2025年3月31日月曜日

『三彜訓』柏原 祐泉 校注(『近世仏教の思想(日本思想大系57)』所収)

三教一致を主張する本。

『三彜訓』は浄土宗の僧侶、大我の書である。大我は京都石清水の正法寺22世住持。宝暦8年(1758)の序・跋があり京都・大坂・江戸で刊行された。原漢文。

まず冒頭の署名に目を引かれた。「日本 釈大我絶外 述」とあるのだ。ここに「日本」と記した意味は大きい。「日本」と記すということは、つまり国外に目を向けているということを示す。黒船以前に世界に意識が向いていたことの傍証である。その「世界」が中国とインドに限られているとしてもだ。そしてその中で、あえて「日本」を自負しているのである。ここにはナショナリズムが見え隠れしている。

 『三彜訓』の内容は、神仏儒の三教一致の思想を説くものである。

まずは儒教について。儒教の古典の該博な知識に基づき、中国の故実を援用した流麗な文章が続く。著者の学問は、明らかに儒学をベースとしている。その中に面白い表現がある。「我、方外に遊びて、織らず耕さず、飽煖乏しきことなし。残賊の甚だしき者にあらずや(=私は仏教界に入り、労働しないにもかかわらず贅沢をしている。ろくでもない人間ではないだろうか)」というのだ。こういう指摘がすでに社会からされていたのだろう。この自問に対して「以て国恩を報ぜんがために注するのみ(=だからこそ国の役に立つように書こう)」と自答しているのも注目される。「国恩」という言葉にも、仄かなナショナリズムがある。

そして大我は「道は仁義より大なることなし。仁義の道大なり。しかうして、その実、親に事へ兄に従ひ賢を喜び人を愛むより大なることなし」という。彼は儒教道徳を完全に承認する。ここには仏教的な出世間主義は全くない。出家して俗縁を切り、愛欲の妄執を離れることが理想だという考えは微塵もないのである。このように儒教を完全に肯定してから、大我は「噁、茂卿が狂なる(=まったく、荻生徂徠ときたら狂っている)」と激しい徂徠批判を展開する。いうまでもなく、荻生徂徠は古文辞学によって儒学の元来の姿を考究した大学者であり、また仏教の批判者でもあった。大我の徂徠批判の要諦は、「徂徠は論語読みの論語知らずだ」ということだ。「学問はすごいかもしれないが、その心は卑賎である」というようなことを縷々述べている。

そして、儒教と仏教が背馳するものではないことを『先代旧事本紀大成経』を引用して述べている。これは古代の書物であるとされていたが、実は潮音道海という僧侶が江戸時代に偽作したものであった。 『三彜訓』の時点ではまだ偽作が明らかでなかったのかもしれない(未調査)。そして、徂徠派の人たちは「ただ文辞の間にありて、以て儒術を学びたりとするのみなる者なり」という。このように徂徠批判は激しいが、それはあくまでも徂徠に対するものであり、儒教そのものへの批判は一切ない。それどころか大我は「先王の教、世に行われざるを見るに忍び難く、まさに力を尽くして以て儒教を主張せんと欲すること久し」という。本当に大我は僧侶なのか、と思ってしまう。

次に、話題は仏教に移る。儒教側からの批判の一つとして「釈家にもかくの如きの治国斉家の道ありや(=仏教でも儒教のような統治論・社会秩序論があるのか)」が取り上げられる。排仏論を主張する人はこういう批判をしていたのだろう。これに対し大我は、儒教では韓愈・欧陽脩・程兄弟・朱熹が排仏論を主張してきたが、彼らは仏教をよくわかっていなかったとする(ただし、朱熹は僧侶だったはずなので、大我の主張がどこまで歴史的事実に基づいているのかは要検討だ)。そして「華和の鄙儒、愈が瞽説を沿□(※衣遍に龍)す(=中国・日本のいやしい儒者が、韓愈のつまらない説を踏襲してきたせいだ)」という。

つまり、仏教に「治国斉家の道」がないというのは誤解で、それどころか仏教の側も「日として仁義忠孝を説かざることなし」と大我はいう。だから「なんぞ仏に天下を安んずるの道なしとは謂はんや」。私からすると、これはさすがに仏教を曲解しているのではと思う。仏教が国家や社会や家という世俗秩序を否定し、そこから離れることを勧めているのは事実だからだ。しかしそういうことは「販仏売法の巧言(=食うために仏法を売りものにする者の口先だけの言葉)」なのだという。結構過激な主張である。ともかく、仏教と儒教は、帰するところは一なのだ、というのが大我の主張だ。

であるが、仏教には儒教より優れた点があると大我はいう。それは儒教が人の生きるべき道を指し示すだけなのに対し、仏教では道から外れた者は地獄に落ちるとするから、より強制力があるというのである。仏法を信じるものは、悪事を行って地獄に落ちることを恐れ、心を恣(ほしいまま)にしないという。だから仏法が中国・日本に広まったのは当然だとしている。

こうして仏儒を国家的・通俗道徳的に評価してから「吾が神にも仏儒の如く天下を安んずるの道ありや」として次に神道の検討に移っている。ここで特徴的なのは、「天下を安んずるの道」という、国家的観点から評価しようとしているところである。大我の発想は、常に「国」を出発点とする。当時は個人の幸福とか、善悪といったような内面については大きな問題ではなかったという事情はあると思うが、それにしても大我はやや「国」よりの視点だと感じる。

さて、大我の神道への態度は、仏儒の場合とは大きく異なる。なんだか無条件に称揚する感じなのだ。大我は「吾れ神の遠孫を辱(かたじけな)うす(=私は神の遠い子孫なのを身に染みてありがたく思う)」と述べ、日本を「吾が神国」とし、「神皇先王を詆訶(ていか)する者は、靦然(てんぜん)として人面なりといへども、人にあらず(=神代からの歴代天皇をそしる人間はあつかましく、もはや人ではない)」とまで言い切っている。そして「もしただ異邦を褒して神国を貶すの心あらん者は、以て吾が神国に居すべからず(もし外国を褒めて、神国日本を貶すようなやつは、日本から出ていけ)」という、現在のSNSでいわれるような言辞を弄している。

そして日本を「百王不易の皇統、万代弗革の聖洲」と呼んで憚らない。これは明治後の日本の自意識とほとんど異ならないと思う。「万世一系、万古不易」の先駆けだ。これが宝暦年間に主張されていたとはびっくりである。本居宣長『古事記伝』もまだ刊行されていない頃だ。冒頭で感じた仄かなナショナリズムは、今やはっきりと主張される。そして当然だが大我には神話や古代日本の知識も豊富である。そして、『古事記』『日本書紀』『旧事本紀』などを研究した結果、「神の神宣、一言として治国斉家修身誠意の大訓にあらざるはなし」という。これはまた、神道の曲解に感じるのは私だけだろうか。神の言葉は、そんなに国家的・道徳的なものであったかと立ち止まってしまう。ちなみにこのあたりで、「荻生徂徠・太宰春台は神道をよく知らなかったのだ」と改めて批判されている。

このように、大我は神道>仏教>儒教の順に重きを置く。ただし一番位置づけが軽い儒教については該博な知識を持ち、理解も正統的なものであると思われるが、仏教はやや曲解されており、神道についても一面的な語り方になっている。そして大我の三教一致思想は、三教を融和させようという意識は薄く、儒教的な枠組みに仏教と神道をはめ込むものである。表面的には異なるように見える三教があるのは、仏神聖賢が人々を教化するために三国(印度・中国・日本)に現れたからだという。これは本地垂迹説と似ているが大我は垂迹と述べないのは注目される。ともかく「これを以て、三教、途を殊にすといへども、その帰、一なり」なのだ。にもかかわらず三教が対立しているのは平凡な人間は争いを好むからだという。

特に批判されるのはここでも儒者で、「鄙儒の妖言、毒を海内に流す。往往その毒を歠(の)みて、以て狂疾を発する者、都甸(とでん)に嗷(うれ)ふ(=いやしい儒者のあやしい言葉が害毒を世間に広めてきた。しばしばその害毒を啜って狂った者が都鄙でやかましく騒いでいる)」という。「海内に流す」のは徂徠派の一部の儒者だとしても、それを真に受けて騒いでいるのが「都甸」にいるというのは驚きである。ただし、これまでの言説でわかるとおり、大我は偏屈な変わり者であるという印象が強い。彼のいうことを額面通り受け取らない方がいいと思う。最後の署名は「孤立道人釈大我絶外」。「孤立道人」という雅号(?)には、周りに理解されなかった彼の孤独感が表明されているような気がする。

それでも、本書が三都で出版されたことは、彼の主張が相手にされないものではなかったことを物語る。問題は、誰が本書を読んだかである。本書は、これまでの引用でもわかるとおり結構難しい。和漢の故事が踏まえられ、難しい漢字が多い修辞的な文章は理解に骨が折れる。日本思想大系本ではたった25ページほどしかないが、私は読むのにかなり苦労してしまった。註がある読み下し文でもそれだから、原文ではもっと難しい。これを読めたのはおそらく儒者だけだろう。本書では儒者(特に徂徠派)が口を極めて批判されているが、本書を読めたのは儒者しかないとなれば、本書の主張する三教一致の意図するところは、「儒者は仏教や神道を批判するのを辞めろ」というものであるような気がする。だがそんな主張の本をわざわざ儒者たちが高いお金を払って読んだかどうか。本書がどう受容されたのかが気になった。

ナショナリズムが濃厚で僧侶が神道を持ち上げる三教一致論。

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2025年3月27日木曜日

『呪術と占星の戦国史』小和田 哲男 著

戦国時代における呪術について述べた本。

本書は「戦国期の古文書、古記録に散見される呪術や占星にかかわる記述を通して、従来描かれている戦国史とは違うものを書けないだろうか(p.10)」との思いで書かれたものである。

戦国時代といえば、血で血を洗う闘争の時代であり、呪術のような実効性のあやしいことをやっている暇はなかったのではないかと思いがちだ。ところが戦国武将たちは、日の吉凶で進軍を決めたり、呪術による敵の調伏を行ったり、鬮(くじ)で戦術を決めたりしていた。そんなことをしていれば合理的な思考を持った敵にやっつけられてしまうのではないかと思うが、ことはそう簡単ではない、と著者は主張する。

武田氏の史料である『甲陽軍鑑』には「弓矢はみなまほうにて候」との言葉があるが、この時代、呪術(魔法)と現実の武力には境目がなかったのである。

戦国武将の甲冑には仏教の法具などがあしらわれたものがある。島津貴久の兜には三鈷杵が、森蘭丸の前立てには「南無阿弥陀仏」が用いられていた。北条早雲の家訓の第一条は「仏神を信し申へき事」である。軍幟にも「南無〇〇、〇〇大菩薩云々」と掲げられていた。本来、殺し合いや争いとは最も遠いところにあるはずの仏教が、奇妙なことに戦の最前線に駆り出されていた。

戦国武将たちが戦にあたって頼ったのは、毘沙門天、摩利支天、勝軍地蔵、妙見菩薩そして別格なのが八幡大菩薩である。特に毘沙門天、摩利支天、勝軍地蔵などは、それぞれ修法があり、修験山伏が、あるいは武将本人がそれを行っていた(例えば細川政元)。本書では強調されていないが、これらの修法を僧侶ではなく、修験などが行っているのが重要である。そして、そうしたものとは別に、戦場での加護、あるいは万一死去した場合に備えて「陣仏(じんぼとけ)」というものを携行することも多く行われた。兜の中に兜仏をしのばせることが一般的だったが、わざわざ従軍者に「陣仏」を背負わせていたこともあるようだ。

現在でも神仏に勝利を祈願することは多いが、戦国武将も当然のように祈願を行っている。ただしそのやり方は現在とは異なり、「この戦に勝利をしたら〇〇を寄進します」とか「占いの結果、勝利と出たのでよろしくお願いします」というような祈願が多い。つまり、いわゆる「神頼み」的ではなく、仏神を説得・納得させるような部分があるのが面白い。そしてこうした祈願は精神的なものではなく、寺社に関係ある山伏が具体的に動く場合もあった。「戦勝祈願を受けた側が、何らかの形で動いたことがあったことは事実と見てよい(p.43)」。神官が山伏を遣わすというのがどういう関係なのかわからないが、寺社への祈願は、寺社や山伏を味方につけるという意味もあったようだ。

なお合戦前に連歌会を開き、その連歌を神前に奉納することで戦いに勝つという信仰もあった。これは神を喜ばすことで加護を期待したものだろう。

戦国武将の側近くには、軍配者(軍敗者とも書く)といわれる軍師がいた。彼は呪術的軍師であり、占筮(=易・占)を行って戦術を決めていたのである。中には陰陽師を軍師として召し抱える武将もいた。戦国時代になっても、物忌みや方違えのような陰陽道の迷信は根強かったし、星や暦は戦の日程を決めるのに重要だった。「こうした「天文」や周易の研究教育センターの役割を果たしていたのが下野の足利学校(p.51)」である。

足利学校の卒業生だけでなく、山伏、博士(陰陽道)が戦の日取りを決めるための占いを担当していた。それは家来とは限らず、現地人であるケースもあったようだ。前田利家はある戦で「上手のはかせ(=陰陽師)」がいるからと現地人に日取り・時取りを行わせている。攻撃の日程のような最重要のことを、家来でもない現地人に決めさせるとはびっくりである。これは軍記物の記述であるので事実でない可能性があるが、古文書に登場するのが上杉景勝お抱えの呪術者、清源寺是鑑(ぜかん)である。彼は越後国安国寺の住持だった。彼が合戦の日時・吉凶を占っていたことは確かである。修験でも陰陽師でもない、れっきとした禅宗の僧侶が占いをやっていることは注目される。

大友宗麟の軍配者には角隈石宗(つのくま・せきそう)という者がいた。彼の出自は不明だが、受領名を持っていたことと出家していたことは確かで、足利学校の卒業生だった可能性がある。 また武田信玄の軍配者・駒井高白斎は毎日日記をつけているが、それは雲の観察記録といってよいものがかなりの比重を占めている。軍配者が天気予報を行っていた可能性は高い。武田信玄の下にいた山本勘介入道は「気の立ち方」を見ていた。これなどは呪術でもあると同時に観天望気でもあるようだ。

ところで、呪術者Aが吉日だといい、呪術者Bが悪日だと言っていることもあっただろう。また、呪術者が悪日だといっているその日が、戦略的に最適な進発の日だということもあるだろう。そんなわけで、武将は必ずしも呪術者の言いなりだったわけではない。例えば秀吉は、「真言の護摩堂の僧」が「8日の出陣をとりやめた方がいい」と言ってきたのを、理由をつけて「そうであるならかえって吉日である」といって進軍した。また扇は悪日を吉日に転換させるためのアイテムだったらしい。しかし軍配者は城攻めの時に城からの炊煙を見て攻めるタイミングを見たり、天気予報をするなど、必ずしも呪術的観点しかなかったわけではない。また「敵・味方ともに共通する悪日は、一種の休戦日としての意味も持っていた(p.72)」ようだ。

また、出陣におみくじを使うこともよく行われていた。特に島津氏ではおみくじが活用された。意見が割れた場合などは、大事な軍事行動であればこそ最終的な判断を神意に委ねていた。なお、このおみくじは神前での厳粛な御鬮であったが、戦場での先発・後発を決めるなどでは普通の意味でのくじもあったようである。

戦では、五行思想も無視し得なかった。例えば大将が木姓の人は、十干の庚および辛の日に出陣しない方がよい、といったものである。占星術も兵法の一種として受け取られていた。上杉謙信は彗星の出現を見て、その吉凶を軍配者に占わせている。この時は北条氏にとって凶であるとされ、小田原へ攻め入った。一方、誕生日による占星術は、戦国時代にはあまり一般的でないようだ。

敵の調伏祈祷をリードしたのも軍配者であった。応仁の乱の時、東軍の細川勝元は「五壇法」を行わせているが、この時は青蓮院・妙法院・三宝院・聖護院、それに南都の門跡の僧たちが動員されていた。これはかなり大規模な祈祷である。毛利元就と尼子晴久・義久の戦いでは、双方が様々な修法を行っていたとされる(ただし、軍記物にはあるが古文書で裏付けることはできない)。 

呪術とはいえないが、戦場では小さなことでも「奇瑞」を見出し、兵士を鼓舞することが行われた。例えば「鳩が敵陣へと飛んでいった。だから我が軍の勝ちだ」というようなものだ。軍記物にはそうしたエピソードが多く出てくる。それらが史実かどうかはともかく、実際に大将は戦意高揚を図るため、「この戦いは勝てる」という暗示を行ったことは事実であろう。そういうものの極端な例は「夢」である。「こういう夢を見た」といえば、それが嘘でも誰にも見抜けないわけで、まことに都合がよい。ただ、当時の人は夢に神秘的な意味を見出していたので、舌先三寸でデタラメを言っていたのではなく、「こういう夢を見たがこれは吉兆か凶兆か」と占っていたりする。夢が真面目に受け取られていたからこそ、暗示にも活用されたのだ。

そして、縁起かつぎや禁忌といったもの、今なら「ジンクス」というようなものも、戦国時代には大量にあった。北を忌むとか、四という文字を忌むといったようなものもあるし、「疵がうずいたら自分の小便を飲め」とか「川を渡るとき水を飲み過ぎたら尻の穴に石灰を押し込め」というような無茶なものもある。また、旗の竿がどこで折れたかで吉凶を判断し、(ほとんど吉となるようになっていたため)旗がここで折れたから勝ち戦、などと言っていた。

戦いは単に力と力のぶつかり合いではなく、メンタルな部分が大事であるため、各種の儀式もあった。今なら「ルーティーン」というようなものである。例えば三献の儀式というものは、出陣の前に打鮑・勝栗・昆布を肴に酒を飲むものである。そこに意味を見出していたことも間違いはないが、それより、戦の前にそれをやるというルーティーンによって気持ちを入れていたのだろう。秀吉は3月1日に出陣するのがお決まりで、島津氏は雨の日を出陣に好んだ(島津雨)。こういうものは「ジンクス」であり「ルーティーン」でもあったのだろう。

一方、戦が終わった後の処理も重要だった。戦では数千人の死者が出ることも少なくなかったから、そのままでは大量の怨霊が生じてしまう。処理の第一は「勝鬨(かちどき)」を上げることだった。勝鬨は、「えいえいおう」のようなものではなく、一種の呪術だったらしい。はっきりとは分からないが、死体の弔いや処分と鬨の声がセットになったようなものであり「どことなく「怨霊封じ」の儀式(p.153)」なのだ。首実検も、死体に敬意を払い、運び方・据え付け方・捨て方にも作法があった。島津氏の家臣上井覚兼の日記には、首実検のやり方が細かく記されているが、それを読むと怨霊となることを防ぐ意味合いが看取される。

さらに「首供養」も行われた。これは「ちゃんと弔えば祟らない」という観念があったために行われたものだろう。戦没者をまとめてではなく、33の首毎に首供養を行ったという記録がある。また首を集めた首塚も作られた。今も残る首塚や戦人塚・千人塚は戦死者を埋めた墓であることが多い。また武将によっては供養のために寺を建てている場合もある(徳川家康は武田勝頼の戦没地に景徳院という寺をつくっている)。また島津義久は、耳川の戦いにおける大友軍の戦死者の七回忌のために大施餓鬼会を行っている。戦国武将の施餓鬼会は、その後の盆行事の展開にも影響を与えている可能性は大きい。

そして戦場での自らの死去に備えては、陣僧を従軍させた。貴顕の人だけでなく、かなりの陣僧が従軍したようで、誇張もあるようだが、フロイスによれば武田軍には600人の陣僧がいたという。

築城にあたっては、やはり吉凶を気にしたし、また城内に鎮守を勧請することが行われた。石垣に意図的に石塔を転用した石を使っているらしいのも、なんらかの呪的な意味が込められていたかもしれない。また、切り出して運んだにもかかわらず城の石垣などに使わずに放置された残念石と呼ばれる石があるが、これは運んでいる途中に落ちてしまったからという。落城はあってはならないから、「一度でも落ちた石は城には使わない」というタブーがあったようだ。ちょっと気にしすぎな感じはするが、当時の人にとっては大きな意味があったのである。

さらに本書では、呪符・護符の木簡についても紹介されるが、これについては詳細は割愛する。

本書を読むうえでの私自身の興味は2つあった。第1に、当時の仏教は呪術に対してどのように関与していたのかということ、第2に、戦没者(特に敗者)の弔いはどうしていたのかということである。

第1の点に関しては、やはり呪術の中心は修験道や陰陽道であって、普通の仏教の存在感はそれほど大きくない。だが清源寺是鑑のように、仏教寺院の住持でありながら占いを行っているものもいる。足利学校の卒業生(おそらく多くが禅僧)も軍配者として活躍したことを考えると、鎌倉仏教の諸派において呪術や占いは教義的に位置づけられなかったものの、僧侶個人で見るとそうした活動に従事したものは少なくなかったと見られる。一方、真言宗や天台宗では修法を行っていたであろうが、軍配者のようなフリーランスの立場での活動とは違ったのかもしれない。

第2の点に関しては、本書では1章が割かれているものの、あまり深入りしていない印象である。例えば室町幕府は成立にあたって安国寺と利生塔を全国に設置したのであるが、これについて本書が述べるところはない。施餓鬼会についても説明は簡略である。ただ、これは本書の中心的主題とは少しずれるのでやむを得ないところであろう。

なお、本書は全体として軍記物が出典に多用されているため、史実であるか慎重にならなければならない部分が多く、著者もそれについてたびたび触れている。そのうちいくばくかは、後世の脚色なのだろう。ただ、戦の勝敗はメンタル面がモノを言うことは事実で、吉凶やジンクスを武将たちがかなり気にしていたのは間違いない。修法に頼ったのもおそらく事実だろう。それは、迷信に捉われていたという面が半分だが、吉凶や占いをうまく使って兵士たちを鼓舞していたという面も半分ある。無神論的、合理的な織田信長でさえ、こうした面はそれなりに持っていたのである。筋金入りの合理主義者や科学的な思考の人物が武将であったからといって、兵士たちが命を捨てるかどうかは別問題である。神仏を崇敬する人物が武将であった方が兵士がついていった可能性は大きい。このあたりは想像してみると面白い。

戦国時代の武将たちのメンタル面を呪術から窺う独特な視点の本。

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2025年3月26日水曜日

『呪いと日本人』小松 和彦 著

日本人にとっての呪いの本質を考察する本。

本書は光文社のカッパ・サイエンスの一冊であったものの文庫化である。学術的な著作ではないので非常に読みやすいが、著者自身の研究に基づいたものであり、それまでにほとんど史学面での研究がなかった呪詛を日本史に位置づけるという意欲作である。

著者はまず丑の刻参りは現代でも行われていることを指摘し、科学的・合理的思考が広まっている現代でも「呪い」はなくなっていないという。

呪いは、「呪い心」「呪いのパフォーマンス」、「呪われる側の心情」で成り立つ(著者の用語を改変)。「呪い心」は明らかだろう。誰かを憎らしく思い、しかも実力行使では相手をどうにもできない時に人は呪いに頼る。そこに、例えば丑の刻参りのような「呪いのパフォーマンス」が行われることで呪いが成立する。ここで面白いのは、呪われる人が「呪い心」や「呪いのパフォーマンス」を知らなくても呪いは成立するということだ。というか丑の刻参りは誰にも見られてはならないとされている。つまり「呪われる側の心情」だけでも呪いは成り立つ。「最近調子が悪いが、もしかしたら誰かが呪っているのではないか」そう思っただけでも呪いは成り立つ。そして「祟り」など、死者からの呪いは、「呪い心」を持つ人間も「呪いのパフォーマンス」も不在なのに成立している。このように、呪いは一方通行なのだ。

著者が呪いについて研究するようになったきっかけは、高知県香美郡物部村(ものべむら)に伝わる「いざなぎ流」という民間信仰を知ったためである。著者はもともと、この村に人類学的調査をするために入った。そこには太夫(たゆう)という宗教者がおり、様々な祭祀・祭儀を行っていた。この不思議な民間信仰について著者は『憑霊信仰論』にまとめ、これが「いざなぎ流」研究の出発点になった。なお私は同書を20代の時に読んでいるが、今ではすっかり内容を忘れてしまった。

いざなぎ流では、医学ではなかなかよくならない病気や度重なる不幸の原因に「すそ」というものがあると考える。「すそ」は「呪詛」であり、「社会秩序や自然秩序のゆがみから生じた、人々に害をもたらす「ケガレ」(p.28)」であると著者は考える。では「すそ」は何で起こるか。面白いのが、「すそ」は「呪い心」によって本人の知らない間に生霊が発動することもあることだ。また物部村では「犬神統」といった動物霊を祀る家があり、その家の者は知らないうちに「呪い心」から動物霊が発令して「すそ」を生じることもあると考えられている。なお動物霊は血筋によって受け継がれるもので、その家筋は差別されていたという。太夫は、さまざまな事情で生じた、不調の原因である「すそ」を占いによって特定し、「みてぐら」と呼ばれる人形(ひとがた)に移して、村はずれなどに送り出して解決するのである。

これまでの説明でわかる通り、これらの呪いはいずれも「呪われる側の心情」のみで成り立っている。太夫はいざとなれば「呪いのパフォーマンス」も行うとされているが、現代ではこれはほとんど行われず、呪いを解除することが中心だ。いざなぎ流は呪いの解除を中心とする民間信仰なのである。

そして、いざなぎ流の中核には陰陽道的な知識がある。特徴的なのは、「すそ」を祓うためなどに行う祭儀の中心に法文という呪文があることだ。そのいくつかが紹介されているが、おどろおどろしい土俗的な言葉遣いが興味深い。さらにいざなぎ流の起源神話「祭文」というものも面白い。その起源神話では、いざなぎ流は「日本から天竺にやってきた天中姫によって日本に伝えられた(p.57)」ものだとされている。また「呪詛(すそ)の祭文」というものは呪いの物語であるが、「唐土(とうど)じょもん」なるものが登場する荒唐無稽・珍奇な話である。ともかく、いざなぎ流では、術者が修行するとかではなく、法文・祭文というテキストの方が中心になっている。

著者はさらに、日本史における呪いの事例をいくつか述べている。まずは長屋王の呪詛事件と称徳女帝への厭魅などだ。「こうした呪詛事件のほとんどがでっち上げだったらしい(p.82)」。これらの呪い担当したのは呪禁師(じゅごんし)という、中国由来の「呪いのスペシャリスト」だった。

平安期になると、死者の呪い(怨霊の祟り)が大きな問題になる。生きている人間が呪っているならそれを実力行使で止めればよいが、死者の呪いは対処のしようがない。 そこで呪いを除去する特別な方法が考案されていくのである。また9世紀頃には、怨霊は恨みの対象の人間だけでなく、社会全体に災厄を及ぼすと考えられるようになった。これが「御霊信仰」である。御霊信仰では、怨霊を神として祀り上げて災厄を停止させようとした。中世には、怨念すなわち「呪い心」をやわらげなごませ、神に祀り上げて昇華するというセオリーが確立したが、これは能の筋書きに濃厚である。

そこからいっきに時代が飛んで明治時代の話になる。明治天皇は崇徳上皇の怨霊を宥める宣命を読んでいるが、これは中世初期から続けられてきた怨霊宥めの一環であった。文明開化が強調されがちな明治維新にあって、怨霊対策も行われていたとは面白い。

ところで、「呪いのテクノロジー」は、①呪禁道(奈良時代)、②陰陽道、③密教とそのバリエーションである修験道、の3つに大別することができる。その手法として、①=蠱毒、厭魅、②=式神、③=さまざまな調伏法などがある。特に「密教各派とも天皇や貴族に取り入る方法として、難解な教義を説くよりも、病気治しや延命法、怨敵調伏など、さまざまな修法(ずほう)による呪的効果をアピールするという「戦略」をとったために、修法の開発競争に拍車がかかった(p.148)」のである。狐を操る「荼枳尼天(だきにてん)法」・「飯綱の法」も有名である。

そして江戸時代には、陰陽師や密教僧に頼らずに、自ら寺社に打ち込む「丑の刻参り」が定式化する。面白いのは、釘を神木に打ち込んだ後に「黒い大きな牛が寝そべっている。それを怖れることなく乗り越えて帰ると、みごと呪いが成就する(p.170)」と考えられていたことだ。そんなに都合よく黒牛が寝ているものだろうか。なかなか丑の刻参りも成就は難しそうである。なお、この丑の刻参りは、陰陽道の影響が大きいと思われる。 

最後の1章は、呪いを払う方法の背景にある思想を分析している。それを単純化していえば、人々の「悪」が「ケガレ」と観念され、それが実体化したのが「呪い」であり、さらに具象化したのが「鬼」であるということだ。よって責任が重いものほど「ケガレ」=罪が積み重なる。特に天皇は社会のケガレを一身に受ける存在であるためにそのケガレを祓うには細心の注意を要した。そしてケガレを実体化した「鬼」を払うことが分かりやすいパフォーマンスであったために、鬼がどんどん具象化したのである。近世では被差別賤民が鬼役を演じさせられた。疫病が流行ったとき、「町によっては「賤民」をやとって風の神に見立て、橋の上から突き落としたりした。これも「ケガレ」を引き受ける鬼の役を人間に演じさせた一例(p.210)」である。

つまり、ケガレを払うことは、一種のガス抜きでありスケープゴートであった。為政者にとってはまことに都合のよい理屈で、自らの行いを改めることなく罪が剪除されることとなった。中世では神仏までもケガレを引き受けさせられ、追放させられた。なんとも身勝手な話である。しかし一方から見れば、それは為政者・権力者の責任をケガレとして顕在化させ、ガス抜きとはいえなんらかの対処を求めるものではあった。それは一般民衆における呪いでも同様である。丑の刻参りは、実力行使ではどうしようもない相手へ働きかける数少ない手段であった。では、科学・合理的思考が呪術・儀礼・祭祀を無用なものとして追いやってしまった現代で、例えば丑の刻参りが果たしていたものはどうなったのだろうか。

実力行使ではどうしようもない相手へ働きかける手段はあるのだろうか? 著者は、そういうものは現代ではなくなってしまい、呪いの代わりになるようなものを現代人は見つけられていないと述べる。それは決して「現代でも呪いを活かそう」というのではないが、呪いが果たしていたものは決して不必要なものではなかったということなのである。 

本書は全体として、簡潔ながら日本文化・日本史における呪いの社会的機能について考察するものになっている。つまり史学というよりは文化人類学的な視点の著作である。呪いの概論として有用であるが、ちょっと足りないと思ったのが幽霊についてである。江戸時代には幽霊が大流行するのだが、本書は幽霊についてはほとんど触れていない。著者が幽霊について本格的に研究するようになったのは本書の後のようである。また、ケガレと呪いの接続については、やや図式的・観念的に感じた。

日本における呪いの概論。

【関連書籍の読書メモ】
 『陰陽道の神々 決定版』斎藤 英喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/03/blog-post.html
陰陽道を呪術的な側面を中心に語る本。陰陽道の神々を題材にして、陰陽道への見方そのものに再考を迫る良書。

『神と仏—民俗宗教の諸相—(日本民俗文化体系4)』宮田 登 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/4.html
神と仏をめぐる民俗文化の考察。「第6章 魔と妖怪」(小松和彦)では、柳田国男以来の妖怪の概念を再検討し、「魔」と「妖怪」について述べている。

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2025年3月23日日曜日

『陰陽道の神々 決定版』斎藤 英喜 著

陰陽道を呪術的な側面を中心に語る本。

陰陽道について先駆的な研究をした村上修一は、祇園社に祀られる牛頭天王を陰陽道の神だと述べたが、私はなぜ牛頭天王が陰陽道の神なのかずっと疑問に思っていた。そこで手に取ったのが本書である。

※以下の章題では、副題は割愛した。

「序章 陰陽道と安倍晴明の基礎知識」では、陰陽道が概説される。

陰陽道は平安時代に日本で生まれた「信仰、祭祀、呪術の体系(p.20)」である。陰陽道は元来「陰陽寮」に所属する役人(陰陽師)が担ったものであるが、有名な安倍晴明は陰陽寮を退官した後に活躍している。官職ではなく、陰陽師が個人の資質で活動するようになったことは陰陽道の確立に重要なことだった。晴明から5代後の安倍泰親(やすちか)は晴明を顕彰し、陰陽道の家としての安倍家を盛り立てた。室町時代には安倍家は土御門家という貴族になり、江戸時代には陰陽道の元締め(土御門家の許状を得ないと陰陽師になれない)となった。なお安倍家と並ぶ陰陽道の家・賀茂家は勘解由小路家となっている。

「第1章 追われる鬼、使役される神」では、陰陽師が使役する神を述べる。

陰陽師は鬼を退散させることができた。しかしそれは鬼を退治するというより、鬼を祀る・饗応することで本来いるべき場所へ移動させるという性格が強い。面白いのは、鬼を払う「方相氏」という神が、いつのまにか払うべき鬼として扱われるようになったことだ。方相氏は4つ目がある異形の神であるが、鬼を払ってくれる方相氏も祀られ饗応されるため、それが混同されるようになったらしい。

そして陰陽道の神といえば「式神」だが、これは当時の記録にはほとんど出てこない(2例あるのみ!)。一方、当時ポピュラーだったのは「護法童子」である。験者(げんざ)は護法童子を使役して物の怪に取りつかれた人の体内から鬼などを追い出す。この護法童子は経典の力が具現化されたもので、低位の鬼神などではない。

ところで、陰陽師の占いに「式占(しきうら)」というものがある。これは、天体の秩序を象徴する「式盤」というものに、様々な神(貴人・天后・大陰・玄武…)を召喚して占いをするものである。式神とは、元々はこの神々だったのではないか。これが護法童子と習合して後世にイメージが膨らんだのが式神であるらしい。

「第2章 冥府と現世を支配する神」では、陰陽道を象徴する泰山府君について述べる。

安倍晴明が祀り始めた神に「泰山府君」がある。泰山府君は中国の道教の「東岳泰山」の信仰に基づく、人間の寿命を管理するとされた神で、配下に司命・司禄がいる。彼の管理する寿命が記録された帳簿(死籍)を書き換えてもらうことで延命を願ったのが泰山府君祭である。なおその際に書き換えを依頼する手紙を「都状」という。一方、密教でも延命は願われたが、その本尊は焔魔天(≠閻魔)であり、その修法が「焔魔天供」であった。こちらでも泰山府君は登場するものの、焔魔天の眷属の一人としてである。この道教と密教のそれぞれの泰山府君がミックスして形成されたのが日本の泰山府君信仰である。

安倍晴明が泰山府君祭を創案したのは老齢になってからである(当然陰陽寮とは何の関係もない)。晴明がひとりの宗教者として泰山府君祭を行うようになったことで、「あらたな「宗教」としての力(p.93)」を陰陽道が持ち始め、陰陽道は密教と浄土教と並ぶ「第三の新興勢力(p.94)」となっていった。

泰山府君祭は、異界の役所である「泰山府」の役人へ死籍を書き換えるよう依頼するものであるから、都状はあたかも役所へ書類を提出するかのような体裁を持ち、多くの神々を祀った。さらに都状では、北斗七星への依頼も行われている。北斗七星が人間の運命を掌るという占星術的な思想が組み合わさったのである。こうして11世紀初頭には貴族たちの間に泰山府君祭の信仰が広がった。

さらに泰山府君祭は、昇進を祈願するものとしても行われるようになった。泰山府君は人間の運命を掌り、「天地の理」そのものを表象するものとして認識されたのである。安倍泰親は九条兼実のために本命日(生まれ年の干支と同じ日)には定例として泰山府君祭を行っている。

鎌倉時代には、これに密教占星術の「宿曜道」がプラスされ、「密教・禅・陰陽道・宿曜道が連結した、あらたな祈祷システム(p.105)」が出来上がっていった。陰陽師は幕府に重用され、「御簡衆(おふだしゅう)」という幕府を構成する一員になっている。陰陽道が幕府権力の維持装置になっていくと、それまでの泰山府君祭では十分ではなくなったのか、修法がインフレし始め多様な祭祀が考案実行された。そして行われるようになったのが「天曽地府祭」である。天曽・地府・北帝大王・五道大王・泰山府君など陰陽道系の諸神を総動員して延命除災などを祈願するものである。天曽地府祭ではもはや泰山府君は絶対的な神格ではなくなっている。

室町時代になると、先述の通り土御門家・勘解由小路家が確立するとともに、陰陽道祭祀は圧倒的に種類が減少し、「泰山府君祭」「天曽地府祭」「三万六千神祭」に整理された。これは権力と結びつくことで祭祀が形骸化したためと考えられる。そして、これらの祭祀で祀られる大勢の神々は、「はたして個別的な「神」としての来歴や働きとして祀られているのか、ただ単に名前だけが羅列されているにすぎないのではないか(p.110)」と考えられる。つまり陰陽道の神々は、観念上の存在になっていったのである。

「第3章 牛頭天王、来臨す」では、牛頭天王について述べる。

牛頭天王といえば、京都の祇園社の祭神である。あの豪壮な山鉾が繰り出す祇園祭の本当の中心は、祇園社から3基の神輿が繰り出され、「お旅所」に留まって再び神社に帰ってくる神幸祭・還幸祭にある。山鉾は、神輿の通り道をお祓いしているのである。この3基の神輿で渡御するのが、素戔嗚尊・稲田姫・八柱御子神(やはしらのみこがみ)である。このうちスサノオは、明治以前には牛頭天王であった(明治時代の神仏分離によって牛頭天王からスサノオに祭神が替えられた)。

では牛頭天王とはどんな神か。インドで釈迦が修行した祇園精舎の守護神であったということになっているが、牛頭天王はインド由来の神ではないどころか、来歴がよくわからない。史料に現れるのは11世紀あたりからで、「「祇園天神」という天神信仰に関わる神格が、祇園御霊会の展開のなかで、いつからか「牛頭天王」と同一視されるようになったと考えられ(p.121)」る。祇園社では、八王子・蛇毒気神・大将軍など仏教でも神話の神でもない異形の神を祀っていた。そしてこれらが、「すべて陰陽道に関わる恐ろしい「暦神」(p.122)」なのだった。

伝説では、牛頭天王は遠い海から来臨した。牛頭天王を兄の巨旦将来は泊めなかったが、弟の蘇民将来はもてなした、という話の筋を持つ伝説だ。なお元来の伝説ではその名前は「武塔(むとう)の神」である。そこでは牛頭天王とは言っていないのに、この伝説が「祇園社の本縁」として祇園の縁起譚として扱われるようになったらしい。この伝説と祇園とをつなげたのが卜部兼方の『釈日本紀』の記述で、兼方は武塔神=スサノオ=牛頭天王と結んだ。そこには異国神を日本の神であると解釈しようとする「中世的なナショナリズム(p.139)」があるという。

さらに室町時代になると、「暦家」である賀茂家が牛頭天王を「天道神」とみなすようになった。牛頭天王は暦・方角に関わる神であるというのである。その主張をしたのが『簠簋内伝(ほきないでん)』という本。『簠簋内伝』は安倍晴明著という触れ込みだったが、実際には鎌倉末期から南北朝時代に著作されたと見られる。『簠簋内伝』における牛頭天王の伝説は、武塔神のそれと大同小異だが、ただ牛頭天王が帝釈天のもとに「天刑星(てんぎょうせい)」として仕えていたのは注目される。宿曜道・密教的な世界観で牛頭天王が語られているのである。さらに牛頭天王と八王子の災厄を防ぐために行われるのが「太山府君王法」というもの。ということは、牛頭天王は悪神であったのだ。だがそれよりも強力な悪神が巨旦の方で、巨旦を呪詛・調伏することで災厄を防ぐのが「五節の祭礼」であった。

こういう、不思議な伝説の後、『簠簋内伝』では暦・方角のタブーを牛頭天王の物語に由来するものとして述べている。なぜ牛頭天王と暦が接続されたのかは明らかではないが、ともかく『簠簋内伝』によって牛頭天王は陰陽道の神として変容していったのである。

「第4章 暦と方位の神話世界」では、『簠簋内伝』の神話とその来歴が述べられる。

江戸時代、土御門泰福(やすとみ)は『簠簋内伝』は安倍晴明の著作ではないことを主張した。泰福は、土御門家を陰陽道の元締めと幕府に認めさせたが、この体制の構築のため、陰陽道を神道に近接させた。『簠簋内伝』と安倍家(土御門家)とを切断したのは、神仏習合的な『簠簋内伝』から離れる必要があったためと思われる。なお泰福は山崎闇斎に入門し(→垂加神道)、伊勢流の神道も学んだ。そして「土御門神道」「安家(あんけ)神道」「天社神道」と呼ばれる神道宗派として陰陽道を創出した。

『簠簋内伝』の実際の作者は、おそらく安倍家とは無関係で、「暦家」であったと見られる。安倍家=土御門家は「天文家」なのだ。大雑把にいえば陰陽道にはこの2つの流れがあった。なおどちらの系統でも、宮廷陰陽道ではタブー等の由来を説くにあたって典拠の書物を示すことが必要だったが、『簠簋内伝』では典拠が示されていないため、在野的な陰陽師の著作であると思われる。

では『簠簋内伝』ではタブー等の由来をどう説いているかというと、牛頭天王を中心とした陰陽道の神々の世界での仕組みが根拠になっているのである。特に巻第二では宇宙創成の神話が語られ、そこには「盤牛王(ばんごおう)」という始原神が登場する。これは中国の宇宙創世神話の「盤古」が影響しているらしい(しかしわざわざ「牛」と変換しているのがミソ)。そして盤牛王の数多くの妻・子供・孫たちが十干十二支を形成したとする。盤牛王こそは「暦の始原神」なのだ。そして禁忌や吉凶の根拠は、その神話であった。

真言宗小野流では『簠簋内伝』の影響を受けた『神像絵巻』が14世紀に作られており、小野流の僧侶たちはこれらの神話を受け入れて発展させた。なお『神像絵巻』では牛頭天王が至高の歴神として描かれた。近世初期には『簠簋内伝』の仮名書き注釈書『簠簋抄』が多数作られるなど普及した。『簠簋内伝』は中世神話の重要な要素となっていたのである。

本章の最後に、あらためて『簠簋内伝』の作者は誰かということが考察される。奈良には、賀茂家=暦家の流れの陰陽師(=奈良陰陽師)が中世後期に活動しており、彼らは「南都暦」「奈良暦」を頒布していた。『簠簋内伝』の作者は特定はできないものの、状況証拠からはこの南都陰陽師の中から生まれたのではないかと考えられる。

「第5章 いざなぎ流の神々」では、現代に生きる陰陽道的な民間信仰「いざなぎ流」について述べる。

高知県香美郡物部村(ものべむら)には、「いざなぎ流」と呼ばれる民間信仰が残っている。これは、太夫(たゆう)という人が様々な呪術を行うものである。「いざなぎ流」には、オンザキ神とか王子・式王子といった耳慣れない神が祀られ、あるいは使役される。特に呪詛は特徴的だ。いざなぎ流の呪詛は「呪詛(すそ)の祭文」という呪文が使われるが、これを分析してみると様々な宗教が混淆したものであることが窺われる。そして特に陰陽道の影響が大きいのである。紙で作った人形に呪いを憑依させて場末に送る手法は極めて陰陽道的だ。とすれば「いざなぎ流」の太夫たちは陰陽師の末裔なのだろうか?

しかし彼らは、自分たちが陰陽師だという認識はないどころか、陰陽師の存在そのものを知らなかった。状況証拠からは太夫=陰陽師なのに、なぜそのような伝承はないのか。そこには、土御門家が陰陽道を神道化し、活動内容を規制していったことが働いていたらしい。「いざなぎ流」は土御門家から禁止された呪術を主にやっていた「博士」の系譜を引く存在だったようなのだ。要するに陰陽道から切り離された存在の一部が「いざなぎ流」として残った、ということらしい。

「終章 「陰陽道」の神々のその後」では、神仏分離による陰陽道の抹殺が簡単に述べられる。

明治維新の神仏分離令では「牛頭天王」が名指しで否定され、また明治3年(1870)には土御門家に対して「天社神道免許」で門人を取ることを禁止された(=陰陽道禁止令)。陰陽道の神々は単一の神話体系によるものではなく、中世神話が複雑に習合した存在であった。そういうものを明治日本は消し去ったのである。

※以下は増補された章である。

「断章1 いざなぎ流への旅」では、物部村でホトケとなっていた先祖の霊をカミ(ミコ神)に祭り上げる事例が語られる。

これは非常に興味深い。物部村では、死後33年とか49年経つとこの祭り上げが行われる。面白いのは、故人の魂はホトケとなっているはずなのに、太夫は「地下に眠る死者の霊」に対して呼びかけることだ。また太夫によって呼び出された死者の霊は、「行文行体(ぎょうもんぎょうたい)」という修行を積み重ねてミコ神となるのだという。この過程で死者の霊が霊感の強い人に乗り移り、やっと神となれたことを「うれしいぞよ、うれしいぞよ」と述べる出来事を著者は実見した。いざなぎ流の祭は、単なる因習ではなく神を実感するものであり、また日ごろの単調な暮らしを打ち破り精神を開放する非日常な「祝祭空間」なのである。

「断章2 安倍晴明ブームの深層へ」では、安倍晴明ブームを考察し、またいざなぎ流と著者とのつきあいを述べている。

「補論 牛頭天王の変貌と「いざなぎ流」」では、いざなぎ流の祭文と『簠簋内伝』の内容、土御門系の陰陽道を検討することで、土御門家が捨象していった陰陽道について考察している。特に牛頭天王は土御門系の陰陽道には全く登場しない。詳細は割愛するが、その中でいざなぎ流では「血の穢れ」「御産の穢れ」が強調されていると指摘しているのは興味深い。

「付論 折口信夫の「陰陽道」研究・再考」では、折口信夫が先駆的に陰陽道を研究し、宮廷陰陽道と民間の陰陽道の2つの系統があったことが早くから指摘されていたことを述べ、民間陰陽道の方が活気をもって広く拡がったとしている。さらに、陰陽道禁止令がなぜ行われたのかを考察し、それが土御門家からの編暦権の奪取が目的であったとする。またそれが「陰陽道」ではなく「天社神道」であったことは、神道の純化・国教化にともなうものでもあったことも示唆している。その後陰陽師たちは徐々に陰陽道を復活させ、明治25年(1892)には「陰陽道本院」や「陰陽道本庁」の設立も計画された。一方、非土御門系の陰陽師たちは、明治9年(1876)に創成された「神道修成派」に加入していったという。

ここから陰陽道についての研究史が整理されて、比較神話学・民俗学の観点から陰陽道が研究されていった様子が、柳田国男や三河納などの研究を紹介しながら述べられる。それは神社神道を絶対化する見方への異議申し立てでもあった。

*****

本書は、「陰陽道の歴史」、「『簠簋内伝』の神話・伝説」、「いざなぎ流の民俗学的研究」という3つの性格の文章が混じっているため、ややわかりづらい。この3つの関係は次のようになっている。

まず、平安時代の陰陽道は道教をベースとした呪術の体系であり、安倍家と賀茂家の2つの門流があった。鎌倉時代にはこの呪術大系が最高潮に盛り上がるが、室町時代には整理されて一種の形骸化がなされる。それとともに、安倍家→土御門家、賀茂家→勘解由小路家と貴族化し、幕府を支える権力装置となっていった。

その中で、土御門家は「天文道」として天体観測・暦の作成を担い、勘解由小路家は「暦家」として暦や方角の吉凶の占いをメインにするようになった。さらに賀茂家の末流からは奈良陰陽師など民間陰陽師が輩出され、宮廷系の陰陽道とは違う習合的な世界が展開していった。この論拠となったのが『簠簋内伝』であった。一方、宮廷系陰陽道の正統であった土御門家では、近世には陰陽道から呪術的・習合的な要素を捨象し、「天社神道」として自らの体系を再定義し、神道へ接近した。そうすることで土御門家は幕府から陰陽道の元締めと認められたのである。陰陽師を名乗るには土御門家の許状が必要になったことで、民間陰陽師のいくらかは呪術的要素を捨てたと見られる。

そんな中で、土御門家の許状を取得しなかった民間陰陽師もいた。彼らは「陰陽師」を名乗れなかったため、「博士」など陰陽師の異称を名乗り活動した。その末裔が「いざなぎ流」の「太夫」なのである。土御門家の陰陽道は「正統」が確定していたが、民間の陰陽道は絶対的な権威がなかったために中世的な混淆がそのまま継続したらしい。明治時代の神仏分離で陰陽道は禁止され、土御門系も民間のものも陰陽道は抹殺されてしまったが、民間の陰陽道はより実態が不明になってしまった。だが「いざなぎ流」の祭文などを研究することで、失われた民間の陰陽道を復元できるのではないだろうか? 復元まではいかなくても、少なくとも民間陰陽道の世界の一端を窺うことはできだろう。

それは決して「土御門系以外」というような異端だったのではない。『簠簋内伝』を中心とした豊かな神話が展開したことを鑑みると、それは傍流の陰陽道ではなく、むしろ中世陰陽道の中心だった可能性がある。陰陽道の歴史は、「いざなぎ流」から窺える民間陰陽道によって書き換えが必要になるかもしれない、ということなのだ。

ところで、本書は2007年に刊行された著作が、2012年に増補版が出て、それが2024年に文庫化されたものである。著者は癌のため病床で校正を行い、あとがきで「本書が刊行されたときには、研究、教員生活に復帰しているはずだ」と書いているが、退院はしたものの刊行を待たず著者は死去した。つまり本書は著者の遺作である。なお、著者の死去は本書の印刷後であったらしく、そのことは本書には書いていない。

陰陽道の神々を題材にして、陰陽道への見方そのものに再考を迫る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『日本陰陽道史話』村上 修一 著
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日本史における陰陽道の話題をわかりやすく語る本。日本における陰陽道の存在感に改めて光を当てる良書。

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