2018年8月22日水曜日

『現代文 正法眼蔵(2)』石井 恭二 著

西洋哲学の概念なども使い、現代文へ意訳された正法眼蔵(第2巻)。

【参考】『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html

本書には『正法眼蔵』の「第16 行持 上」から「第29 山水経」までをおさめる。興味を引いた部分は以下の通り。

道元は「第21 授記」で一種の言語論を展開している。それは、「此の世界に世界のどのような現象であれ語句によらないものはない」(p.151)とし、我々の世界認識は言語を離れ得ないことを指摘したものである。

もっと言えば、世界が先験的に存在し、それを我々が認識し言語化する、ということではなくて、 言語によって世界が認識されることで、それが存在していることを知る、という順序だと述べている。(世界が先験的に存在しているかどうかについては沈黙しているようだ。)「覚り」というものもこれ(世界)と同じであるという。石井恭二もこの段ではソシュールやデリダを援用して気合いが入った解説を書いているが、私は言語論には疎いので道元の主張を完全には咀嚼できなかった。

「第26 仏向上事」でも、違った方向から言語論・認識論が展開される。洞山悟本大師が「貴方が他に語る時には、貴方には聞こえない」と言ったエピソードを道元は紹介し、これについて解説している。この段を読む前に、私もちょうど同じようなことを考えていたので、道元が既に思索していたことに驚いた。

これはもちろん聴覚についての言明ではない。音声言語を自ら発し、それを同時に認識することは不可能であるのだという。なぜなら、(いろいろ議論は展開されているが約めて言うと)語句と語句の指し示すものの結びつきは恣意的なものであって、自ら音声言語を発しながらそれを点検する(聞いている人が理解した内容を自らの中に再現する)ことは不可能であるからだという。

しかし道元は、音声言語を発した後の沈黙の中で、意識を集中すれば自らの言明を事後的に理解することはできる、という(「他に対して語っているのは自己でありながら、そのとき自己を確認することはない、自己の普遍性を証すのは沈黙のなかでの体得である」(p.210))。しかし私はこれは楽天的すぎる見方だと思った。自己の言明について自己で点検するなど可能なのだろうか。そもそも「意識」とは何かを明らかにしてからでないと、事後的にですら自己の言明を「理解」できるかどうか言えない気がする。

それはともかく、様々な言語論を展開した後で「云ってみれば諸仏諸祖の言葉はみな豊穣な寝言である」(p.214)という名言が飛び出したのには驚いた。道元、なかなか言ってくれる。

「第28 礼拝得髄」では、男女・幼長平等論が展開される。 師とするべき人物を見つけるには男女の違いは問題ではないという。それどころか、誰を師とするべきかについてあらゆる権威を信用してはならないとする。男か女か、年長なのか幼少なのか、名のある者か名もないものか、そういった区別は無用である。そうした外形的な区別にとらわれる人間は「真の仏道を知ることはない」(p.237)。「仏法を修行し、仏法を語りうるならば、たとえ七歳の女流であろうと、そのまま諸々の修行者にとっての導師である」(p.242)

この段は、当時の禅林においても権威主義が跋扈し、年功序列主義や女性の排斥などがあったため、それを痛切に批判しているのだと思う。現代においても、禅の世界で男女平等は達成されていないと思う。道元の批判にはもっと耳が傾けられてよい。

また、「第25 渓声山色」では、蘇東坡が渓流の夜の音を聞いて悟りを得たエピソードを紹介し、自然そのものが覚りと等しい、自然こそが正しい導きをくれるという自然観が展開される(「渓の声 渓の色、山の色 山の声は、挙げてみなお前に雄弁に語りかけることをおしまないのだ」(p.206))。

さらにこの自然論は「第29 山水経」によっても発展させられる。この「山水経」は、『正法眼蔵』のハイライトの一つであり、私自身、「山水経」を読むために『正法眼蔵』に取り組んだといっても過言ではない。その内容は、冒頭の「山も水もともに本来ありのままの場にあって、真実を究め尽くしている」(p.243)で象徴される。これは天台本覚思想(山川草木も悉く仏性を有する)と似ているがそれよりもずっと自然を敬した見方で、山水はありのままで覚りの本質を究めているから、覚者はやはり山水のごとくになるべきであり、山水こそが真の教えを与えてくれる師であるという。「山水はそのまま仏経である」(p.258)道元の自然観の究極であろう。何事も言語によらなければ認識できないという言語論を展開している一方で、山水がそのまま仏経なのだというのは一種の矛盾ではあるが、これが道元の思索の到達点の一つである。

全体を通して、常に二元論的な思考を戒めており、此岸に対する彼岸、というような仏教的概念をも否定されている。元来の仏教では「世間=此岸」を厭い、清浄な「彼岸」に行き着くことを覚りとしたのであるが、道元は人間や自然のありのままの姿が覚りであるとしたのである。

【関連書籍】
『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html
西洋哲学の概念なども使い、現代文へ意訳された正法眼蔵。
現代語釈で道元の思想に気軽に触れることができる良書。

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