2025年2月9日日曜日

『白河法皇――中世をひらいた君主』美川 圭 著

白河法皇の評伝。

白河法皇は、院政を始めた人物として画期的な意義を持っている。ところが、白河法皇は昔から人気がなく(!)、本格的な評伝が全く書かれていなかった。人気がないのは彼が専制君主であったためというが、そんなことで評伝が書かれないとは不思議な気がする。

ともかく、その知名度からすると驚くべきことに、本書が初の白河法皇の評伝なのだ。

その生涯の意義は、第1に院政を開始したこと、第2に仏教を興隆させたこと、第3に白河や鳥羽という京都近郊を開発し、「権門都市」を出現させたこと、である。

なお、私は白河法皇の人間性や家族関係、その思想に興味がある。要するに私は彼の内面を知りたい。しかし本書は白河法皇の内面についてはあまり触れていない。本書の力点は、白河法皇その人よりも社会情勢にある。そのため私にとっては本書は少し期待外れだったが、それでも白河法皇の評伝が読めたことはありがたい。

まず、なぜ彼が院政を創始することになったか。

白河の父の後三条天皇は、170年ぶりの摂関家を外戚としない天皇であり、摂関家に対抗する意思を持っていた。後三条天皇を盛り立てたのが、藤原頼通の弟能信(よしのぶ)である。なぜ摂関家の能信が後三条天皇を後援するのかというと、彼は頼通との出世競争に敗れ、官位は44年間も権大納言のまま、位階も正二位に留められており、頼通に対抗する意図で後三条天皇に肩入れしたらしい。本来、即位からは遠かった後三条天皇が東宮になり即位できたのは能信のおかげである。それは「摂関家傍流の主流に対する反乱(p.26)」であった。

そして能信は自らの養女茂子(実父は藤原氏北家閑院流の公成)を後三条天皇(その時はまだ東宮)に輿入れした。そうして生まれたのが貞仁、のちの白河法皇である。

後三条天皇は、摂関家に対抗する意味もあって積極的に政務に取り組んだ。特筆すべきは荘園の整理である。彼の荘園券契所は、天皇の認可権を明確化する上で画期的な意義があった。ちなみにその仕事を裏で支えたのが博覧強記の大江匡房である。

この頃、たびたび内裏が焼亡していたが、その復興を行ったのも摂関家に対抗する意味があった。摂関家の屋敷はちゃんとあるのに、内裏は焼失したままで、天皇は居場所を転々としていたのである。なお内裏再建の膨大な費用を賄うため、公領と荘園の両方に税を課す必要があり、これには当然ながら荘園領主の協力を得なければならない。だから荘園の権利関係を明確化するためにも、荘園券契所が必要だった。

このように意欲的な親政を布いた後三条天皇は、突如として子の貞仁に譲位する。白河天皇である。この譲位の意図がなんであったか様々な論争があったが、現在では、白河天皇を中継ぎとして、白河の異母弟実仁を次の天皇とするための策であったと考えられている(吉村茂樹氏の説)。実仁の母は皇族出身の源基子で、摂関家の血から遠い。実仁が即位すれば摂関家の影響がより低下し、天皇家の独立性が高まるのである。

しかし白河天皇としては、異母弟の実仁に譲位するより、自分の子に譲位する方がもちろんいい。こうして意外なことに対立してきた摂関家の藤原師実(頼通の嫡子)と白河の利害が一致し、二人は手を組んだのである(ちなみに師実の娘、賢子が白河の中宮)。このあたりの歴史ドラマは極めて面白い。そして後三条天皇は実仁の即位を見届けることなく、譲位の約半年後に40歳で病没してしまい、後三条天皇の宿敵だった藤原頼通も相次いで亡くなった。こうして23歳の白河天皇と34歳の関白師実のコンビを中心とした新体制ができるのである。

藤原賢子が白河との間に産んだのが媞子、後の郁芳門院であるが、この愛妃賢子もわずか28歳で亡くなってしまう。死去の時、白河は死の穢れを気にせず賢子から離れようとしなかったという(『古事談』)。近臣の源俊明(としあきら)が「天皇が死に立ち会う例はない」と諫めると「例ハ此ヨリコソ始メラメ」と述べたという(p.48)。いろんな意味で白河の人間性を窺わせるエピソードである。

その約10年後、ライバルだった実仁も疱瘡で病死。しかしまだ実仁には弟の輔仁がおり、母陽明門院も健在だった。ゆくゆくは実仁の系統を天皇にするという後三条天皇の遺言はまだ生きていた。ここで何らかの工作が行われ、白河天皇はまだ8歳だった実子の善仁に譲位した。堀河天皇である。輔仁への譲位の動きが具体化する前に先手を打ったのだ。もちろんこれは摂関家との共謀があった模様である。

寛治8年(1094)、関白が師実から子の師通(もろみち)に譲られると、師通は白河上皇には臣下としての礼を取らず、強権的な政治を進めた。師通が関白の地位にあるのは白河のおかげではなく、父から譲られたのだし、師通にとって白河は引退した人だった。この時点では、院政は現れていない。

この頃(嘉保3年(1096))、都では田楽が大流行した(永長の大田楽)。田楽とは、派手な服を着て音楽に乗り、踊りや遊興を熱狂的に繰り広げるものである。彼らは「きらびやかな錦繍や金銀の装束、礼服や甲冑を身につけ、禁制の摺衣(すりごろも)を身につけ(p.34)」るなど、服飾の秩序を無視していたが、決して無秩序な群衆ではなかった。後のバサラに似たところがある。これに白河院は積極的で、楽器を提供さえしている。それは愛娘の郁芳門院が田楽が大好きだったことによるようだ。朝廷としては身分秩序を乱す田楽を規制しようとしたのだが、上皇がこれを好んでいたのは面白い。

ところが、大田楽を見た直後、郁芳門院が21歳の若さで突如死去してしまったのである。これにより貴族社会では大田楽が不吉なものとして捉えられるようになった。白河院は悲嘆のあまり出家してしまった(→法皇)。そしてしばらくして師通も38歳の若さで急死してしまう。かくもあっけない師通政権の幕切れであった。

師通を継ぐべき息子忠実はまだ22歳で権大納言。大臣にもなっていないので関白就任には早い。この摂関不在の状況で、堀河天皇の親政が展開する。天皇と院に対立があった時代である。ところが嘉承元年(1106)にふたたび田楽が大流行。永長の大田楽より過激に秩序が破壊された。そしてこの不吉な田楽と関係があるのかないのか、翌年堀河天皇が29歳の若さで亡くなってしまう。堀河の息子宗仁はまだ5歳。ここで35歳の輔仁の即位がいよいよ現実的となるが、どうしても輔仁の即位を阻止したい白河は幼い宗仁を強引に即位させた。鳥羽天皇である。

後日、輔仁の勢力による天皇の呪詛が明らかになったとして関係者が流罪となり、輔仁勢力が排除されて白河法皇の権力が確立した。では摂関家の方はどうなっていたか。師通の息子忠実は、関白にはなったものの権力基盤が弱かった。第1に忠実は外戚でもなんでもない上に若く経験が足りず、第2に藤原氏が分裂気味であり、忠実は摂関家も掌握しきれていなかった。ところが堀河天皇が亡くなったときに、忠実は鳥羽天皇の摂政として横滑りした。これにより外戚関係にかかわらず摂関家が摂関を世襲していく体制ができた。白河院政は摂関家を確立させる副次的な効果をもたらしたことになる。

しかし摂関家には手ごわい相手がいた。それが閑院流藤原氏、公成の系統である。白河天皇の母賢子から天皇家との姻戚関係が続き、急にのし上がってきたのが閑院流である。閑院流から白河上皇の養女(正確には、その寵姫祇園女御の養女)になった後の待賢門院、璋子(本書では「しょうし」と読む)も白河の寵愛を一身に受けた。白河は忠実の息子と璋子を結婚させようとしたが忠実はこれを断る。それならばと白河は璋子を鳥羽天皇に入内させた。この経過において、裏で忠実は璋子を悪し様にののしっている。璋子は淫乱でたくさんの男と関係しており、あろうことか養父白河とも性的関係が疑われていた。おそらくはこの悪口(あっこう)が白河に漏れ、忠実は罷免された。こうして摂関家は弱体化させられ、白河上皇の専制権力、すなわち院政が確立したのである。

この後、本書では院政とは何か、具体的に院政ではどのように物事が決定されたか、といった院政論が述べられる(第2~4章)。院政といっても、政務は天皇・太政官が担った。これに非公式的に関与したのが院である。それは役割分担などではなく、建前上の政治機構はそのままに、それを院が背後から支配していく体制であった。そして家格によって地位が固定化していた太政官に替わって、受領のような新興の貴族は院近臣としてのし上がった。それは、太政官の完僚制とは違って、院との主従関係に基づくシステムであった。

そしてこの院政のシステムに適応し躍進したのが平氏であり、寺社の強訴や地方での反乱に備えて院が育成したのが武士だった。武士は院を脅かすような存在ではなく、むしろ院政によって主従関係に基づく軍事力として育成されたものである。

次に仏教の興隆について。

院政期は、寺社の強訴が頻発した時代であった。なぜ彼らは強訴したのか。まず、当時の寺社は武装していた。意外なことに、僧侶の下層階級だけでなく上層部(学侶)も武装していた(しかし考えてみれば武士階級出身の僧侶もたくさんいたのだ)。ちなみに、「僧兵」という言葉はネガティブな意味で江戸時代になって使われるようになったものなので、最近は使わないようになっている。この寺社の強訴はこの武力を背景にしてはいたが、朝廷や院に対して武力が発動することはまれであった。なぜなら、寺社は政権と敵対する時もあったが、人事権を朝廷に握られており、武力衝突までいくといいことがないからである。

寺社の強訴が急増するのは師通が死んで院の専制権力が確立していった時期である。院は寺社の人事に容喙し、先例を無視した情実人事を行ったため、それに寺社は反発したのである。しかしそれは先述の通り武力攻撃を仕掛けたのではなく、仏法を笠に着ての示威行動であった。例えば承暦3年(1079)の延暦寺僧徒による祇園社別当職をめぐる強訴では、600人が大般若経各1巻ずつ、200人は仁王経を各1巻ずつ持ち、他の200人が武装していた。今でいうデモ行為である。強訴は寺の意思を代表する三綱や所司などの役職者も参加し、朝廷に要求が容れられれば即撤退した。反政府的なものではないのである。

また、この時期には延暦寺と園城寺のナワバリ争い、それらと興福寺との末寺末社争いなど、寺社内部にも火種を抱えていた。そして院の人事介入がきっかけとなって、反主流派が院の威光を背景に勢いづいて寺院内部の争いを顕在化させ、ことを大きくしたのが強訴なのだ。つまり、「強訴とは、当時の朝廷の政治が生み出したもの(p.178)」だ。院の関係した事態だから、朝廷ではなく院に対して処置を求めることになり、それが院の主体性を高める結果にもなった。

しからば院はなぜ寺院社会の内部に関与することとなったのか。

この時代、比叡山を中心に学問的水準が著しく高まったが、その要因の一つとして「中世学僧の昇進ルートが、当時の天皇や院によって確定されていったこと(p.183)」がある。従来、興福寺維摩会・宮中御斎会・薬師寺最勝会という3つの法会(南京三会)の講師を歴任すると僧綱に任じられる制度があった。しかしこれらが事実上興福寺に独占されたため、これらの法会ではなく権力者の加持祈祷を行うことで僧綱に任じられることが多くなっていった。そうなると教学が振るわなくなるのは当然である。その反省から、最勝寺法華会・法勝寺法華会・円宗寺最勝会という新しい3つの法会(北京三会)が僧綱への昇進ルートとして設けられた。これは延暦寺・園城寺の天台系中心の昇進ルートであった。また、尊勝寺では結縁灌頂が始められ、ここで小灌頂阿闍梨をつとめた僧が僧綱に任じられるようになった。いうまでもなく、最勝寺・法勝寺・円宗寺・尊勝寺は全て天皇・院の御願寺である。

白河法皇は熊野詣に入れ込んだことでも知られる。これは物見遊山的な要素が大きかったとも言われるが、園城寺長吏の行尊が白河法皇の後援を勝ち取るために運動した結果だったかもしれない。園城寺長吏は熊野三山検校を兼ねる慣習になっていった。

そして白河院政後期では、大量の仏像が作られたり、一切経が作られたり(摂関家に倣って院は紺紙金泥一切経を作った!)している。大規模に仏事を修し、昇進ルートを押さえることで、院は寺院社会を再編したのである。それにしても「晩年の法皇の仏教への帰依は、常軌を逸している(p.264)」。

次に、白河や鳥羽という「権門都市」の開発である。

平安京は律令制の理念で建設されていたが、それは陸上交通のみを考えた設計で、効率的でなかった。また左右対称の都市計画も理念倒れであった。そこでこれが現実に合わせて変わっていったのが摂関院政期である。ここで面白いのは、白河法皇の院御所は、京外の白河殿・鳥羽殿が有名だが、京内御所の方が数多いことだ。六条院・大炊(おおい)殿・土御門殿・閑院・高松殿などなど、本書には22もの(!)院御所となった邸宅が挙げられている。そもそもなぜ院御所はそんなにも変転したのか。この時代火災が多かったことも背景にありそうだがそれだけでは説明がつかない。場所と権力の独特の結びつきがあったのだろうか。中でも重要だったのが六条院で、ここを白河法皇は気に入っていた。そして愛娘郁芳門院がここで亡くなると、その菩提を弔うためここは万寿禅寺(六条御堂)となった。死んだ場所に菩提寺を建立するという思想が窺えて面白い。

京外の白河はもともとは摂関家の所有で、これが摂関家との協調期に師実から白河法皇に献上されると、法皇はここに度外れた寺院法勝寺を建立した。八角九重塔はそのシンボルである。法勝寺は摂関家の法成寺に対抗する意図があったとされる。ちなみに法勝寺は、二条大路を東側に延長した場所に位置し、白河には平安京と似た坊条が敷かれていた。平安京に似た都市計画があったのである。

そして白河には、六勝寺という御願寺群があったが、それまでの御願寺(仁和寺付近の四円寺など)が真言宗の影響下にあったのに比べ、六勝寺の場合は天台系との関連が深い。白河が比叡山の麓、園城寺への通路に位置している立地なのも意味があるのかもしれない。ちなみに法勝寺には、当初常住の僧侶はほとんどおらず、法会の際にはそれぞれ本寺を別に持った僧侶が集まってきた(だからこそ法勝寺法華会などが昇進ルートとしての意味を持った)。つまり普段はがらんとした場所だった。白河地区は古代都城と似た雰囲気で、六勝寺の伽藍配置も古代寺院に倣っていたようだ。賑やかな都市をつくろうという意図はハナからなく、権威の象徴としてのモデルルームのような場所であったように思われる。

ところが法勝寺の建立から20年ほど経って白河に院御所が設けられ、法勝寺にも住学僧が常住するようになり、白河北殿では国政レベルの公卿会議が開かれるようになる。モデルが実質化してできたのが白河の「権門都市」だ。

一方、白河とは全く違う思想で作られたのが鳥羽殿である。鳥羽の地は、白河天皇が在位中、譲位後の後院(ごいん)として開発を着手した。白河とは違うのが、坊条制が全く見られないこと、自然の景観(とくに面積の半分を占める巨大な池!)が生かされていること、面積が桁外れに大きいこと、寺院ではなく院御所の建設が先行していることなどである。そして国家的・公的なモデルルームが白河であったとすれば、鳥羽の方は私的な遊興の場だった。それは白河法皇の楽しみであり、政治をそこでするつもりはなかったのだが、院政の実質化に伴って「遊興というものの政治的な性格が表面化(p.242)」し、鳥羽殿は遊興の場でありながら政治の場ともなっていった。しかし鳥羽殿での公卿会議の議題を見てみると、寺社や騒乱に関する国家的に重要なものではなく、王家の家政に関するものがほとんどとなっている。しかも召集されている公卿も限定的だ。つまり鳥羽殿は、院と近臣という主従関係を基礎とした「権門都市」になっていったと考えられるのである。

ちなみに、摂関家の宇治にも坊条区画があったことが知られている。しかし意外なことにこれは摂関全盛期に整備されたものではないらしい。もちろん宇治の開発自体は平等院の建立など摂関全盛期から着手されている。ところが坊条ができたのは、忠実の時代らしいのだ。ということは、宇治は白河に対抗して作られた「権門都市」だったということになる。

白河法皇は77歳まで生き三条烏丸亭で亡くなった。同時代の評価は、藤原宗忠の『中右記』が著名である。それによれば「自分の好き嫌いで人事を行い、天下の秩序を破壊してしまった」という。さらに日記の裏書には、「法皇の御時はじめて出来の事」が列挙されており、例えば受領の情実人事などとともに「御出家の後、御受戒なきこと」が挙げられているのも面白い。

白河法皇は、鳥羽に三重塔を建てて自らの遺体を納めるよう早くから遺言していた。だが死の半年前、法皇は翻意して火葬して納めるよう命じた。死体が暴かれることを憂慮したらしい(『長秋記』)。師通の死後、山門大衆がその遺体を暴いて処刑しようとしたという噂を聞いたためだ。三重塔への埋葬も含め、死体に対する新しい観念を窺わせるエピソードである。

ところで、「例ハ此ヨリコソ始メラメ」(これが先例になるだろう)の言葉に象徴されるように、白河法皇が先例を尊重しない君主であったことは時代の変化を加速させたと思われる。なにしろこの時期の貴族は、先例と故実に明け暮れていたのである。そんな中で、専制君主が先例を全く意に介さなかったことは巨大な影響を及ぼしたことだろう。

本書は全体として、読みやすく端正にまとめられた白河法皇伝である。割合に図版が多く掲載されているのも親切だ。巻末につけられた年譜も便利である。系図は簡略であるが、人間関係にはそれほど深入りしていないので、ややこしくない。ただし、白河法皇の人事や行動がどのような事情に基づいていたのかを、法皇の内面に肉薄して知りたいと思う箇所もあった。

それから、本書には意外と荘園制との関連が書いていない。白河法皇の時代には院にはさほど荘園が集積していなかったということだろうか。院が荘園を集積していくのは御願寺を通じてであり、白河法皇の時代にはまだ荘園は副次的な役割しかなかったということなのかもしれない。

院政の成立を考える上で重要な白河法皇に初めて向き合った良書。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
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院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

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