2018年8月5日日曜日

「犀の角のように ただ独り歩め」

あなたの生き方に一番影響を与えた本は? と聞かれたら、『ブッダのことば』(中村 元 訳)と答えるかもしれない。

当時私は大学の一年生。郷里の鹿児島を離れ、姉と一緒に東京で生活していた。別段、人生に迷っていたとか、東京暮らしが不安だったとか、そういうことはなく、大学の勉強は楽しく、友人も出来、日々充実していたと思う。そんな私が、大学の近くにあった古本屋でひときわ古びていた『ブッダのことば』を手に取ったのは、どうしてだったのだろう。

読んで、衝撃を受けた。

まず、その美しい詩文に魅了された。当時の仏教は、書物を通じて伝えられたのではなく、口伝えされることによって広まった。であるから、その表現は平易で力強く、また美しくもあって覚えやすいものでなくてはならない。最初期の仏典(原始仏典)は、そういう美しい口承文学であった。

本書は、当時の言葉(パーリ語)から直接訳出されたものである。仏典=お経といえば漢訳で難解なものと思っていた私にとって、原典から訳出された美しく力強い詩文は、仏教のイメージを一変させるものであった。

そしてその思想も、後代のそれとは全く異なっていた。今になってみると、そこに表現されたものをまた違った角度で眺めることができると思うが、当時の私が読み取ったのは、「人は一人で生きてよいのだ」というメッセージであった。それを象徴する詩文が、「犀(さい)の角のように ただ独り歩め」である。私は、この詩文と出会った衝撃を一生忘れないであろう。

友達とわいわいガヤガヤしながら生きることが楽しみだと思っていた人間にとって、「犀の角のように ただ独り歩め」は強烈な刺激であった。当時の私は、友達とわいわいガヤガヤしながらも、我が道を歩むことを恥としない人間だったと自負するが、この言葉に衝撃を受けたところをみると、それを完全には肯定していなかったのかもしれない。この詩文は、私の人生の屋台骨のような存在になった気がする。

本書で原始仏典に興味を引かれた私は、同じ中村 元の『ブッダ最後の旅—大パリニッバーナ経』とか『ブッダの真理のことば、感興のことば』など岩波文庫で出ている一連のシリーズを読んだ。

そうした本を読むうち、私は訳者・研究者の中村 元の語り口にも魅了されていった。中村 元は、松江が生んだ世界的仏教研究者、比較思想学者であって、その緻密な文献学的手法とサンスクリット語、パーリ語の強力な語学力によって、仏教学に新たな地平を切り拓いた人物である。

私は、中村 元の手引きによって徐々に仏教に親しむようになった。

次に読んだのは、中村 元『仏典をよむ』シリーズだったと思う。このシリーズは『ブッダの生涯』 『真理のことば』『大乗の教え(上)』『大乗の教え(下)』で構成される全4巻(前田専学監修)。ラジオ放送の講座を元にしたものであり、非常に平易で親しみやすく、仏教の核心部分を大まかに理解するためによい本だった。万人にお勧めできる仏教の入門シリーズである。

ところが、こうなるともっとしっかり主要な経典を理解したくなるものである。原始仏典のあの清新な感動から仏教に入った身としては、大乗仏典は夾雑物が多すぎる野暮なものに感じていたのだが、勉強してみるとそうでもないと思い始めたのだ。

そこで手に取ったのが中村 元「現代語訳大乗仏典」という全7巻のシリーズ。こちらは(1)般若経典、(2)法華経、(3)維摩経・勝鬘経、(4)浄土教典、(5)華厳経・楞伽経、(6)密教経典・他、(7)論書・他、の構成である。

特に印象深かったのが『華厳経』。

華厳経というと、あの東大寺が華厳宗であることからもわかるように、古代日本において国家的経典とみなされた重要なものである。そこに表現された思想は、人生の悩みといった個人的な問題に応えるものというよりは、世界観を提示するというか、文明の在り方を示唆するようなスケールの大きなもので、古来華厳経に魅了されてきたものは多いのである。

一方で、こうした経典への興味とは別に、私が次第に心を傾けていったのが「禅」だった。といっても、私の禅に対する興味は最初がひねくれていた。禅が”Zen”になり、なにやら深遠な思想だと一知半解のまま称揚されていることに疑問を持ち、どちらかというと懐疑的興味から禅を知るようになったのである。

実際、『十牛図―自己の現象学』(上田閑照・柳田聖山)であるとか『無門関を読む』(秋月龍珉)などを読んでも、それなりに知的興奮はあるのだが、どこかピンと来なかった。当時の私は、こういう深遠ぶった(と私は思っていた)「禅」が、胡散臭いものに感じられたのだ。

そんな時には、やはり原典というものが力を発揮するもので『臨済録』(入矢義高 訳注)が私の禅理解をより前向きなものに変えてくれた気がする。『臨済録』は言わずとしれた臨済の言行録(弟子が記録したもの)で、「語録中の王」とも呼ばれる最も重要な禅書の一つである。

その内容は、「破天荒」の一言に尽きる!

『十牛図』とか『無門関』がいかにも観念的というか、上品なものであるのに比べ、臨済は暴力的であり、行動的であり、実践的なのだ。例えば、有名な言葉にこういうのがある。

「諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母にあったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ」

これを文字通り受け取れば、悟りというよりも大量殺人の勧めなのであるが、もちろんこの言葉はそういう意味ではない。ではどういう意味かというのは、まあ、原典に当たって確認していただきたい(参考:Wikipediaにもそれなりに面白く臨済のことが紹介されているのでお手軽に知りたい方はこちらを → 臨済義玄)。

日本の禅書で『臨済録』に匹敵するものというと、『盤珪禅師語録』がある。

盤珪は江戸初期の臨済宗の僧。厳しい修行の果てに、人は生まれながらにして必要なもの(精神的なものも含めて)は全て備わっているという悟りを得、それを平易な言葉で多くの人に優しく説いた。その精神は、臨済と通じ合っていると思う。本書は、盤珪の説法を弟子がメモしたものを元にしていて、盤珪の生き生きとした説法の様子が伝わってくる。

盤珪の特徴は、おのれの存在を徹底的に肯定するという臨済の基本路線を受け継ぎつつも、臨済のような韜晦な表現はせず、あくまでも平易に、人々によりそって明解な教えを説いたことで、その弟子は五万人もいたというから、歴代の禅師の中でも抜群に大きな存在であった。

一方、そういう立派な(?)禅僧とは違い、ひねくれていたのがあの有名な「一休さん」こと一休宗純である。

一休についてはわかりやすい入門書もあるが、私の場合、水上勉『一休』によって彼を知った。本書は、かなり取っつきにくい本である。一次資料からの引用が多いし、考証は微に入り細に入り、大まかに一休を分かればいいや、という向きは辟易するに違いない。しかし一休の魅力を伝えるには、そういう作業が必要なのだと思う。

社会派推理小説で有名な著者の水上勉は、実は臨済宗のお寺で修行していて、しかもその後仏教から離れた経歴を持つ。だから禅宗について詳しい一方、禅宗への批判的視点もあって、本書ではそのバランスが絶妙に調和している。

一休は、決して、立派な禅僧ではなかった。権力に反抗し、形式に堕した禅宗の実態を批判したが、 自身が清廉だったかというとそうでもない。いや、それどころか、人間の本当の姿を極める、などといって性愛の世界に溺れ、その上にそういう自分を完全に肯定することもできず、一生煩悩のままに生きたようなところがある。彼は貴族社会を批判したけれども、実際には内心貴族に憧れ、しかも憧れてしまう自分に苦しみながら、その苦しみを誤魔化すために魔の道へ入ってしまうひねくれた求道者であった。人は、彼を「風狂僧」と呼んだ。

私のハンドルネームの「風狂」は、実はこの一休宗純から来ていて、私はこのひねくれ者の一休に憧れるのである。

今まで、禅宗の中でも臨済宗の話ばかりが続いたので、曹洞宗のことについても触れておかなくてはならない。

曹洞宗と言えば、やはり巨大な存在が道元であって、即ち『正法眼蔵』がその思想の最高峰であろう。ところが、私は未だ『正法眼蔵』を通読せずにいる。原文はかなり難しいものなので、私は石井恭二の『現代文 正法眼蔵』を第1巻だけ読んだ(全4巻)。第2巻の途中で止まっているというのが正直な状況だ。

だが、その本は決してつまらないものではない。

それどころか、道元は、我が国では空海以来の大思想家であったというのがよくわかる。一般的には、道元は「只管打坐」、つまりひたすら座禅・瞑想をすることにより悟りの境地に至るという方法で有名だが、『正法眼蔵』を読むとそれは彼の思想の一面でしかないと感じる。座禅は思索の方法ではあるが、それが全てではないし、「どう思索するか」もまた重要である。本書は、落ちついているときにゆっくりと取り組みたい本である。

『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html

ところで禅宗というと、思想書そのものではないが、ここに紹介したい名著がある。それは『禅の歴史』(伊吹 敦)である。

本書は、禅をことさら神秘的・高遠なものと見ずに、極めてフラットな立場から禅の歴史を記述したもので、まずこのような態度で書かれた本が貴重である。そしてそのまとめ方も、大量の情報を手際よく整理し、あたかも高校の歴史の教科書のようにまとめている。

禅の歴史、というような専門的な事項が、高校の歴史の教科書レベルのわかりやすさでまとめられるだけでも相当に有り難いことであって、しかもそのまとめ方が無味乾燥(褒め言葉)と言ってもよいほど客観的である。

中国で生まれた禅が日本に渡り、また日本でも独自の発展を遂げるというその有様を、一切の虚飾なく、しかも大量の情報とともに、平易に学べる本は、おそらく本書以外にないであろう。

なお本書は禅の歴史の中でもいわゆる教理に限ったもので、文化史についてはほとんど触れられていない。著者は、禅の文化史についても本をまとめる予定ということなので、その本の完成を一日千秋の思いで待っているところである。


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