2025年2月24日月曜日

『選択本願念仏集』法然 著・大橋 俊雄 校注

法然の主著。

法然に従う人々が多くなってくるにつれ、親しく教えを受けられない人が多くなっていき、教えの要点を記した文書の必要性が高まっていた。また、九条兼実は法然に教えをまとめてほしいという要請をしたらしい(『選択密要決』)。そういう事情から、建久9年(1198)に著されたのが『選択本願念仏集』である。ちなみに「選択」は、浄土宗では「せんちゃく」、浄土真宗では「せんぢゃく」と読む。

その基本的な構成は次のとおりである。まず経典とその古典的な解釈を本文で表示する。古典的な解釈とは、主に善導によるものだ。中国で7世紀に浄土教を大成した人物である。ただし、本文にも法然の考えは当然反映されている。次に、「私(わたくし)に云わく」とか「私に問うて云わく」などとして法然の私釈を述べ、適宜問答が挟まれている。私釈は本書では一段下げになっている。なお、法然は承安5年(1175)、善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』(『観無量寿経』の解説)で称名念仏による往生を確信し、この年は浄土宗では開宗の年と位置付けられている。

ちなみに、私は源信の『往生要集』を以前通読したが、本書の読後感はこれとは全く違う。『往生要集』が百科全書的な内容を持ち、各種の経典を縦横に引用して往生のための要点を考究していくという、壮大な伽藍のような書であるのに対し、こちらでは最初から結論が決まっていて、その結論に都合の良い論書を抄出している、という感じがする。つまり、源信は学究的ではあったが宗教的な確信は弱かった。一方、法然はあまり学究的という感じはしないが、宗教的な確信は強かったのである。源信がその『往生要集』の高名さにもかかわらず一宗の宗祖とならなかったのは、時代的な事情だけのことではなさそうだ。

そして、本書は日本の禁書第一号となったことでも知られる。これは門徒の密通の発覚という偶然も寄与していたが、本書の「結論ありき」で偏った内容が穏当な主流派からの反発を招いたことは想像に難くない。

本書は16のセクションで構成されている。原文で「第〇章」などと表示されているわけではないが、校注者に倣って以下便宜的に章分け表示する。また原文は漢文であるが、本書は読み下し文のみの収録である。

第1章:道綽の『安楽集』を引き、仏道には悟りを目指す「聖道門」と浄土への往生を目指す「浄土門」があるが、「今の時(道綽の時代=末法と位置付けられていた)」では聖道は難しく、浄土門に頼るほかないとする。

これに対し私釈では、宗義格別を主張し、それぞれの宗派で重視する事項はまちまちであることを強調している。この部分は、他宗を尊重する立場を表明しているものといえる。続いて浄土門においては、浄土往生を中心的な目的としている宗派と、副次的な目的にしている宗派(=華厳・法華等)があると述べる。

次に曇鸞の『往生論註』を引き、ただ仏を信じて往生を願う易行道と、自ら道心によって往生に至る難行道があることを述べ、易行道でも道心は得られるのだから易行道の方が優れているとする。そして最後に、「たとひ先に聖道門を学する人といふとも、もし浄土門において、その志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし(p.21)」と主張する。さっきの宗義格別はなんだったのか、とびっくりする展開である。

第2章:善導の『観経疏』を引き、「一心に専ら」阿弥陀仏を信じて称名念仏することを「正定(しょうじょう)の業」とし、礼誦(らいじゅ)等によって往生を願うことを助業としている。

私釈では、称名念仏が「正定の業」なのはそれが阿弥陀仏の願に従ったものであるからといい、次いでそれ以外の雑業を述べて5つの観点から比べている。当然に「正定の業」が優れているとする。

続いて本文に戻り、善導の『往生礼賛』を引いて、仏の本願に相応するものは往生は確実であるが、雑行を修する者は稀にしか往生しないと述べている。曰く「ただ意(こころ)を専らにしてなす者は、十は則ち十生ず(10人が10人とも往生する)。雑(ぞう)を修して心を至さざる者は、千が中に一もなし(p.38)」。ここで心の在り方を問題にしているのは興味深い。

第3章:『無量寿経』の第18願「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」を引き、阿弥陀仏を念ずれば必ず往生すると述べている。

私釈では、四十八願(阿弥陀仏の48の誓願)について説明し、その誓願とは、仏の「選択」の結果であったとする。「選択とは、即ちこれ取捨の義なり(p.44)」とし、往生のための行はさまざまあるけれども、仏は最善のものを選んだはずであるから、仏の選択したものを修するのが最善であるという(なんだかトートロジー的だ)。「即ち今は前(さき)の布施・持戒ないし孝養父母(きょうようぶも)等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す(p.49)」のである。一般的に善行とされる布施・持戒・孝養などを否定する論拠は、それが阿弥陀仏によって選択されていないからなのである。

そして法然は、この第18願を「本願」(阿弥陀仏の根本的な願い)ではないか、という(「故に劣を捨て勝を取つて、もつて本願としたまふ(p.51)」。ただし四十八願全体を本願とする考えも本書にはある)。しかも念仏は容易であるから、誰でも実践できる。造像起塔などが往生に必須だとなればそれが実践できるのは一部の人間に限られる。「難を捨てて易を取りて、本願としたまふ(p.52)」。阿弥陀仏が多くの人を救いたいなら、易行を選択したに違いないから「ただ称名念仏の一行をもつて、その本願としたまへるなり(p.53)」。この部分で、疑問形「たまふか」から「たまへるなり」に転換していることが法然の思想家としての回心を表しているようだ。この章は前半の中核をなすものである。

第4章:『無量寿経』を引き、人々の機根には上中下があるが、下輩でも「無上菩提の心を発(おこ)して、一向に意(こころ)を専らにして」念仏し往生を願うことはできるとする。本章の本文は全部が『無量寿経』の引用である。

私釈では、先の「無上菩提の心」が問題になる。法然はひたすら念仏すれば往生できると説いたが、経典では「無上菩提の心」も条件にあるじゃないか、というわけだ。そもそも経典には法然が「余行(よぎょう)」と位置付ける様々な善根の積み方が述べられている。なぜ余行を捨てて念仏のみを修せよというのか。これに対する法然の論説は苦しい。例えば「余行を知らなければ念仏が勝れていることは理解できないからだ」などというのは詭弁じみている。ともかく経に「一向に」と書いている以上、余行は捨てるべきだというのが法然の考えだ。ここで注目されるのは、法然は「末法だから念仏に頼るほかない」というような言説を全く表明していないことだ。

第5章:本文では『無量寿経』と『往生礼賛』(善導)から念仏の功徳を誉める文を引く。

私釈では、まず「念仏のみが讃嘆されるのはなぜか」との問いがある。菩提心をおこすことも素晴らしいはずだが、なぜ念仏だけが「無上の功徳がある」などといわれるのか。これに対し、「聖意測り難し」としながらも、余行がすでに捨てられた以上、念仏のみを誉めるのは当然といい、菩提心等の諸行も小利はあるが(←つまり全否定ではない)、無上の大利がある念仏を修する方がよいと述べている。

第6章:『無量寿経』から、「当来の世に、経道(きょうどう)滅尽せむ」時にも「この経を留めて」「皆得度すべし」という一文を引いている。

私釈では、経でいう「当来」を、「まさに来るべき世」ではなく、「末法万年後の百歳」と解釈する。つまりこの経文は「末法万年後には他の経典や修行は全て失われるが、念仏だけは残る」という意味だというのだ。これはかなり恣意的な解釈であろう。

ともかく、以後、「末法万年後」という気の遠くなる未来の話になる。諸行による往生は「末法万年」までは有効であるが、その以後には無効となり、ただ念仏だけが有効になるだろうという。それはなぜかといえば、末法万年後まで『無量寿経』が残るように釈尊が計らったからだ。ではなぜ釈尊は他の経典ではなく『無量寿経』を選んだのか。それは釈尊の慈悲によるという。念仏は誰でも修することができるのだから、他の経典では多くの人を救うことが不可能になると。このあたりは、「釈尊が選択した一つの経典以外は滅する」という前提で話が進む。だが全ての経典が失われるならまだわかるが、一つ以外は滅びるという前提そのものが恣意的だ(ただ、これは法然以前に形成された通念かもしれない)。そして、念仏は末法万年以後でさえも有効なのだから、当然今でも修するべきだと結んでいる。

法然は同時代を「末法に入って百年」と認識していたが、末法だから教えが意味がなくなるのではなく、末法万年までは他の経典や修行にも意味があると考えていたのが興味深い。念仏のみに頼らざるを得ないのは、あくまで「末法万年の後」という遥かな未来なのだ。

第7章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、阿弥陀の光明が念仏行者のみを照らすことを述べるが、これは経や疏には明確には書いていない(経には「阿弥陀の光明は遍く十方世界の全ての衆生を照らす」とある)。本文に問答があり、この疑義が俎上に上がるが、「自余の衆行は、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、全く比校(ひきょう)にあらず(p.86)」(=念仏とは比べものにならない)といい、念仏の功徳を一方的に主張する。この部分は引用ではなく法然の主張である。

私釈では、当然ながらこの主張を再確認し、その理由を「念仏はこれ本願の行(p.88)」であるからと押し通している。

第8章:『観無量寿経』を引き、往生を願うものは必ず①至誠心(しじょうしん)、②深心、③廻向発願心の3つを備えなければならないとし、『観経疏』(善導)によりこの三心を解説している。ここの本文も法然の解釈がすでに入っており、特に力説されるのが②深心である。深心とは「深信の心」であるとして、「疑ひなく」「一心にただ仏語を信じて」などと、とにかく信じることが重要であると述べる。それは「一切の別解(べつげ)・別行・異学・異見・異執」を退けるものである。法然は、悪く言えば「妄信」を求めている。

ここで面白いのは、当時「阿弥陀など虚妄だ」というような説があったらしきことである。それに対して法然は「皆が十方遍満して弥陀など虚妄だと言ったとしても、私は一念の疑心も起こさない!」と宣言している。このあたりは疑念がテーマになっている。仏典には様々なことが書かれており、名号念仏はそのごく一部分でしかない。であれば、念仏のみを信じろというのは、その他の仏典の文言を捨てることを意味する。どう解釈したらいいのか。ここで法然は、「仏のいうことは全て真実なのだから、帰するところは同じはずだ」といい、阿弥陀のみに従うことは他の仏説を否定しているわけではなく、究極的には「釈迦の所説・所讃・所証」を信じることと変わらないというのだ(かなりの強弁だ)。ここで、当時の常識である権実(ごんじつ)の枠組みが全く援用されていないことは注意される。

③廻向発願心の議論も長い。これは、善根を積み重ね、それを「皆真実の深信の心の中に廻向して」往生を願うことである。その意図するところはつかみ難い。この議論の中で、有名な「二河白道の譬え」が述べられる。火の河と水の河の間にある細い道を通って彼岸に至るとするもので、そういう危険な道を通ろうとすれば「そんな危険な道を行ったら死んでしまう。悪いことはいわないから引き返せ」という人がいるだろうというのだ。だがそういう声には耳を貸さずに道を進めと法然はいう。

なお火は瞋憎を、水は貪愛を譬えている。瞋憎や貪愛に陥らずに一心に念仏をすることが「二河白道の譬え」なのだ。しかしこの譬えは奇異だ。念仏による往生は誰でもできる易行ではないのか。死の危険があるような道をゆく難行とは違うはずである。しかしこの譬えは、念仏が難行であるといいたいのではなく、「周りがそんなのはやめておけと騒いでも、信じた道をゆけ」ということなのである。つまり周囲の雑音に惑わされるな、という話だ。法然が警戒するのは常に「疑い」である。

こうした議論の後、私釈では結論を確認するのみである。

第9章:『往生礼賛』(善導)によれば、念仏行者は4つの法を修する必要がある。①恭敬修(くぎょうしゅ)、②無余修(むよしゅ)、③無間修である(4つの法というのに、3つしかないのは脱落があると法然は述べている)。①恭敬修とは、一切の聖衆を恭敬礼拝すること、②無余修とは、余業をまじえず念仏のみに専修すること、③無間修とはそれらをずっと続けること、である。ここで窺基の『西方要決』が引かれる。それには上述の3つに加え「長時脩」があり4つとなる。

ここでも私釈は結論を確認するのみである。

第10章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、諸経を聞くことも功徳がないわけではないが、称名の功徳は「五十億劫の生死の罪を除く」と述べる。

私釈では「聞経の善はこれ本願にあらず」として、再び『観経疏』を引いてその主張を繰り返している。本章はとても短い。

第11章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、念仏者を讃嘆している。特に念仏者を「妙好人」と呼んだことは重要。

私釈では、念仏を修することのすばらしさを述べ、機根の優れた人も劣った人も皆念仏すべきだと主張する。一般的には、「造像起塔はお金持ちしかできず、修行によって悟ることも普通の人には難しいから念仏に頼るほかない」として専修念仏が勧められたとされる。だが、法然は貴賤の上下・機根の勝劣にかかわらず念仏すべきだという。それは「劣った人にでも効果があるのだから、優れた人に効果があるのは当たり前だ」との理由だ。また本筋ではないが、この議論の途中にある「また浄土に往生して、ないし仏になる(p.139)」との言葉は気になった。浄土では悟りが得やすいから、念仏で往生すれば成仏(悟る)こともできるとの主張である。

第12章:『観無量寿経』と『観経疏』(善導)を引き、「定散両門の益を説くといへども」称名念仏に専念すべしとする。

私釈では、「定散両門」の意味が解説される。これは「定善」と「散善」で構成され、「定善」には①日想観、②水想観から⑫雑想観までの12の観想法がある。これらを修することでも往生はできる。「散善」には、「三福」と「九品」の2種類がある。「三福」は父母への孝養、仏法僧への帰依、菩提心や大乗の経を誦することなどの善行である。「九品」とは、「三福」を上品上生から下品下生までの9つの機根に分けたものである。

法然はこれらの「散善」が善行であることを承認し、それらを実行することで往生できることも否定はしない。ここでは宗義格別の主張が復活し、例えば「たとひ余行なしといへども、菩提心をもつて往生の業とするなり(p.145)」などと諸宗派の認識を再確認する。

なお、ここで問題にされるのが、「読誦大乗(大乗の経を誦する)」である。その経の中に「何ぞ法華を摂するや」との問いがあるのだ。どうしていきなり『法華経』の話仁なるのか、いまいち理解できなかった。当時、最も偉大な経典とされていたのが『法華経』であるが、本書にはほとんど『法華経』への言及がない。意図的に避けていたのかは不明だが、この箇所の書きぶりからすると意識はしていた模様である。

このように、法然は定散両門の意義を正面切って否定はしないが、その意義は時代を経れば低下するという。そういう歴史観なのである。だが、念仏だけは釈尊が遠い未来にまで残るように計ってきたという。なぜそう断言できるかというと、「それが仏の本願だから」に尽きる。

であれば、なぜ諸経には念仏が説かれず、むしろ「定散両門」が力説されるのか。これに対し法然は「実行が難しい定散があることで、念仏の良さが際立つ」という。「定散は廃せむがために説き、念仏三昧は立せむがために説く(p.155)」というが、これはさすがに無理があると感じた。

さて、では定散両門の意義がなくなるのはいつなのか。それは「末法万年の後」なのだ。であれば、今(法然在世当時)はまだ定散両門は有効なのだ。今はまだ念仏しか頼れない時代ではないのである。だが法滅の世ですら頼れるのが念仏だとすれば、念仏は正法・像法・末法の全ての時代で頼りがいがあるのである(「念仏往生の道は、正・像・末の三時、および法滅百歳の時に通ず(p.160)」。

第13章:『阿弥陀経』と善導によるその釈を引き、「心を一(いつ)にして」念仏することで往生できると述べている。

私釈では、念仏は善根が多く、一方雑行は「これ劣の善根」であると切って捨てている。本章はとても短い。

第14章:善導の『観念法門』『往生礼賛』等を引き、臨終の時に念仏をすることで往生することができると述べる。

私釈では、それは「善導の意(こころ)によらば、念仏はこれ弥陀の本願なり(p.167)」だからだという。結局これに尽きる。

第15章:善導の『観念法門』等を引き、念仏行者は「六方恒河沙等の仏(あらゆるところにいる数多い仏)」によって護念される(厄難から守られる)と述べる。

私釈では、念仏をすれば、阿弥陀仏だけでなく数多くの仏から守護されることを強調している。

第16章:『阿弥陀経』を引き、仏が阿弥陀経を説いたことを述べ、善導の『法事讃』では「世尊法を説きたまふこと、時まさに了(おわ)りなむ」として、仏説の終結だとみなしている。善導は、「そこから時は流れ、今は人々の心が乱れてしまった」と嘆いている。

ここの私釈は本文とほとんど対応していない。まず三経(『阿弥陀経』、『無量寿経』、『観無量寿経』)に基づき、仏の「選択」がどこにあるかを検討する。「選択本願」「選択讃嘆」「選択留経」「選択摂取」「選択化讃」「選択付属」「選択証誠」などなど。それら総合的な選択の結果、称名念仏がある。

ここで、「華厳・天台・真言・禅門・三論・法相の諸宗においても浄土法門について考究している者はあるのに、なぜ善導のみを参照するのか」という至極当然の疑問が発せられる。これに対し、法然は「善導が浄土一筋だから」という。他の宗派は、往生一筋ではなく聖道門が中心だ。さらに「浄土門にも善導以外の思想家がいる」との反問があり、それに対して、それらの諸師は「いまだ三昧を発(おこ)さず」という。法然は、こういうところでは切って捨てるような言い方をする。さらに問う方も粘って「それでも善導の師である道綽がいるじゃないか」と食い下がる。だが法然にほれば、道綽は三昧をおこさなかったし、そもそも念仏での往生が可能かどうか善導に聞いているくらいだから、善導さえ参照すればよいという。

ここで『観経疏』(善導)が引かれ、面白い話が紹介される。それは善導が見た夢の話である。善導が毎日『阿弥陀経』3回読誦、阿弥陀仏3万遍を念じたところ、夢で浄土の様子を見るようになり、毎日夢に一人の僧が現れて『観経疏』の一部(玄義・科文)を授けてくれたという。こうして『観経疏』を書き終わって、今度は7日間、毎日『阿弥陀経』10回読誦、阿弥陀仏3万遍を念じようとしていたところ、第1日目には夢の中にラクダに乗った人が来て「往生すべし」と述べ、第2日目には阿弥陀仏に出会い、第3日目には二つの旗竿に5色の旗がたなびいている様子を見た。ここで善導は往生の確信を得、7日の予定を中断したのである。

法然は、毎夜現れた僧を阿弥陀が応現したものとし、『観経疏』は弥陀の教えだとする。さらには、大唐では善導自身が弥陀の化身であると言われているとし、「(善導は)仰いで本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚の唱へ、念仏に憑(たの)みあり。俯して垂迹を訪へば、専修念仏の導師なり(p.188)」という。ここで本地垂迹説の枠組みが援用されて、本地-阿弥陀仏、垂迹ー善導という主張がされていることは興味深い。

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全体として強く印象に残ったのは、法然は「末法の世」だから云々といったことはほとんど述べていないことである。文庫カバーの紹介文では「末法の世では、自力で修行に励みこの世で悟りを得ることは困難で、ただ仏を信じ念仏することにより浄土に生まれ、来世に悟りを得るべきと説き…」とあるが、実際、このようなことを法然は説いていない。この紹介文を書いたのはおそらく編集者であるが、『選択本願念仏集』を誤読している。

まず、この世で悟りを得ることは困難かどうか、本書ではあまり述べられていない。確かに第1章で『大集月蔵経』を引き、「我が末法の時の中の億々の衆生、行を起し道を修せむに、いまだ一人として得るものあらじ(p.10)」とは言うが、これはあくまで道綽の時代(7世紀ごろ)の話である。また曇鸞の『往生論註』では、「謂はく五濁の世に、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす(p.18)」とある。「阿毘跋致(あびばっち)」とは道心堅固なことである。確かに悟りを得るのは難しい。しかし「末法だから困難」という言説はこれ以外に見出せない。

さらに、往生は念仏によるほかないとも書いていない。例えば、第7章の本文で「つぶさに衆行を修して、ただよく廻向すれば、皆往生を得」とある。これは問いの文の一部だが、「修行して廻向すれば皆往生できる」と言っている。なお、「来世に悟りを得る」というのも、確かにそのような主張もあるが決して中心ではない。

では本書の内容に基づいて法然の主張を述べるとどうなるか。

まず、法然は「念仏至上主義」というような立場に立った。念仏以外を「余行」とか「雑行」として、それらが善行であることは一応承認したが、同時に「余行は捨てるべきだ」と主張した。なぜ念仏以外を捨てるべきなのか。それは、念仏だけが仏の本願だからなのである。つまり、阿弥陀仏が念仏を「選択」したのだから、それ以外は捨てるべきだという。では阿弥陀仏が念仏を選択したのはなぜか。それは、造像起塔や写経、修行といったことを本願とすれば、それは一部の人しか実践できないからだ。仏が、一部の人だけを救うような方策を本願とするわけがない。そして、それは末法万年の後まで遺るように計らったのという。このように法然の思想の根本には、「仏は全ての人を救うはずだ」という、一種の平等観がある。念仏に頼るべきなのは、末法の世だからではなく、それが全ての人を救うものとして阿弥陀仏が定めたからなのである。

ここで重要になるのが、「一心に専ら」阿弥陀仏を信じて称名念仏しなくてはならない、ということである。なぜ「余行を捨て」「一心に専ら」阿弥陀仏のみを信じなければならないのか。これが法然教団の核心であるが、なぜ阿弥陀仏以外を否定しなければならないのか、本書からはいまいちわからない。「念仏はこれ弥陀の本願」だから他を否定するというのは、論理的ではない。しかも法然は余行の功徳も否定はしていない。余行を修したからといって、阿弥陀仏が嫌がるというような言説ももちろん存在しない。

ではなぜ法然は阿弥陀仏以外を否定しなければならなかったのか。その理由は、「二河白道の譬え」がヒントになる。ここでは易行であるはずの念仏が、火と水の河に挟まれた細い道を進む難行として描かれる。火や水ももちろん危険ではあるが、それよりも法然が警戒するのは「そういう危険な道はやめたほうがよい」という外野の声である。法然が念仏の障りと考えたのは、外野の声と、それによってもたらされる疑いなのである。

本書には、深く一心に信じること、一切の疑いを持たないことが力説される。これは、言い方は悪いがカルト教団と同じ主張であろう。法然は、一応、宗義格別の立場に立ってはいるが専修念仏以外を捨てるべきものとしている。専修念仏は、念仏カルト教団だったといっても、あながち間違いではないと思う。もちろん、「深く信じる」は法然が言い始めたことではなく、源信が『往生要集』で強調したことである。カルト的な性格は一切なかった源信も「深く信じる」を重視した。だがそれは阿弥陀仏が人の内面を覗くことができる能力があると捉えたからだ。一方法然にはそういう観念はなく、極端な念仏至上主義から妄信を求めた結果であった、と本書からは感じた。

法然が専修念仏運動の旗手となったのは、まさにこのためだったと思う。法然は一切経を5回も読んだというが、仏教の言説は膨大であり、そこから誰でも頼れる明快な教えをバランスよく抽出することは困難である。当時最も影響力が大きかったのは『法華経』であるが、『法華経』の7万字から教えの要点を抽出することでさえ困難だ。そこで法然は、念仏を「弥陀の本願」で押し通し、経に「一向に」と書いてあることのみを論拠として残りの仏説を全て切って捨てた。こういうことは、ちょっと常人にはできそうもないのである。『選択本願念仏集』という書名は、阿弥陀が念仏を「選択した」ということを意味しているが、法然にとっては「残りの仏説を全て切って捨てた」という選択だったのかもしれない。

また、法然といえば「善行を積むことができない下賤の人に念仏での往生を勧めた」と言われることがあるが、これも本書を読む限り違う。本書の書きぶりから判断すると、下賤の者が念仏に頼るほかないということは、法然以前に広まっていたように思われる。そして、法然の主張したのは、「念仏は下賤の人だけでなく、貴顕の人まで含めて全ての人が行うべきだ」ということだったのではないだろうか。

例えば、『観無量寿経』では、上・中二品では念仏を説かず、下品(げほん:機根の劣った人)に至って念仏を説いている(p.71)。『観無量寿経』では念仏は下品の人向けの行いなのである。これに関し、第10章の私釈にこういう問答がある。「何が故ぞ、上々品の中に(念仏を)説かずして、下々品に至つて、しかも念仏を説くや(p.132)」。法然は私釈で念仏者を「上々人」と位置付けているが、であれば、『観無量寿経』で上品の人々に念仏を説いていないのはおかしい。そして下品の人が念仏を実践したらそれはもはや「上々人」ではないかというのである。これに対して法然は真正面から答えず、「あに前に云わずや。念仏の行は広く九品に亘ると(p.133)」とする。念仏は九品、つまり全ての人が行うべきものだというのである。

では経で下品に至って念仏を説いているのはなぜかというと、下品下生(九品の最下位)は、「五逆重罪の人」で、そういう人は「ただ念仏の力のみあつて、よく重罪を滅するに堪へ(同)」るからだ。つまり重悪人は念仏以外での救済は不可能だから、あえて下品で念仏を説いているのだという。

この後いろいろ議論してから、面白い問答が出てくる。質問者曰く「下品上生(下品の中では優れた部類の人)は、これ十悪軽罪(きょうざい)の人なり。何が故に念仏を説くや(p.137)」。下品上生の人は重罪ではなくて軽罪なんだから、念仏以外でも救われるはずなのに念仏を勧めるのはなぜかという。これに対する法然の答えは、いかにも法然っぽい。「念仏三昧は、重罪なほ滅す、いかにいはんや、軽罪をや」というのだ。

こうした問答から判断すれば、造像起塔や写経を行い、または自ら修行するような貴顕の人々も念仏を行うべきである、と主張したことこそが法然の独創であったように思う。実際、本書は九条兼実の懇請によって著されたものというが、蹉跌の時にあったとはいえ、摂関家の兼実が法然に帰依したことはその主張を物語っているといえよう。ちなみに、兼実は貴族社会が没落していく中で国費を膨大に費やす政治を快く思わず、「政を淳素に反す」ことを宿願としていたらしいが、仏事に巨費が投ぜられていた当時の状況を思うと、兼実は専修念仏が緊縮財政に役立つと考えたのではないかと思った。

最後に法然の独創を繰り返すと、次の2点に集約できる。第1に、念仏以外を無用として切り捨てたこと。第2に、念仏は機根の劣った人だけではなく、貴顕の人も含め全ての人が行うべきであること。この2点ともその論拠は、「それが弥陀の本願である」からだ。

専修念仏教団を生み出した、念仏至上主義の書。

【関連書籍の読書メモ】
『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。法然については「Ⅴ 法然の思想構造とその歴史的位置」「Ⅷ 建永の法難について」を参照。

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2025年2月12日水曜日

『待賢門院璋子の生涯――椒庭秘抄』角田 文衛 著

待賢門院璋子の生涯を詳しく解き明かした本。

本書は、美川圭氏によって「衝撃の書」と評された本である。崇徳天皇が白河法皇と待賢門院璋子の不義の子であるという『古事談』にある逸話を執拗なまでに論証し、事実であると認定したのが本書なのである。

しかし、『古事談』の逸話が事実であることを確かめた、というだけが本書の価値ではない。そこにいかなる関係があったのか、当時の日記や記録を渉猟し、人の心の襞の襞まで追いかけて追及することで、もはや文学的といえるまでの世界を描き出したのが本書なのだ。

ただ、私が本書を手に取ったのは先述の論証を読むためではない。待賢門院ではなく、白河法皇の内面について知りたかったのである。白河法皇はどんな人物だったのだろうか。私が本書を読む上での視点は、待賢門院との関係を通じて白河法皇の人物像を自分の中に描きたいということだった。

白河天皇は中宮・藤原賢子(かたこ※最近は「かたいこ」と読む)を溺愛していた。賢子は敦文親王、善仁親王(→堀河天皇)、媞子(やすこ)内親王、令子(よしこ)内親王、禛子(さねこ)内親王を次々に生んだが、わずか28歳で亡くなる。白河天皇が死の穢れも気にせずその死に寄り添ったのは有名なエピソードだ。白河の悲しみは深く、翌年になっても悲傷のために寝所に籠りきりだった。また白河はその追善の為に、円徳院、勝楽院、円光院、常行堂(法勝寺内)を建立している。

この悲しみから、白河は后や女御、すなわち公的な妻を新たに置かず、手近な女房に非公式に手を付けた。次々と子どもは生まれたが誰一人認知はされなかった。こういう荒淫が治まったのは、寛治7年(1093)ごろ、「祇園の女御」と呼ばれる女性を寵愛するようになってからである。この頃白河は堀河天皇に譲位して上皇となっていた。

なお「女御」は俗称であって、彼女は正式な女御ではなかった。著者の推測では彼女は「(藤原)顕季の縁者で、三河守・源惟清の妻であったらしい(p.7)」。惟清とその一家が上皇を呪詛したとして配流されたのは、白河上皇は彼女を独占するためであった…と著者は推測する。

祇園の女御には子供ができず、藤原公実の末娘・璋子を養子にした。公実がまだ嬰児だった娘を自分より家格が劣る祇園の女御の養子にしたことは、白河法皇の猶子にすることが目的であったのだろう。公実の藤原氏閑院流は、摂関家に代わって王家との婚姻を深め栄達してきた系統で、堀河天皇の崩御後、公実は摂政を望んでいたほどであった。鳥羽天皇の即位にあたってその希望は叶えられなかったものの、璋子の存在によって一族はさらに栄達することになる。

どうやら、公実の系統は美男美女がそろっていたらしく、璋子も相当かわいい女の子だったらしい。白河法皇はこの娘を溺愛し、いつも添い寝して璋子の足を懐に入れて温めていた。璋子は、気難しい専制君主の愛を一身に受けて育った。

白河法皇が璋子の結婚相手に選んだのは、関白・忠実の息子忠通である。忠実の本妻源師子は、賢子の異母妹で、かつて法皇の寵愛を受けて後の覚法法親王を生んでいた。家柄も法皇との関係も申し分ない相手である。ところが忠実はあれこれと理由をつけて忠通と璋子の結婚を先延ばしさせ、法皇にあきらめさせた。この婚姻は、閑院流に水をあけられていた摂関家にとっても悪い話ではなかったのに、なぜ忠実は認めなかったのか。

それは、法皇が璋子を鳥羽天皇に入内させることにした時の忠実の日記で明らかになる。その日記によれば、璋子は備後守・藤原季通と密通し、権律師・増賢の童子とも関係しているふしだらな女で、「奇恠(きかい)不可思議ノ女御」「乱行ノ人」だといい、そのような女が入内するというのは「日本第一ノ奇恠ノ事」だというのである。璋子の「乱行」は事実であったらしく、季通が失脚したのは法皇が璋子との関係を激怒したためという。

だが、平安時代は性におおらかな時代で、複数の異性と関係することは決して珍しくなく、非難されるようなことでもなかった。忠実自身、正妻はほったらかしにして様々な女性に子を生ませている(次々に僧籍に入れた)。その忠実が「奇恠不可思議」「乱行」というのは、日記にははっきり書いていないが、璋子と白河法皇に性的な関係があったために他ならない。養父と養女が交わるというのは、平安時代の常識でも人倫に悖ることで、そのような女性を孫の鳥羽天皇の中宮にするというのは「日本第一ノ奇恠ノ事」だったのである。

入内の日、法皇は皇居の筋向いの邸宅に御幸したが、これは全く前例のないことで、おそらくはその当日にさえ法皇と璋子は同衾した。そして璋子は、病と称してしばらくは鳥羽天皇とは褥を共にしなかったらしい。これも忠実の日記に書いてあることである。このように、鳥羽天皇との入内の後も、璋子と法皇との性生活は続いた(ただし璋子は、鳥羽天皇にもやがてはしぶしぶ肌を許した)。

ところで白河法皇の熊野信仰は熾烈で、何度も熊野詣をしている。4度目の熊野詣にあたり、精進に入る前に法皇は5日間(9月20~25日)、璋子と同殿した。そして翌年の5月28日に璋子は皇子・顕仁(あきひと)を生むのである。受胎から娩出までの平均期間が271~264日であることを考えると、まさにこの期間が受胎期間と考えられ、顕仁は鳥羽天皇ではなく白河法皇の子であることが推知されるのである。

本書では、璋子の生理周期・月経の期間と突合してこの結論を導くが(!)詳細は割愛する。また、鳥羽天皇は皇子・顕仁を『叔父子』と呼んでいた(『古事談』)。その頃鳥羽天皇と璋子は性的交渉がなかったために、天皇はそれが自らの子でないことをすぐに見抜いたのである。しかも『叔父子』、つまり祖父の子であると呼んだことは、白河法皇と璋子との関係が公然のものだったことを窺わせる。これは「日本の歴史で前後に例を見ない不祥事(p.87)」であった。

では、白河法皇はこれを不祥事と捉えていたかどうか。それがどうやら、自分では全く不祥事と思っていなかったどころか、むしろ嘉事であるとさえ思っていた形跡がある。子供ができたのはめでたい! そんな調子で璋子の係累の位階を昇叙し、その異常な人事は世間の耳目を驚かせた。また法皇は頻繁に璋子の邸宅を訪問し、その鹵簿(行列)を見物した。ちなみにその出産においても白河法皇は産事に関する一切の采配を振るい、盛大な祈祷を行っている。そして顕仁の成長に伴う数々の行事は全て白河法皇が深く関与し、「名義上の父である鳥羽天皇は、全く聾棧敷(つんぼさじき)に置かれていた(p.97)」。

そして皇子誕生の後も、璋子と法皇の逢瀬は控えられるどころかますます繁くなる。璋子の月経を検証してみると、月経が終わるとすぐに法皇と同殿しているありさまなのである。本来、月事を穢れと見なした当時の観念からは月事の最中は内裏を離れ、それが終わると戻ってくるのが普通なのに、璋子はその逆をやっているのだ。二人が性的な関係にあったことは疑いえない。宗忠は『中右記』でこのことについて「人々秘して言わず。また問わず。何事も知らざるなり」と述べている。公然の秘密とはまさにこのことであろう。ちなみに二人が頻繁に睦み合っていた元永2年~保安元年(1119~1120)、璋子は18~19歳、法皇は66~67歳である。

ではこの異常な関係を鳥羽天皇はどう思っていたか。もちろん苦々しく思っていたに相違ないが、璋子を憎むどころか、かえって璋子を恋焦がれたようなのだ。ここに奇妙な三角関係が現れた。そもそも、性的関係を続ける気であったらしい法皇が璋子を鳥羽天皇に娶せたのはなぜか。ここには祇園の女御を独占するため源惟清を失脚させたのとは違う心理がある。その考察は本書にはないが、私なりの考えを言えば、法皇は璋子をナンバーワンの女にしたかったのだと思う。当時のナンバーワンは、天皇の妻であり母であることだ。そのためには既に退位している法皇では役に立たず、鳥羽天皇の中宮にすることが必要だったと思われるのである。そして法皇は孫の鳥羽天皇も大変愛していた。だからこそ最愛の璋子を娶せたのである。

保安2年(1121)、璋子は皇女禧子(よしこ)を生んだ。これが天皇と法皇のどちらの子なのかは不明である。しかし法皇がまたしても安産の祈願で度外れた仏事を修していること、誕生後わずか56日で准后の宣旨があった(これは異常だ!)ことからすると、これまた法皇の胤だったのかもしれない。それに保安元年までの頻繁な情事を考えると、少なくとも二人には子作りの意図があり、法皇は禧子を我が子だと信じたであろう。そして溺愛する璋子の立場を高めるためには、法皇はなりふり構わなかった。まだ21歳の鳥羽天皇に退位を求め、5歳の顕仁を皇位につけたのである(→崇徳天皇)。この頃の法皇には焦りが感じられる。小作りに励んだのも、子をなすことが難しくなるという気持ちからだろう。そこに鳥羽天皇への遠慮などまったく感じられないのである。

天治元年(1124)には、璋子はまた皇子通仁を生んだ。この際の安産祈願も法皇は盛大に行い、それはもはや常軌を逸した狂態でさえあった。翌年も璋子は皇子君仁を生んでいるが、これらの皇子は鳥羽上皇の子供らしい(なおこの二人の皇子は通仁が目が見えず、君仁は身体障害者であった)。この頃、鳥羽上皇と璋子は仲睦まじかったという。

天治元年には、璋子は待賢門院となっている。国母である璋子が女院となるのは既定路線であったが、法皇はその宣下を急いだ。24歳というずいぶん若い女院の誕生である。ちなみに待賢門院の号には根拠がなく、その後に住居の位置とはかかわりなしに門院号を使う先例となったと兼実は『玉葉』で嘆いている。法皇は、自らの命が幾ばくもないことを自覚していたから、璋子の立場を固めるのを急いでいた。

白河法皇が先例を無視して女院の係累を昇進させたのも、単なる情実人事ではなく女院の立場固めだと思われる。まだ35歳の天台座主仁実(璋子の異母兄弟)を僧正にしたのもその一例である。

ところで、法皇・上皇・女院の奇妙な三角関係は実際どうであったか。これが意外なことに、表面的には極めて円満であった。当時の記録にはいたるところで「三院御幸」と出てくる。白河院と鳥羽院が同車し、待賢門院がその後の唐車に御すという形で移動していた。白河法皇と鳥羽上皇が良好な関係を続けられたのは、凡俗の我々には理解しがたい。

理解しがたいといえば、法皇の信仰も狂乱に近い。大治4年(1129)に行われた女院の平産祈願は空前の物量で行われている。ちなみにこの一環と思われるが璋子は授戒している。それ以前からも法皇はさかんに成功(じょうごう=人事の見返りに経済的奉仕を行わせること)を活用し、また国帑を費やして仏事を行い、堂塔を作らしめた。特に塔の造営は特筆すべきもので、待賢門院のための御願寺・円勝寺だけでも中塔(三重塔)、東塔(五重塔)、西塔(三重塔)が成功によって造進されている。このような狂気に近い信仰は、当時流行の浄土教信仰とはあまりかかわりなく、自身の延命を願い、女院の息災を祈るものであった。面白いのが、法皇が帰依を始めたという「六字明王」など、オリジナルの信仰を生み出していることだ。法皇には、神がかったところがあったのかもしれない。「白河法皇の信仰は、まことに複雑怪奇(p.144)」なものだった。

平産祈願が盛んに行われる中、法皇は体調を崩し、覚法法親王から授戒され、これまでの延命祈禱の甲斐もなく77歳で亡くなった。ちなみに法皇は「葬儀に関する詳しい定め書きを遺(p.152)」していた。ちなみに「白河院」という諡号も自ら指示していた。当時は穢(けがれ)を忌んだため、崇徳天皇は言うまでもなく、鳥羽上皇も女院も、法皇の通夜にも葬儀にも参加していない。法皇自身が「穢れるから私のそばを離れなさい」と命じていた。賢子の死に寄り添った時とは違う心持だったのかもしれない。

法皇が亡くなってからしばらくは、女院の立場も鳥羽上皇との関係もさして変わりがなかった。女院は国母であり、縁故の者で固められていた。しかし女院の栄華には微妙な陰が差し掛かっていた。例えば女院の御所はたびたび火災にあい、このうちいくつかは放火であったと考えられている。そして、鳥羽上皇は女院以外の女性と寝所を共にするようになった。法皇の在世中は、女院以外の女性に手を付けると法皇が激怒していたらしい。これまた凡俗には理解しがたいことで、法皇は自ら璋子と密通しながら、鳥羽上皇が他の女性と関係を持つのを許さなかったのである。ところが法皇亡き後、そういう遠慮をする必要がなくなった上皇はいろいろな女性と関係した。

さらには、摂関家からのたっての要望で、忠実の娘勲子(いさこ)が鳥羽上皇の皇后となった。勲子はすでに37歳で、上皇は興味を持たずまた勲子も男嫌いだったらしい。双方にとって義理のための婚姻であった。なお勲子は泰子と改名し、後に高陽(かや)院と号した。彼女はなかなか聡明な女性であったらしく、上皇の寵愛はなかったものの、待賢門院とは険悪なライバル関係になった。

待賢門院は、かつての法皇のように造寺造仏に積極的に精を出し、また高僧による祈祷を頻繁に行った。大治4年の御産の後には、大威徳明王像百体の供養を行っているが、これについては側近の源師時ですら「仏体、群蝸の如し。御産に非ず、御悩にも非ず。(中略)誠に是れ国の弊(つひえ)、世の損(そこなひ)なり」とあきれている。法皇の度外れた、物量に物を言わせたなんでもありの信仰を待賢門院は受け継いでいた。

白河法皇の熊野詣は12回に及んでいるが、待賢門院はそれを上回る13回だった(ほとんどは法皇や上皇との同道)。それは輿に乗っていたから体力的にはそれほどきついものではなかったが、「13回全部について好い季節が選ばれず、いつも寒い時分に行われている(p.187)」ことから物見遊山でななかったことは確実である。ちなみに女院は熊野詣の時に「女山臥装束」をつけていたらしい。これは本筋とは関係ないが気になった。

そして女院は、仁和寺の寺域に新たな御願寺を建立することとした。女院の御願寺はすでに円勝寺があったが、これは実質的には法皇が建立したもので女院は主体でなかった。今度は、自分の御所を兼ねた真の御願寺、金剛法院である。金剛法院は「単なる寺院ではなく、阿弥陀堂、御所、庭園の三要素からなる当時流行の特殊な寺院(p.203)」であり、特に池と背後の山(五位山)といった自然の景観が生かされていることは、どことなく鳥羽殿を髣髴とさせる。追って三重塔や九体阿弥陀堂も造営された。

鳥羽上皇が藤原得子(なりこ)を寵愛するようになると、待賢門院の立場は徐々に弱くなった。上皇は得子を溺愛し、閨房の絶える夜はなかったという。一方、崇徳天皇は母の立場を悪くする得子を憎み、得子の一族に圧迫を加えた。得子の一族はあまり高い家格ではなかったが、得子産んだ皇女叡子(としこ)が泰子の養子となり、待賢門院と対抗する勢力になっていった。また、得子は次々と鳥羽上皇の子を生んだ。得子は后でも女御ではなかったのでその子には皇位継承権がなかったが、崇徳天皇と中宮の養子にするという苦肉の策で體仁(なりひと)が東宮となり、追って即位した(→近衛天皇)。ところが、その宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」に譲位するとなっていた。これでは崇徳天皇は天皇の父でないので院政を敷くことができないし、待賢門院も院の母ではない。この奸計の背後には摂政・藤原忠通がいたようだ。そして待賢門院の関係者は呪詛の嫌疑により処分を受けた。待賢門院の命脈は尽きていたのだ。

あれほど栄華を極めた待賢門院も、法皇の後援がなくなり、上皇の寵愛がなくなり、天皇の後援がなくなると、打つ手はなしだった。彼女は康治元年(1142)出家し、女院の側近も次々と出家した。そして久安元年(1145)、女院は三条高倉第でその生涯を閉じた。45歳であった。面白いのは、女院は法金剛院の裏山に土葬せよと遺言していたことだ。そしてその墓の上には、小さい廟宇が建てられ「法金剛律院」と名付けられたという。女院には白河法皇とは違う埋葬の考えがあったようだ。なお「女院は、よほど魅力的な人柄であったと見え、側近に仕えていた女房たちの悲嘆は、ひとしおであった(p.282)」。

待賢門院の人生は、晩年は斜陽になっていたとはいえ、栄耀栄華を極めていたし、寵愛を失った晩年ですらも鳥羽法皇から敬われていた。鳥羽法皇は月忌には三条高倉第に御幸していたという。全体として、待賢門院の事績は嘉例と見なされていたことも疑いない。ただ、彼女が自分の人生をどう感じていたのか、その内面は明らかでない。彼女のサロンにはかの堀河(百人一首の「待賢門院堀河」だ)を始め才媛が犇めいていたのに、彼女自身は歌が不得意だったと見え、一首も残されていないのだ。和歌が内面を述べるものだとはいえないが、それにしても一首の和歌さえ残されていないことは、内面を窺うよすがさえない。

著者は、待賢門院はひたすらに法皇を愛していたと考えるが、それすらも確かではない。ただし状況証拠からすれば、確かに彼女は法皇の愛人であることには誇りを持っており、法皇に強く影響されていたのは間違いない。

一方、私が興味があった白河法皇の方は、常人には理解しがたい存在だという思いを新しくした。先例を無視する専制君主であるとか、好き嫌いの激しい気難し屋といったありきたりな形容に収まらないのが白河法皇だ。こういう君主に振り回された近臣は、「日本第一ノ奇恠ノ事」にたびたび遭遇しただろう。院政という新しい政治形態が出現したのは、社会情勢もさることながら、この白河法皇の強烈な個性によるところが大きいような気がする。

本書は全体として、普通の歴史書では書かれないような非常に細かい事項を書き連ねた本である。しかし読みにくくはなく、歴史のディテールが丁寧に繙かれるのはむしろ心地よい。そして、そこに現れる白河法皇・鳥羽上皇・璋子の奇妙な三角関係は、読者の心を引き付けて離さない。大上段の歴史論が展開されるのではなく、歴史の一断面が丁寧に描かれ、熱中して読んだ。

院政の内実を待賢門院から見る「衝撃の書」。

【関連書籍の読書メモ】
『白河法皇――中世をひらいた君主』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/02/blog-post.html
白河法皇の評伝。院政の成立を考える上で重要な白河法皇に初めて向き合った良書。

2025年2月9日日曜日

『白河法皇――中世をひらいた君主』美川 圭 著

白河法皇の評伝。

白河法皇は、院政を始めた人物として画期的な意義を持っている。ところが、白河法皇は昔から人気がなく(!)、本格的な評伝が全く書かれていなかった。人気がないのは彼が専制君主であったためというが、そんなことで評伝が書かれないとは不思議な気がする。

ともかく、その知名度からすると驚くべきことに、本書が初の白河法皇の評伝なのだ。

その生涯の意義は、第1に院政を開始したこと、第2に仏教を興隆させたこと、第3に白河や鳥羽という京都近郊を開発し、「権門都市」を出現させたこと、である。

なお、私は白河法皇の人間性や家族関係、その思想に興味がある。要するに私は彼の内面を知りたい。しかし本書は白河法皇の内面についてはあまり触れていない。本書の力点は、白河法皇その人よりも社会情勢にある。そのため私にとっては本書は少し期待外れだったが、それでも白河法皇の評伝が読めたことはありがたい。

まず、なぜ彼が院政を創始することになったか。

白河の父の後三条天皇は、170年ぶりの摂関家を外戚としない天皇であり、摂関家に対抗する意思を持っていた。後三条天皇を盛り立てたのが、藤原頼通の弟能信(よしのぶ)である。なぜ摂関家の能信が後三条天皇を後援するのかというと、彼は頼通との出世競争に敗れ、官位は44年間も権大納言のまま、位階も正二位に留められており、頼通に対抗する意図で後三条天皇に肩入れしたらしい。本来、即位からは遠かった後三条天皇が東宮になり即位できたのは能信のおかげである。それは「摂関家傍流の主流に対する反乱(p.26)」であった。

そして能信は自らの養女茂子(実父は藤原氏北家閑院流の公成)を後三条天皇(その時はまだ東宮)に輿入れした。そうして生まれたのが貞仁、のちの白河法皇である。

後三条天皇は、摂関家に対抗する意味もあって積極的に政務に取り組んだ。特筆すべきは荘園の整理である。彼の荘園券契所は、天皇の認可権を明確化する上で画期的な意義があった。ちなみにその仕事を裏で支えたのが博覧強記の大江匡房である。

この頃、たびたび内裏が焼亡していたが、その復興を行ったのも摂関家に対抗する意味があった。摂関家の屋敷はちゃんとあるのに、内裏は焼失したままで、天皇は居場所を転々としていたのである。なお内裏再建の膨大な費用を賄うため、公領と荘園の両方に税を課す必要があり、これには当然ながら荘園領主の協力を得なければならない。だから荘園の権利関係を明確化するためにも、荘園券契所が必要だった。

このように意欲的な親政を布いた後三条天皇は、突如として子の貞仁に譲位する。白河天皇である。この譲位の意図がなんであったか様々な論争があったが、現在では、白河天皇を中継ぎとして、白河の異母弟実仁を次の天皇とするための策であったと考えられている(吉村茂樹氏の説)。実仁の母は皇族出身の源基子で、摂関家の血から遠い。実仁が即位すれば摂関家の影響がより低下し、天皇家の独立性が高まるのである。

しかし白河天皇としては、異母弟の実仁に譲位するより、自分の子に譲位する方がもちろんいい。こうして意外なことに対立してきた摂関家の藤原師実(頼通の嫡子)と白河の利害が一致し、二人は手を組んだのである(ちなみに師実の娘、賢子が白河の中宮)。このあたりの歴史ドラマは極めて面白い。そして後三条天皇は実仁の即位を見届けることなく、譲位の約半年後に40歳で病没してしまい、後三条天皇の宿敵だった藤原頼通も相次いで亡くなった。こうして23歳の白河天皇と34歳の関白師実のコンビを中心とした新体制ができるのである。

藤原賢子が白河との間に産んだのが媞子、後の郁芳門院であるが、この愛妃賢子もわずか28歳で亡くなってしまう。死去の時、白河は死の穢れを気にせず賢子から離れようとしなかったという(『古事談』)。近臣の源俊明(としあきら)が「天皇が死に立ち会う例はない」と諫めると「例ハ此ヨリコソ始メラメ」と述べたという(p.48)。いろんな意味で白河の人間性を窺わせるエピソードである。

その約10年後、ライバルだった実仁も疱瘡で病死。しかしまだ実仁には弟の輔仁がおり、母陽明門院も健在だった。ゆくゆくは実仁の系統を天皇にするという後三条天皇の遺言はまだ生きていた。ここで何らかの工作が行われ、白河天皇はまだ8歳だった実子の善仁に譲位した。堀河天皇である。輔仁への譲位の動きが具体化する前に先手を打ったのだ。もちろんこれは摂関家との共謀があった模様である。

寛治8年(1094)、関白が師実から子の師通(もろみち)に譲られると、師通は白河上皇には臣下としての礼を取らず、強権的な政治を進めた。師通が関白の地位にあるのは白河のおかげではなく、父から譲られたのだし、師通にとって白河は引退した人だった。この時点では、院政は現れていない。

この頃(嘉保3年(1096))、都では田楽が大流行した(永長の大田楽)。田楽とは、派手な服を着て音楽に乗り、踊りや遊興を熱狂的に繰り広げるものである。彼らは「きらびやかな錦繍や金銀の装束、礼服や甲冑を身につけ、禁制の摺衣(すりごろも)を身につけ(p.34)」るなど、服飾の秩序を無視していたが、決して無秩序な群衆ではなかった。後のバサラに似たところがある。これに白河院は積極的で、楽器を提供さえしている。それは愛娘の郁芳門院が田楽が大好きだったことによるようだ。朝廷としては身分秩序を乱す田楽を規制しようとしたのだが、上皇がこれを好んでいたのは面白い。

ところが、大田楽を見た直後、郁芳門院が21歳の若さで突如死去してしまったのである。これにより貴族社会では大田楽が不吉なものとして捉えられるようになった。白河院は悲嘆のあまり出家してしまった(→法皇)。そしてしばらくして師通も38歳の若さで急死してしまう。かくもあっけない師通政権の幕切れであった。

師通を継ぐべき息子忠実はまだ22歳で権大納言。大臣にもなっていないので関白就任には早い。この摂関不在の状況で、堀河天皇の親政が展開する。天皇と院に対立があった時代である。ところが嘉承元年(1106)にふたたび田楽が大流行。永長の大田楽より過激に秩序が破壊された。そしてこの不吉な田楽と関係があるのかないのか、翌年堀河天皇が29歳の若さで亡くなってしまう。堀河の息子宗仁はまだ5歳。ここで35歳の輔仁の即位がいよいよ現実的となるが、どうしても輔仁の即位を阻止したい白河は幼い宗仁を強引に即位させた。鳥羽天皇である。

後日、輔仁の勢力による天皇の呪詛が明らかになったとして関係者が流罪となり、輔仁勢力が排除されて白河法皇の権力が確立した。では摂関家の方はどうなっていたか。師通の息子忠実は、関白にはなったものの権力基盤が弱かった。第1に忠実は外戚でもなんでもない上に若く経験が足りず、第2に藤原氏が分裂気味であり、忠実は摂関家も掌握しきれていなかった。ところが堀河天皇が亡くなったときに、忠実は鳥羽天皇の摂政として横滑りした。これにより外戚関係にかかわらず摂関家が摂関を世襲していく体制ができた。白河院政は摂関家を確立させる副次的な効果をもたらしたことになる。

しかし摂関家には手ごわい相手がいた。それが閑院流藤原氏、公成の系統である。白河天皇の母賢子から天皇家との姻戚関係が続き、急にのし上がってきたのが閑院流である。閑院流から白河上皇の養女(正確には、その寵姫祇園女御の養女)になった後の待賢門院、璋子(本書では「しょうし」と読む)も白河の寵愛を一身に受けた。白河は忠実の息子と璋子を結婚させようとしたが忠実はこれを断る。それならばと白河は璋子を鳥羽天皇に入内させた。この経過において、裏で忠実は璋子を悪し様にののしっている。璋子は淫乱でたくさんの男と関係しており、あろうことか養父白河とも性的関係が疑われていた。おそらくはこの悪口(あっこう)が白河に漏れ、忠実は罷免された。こうして摂関家は弱体化させられ、白河上皇の専制権力、すなわち院政が確立したのである。

この後、本書では院政とは何か、具体的に院政ではどのように物事が決定されたか、といった院政論が述べられる(第2~4章)。院政といっても、政務は天皇・太政官が担った。これに非公式的に関与したのが院である。それは役割分担などではなく、建前上の政治機構はそのままに、それを院が背後から支配していく体制であった。そして家格によって地位が固定化していた太政官に替わって、受領のような新興の貴族は院近臣としてのし上がった。それは、太政官の完僚制とは違って、院との主従関係に基づくシステムであった。

そしてこの院政のシステムに適応し躍進したのが平氏であり、寺社の強訴や地方での反乱に備えて院が育成したのが武士だった。武士は院を脅かすような存在ではなく、むしろ院政によって主従関係に基づく軍事力として育成されたものである。

次に仏教の興隆について。

院政期は、寺社の強訴が頻発した時代であった。なぜ彼らは強訴したのか。まず、当時の寺社は武装していた。意外なことに、僧侶の下層階級だけでなく上層部(学侶)も武装していた(しかし考えてみれば武士階級出身の僧侶もたくさんいたのだ)。ちなみに、「僧兵」という言葉はネガティブな意味で江戸時代になって使われるようになったものなので、最近は使わないようになっている。この寺社の強訴はこの武力を背景にしてはいたが、朝廷や院に対して武力が発動することはまれであった。なぜなら、寺社は政権と敵対する時もあったが、人事権を朝廷に握られており、武力衝突までいくといいことがないからである。

寺社の強訴が急増するのは師通が死んで院の専制権力が確立していった時期である。院は寺社の人事に容喙し、先例を無視した情実人事を行ったため、それに寺社は反発したのである。しかしそれは先述の通り武力攻撃を仕掛けたのではなく、仏法を笠に着ての示威行動であった。例えば承暦3年(1079)の延暦寺僧徒による祇園社別当職をめぐる強訴では、600人が大般若経各1巻ずつ、200人は仁王経を各1巻ずつ持ち、他の200人が武装していた。今でいうデモ行為である。強訴は寺の意思を代表する三綱や所司などの役職者も参加し、朝廷に要求が容れられれば即撤退した。反政府的なものではないのである。

また、この時期には延暦寺と園城寺のナワバリ争い、それらと興福寺との末寺末社争いなど、寺社内部にも火種を抱えていた。そして院の人事介入がきっかけとなって、反主流派が院の威光を背景に勢いづいて寺院内部の争いを顕在化させ、ことを大きくしたのが強訴なのだ。つまり、「強訴とは、当時の朝廷の政治が生み出したもの(p.178)」だ。院の関係した事態だから、朝廷ではなく院に対して処置を求めることになり、それが院の主体性を高める結果にもなった。

しからば院はなぜ寺院社会の内部に関与することとなったのか。

この時代、比叡山を中心に学問的水準が著しく高まったが、その要因の一つとして「中世学僧の昇進ルートが、当時の天皇や院によって確定されていったこと(p.183)」がある。従来、興福寺維摩会・宮中御斎会・薬師寺最勝会という3つの法会(南京三会)の講師を歴任すると僧綱に任じられる制度があった。しかしこれらが事実上興福寺に独占されたため、これらの法会ではなく権力者の加持祈祷を行うことで僧綱に任じられることが多くなっていった。そうなると教学が振るわなくなるのは当然である。その反省から、最勝寺法華会・法勝寺法華会・円宗寺最勝会という新しい3つの法会(北京三会)が僧綱への昇進ルートとして設けられた。これは延暦寺・園城寺の天台系中心の昇進ルートであった。また、尊勝寺では結縁灌頂が始められ、ここで小灌頂阿闍梨をつとめた僧が僧綱に任じられるようになった。いうまでもなく、最勝寺・法勝寺・円宗寺・尊勝寺は全て天皇・院の御願寺である。

白河法皇は熊野詣に入れ込んだことでも知られる。これは物見遊山的な要素が大きかったとも言われるが、園城寺長吏の行尊が白河法皇の後援を勝ち取るために運動した結果だったかもしれない。園城寺長吏は熊野三山検校を兼ねる慣習になっていった。

そして白河院政後期では、大量の仏像が作られたり、一切経が作られたり(摂関家に倣って院は紺紙金泥一切経を作った!)している。大規模に仏事を修し、昇進ルートを押さえることで、院は寺院社会を再編したのである。それにしても「晩年の法皇の仏教への帰依は、常軌を逸している(p.264)」。

次に、白河や鳥羽という「権門都市」の開発である。

平安京は律令制の理念で建設されていたが、それは陸上交通のみを考えた設計で、効率的でなかった。また左右対称の都市計画も理念倒れであった。そこでこれが現実に合わせて変わっていったのが摂関院政期である。ここで面白いのは、白河法皇の院御所は、京外の白河殿・鳥羽殿が有名だが、京内御所の方が数多いことだ。六条院・大炊(おおい)殿・土御門殿・閑院・高松殿などなど、本書には22もの(!)院御所となった邸宅が挙げられている。そもそもなぜ院御所はそんなにも変転したのか。この時代火災が多かったことも背景にありそうだがそれだけでは説明がつかない。場所と権力の独特の結びつきがあったのだろうか。中でも重要だったのが六条院で、ここを白河法皇は気に入っていた。そして愛娘郁芳門院がここで亡くなると、その菩提を弔うためここは万寿禅寺(六条御堂)となった。死んだ場所に菩提寺を建立するという思想が窺えて面白い。

京外の白河はもともとは摂関家の所有で、これが摂関家との協調期に師実から白河法皇に献上されると、法皇はここに度外れた寺院法勝寺を建立した。八角九重塔はそのシンボルである。法勝寺は摂関家の法成寺に対抗する意図があったとされる。ちなみに法勝寺は、二条大路を東側に延長した場所に位置し、白河には平安京と似た坊条が敷かれていた。平安京に似た都市計画があったのである。

そして白河には、六勝寺という御願寺群があったが、それまでの御願寺(仁和寺付近の四円寺など)が真言宗の影響下にあったのに比べ、六勝寺の場合は天台系との関連が深い。白河が比叡山の麓、園城寺への通路に位置している立地なのも意味があるのかもしれない。ちなみに法勝寺には、当初常住の僧侶はほとんどおらず、法会の際にはそれぞれ本寺を別に持った僧侶が集まってきた(だからこそ法勝寺法華会などが昇進ルートとしての意味を持った)。つまり普段はがらんとした場所だった。白河地区は古代都城と似た雰囲気で、六勝寺の伽藍配置も古代寺院に倣っていたようだ。賑やかな都市をつくろうという意図はハナからなく、権威の象徴としてのモデルルームのような場所であったように思われる。

ところが法勝寺の建立から20年ほど経って白河に院御所が設けられ、法勝寺にも住学僧が常住するようになり、白河北殿では国政レベルの公卿会議が開かれるようになる。モデルが実質化してできたのが白河の「権門都市」だ。

一方、白河とは全く違う思想で作られたのが鳥羽殿である。鳥羽の地は、白河天皇が在位中、譲位後の後院(ごいん)として開発を着手した。白河とは違うのが、坊条制が全く見られないこと、自然の景観(とくに面積の半分を占める巨大な池!)が生かされていること、面積が桁外れに大きいこと、寺院ではなく院御所の建設が先行していることなどである。そして国家的・公的なモデルルームが白河であったとすれば、鳥羽の方は私的な遊興の場だった。それは白河法皇の楽しみであり、政治をそこでするつもりはなかったのだが、院政の実質化に伴って「遊興というものの政治的な性格が表面化(p.242)」し、鳥羽殿は遊興の場でありながら政治の場ともなっていった。しかし鳥羽殿での公卿会議の議題を見てみると、寺社や騒乱に関する国家的に重要なものではなく、王家の家政に関するものがほとんどとなっている。しかも召集されている公卿も限定的だ。つまり鳥羽殿は、院と近臣という主従関係を基礎とした「権門都市」になっていったと考えられるのである。

ちなみに、摂関家の宇治にも坊条区画があったことが知られている。しかし意外なことにこれは摂関全盛期に整備されたものではないらしい。もちろん宇治の開発自体は平等院の建立など摂関全盛期から着手されている。ところが坊条ができたのは、忠実の時代らしいのだ。ということは、宇治は白河に対抗して作られた「権門都市」だったということになる。

白河法皇は77歳まで生き三条烏丸亭で亡くなった。同時代の評価は、藤原宗忠の『中右記』が著名である。それによれば「自分の好き嫌いで人事を行い、天下の秩序を破壊してしまった」という。さらに日記の裏書には、「法皇の御時はじめて出来の事」が列挙されており、例えば受領の情実人事などとともに「御出家の後、御受戒なきこと」が挙げられているのも面白い。

白河法皇は、鳥羽に三重塔を建てて自らの遺体を納めるよう早くから遺言していた。だが死の半年前、法皇は翻意して火葬して納めるよう命じた。死体が暴かれることを憂慮したらしい(『長秋記』)。師通の死後、山門大衆がその遺体を暴いて処刑しようとしたという噂を聞いたためだ。三重塔への埋葬も含め、死体に対する新しい観念を窺わせるエピソードである。

ところで、「例ハ此ヨリコソ始メラメ」(これが先例になるだろう)の言葉に象徴されるように、白河法皇が先例を尊重しない君主であったことは時代の変化を加速させたと思われる。なにしろこの時期の貴族は、先例と故実に明け暮れていたのである。そんな中で、専制君主が先例を全く意に介さなかったことは巨大な影響を及ぼしたことだろう。

本書は全体として、読みやすく端正にまとめられた白河法皇伝である。割合に図版が多く掲載されているのも親切だ。巻末につけられた年譜も便利である。系図は簡略であるが、人間関係にはそれほど深入りしていないので、ややこしくない。ただし、白河法皇の人事や行動がどのような事情に基づいていたのかを、法皇の内面に肉薄して知りたいと思う箇所もあった。

それから、本書には意外と荘園制との関連が書いていない。白河法皇の時代には院にはさほど荘園が集積していなかったということだろうか。院が荘園を集積していくのは御願寺を通じてであり、白河法皇の時代にはまだ荘園は副次的な役割しかなかったということなのかもしれない。

院政の成立を考える上で重要な白河法皇に初めて向き合った良書。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

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