チベットの「ゾクチェン」の尊者が語る悟りへの道。
本書は、チベット密教とチベット土着のボン教につたわる「ゾクチェン(大いなる完成)の教え」の修行者であるナムカイ・ノルブが講演などで語った内容を文字に起こしたものである。
前半はナムカイ・ノルブの半生が語られ、後半は「ゾクチェンの教え」についての概説が述べられる。
ナムカイ・ノルブの半生は劇的である。彼は幼いころに高徳な尊者の転生仏(生まれ変わり)と認められ、幼くしてエリート教育が施される。彼は学業を優秀にこなしたので若年にして大学に入り、高度な宗教理論と儀式の手法を身につける。しかし自らのラマ(師匠)と出会い、それらの知識を本当には全くわかっていなかったという衝撃を受ける。彼のラマとなったチャンチュプ・ドルジェは高度な教育を受けていなかったどころか文盲であり、高僧のようでもなく、俗人と変わらぬ暮らしをしていながら、真理の体得者だったのである。
後半の「ゾクチェンの教え」の概説については、私にチベット密教の基礎知識がないために十分理解したとは言い難い。ゾクチェンとは、「リクパ」と呼ばれる三昧の状態(普通の仏教用語では「禅定」が近い)に入り、それを持続させることを目指すものである(と私は理解した)。
この「リクパ」とは、二元論(善か悪か、彼か我か、これかあれか、といった思考の枠組み)を越え、あらゆる制約から解き放たれて思考が澄み渡り、透明に覚醒した状態なのだという。しかもこの状態に至ると、感覚の物理的制約からも自由となり、千里眼とか他人の心を読む能力すら手に入る(ただしそれは副次的な成果であって、それを目的に修行がなされるわけではない)。この三昧の状態にいる人間が、いかに優れた特質を示すかということは本書の随所で述べられる。
ところが本書を読んでいてよくわからなかったのが、まさにこの「リクパ」に至った修行者、ゾクチェンを完成した者の具体的イメージなのである。例えば、彼はこの三昧の状態にいるとき、肉親の訃報に接したらどんな反応を示すのだろうか。感情を超越して平静を保つのか、それとも素直に悲しむのか、あるいは人それぞれなんだろうか。もっと卑近な状況を考えると、リクパの中にある人が車の運転をしていたら、どんな運転になるのだろう。注意深い安全運転なのか、高速で暴走するのか、どっちなのかイメージが摑めないのだ。
ゾクチェン——大いなる完成、という言葉からは、その修行者が穏和で円満な人格となっているかのような印象を受けるがそれは違う。本書に描かれる尊者には、狂人のような生活をする人や、ひどい癇癪持ち、他人など歯牙にも掛けないような態度の人もいる。一方でナムカイ・ノルブのラマ、チャンチュプ・ドルジェは多くの人に敬慕される人格者であった。一体全体、ゾクチェンとは何を目指すものなのか。少なくともそれが人格的完成を目指すものではないことは明白である。
ゾクチェンが目指すものは、禅宗の悟りに近い。私は本書を読んで盤珪禅師の「不生禅」を思い出した。「不生禅」とは、人は生まれながらにして必要なものは全て備わってると考え、人はあるがままで悟りの境地にいるとするものである。ゾクチェンの教えも「ひとりひとりの個人そのものに生まれつきそなわっている本性なのである(p.28)」とされ、「この境地にはいることは、あるがままの自分を経験すること」(同)なのだという。
もちろん「あるがままの自分」でいることは難しいことだから(そもそも「あるがままの自分」とは何だろうか)、このために厳しい修行が求められる。そこが苦行を不要とした盤珪との違いとなっているが、他にも禅宗との類似点はある。例えば両者とも悟りを平安で寂滅な状態としては描いていない。むしろあらゆる制約から自由になった能動的な状態と見なしている。そして悟りを非日常的なものではなく、むしろ日常生活全体が悟りの世界たりうると考えるのも禅宗と通じるところである。私はチベット密教の知識が薄弱なため、本書を禅宗の考え方を土台として読んだから、特にそう感じたのかもしれない。
本書を読んでもう一つ感じたのは、「ゾクチェンの教え」による心の働かせ方が、心理療法におけるカウンセラーの心の働かせ方と非常に似通っているということである。例えば「この自然な状態から善や悪、多様な思考の動きがわき起こってきたら、(中略)覚醒を保って、そこにあらわれてくるすべての思考をただ認めてやればいい(p.200)」とか、「嫌悪がわき起こっても、その感情をコントロールしようとしたり、逆にそれにまどわされたりせずに、覚醒したままでいることが必要だ(p.204)」などという心の在り方は、まさにカウンセラーがクライアント(患者)と向かい合うときに必要とされる態度なのである。
「ゾクチェンの教え」には、迷信的に感じられる部分(千里眼とか、超自然的存在の顕現など)も多いのであるが、その心の働かせ方については現代の心理療法と通じているのである。しかもそれは治療法(どうやったら心の病気が治るか)においてではなく、治療者(カウンセラー)の心の持ち方(どうやって患者に向き合うか)においてなのだ。してみると、ゾクチェンとは自分で自分の治療者となる方法ということなのだろうか。
不思議な「ゾクチェンの教え」を垣間見ることができる良書。
【関連文献】
『プロカウンセラーの共感の技術』杉原 保史 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/09/blog-post_20.html
プロのカウンセラーである著者が、相談を受ける立場として身につけたい共感の技術を解説した本。
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