2025年11月10日月曜日

『阿弥陀聖 空也――念仏を始めた平安僧』石井 義長 著

空也の評伝。

空也(903~973)は、鴨長明が『発心集』で「わが国の念仏の祖師と申すべし」と述べたように、いち早く念仏を行い、人々に広めた先駆者である。空也は法然(1133~1212)よりも230年早く生まれ、源信の『往生要集』が書かれる13年前に亡くなっている。

しかしながら、「彼に関する確実な史料も極めて乏しく、仏教者としての彼の評価は、さまざまな解釈が乱立したままの状況にある(p.8)」。例えば浄土教研究の金字塔である井上光貞『日本浄土教成立史の研究』では、空也の念仏は民間呪術宗教と捉えられ「狂躁的エクスタシア(p.14)」とされるなど、呪術的性格が強調された。問題は、何に基づいてそういう判断がなされたかである。空也が自ら記したものは何も伝わっておらず、断片的な史料からそういう評価になったのだというのが著者の考えである。そこで著者は、空也に関する史料を博捜し、『空也上人の研究——その行業と思想』で実証的に空也の姿を明らかにした(著者の博士論文でもある)。本書は当該書を踏まえ、一般向けに空也の生涯をまとめたものである。

著者は空也を「法然等の鎌倉浄土教より二百余年早く易行の称名念仏を選択し、空と慈悲という仏教の根本思想に立って、庶民の魂の救済に身を抛った天才的な真の宗教家であった(p.16)」と評価する。

その根拠とするものは、空也の没後まもなく源為憲(ためのり)によって書かれた『空也上人誄(るい)』である。これを縦糸とし、その他の史料を横糸として本書は記述されている(ただし、『誄』の全文がまとめて掲げられていないのは残念である)。さらに著者は「彼の実践した行動が彼の思想の表現であったという立場に立って(中略)帰納的に探っていく(p.15)」という方法論で史料の行間を埋める。よって、本書には「こういう行動をしているということは、こういう思想であったのであろう」という記載が散見されるが、基本的には史料に基づいている。

なお『誄』の作者源為憲は、当時大学寮文章道の学生(がくしょう)であり、後に『三宝絵』も表している。

空也は延喜3年(903)に生まれた。出自は不明であるが、『誄』では「或曰(あるいはいわく)」として「皇派に出ずる」(=皇胤)とされ、後代には醍醐天皇の皇子であるとか親王の子であるという伝説が生まれた。「彼が皇室ないし藤原上級貴族と何程かの交流があり、その支援を受けたことは事実と考えられる(p.48)」

なお空也の読みが「こうや」であるという説があるが、原本に遡ると根拠がなく、「くうや」が正しいと思われる。

少壮の日には、優婆塞(在家信者)として各地で修業し、道路補修をし井戸を掘り、荒野に捨てられた遺骸を集めて焼き、阿弥陀仏の名を唱えた(「阿弥陀仏の名を唱う」)。この遺骸供養は非常に先駆的だ。「阿弥陀仏の名を唱う」は称名念仏の原型とみなせるので、これが事実であれば称名念仏による亡魂供養として歴史的に重要である。

念仏の初めは、円仁の弟子相応が「円仁の遺言に従って貞観7年(865)に「不断念仏」を行ったのが始まりとされ(p.55)」るが、これは『阿弥陀経』の読誦+前後の「阿弥陀仏(あみだぶ)」という念仏によるものでり、称名念仏そのものではない。いまだ称名念仏が確立していない頃に空也が阿弥陀仏の名を唱えたのは、不断念仏だけでは説明がつかない。

彼は20歳を過ぎて尾張国分寺で出家して沙弥となり、自ら「空也」を名乗った。ただし、これは正式な出家の手続きを経ないものであったようだ。私度を取り締まるべき国分寺で、正式な手続きを経ずに出家したのは奇異である。なお浄土宗・時宗に伝わる伝説によれば、空也は三論宗を学んだという。三論宗は空の思想を根幹とする。著者はこの伝説を蓋然性が高いとしている。

空也は国分寺での象牙の塔的な仏教に飽き足らなかったのであろう。彼は国分寺を出て播磨国の峯合寺(みねあいでら)の道場にこもって数年間一切経を読んだ(法然と似ている)。どうやらここで空也は念仏を選び取ったらしい。斉明天皇7年(661)には、すでに善導の『観経疏』『往生礼讃偈』が伝来しており、これらは奈良時代の正倉院写経所で写経されていたことが知られている。峯合寺の一切経にはこれらが含まれていて、これらを空也が読んだ可能性はある(著者は「まず間違いないことと考えられる(p.68)」としている)。また奈良時代、元興寺(三論宗)の智光は世親の『浄土論』を釈義した『無量寿経論釈』を著している。法然より遥か前に、口称名号の念仏の理論は一応あった。

空也は特定の師を持たず、自ら念仏を選択したと考えられる。そして「尋常(つね)の時、南無阿弥陀仏と称えて、間髪を容れず」という状態になった。後の一遍を髣髴とさせる。

さらに阿波の孤島湯島に行き、数か月参籠し観音の現身を拝した。空也は阿弥陀仏への信仰と同時に十一面観音への信仰を持っていた。なおこれは、親鸞が六角堂(本尊如意輪観音)に参籠して聖徳太子からのお告げをもらったことと通ずる。空也もこの時に自己を確立したのだという。だいたい30歳くらいの時であった。

空也はその後、陸奥・出羽地方へ念仏布教の旅に出た。最澄と論争したことで有名な徳一も陸奥国にいたことが知られているが、東北ではあまり仏教が普及していなかったことが巡錫の理由らしい。ここで空也は、念仏を唱えれば極楽往生できるという易行の教えを説いたと思われる。その後、著者は様々な史料から空也は愛宕山で修業したと推測している。

そして空也は、平安京に入った。天慶元年(938)、空也36歳であったと推測される。空也は市中で乞食し、また貧者や病人に与え、「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた。また常に南無阿弥陀仏と称えていたため「阿弥陀聖」とも呼ばれた。山中から市中に居を移したのは、人々を救いたいという思いがあったために違いない。

ところで、本書では何も問題視されていないが、峯合寺での一切経の閲読やその後の念仏を考えると、『誄』で少壮の空也が「荒野に捨てられた遺骸を集めて焼き、阿弥陀仏の名を唱えた」というのは齟齬がないでもない。峯合寺での一切経の閲読の前に、空也は「阿弥陀仏」と唱えていたことになるからだ。私としてはこれは後付けの伝説ではないかと考えたい。なにしろ源為憲は若い頃の空也を直接は知らないのだ。

ただし、少壮の空也が念仏で亡魂供養をしたというのは事実でなかったとしても、平安京で念仏の教えを説いたのは事実であり、時代に先駆けている。「空也以前にわが国で口称名号の念仏が実践されていた事例は発見でき(p.102)」ないのである。

また空也は平安京東の市門(いちかど)に石の卒塔婆を建て(『打聞集』)、そこに「一たびも南無阿弥陀仏という人の 蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」との和歌を掲げた。この和歌は『誄』には記録されず、藤原公任の『拾遺抄』(空也没後二十数年の撰)に記録されている。これは画期的な法語である。

このころ、空也は興福寺に行って勉学をしたという形跡がある。興福寺の浄名院という寺院には、空也が掘ったという井戸「阿弥陀井」があった(現存せず)。鎌倉時代の説話集『撰集抄』には、空也が空晴という僧侶に経論を学んだことが書かれている。この空晴は興福寺の喜多院にいたという。空也の思想には興福寺の影響があるようだ。

そして『誄』には記されていないが、空也は平安京に阿弥陀仏を祀る「市堂」というお堂を建てたと言われており、平安時代末の絵図にはこれが記録されている。しかし当時の洛内は仏堂の建立が規制されていたはずで、どうしてそのようなことが可能になったのか謎である。また事実とすれば、京内仏堂として最も早い。

本書には記載がないが、確実な史料がある京内仏堂として早いのは、「因幡堂」(伝承では長保5年(1003)開基)、「六角堂」(初見は『御堂関白記』長和6年(1017))、「壬生地蔵堂」(伝承では寛弘2年(1005)開基)の3つだが、空也の市堂はこれらに50年ほど先駆ける。なお市堂の初見史料は、今のところ正応5年(1292)の古地図「東市町正応五年前図」(林家辰三郎が『町衆』で紹介)である。

ともかく、この市堂が京における空也の活動拠点であった。そして空也は天慶7年(944)、勧進(寄付集め)を行って、観音三十三身、阿弥陀浄土変一鋪、補陀落山浄土一鋪を描いて供養した。

天暦2年(948)、空也は天台座主の延昌に推されて、比叡山で得度・受戒した。空也46歳である。光勝という名を与えられたものの、彼は空也の名を使い続けている。著者はこの得度・受戒を、「念仏の道場にふさわしい寺院の創立(p.136)」を目指して官僧の立場を求めた結果ではないかとしているが、得度・受戒後も空也は既成の教団に従属した形跡なはい。

ともかく空也は、得度・受戒の後、葬送の地である鳥辺野につながる六原(六波羅)を拠点として、十一面観音像(六波羅蜜寺に現存)・梵王・帝釈天等の仏像の造立と『大般若経』600巻の書写の勧進活動を始め、仏像群は翌年に完成した。これは、天暦元年(947)からの疫病の流行、旱害・鴨川の氾濫などで亡くなった多くの人の霊を弔うためであったと考えられる。

一方、書写事業は13年後の応和3年(963)に完成し、左大臣(藤原実頼)以下が出席して盛大な供養会が催された。ちなみにこの『大般若経』は、紺瑠璃の用紙に金泥の文字、その文字を猪の牙で磨いて光沢を出し、各巻の軸先には水晶をはめ込むという豪華なものであった。その目的について、供養会で読み上げられた『空也上人の為に金字大般若経を供養する願文』(三善道統撰)では、「一切衆生の成仏得果のため」としている(目的が極楽往生ではないのは興味深い)。

また、この『願文』では、空也の勧進活動について「半銭の施すところ、一粒の捨するところ、漸々(ぜんぜん)に力を合わし、微々に功を成せり(p.235)」と語っている。11世紀には「勧進聖」の活動が活発になり、重源が勧進で東大寺の大仏を再建したのは有名な話だが、空也の勧進活動はそれらに先駆けている。

六波羅の拠点は西光寺と後に命名された。ここは空也没後、中信大法師によって六波羅蜜寺と改名され天台宗に属した。六波羅蜜寺の寺域は広大で、東西・南北がそれぞれ327メートルで南東の一部が欠けて2万8800坪もあったというからものすごい。空也存命中はここまで巨大な寺院ではなかったであろうが、その経済基盤はなんだったのだろう。それについて著者は「既成宗派や国家の庇護のもとに建立されたものでなく、空也およびその勧進に結縁する幅広い人々の西方浄土への祈願を積み上げて私的に草創された(p.157)」ものとする。とはいえ経常収入も必要である。まさか勧進で維持されていたわけではないと思うのだが。

空也は、これらの活動の他にも、説話や伝説・伝承にたびたび登場している。それらに共通する要素を一言でいえば、彼は貴賤分け隔てなく慈しんだ「慈悲の人」であったということである。彼は盗賊にも慈悲の心で接した。それらの伝説が事実であったのかどうかわからないが、少なくとも彼は慈悲にあふれた「伝説的人物」であった。それらの伝説では「呪術的性格」はむしろ希薄で、人間的な慈しみの方が強調されているように思われる。

天禄3年(972)、空也は西光寺で没し、入滅の際には楽の音が聞こえるなどし往生したと信じられた。齢70であった。

空也没後50年以上経って、藤原実資(さねすけ)は、『小右記』に「空也の金鼓(こんぐ)と錫杖を手に入れた」と日記に書いている。実資は『大般若経』の供養会に出席した実頼の実の孫で養子でもある。彼は空也の弟子義観阿闍梨からそれらをもらった。この義観は、諸史料との整合性を鑑みると本当に空也の弟子であったようで、園城寺系の寺院にいたと考えられる。そして6年後、実資は「新阿弥陀」という名前の「阿弥陀聖」にそれらを与えている。

つまりこの頃には、空也の衣鉢を継ぐ「阿弥陀聖」という存在がいた。しかもそれは一人二人ではなく、京中には念仏を唱える阿弥陀聖が数多くいたと考えられる。村上天皇の第10皇女選子内親王(964-1035)の歌に「8月ばかり月あかかりける夜、あみだの聖のとおりけるをよびよせさせて、里なる女房にいい遣わしける一首 あみだ仏(ぶ)ととなうる声に夢さめて 西へかたぶく月をこそみれ」とあるからだ。この歌からは、阿弥陀聖が夜でも大声で念仏(=高声念仏)をしており、しかもそれを宮廷の女性が好ましく感じていた様子が窺える。

また賀茂祭(葵祭)では高声念仏を行う行列があり、それは『文永十一年賀茂祭絵詞』(1247)では「空也上人無極(きわみなき)道心を顕わされんとて。わたりそめられたりけるぞ」とされている。葵祭の高声念仏は(法然や親鸞でなく)空也の念仏だというのである。また『梁塵秘抄』には「聖の好むもの。木の節(椀にする)鹿角(杖につける)鹿の皮(衣とする)」とあり、空也の影響が大きい。ただし、しばしば踊念仏のルーツが空也だとされるがこれは史料では裏付けられない俗説だ。

鴨長明の『発心集』では、天台宗三井寺(園城寺)の千観が、法会の帰りに鴨川原で空也に会い、「来世安心のためには、どうしたらよいでしょうか」と質問したのに対し、空也が「どうなりとも、捨ててこそ」と答えたエピソードが記されている。この答えを聞いた千観は華やかな装束を脱ぎ捨てて、山中にこもって後半生を念仏の普及に投じたという。このエピソードを、著者は応和2年(962)に実際にあったことと推測している。千観は西光寺の北にあった愛宕(おたぎ)寺を再興して天台宗の末寺としており、空也と接していたのは確からしい。

千観は日本で最初の和讃といわれる『極楽国弥陀和讃』を作って庶民に念仏を勧めているが、そこでは「極悪最重下の悪人も 一たび南無と唱うれば 引接(いんじょう)さだめて疑わず」としている。一たびの名号念仏で往生が可能であるというのは、空也の「蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」の歌と同じであり、また千観は自分だけでなく全ての人の往生を願っていたということから、空也の思想を受け継いでいるものと考えられる。

最後に、これは本書では簡単にしか書いていないが、空也が「市聖(いちのひじり)」と呼ばれていたことに注目したい。ここでいう「市」とは、都市のことではなく平安京の「市」(西市と東市があった)である。空也は、市で念仏を勧めていた。なぜ空也は市に現れたのか。鎌倉時代初期の慶政が著した『閑居友(かんきょのとも)』では、空也は弟子たちに「市では心が散ることがなくてすばらしい」と述べたというが、『誄』では「市店に乞食し、もし得るところがあれば、みな仏事を作(な)し、復た貧患に与う」とする。

空也が市に現れたのは、第1にそこに多くの人が集まっていたからであろう。第2に、乞食(こつじき)=托鉢がやりやすかったからであろう。そして第3に、当時の市は刑場も兼ねていたから、罪を犯した人々を救いたいという気持ちがあったからではないだろうか。「蓮(はちす)のうえにのぼらぬはなし」の石卒塔婆も、『誄』では「囚門」にあったとしている。おそらく、念仏は悪人こそ救うという観念から刑場の前が選ばれたのだろう。

また、空也が設けた「市堂」も、市にあったから「市堂」なのだ。空也が「市聖」と呼ばれたのは、市には他に聖がいなかったということを示唆する。おそらく聖は山中で修業していて、民衆に教えを説くことはしていなかった。民衆の中に積極的に入っていったことに空也の特徴がある。

最後に、空也の特徴的な事績を改めてまとめると、(1)名号念仏を初めて民衆に向けて説いたこと、(2)念仏を1回でも効果があるとし徹底的な易行を勧めたこと(当時は、多念といって数多くの念仏をしなければならないという考えが普通だった)、(3)京内に仏堂を設けたこと、(4)早い時期に勧進を活用したこと、(5)念仏と観音菩薩への信仰が同居していたこと(親鸞に類似)、(6)念仏だけでなく、慈悲の心から行う社会事業(井戸掘りなど)を行ったこと(行基に類似)、の6点が挙げられる。

なお(1)に関して、『今昔物語集』では空也の弟子とされる慶滋保胤(よししげの・やすたね)は、『日本往生極楽記』で空也の伝を書いており、そこでは「庶民に忌み嫌われていた念仏を、空也が現れて以来世を挙げて称えるようになったのは、空也の衆生化度の力であった(p.26)」と述べている。これを鑑みると、空也は念仏を庶民に受け入れられるものにアレンジしていたのかもしれない。

本書は全体として、史料が乏しく断片的にしか語られてこなかった空也を一貫した視点で統一的に記述しており、一般向けの空也の評伝として高い価値がある。本書に描かれる空也は、法然や親鸞の先駆けであり、浄土教形成においてエポックメイキングな存在である。空也の研究は本書以降もあまり盛んではないが、念仏の祖師としてさらに研究が進むことを期待したい。

初めて空也の生涯を実証的に明らかにした労作。

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