2025年2月12日水曜日

『待賢門院璋子の生涯――椒庭秘抄』角田 文衛 著

待賢門院璋子の生涯を詳しく解き明かした本。

本書は、美川圭氏によって「衝撃の書」と評された本である。崇徳天皇が白河法皇と待賢門院璋子の不義の子であるという『古事談』にある逸話を執拗なまでに論証し、事実であると認定したのが本書なのである。

しかし、『古事談』の逸話が事実であることを確かめた、というだけが本書の価値ではない。そこにいかなる関係があったのか、当時の日記や記録を渉猟し、人の心の襞の襞まで追いかけて追及することで、もはや文学的といえるまでの世界を描き出したのが本書なのだ。

ただ、私が本書を手に取ったのは先述の論証を読むためではない。待賢門院ではなく、白河法皇の内面について知りたかったのである。白河法皇はどんな人物だったのだろうか。私が本書を読む上での視点は、待賢門院との関係を通じて白河法皇の人物像を自分の中に描きたいということだった。

白河天皇は中宮・藤原賢子(かたこ※最近は「かたいこ」と読む)を溺愛していた。賢子は敦文親王、善仁親王(→堀河天皇)、媞子(やすこ)内親王、令子(よしこ)内親王、禛子(さねこ)内親王を次々に生んだが、わずか28歳で亡くなる。白河天皇が死の穢れも気にせずその死に寄り添ったのは有名なエピソードだ。白河の悲しみは深く、翌年になっても悲傷のために寝所に籠りきりだった。また白河はその追善の為に、円徳院、勝楽院、円光院、常行堂(法勝寺内)を建立している。

この悲しみから、白河は后や女御、すなわち公的な妻を新たに置かず、手近な女房に非公式に手を付けた。次々と子どもは生まれたが誰一人認知はされなかった。こういう荒淫が治まったのは、寛治7年(1093)ごろ、「祇園の女御」と呼ばれる女性を寵愛するようになってからである。この頃白河は堀河天皇に譲位して上皇となっていた。

なお「女御」は俗称であって、彼女は正式な女御ではなかった。著者の推測では彼女は「(藤原)顕季の縁者で、三河守・源惟清の妻であったらしい(p.7)」。惟清とその一家が上皇を呪詛したとして配流されたのは、白河上皇は彼女を独占するためであった…と著者は推測する。

祇園の女御には子供ができず、藤原公実の末娘・璋子を養子にした。公実がまだ嬰児だった娘を自分より家格が劣る祇園の女御の養子にしたことは、白河法皇の猶子にすることが目的であったのだろう。公実の藤原氏閑院流は、摂関家に代わって王家との婚姻を深め栄達してきた系統で、堀河天皇の崩御後、公実は摂政を望んでいたほどであった。鳥羽天皇の即位にあたってその希望は叶えられなかったものの、璋子の存在によって一族はさらに栄達することになる。

どうやら、公実の系統は美男美女がそろっていたらしく、璋子も相当かわいい女の子だったらしい。白河法皇はこの娘を溺愛し、いつも添い寝して璋子の足を懐に入れて温めていた。璋子は、気難しい専制君主の愛を一身に受けて育った。

白河法皇が璋子の結婚相手に選んだのは、関白・忠実の息子忠通である。忠実の本妻源師子は、賢子の異母妹で、かつて法皇の寵愛を受けて後の覚法法親王を生んでいた。家柄も法皇との関係も申し分ない相手である。ところが忠実はあれこれと理由をつけて忠通と璋子の結婚を先延ばしさせ、法皇にあきらめさせた。この婚姻は、閑院流に水をあけられていた摂関家にとっても悪い話ではなかったのに、なぜ忠実は認めなかったのか。

それは、法皇が璋子を鳥羽天皇に入内させることにした時の忠実の日記で明らかになる。その日記によれば、璋子は備後守・藤原季通と密通し、権律師・増賢の童子とも関係しているふしだらな女で、「奇恠(きかい)不可思議ノ女御」「乱行ノ人」だといい、そのような女が入内するというのは「日本第一ノ奇恠ノ事」だというのである。璋子の「乱行」は事実であったらしく、季通が失脚したのは法皇が璋子との関係を激怒したためという。

だが、平安時代は性におおらかな時代で、複数の異性と関係することは決して珍しくなく、非難されるようなことでもなかった。忠実自身、正妻はほったらかしにして様々な女性に子を生ませている(次々に僧籍に入れた)。その忠実が「奇恠不可思議」「乱行」というのは、日記にははっきり書いていないが、璋子と白河法皇に性的な関係があったために他ならない。養父と養女が交わるというのは、平安時代の常識でも人倫に悖ることで、そのような女性を孫の鳥羽天皇の中宮にするというのは「日本第一ノ奇恠ノ事」だったのである。

入内の日、法皇は皇居の筋向いの邸宅に御幸したが、これは全く前例のないことで、おそらくはその当日にさえ法皇と璋子は同衾した。そして璋子は、病と称してしばらくは鳥羽天皇とは褥を共にしなかったらしい。これも忠実の日記に書いてあることである。このように、鳥羽天皇との入内の後も、璋子と法皇との性生活は続いた(ただし璋子は、鳥羽天皇にもやがてはしぶしぶ肌を許した)。

ところで白河法皇の熊野信仰は熾烈で、何度も熊野詣をしている。4度目の熊野詣にあたり、精進に入る前に法皇は5日間(9月20~25日)、璋子と同殿した。そして翌年の5月28日に璋子は皇子・顕仁(あきひと)を生むのである。受胎から娩出までの平均期間が271~264日であることを考えると、まさにこの期間が受胎期間と考えられ、顕仁は鳥羽天皇ではなく白河法皇の子であることが推知されるのである。

本書では、璋子の生理周期・月経の期間と突合してこの結論を導くが(!)詳細は割愛する。また、鳥羽天皇は皇子・顕仁を『叔父子』と呼んでいた(『古事談』)。その頃鳥羽天皇と璋子は性的交渉がなかったために、天皇はそれが自らの子でないことをすぐに見抜いたのである。しかも『叔父子』、つまり祖父の子であると呼んだことは、白河法皇と璋子との関係が公然のものだったことを窺わせる。これは「日本の歴史で前後に例を見ない不祥事(p.87)」であった。

では、白河法皇はこれを不祥事と捉えていたかどうか。それがどうやら、自分では全く不祥事と思っていなかったどころか、むしろ嘉事であるとさえ思っていた形跡がある。子供ができたのはめでたい! そんな調子で璋子の係累の位階を昇叙し、その異常な人事は世間の耳目を驚かせた。また法皇は頻繁に璋子の邸宅を訪問し、その鹵簿(行列)を見物した。ちなみにその出産においても白河法皇は産事に関する一切の采配を振るい、盛大な祈祷を行っている。そして顕仁の成長に伴う数々の行事は全て白河法皇が深く関与し、「名義上の父である鳥羽天皇は、全く聾棧敷(つんぼさじき)に置かれていた(p.97)」。

そして皇子誕生の後も、璋子と法皇の逢瀬は控えられるどころかますます繁くなる。璋子の月経を検証してみると、月経が終わるとすぐに法皇と同殿しているありさまなのである。本来、月事を穢れと見なした当時の観念からは月事の最中は内裏を離れ、それが終わると戻ってくるのが普通なのに、璋子はその逆をやっているのだ。二人が性的な関係にあったことは疑いえない。宗忠は『中右記』でこのことについて「人々秘して言わず。また問わず。何事も知らざるなり」と述べている。公然の秘密とはまさにこのことであろう。ちなみに二人が頻繁に睦み合っていた元永2年~保安元年(1119~1120)、璋子は18~19歳、法皇は66~67歳である。

ではこの異常な関係を鳥羽天皇はどう思っていたか。もちろん苦々しく思っていたに相違ないが、璋子を憎むどころか、かえって璋子を恋焦がれたようなのだ。ここに奇妙な三角関係が現れた。そもそも、性的関係を続ける気であったらしい法皇が璋子を鳥羽天皇に娶せたのはなぜか。ここには祇園の女御を独占するため源惟清を失脚させたのとは違う心理がある。その考察は本書にはないが、私なりの考えを言えば、法皇は璋子をナンバーワンの女にしたかったのだと思う。当時のナンバーワンは、天皇の妻であり母であることだ。そのためには既に退位している法皇では役に立たず、鳥羽天皇の中宮にすることが必要だったと思われるのである。そして法皇は孫の鳥羽天皇も大変愛していた。だからこそ最愛の璋子を娶せたのである。

保安2年(1121)、璋子は皇女禧子(よしこ)を生んだ。これが天皇と法皇のどちらの子なのかは不明である。しかし法皇がまたしても安産の祈願で度外れた仏事を修していること、誕生後わずか56日で准后の宣旨があった(これは異常だ!)ことからすると、これまた法皇の胤だったのかもしれない。それに保安元年までの頻繁な情事を考えると、少なくとも二人には子作りの意図があり、法皇は禧子を我が子だと信じたであろう。そして溺愛する璋子の立場を高めるためには、法皇はなりふり構わなかった。まだ21歳の鳥羽天皇に退位を求め、5歳の顕仁を皇位につけたのである(→崇徳天皇)。この頃の法皇には焦りが感じられる。小作りに励んだのも、子をなすことが難しくなるという気持ちからだろう。そこに鳥羽天皇への遠慮などまったく感じられないのである。

天治元年(1124)には、璋子はまた皇子通仁を生んだ。この際の安産祈願も法皇は盛大に行い、それはもはや常軌を逸した狂態でさえあった。翌年も璋子は皇子君仁を生んでいるが、これらの皇子は鳥羽上皇の子供らしい(なおこの二人の皇子は通仁が目が見えず、君仁は身体障害者であった)。この頃、鳥羽上皇と璋子は仲睦まじかったという。

天治元年には、璋子は待賢門院となっている。国母である璋子が女院となるのは既定路線であったが、法皇はその宣下を急いだ。24歳というずいぶん若い女院の誕生である。ちなみに待賢門院の号には根拠がなく、その後に住居の位置とはかかわりなしに門院号を使う先例となったと兼実は『玉葉』で嘆いている。法皇は、自らの命が幾ばくもないことを自覚していたから、璋子の立場を固めるのを急いでいた。

白河法皇が先例を無視して女院の係累を昇進させたのも、単なる情実人事ではなく女院の立場固めだと思われる。まだ35歳の天台座主仁実(璋子の異母兄弟)を僧正にしたのもその一例である。

ところで、法皇・上皇・女院の奇妙な三角関係は実際どうであったか。これが意外なことに、表面的には極めて円満であった。当時の記録にはいたるところで「三院御幸」と出てくる。白河院と鳥羽院が同車し、待賢門院がその後の唐車に御すという形で移動していた。白河法皇と鳥羽上皇が良好な関係を続けられたのは、凡俗の我々には理解しがたい。

理解しがたいといえば、法皇の信仰も狂乱に近い。大治4年(1129)に行われた女院の平産祈願は空前の物量で行われている。ちなみにこの一環と思われるが璋子は授戒している。それ以前からも法皇はさかんに成功(じょうごう=人事の見返りに経済的奉仕を行わせること)を活用し、また国帑を費やして仏事を行い、堂塔を作らしめた。特に塔の造営は特筆すべきもので、待賢門院のための御願寺・円勝寺だけでも中塔(三重塔)、東塔(五重塔)、西塔(三重塔)が成功によって造進されている。このような狂気に近い信仰は、当時流行の浄土教信仰とはあまりかかわりなく、自身の延命を願い、女院の息災を祈るものであった。面白いのが、法皇が帰依を始めたという「六字明王」など、オリジナルの信仰を生み出していることだ。法皇には、神がかったところがあったのかもしれない。「白河法皇の信仰は、まことに複雑怪奇(p.144)」なものだった。

平産祈願が盛んに行われる中、法皇は体調を崩し、覚法法親王から授戒され、これまでの延命祈禱の甲斐もなく77歳で亡くなった。ちなみに法皇は「葬儀に関する詳しい定め書きを遺(p.152)」していた。ちなみに「白河院」という諡号も自ら指示していた。当時は穢(けがれ)を忌んだため、崇徳天皇は言うまでもなく、鳥羽上皇も女院も、法皇の通夜にも葬儀にも参加していない。法皇自身が「穢れるから私のそばを離れなさい」と命じていた。賢子の死に寄り添った時とは違う心持だったのかもしれない。

法皇が亡くなってからしばらくは、女院の立場も鳥羽上皇との関係もさして変わりがなかった。女院は国母であり、縁故の者で固められていた。しかし女院の栄華には微妙な陰が差し掛かっていた。例えば女院の御所はたびたび火災にあい、このうちいくつかは放火であったと考えられている。そして、鳥羽上皇は女院以外の女性と寝所を共にするようになった。法皇の在世中は、女院以外の女性に手を付けると法皇が激怒していたらしい。これまた凡俗には理解しがたいことで、法皇は自ら璋子と密通しながら、鳥羽上皇が他の女性と関係を持つのを許さなかったのである。ところが法皇亡き後、そういう遠慮をする必要がなくなった上皇はいろいろな女性と関係した。

さらには、摂関家からのたっての要望で、忠実の娘勲子(いさこ)が鳥羽上皇の皇后となった。勲子はすでに37歳で、上皇は興味を持たずまた勲子も男嫌いだったらしい。双方にとって義理のための婚姻であった。なお勲子は泰子と改名し、後に高陽(かや)院と号した。彼女はなかなか聡明な女性であったらしく、上皇の寵愛はなかったものの、待賢門院とは険悪なライバル関係になった。

待賢門院は、かつての法皇のように造寺造仏に積極的に精を出し、また高僧による祈祷を頻繁に行った。大治4年の御産の後には、大威徳明王像百体の供養を行っているが、これについては側近の源師時ですら「仏体、群蝸の如し。御産に非ず、御悩にも非ず。(中略)誠に是れ国の弊(つひえ)、世の損(そこなひ)なり」とあきれている。法皇の度外れた、物量に物を言わせたなんでもありの信仰を待賢門院は受け継いでいた。

白河法皇の熊野詣は12回に及んでいるが、待賢門院はそれを上回る13回だった(ほとんどは法皇や上皇との同道)。それは輿に乗っていたから体力的にはそれほどきついものではなかったが、「13回全部について好い季節が選ばれず、いつも寒い時分に行われている(p.187)」ことから物見遊山でななかったことは確実である。ちなみに女院は熊野詣の時に「女山臥装束」をつけていたらしい。これは本筋とは関係ないが気になった。

そして女院は、仁和寺の寺域に新たな御願寺を建立することとした。女院の御願寺はすでに円勝寺があったが、これは実質的には法皇が建立したもので女院は主体でなかった。今度は、自分の御所を兼ねた真の御願寺、金剛法院である。金剛法院は「単なる寺院ではなく、阿弥陀堂、御所、庭園の三要素からなる当時流行の特殊な寺院(p.203)」であり、特に池と背後の山(五位山)といった自然の景観が生かされていることは、どことなく鳥羽殿を髣髴とさせる。追って三重塔や九体阿弥陀堂も造営された。

鳥羽上皇が藤原得子(なりこ)を寵愛するようになると、待賢門院の立場は徐々に弱くなった。上皇は得子を溺愛し、閨房の絶える夜はなかったという。一方、崇徳天皇は母の立場を悪くする得子を憎み、得子の一族に圧迫を加えた。得子の一族はあまり高い家格ではなかったが、得子産んだ皇女叡子(としこ)が泰子の養子となり、待賢門院と対抗する勢力になっていった。また、得子は次々と鳥羽上皇の子を生んだ。得子は后でも女御ではなかったのでその子には皇位継承権がなかったが、崇徳天皇と中宮の養子にするという苦肉の策で體仁(なりひと)が東宮となり、追って即位した(→近衛天皇)。ところが、その宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」に譲位するとなっていた。これでは崇徳天皇は天皇の父でないので院政を敷くことができないし、待賢門院も院の母ではない。この奸計の背後には摂政・藤原忠通がいたようだ。そして待賢門院の関係者は呪詛の嫌疑により処分を受けた。待賢門院の命脈は尽きていたのだ。

あれほど栄華を極めた待賢門院も、法皇の後援がなくなり、上皇の寵愛がなくなり、天皇の後援がなくなると、打つ手はなしだった。彼女は康治元年(1142)出家し、女院の側近も次々と出家した。そして久安元年(1145)、女院は三条高倉第でその生涯を閉じた。45歳であった。面白いのは、女院は法金剛院の裏山に土葬せよと遺言していたことだ。そしてその墓の上には、小さい廟宇が建てられ「法金剛律院」と名付けられたという。女院には白河法皇とは違う埋葬の考えがあったようだ。なお「女院は、よほど魅力的な人柄であったと見え、側近に仕えていた女房たちの悲嘆は、ひとしおであった(p.282)」。

待賢門院の人生は、晩年は斜陽になっていたとはいえ、栄耀栄華を極めていたし、寵愛を失った晩年ですらも鳥羽法皇から敬われていた。鳥羽法皇は月忌には三条高倉第に御幸していたという。全体として、待賢門院の事績は嘉例と見なされていたことも疑いない。ただ、彼女が自分の人生をどう感じていたのか、その内面は明らかでない。彼女のサロンにはかの堀河(百人一首の「待賢門院堀河」だ)を始め才媛が犇めいていたのに、彼女自身は歌が不得意だったと見え、一首も残されていないのだ。和歌が内面を述べるものだとはいえないが、それにしても一首の和歌さえ残されていないことは、内面を窺うよすがさえない。

著者は、待賢門院はひたすらに法皇を愛していたと考えるが、それすらも確かではない。ただし状況証拠からすれば、確かに彼女は法皇の愛人であることには誇りを持っており、法皇に強く影響されていたのは間違いない。

一方、私が興味があった白河法皇の方は、常人には理解しがたい存在だという思いを新しくした。先例を無視する専制君主であるとか、好き嫌いの激しい気難し屋といったありきたりな形容に収まらないのが白河法皇だ。こういう君主に振り回された近臣は、「日本第一ノ奇恠ノ事」にたびたび遭遇しただろう。院政という新しい政治形態が出現したのは、社会情勢もさることながら、この白河法皇の強烈な個性によるところが大きいような気がする。

本書は全体として、普通の歴史書では書かれないような非常に細かい事項を書き連ねた本である。しかし読みにくくはなく、歴史のディテールが丁寧に繙かれるのはむしろ心地よい。そして、そこに現れる白河法皇・鳥羽上皇・璋子の奇妙な三角関係は、読者の心を引き付けて離さない。大上段の歴史論が展開されるのではなく、歴史の一断面が丁寧に描かれ、熱中して読んだ。

院政の内実を待賢門院から見る「衝撃の書」。

【関連書籍の読書メモ】
『白河法皇――中世をひらいた君主』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/02/blog-post.html
白河法皇の評伝。院政の成立を考える上で重要な白河法皇に初めて向き合った良書。

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