2025年11月13日木曜日

『北畠親房『神皇正統記』現代語訳・総解説』今谷 明 訳・著

『神皇正統記』の全訳および解説。

北畠親房の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』は、神国思想を鼓吹した書であり、その冒頭「大日本(おおやまと)者(は)神国(かみのくに)也」はあまりにも有名である。

私は原文でこれを通読しようと手に取ったが、最初の方はともかくとして途中無味乾燥な文章が続く部分があり、とても苦労して原文で読む価値はないと思ったので今谷明の現代語訳に頼った次第である(だが振り返ってみると、無味乾燥な部分は思ったより少なかった)。

さて、親房がなぜこの書を著したのかというと、一言でいえば「南朝の正統性を主張するため」とされている。ただし、「誰に向けて」となると学説が盤根錯節としており定説はない。彼がこれを書いたのは延元4年(暦応2年)(1339)、常陸の小田城に籠っていた時である。

親房は村上源氏(村上天皇から出た源氏)の庶流北畠氏の出身である。家格は決して高くはなかったが、彼は源氏長者が帯すべき淳和院(じゅんないん)別当を任じて、大納言まで上るという異例の出世をした。しかし養育を任されていた世良(よよし)親王の病死に殉じ、38歳で出家した。世良親王は後醍醐天皇の皇子である。

出家後の親房の動向はしばらく謎であり、建武の新政の樹立にあたっての関わりは不明である。なお、武将の北畠顕家は彼の嫡男だ。

建武2年(1335)、中先代の乱が勃発し、建武政権は崩壊。南北朝の争乱によって顕家は戦死した。不利な状況を打開するため、後醍醐天皇は義良・宗良の二皇子に北畠親房を添えて東国に派遣する。ところが一行の船が難破し、親房は皇子らと離れて霞ヶ浦の南岸に漂着してしまう。親房が到着したことが分かると敵勢が攻め込んだため、逃亡して移ったのが南党の小田治久(はるひさ)の本拠地である小田城であった。

そして親房はこの小田城にて、簡略な「王代記」一冊を参考に、たった一ヶ月程度で『神皇正統記』を書きあげたのだという(!)。博覧強記の親房をもってしても、このような事情であるから歴史的事実の間違いは多い。多いには多いのだが、大筋ではほとんど淀みなく歴史を物語っているのはさすがという他ない。

その内容は、歴代天皇を軸とした日本の歴史である。

本書は「天」「地」「人」の3部に分かれており、 「天」は日本の成り立ち、世界の起こり、天地開闢よりの神話、神武天皇から宣化天皇までの歴史を、「地」は欽明天皇から堀川院まで、「地」は鳥羽院から後村上天皇までとなっている。このように、親房は天皇の交替を軸に日本史を語るのである(この手法自体は「六国史」と共通している)。

『神皇正統記』の天皇の代数は、95代(後醍醐天皇)までは『本朝皇胤紹運録』と全く一致している。つまりまずは「六国史」に依り、鎌倉以後の天皇についても当時の考えを踏襲している。親房オリジナルは、光厳天皇以下、北朝の天皇を認めないというだけだ。しかしその理由となると、実は本書には明確には書いておらず曖昧だ。三種の神器がキーにはなっているが、それだけで説明されているわけではない。

また、天皇中心史観でありながら、鎌倉幕府(源頼朝と北条泰時)を高く評価しているのも奇異である。これは、親房の先祖を泰時が引き立ててくれたということに基づくと思われる。そして親房は、摂関政治を理想的な政体としている。であれば、親房の立場は後醍醐天皇(天皇親政を理想とした)とも違う。 このように、『神皇正統記』は意外に史観が一貫しておらず、ご都合主義的に評価が下されているように見える。

しかしながら、本書は「読者が留意しないと親房の筆録に引きずられる傾き(p.25)」があり、古来、多くの読者が親房に引きずられてきた。本書で、今谷明は原文に忠実でありながら、そうならないように詳細な註を用意しており、とても助かる。

なお、親房は儒学思想に依って歴史を記述する。神道思想も使われるが、全体的な基調は儒学である。また仏教的な世界観を前提とする。親房の思想は儒学が基調といっても、彼は孟子の易姓革命を認めず、王朝が交替している中国より皇統が続いている日本の方が優れていると考える。

しかし親房は天皇は神聖不可侵とは全然思っておらず、『神皇正統記』ではしばしば天皇に筆誅が加えられる。親房は天皇は「徳」や「賢」を備えるべきだと厳しく要求し、天皇が不徳の場合は皇統が移ることも当然とする(傍系の天皇が断絶するなど)。彼は天皇が直系に継承されることを非常に重視する一方で、血統一辺倒ではなく「徳」を持ち出し、不徳の結果が現実に投影されると考える。この親房の論理からは、後醍醐天皇の吉野没落も不徳により人心を失った結果と考えざるを得ないのだが、親房はそれを無視する。「血」なのか「徳」なのか、親房は都合よく使い分けているように見える。

このように、親房の歴史記述は揺れ動いている点も多いが、先述の通り素直に読んでいると親房の書き方に納得させられてしまう部分がある(1ヶ月で書いただけあって妙なスピード感がある)。そのため、『神皇正統記』は後世に幅広い読者を獲得したから、その批判も多かった。批判的な著作としては、例えば小槻晴富『続神皇正統記』や前田綱紀『正慶乱離志』がある。『神皇正統記』は、逃亡中に短期間で書かれたものとしては異常なほどの影響力を持ったのである。

本書は天地開闢以来の歴史を語る。いちいちそれをまとめると厖大になるので、以下私が感じたことを中心にメモする。 

「天」

親房は「日本」(あるいは「大日本」)という国号について考察した後、天竺(インド)と震旦(中国)の世界創世神話を紹介する。そして「世界の始まりはどこでも違うはずはないが、三国とも違っている」とコメントしている。こういうコメントは現代人にはないセンスで面白い。ちなみに震旦は「乱逆で無秩序な国」といい、妙に中国の評価が辛い。圧倒的な文明国だったはずだが。親房にとっては、文明の程度よりも皇統の連続の方が重要なのである。

次に日本の開闢神話が語られる(概ね『日本書紀』『旧事本紀』『古語拾遺』に基づいているようだ)。親房は神話を神話としてでなく、実際にあったこととして語る。それにしても神々の名前(と漢字)・系譜をよく覚えていたものだと思う。ここでは意外なことに本地垂迹説が語られていないが、「和光同塵の御誓いも現れて(p.67)」という一語がある。「和光同塵」は、仏が(その光を和らげて)神として垂迹する、という意味で使われた(元来は『老子』に出てくる言葉)。

三種の神器についての考察の中で、「この「理(ことわり)[天照大神の神勅]」を悟り、その道から外れることがなければ、内典(仏書)・外典(儒書)などの学問も最後はこれと一致するであろう(p.81)」とあるのは三教一致思想として注目される。なお、高千穂への天孫降臨については、実際の地理との対応はあまり考えていないようなのが近世とは大きな違いである。ちなみにニニギノミコトがやってきたのが「吾田の長狭御崎」で、日本書紀の「笠狭御崎」とは違っている。記憶に基づいて書いているからこういう間違いは多いようだ。

ところでニニギノミコトが天下を治めたのは30万8533年だという。これはどこから出てきた数字なのだろうか。続くヒコホホデミノミコトは何年と書いておらず、続くウガヤフキアエズノミコトは、63万7892年治めたとする。いくら何でも寿命が長すぎ、超古代すぎる。そして、これでは他国の歴史と全く数字が合わないはずだが、親房はいろいろと理屈(屁理屈?)を述べ、「(中国の)盤古の初めは、わが国では彦火火出見尊の代の末ごろにあたることになるのであろうか(p.87)」などと述べている。言っていることは荒唐無稽だが、それを合理的に解釈しようとするのが親房の神話記述の特徴である。

さらに、ウガヤフキアエズノミコトの「77万余年ごろ」に中国では伏羲がいたという。そして、同「83万5667年」には天竺で釈迦が誕生したといい、ウガヤフキアエズノミコトは83万6043年天下を治めたという。先刻は63万7892年だったのに整合していない。このあたりは無茶苦茶である。そして神はこんなにも長命であったのに、神武天皇からは寿命が短くなったのは不審だが「神の道のことは推し測りがたく(p.89)」と述べて言い訳している。

神武天皇以降の歴史では、いちいち「この頃中国では…」と簡単でも中国のことを折に触れて述べている。例えば「神武天皇の御代の初めは辛酉の年で、中国では周の世、第17代の君、恵王の17年にあたる(p.95)」といった調子である。もちろんこの年代は荒唐無稽なのだが、本人としては実証的な態度で書いている。中国は「乱逆で無秩序な国」とはいうが、親房は中国をかなり意識しており、しばしば中国の歴史を引用して様々なことを述べる。ちなみに第7代孝霊天皇の項では専ら中国の歴史が述べられている(このあたりは日本史が空白になっているからだろう=欠史八代)。中世に入っても中国史をいちいち参照する書き方は続く。

なお、神武天皇の項で、「アマノコヤネノミコト」の子孫と「アメノフトタマノミコト」の子孫が神事を司った、とやや強調している。これは中臣氏と斎部氏の祖先にあたる。中臣氏から藤原氏が出たので、藤原氏の神聖性を強調しているものと思われる。 

親房は、妙に天皇の年齢にこだわりがあり、何年治めて何歳で死んだかを全天皇について書いている。「何年治めて」は重要だが(絶対年代がないので天皇の治世を足し合わすことで年代を計算しなくてはならない)、何歳で死んだかにこだわりがあるのはなぜなのか。しかも、第4代懿徳天皇は77歳で死んだとするが、『日本書紀』では享年が記されておらず『古事記』では45歳だし、第5代孝昭天皇は104歳で死んだとするが、『日本書紀』では享年が記されておらず『古事記』では93歳とするように、親房が述べる天皇の享年は記紀と合わない。何に基づいて書いたのだろうか。

第16代応神天皇の項では、はっきりと本地垂迹説に基づいた記述となっている(応神天皇は八幡神として顕現した)。ここで正直の徳が説かれる。曰く「天照大神も、ただひたすら正直のみをその御心となさっている(p.128)。」とし、「もっぱら正直を第一とすべきである(p.129)」という。これは度会神道に基づいているようだ(親房には『元元集』という神道の著作もある)。なお第30代欽明天皇の項でも「八幡大菩薩が初めて垂迹なさった(p.154)」とある。

第23代清寧天皇の項は、しごく簡略にしか書いていないが、清寧天皇は子がいなかったので実はここで系譜が断絶している。これは重要だ。次の第24代顕宗天皇は清寧天皇から見て再従兄弟(はとこ)にあたる(清寧天皇は顕宗天皇を養子にした)。しかしこの皇統の移動の理由について親房は何も語らない

一方、第26代武烈天皇は暴虐で知られ、悪行・不徳のために「天祚(あまつひつぎ)」が長く続かなかったとする。清寧天皇の皇統断絶とは全く違う書きぶりだ。気をつけて読んでいくと、親房は本当にご都合主義的だ。そして(『日本書紀』では血縁関係が書いていない)継体天皇が即位するわけだが、親房は継体天皇までの先祖名をしっかり記している。これが何に基づいたものなのか不明である。そして皇統が攪乱しているにもかかわらず、親房は継体天皇を「真の賢王」と呼ぶ。そして「群臣が探し申しあげ、賢明な方だということで皇位にお迎えしたのだから、それこそ天照大神の御本意と考えられる(p.147)」「皇胤の絶えたときに、賢明な人が皇位に即かれることは、天の許すところである(同)」としている。このあたりには血統一辺倒でない親房の考えが如実に表れている。しかしそれなら、王朝が交替しているといって中国を批判するいわれはないはずである。そこが親房の非論理的なところである。

「地」 

第33代崇峻天皇の項も興味深い。崇峻天皇は蘇我馬子が差し向けた東漢直(やまとのあやのあたい)駒(こま)に弑されたからだ。天皇中心史観で考えると、天皇を殺すということは大逆である。しかし親房は「この天皇には横死する運命の相が現れていた(p.158)」とし、この殺害を合理化(!?)している。

皇統の交替ということでいうと壬申の乱も重要なはずだが、親房は第40代天武天皇を傍系と見なしているのか天武系に対して妙に冷淡である(つまり本来の皇統に戻っただけだと見なす)。また第42代文武天皇の項で年号(大宝)の使用が始まったとしているが、親房はなぜかこれ以降、年号をあまり書いていない。天皇の享年は執拗に記すのに、なぜか年号には関心が薄いらしい。親房は記憶に基づいて『神皇正統記』を書いているので、関心の薄いことはそもそも覚えておらず書けないのかもしれない。記述に非常に粗密があるのが『神皇正統記』の面白いところでもある。

第52代嵯峨天皇の項では、かなり長く日本の仏教の歴史と国家論が展開される。最澄と空海の話に続いて、真言宗・天台宗に触れ、特に真言宗については「わが国は神代からの建国の由来が、この宗の説くところとよく符合している(p.205)」という(ただしどういうところが符合しているのかは書いていない)。真言宗がもっとも日本に相応しい宗教であるという考えが当時支配的だったようだ。次に華厳・三論・法相宗について、次に律宗、最後に禅宗について述べている。そして「教法は「無尽」で多種多様(p.211)」だという。親房は宗義格別の考えである。

次が国家論であるが、親房は人々が飢えないようにすることが基本だという。意外と常識的だ。「さまざまの道を用いて人々の憂いを安心させ、お互いに争いごとのないようにすることを、国を治める根本[と]すべきである(p.213)」という。そして学問や諸芸が必要であることを中国の故事を引いて述べている。この嵯峨天皇の項は、『神皇正統記』の中で異彩を放っている。

第56代清和天皇の項では、摂関家について説かれる。先述の通り、親房は摂関政治を理想的な政体とする。その淵源はアマノコヤネが天照大神に仕えていたという盟約であるが、親房は藤原良房の系統が摂関家として確立したことを重視している。

第57代陽成天皇の項も興味深い。陽成天皇は、侍臣を殿上で撲殺したことで臣下により廃位されたと言われるからだ。ただし親房はこの事件については書かず、「「性悪」で帝王の器にうさわしくなかったので、摂政の基経は嘆いて廃位を決断した(p.228)」と書いている。徳のない天皇は臣下により廃位させられることもやむを得ない、というのが親房の考えだ。

第58代光孝天皇の項では親房の天皇論が開陳される。ここは重要だ。陽成天皇の廃位は「天皇ご自身がなされた科(とが)(p.231)」だといい。天皇は「十種の善を積み、その効力で天子になられた(p.232)」ものだとして、前世からの因縁を強調するが、それでも現世での業績と善悪はまちまちであるから、「本と本として正にかえり、元を元として邪を捨てられることこそ、祖神の御意に適いなさるものである(同)」という。文意が取りがたいが、「皇統が断絶しているように見えても、それは悪逆の報いとして傍系が断絶したのであり、祖神の御意によって正系の皇統に返ったのである」という意味だと思われる。

第59代の宇多天皇の項では、宇多天皇が出家し、真言宗の勧請を受けて法統の正統となったことが述べられている。面白いのは、ここで真言宗についての解説がなされた後、「宇多天皇の御代こそ無為にして治まるという聖代である(p.238)」といっていることだ。老荘思想的なのである。ちなみに、このあたりから歴史記述が詳しくなる。

次の第60代醍醐天皇は「聡明叡哲(p.240)」、第61代朱雀天皇は「政治が間違っていたとは思えない(p.244)」、第62代村上天皇は「名君が出現された(中略)わが国が中興のときを迎え(略)(p.245)」とし、賢帝が続いて出現したとしている。にもかかわらず、朱雀天皇には皇子がいなかったため、同母弟の村上天皇が即位しているのである。これは兄弟間の践祚なので皇統の交代とはいえないが、親房の皇統交代理論に当てはまらない。そこで親房は「「時の災難」であったと思われる(p.244)」としている。しかし「徳」が十分なのに「時の災難」があるなら「徳」は本当に有効なのだろうかと思わざるを得ない。

ちなみに村上天皇の項で、村上源氏の始まりについて述べている。先述の通り親房は村上源氏の庶流にあたる。よって村上源氏に誇りがある(=「天皇の御子孫」だという)が、ここで藤原氏(摂関家)が上位にあるとそれとなく書いてある。親房は摂関家を非常に重視している。

第63代冷泉院は、一種の画期を成している。ここで天皇号が使われなくなり、山陵が置かれなくなっている(宇多天皇から諡(おくりな)も廃止されている)。天皇の性格に変化が生じたのである。親房は「尊号をやめてしまうことは臣子の儀ではない(p.254)」とし、「やはり天皇と申し上げるべきである(同)」とするが、近年の研究では「〇〇院」はむしろ「天皇の聖性をかえって強化する方向にあった(同頁・今谷の註)」とされる。ちなみにこの頃から天皇の出家が普通になる。

ちなみに冷泉院から第67代三条院までは皇位継承がイレギュラーである。親房は第65代花山院については「この天皇にも「邪気」があったという(p.257)(後述)」としているが、それ以外の皇位継承については何事もなかったかのように述べている。親房の「徳」による皇位継承理論は破綻していると言わざるを得ない。親房もそれを感じているのかいないのか、第66代一条院の即位では、花山天皇が「神器を置いて皇宮を出られたので(p.258)」譲位の儀を行ったとし、ここで初めて三種の神器が皇位継承で大きな役割を与えられている。注目の部分である。

第68代後一条院の即位は、冷泉天皇の皇統が断絶し円融天皇の系統に移ったことを意味する。親房は冷泉天皇を正系とみなしているが、これが断絶したのは「元方の怨霊のせい(p.263)」だそうだ。藤原元方の娘が生んだ皇子が天皇になれなかった恨みが「邪気」となって冷泉系を苦しめたのだという。しかし冷泉と円融は同母兄弟である。冷泉系だけに「邪気」の矛先が向かうのは道理が通らない。それに対し親房は「(円融院が)これほどまで悩まれなかったのは、皇位を受け継ぐ御運がおありになったからであろう(p.263)」という。やはり親房はご都合主義的だ。

ちなみに、後一条天皇は、初めて諡号に「後」がついた天皇(院)である。この「後」に何の意味があるのか、親房は何も記していないが、私としては復古的な意味が託されているように思う。追って検討してみたい(ここから、後朱雀院、後冷泉院など白河院の登場まで「後」が続く)。

「人」

周知のとおり、鳥羽天皇以降の皇位継承は非常に混乱している(手間なのでいちいち記さない)。直系相続を重視する親房は、ここからの皇位継承について頭を悩ませたに違いないが、なぜか皇統の断絶・継承についてほとんど議論していない

後鳥羽院の子孫が皇位を継いだのは「これもしかるべき天命だったのだと思われる(p.281)」としているが、問題はなぜそこに天命があったのか、ではなかろうか。もはや「徳」は重要な要素ではなくなっているように見える。それは、天皇自身ではなく、院が執政の中心になったためなのかもしれないし、あるいは武士に実権が移りつつあることを示しているのかもしれない。藤原通憲(信西)の最期を「その行いが天意に背いていたからであるのは疑いようもない(p.287)」とし、源義朝が滅んだのを「名行が欠けていた(p.289)」「義朝自身の不徳・科である(同)」とするなどである。

第82代後鳥羽院の即位は、第81代安徳天皇が神器2種とともに海中に沈んだため、神器なき即位であった。しかも皇統の断絶(当然に安徳天皇の直系ではない)も伴っている。親房の皇位継承理論では容認できぬ践祚のはずだ。しかし親房は「後白河法皇はわが国の本主として正統の位を伝えておられた。また、皇大神宮と熱田神宮の神があきらかに護りなさることなので、天位には何の問題もない(p.299)」と言い切っている。

ところで三種の神器(のうち宝剣と神璽)が海に沈んだのなら、以降の天皇はみな正統とは言えないのか。親房が言うには、海に沈んだ宝剣は代わりのもので、本物(天藂雲剣)は熱田神宮に祀っており、神璽(八坂瓊勾玉)は海から浮かび上がってきたとする。親房は三種の神器が不変であると述べているが、実際にはたびたび作り替えられている。そもそも親房の理屈では、レプリカの宝剣でも即位に有効であるということになり、それならば三種の神器の意味はないことにならないか。しかしこのあたりから親房は神器についてしばしば述べて皇位継承の重要な要素としている。

廃帝(仲恭天皇)の項では、承久の乱が述べられる。後鳥羽上皇が幕府を打倒するために挙兵したがあえなく敗退した事件である。天皇中心史観の立場では、後鳥羽上皇側に正義があったとするのが当然であるが、親房はそう見ない。親房は承久の乱の失敗を上皇の失政に原因があったとし、「(幕府の打倒は)天も許さぬことであったことは疑いない(p.314)」という。そしてむしろ頼朝は善政によって民を救ったとする。

第86代四条院は若くして亡くなったのでここで皇統が断絶した(もはや親房は「徳」がどうのこうのと述べていない)。そこで北条泰時は第87代後嵯峨院を立てたのだが、これを親房は「これは天命であり、正理であった(p.320)」とし、「天照大神の「冥慮」に代わって、泰時がこのように取り決め(同)」たという。この論法だとなんでも説明できてしまうような気がする。ともかく、親房は泰時びいきなのだ。

こうして、ようやく「両統迭立(てつりつ)」に入る。後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)が交互に天皇を出すという異常事態であるが、意外なことに、これについての親房の筆は至極あっさりしている。南北朝の動乱の原因はこの両統迭立にあり、また皇統の直系相続を基本とする親房にとって容認できぬ事態のはずである。にもかかわらずなぜ親房は両統迭立について問題視しないのか。結局、両統迭立の責任を追及すると北条時宗にいきつくが、先述のとおり親房は北条泰時びいきであり、ひいては北条氏びいきである。そのために両統迭立を不問にしたとしか思えない。

両統迭立の中で、親房が特に高く評価するのは後宇多院である。後宇多院は退位後に出家して灌頂を受けており、「あらゆる戒律を残りなく保ち、終始怠ることなく真言密教の奥義を究め、大阿闍梨として灌頂を授けられなさったことはたいそう珍しい(p.334)」という。親房は、真言密教びいきでもある。第95代後醍醐天皇も、真言密教を修行し、灌頂を受けている。もしかしたら親房の真言密教びいきは、後醍醐天皇の存在から逆算されたものなのかもしれない。

さて、問題の光厳天皇の即位についてである。なぜ親房は光厳天皇を天皇として認めないか。後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒を目論んだ「正中の変」(後醍醐は無関係を主張)を経て、「元弘の変」で幕府方に捕らえられて退位を余儀なくされた。『神皇正統記』は(意図的に?)書いていないが、ここで三種の神器は幕府方に没収されている。光厳天皇は、後醍醐天皇からの譲位こそないが、後伏見天皇の「伝国詔宣(てんこくしょうせん)」による正式な手続きで即位している(後鳥羽天皇と同じ)。なお光厳天皇の即位にあたって、親房は三種の神器の有無について何も述べていない。ここが一番意外だった。光厳天皇を認めるか否かが『神皇正統記』の一番のキモであるはずなのに、親房は議論も何もなく光厳天皇を一方的に切り捨てているだけなのだ。

 一方、後醍醐天皇は隠岐国に配流された。その後、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、反幕府方の勢力を糾合し、特に足利高氏の寝返りと新田義貞の力で鎌倉幕府を滅亡させた。こうして後醍醐天皇は再び天皇として返り咲いた(北朝の立場からは後醍醐天皇を重祚したと見なした)。なお書いていないが、この時後醍醐天皇は神器も取り戻したのであろう。

また、ここで北畠顕家を陸奥守に任じて東国に派遣したことが述べられるが、不思議なことに、顕家が親房の嫡男であることは一言も書いていない。親房は『神皇正統記』を、親房の立場からではなく、いちおう客観的な歴史書として書いている(という体にしている)のである。 これは、読んでいるとなんだか居心地が悪い。親房は、明らかに後醍醐天皇の廷臣としての立場で書いているのに、あたかも客観的な歴史書であるかのように装っている。

しかし面白いことに、かといって後醍醐天皇を手放しで賞讃するのでもない。例えば足利高氏を重用したことを「度を超えた御寵愛(p.356)」といい、「たいした大功績もない高氏に、このような恩賞が与えられるのはおかしい(同)」という。恩賞の不公平は建武政権の早期瓦解の要因に挙げられるが、親房もそれを指摘する。また人事は適材適所であるべきなのに、勲功への見返りとして官位が濫発されたとも強く批判している。親房は客観的な歴史書を装うことで、建武政権への批判をしているのである。これは後醍醐天皇の「不徳」であるから、皇統の移動が導かれるように思われる。ところが親房はさんざん建武政権の失敗をあげつらいながらも、それを正統と見なし続ける。

中先代の乱が起こり建武政権が打倒されると、北朝は光明天皇を即位させるが、ここでも神器の有無について親房は一言も述べていない。実際には、光明天皇の即位時には神器はなかったが、その後、後醍醐天皇が花山院に幽閉され、神器も幕府に取り上げられて光明天皇の許に戻ったのである。こうなると光明天皇が正統ということになりはしないか。さらに後醍醐天皇は神器を持ち出して吉野に逃亡したとするが、今谷によれば「後醍醐天皇が神器をすべて持ち出したとは考えがたい。(中略)吉野朝で後醍醐の携帯と称す神器は、南朝において新造したものと推測される(p.380)」という。 

『神皇正統記』は、神器と皇位を強く結びつけた書であるとされる。確かに親房は「内侍所(神鏡)も神璽も吉野にあるのだから、どうして都でないことがあろうか(吉野こそ都なのである)(p.380)」と述べ、神器こそ皇位を表すものだという。ところが、これまで縷々述べたように、決して『神皇正統記』全体がそういう考えで一貫して書かれているわけではない。それどころか親房の皇位継承理論で最も重要なのは「徳」(=善政)であり、神器ではなかった。天皇の地位が執政から遠くなり、皇統が乱脈したことでクローズアップされてくるのが神器なのである。むしろ、南朝の正統性を主張したいがために苦し紛れで出してくるのが神器=皇位の理屈であるように感じた。しかも、注意深く読んでみるとその理屈はすでに破綻しているのだ。

それにしても、『神皇正統記』は本当に南朝の正統性を主張するために書かれたのだろうか?  というのは、南朝の正統性を主張するためには「北朝に正統性がない」ことを論証する必要があるが、実は『神皇正統記』では光厳天皇・光明天皇を切って捨てているだけで、正統性の有無について(神器の有無についても!)全く論じていない。これでは南朝の正統性が明証されたとは言いがたい。そもそも、南朝の正統性を主張するために、神代以来の天皇の歴史を全て書く必要はないように思う。なにしろその皇統は『本朝皇胤紹運録』と全く一致しているのだ。つまりこの本は、本来書かねばならないことが書いておらず、書かなくてもいいことが厖大に書かれているように見える。 

一方で、『神皇正統記』は冒頭に述べたような緊迫した状況で書かれており、漫然と書いたものでないことは明らかだ。しかも南朝の擁護が全面に出ていることも明白である。そこで後半部分をもう一度検証しつつ目を通したところ、親房があえて書かなかったと思われることについて見えてきた。

それは、「伝国詔宣(譲国詔宣)」である。

当時の一般的な相続慣行において最も重視されたのは「譲状(ゆずりじょう)」という証文である。これは、家督保持者から時期当主へ向かって「財産は○○に譲ります」ということを明確にする証文である。中世は証文が重視された時代で、家督継承には家宝の受け渡しも伴ってはいたが、一番重要だったのは「譲状」であった。この一般通念が天皇家にも適用され、天皇家の家督保持者たる「治天の君」(院)が次期天皇を指定する「伝国詔宣」を出すことで即位が可能となると考えられるようになった。

最初に「伝国詔宣」が出されたのは鳥羽天皇である(出したのは白河院)。白河院は5歳の皇子を鳥羽天皇として強引に即位させたが、その時に使われたのが「伝国詔宣」だ。次が後鳥羽天皇の時で、前天皇の安徳天皇が壇ノ浦で神器とともに海中に沈んだため、彼は神器を用いた「践祚の儀」は行えなかったのであるが、「伝国詔宣」で即位できると見なされたのである。これについては、親房も「太上法皇の詔によって後鳥羽天皇をお立てになった(p.299)」とちゃんと書いている。また他にも後高倉院(天皇経験でない治天の君)から後堀河天皇へも「伝国詔宣」が出されて次期天皇に指定されている。そして「伝国詔宣」によって三種の神器なしで即位したのが、北朝の光厳天皇と光明天皇であった。

今谷明も「公卿界でも上皇の「譲国詔宣」をもって皇位継承の象徴とする意識が定着しており(今谷明「14−15世紀の日本」『岩波講座 日本通史』第9巻)p.7」)とし、「上皇の譲国詔宣を欠く践祚例は、院政期に入って一例もなかった(同書p.13)」と述べている。当時の皇位継承の通念において最も重視されたのが「伝国詔宣」なのである

にもかかわらず、親房は後鳥羽天皇の即位以外で「伝国詔宣」については何も語らない。その理由は明らかだ。「伝国詔宣」が有効ならば、北朝の天皇(光厳・光明)を正統と認めざるを得ないからだ。しかも親房は、「伝国詔宣」が有効であることを自覚していたのも間違いない。それは、後醍醐天皇没後、「親房は幕府を油断させ、北朝の帯びていた神器を接収し、光厳・光明・崇光の三院と廃太子直仁親王を南朝賀名生(あのう)に拉致・監禁するという荒業(p.31)」を行っていることから明白である。神器がなかったとしても、上皇が存在していれば「伝国詔宣」によって天皇の即位が可能になるから、上皇を拉致して北朝の天皇擁立を防いだのである。

ところが幕府もさるもので、光厳・光明の母である西園寺寧子(広義門院)を「治天の君」にしつらえ、彼女から「伝国詔宣」を出すことで後光厳天皇が即位するのである。

これには親房も予想外だったが、これほどまでに強力な皇位継承のアイテムだったのが「伝国詔宣」なのである。してみると、親房が『神皇正統記』でやりたかったことは、「伝国詔宣」の効力を無力化するということなのではないだろうか。そのために、彼は後鳥羽天皇以外では「伝国詔宣」の存在に触れないことで、あたかも三種の神器こそが皇位継承に重要な役割を果たしていたかのように印象操作した。実際に当時の皇位継承に有効だったのは「伝国詔宣」だったにもかかわらずだ。

しかしながら「伝国詔宣」は院政期に登場するものであり、天皇の歴史全体から見ればごく最近のアイテムにすぎない。一方、三種の神器は神話に登場しているから、悠久の歴史がある。そして「三種の神器」を媒介にして、親房は「神慮」「天意」「神明」をしばしば引き合いに出して、神の意志こそが皇位継承(皇統)を左右してきたとの印象を植え付けるのである。だから日本は「神国」なのだ。これが、親房が天皇の全歴史を神話の時代から長々と書いた理由であるように思う。

そしてその意図は見事に成功した。親房によって、皇位継承の正統性のポイントが「伝国詔宣」から「三種の神器」へ完全にスライドしたのである。

※「伝国詔宣」については、岡野友彦「伝国詔宣——中世院政下の皇位継承」も参考にしました。

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。「愚管抄と神皇正統記—中世の歴史観」を所収する。

『神国日本』佐藤 弘夫 著 
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