2025年11月16日日曜日

『荘子』福永 光司・興膳 宏 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収)

『荘子』の画期的な現代語訳。

私は『荘子』を通読するのは2回目である。初回は20代の頃で、岩波文庫の金谷治訳注のものだった。その時は、なんだか『荘子』がかっこいいものに見えて心酔し、当時漢検1級を取ろうとしていたこともあって、内編の半分くらいを筆写したほどだ(でも内容はあまりわかっていなかったと思う)。

にもかかわらず、諸子百家の思想をもう一度見直したいというここ数年の読書の中で、最後まで手が伸びなかったのが『荘子』である。『荘子』は一筋縄ではいかない著作なのだ。

本書(老子・荘子)は、筑摩「世界古典文学全集」の企画の際は福永光司に全訳が委ねられていた。ところが福永はいつまで経っても手を付けられず、約30年も企画は眠ったままとなった(とんでもない話だ)。そこで筑摩書房編集部の大西寛が動き、興膳 宏に白羽の矢を立てた。興膳は福永の訳注・解釈を基盤に『荘子』を全訳したのである(この訳業の途中、福永は永眠した)。興膳は中国思想ではなく中国古典文学を専門としているため、これまでの『荘子』の訳とはかなり違った生き生きとした画期的な翻訳となった。こうして、筑摩「世界古典文学全集」で一冊だけ欠巻となっていた本書が完成したのが2004年。「全集」がスタートしてから40年の時を経て無事完結したのであった。

ともかく、諸事情があったとはいえ、筑摩「世界古典文学全集」の中で一番の難産だったのが『荘子』なのだ。私の手が伸びなかったのも当然である(!)。

『荘子』は、内篇・外篇・雑篇の3つの部分で構成される。このうち、荘子すなわち荘周(歴史的人物としての荘子を示す場合は荘周ということにする)の著作と思われるのは内篇のみで、外篇・雑篇は後次的に成立されたとされる(実際、調子がずいぶん異なる)。『荘子』は、一人の著作というより道家思想家たちが作った説話集という趣があり、その性格は複雑だ。なお、外篇と雑篇の区別は便宜的なものと考えられているので、以下内篇と外篇・雑篇に分けて読書メモを書くこととする。

内篇

内篇は7篇から構成される。劈頭の「逍遥遊篇」の最初、「鯤(こん)」と「鵬(ほう)」の話は、最初読んだときは度肝を抜かれた。北の果ての海に何千里もの大きさがある魚=鯤がいる。そして鯤が変身して、鵬という巨大な鳥となり、南の果てを目指して飛んでいく、というものである。『荘子』を哲学的な著作と思っていた20代の私は、この何がいいたいのかわからない壮大な空想の始まりにすっかり心酔してしまったのだった(ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭と似ている)。

しかし、『荘子』内篇をほら吹き話と思ってはいけない。荘周は、哲学的でもあるが、科学的でもある。鵬の話でも「風も厚く層を成していなければ、鵬の大きな翼を支えることはできない」といい、空気が鳥の体重を支えているという科学的見方をしている。そして意外なことに彼は極めて論理的である

荘周の論敵に、恵子(恵施)という人物がいた。彼は論理学者で、梁の恵王に仕えて宰相にまでなった。恵子は『荘子』の中にたびたび登場して荘周と問答しているが、実は荘周と恵子は親友でもあった。最初、論理学者の恵子と、空想的な荘子が親友だったというのが腑に落ちなかったのだが、内篇をよく読んでみると、二人が気が合ったのがわかる。

例えば「斉物篇」には、有名な「胡蝶の夢」の話が出てくる。荘周が夢の中で蝶になっていた話である。「はて、これは荘周が夢でチョウになっていたのか。それともチョウが夢で荘周になっていたのか」と荘周は問いかける。荘周は、「荘周が夢でチョウになる」ということがありえるなら、「チョウが夢で荘周になる」も等しくありえるではないか、という論理的な思考をするのである。

「斉物篇」では、ある人物の問答で「孔丘も君もみな夢を見ているんだ。いや君が夢を見ているというこの私もまた夢を見ているんだ」とか「いずれか一方が正しくて、他方はまちがっているんだろうか。それともいずれも正しいのか、いずれもまちがいなんだろうか」などという。荘周は、あらゆる論理的可能性を考えてみなければ気が済まない。だから内篇には、議論が行きつ戻りつして何を言いたいのかわからない部分がある。そしてあらゆる論理的可能性を一つ一つ考えていった結果、荘周は「何も断言することはできない」という極めて科学的な結論に達する。すなわち究極の立場は曖昧模糊としている。「私が知っているといっても実は知らないのかも分からん。また私が知らんといっても実は知っているのかもわからん。」

では、すべては相対的でしかないのか。荘周は、少なくとも言語で思考する限りはそうならざるを得ないと考えている。彼の思考の一端は「斉物篇」の論議に現れている。曰く「有ということがあるし、無ということがある。またもともと「無ということ」はないということがある。またもともと「無ということはないということ」はないということがある。(中略)私が述べてきたことが果たして「述べた」ことになるのか、それとも「述べた」ことにならないのかは分からない」。荘周が何を言っているのかわからないかもしれないが(私もわからない!)、まさにこれぞ荘周節である。

荘周のこのような態度は、恵子に大きく影響を受けたのだと思われる。恵子のまとまった著作は伝わっていないが、『荘子』の雑篇(天道篇)には恵子の思想がある程度体系的に紹介されている。恵子の思想を象徴するものに「狗(いぬ)は犬ではない」というものがある。これは、「狗と犬は文字が異なる以上、イヌではない」という詭弁である。恵子の属する論理学派の巨頭といえば公孫竜で、彼は「堅白同異」の説で有名だ。曰く、石の堅さと白さは同時に知覚することは不可能だから、白くて堅い石は存在しない(あるいは堅い石と白い石の2つである)とするものである。これと似た恵子の説に「白い狗は黒い」がある。曰く、白イヌも黒イヌもイヌという点では同じ。ゆえに白イヌ=黒イヌ、というもの。

こういうのはバカバカしい詭弁だが、恵子にはギリシアのゼノンのようなところがあり、「すばやく飛んでゆく矢には、動きも止まりもしない時がある」(無限小の時間に区切れば、動いているにもかかわらず静止している状態がある)とか、「南方には果てがなく、また果てがある(空間は無限ともいえるし、また有限ともいえる)」「一尺の埵(むち)は、毎日半分ずつ分割してゆくと、永遠に分割し尽くせない(物質は無限に分割できる)」など、時として彼は数学的ともいえる論理性を発揮する。こういうところに、荘周は一目置いて居たのではなかろうか。

恵子が死んだ後、荘周は「恵先生が亡くなられてから、私には相方とする人がいなくなってしまった。もうともに議論しあう相手がいないんだよ」(雑篇「徐無鬼篇」)と寂しがっている。荘子は、恵子の荒唐無稽ともいえる論理性を楽しみ、それを逆手に取った空想を展開したり、時に厳密に言葉の在り方を検討したりして、思想を磨いていったように思われる。そして恵子の詭弁が言葉の限界を突いたものであることから、「思考の土台である言葉そのものを疑った方がよい」という考えになっていったのではないだろうか。

荘周の言語に対する思想は、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に近い部分がある。ヴィトゲンシュタインの「語りえないことについては、沈黙するほかない」(『論考』)は、荘周の言葉としても違和感がない。雑篇「寓言篇」にある「ことばで論じなければ一切万物はみな斉しいのだが、その斉しさをことばで論じようとすると斉しくなくなってしまう」とか、外篇「天道篇」の「意味内容にはその拠り所があるが、その拠ってきたるところは、ことばでは伝達できない」などは、言語で議論することの限界を明確に指摘している(ただし、そう言いながら、荘周はたいへん饒舌である)。

しかし人間は言語以外で思考することはできない。「道」が思考を超えたものであればどう肉薄すればいいのか。そこで荘周が注目するのは技術だ。有名な寓話「庖丁解牛(ほうていかいぎゅう)」は「養生主篇」に出てくる。牛を捌く名人の庖丁は、牛の筋肉や腱の隙間にそって刃を入れるから19年も刃こぼれしないということから、自然の摂理に従って物事を進めることの重要性が謳われる。荘周は、言葉よりも技術に信頼を置いている。やはり彼は科学的なのだ。『荘子』には、数々の技術者が登場し、技術を極めることで自然の摂理を体得しうることが示されている。いくら思考をもてあそんでもそういう境地にはならない、と荘周はほのめかす。「ものごとを自然のままに任せて、心を自由に遊ばせ、いかんともしがたい必然に身を委ねて、己の内なるものを養い育ててゆくのが、最良の方法」なのである。そこに言語も勉学も議論も必要ない。

また、『荘子』といえば「無用の用」(逍遥遊篇・人間世篇)が有名である。曲がりくねった木は、役に立たないから木こりに切られることなく寿命を全うする、と荘周はいう。このテーマは様々な題材で変奏して語られるが、言わんとすることは「有用性への疑問」というより、有用と無用は相対的な概念で文脈次第、ということだ。つまり有とか無といったものは、作られた概念にすぎず、万物はすべて一つである(物自体のみがある=これもヴィトゲンシュタイン的だ)。そして荘周は外面的な美醜の無意味さをことさら強調する。もしかしたら荘周自身、風采の上がらない人物だったのかもしれない(荘周は間違いなく貧者であった)。彼は兀者(足斬りの刑を受けた者)とかせむしといった障害者で道を体得している人を幾人も登場させる(中でも魅力的なのは「女偊(女性のせむし)」(大宗師篇)だ)。

荘周は、最高の境地に達した人物を「真人」という。これは儒家のいう「聖人」とは少し違う。聖人は天下を治めるが、真人はあらゆる相対性を超え、自然に従って生きる人間である(ただし荘周はしばしば「聖人」をいい意味でも使う)。彼は儒家が尊ぶ尭・舜・禹などを真人と認めない。「大宗師篇」では、真人とはこういうものだという議論の中で、真人そのものとはしていないものの、狐不偕・務光・伯夷・叔斉・箕子・接輿・紀多・申徒狄が「自分自身の快適さを享受しなかった人々」として列挙されている。これは後の道家に大きな影響を与えた(後述)。

荘周は儒家を強く意識している。『荘子』で主役級に登場するのは孔子である。もちろんその問答は事実ではなく、そこでは孔子は荘周によって役回りを与えられて戯画化されている。孔子にとってはいい迷惑である。しかし一方的に揶揄されたり貶されたりしているのではなく、荘周は孔子という人物に人間的魅力を感じているようだ(一方、意図的に無視されているのは孟子)。『荘子』には明らかに『論語』のパロディになっている部分がある。そして時に孔子は『荘子』的な道を理解し憧れる人間として描かれる。荘周にとっても孔子は端倪すべからざる人間であった。

そして後の老荘思想といえば、養生や長命、不老不死を求める性格があるが、『荘子』にもその要素はあるものの、むしろ生と死の対立を超越しようとする意識の方が強い。「大宗師篇」では孔子に「彼らは生をコブやイボ同然のよけいなものと見なし、死をできものがつぶれたくらいにしか思っていない」と言わせている。荘周は、病気になったら死を受け入れるのがよいと考えている。それが自然の摂理だからだ。一方で、寿命を全うすることも同様に価値があると見なしている節もある(例えば「無用の用」の木がそうだ)。このどっちつかずな態度は外篇・雑篇ではさらに拡大されることになる(後述)。

内篇での荘周は、他の諸子百家とは少し趣が違う。諸子百家とは諸国を遊説して君主に富国強兵の道を説いた政策コンサルタントであったが、荘周はどうやらそういう活動とは距離を置いていたらしい。というのは内篇では、荘周が君主と問答をする話が一切出てこないのだ。ただ、同じく遊説などしなかった老子は、『老子道徳経』で一切固有名詞を出さず(誰々がこう言った、という話をせず)訥々と哲理を語ったのに対し、『荘子』は明らかに諸子百家的なしつらえで編集され、荘周自身、架空の人物を大量に繰り出して対話と寓話を基本とした戯曲的論述を行う。そう考えると、荘周は諸子百家の著作のパロディとして『荘子』を書いたのかもしれない。荘周は明らかに諸子百家の人々をあざ笑っている

ちなみに、荘周は「天」をあまり意識していない。これも他の諸子百家との違いである。儒家と墨家は特に「天」を重視するが、荘周は「天」を至高の存在としては認めていないようだ。代わりに荘周が強調するのは「造物者」である(『荘子』が初出の単語である)。「造物者」は、「天」のように万物を主宰しているのではないが、自然の摂理を司る。しかし「天子」を指定したりはしない。人間界に介入する「天」ではなく、人為を超えた存在として「造物者」がいるのである。荘周の世界観は、鬼神の存在を前提としていないようだ。

外篇・雑篇

先述のとおり、外篇・雑篇は後次的に成立したもので、内容は雑然としており、思想が一貫していない。そして思想が深化するどころか俗化している部分もある。外篇・雑篇は、荘周に続いた老荘思想家・道家たちが、『荘子』というフィールドを使って玉石混淆の論述を入れ込んだという感じである。よって思想としては大きな価値はないが、文学的にはむしろこちらの方が面白く、興膳宏も面白がって日本語訳を書いているような雰囲気がある。ちなみに内篇にはほとんど押韻がないが(荘周は押韻より論述を重視する)、外篇・雑篇は詩文とも違うラップ的な押韻が頻出している。

まず目立つのは、儒家への批判である。荘周本来の思想では、儒家への批判は絶対的なものではなかったのだが、ここでは儒家のいう徳目(仁・礼・義など)は人為的なものであると一方的に斥けられ、人間本来の性質「性」を尊ぶことが喧伝される。この「性」は内篇には登場しない概念であるが、思想史的には重要である。

外篇・雑篇には多種多様な登場人物が出てくるが、私がとりわけ気に入ったのは盗跖(とうせき:盗人の跖)である。彼は「何をやろうが道がないわきゃねえだろう」と嘯く(胠篋篇)。盗みをやるにも、そこには自然の摂理があるというのである。そして盗跖篇では、孔子を相手に大演説をぶつ。それは、世の中の全てをクソくらえだという、とんでもない演説だ。そこでは道家的なものでさえ笑い飛ばされ、伯夷・叔斉・申徒狄などは「名誉にとらわれて軽々しく死を選び、命の大切さを忘れて寿命をそまつにしたやからさ」と一蹴される。この部分は、興膳も面白くてしょうがないという感じで訳している。世の中のあらゆる権威に悪態をつく盗跖は単なる独善主義者なのだが、ある意味「道」を相対化する存在でもある。「てめえのいってる道なんざあ、からっけつの中身なしで、でまかせのうそっぱちよ」と彼はいう。痛快である。

そして外篇・雑篇の大きな特徴は、荘周の思想と老子の思想がドッキングされていることだ。本来の荘周の思想は、老子と近接はしていても違う部分も大きい。例えば老子は文明を否定するが、荘子は技術を信頼する。老子は国家・政治論を語るが、荘周は政治的なものから距離を置く。この二つの立場が、個人倫理として統合・再編集されたのが外篇・雑篇である。つまり、老子・荘周の思想が「隠者の哲学」として糾合されているのである。これはこれで魅力的な思想かもしれない。

しかし、ここで理想とされている隠者は、どこか小市民的だ。外篇・雑篇には、「陋巷で静かに暮らす賢人のところを王が訪れ、宰相となってもらいたいと頼むが、賢人はそれを断って「政治の話など汚らわしい」と嫌がり自殺・隠遁してしまう」というエピソードが様々に変奏して語られる。先述した狐不偕・務光・伯夷・叔斉・箕子・接輿・紀他・申徒狄は、みな名誉や地位を拒んで自殺したり隠遁した人々である(自殺したのは、狐不偕・務光・紀他・申徒狄)。

自殺や隠遁までしなくても、天下を譲られることを断るというエピソードはさらに多い。例えば尭は許由に天下を譲ろうとして断られ(これは逍遙遊篇にもある)、舜は善巻に譲ろうとして断られる。しかしこういうエピソードをくり返し読まされて思うのは、「荘子的隠者は、むしろ賢王に見出されることを熱望していたのでは?」ということである。

彼らは、自分が賢人であると自認しながら、官職に恵まれず不遇をかこっているように見える。だから、田舎に隠棲している自分たちをいつか王が見つけ出し、抜擢されることをひそかに願っているのである。ちょっとシンデレラ的なのだ。しかし彼らはそうした機会はいつまで待っても訪れないということが分かっていた。そこで、想像の中では「自分は好きで隠棲しているのだから、政治の世界などに引き入れないでほしい」という態度を取ったのである。そして、その態度の行き着くところとして、抜擢されようとしただけでそれを嫌がって自殺までしてしまう。

一方で、荘子的隠者は生命を重んじる(内篇「養生主篇」、外篇「達生篇」)。天寿を全うすることは、一国の主となることより優先される(雑篇「譲王篇)(とはいえ、それと反対の思想も外篇・雑篇にはあるのだが)。にもかかわらず、狐不偕や申徒狄は些細なことで自殺しており、命を粗末にしている(盗跖のいうとおりだ!)。結局、隠遁も抜擢も自殺も、彼らにとって全てが観念的で想像の産物にすぎないように見える。荘子的隠者は、実のところ田舎で隠遁しているのではなく、地方政府で小役人をしているようなイメージがチラつく。

しかし、諸子百家の他の思想が、結局は政治哲学に収斂していったのに対し、老子・荘子の場合は政治とは全く関係ない領域で、個人の生き方を指南した。為政者のための儒学思想に対抗できたのは、個人のための老荘思想しかないのだ。玉石混淆ともいえる多くの人が『荘子』の成立に寄与していることが予想されるが、その裾野の広さこそ『荘子』の力を表している。

では、その個人の生き方指南とは何か。それは極言すれば「自然の流れに身を任せなさい」ということだ。「自然の流れ(=やむを得ざる必然の理)」が則ち「道」なのだ。これは、積極的に世界に働きかける思想ではない。現状肯定であり、敗北を認める思想であり、何もしなくてもすむ思想なのだ。「何も思わず、何も考えなければ、道は知られる。どこにも身を置かず、何も行動しなければ、道に安んじられる」(外篇「知北遊篇」)などというと、一見すごいことを言っているようだが、なんだかニートの思想のようにも感じられる。このように書くと、あんまり『荘子』をネガティブに評価しすぎだと思うかもしれない。

しかし人間の社会は、自分ではどうしようもないことで苦しめられるのであり、世界を変革することは不可能なのであり、一旗揚げれば99%は失敗するのが現実なのだ。だから『荘子』の思想はネガティブな方向に成長していったように見えるが、ある意味では、人間社会のリアリズムを最も体現した思想となっていったとも言える。「生きるということは、暗闇の中にいるようなものだ(生有るは黬きなり)」(外篇「庚桑楚篇」)という。ままならないこの世界でどう生きるか。どう内面的自由を得るか。『荘子』の中心的な命題はそこへ遷移していったのである。

荘周の思想がそのように変奏していった原因の一つは、彼には弟子が少なかったということがありそうだ。『荘子』全篇で、唯一登場する(名前が明らかな)彼の弟子は「藺且(りんしょ)」ただ一人である。荘周その人は、諸国を遊説するでもなく、陋巷にあって貧しく一生を終えたらしい。だから弟子もほとんどいないのだ。儒家と違って、道家の場合は荘周からの師資相承の系譜というものがなく、荘周が残したテキストをたよりとして思想が広まっていった。そのためにテキストの解釈次第で多様な思想が生まれ、それが編集されて生まれたのが『荘子』なのである。それは荘周の思想を基盤としつつも、それとは異質なものを包摂したものなのである。

荘周は「ことばでは伝達できない」と言ったが、その思想は言葉のみによって伝えられ、そして「ことばでは伝達できない」ことを明証するように、変容していった。だがその変容は、必ずしも悪いものとは言えない。思想的には俗化していても、むしろ個人倫理としての力があるのは外篇・雑篇かもしれない。ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を生きる指針とする人はほとんどいないが、『荘子』はたくさんの人の座右の書となってきたのである。

言語哲学を足がかりに隠者の思想に辿り着いた、玉石混淆の説話集。

【関連書籍の読書メモ】
『老子』福永 光司 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収) 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/08/37.html
老子の思想。全ての人為的価値を顚倒させるリアリズムの書。 

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_15.html
諸子百家の思想の概観。

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