と風景を象徴するものとして保護していく作業が実行された(p.600)」。寺社にあった貴重なものが博物館で展示されるようになった。そして古社は、信仰ではなく歴史が重要なのであり、景勝地の保存は美的な観点よりも国光の保持のためになされた。そして全国に顕彰碑や保存物を配置することで、「全国に同じような場所があり、くりかえし同じような史蹟をめぐり、その由緒の説明を聞く(中略)歴史の共有化のプロセスが日本社会に「神道」を定着させていくことになった(p.604)」。

神道はなによりも「国家功労者の祭祀」の体系であった。戦死者の招魂・慰霊の儀式といったものが近代日本の国家的な宗教体制を支えた。招魂社や靖国神社は普通の神社とは全く異質であった。それは、神ではなく個人の霊が祀られていた。抽象的な戦没者慰霊ではなく、戦没者一人ひとりの名前が刻まれ、平等に丁重な葬祭が営まれたということは、国家による慰霊のあり方として画期的であった。国家は、生きている国民には圧政を課したが、死んだ国民には平等で温かかった

神道は明らかに宗教であったが、「神道を国民礼典であると見なすことで、それは宗教ではなく、「礼」の民族的な表現(p.616)」だと捉えられた。そして「神道は、功労者の”霊”を媒介とした心的な交流(p.622)」であった。何をどう祀るべきかを神道が教えた。

靖国神社、学校での儀式、遺跡碑への敬礼といったように、神道は敬礼すべき対象を国民に事細かに指示した。「全体としてこれらは日本の固有の歴史への敬礼、すなわち国礼であるといってよい(p.624)」。こうした「敬礼の体系」に全国民が搦め捕られる中で、近代の「日本人」が創り出されたのである。

 

最後に、本書全体を通じて感じたことをここに述べたいと思う。明治維新当初の宗教政策は、国家の権威を「神話」に置いていた。だからこそ神道を国教化しようとし、それはある程度成功したが政教分離・信教自由によって挫折した。それと並行して、国家の権威は「天」(あるいは「天理」)に基づくと考えていた儒教的な人々もいた。西郷隆盛が「敬天愛人」を頻繁に揮毫したのはよく知られている。儒教的な「天」は、宗教的なものというよりは社会の道理を示す一つのアイコンであった。

しかしこの「天」が明治後半にかけて徐々に退けられていく。本書にはこのことはごく簡単に述べられるに過ぎないが、ここが非常に気になるところである。江藤新平は斬首される際に「唯皇天后土のわが心知るあるのみ」と3度叫んだと言われるが、この「皇天后土」は天皇ではなく「天神地祇」のことである。「天と地の神だけが俺の心を知っている」ということだ。田中正造は足尾銅山の鉱毒事件は「天」が裁くと信じた。どうやら、明治の人々にとって「天」は、人間がつくった政府よりも上位の、普遍的な理法として理解されていたように思う。だからこそ明治政府は、「天」を至上のものとするのに二の足を踏んだのではないか(c.f.  教育勅語)。

そして普遍的な理法の代わりに持ち出されたのが、神話から続く「歴史」であった。それは国家の歴史だけでなく、巨大な顕彰碑が各地に建立されることで、地域の歴史が国家のそれに位置づけられ、万邦無比の輝かしい歴史、勤皇の歴史が再構成されることとなった。そしてそこから導き出されたのが、不変の君臣関係と国民精神である。だがその内実を見てみれば、それは忠孝や貞節のような儒教道徳・封建倫理に他ならない。このような全く中国風の倫理を日本固有の国民精神であると鼓吹したのには奇異な感じが否めないが、まさに日本は自らを「中華」(世界の中心)として位置づけたのである。

本書の記述の対象外になるが、明治後期に国家の権威の源泉として「歴史」がクローズアップされた後、太平洋戦争の頃には再び「神話」がリバイバルし、昭和15年には神祇官の復活として「神祇院」が設置される。しかし結局、「天」がリバイバルすることはなかったということに、日本近代史の特質を見ることができるように思う。敗戦で「神話」が否定された後、それに代わる国家の権威となったのは、GHQであり米国だったのかもしれない。

明治時代からの宗教のあり方を考える上での基本図書。

 

2022年9月13日火曜日

『明治維新と宗教』羽賀 祥二 著(その1)

明治政府が宗教をどう扱い、それがどう変わっていったかを述べる本。

本書はかなり浩瀚な本である。約650ページあり、全11章で展開される論考は明治政府の宗教政策を考える上でのほとんど全ての論点が提出されていると言っても過言ではない(ただし神仏分離・廃仏毀釈を除く。これは安丸良夫の研究に追加すべき点がなかったということだろう)。私は、この分野については比較的よく読書してきた方であるが、このような総合的な研究はもっと早い時期に読んでおきたかったと思ったくらいである。

そして本書の特色は、多くの章で先行研究の整理が丁寧になされることである。特に「序章」「I 明治神祇官制と国家祭祀」については、この分野での研究史の総括がなされている観がある。であるからして、当該分野にあまり詳しくない人が本書を読んだ場合、通読はかえって困難かもしれない。逆にある程度学んできた人が、その知見を深めるとともに、統合して体系化するのには非常に役立つだろう。

しかし私自身、今読書メモを書こうとしているその時にも、まだその全体像を咀嚼できていない。というのは、本書を構成する章は元は独立した論文であり(3つ書き下ろしの章がある)、全体として一つのことを論証しようというよりは、明治維新と宗教の関係を多角的に検証するものだからである。

とはいえそれらはバラバラなものではない。著者によれば、本書は(1)明治維新後の宗教制度の再編成の特徴、(2)国民教化に現れた思想と方法のあり方、(3)日本近代の国家と密着した宗教制度である「神道」の特質を解明すること、の3つを課題として編まれたという(序章)。以下、その観点を念頭に置いて内容をメモしていく。

「序章」では、上述の点も含め、本書の問題意識と内容が概観される。この中で、明治国家における宗教的な課題として、神殿と礼楽論を挙げているところが興味深い。この2つは、いかにして国家の功臣や神を祀るかという形式の問題であると言える。神殿については事実いろいろなすったもんだがあったのだが、礼楽論については議論が活発であったとはいえない。しかしこれは後に(新しい)神道儀礼として結実していくのである。また序章では国家神道研究の視座が反省され、研究史の総括がなされる。国家神道の研究の嚆矢となったのは村上重良であったが、村上の研究には戦中と明治期の国家神道を連続したものとして捉えたきらいがあった。それを修正しより精密に明らかにしたのが安丸良夫や宮地正人の研究だ。また森岡清美は戸籍と宗教の関係に注目し、身分制の解体と宗教の関係について問題提起した。著者は神官と僧侶の身分を解体したのは教導職制であったと位置づけている。

I 明治神祇官制と国家祭祀

「第1章 神祇官制の出発と神祇・皇霊の祭祀」では明治政府の当初の宗教政策が概観される。政府は神祇官を復興させたが、その際に中心的な役割を果たしたのは津和野藩の亀井茲監・福羽美静であり、公家では中山忠能であった。中山は王政復古後「法親王の還俗、坊官の廃止・その諸大夫への取り立て、社人の非蔵人兼勤の停止など」にまず着手すべきと意見しているが、これは興味深い。また職制にも復古を求めたのが中山である。五カ条誓文の成立にあたっても、中山の影響が大きかったと考えられる。

神祇官は当初は伝統的な神道家である白川家・吉田家を包摂するものであったし、神祇官の職務に「神道伝授」はなく、両家の領分を侵すものではなかった。しかし神祇官の推進する神祇道は、両家による神道支配を否定するものに進展していった。また神祇官の全国支配のため府藩県には神祇曹を設置する構想があったが、実現には至らなかった。

「王政復古大号令、五カ条誓文、神祇官再興、万機親祭の詔書、孝明三年祭、祈年祭再興、国是確立の奉告という(中略)諸政策の中に、復古神道家は神武創業・祭政一致の理念を反映させ、成立したばかりの維新政府に確実にその地位を固めて、維新政府を支えた(p.99)」。しかしながら現実としては、当時の祭政一致は、政治に神を祀ることが含まれているのであって、政治が神の権威を背景にして行われるというのではなかった(津田左右吉)。復古神道の思想は、神の権威よりもむしろ封建的な価値観に支えられ、祖先祭祀や敬神を「忠孝」と位置づけた。そして地方統治も律令格式に準拠して藩への強い規制を行う制度を構想した。しかしそれは廃藩置県を目指すよりは、既存の体制を維持することを念頭に置いていた。「敬神と不可分な形での儒教徳目の実践、および各自に即した朝廷への忠勤の意識構造が、何ら旧来の身分的階層序列を解体する方向に働かないことは明らかであろう(p.111)」。

「第2章 神祇官制の展開」では、神祇官制が廃止されるまでの動向が述べられる。明治2年、官制改革により神祇官は太政官から特立した独立部局となった。この改革では門地主義が否定され、政権の中枢から公家が減少したが、以前には亀井・福羽の要望により排除されていた白川資訓が神祇大副に就任したのは注目される。なお神祇官は「宣教」と「諸陵」などを所掌していたが、諸陵については穢れの問題から追って分離され「諸陵寮」が置かれた。

神祇官は神殿を設け、「八神」(皇室が中世まで、近世では吉田家・白川家が祀った神々)と「天神地祇」「歴代皇霊」を祀った。 そして明治3年1月3日に初めて「神殿祭」が行われるとともに、同日「大教宣布の詔」が出されるのである。この神殿祭祀は皇室祭祀とは断絶して構想されたものである。仏教系・陰陽道系の日待・星祭・諸祈祷は廃止させられ、純粋な神道による祭祀が創始された。一方、皇室では「賢所(かしこどころ)」で私的に祭祀が営まれており、これは主に女官にゆだねられていた。国家の祭祀は二元的な様相を呈していたのである。

明治2年には神祇官は全国統一の神社調査を命じている。これは一向に進まなかったため、とりあえず「官幣神社」など大社から進められたが限定的なものだった。ところが明治3年8月、神祇大祐門脇重綾の提起により本格的な調査に乗り出す。「この神社調査は神祇官神殿のもとで、全神社を位階的に編成し、神殿祭祀の統一的な実現、神職身分の再編成を図ることを目的としていた(p.152)」。これも多くの府藩県では早急に調査を行うことはできなかったが、神仏分離を進める中で、国家祭祀を統一的に実施する政策が実行に移される。明治4年5月の布告では、神社は「国家の祭祀にて一人一家の私有すべきに非ず」とされて、根本的な制度的改正を受けたのである。それは、(1)神職への叙爵停止、(2)神職の統一戸籍への編成、地方貫属化、(3)社格の設定、(4)社格相応の神職職員の規定、(5)神職補任の規定、(6)神社財政の規定などであった。要するに、神社を府藩県の管理下におき、身分としての「神官」を廃止して、神職を官吏化するものである。 

こうした大きな改正が行われる一方で、中央集権国家体制の確立に向けた行政改革が行われる。政府官員の削減が行われ、神祇官は小祐以上の官員がほぼ半減している。この趨勢の中、反開化を掲げた平田派は神祇官から排除された。そして未だ神祇官制にこだわる勢力はあったが、そうした勢力に配慮しながらもその後の体制が江藤新平を中心に検討され、神祇省に格下げすることに落着した。しかし福羽は「かへりて斯道は盛になるべき(p.163)」と考えた。それは、神祇官制では、神祇官が祭において天皇を補弼するに過ぎなかったが、天皇が直接国家祭祀を行う体制(天皇親祭体制)の方が適切だと考えていたからである。

「第3章 成立期近代天皇制の国家祭祀」では、やや時間を遡って天皇親祭体制の創出過程を述べている。その画期となったのは明治4年7月の廃藩置県である。これにより維新官僚たちは天皇の権威を確立し、中央集権国家の建設へと舵を切った。当然、神祇政策もその影響を受けざるを得ない。しかも国学者・神道家の思想的狭隘さが祭祀への不信にも繋がっていた。しかし政府は天皇を文明開化的な啓蒙君主としてではなく、むしろ現人神的な存在としてしつらえていく。維新直後の人々にあった「公議論」を後退させたため、国家の求心力として「祭政一致」の権威を代わりに据えようとしたのだ。

そのためには、天皇を束縛してきた仏教的な諸制度を廃止する必要もあった。天皇以上に仏教が権威を持っている、ということになると都合が悪かった。従来、神祇官は寺院・仏教を管轄外として皇室と仏教・寺院の伝統的関係に介入しない方向だったが、明治4年5月から10月にかけて皇室と仏教・寺院との分離作業が矢継ぎ早に行われた。主なものは以下の通りである。

5月 御黒戸の廃止
6月 門跡号、比丘尼御所の廃止、寺院執奏の廃止、撫物の廃止
7月 僧侶任官、僧職継承の献上物廃止
9月 歴代皇霊の宮中への遷座、太元帥法、後七日御修法の廃止、諸寺・諸山勅会の制の廃止
10月 由緒ある寺院への下賜金の廃止

中でも最大の改正は、明治4年9月に行われた「歴代皇霊の宮中への遷座」である。これは天皇親祭体制の実現のため、賢所と神祇官神殿で二元的に行われてきた祭祀を、賢所を中心として統合する方策の一つである。そして従来重視された「天神地祇」への祭祀の重要性が低下して、天皇の神性の基盤となる「歴代皇霊」が重視されるようになった結果でもあった。神祇官神殿に祭られていた歴代皇霊の賢所への遷座は、最大級の国家儀式として実施された。

またこれに伴い、神祇官神殿での祭祀は再構成することが必要となり、「四時祭典定則」が定められたが、神祇官→神祇省が担う役割は減少し、宮中が国家祭祀の中心となった。これには、廃藩置県に伴う改革で宮中から女官層が排除されたことも影響していた。

こうした動きと並行して、伊勢神宮の改革も国家の手によって進められる。特に神祇官(省)員が神宮の神職となることができるようにした制度により、多くの官員を神宮に送り込んだ。また元来神宮の御師だった浦田長民は国家の動きに呼応し、伊勢神宮改革を担っていく。

そして明治4年11月の大嘗会は、「神祇官の廃止、賢所改革、それに伴う国家祭祀の再編成、神宮改革、天皇と仏教・寺院との分離作業という、同一の理念に基づいた相互に関連を有する諸改革の総仕上げの意義をもつものであった(p.235)」。その理念とは、「天皇権力の絶対性・永続性を万世一系の皇統神話によって証明(p.237)」し、政治的君主としての天皇を国家に位置づけるものであったといえる。

II 日本近代の政治と宗教

「第4章 神道国教制の形成」では、神祇官におかれた「宣教使」についての思想闘争が描かれる。維新前の慶応3年に浦上キリシタンが名乗り出ると、幕府は元来は死罪に処する所だったのをフランスとの関係から処罰が緩和され、維新後、政府は彼らを諸藩に預けることとした。そしてキリスト教の棄教を迫る教化活動が行われるのである。そして西洋諸国との軋轢を怖れながらもキリスト教からの防衛を考えていた政府は、神祇官に「宣教使」をおいて国民教化に取り組んだ。

しかし、宣教使が何を教えるのか、ということが定まらなかった。政府の推進する「神道=大教=惟神の道」が未確定だったためである。そんな中でイニシアチブを取ったのが儒者の小野述信である。明治2年に小野が作成した「神教要旨」ではそれが敬神・明倫と儒教道徳に整理されるとともに産土神への信仰を求めつつ、天照大神に最高神格を付与した。

これに反対したのが平田派を中心とする復古神道派で、彼らは最高神格としては天御中主神を措定し、また死後の世界では大国主神の権威を強調した。しかしながら、敬神や明倫、儒教道徳といった内容にはほぼ異論がなかったと言ってよい。

こうした異論に配慮し、明治3年の「大教要旨」では、「惟神の道」が敬神・尊皇・儒教道徳のみの簡素な形へ一歩後退した。また、氏子改と神葬祭の実施が目指されてくる。しかし神社調査も行われていない段階で全国民の氏子帳を作ることは現実的ではなく、またそれは大蔵省が進めつつあった戸籍法の準備ともバッティングした。

一方、各藩に預けられていた浦上キリシタンへの教諭は、当然のことながらうまくいかなかった。禁制の中で保ち続けていた信仰を簡単に捨てるわけもなく、また今や西洋諸国が眼を光らせている中で暴力的に改宗を迫ることは各藩にも不可能だった。その上宣教使は有効に機能せず、実際には僧侶が教諭を担当しており、それはやがて追認されることになる。神仏分離令や廃仏毀釈によって被害を受けていた仏教各派は、キリスト教防禦を自ら担うことで存在意義を示し、宗門体制の維持に繋げようとしていた。

そんな中、明治4年7月には「大教」の説明として「大教旨要」が太政官達として布達された。これは、それまでの「神教要旨」「大教要旨」を踏まえてより平易かつ具体的に述べたもので、敬神、明倫、儒教道徳、産土神などは小野神学を継承しつつも、天照大神や大国主神といった神格の問題には触れずに、天皇への忠誠を求めるものである。これは宗教の相違を超える包括的なイデオロギーとして構想されたものであるが、それは神道派の国家宗教の構想が破産したことを示していた。

またこれと同時に「郷社定則」「氏子改取調規則」「氏子札差出方心得」が定められるとともに、戸籍法に吸収された形で氏子改が制度化された

本章に描かれる小野神学と平田神学のつばぜり合いは、傍目には細かい部分の議論で、その意義がよくわからない部分がある。彼らは、敬神はもちろん儒教道徳の勧奨すらも共通していた。問題だったのは神道のより宗教的な部分であり、そういう神学論争が神祇官の足を引っ張り、遂には神祇官廃止の一因となった。

「第5章 教導職制と政教関係」では、教導職制によって僧侶の身分が解体されていったことを詳細に述べている。私が本書を手に取ったのは本章を読むためといっても過言ではない。廃藩置県の直前、明治4年5〜6月に「近代戸籍法の成立と密接に結びついて宗教制度の根本的な再編成が実施された(p.298)」。具体的には、6月に門跡寺院の廃止、寺院・僧侶の地方官管轄、僧尼志願者への免許付与(明治8年に取り消される)などが実施された。この段階では「寺院・僧侶の地方官管轄」といっても所掌が定められた程度であったと思われるが、追って寺格にかかわりなく地方官が住職任免権を掌握する。寺院は地方官の支配に置かれた。

さらに明治5年3月、神仏合同で国民教化を担う教部省が設置され、4月には大教正以下14級の職制で「教導職」が出発した。これは国民教化を担う無給の国家官吏であり、「神官・僧侶から選出される新しい国家公認の宗教者(p.302)」だった。教導職は、既存の教団(宗派)から選出されていたから、これを統括するために「教導職管長制」が設けられた。国家が公認した宗派(神道東西部、仏教七宗)に「管長」を置き、教導職を管理させたのである。これは「明治17年の各宗派管長制の出発点となった(同)」。

また、教導職設置と同時に、僧侶の肉食妻帯畜髪が許可される。これは僧侶身分の解体が行われることを示した。さらに「得度」が否定され「宗門ノ私称」となった。「得度」とは、族籍から僧籍に身を移すことであり、古代から続いてきた慣習であったがこれが否定された。明治7年1月には、僧侶も本籍を定めることが命じられた。これは新たに得度を行うことが否定されただけでなく、既に得度した(僧籍にある)者も、俗籍に編入することを命じたのである。

これだけではない。各宗の住職になるには教部省(本山)・地方官(一般寺院)から辞令書交付を受けることが必要となり、しかも住職になるには教導職試補以上であることが義務づけられた。本山の住職決定権・任命権の大きな制約であり、これは本末制度の解体を促すことになった。本章ではこのケーススタディとして西本願寺中本寺の興正寺の別派問題が取り上げられている。

さらに、明治9年12月には「僧侶ト公認スル者ハ諸宗教導職試補以上ニ限(p.314)」る、とされた。住職のみならず一般僧侶でも教導職であることが必須となったのである。この規制をクリアするため多くの僧侶たちが教導職へ任命され、管長制が本山制を実態的に吸収して一体化した。これらは宗教身分が教導職制に吸収される形で廃止されたことを意味した。明治10年には教部省が廃止されて、神社・寺院行政は内務省社寺局の担当となる。

内務省時代には、社寺の法的性格が明確化される。明治11年、社寺創建・移転・廃合に関する手続きが規定され、翌明治12年には社寺の厳密な調査を府県に命じ、寺院・仏堂・神社・神祠が「公許公有」のものであることが明確になった。ここで注意すべきことは、神官の身分の取り扱いも一般寺院住職と同一であったということだ。また氏神は宗教ではないとされ、戸籍にも信仰に拘わらず居住地の氏神を記載すべきと指導された。宗教の領域と「国家の祭祀」の領域の切り分けが再検討されていたと思われる。

なお、このような政策により寺院「共有物」論=寺院は公共の存在だとする考えが生まれた。であれば、本山の管長・役員などは公選すべきであるという、公議公論的な主張も生まれてくる。本来私的な領域であるはずの宗教に、公的な性格を与えて内務省がその統治下に置くという政策にはやや無理があったものと思われる。

そうしたことからか、内務卿山県有朋は井上毅に宗教政策の見直しを命じ、明治17年太政官布達19号が出された。これにより教導職が廃止され、寺院住職の任免権を管長に委任した。国家が宗教者を「教導職」という役職で官吏化していたことを廃止し、人事も各宗派に委ねたのである。これは別の面から見れば、管長の権限が強化されたことも意味した。こうして「管長制」が確立する。

明治18年には、明治4年に廃止されていた門跡号が私称として復活。また既に明治16年に戸籍への社寺名記載は簡素化されていたが、戸籍への宗旨記載自体が不必要となった。これらは、神道・仏教の私的性格が確認され、事実上、国家が臣民の宗教を管理しなくなったことを示す。さらに明治20年には宗祖・派祖への師号宣下が廃止される。仏教に公的性格がなくなった以上、自然の処置であると言えよう。

しかしこうした政策は当然に、明治20年代、神道家たちの間に神道を再び国教の地位へ引き上げようとする運動を生みだした。神祇官(神祇院)再興論である。一方で仏教勢力には、古社寺を復興させ国家の歴史として保護していくべきとする議論が起こり、これは明治30年の古社寺保存法で結実する。 

「第6章 明治20年代の宗教行政と教団「自治」」(書き下ろし)では、仏教教団を中心にした「自治」の揺らぎを述べる。「管長制」は、教団の運営を管長に委任する「放任主義」の政策であった。つまり教団はここに至り「自治」の必要に迫られた。それまでは国家に対立しつつも、神仏分離以降の痛手から教団の存続を目的とした取り組みがなされていたが、ここに至り教団が分裂していく傾向となる。それは管長制と歴史的に残存する本山制の対立であった。

本章ではそのケーススタディとして、曹洞宗の総持寺派・永平寺派の争いや浄土宗の五本山の対立が述べられている。浄土宗の場合は、内務省は、人事等は本来は国家が持っている権限として五本山の住職と執事を辞職させたが、これは一般的な姿勢ではなかった。究極的にはこうした措置がありえるとしても、曹洞宗のゴタゴタはやまなかった。

ただし、このあたりの事情は実際の人事が述べられておらずよくわからない。当時の管長が誰で、それがどのように選出され任命されたのか、という具体的な部分が書かれておらず、あくまで一般論としての管長対本山住職として記述されている。ここは少し物足りなく感じた。

こうした教団分裂の危機に対しては、自治の向上ではなく宗教的な祖先の権威の強調によって乗り切ろうとする機運が生じた。それを表すのが明治26年の寺格僧爵制度の提案であった。高位の僧侶に国家から叙爵することにより、上下関係を明確化して教団の秩序を維持しようというのである。しかしこれは、高位の僧侶を国家が認定する、時代に逆行する制度であるため決定されなかった。

そのような中、国家と各宗の新しい関係が意外なところから規定された。明治28年、神道各教派・仏教各宗派に対して内務訓令が出された。そこでは宗派の教師を検定試験によって選出するように求めていた。教団の混乱が学のない僧侶によって起こされたと見なし、試験によって人事を行うよう求めたのである。なお神職については内務省及び地方庁で試験を行った。これは試験を通じて国家が間接的に宗教を管理する体制であった。そうではあるが、同時にそれは教団は国家からの直接的な保護は受けられないことを示してもいた。国家から保護を受けられたのは、皇室と関係ある神社・寺院だけだったのである。こうして、古社寺は歴史的な天皇との繋がりを強調するようになっていく。

(つづく)


2022年9月6日火曜日

『歴史で読む国学』國學院大學日本文化研究所編

国学の発展の歴史を平易に述べる本。

国学とは何だろうか。本書はこの疑問に対してその歴史的発展を丁寧に追うことで答えるものである。普通には、いわゆる国学四大人(したいじん/しうし)、すなわち荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の人生や活動にフォーカスを当てることで国学を説明するのに対し、本書では編年的に国学に関係する事項を教科書風に述べてゆく。無味乾燥といえばそうかもしれないが、私には非常に読みやすくまたわかりやすかった。

本書は、第1章が元禄期で「水戸光圀と契沖」、第2章が宝永〜享保期で「荷田春満の活動を中心に」、といった具合に、だいたい10年から20年ほどの間隔で章を区切って構成されている。よって前後関係が明確に理解できることはもちろんであるが、編年的な記載を貫徹することで、一般的にはあまり知られていない人物がたくさん登場することも有り難かった。

まず本書では、国学を「近世中期に発生した、(中略)日本古典の文献実証を行い、それを通じて古代の文化を解明しようとする新たな研究方法による学問(p.1)」と定義する。 

江戸中期になると日本の古典が書肆から出版されるようになり、人々に身近になった。また儒学が台頭し、儒学を基盤とした仏教批判が湧き起こってくる。それは仏教の土着化(身近なものになり村・町に定着した)の結果でもあった。さらに神職が吉田家などから許状をもらうことで「神道」が自立していくようになるのも近世である。これら「古典」「儒学」「仏教」「神道」が絡み合うことで国学が発展していく。以下、編年的に内容をメモする。

【元禄期】山崎闇斎は儒学から出発し、口伝などを総合して儒学的に神道を再構成し「垂加神道」を創始した。しかし垂加神道は、実証的な方法論で構成されたものではないという弱点があった。一方、儒教の古典をあくまでも成立当時の原意に沿って理解しようとしたのが荻生徂徠などの古文辞学派であった。彼らは当時の儒学としては傍系であったが、方法論が確立していたこともあり息が長かった。特にこの方法論は国学にも影響を及ぼした。真言宗の僧侶だった契沖は、水戸光圀の依頼を受け、古典の文章の意味を実証的に検証する方法によって『万葉代匠記』を書き、万葉集研究を飛躍的に進歩させた。また『和字正濫鈔』は定家仮名遣いを批判し古代の仮名遣いの規則性を明らかにした。彼には特定の師匠はおらず、門人も少なかったがその著作を通じて大きな影響を与えた。

【宝永〜享保期】神職が「神道」の自覚を深めていく状況で、出雲大社、京都の稲荷社などで「プレ神仏分離」というべき仏教的要素の排除が行われた。その稲荷社の社家を世襲した家の次男として生まれたのが荷田春満(かだの・あずままろ)である。春満は和歌と神道を教授する学者として江戸に出て活動した。神田明神の神主・芝崎好高を門人にしたことで活動の足がかりができた。新井白石は『古史通』など日本古代も研究対象としていたが、春満と白石の違いは契沖の学問を受容するかどうかである。それは儒学における古文辞学派の方法論を採るかどうかの違いであった。そして新井白石が吉宗の代になって冷遇されたのとは対照的に、逆に春満は幕府における古典籍の真偽判定を担うようになった。幕府には由緒に箔を付けるためなど多くの偽書が提出されるようになったからである。また春満は『創学校啓』という国学の学校を作るべきという国学史上重要な文書を起草した。

【元文〜延享期】春満が京都で亡くなったその翌年、賀茂真淵が江戸へ赴いた。江戸には春満の学問を継承する門人やその庇護者が存在していた。そうした基盤があったからこそ、真淵は江戸で活動することができたのである。一方、春満の養子在満(ありまろ)は、幕府から大嘗祭の儀礼の調査を命じられた。吉宗は文治主義の考えから朝廷の儀礼の復興に力を入れたことがその背景にある。その報告書のダイジェスト『大嘗会便蒙』は、初めての大嘗祭概説書であり、朝廷からの抗議で発禁となって処罰されたものの、後々まで大嘗祭研究の基本図書として重んじられた。なお朝廷の儀礼を復興しようとする機運の背景には、礼楽の注目もあった。徂徠派は儒学の元来の形として礼楽も重視したが、日本風の礼楽がまさに朝廷の儀礼であったのだ。桜町天皇即位にあたっての大嘗祭復興後も、続々と朝廷の国家的な祭儀は復興された。またその文脈の中で朝廷の神事における神仏分離規定も復活した。在満は和歌御用を務めながら幕府の朝廷儀礼研究にも関与していたが、在満の後任が賀茂真淵である。ちなみに幕府で彼らを庇護したのが、吉宗の次男である田安宗武である。彼自身が和学に深い関心を寄せ、万葉風に歌を詠むこともしている。

【宝暦・明和期】当時、春満よりも朝廷に大きな影響力を持ったのは垂加神道であった。山崎闇斎を継承した竹内式部は桃園天皇に垂加神道を講義して一つの到達点をなしたが、それに批判的な上層公家や、それを問題視した幕府により式部は追放され、また積極的だった公家は謹慎などの処分を受けた。これが宝暦事件である。一方、賀茂真淵はその関心をより古代に遡らせ、枕詞の画期的な研究書『冠詞考』を出版。また最晩年には万葉集の注釈書『万葉考』も出版した。それまで契沖や春満の研究はほとんど知られておらず、特に春満の著作は一冊も出版されていなかったが、真淵は彼らの学問を継承して研究成果を出版することで世の中に大きなインパクトを与えた。特に『冠詞考』を読んで学問の方向を決定づけられたのが本居宣長である。宣長はたまたま伊勢神宮に参詣した真淵と対面し、入門を許される。二人は生涯でその1回しか会ったことはなく、この出会いは「松坂の一夜」と呼ばれる。真淵は、文芸の本質は人間の感情の発露であるとする「もののあはれ」論を展開し、和歌の教授を通じて「県門の三才女」などの多くの女性門人も得た。一方、荻生徂徠の門人太宰春台の『弁道書』は、(中国の)聖人以前に「道」はない、と言う主張があったため論争が起こり、真淵は『国意考』で日本には日本の道「自然(おのずから)の道」があると主張している。それどころか、戦乱が相次いだ中国より日本の方が、神武天皇よりの皇統が連続しているから優れているとして儒教批判を繰り広げた。この古道論の登場が、仏教思想に依存しない儒教への本格的な批判として日本史における初めてのものであった。またそれは国学の歴史にも大きな転換点となった。この頃が国学の学的な確立期である。

【安永・天明期】荷田春満の子・御風(のりかぜ)、妹・荷田蒼生子(たみこ)を中核とした荷田一門は江戸の国学の有力一派であり、諸大名や幕臣・町人などの求めに応じ和歌の指導や古典講義を行っていた。一方、賀茂真淵が県居(あがたい)と号したことから、その門流を「県門」と呼ぶが、県門は「万葉派」「伊勢派」「江戸派」に分岐したとされる。万葉派には、代表的人物として楫取魚彦(かとり・なひこ)と加藤宇万伎(うまき)がいる。魚彦は中津藩主奥平昌鹿や姫路藩主酒井忠以(ただざね)を弟子にするど学界における有力者であった。他方、宇万伎の弟子には上田秋成がいる。江戸派では、加藤千蔭と村田春海が著名である。なお村田春海は、生涯に一度だけ本居宣長と出会い、宣長に突き動かされるように国学者として活動していく。この頃、宣長の論争活動が目立つようになる。例えば明和8年(1771)に、太宰春台『弁道書』の批判として書かれた『直毘霊』(初稿は『直霊』)。ここでは「儒学の教えを欺瞞と虚飾に満ちたものとし激しく指弾(p.103)」した。これにより儒学者との間で「直毘論争」または「国儒論争」という論争が巻き起こった。宣長は議論を「そっちこそどうなんだ論法」に持ち込む論争家だった。次に有職故実家にして好古家の藤貞幹の『衝口発』への批判『鉗狂人』。これも多くの人を巻き込む大論争に発展した。一方、宣長を批判したのが大坂の上田秋成であった。秋成と宣長の往復書簡を宣長側で整理したのが『呵刈葭(あかいか)』という著作。よって二人の論争を『呵刈葭』論争と呼んでいる。

【寛政期】田安宗武の第三子にあたる松平定信は、「寛政異学の禁」によって幕府の学問としては朱子学以外を禁じた。一方で塙保己一(はなわ・ほきいち)の提案を容れて「和学講談所」が設立され、それが林大学頭(昌平坂学問所)の支配とされた。保己一は国学者ではないが賀茂真淵に師事したこともあった。儒学の補完的なものとして和学が理解されていたことが注目される。この頃、宣長の出版活動は極めて旺盛となり、ほぼ1、2年ごとに著作を発表した。『玉くしげ』(天明7年)では初めて「大政委任論」を主張(本書は宣長の生前は出版はされていない)。これは現実の体制を正当化する論理であったが、これがやがて倒幕に繋がっていくとは皮肉なものである。宣長は、寛政4年(1792)には紀州徳川家に松坂在住のまま召し抱えられた。一介の町医師がその学識を買われて召し抱えられたのには多くの国学者に注目された。寛政10年(1798)、執筆に30年以上費やした『古事記伝』(全44巻)を脱稿。生前に出版されたのは第3帙(〜17巻)までであったがこれは古事記研究の画期的な業績であった。なお第17巻の付巻として、国学的宇宙論を述べた服部中庸の『三大考』が収録されたのは後に種々の軋轢を生んだ。寛政期はこの他、上田秋成による賀茂真淵の著作の刊行、荷田春満の評価の高まり、契沖の著作の出版など国学はかなりの広がりを持ち、近世国学史上の転換期と評価される。またそうした機運の中、光格天皇による様々な朝義の再興・復古が行われた。特に1790年に完成した寛政度内裏の復古様式での造営とそれに伴う種々の出来事は注目される。

【享和〜文政期】古道論を主張する宣長の門流(鈴門)は国学の中でも主流ではなかったが、宣長を継いだ大平は宣長の著書を盛んに刊行した。江戸では、徳川家斉が和学講談所に年額50両の給付を決定し、和学が盛んになる。中でも屋代弘賢の『古今要覧稿』は未完成ながら日本最初の本格的な百科全書である。また県門の江戸派(加藤千蔭・村田春海)は歌文を中心に人気があった。これら文献実証を中心とする学問や歌学がこの頃の国学の中心だった。このような状況の中、平田篤胤は寛政7年(1795)に脱藩して江戸に出、私塾真菅屋(ますげのや)で講義。篤胤は宣長没後にその著書に接してその学問に傾倒していた。そして篤胤は、妻織瀬を亡くした文化9年(1812)、『霊能真柱(たまのみはしら)』を執筆し、初の著書として翌年出版した。これは服部中庸『三大考』を下敷きに、独自の死後の世界を述べたものである。篤胤は死後の世界を黄泉ではなく目に見えない幽世(かくりよ)だと考えた。中庸も篤胤の学問を高く評価し、両者は義兄弟の契りを固めた。篤胤は積極的に学者と交流し、吉田家とも昵懇の仲となった。文政6年(1823)には吉田家江戸役所の学頭に任じられた。「あの世」の話など身近な話題を展開することで、庶民や地域の産土社の神職層など、それまでの和学・国学者がアプローチしていなかった層を開拓していったのが篤胤であった。

【天保期〜ペリー来航】天保期は国学の受容者層が藩校や地域社会に広がった。平田篤胤は著書『大扶桑国考』を朝廷・天皇へ献上したが、幕府からは絶版を言い渡され、しかも江戸追放の処分を受けた。これには篤胤門人の生田万が大塩平八郎に倣って蜂起したことが影響していたのではないかという。篤胤は秋田に移住し、晩年まで旺盛に執筆。没後は養子の銕胤が継ぎ、没後の方が門人が多かった。気吹舎の発展に銕胤が果たした役割は大きい。なお没後門人でありながら平田家から後に絶交されるのが鈴木重胤である。篤胤は江戸追放になったが、この頃は多くの藩で国学が興味を持たれ、国学者が藩校の教授になるなど藩政との関わりが深くなっていった。特に佐藤信淵は多くの藩でその著述が参照された。しかし信淵も天保3年(1831)に江戸から追放された(しかし宇和島藩・薩摩藩から出入りを許され、綾部藩には招かれた)。津和野藩では、神職で国学(宣長系→平田篤胤門人)を学んだ岡熊臣が中心となって神葬祭復興運動が行われる。また藩校養老館の教師に任命されると福羽美静を輩出した。さらに藩校では野々口隆正(大国隆正)が国学教師となった。また地域社会でも、豪農商層や神職によって国学が学ばれ実践された。これを「草莽の国学」という。この時期、山城国乙訓郡の神職で国学者の六人部是香は、篤胤の幽冥論を考究し、産土神が死後の魂を主宰する考えを提出。これは地方神職に信仰共同体の再編の指針を示すことになった。

【ペリー来航後〜慶応3年】それまでの国学は歌学を中心として非政治的なものであったが、この時期に急速に政治的なものとなっていく。特に篤胤没後の「気吹舎(いぶきのや)」は門人や来訪者からの情報を記録・交換することで政治情報ネットワークの結節点として成長した。また篤胤の著作を時事にあわせて再編集して積極的に出版した。さらに国学思想は、中島広足『敏鎌(とかま)』に見られるように日本の優越性の主張や国のために命を捨てる態度などを鼓吹し、イデオロギー化していった。本居家もそれまでの歌学ではなく、本居内遠の「古学本教大意」など国事へ携わるように変化した。政治への影響力の点では、井伊直弼のブレーンとなった長野義言(よしとき)が大きかった。直弼—義言の過酷さの背景には、「諸々の凶事の背後に存在するマガツヒに対抗するためには強く正しい心で悪と穢れを根絶しなければならない、という復古神道神学が存在していた(p.178)」。この時期は天誅が吹き荒れ、気吹舎も『玉襷』『気吹颫(いぶきおろし)』など攘夷をアジテーションする著作を発表。また平田系門人は反幕的立場を鮮明にした足利三代木像梟首事件を起こした。国学者も天誅の対象となり、長野義言の一党は斬殺、和学講談所の塙忠宝(ただとみ)は廃帝の先例を調べているという噂のため伊藤博文に暗殺された。鈴木重胤も平田門人によって養子とともに斬殺された。国学者は危険分子と見なされるようになり、秋田藩は藩士の平田延胤を幽閉処分にした。この時期に延胤が著したのが王政復古の歴史的正当性を示した『復古論』である。なお安政期の西郷隆盛は気吹舎をたびたび訪れ同行者を入門させている。

【明治元年〜明治8年】明治政府は、当初祭政一致の体制で出発し、古代律令制復興の一環で神祇官が設置された。一連の政策には津和野藩の藩主亀井茲監(これみ)と福羽美静が深く関わった。国民がキリシタンにならないように教育するのが神祇官におかれた「宣教使」の役割で、特に長州藩士で儒学者の小野述信がこの実務面での中心を担った。これは歴史上初めて、神道の教義について公的に議論する場でもあったが、特に黄泉国と天津祝詞については宣教使間で話が意見がまとまらず、意見の統一自体が断念された。それを埋め合わせるかのように、国学者たちは国学を教える学校の設立に邁進した。吉田家は矢野玄道を招いた学寮を、白川家も学寮を設置。また政府は「大学校」に平田銕胤を大学博士としたが、銕胤は昌平黌以来の釈奠(せきてん)を廃止して漢学者からの猛反発を招き、大論争へ発展した。こうした争いを背景に明治4年、平田派国学者は政府から排除され、維新政府における影響力は減衰した。しかし国学者たちは明治天皇の教育(侍読)には引き続き携わっている。明治5年には教部省が発足。その事務の一つに教義書の出版の許可があり、教部省編輯課(→考証課)では、小中村清矩など考証派の国学者が神社由緒の考証に活躍した。

【明治8〜明治23年】神道が国教の位置から後退して、神道教育は神道事務局生徒寮神宮教院本教館が中心となった。一方国学・神道学者たちの間で「祭神論争」が勃発し、勅裁によって終止符が打たれた。これによって国学に基づく統一的な「神道」の構築が不可能であることが露呈し、宗教・教化と国学との分離=教学分離がもたらされた。またこれに応じ、教導職と神職が分離する「第二次祭教分離」も行われた。この結果、神道は「神社神道」(祭祀)と「教派神道」(宗教)に分離。また、神道事務局生徒寮は皇典研究所へ発展して国学者の重鎮が参加し、内務省から神職資格の授与を委託されて全国展開した。また東京大学でも、国学者として初めて教授となった小中村清矩によって古典講習科が設置された。この古典講習科はたった6年しか存在しなかったが多数の国学者を輩出し、近代人文学へと接続していった。明治23年(1890)、司法大臣山田顕義(あきよし)、井上毅の尽力により皇典研究所に國學院が設置された。國學院からは三矢重松折口信夫が輩出された。こうして皇典研究所は宗教的な教化から国史・国文・国法などの研究教育といった近代人文学へ軸足を移した。また『古事類苑』が西村茂樹の建議に基づいて行われ、多くの学術結社が設立された。皇室典範や大日本帝国憲法の起草にあたっても古典の知識を持った国学者が参画した。

【明治中期〜昭和20年代】この時代、国学はその方法論を反省し自らを再定義しようと試みた。小中村清矩の弟子で養子の池辺義象は「古典学」の呼称に統一すべきと主張し、やはり小中村清矩に学んだ芳賀矢一は国学を「日本文献学」として転生させようとした。芳賀の『国民性十論』はその実践の一つで、同書により国民性という言葉が広く用いられるようになった。「最後の国学者」とも称される三矢重松は国学が「新国学」として脱皮することを期待した。大正期には、国学は国民道徳論に関与していったが、柳田國男・折口信夫はそれに異を唱えた。柳田は国家にとって必要な国民道徳ではなく、むしろ近代化に伴って消えつつある諸民俗の研究によって真の国民の精神を明らかにすべきと考えた。その研究を柳田は「新国学」と位置づけ、これは民俗学として発展した。三矢重松に教わった折口信夫は國學院の教授となり、柳田國男の研究にも触発され、古代の信仰を明らかにすることを目的とした「新しい国学」を提唱した。昭和に入ると文部省『国体の本義』の刊行など、政府は天皇の聖性を強調するようになっていく。このような中で、従来文壇で顧みられなかった日本古典や古美術に回帰した日本浪漫派が活動。また『国体の本義』編纂に関わった久松潜一など国文学者も、古典の研究ではなく、「日本精神を闡明する」ための「新国学」を指向していく。しかしそれらは「精神論がもっぱら先行し、方法論的な議論はほぼなされなかった(p.245)」。

【明治後期〜現在】明治16年(1883)、井上頼囶らの尽力により荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤へ同時に正四位が贈位され国学の系譜が公認された。「国学」が明確な形をとったのが明治中期以降であり、昭和に入ると国学は政治化し、「日本精神」論の流行とも相まってまとまった学術的著作が陸続と刊行された。そして戦後には、西郷信綱が『国学の批判』を著すなど、国学の本来の在り方が見直され、契沖や本居宣長など近世の国学者が改めて研究されるとともに各全集の刊行などが続いた。現代では国学研究は史料基盤がさらに拡大し、様々な分野での研究が格段に進展したことで、近代において国学とはなんだったのか、より深いレベルでの検証が可能になりつつある。

本書は全体としてかなりよくまとまっている。執筆者は一戸 渉、遠藤 潤、小田真裕、木村悠之介、齋藤公太、武田幸也、問芝志保、古畑侑亮、松本久史、三ツ松誠。多くの執筆者が分担しているにもかかわらず、記述の粗密があまりなく、重複も(後半を除いては)少ない。通史的かつ平易に理解できるものとして、本書は第一に掲げるべき国学史の教科書であると評価できる。

ただし本書には弱点がある。教科書的な内容であるにもかかわらず、事項ごとには参考文献が掲載されていないのである。巻末には「主要参考文献一覧」があるのだが、どこの記載に対応するものなのか全く書かれていない(せめて章ごとに掲載してほしかった)。しかしそういう弱点があるにしても、総合的に見ればこれ以上のものを求めるのは酷というものかもしれない。

国学史の教科書として現時点の決定版。

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2022年8月28日日曜日

『琉日戦争一六〇九:島津氏の琉球侵攻』上里 隆史 著

島津氏の琉球侵攻について述べる本。

江戸幕府の開創間もない1609年、島津氏は琉球に攻め込み、琉球を実質的に属国化した。本書は、その際に琉球が抵抗らしい抵抗もせずに服属したという通説を覆し、それなりの武力を持ち戦ったということを示すことを目的の一つとして執筆されたものである。

著者は、島津氏の琉球侵攻を「琉日戦争」と位置付ける。それは琉球は独立国であったのであり、また島津氏の侵攻は江戸幕府の許可の下に行われたものであったので、これは日本と琉球国の戦争であった、と見なすからである。そしてそれが一方的な侵攻ではなかった(琉球は抵抗し、島津氏側にも損害があった)ことを含意して「戦争」という言葉が使われている。

私が本書を手に取ったのは、「そもそもなぜ島津氏は琉球に侵攻したのだろうか」という疑問からである。それはしばしば「琉球との貿易の利益を独占するため」と説明されるが、そもそも琉球侵攻以前から島津氏は(大名としては)琉球交易の利益を独占していたし、琉球侵攻が明にバレると大きな国際問題に発展する可能性があった。後述するように明との国際関係が微妙だったこの時期に、あえてリスクを冒して琉球を属国化する理由がよくわからなかったのである。本書を読み終えた今でも、その理由には不明確な点が残っているが、私なりに理解したことをメモしておこうと思う。

「第1章 独立国家、琉球王国」では、琉球王国の成立とその繁栄・衰退が述べられる。琉球国はもともと3つの国(三山)からなり、それが尚氏により統一されて琉球王国となった。特筆すべきことに、統一前から琉球三山は明から貿易を優遇され、閔人三十六姓の派遣、無制限の朝貢回数許可などを得ていた。1458年に鋳造された「万国津梁の鐘」はその繁栄を物語っている。琉球は「万国の架け橋」として中継貿易で栄えた。

しかしその繁栄は、あくまで明からの優遇措置に基づいていた。明から供与された大型船とそれを動かす人材がなくては琉球は東南アジアまでの長距離航海をすることができなかった。よって中国沿岸の倭寇問題が沈静化していく15世紀中頃、明が優遇をやめ琉球との貿易を制限すると琉球の優位は失われた。「朝貢貿易の全盛期は三山時代から琉球王国が成立した頃まで(p.23)」であった。

こうした状況で1470年、琉球ではクーデターが起こり第二尚氏王朝が成立。奄美大島から与那国島までが琉球王国の版図となった。この版図拡大の背景には、貿易の衰退を埋め合わせる必要があったことが考えられる。またこの頃、東アジアの交易世界は「銀」をめぐっての新たな局面を迎える。日本では石見銀山の開発と新たな精錬法によって世界の3分の1ともいわれる莫大な銀が算出。逆に中国では銀が貨幣として用いられるようになり大きな需要が生まれた。よって民間の商人が銀を運んだのである。明は海禁政策を実施し、民間貿易を禁止していたから、これは違法な交易だった。すなわち16世紀からの新たな倭寇=違法海商の登場である(倭寇といえども中国人が多かった)。特に暴徒化した倭寇が沿岸を荒らしまわった「嘉靖の大倭寇」は、琉球の那覇まで押し入っていた。

こうした倭寇被害が大きくなったのは厳格すぎる海禁政策の帰結だったとし、明は約200年続いた海禁政策を一部緩和。これによって倭寇出現の根本原因が取り除かれた。日本と琉球は引き続き渡航禁止の対象であったものの、民間交易が認められた漳州の月港は空前の活況を呈する。これは、琉球が中継貿易で担っていた役割が漳州の月港に移ったことを意味した。この頃、(倭寇でない)日本人も東南アジアへ貿易に乗り出し、各地に日本人町が作られた。琉球自体が、日本人町の一つのような存在になっていた。

「第2章 九州の覇者・島津氏と琉球」では、島津氏が琉球とのいびつな関係を築いていく道程が語られる。島津氏・薩摩が琉球といつごろから交易をしていたのかは不明だが、15世紀後半、管領細川氏は日本国として琉球との通商を求め、その取次役として島津氏が活躍するようになった。その背景には細川氏のライバルである大内氏(山口)の交易活動もあったが、島津氏はこちらの取次も行っていた。16世紀前半には細川氏が衰微し、大内氏が琉球交易の中心となった(なお日明貿易は1547年の大内氏の遣明船を最後に途絶した)。

一方島津氏は、同じく16世紀前半頃から南九州から琉球へ向かう商船を印判制度を用いて統制しようとした。1508年、奥州家島津忠治は琉球王に「印判状を持っていない商船の積み荷は没収してかまわない」という島津奥州家が琉球交易を独占できる制度を提案している(『旧記雑録』)。このような提案がされたのは、私貿易の商船が少なからず琉球へ渡海していたからに他ならない。同時期、南九州と朝鮮との交易は途絶し、対琉球交易の比重が高まっていた。しかし琉球にとっては島津氏へ貿易を一本化する理由はなにもなく、この提案は受け入れられることはなかった。

16世紀前半、南九州は島津氏の本家争いである「三国大乱」が起こり、16世紀中頃にそれに勝利し南九州を統一したのが島津忠良である。その子貴久に琉球は「あや船」という正式な通交船を送り、倭寇対策として島津氏の印判制度が適用されることになった。琉球では尚元王の冊封が直前に迫っており、(交易品を売りさばく必要があるため)外来の商船や治安維持を必要としていたから、一時的な措置として印判制度を認めたものと思われる。ところが、当然のことながら、島津氏ではこれを恒常的制度として確立しようとした。ただし、島津氏直轄領と服属した国人領主の港では発給が確認されているが、どの範囲で印判制度が機能したのかはわからないそうだ。島津氏は印判(朱印状)を持たずに渡航する商船の取り締まりを琉球へ求めるようになる。

島津氏は琉球が思うように違反商船を取り締まらないことを咎め、円覚寺を通じての外交ルートも使い、圧力をかけた(この頃の琉球では禅僧たちが派遣され外交を担っていた)。これに応じる意味もあったのか、1575年、琉球はあや船を島津義久の家督相続を祝賀するために派遣。すると島津氏は印判のない船の入港をはじめ、数々の琉球の「非礼」を問いただした。これは「琉球側にしてみれば理不尽な話(p.83)」であったが、琉球の国力が低下していたことから、これらには琉球側が大きく譲歩して決着した。

またその10年後、琉球から天王寺の祖庭和尚が鹿児島へ派遣されたが、その際も使者の派遣が途絶えていることや進上物が軽微なことなどを非難された。この頃から島津氏は明らかに琉球を意図的に一段低いものとして扱うようになっている。かつてとは違い、島津氏は九州の大部分を手中に収め、強大な戦国大名となっていた。その軍事力・政治力を背景に印判制度は領国外にまで機能した。1852年に堺から琉球に渡海した商人川崎利兵衛はわざわざ鹿児島に立ち寄って家老の「添状」を取得している。おそらく「添状」のみならず印判状も発給されたのだろう。境の民間人にまで印判制度が浸透していることがわかる。

「第3章 豊臣秀吉の東アジア征服戦争」では、豊臣政権下における琉日関係の変化が述べられる。島津氏は九州統一の一歩手前まで行きながら、豊臣秀吉の圧倒的な力の前に全面的な戦争を経ることなく降伏。当主の島津義久は剃髪して龍伯と名乗った。ここに琉球への外交権は秀吉に移り、島津氏はその取次役となった。秀吉は琉球を日本の属国であるとみなしており、琉球の入貢が行われなければ島津氏を亡ぼすとまで恫喝した。しかし島津氏の家臣は秀吉へ反発しており、義久は秀吉に面従腹背の態度をとった。それでも義久は、1588年、秀吉へ服属するようハッタリを交えて勧める使節を送った。

折悪しくその頃、琉球では尚永王が30歳の若さで死去。世継ぎがいなかったため、傍系の浦添尚家より26歳の尚寧王が即位した。こうして1589年、尚寧王の使節は京都を訪れ秀吉に謁見した。琉球が日本の中央政権と接触するのは約100年ぶりのことであった。琉球は、秀吉の恫喝に屈した面もあるが、それ以外の事情もあった。尚寧王の即位は、明に冊封のための入貢を行う必要があることを意味していた(明に王として認めてもらうため)。そのために多額の費用が必要で、それに日本の銀を当て込んでいたのだ。明への冊封を見据えて、明に敵対的だった秀吉に従属したのは皮肉というほかない。

このあたりから秀吉・島津氏・琉球・明の外交は怒涛の勢いで進んでいく。秀吉は明を征服することを表明。島津氏にも軍役の負担を求めた。島津氏は琉球を属国扱いとしてその軍役の一部(兵糧)を琉球に割り振った。著者は、この割り振りの背景に亀井茲矩(これのり)の存在を推測している。というのは、秀吉は茲矩に琉球国を褒美として与えており、茲矩は「琉球守」(!)を名乗っていたのである。つまり名目上は琉球は改易され茲矩に与えられるのが筋であった。島津氏としてはそれは困る。そこで軍役の一部を琉球に負担させ、実質的に琉球が島津氏に従属していることを示し、琉球の改易を阻止しようとしたのではないかという。これは功を奏し、1592年、秀吉より琉球が島津氏の「与力(従属国)」であると公式に認められた。ちなみに茲矩には、まだ征服してもいない明の台州(浙江省)が代わりに与えられ「亀井台州守」を名乗った。

このような緊迫した状況で、同年、琉球はようやく正式な国交船「あや船」を関東平定を祝賀するという名目で秀吉に送った。しかし進上物は粗略で、割り当てられた兵糧についても無回答の状態であった。結局、秀吉に会うこともないまま「あや船」は帰され、義久のメンツはつぶされた。「与力」の失態は主である義久の責任だからである。それでなくても島津氏は失点続きだった。朝鮮出兵には割り当てられた人数を供出せずしかも出兵が遅れた(義久が後ろ向きだった)。その上、反秀吉の性格がある梅北国兼の乱が起こって義久の弟の歳久は自刃させられていた。

一方、琉球は明に秀吉の計画を裏で通報していた。しかもその背後には、義久の周辺にいた明人の存在もあった。琉球も薩摩も、表向きには秀吉に従いながら、背後では反秀吉の動きが蠢動していたのである。しかしながら表立って秀吉に歯向かえば滅ぼされる。そこで琉球は、薩摩藩に指定された兵糧は求められた半額であるが供出した。薩摩藩でも、義久は一貫して秀吉に面従腹背だったものの、朝鮮に渡海した島津義弘(義久の弟)は奮戦し、泗川の戦いでは少ない手兵で獅子奮迅の働きをした。しかしその裏で、薩摩在住明人や禅僧のネットワークによって、明と琉球・薩摩の間で停戦(反秀吉)工作が続けられたようである。そんな中、秀吉が死去。秀吉以外、誰も日明間の戦争は望んでいなかったので戦争は即刻終結したが、問題はその戦後処理であった。

「第4章 徳川政権の成立と対明交渉」では、琉球が対明戦後処理に巻き込まれていく次第が語られる。家康は、明との講和交渉を島津氏に命じた。泗川の戦いで島津氏が捕虜にしていた茅国科を明に送還し、それにあわせて交渉しろというのだ。しかし家康が提示した条件は、秀吉のそれを引き継いで高圧的なものだったので交渉は決裂。一方、琉球はそれまで「国方多事」を理由に明に尚寧王の冊封を求めていなかったが、戦争が終結してようやく明に冊封の要望を行った。明は治安の懸念などを理由にこれまで通りの冊封には難色を示したものの、琉球の必死の説得によって尚寧王の冊封が決まった(実際の冊封は後述)。もちろんこれには、これまでの反秀吉の蠢動が効いていた。琉球は、徳川政権とは距離を取ろうとしていた。

ところで、この時期の琉球の交易船には難破や漂着などの事故が多かった。先述の通り、明からの技術支援(閔人三十六姓、大型船の供与)なしでは、琉球の造船・操舵の技術は未熟であったためである。1602年、琉球船が東北伊達領へ漂着。家康はこれを手厚く送還した。薩摩藩は琉球にその返礼を送るように諭したが琉球はそれを無視。1604年には琉球の進貢船が平戸に漂着。続いて甑島(鹿児島)にも琉球船が漂着した。これが琉球を窮地に追い込んでいく。

薩摩藩からすれば、従属国である琉球の船が他藩領に漂着した場合、それを監督する責任は薩摩藩にあると解釈される。よって平戸に漂着した琉球船の交易品を回収した。が、琉球船は薩摩藩の監督なく勝手に帰国してしまう。島津側はこれに対する報復として甑島の漂着船とその船員を抑留。義久は琉球の非礼を難詰した。他方、徳川幕府としては漂着物の管理は公儀の権利として平戸の琉球船の積み荷を回収しようと試みた。島津氏としてはこの介入は無視できない。またこの頃、琉球は室町時代に島津氏に与えられたものだとする「嘉吉附傭説」を義久は主張し、琉球に従属を求めた。しかしいつまでも琉球は家康に聘礼を行わず、無回答状態を続けていた。

この間、島津氏の当主は島津忠恒(義弘の息子、義久の甥)に移り、忠恒は奄美大島への侵攻を計画した。これは唐突な感じが否めない。本書ではその理由を、(1)忠恒の家督相続を祝賀する使節を琉球が送らなかった、(2)家康に聘礼しない、(3)平戸漂着問題、(4)朝鮮軍役や亀井茲矩の件の無視、としているがここはよくわからない。徳川政権・島津氏と距離を取ろうとしている琉球を力によって属国の地位に留めるための出兵ということなのだろうか。なお義久としては大島侵攻は反対で、その協議をボイコットしている。また、この大島侵攻には財政上の理由もあったという。江戸城普請のために島津氏には石材運搬船300隻の建造が命じられ、また義弘養女の結婚など出費が重なっていた。1606年、島津忠恒は経済的な問題を後年に持ち越さないためには大島出兵の断行が必要だと表明している。要するに、侵攻を理由に領内に軍役(人・物・金)を負担させ、これから京都伏見藩邸の費用などを捻出しようというのである。

同じ頃、忠恒は家康より「家」の偏諱をもらい「家久」と改名(本稿では以下も忠恒で統一)。また徳川家康は島津氏の琉球侵攻を許可したという。そして1606年秋、島津氏は大島出兵を計画していたが中止する。明からの冊封使・夏子陽が来琉したからである。これによりようやく尚寧王は正式に王となった。この際、夏子陽は、茅国科を送還した海商(坊津の鳥原宗安)の接見を求めた。このため、琉球は薩摩に「あや船」を送り忠恒の家督相続を祝賀し、あわせて夏子陽の要求を伝えた。島津氏はこの機会をとらえ、夏子陽への外交文書と琉球王への外交文書の2通を琉球に渡した。夏子陽宛は、明の商船の薩摩へ毎年来航するよう求めるもの、琉球王宛ては、家康への聘礼を求めるとともに、明との交易の仲介を求めるものであった。これには家康の意向があった。家康は明との国交正常化が難しいことを踏まえ、琉球を通じて日明貿易を行う考えだったのである。これもよくわからない点である。琉球を通じた日明貿易をするならば、島津氏の琉球侵攻はむしろ止めた方がよいと思われる(実際、家康は琉球侵攻には積極的ではなかったという)。

ともかく、この時点で琉球の命脈は日明貿易の仲介を担えるかどうかにかかっていた。それができれば家康の目的は達せられるため、島津氏の琉球侵攻には大義名分がなくなるからである。琉球は明に国書を送り、漳州月港の民間商船が琉球に来航できる制度(文引制度)を設けることや、閔人三十六姓再下賜などを求めた。琉球は貿易体制の再構築を図ったのである。ところがこの要求は受け入れられなかった。明は、「琉球に民間商船を往来させることは、実態は陰で倭と交易すること(p.220)」であるから、密貿易勢力を増長させるとして痛切に批判した。

「第5章 島津氏、琉球へ侵攻」では、琉球侵攻の具体的な経過が述べられる。1607年には具体的な動きはあまりないが、島津氏は琉球侵攻を準備していたようだ。しかし1608年には、幕府は琉球出兵を中止するよう島津氏に連絡した。対明の講和交渉に支障をきたすおそれを考えてのことと著者は推測している。これを受け、島津氏としても外交交渉による解決を目指してはいた。

しかし1609年2月、義弘から尚寧王へ最後通牒的な書状が届けられた。それは「亀井茲矩の件、朝鮮軍役の不履行、聘礼使者派遣の遅滞、日明講和の仲介に同意しながらそれを守らなかったことを糾問(p.225)」し、家康からの琉球誅罰の朱印状が出されているとするものであったが(真偽不明)、あわせて、日明交易を仲介するならば侵攻しない、という趣旨のことを述べている。しかし先述の通り、琉球の交易の要求は明に拒絶されており、これは土台無理な話であった。こうして島津氏は琉球への侵攻を開始したのである。

以下、本書では侵攻の具体的な経過が描かれており、琉球側が無抵抗ではなかったということを立証しているが、詳細は割愛する。一つだけ述べれば、薩摩側には200名程度の戦死者が出ていることから琉球もある程度反撃したのは確かとのことである。

しかしながら全体としてみれば、琉球国はかなり一方的に負けている。といっても島津氏の軍が圧倒的に強かったとはいえない。また、彼らは軍規が徹底されていなかった。本当は琉球側に講和の意思があれば即時講和することを命じられていたのに、軍功を優先してどんどん進撃したり、軍の内部で対立を抱えていたことは、島津軍が軍隊としては未熟だったことを示している。それでも琉球側は海側の防御のみに気を取られ、陸からの進撃を想定していなかったことも仇となって敗北した。

「第6章 国破れて」では、侵攻後の琉球国がどうなったかが述べられる。島津軍は首里城を接収し、その宝物を運び出した。勝手に持ち出すものがないよう、慎重を期して点検・運搬し全部で10日間もかかったという。家康は琉球を打ち取ったことを「比類なき働き」と喜び、忠恒に琉球の仕置(支配)を仰せつけた。

一方、琉球は日本が攻め入ったことをすでに明に密書を送っていた。琉球が明に引き続き朝貢することを望んでいた島津氏は、これをもみ消すため「島津氏が攻め込んできたが彼らは慈悲深く信頼に足る国である」とする明への報告を琉球に行わせるとともに、問題の密書のありかを突き止め公銀100両で民間人より買収した(実際に買収したのは琉球の朝貢使節)。

また琉球はついに家康に聘礼を行った。尚寧王は明朝の装束で家康に対面。「家康は尚寧を捕虜としてではなく、一国の王として丁重に待遇(p.307)」した。

その後、琉球国には石高制が導入され、また奄美地域が分離されて後に島津氏による直轄地となった。また王家(尚家)は島津家の家臣となり、名実共に島津氏に従属する存在へと変わっていったのである。その一方で、明には引き続き独立国であるという体裁をとり続けることになった。というのは、家康や島津氏にとっての琉球の価値は、明との交易ができるという点が大きかったし、家康としても琉球を通じての明との講和交渉を期待していた。

そこで忠恒の圧力の下、琉球は明に対し使節を送り、日明貿易をできるようにするよう求めた。しかし明は異例の使節派遣を問題視するとともに、使節の中に「畜髪の倭人(=禅僧ではない)」がいたことなどから、交渉の背景に日本がいることを見抜き、逆に琉球の朝貢間隔を10年に1回へと減じた(元々は2年に1回)。事実上の朝貢停止である。

この強硬な措置に驚いた琉球は、以後さまざまに交渉して明との関係改善に努め、1623年に5年に1度へと緩和されている。

一方島津氏は琉球征服以降、渡航許可証による本格的な統制を試みている。征服後にも、民間の商船は盛んに琉球に渡海していた。島津氏の統制を受けない民間商人たちは琉球との交易を行っていたのである。島津氏の統制がどこまで有効に機能したかは不明だそうだ。

対して、幕府の方は貿易から手を引いていく。1611年には大名による朱印船派遣を停止。「島津氏は琉球を利用してルソン貿易を行おうと、琉球国王に対する朱印状を幕府に申請し、認められた(p.324)」。「琉球がフィリピンとの交易を行うのは約20年ぶりであった(同)」。しかしこれは最後の仇花というべきものだったかもしれない。1616年に家康が死ぬと、徳川秀忠は日明関係の回復を諦め、徐々に海外への門戸を閉ざしていくからである。

「第7章 「黄金の箍」を次代へ」では、さらにその後日譚が語られ、羽地按司朝秀(はねじあじちょうしゅう)の改革によって筆が擱かれている。これは最後に少し語られるに過ぎないが、「我々が「伝統」と考える沖縄のさまざまな仕組みや文化・風習は「古琉球」の次代から連綿と伝わったのではなく、その多くが羽地の改革路線のうえに誕生・成立したものなのである(p.339)」と書かれており興味深い。

全体として、本書は書きぶりは平易で読みやすいが、編年的に書かれておらず、年代が行ったり来たりするので経過の理解は困難だった。このメモを書くことでようやく見えてきた感じである。そして当初の疑問だった「そもそもなぜ島津氏は琉球に侵攻したのだろうか」については、はっきりとした解答が得られなかった。

「貿易の利益を独占するため」とはいえ、侵攻後も民間商船は往来しているし、朝貢を通じた交易については10年に1回という大打撃を被り、侵攻前に比べて却って不利になっている。侵攻後に島津氏はどのような点で得をしているのだろうか。長い目で見れば、琉球国は薩摩藩の「植民地」として徐々に搾取されていくのであるが、短期的には損失の方が大きかったように読めた(本書の記述でははっきりしない)。

ただし、名目的な面では侵攻は理解できる。属国扱いしてきた琉球が、秀吉の死後、急に距離を取り始めたので、このまま独立国の顔をされては「外聞」が悪いと島津氏が考えたとしても無理はない。また軍功なく初代藩主となった島津忠恒にとって、琉球征伐が自らの求心力を高める軍事イベントとして捉えられたであろう。こうした政治的な面の方が、貿易云々の実利面よりも琉球侵攻の真因であったのかもしれない。

ともかく、独立国であった琉球が日本の版図に組み込まれ、やがては沖縄県となっていく契機が島津氏の琉球侵攻であり、これは近代日本の成立にも大きく影響してくる事件であった。にもかかわらず、琉球侵攻はこれまであまり語られてこなかった。近年、多くの研究が進展し、それを踏まえてまとめたのが本書だということだが、未だ不鮮明なところが多く残されている。

琉球侵攻に関する現時点での研究を総合的にまとめた本。

【関連書籍の読書メモ】
『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post_20.html
島津義久・義弘を中心とした歴史書。琉球侵攻に至る薩摩側の動向については本書が参考になる。