2021年10月8日金曜日

『石仏の旅 西日本編』庚申懇話会編

石仏を巡る旅のモデルコースを紹介する本。

本書は、普通の旅行ガイドとはちょっと違う。有名な石仏を巡るのではなくて、有名ではなくても、見所のある・変わった・興味深い石仏を見、そして(驚くべきことに)その旅の途上にある何気ない石仏にまで注意を向けるものだからである。

本書の構成は、西日本の各県(県単位でないのも若干ある)について石仏巡りのモデルコースを設定し、概ね公共の交通機関を使って見に行ける石仏を紹介する、というものである。このような、地味ではあるが極めて文化的な旅のガイドブックが出版されていた、というだけで素晴らしいことである。

また、こうしたガイドブックを作った「庚申懇話会」の活動もすごい。「庚申懇話会」は全国に会員を有し、庚申塔の研究は元より路傍の石仏までも含めて研究し続けた団体である。これを主宰していた小花波平六(こばなわ・へいろく)さんにも興味が湧いた。

本書は西日本各県の石仏を網羅的に紹介するものではなく、いわばハイライトするものであるから、各県の特徴がよく出ていて面白い。

例えば和歌山にある「不食供養碑」のことは初めて知った。これは女性(未成年も含む)が毎月1日、3年3月の間断食をして供養をする信仰のようだ。「紀の川沿いの旅はまた、不食供養碑をたずねる旅でもある(p.48)」というほど多くの「不食供養碑」があるそうだ。

それから京都市内には江戸期の庚申塔が1基を除き存在しないのだそうだ。あれほど全国を席巻した庚申信仰が京都市内でほとんど存在しないというのはなぜなのか。本書でもその理由はわからないとされている。

滋賀県は本格的な磨崖仏があり、また「宝塔、宝篋印塔の一大天国(p.75)」なのだそうだ。富川磨崖仏、狛坂磨崖仏、妙光寺山地蔵磨崖仏などが紹介されており、特に狛坂磨崖仏については「花崗岩半肉彫り磨崖仏ではわが国で最も雄大なもの(p.78)」という。

徳島県には板碑が多い。1500〜2000基はあるのだという。私も知らなかったが、徳島県には板碑を作るのに使う青石(緑泥片岩)がよく採れるのだそうだ。

長崎には六地蔵塔が多い。「県下のどこにでもあり、珍しくない(p.168)」というとおり、たくさん紹介されている。私はこれまで六地蔵塔といえば鹿児島県と思っていたが、長崎が強力なライバルだったようだ。鹿児島と長崎の六地蔵塔の比較はこれまで誰もやっていないように思う。

ちなみに鹿児島では、大隅路、薩摩路、指宿周辺の3つのモデルコースが紹介されている。知らなかったのは、蒲生の漆(うるし)にある庚申塔が大永3年(1523)で九州最古のものであるということ。なんでこんなところに九州最古の庚申塔があるのか不思議である。

さらに宮之城には享禄4年(1531)の庚申塔があり、これは九州で2番目に古い。これは塔婆の形式のうえからも貴重な資料だそうだ。なお庚申信仰は鹿児島では田の神と習合しており、県下で19の庚申田の神があるのだという。

また非常に興味を覚えたのは、入来の浦之名麓の古春(こしゅん)にある三十三観音の石塔である。これは鹿児島県にただ1基ある珍しいものだそうだ。いつかぜひ見てみたい。

全体を通じ、全部モノクロなのと写真がそれほど多く掲載されていないこと、また実際に行こうと思ったらちょっと地図が頼りない(大雑把すぎる)ことが欠点であるが、読むだけでも石仏の世界の多様性を感じることができ、非常に優れた本である。このような本が出版される時代がもう一度来ることを期待したい。

地味な石仏の世界を楽しく案内してくれる真に文化的な旅の本。


2021年9月24日金曜日

『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳

『第二の性』、5分冊のうちの第2巻。

本巻では、「妻」「母」「社交生活」「娼婦と囲い女」「成熟期から老年へ」という章分けで、成人してから亡くなるまでの女性の生活が活写される。

「第1章 妻」では、結婚制度が再考される。

女性にとって結婚は大きな意味を占めている。将来の方針を尋ねると「結婚したい」と応える若い娘は多い。しかし男性も同様に結婚はするはずなのに、そのように応える男性は少ない。それは、男性の成功は主に経済的成功であって結婚は副次的なものであるが、女性は経済的成功を自ら手にすることができないために、結婚を通じて成功するしかないからである。もちろん職業につく女性もたくさんいることはいる。だが女性の職業はしばしば不利で給料が安いので、仕事での成功を追い求めるよりは結婚に落ちついた方が有利なのである。そのため、結婚自体にも女性に不利な点は多いのに、結局は女性はそれを自ら望んで行うのである。

結婚は愛し合う二人のゴールだと見なす考え方がある。しかしボーヴォワールは、それが幻想であることを執拗なまでに例証する。むしろ結婚とは愛の否定ですらあるというのが著者の考えのようだ。ちなみに数多いその例証の一つに挙げられているのが「無痛分娩」への反対だ。この頃、「陣痛は母性本能の出現のために必要だ」というような理由で、「無痛分娩」に反対する男性がいた。しかし母性本能云々は彼らにとってさほど重大な理由ではなく、その実は「女の負担が軽くなることをよろこばぬ若干の男達があるというのが実状(p.25)」だったのである。この「無痛分娩」への態度は、現代の日本でもほとんど変わっていないのではないかと驚かされる。

では、女の不幸や苦痛を喜ぶ男がなぜいるのか? 愛し合って結婚したはずの妻の負担をも軽減しようとしない男がいるのはなぜなのか? それは、結婚が「制度」であるためだ、と著者は考える。結婚前の、互いに自由な、愛によって結びついている段階では、男女はお互いをいたわり、尊重する。しかしひとたび結婚するや、二人を結びつけるものは愛でもいたわりでもなく「制度」なのである。夫婦生活が味気ないものであってもそこから逃げ出すことはできないから、時として嗜虐的な行動に出る男性(女性も)が出てくるのである。

手垢のついた言葉ではあるが、結婚は自由意志を弾圧する、という意味で「牢獄」なのだ。 しかし結婚が「牢獄」だとしても、男性が活躍する場はたいてい職場であるから、それほど気に病むことはない。だが女性は結婚すると家庭に閉じ込められる。だから彼女の仕事は「この牢獄を一つの王国に変えること(p.56)」になる。それは家や衣服を清潔に保ったり家具を調えたりすることであって、「善」を建設することではなく、「悪」を追っ払うこと、つまり果てしない現状維持の仕事である。「家庭の主婦の仕事ほどシジフォスの刑罰によく似たものは(p.62)」ないのだ。

こまごまとした雑用を好きになり、そういうものを愛するように自分を仕向ける女性も多い。趣味よく調えられた部屋を作りあげることはひとつの創造的行為かもしれない。しかし多くの場合、やはりそれは本当の意味での(つまり経済的に報われる)やりがいのある仕事ではない。 女性は、終わることのない面倒な雑務を押しつけられていながら、重要な仕事には何一つ関与させてもらえない。というのは夫は妻を無能だと見なしているからだ。「女性には無理だよ」といいながら夫は妻から重要な仕事を取り上げ、代わりに「誰でもできる簡単な仕事」を大量に押しつけるのである。

この議論が展開されていけば、話は自然と「家事の平等分配」に移っていくと予想される。女性だけが家事をやらされるのは不平等だと。ところがボーヴォワールはそう進まない。むしろ結婚制度自体が無用だと糾弾するのである。「夫婦のあいだに誠実と友情が存在するためには、そのための必須条件は二人がともに互に自由であり、具体的に平等であること(p.110)」なのだから、本当に「愛」が存在するのならば、自由を縛る結婚「制度」はむしろ害悪なのである。

もちろん、幸せな結婚生活を送る夫婦も少なくはない。 本書に大量に引かれる不幸な結婚の事例が極端なものであることは著者も認めている。しかし結婚の失敗は少なくない数で起こっている。そしてそれは、個人の選択ミスというよりは、結婚という「制度そのものが根本的に頽廃している(p.132)」ためなのである。結婚が、女性を不当に従属的にするとしたらそんな制度はないほうがいい。

そして、女性に男性と同様の経済的自由が与えられない限りは、「家事の平等分配」のような見せかけだけの平等は意味がない。「深い本質的な不平等は、男は労働者あるいは行動の中に具体的に自己完成ができるのに、妻の方は妻であるかぎり、その自由は消極的な形のものでしかない、ということから来る(p.133)」。そういう不平等を助長するのが結婚制度なのである。要するに、女性は自己実現の機会を結婚によって不当に奪われているのである。

「第2章 母」の出だしはちょっと奇異である。それは、堕胎の問題から始まるからだ。当時(約70年前)、フランスでは堕胎は非合法だったが、それに頼らざるを得ない女性たちがいた。社会は胎児の権利を保護することには熱心だったのに、いったん生まれた子どもには無関心で、女性への支援など眼中になかった(←今の日本と同じ!)。だからこそ女性達は望まない妊娠をしたとき、やむなく堕胎をしたのである。それなのに社会は堕胎した女性たちを断罪した。堕胎には男性にも責任があるはずなのにそれはなかったことにされ、全てを女性に押しつけたのである。

堕胎への断罪は、女性がおかれた状況を象徴するものである。子どもを産むということは男女がともに関与することなのに、実際には女性にのみその重みを負わせているということなのである。

このように始まった「母」になることの検証は、「妻」に引き続き厖大な例証によって暗鬱な様相を帯びるが、その要諦といえば「母性<本能>などというものがそれほどはっきり存在しないことを示す(p.182)」ことにある。

世間では「母性本能」なるものを当然とみなして、「お母さんなら赤ちゃんがかわいいはずだ」「子どもの世話に幸せを感じるはずだ」などという。もちろん親にとって子どもは大切な存在だし愛おしいことが多い。しかしながらそれを世話するのは楽ではないし、しかもそれが母にだけ一方的に押しつけられているならなおさらだ。子育てを通じて「母性愛」が女性を満足させるなどというのは間違っている。子どもをたくさん産んでも「不幸で、ヒステリックで、不満な母親がたくさんある(p.201)」

結局、「母性愛」も社会が女性に押しつけた都合のいい神話に過ぎないのである。赤ちゃんや小さい子どもの世話をするには、自分の生活を犠牲にしなければならない。実際、毎日のほとんどすべてを子どもの世話に献げなくてはならない女性は、結局は自分のやりたいことを諦めるのを学ぶ。ひとたび自分の意欲を封印してみれば、子どもの世話にかかりっきりになる生活にもそれはそれで充実はある。しかしずっとそういう生活をしていると、やがて「子ども」が自分の失われた人生の埋め合わせと見なされてくることが多い。こうなると子どもの成長にもよくない親子関係になっていくのである。

子どもを持つことが男性にとっての最高目的ではないように、女性にとってもそうではない。「女に一切の公的活動を拒否し、男性がいとなむような職業を閉ざし、あらゆる領域において女の無能をはっきり公言しつつ、<人間の形成>というもっともむつかしく、もっとも重大な仕事を女にゆだねるというのは許しがたい矛盾(p.205)」なのだ。

その問題を解決するため、ボーヴォワールは子どもの世話は大部分外部委託する(≒保育園)ことを提案する。その方が子どもの人間形成にもいい影響があるし、なにより「もっとも豊富な個人的生活をもっている女こそ子供にもっとも多くを与え、子供からはもっとも少なく要求する(p.207)」のである。そして「子供は大部分は集団によって負担され、母もちゃんと世話され援助されている場合は、母になることは女が働くことと絶対に両立せぬのではない(p.206)」のだ。このあたりの議論は、保育園に入れないために「保活」などというものをしなくてはならない今の日本の状況にぴったりはまってくる話だろう。

「第3章 社交生活」では、女性の人付き合いについて述べており、今の言葉でいえば「社会生活」のことである。 が、ここで述べられるのは、女性が社会生活を営む上ではおしゃれが必須になっている現況である。もちろん男性もしっかりした服装は着なければならない。しかし男性の場合は社会的地位や仕事の能力の方が重要であるため、外見にはそれほど気を遣う必要は無い。一方女性は、社会からモノとして扱われているために、どう装うかがその価値を大きく左右する。だから女性は「自分をひとに見せたい気持ちと、そんなことはいやだという気持ちとに分裂する(p.212)」ことも多い。

ここに描かれる姿は、約70年前のそれであるにも関わらず今の日本と全く同じである。本書に引用されるコレット・オードリィの描く女性の毎日は驚くほど「現代的」だ。それは美容に気を遣い、健康食品を食べ、アンチ・エイジングに血眼になる姿である。「美容雑誌は無限に更新される処方で彼女に息もつがせぬ(p.221)」。女性にとっておしゃれは、「武器、看板、護身用の物、そしてまた推薦状(p.220)」であるから、それは半ば義務なのである。

女性は中身がないから外面を着飾るのだ、というような批判は当を得ていない。例えば素晴らしい頭脳を持った女性学者がいたとする。しかし彼女が不美人でおしゃれに気を遣っていなかったら、人は彼女は不完全であるという印象を持つ。女性は能力が十分にあるだけではだめなのだ。見た目も麗しくなくては! 社会は、女性におしゃれを強いているのである。

このような議論を展開した後、女性同士の人付き合い(家に招待することなど)について述べ、そして話は不倫へと展開していく。先述の通りボーヴォワールは結婚制度について口を極めて攻撃するのであるが、その理由の一つとして夫婦が互いに性的に満足することはめったにない、ということを挙げている。それは結婚制度は「肉体的な愛」を基盤としていないからである。だからボーヴォワールは、結婚と性的関係は区別した方がいいのではないかという。つまり結婚していても、互いの性的自由は認めてもいいのではないか、と。実際、ボーヴォワールはサルトルと事実婚の状態にあり、深く愛し合ってはいたのだが、互いの性的自由を認めていた。

しかしながら、世界中の社会で、結婚は排他的な性的関係の樹立と等しい。それは人為的な制度ではなく文化人類学的な基盤を持ったもののように思える。ボーヴォワールの提案はちょっと無理があるような気がした。

「第4章 娼婦と囲い女」は、女を売りにする女のことが語られる。まず、娼婦が存在するのは、女性が堕落した存在だからではなく、女性が職業的に差別され、経済的に弱いからだとしている。ある種の女性は「社会にちゃんと入れてもらえず、大都会の中に見失われたようになっている(p.258)」から、そういう「仕事」を選ぶのである。売淫の存在は、女性の堕落を示すのではなくて、社会の悪さに依るものなのである。

そして当然、娼館に通ってくる男性の需要があるからこそ、その商売は成り立つ。女性が堕落しているとするなら、男性も堕落しているとしなければならない。しかし男の方は、娼館では堕落していたとしても、一歩そこを出れば立派な顔をしているのである。だから娼婦たちは、男が振りかざす高尚な道徳や立派そうに見える品位といったものを鼻で笑う。

一方、「囲い女」の方はこちらとはちょっと違う。「囲い女」とは、「自分の全人格を資本とかんがえて利用する、そういう女たち全部(p.277)」を指す。つまり「女を武器としている女」だ。「逆説的な言い方では、女としての武器を徹底的に利用する女は、ほとんど男性に劣らぬ立場をつくることができる(p.278)」。彼女は「男性社会」に完璧に適合し、それを逆手に利用する。これは女性の生き方としては最も自己実現を図れるもののようだ。ところがボーヴォワールは(予想されるとおり)、この生き方を積極的には評価しない。結局、彼女は「男性社会」に寄生しており、その道を突き進む限り本当の自由を手に入れることはない、ということのようだ(はっきりとは書いていない)。

「第5章 成熟期から老年へ」では、更年期から老年が語られる。更年期あたりになると、女性は自分の人生を無駄遣いしたように感じ、未だ何も成し遂げていないことに愕然とする。そして今のうちにできることをやっておこうと齷齪(あくせく)するが、やがて閉経を迎えて老年に入っていくと、むしろ女性は自由を手に入れるのである。それは「女性であること」から解放されるからだ。女性は「女性」としての価値を失って初めて、社会が彼女に押しつけていた義務から逃れられる。「彼女はまた流行や世間ていをはっきり無視し、社交的な義務や摂生や美容の手入れなど一切ごめんこうむる(p.300)」。

だから老境においては、女性は男性よりもかえって生き生きし出す。それに男性は職業を退くと社会生活においてはほぼ無用の存在と化すが、女性は家庭を切り盛りするという今や重要な仕事を手にしている。「夫にとって彼女は必要なものだが、夫の方はただ邪魔ものでしかない(p.318)」のだ。男性と女性の立場は逆転し、「ついにここで彼女は、世界を自分自身の目で眺め出す(同)」。こうして封じ込まれていた批判精神が自由に働くようになるとはいえ、それは老境の慰み程度の意味しか持たないのだ。

全体を通じ、本書に描かれる女性の姿は不幸をかなりデフォルメしている、というのは誰しも感じるところだろう。幸せな女性だって世の中にはたくさんいるのだから。だが本書が言いたいのは、個別の女性が幸せであるか不幸であるかということよりも、社会の構造自体が女性を抑圧している、ということなのである。本書の価値はまさにそれを徹底的に論証したことにある。

本書(原書)の刊行時、本書は女性の「性」の問題をあけすけに取り上げたことでスキャンダルな反応を引き起こし、ために世界各国でベストセラーになった。しかしそれは本書の価値の一端でしかない。刊行から約70年経ち、女性問題への理解は格段に進んでいるが、それでも本書が言っていないことはそれほど多くないのではないか、と思わせるほど、本書は包括的に女性問題を取り上げている。女性問題がまだそれほど認知されていなかった時代に、これほど総合的で徹底的で、容赦ない本を書いたということは奇跡的だった。

 

【関連書籍の読書メモ】
『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_31.html
この巻では、女性が生まれてから成年になるまでを取り扱っている。


2021年9月12日日曜日

『コーヒー・ハウス—18世紀ロンドン、都市の生活史』小林 章夫 著

17世紀に勃興したロンドンのコーヒー・ハウスについて述べる。

イギリスと言えば紅茶で、コーヒー(カフェ)はフランスの文化だと思われている。が、実は17世紀のロンドンはコーヒー・ハウスが大繁盛し、そこでは活気ある世界が展開されていた。

イギリスはモカの産地である現イエメンを植民地としていたためコーヒーが輸入され、この新規な飲み物を提供する店が、新しいライフスタイルの提案とともに登場したのである。

それは、第1に情報交換と仕事の場、第2に言論とニュースの発信地、第3に文芸・文化の交流の場、であった(本書でこのような章立てがされているわけではない)。

第1の点「情報交換と仕事の場」については、当時のロンドンの住宅事情がからんでいた。ロンドンは過密都市で、ボロ屋が犇めき衛生的でもなかった。これは1666年のロンドン大火でその大部分が焼け落ちたことで改善され、家が石造りに変えられたりはするものの、過密都市であることは変わらなかったので家賃が高く、狭小で汚く、当時の個人住宅は人を呼べるようなところではなかった。そして家賃が高いということは、商売をやっている人が事務所をもちたくてもおいそれと持つことはできないということだ。

そんなわけで、コーヒー・ハウスは商売人(この時期、投資家がたくさん登場した)にとって事務所のような場所として活用されるのである。郵便もコーヒー・ハウス留めにして受け取っていた。当時は電話もないので事務所を開いてもそこだけで仕事ができるわけではない。それよりは、市場関係者や事情通が集まる場所にいて仕事する方が効率がよかった。

また、ものを販売するにしても、ショーウィンドウがあるような時代ではない。コーヒー・ハウスに商品を置かせてもらい、欲しい人にその場で販売するのが合理的だった。であるから、当時のコーヒー・ハウスの内部はいろいろな商品(怪しげなものもたくさん)が所狭しと置かれた雑貨屋的なところでもあった。 

他にも、世界最大の保険機構である「ロイズ」は元々コーヒー・ハウスであった。ロイズは客のために海事ニュースを提供し、海上保険の元締めとして不動の地位を占めていく。ロイズは最初から保険会社だったのではなく、海事情報を提供するコーヒー・ハウスだったというのが面白い。ロイズは、正確な情報が商売には一番大切だということを分かっていたのである。

なおこのようにコーヒー・ハウスが商売に利用されたのは、それが当初はノン・アルコールの店だったということも影響していた。イギリスではパブで飲んだくれるのが日常茶飯事であったが、いくらたくさんの人が集まる場所であっても酔っ払っていては仕事はできない。コーヒー・ハウスはノン・アルコールの”真面目な"店であった。

第2の点「言論とニュースの発信地」については、コーヒー・ハウスはお金さえ払えれば誰でも入ることができたので(コーヒー代と別に入場料のようなものを取った)、身分に関係なくいろいろな人が出入りした。身分というものが非常に強力であるイギリスの社会において、コーヒー・ハウスは「人間の<るつぼ>」としての役割を果たした(ただし女性は入店できなかった)。

そしてそこでは、新聞や雑誌が置かれて回し読みされ、また時事問題についての議論が自由に交わされたのである。当時は新聞や雑誌は非常に少部数でしか発行されなかった上、当然のように高価なものでもあったので、コーヒー・ハウスに置かれることには集客上の利点もあった。そこに貴賤の人々が雑多な情報を持ち寄っていたから、政府広報的な情報のみならず市井の生きた情報が集まることとなり、コーヒー・ハウスでの話題や人々の批評が新聞や雑誌に掲載されていくというジャーナリズムが育っていくのである。

特に雑誌と呼べるものができたのがこの時代であり、デフォーの『レビュー』、スウィフトが主筆だった『エグザミナー』、リチャード・スティール創刊の『タトラー』などが18世紀前半に矢継ぎ早に創刊される。特に重要な存在が1711年に創刊された『スペクテイター』(なんと毎日発行)で、この雑誌によってイギリスの雑誌は一挙に隆盛した。『スペクテイター』は当時の文化風俗を知るのに不可欠な有名な雑誌である。こうした雑誌が生まれる母体となったのがコーヒー・ハウスだったのである。

なおコーヒー・ハウスにおける自由な言論・政治談義は、時の政権にとって好ましくなかったのは言うまでもない。そこで1675年にはチャールズ2世が「コーヒー・ハウスは不満分子の根城になっている」としてコーヒー・ハウスの閉鎖令を出したこともある。しかし既にコーヒー・ハウスはさまざまな階層の人にとって欠くべからざるものになっていたため、大反対に遭ってこの命令は10日後に撤回されるのである。

しかしながら、開放的で自由な言論・政治談義がコーヒー・ハウスで行われたのはそんなに長くなかった。次第に政治的な立場によってどの店にいくか決まるようになっていったからだ。そしてやがては会員制のクラブが交流の中心となっていくのである。

第3の点「文芸・文化の交流の場」については、著者の専門がイギリス文学であるためにかなり詳しい。17世紀の文芸(詩作・劇作)というものは、著者が書斎で呻吟しながら書き上げるものではなく、大勢の前で披露し、批評され、それに応じて書き改めるといった公的な場でつくりあげる性格を持っていた。であるから、コーヒー・ハウスにおける交流が文芸の中心、つまり「文壇」となったのである。この時代の、いわば文壇の流派は「ウィル」「バトン」「ベッドフォード」といったコーヒー・ハウスに分かれて存在しており、それらの店の特徴やそこに集まった文士たちについて本書では詳しく触れている。

そしてコーヒー・ハウスは中産階級における読書の啓発にも大きな役割を果たした。17世紀後半には、まだ本は高価で普通の人の手には届かなかったし、また図書館も不十分だった。一方で雑誌の普及や小説の登場(例:デフォーの『ロビンソン・クルーソー』)などにより、中産階級の読書欲も高まってくるのである。そこでコーヒー・ハウスでは、店内で本が買えるようになるばかりでなく(=つまり本屋の機能もあった)、18世紀には店内に図書室を設けて本が読めるようになっていくのである。

18世紀のコーヒー・ハウスには、今風にいえば「ブックカフェ」が流行ったのである。 また貸本屋や本の共同購入サークル(本を回し読みする)、そして「読書会」もコーヒー・ハウスを舞台として行われた。コーヒー・ハウスは読書文化の発信基地でもあったのである。

このように様々な面で時代の先端を走ったコーヒー・ハウスだったが、その栄華は長く続かなかった。17世紀後半から18世紀前半までの約100年がコーヒー・ハウスの栄えた時代であり、特に活発な活動や展開が見られたのはその前半50年に過ぎない。

ではなぜコーヒー・ハウスは衰退したのか。その理由としては、(1)数が増えすぎて需要を超えた、(2)モラルが低下し賭博やアルコールの提供が行われるようになった、(3)コーヒー・ハウスの発展にともなって店ごとに客層が固定化し、「人間の<るつぼ>」でなくなった、(4)オランダによってジャワ・コーヒーがヨーロッパにもたらされて、イギリスのモカ・コーヒーが競争力を失いコーヒー輸入が減少した(それを埋め合わせるように茶の輸入が増大する)、(5)ロンドンの住宅事情が改善された、といったことが挙げられている。

ただし、1849年の報告で、ロンドンには2000軒のコーヒー・ハウスがあって労働者で賑わっている、うち500軒には付属図書室があって労働者が読書にふけっている、といった情報があるので、18世紀後半には衰退したといっても、19世紀半ばにもかなり繁盛しているのも間違いない。コーヒー・ハウスの勃興期の研究はいろいろあるらしいが、衰退期の研究はあまりないようで、どのように衰退していったのかは不明な点もあるそうだ。

本書はコーヒー・ハウスの歴史を多面的に追うもので、時系列的ではないので混乱する部分もあるが筆は平易で読みやすい。ただし、副題に「18世紀ロンドン」とあるものの、分量的には17世紀の記述の方が多いくらいで、18世紀についてはほぼ前半に限られている。また先述のとおり著者はイギリス文学を専門にしているためその面は詳しい一方、逆に言えば他の文化についてはあまり触れられていない。

例えばこの時代は演奏会が勃興してくる時期と重なっているが、コーヒー・ハウスはそれにどう関わっていたのか(関わっていなかったのか)。そのあたりはもう少し書いて欲しかった。

ロンドンのコーヒー・ハウスについて多面的に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『生活の世界歴史〈10〉産業革命と民衆』角山 榮 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/12/10.html
本書の参考文献として「17世紀から19世紀のイギリス社会、生活について概観したもので、日本人の手になるものとしては最も包括的で、また面白く読める本といえる」と紹介されている。コーヒー・ハウスについても詳しく述べている。

 

2021年8月30日月曜日

『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』吉川 宗明 著

日本における岩石信仰について整理する本。

岩石信仰とは、「岩石を用いて霊を信仰した信仰体系全般を指す(p.76)」。 つまり岩石そのものを神とみなしたり、岩石が神の依り代となったりする信仰だけでなく、祭祀の中で石が使われたり、特に石を神聖なものとみなしていなくても特別な役割が与えられている場合をも含め、著者は岩石信仰と呼ぶのである。

著者は、岩石信仰を体系的に考察するための学問的基盤を作ろうとしているようだ。 

本書では、まずこれまでの岩石信仰の先行研究を整理する。この部分だけでも私には大変参考になった。本居宣長、柳田國男、折口信夫といった先駆者たちの業績、今では学界からは冷笑されているが当時は大きな影響を及ぼした鳥居龍蔵の巨石文明論、神社界から「イハクラ」を研究した遠山正雄、神道考古学を提唱し石神・磐座・磐境の概念整理をした大場磐男、その他民俗学や仏教学からの研究が手際よく紹介される。

そうしたこれまでの岩石信仰研究では、しっかりした学問的枠組みがないまま、自身が「見たいものを見る」式の研究が行われてきたきらいがあった。祀られている巨石をなんでも「 磐座(いわくら)」と見なしたり、それどころかたいして祀られていなくてもそれらしい岩を「 磐座だ」としてしまうようなところがあった。信仰とは外からは見えないものも多いので、研究者がそう言えば地元の人も「あの岩は磐座なんだ」と納得してしまう場合さえあったのである。

そうした反省に基づき、著者は非常に抑制的な態度で岩石信仰を見る。「巨石」とか「磐座」のような曖昧で価値判断を伴う概念を避け、ある程度はっきりと評価できる機能面に注目して岩石信仰を体系的に分類していくのである。

著者の分類では、A. 信仰対象、B.媒体、C.聖跡、D.痕跡、E.祭祀に至らなかったもの、という5つの大分類があり、さらにそれぞれが中・小分類に分かれていく。特にB.媒体は中分類・小分類・その細目があり、例えば「BABB.岩石の上に別の依代が置かれて祭祀される」とか、「BCA.神聖な空間や祭祀空間を示す岩石」といったような細かい分類がアルファベットを用いて規定されている。これは帰納的に作られた分類で、あまり信仰の内面に立ち入らないで構成されたものである。

もちろん全ての岩石信仰の事例がどれか一つのカテゴリに収まるというわけではなく、信仰はいろいろな性格を持っているのでBABB.でありまたBCA.である、といったようなケースも出てくる。そういう重複はありながらも、この分類は誰がやってもある程度似たようなところに決まってくるもののように感じた。けっこう優れた分類である。

ただし、この分類法の欠点は、BABB.とかBCAというようなアルファベットの羅列がわかりづらいことである。もうちょっとわかりやすい表示の仕方はなかったのだろうかと思ってしまった。

それはともかく、このような分類作業を行ってから、ケーススタディとしていろいろな岩石祭祀の事例を提出し、またそれが分類のどこに当たるのかを考察している。先ほど「誰がやってもある程度似たようなところに決まってくる」とは書いたものの、実際には信仰・祭祀がどのようなものであったのかははっきりとはわからない。何しろ、岩石そのものに霊性を感じていたかどうか、というようなことは当時の人に聞いてみないとわからないことで、しかも聞いてみたとしても人それぞれの考えがあったかもしれない。よって著者は様々な状況証拠からそれを考察しており、優れた分類があるからあとは当て嵌めるだけ、というような作業ではないのも事実である。

そしてケーススタディの部分は、当然だが事例列挙的であって、やや行き先を見失いそうになる部分である。どのような意図で提出された事例なのか最初に書いてくれているとわかりやすかったかもしれない。しかしながら、このケーススタディによって、著者が強調する岩石信仰の「多様性」の一端を垣間見ることはできる。

全体として、著者の目的と思える「岩石信仰を体系的に考察するための学問的基盤づくり」は十分に達成している。大げさに言えば、本書は岩石信仰研究の上で画期的なものである。

ただし本書は、著者自身が言うように「木や水などではなく、なぜ岩石を信仰したのかという根源的な問いに対する回答を用意できていない(p.313)」し、岩石信仰は日本人に何をもたらしたのか? といった思想史的な部分についてはほぼ全く手がつけられていない。だが、こうしたより深い研究に移っていくための基盤の部分までで本書を終わらせたのは、物足りない感じがする一方で好感も持った。あくまでも学問的な姿勢を崩さず、安易に「岩石信仰とは…」と語らないのが本書のよさである。今後のさらなる研究に期待したい。

なお、岩石信仰の分類では、石仏・磨崖仏・墓石のようなものは対象外になっているようである。石で作られる祭祀の道具といえば誰でも真っ先に墓石が思いつくし、本書でも紹介される大護八郎『石神信仰』、五来重『石の宗教』などの先行研究でも、そうしたものが「岩石信仰」の中心をなしている。石仏などはあくまでも素材としての利用だからということで省いたのだろうか。どのような整理を行ったのか記述してもらいたかったところである。

岩石信仰に学問的基盤を与えた画期的な本。

【関連書籍の読書メモ】
 『石の宗教』五来 重 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/05/blog-post.html
石仏を民間宗教の側から読み解く。石仏の奥にある、石自体の神聖性に着目した刮目すべき本。

 

2021年8月29日日曜日

『日本の歴史(9) 南北朝の動乱』佐藤 進一 著

南北朝時代がいかに始まり、いかに終わったかを述べる。

本書は、川添昭二(中世の九州を専門とする歴史学者)により「まさに完成された芸術作品をみる思いである」と評されたもので、南北朝の動乱を多角的に描き、その学問的骨格を与え、その後の南北朝史研究を触発した名著である。

確かに記述は平易であるにもかかわらず分析は深く、ややこしい南北朝時代を生き生きと描いている。が、私自身がこの時代にあまり詳しくないこともあり、とても内容が頭に入ったとはいえず、本を読み終わった今でも「一知半解」というのが実感だ。

というわけで、以下はその「一知半解」のメモである。

南北朝の動乱とは、大まかに言うと室町時代のはじめの方で、後醍醐天皇の「建武の新政」が瓦解してから、皇統が南朝・北朝に分かれて、それが再び統合されるまでの約60年間の動乱を指す。なぜそのようなことが起こったか?

後醍醐天皇は反鎌倉幕府の勢力をまとめ、1333年、幕府を打倒して天皇親政国家を樹立した(建武の新政)。その勢力の一人だったのが足利高氏だ。高氏は後醍醐天皇の名(尊治)から一字もらって「尊氏」に名を変えたのである。

しかし建武の新政はすぐさま瓦解する。後醍醐天皇が、異常なまでに天皇一極集中の政体を作り、法と慣習を無視した政治を行ったからだ。一方で、尊氏は庄園領主(これは今の言葉で言えば既得権益層とでもいえるかもしれない)の権限を認める保守的な考えを持っていたから、後醍醐の新政を歓迎しない勢力が靡くようになり、それを基盤として独自の権力を行使し始めた。それを反逆とみた後醍醐は尊氏討伐に打って出たが、激しい戦いの後に敗北した。

尊氏は後醍醐天皇と講和し、光明天皇(持明院統)を擁立。ところが、講和したはずの後醍醐は「そちらに渡した三種の神器は偽器(ニセモノ)である」といって、自らが正統な天皇であることを主張、吉野に潜行して独自の政権(南朝)を打ち立てたのである。元々、鎌倉時代の後半から、天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれて交互に天皇を擁立した(両統迭立)のであるが、後醍醐がこの無茶をやったお陰で持明院統と大覚寺統が完全に分裂し、北朝と南朝となるのである。

足利尊氏は、後醍醐のように明確な支配のイメージは持っていなかったように見受けられるが、弟の直義と権力を二分する両頭体制で政権を樹立(著者はそれを「建武式目」制定の時に置く)。 南朝が政権を奪還すべく果敢に攻勢してくる中、徐々に政権は整っていった。そして延元4年(1339)、後醍醐は12歳の後村上天皇に帝位を譲り亡くなった。1333年から僅か6年間。その間に護良親王、楠木正成、北畠顕家、新田義貞ら南朝の武将の多くは死んで、武家=北朝方の優位が確立するかに見えた。

が、動乱はまだ始まったばかりだったのである。

それは、南北朝の動乱は、単に権力奪取のゲームであったのではなく、その背景に様々な時代の変化が内包されていたからだ。特に武士の在り方がいくつかの点で鎌倉時代とは変わっていった。

第1に、鎌倉時代には御家人としてまとまっていた武士のまとまりがなくなった。それは、鎌倉幕府倒壊によって主従関係が解消されたからである。もともと武士は傭兵である。武士たちは誰を主人にしてもよかった。足利尊氏は征夷大将軍に任命されていたが、「征夷大将軍」とは象徴的な官名であるだけで、全国の武士には尊氏に従う義理はなかった。

第2に、そういう状態であったから、武士はより有利な条件を求めて分裂した。これはもちろん保険の意味もあった。南朝と足利政権のどちらが勝ち残るかわからないからだ。政治状況次第で武士団は分裂し、武士団が分裂することによってさらに政治が複雑になった。

第3に、武士の相続が、分割相続から単独相続になっていった。鎌倉時代の武士は所領が各地に分散していたが、これは動乱の時代には維持しきれなくなる。いつでも見張っていなければ横領の危険があったからだ。自然と所領は本拠地の一箇所になっていく。そのため、兄弟に分割する余裕はなくなり、単独相続に変わっていくのである。こうして、惣領制から家督制(←この用語は本書にはない)へ徐々に移行していくことになる。

第4に、戦い方も変わった。それを象徴するのが徒歩(かち)武者=歩兵の登場である。鎌倉時代の武士は騎馬武者であって一対一で戦うものだったが、南北朝時代には既存の、いわば「古き良き」戦いかたではなく、悪党的なゲリラ戦法が中心になってくる。そして槍が武器として使われるようになるのもこの時代である。集団的な戦い方、殲滅戦になってくるのである。

このような武士の変容を背景にして、足利尊氏と直義の争いである「観応の擾乱」が起こる。

もともと室町幕府は、尊氏は直接には政権運営を行わず、高師直(こうの・もろなお)を執事として、実務を直義が担う体制になっていた。

直義は日野有範(儒学を家業として王朝に使えた家)を幕府政治に参与させるなど儒教思想を好み、性格は誠実・真面目で、夢窓疎石との対話『夢中問答』でも有名なとおり仏教教理にも明るかった。

一方の高師直は、仏神や天皇を含め既存の権威を全くみとめず、合理性を至上とした、全く違ったタイプの執政官であった。この二人は当然のように対立し、武士団が二人を筆頭に分裂していくのである。

こうして、鎌倉幕府的な秩序の存続を願う勢力が直義に、それと反対の破壊勢力が師直=尊氏につき、さらに南朝がそれに加わって、「天下三分の形勢」にいたるのである。観応の擾乱は、高師直と足利直義が共に没落して決着し、尊氏の覇権が確立するものの、尊氏の非嫡出子で直義の養子になっていた直冬が新たな勢力となって「天下三分の形勢」は続く。

そして観応の擾乱後、またしても南朝が奇策を弄する。北朝から三上皇と廃太子を拉致したのである。こうして北朝は天皇不在の異常事態に見舞われる。皇位を与える資格がある上皇すらいないのだから、北朝としては天皇を新たに立てるのも不可能になった。天皇不在の王朝はありえないため、自然と北朝は解消されると南朝は考えたのだろう。

ところが北朝は、これを常識外れのウルトラCによって克服する。広義門院が上皇の代わりとなって神器の代わりに神鏡の容器(小唐櫃)をつかい、後光厳天皇を擁立したのである。広義門院は後伏見天皇の妻で、また花園天皇の准母(名義上の母)であったが皇族ですらない人物だ。北朝は苦し紛れにありえない方法で天皇を擁立したため、天皇の権威低下は避けられなかった。

14世紀後半、畿内では南朝が低調になった一方、九州では南朝方が興隆する。それには、延元元年、8歳で征西大将軍になりたった12人の従者とともに九州に下向した懐良親王が関わっていた。九州では、郡司系の土豪が守護からの圧迫に耐えかねて南朝に帰属したのである。九州には筑前の少弐、豊後の大友、薩摩の島津という強大な守護がいたため、これに対抗するために「敵の敵は味方」方式で土豪たち(鹿児島では「国人」という)が南朝についたのである。

また、足利直冬も九州に移り、少弐頼久に迎えられて幕府党が直冬に応じたため一時は強大な勢力となったが、直冬はやがて南朝に転じて影響力を失うこととなる。ちなみに少弐頼久が直冬を迎えたのは、全九州の軍事指揮官=鎮西大将軍である一色道猷を排除しようとした思惑があったようだ。九州でもいろいろな勢力が競い合うことで「天下三分の形勢」が出来したのである。

ところで、南朝の最高指導者にあたる立場だったのが北畠親房(ちかふさ)である。彼は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を著し、王朝の絶対性を主張することで武士を説得しようとした。彼の論は、武士に対し南朝に帰順する利益(官位がもらえるとか)を説くものではなく、利益を度外視して王朝に尽くせという主張だったので当時は形勢を変える力を持たなかったが、むしろ後世に影響を与えた。

文和4年(1355)、幕府は三度の京都奪回に成功してほぼ勝敗の帰趨が明らかになった。ここからは天下三分の残した課題に答えようとする幕府の苦闘の歴史となる。延文3年(1358)、尊氏は死んで、その子の義詮(よしあきら)の時代となったが、同年、義詮に男子が産まれる。南北朝動乱を終わらせる足利義満の誕生であった。

幕府の苦闘は、第1に政権の組織をどう組み立てるのかということと、第2に庄園領主と武士(守護)間をどう調停するかということに主眼があった。

第1の点は、両頭政治によって混乱したことの反省を踏まえ、権力を一元化することが図られた。具体的には、執権の在り方が変わった。執権はかつては将軍の補佐官・秘書であったが、幕府は執事の地位・権限を強化し、幕府の支配機構を一元化した。これによって執権は「管領」となっていった。これは今風に言えば官房長官のようなものになったのだと思う。

第2の点は、そもそも南北朝の動乱の根っこにある問題だった。それを象徴するのが、「半済(はんぜい)令」である。これは、庄園・国衙領の年貢の半分を守護が兵粮米として徴集できる法である。長引く戦争の費用を捻出するために守護は税金の5割を取ったのである。「半済令」の問題は、幕府は全国に領域的支配権を確立していたわけではなかった、ということにある。

つまり本来的には幕府の支配領域ではない国衙・庄園に守護が税金をかけていた。庄園領主、すなわち寺社がこれに反対するのは当然である。しかし戦乱が続く限りその費用はどこからか出さなくてはならない。守護職には所領が付属していたとはいえ、所領と遠く離れた戦地で全ての戦費を弁済するのは難しかったので、寺社勢力と対立してでも各国で「半済令」が乱発された。

本書には詳らかでないが、もしかしたら守護の収支を考えてみると、戦乱が続いて「半済令」が適用できる方が利益になったのかもしれない。戦時の特別税である「半済令」を使えるよう、むしろ守護は戦乱の収束を願わなかったのかもしれないと思った。

それはともかく、「半済令」はあくまでも戦時の特別説である。よって幕府の覇権が確立し、戦乱が収まってくると幕府はそれを禁止した。つまり幕府は寺社を保護し、守護以下の武士の抑圧したのである。ではなぜ幕府は同胞である守護ではなく、むしろ社寺を保護したのか。

それは、庄園領主=寺社本所と守護勢力の均衡の上に幕府が成り立っていたからである。この二つの勢力がせめぎ合い、そしてそのバランスを取ることに幕府の存在価値があった。守護が強くなりすぎるのも困るのである。

もともと、「守護」とは一国の軍事指揮官であり、幕府はそれを吏務職(りむしき=役人)化したかった。直義は「国を治める能力があるものが守護を務めるべきで、恩賞として守護を与えるべきではない」と至極真っ当なことを言っている。

一方で守護の方では幕府から独立した勢力を打ち立てたかった。しかし守護というのは一国の運営全てを担うのではなくあくまでも軍事指揮官である。つまり領域的支配権(土地の支配権)があるわけではない。よって土地の実権を持っている庄園領主を徐々に圧迫する形で統治権を広げて行った。守護は庄園制に寄生したといえばいいのかもしれない。そして本来は国衙(国司)が持っていた国検(検地)の権利も守護が奪取したものと見られる。こうして、国衙領や国衙の実務を守護が奪うことで、一国の主としての守護の支配体制が出来上がっていった。それを「守護領国制」と呼ぶ。

よって第2の点、庄園領主と武士(守護)間をどう調停するか、ということについては、幕府は庄園領主を保護する政策を行ったものの、結局は守護の力が自然と強くなっていったということになる。1360年代が守護領国制にとっての画期であり、応永(1394〜1428)あたりには守護職は一家相伝のものに変質してしまった。ちなみに国司は自然消滅したようだ。

なおこの時代、庄園の在り方も変わっていった。多くの庄民が寄合に参加する庄民結合あるいは村落結合が出現する。少数の支配者が村落を治めるのではなく、庄民の結合が庄園=村の実体となり、それが法人格的に扱われるようになったのである。

このように多くの変化を内包しつつ、足利義満の治世になって、南北朝の動乱は終結する。

義満は、管領・侍所・直轄軍をそれぞれ将軍直属にするなど幕府の権力を将軍に一極集中させた。また奉公衆(将軍直属の高位の武士)を将軍の直轄領の代官にする制度をつくるとともに、将軍家を頂点とする家格の固定化を行った。

また、衰微していた南朝と和睦し、実質的には吸収合併に近い形で南朝を接収した。

義満は王朝に強い関心を示しており、早くから異常な早さで官位を進めて太政大臣に昇りつめ、しかもそれをすぐに辞任した。義満は無力な公家をバカにしていたらしいが、それと距離を取るのではなくて、公家のルールを逆手にとって形式的にその上位に立つという老獪さを持っていた。義満はさらに出家によって聖俗の身分を超越し、武家・公家の上に超然と立つ立場へ自らを置いた。義満は自らを天皇に擬していた。

そして、統治の最後の仕上げが九州の統一であった。この頃の九州は、管領・細川頼之によって九州探題として派遣された今川貞世(了俊)が九州を制圧する勢いだったが、守護たちとの諍いによって混乱している中でもあった。九州が中央にとっての大きな政策課題になっていたのは、九州は対中国貿易の窓口となっていて、その実権を奪い合っていたからで、事実、今川了俊はこの時期に盛んになっていた倭寇=海賊衆の力を借りていたのではないかという。

しかし、1368年に成立した明は、自由貿易を禁止して朝貢貿易のみに一本化する政策を実施(1371年、海禁令)。義満としては自由貿易か対等な形での貿易を行いたかったようであるが、明がそのような方針である以上、明に朝貢するという臣下の礼をとる以外には貿易ができない。そこで義満は今川了俊を解任、それによって大内義弘が力をつけて反乱を起こしたがそれを鎮圧。このように九州を直接平定し、応永8年、明帝に臣下の礼をとった。

そして明は、天皇ではなく義満を「日本国王」と認めたのである。これは対外的にはもちろん、国内へ向けても、義満が完全な支配権を確立したことを明のお墨付きで示した画期的なことだった。このようにして室町幕府の覇権が確定したのである。

南北朝の動乱全体を通じて私が感じたのは、武士の支配にあたって問題を複雑化させたのが「所領給付」にあったのではないかということだ。そもそも鎌倉幕府の成立にも所領の問題が大きく関わっているのであるが、鎌倉幕府がなくなってしまったことでその問題が蒸し返された観がある。所領が武士の働きの見返りである以上、戦乱が起こればかならず土地が必要になる。一方で、幕府は土地の支配権の獲得によって成立した統治機構ではない(「征夷大将軍」という軍事指揮官としての統治機構である)ので、そこにどうしても矛盾が生じるのである。

しかもこの時代、幕府の財政の中心は土地からの年貢ではないようだ。そもそも守護は別として、幕府自体は年貢をとっていないように見える。幕府は、営業税や貿易による利益、つまり商業を手中に収めることで収益を得ているような感じである。だから守護以下の家臣団と幕府の双方の思惑は、何かちぐはぐな感じがぬぐえないのである。

そうした考察は本書にはないので私の勘違いなのかもしれないが、幕府と家臣団の双方の財政構造はもうちょっと詳しく知りたいと思った。

南北朝時代の優れた概説書。

 

【関連書籍の読書メモ】
『観応の擾乱—室町幕府を二つに引き裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田 俊和 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/03/blog-post_8.html
観応の擾乱を丁寧に解きほぐす本。『南北朝の動乱』とは違った視点で足利尊氏を描いている。

『中世奇人列伝』今谷 明 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post.html
中世における、知られざる6人の小伝。広義門院による天皇擁立というウルトラCについて詳しく述べており非常に面白い。

『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。寺社勢力が公家・武士と並ぶ権門であったことを明らかにした名著。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。南北朝時代の鹿児島の状況に詳しい。

 

2021年7月31日土曜日

『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳

不朽の女性論。

『第二の性』は哲学者ボーヴォワールの主著である。彼女は1949年という早い時期にフェミニズム運動の先駆けとなる本書を発表した。彼女自身が、哲学者のサルトルと恋人同士でありながら婚姻も子供を持つことも拒否し、互いの性的自由を尊重しつつ共同生活するという新しい時代の女性観・夫婦観の実践者であった。

『第二の性』は、第1巻「事実と神話」第2巻「体験」によって構成され、原語(フランス語)版で1000ページ以上にもなる大著である。この生島遼一訳では、第2巻「体験」の方から訳出されており、本書は「体験」3分冊のその1である。

その内容は、あまりにも有名な冒頭「人は女に生まれない。女になるのだ」が象徴する。男が作った、男が実権を持つ社会の中で、女は少女時代から老年に至るまで副次的な役割だけが割り振られるという「第二の性」に甘んじなくてはならない。(セックスではなくジェンダーの)「女」は生得的なものではなく、社会によって作られたものなのだ。

幼児期は男女の区別はさほど厳しくないが、少女時代になるといろいろな点で女の子は行動に制限が加えられる。女の子は木登りなんかしない方がいいとか、ズボンをはくべきじゃないとか、そういう些細なことから区別は始められる。

そして少女は、自分は人生を主体的に生きることができない「第二の性」なのだということを理解するようになる。最も野心に富み、自らの可能性を開花させていきたいという欲望を持つ若者の頃に、そういう残酷な現実が少女に降りかかってくるのである。女性は自分の可能性を十分に発揮することが許されておらず、あくまでも男の付属品として生きなければならないという現実に。「少女は大人に変形するためには、女性なるがために課せられる狭い限界のうちにちぢこまらなければならない(p.87)」のである。

もちろん、本書執筆の時点(約70年前)においても、ボーヴォワールを含め自らの信じた道を突き進む女性はいた。女性であっても仕事中心の生き方をする人は皆無ではなかった。しかし一方で、その女性たちは、結婚や出産といった(ある意味では唾棄すべき役割だったとしても)世間並みの幸せを諦めなくてはならなかった、というのも事実だったのである。男たちは当然のように仕事も家庭も手に入れているのにだ。

しかも、女性が男性の付属品として生きる――つまり子供を産み、それを育てるという役割を男のために果たす――のは、自分の自主性を押し殺すのを別にしても、楽ではない。なぜなら、女性は値打ちある男に気に入られなくては、値打ちある女になれない。そして男に気に入られるためには、たいていの場合は可愛さ以外のことは評価されないからだ。「王女さまだろうと、羊飼いの娘だろうと、愛と幸福を手に入れるためには、きっと美しくなければならない(p.47)」のである。

男の場合は、スポーツや勉強、面白い話、リーダー性といったいろいろな観点で女性から評価されるのに、女性の場合は、そうした長所を持っているだけでは十分ではなく、さらに美しくなければ男性から評価されない。しかも、しばしば「あまり教養があるのや、あまり賢いのや、あまり個性的な女は、男たちを恐がらせる(p.117)」。

だから女性は、時としてあえて堕落したり自分を傷つけたりすることで世間に反抗してみたりもする。だが「若い娘は――特に不器量者でないかぎりは――けっきょく女らしさを受諾する(p.168)」。自分が主体になるのを諦めなければならないにしても、大部分の若い娘にとっては、「まじめな恋人・夫」を手に入れることが結局は有利だからだ。

それに若い娘がおしゃれをすることは、単に男性に媚びを売っているだけでもない。自分を美しくしつらえることは、それ自体が喜びであることも多い。また若い娘は(空想的な)「まじめな恋人」を夢想することも多いが、それも一つの遊戯であり、別にそういう男を手に入れるための「取引」を肯定しているわけでもない。しかし長い目で見れば、女性は「自主的個体」であることを諦め、男性に気に入れられる客体(モノ)となる選択をせざるをえないように追いつめられ、むしろ「受け身のかたち」で成功することが女性の夢となっていくのである。

こうして女は作られていく。だがもちろん、それは男性にだって言えることだ。男性だって、「男」として与えられた役割をこなさなくてはならない。でも歴史を顧みれば、重力を発見したのも、アメリカ大陸を発見したのも、憲法を作ったのも男だった。「男だって苦しんでいる」のが事実だとしても、ジェンダー(という用語は本書にはない)が平等でないのは明らかなのである。

本書は、「第1章 幼年期」「第2章 若い娘」「第3章 性の入門」「第4章 同性愛の女」で構成され、以上は第1章と第2章の内容である。第3章からは、発表当時かなりスキャンダラスに受け取られた(批判が殺到した)ところで、女性の性について率直に語られている。月経の問題などは最近になってようやく世間がボーヴォワールに追いついてきたと感じた。一方、女性の性欲についての論考は、当時は衝撃をもって受け取られた(そのおかげで本書はベストセラーになった面もある)のであるが、現代から見ると穏当である。

女性の性について多角的に述べる中でも、特に「冷感症の女」の話題が長かったように感じた。つまり性の快楽を感じない女がいるのはどうしてかということで、処女が暴力的に奪われる場合が多いこと、夫や恋人の冷たい態度、モノとして扱われることなどをその原因に求め、「冷感症」を改善させるためには、性の技巧ではなく「肉体と精神との両面の相互的な思いやり」が大事だと結論付けている。

また当時としては「第4章 同性愛の女」もかなり先進的である。若干時代を感じさせる部分もあるが、同性愛を(「正常」と対置する)「変態」として扱わなかったのは慧眼だと思った。なお本性は「同性愛」自体を考察するものではなく、同性愛の女はどうして存在するのか、ということを入口にして、女性のおかれた苦しい状況を再確認させるような内容だ。

女性は、様々な面で男性に比べ苦しい立場に置かれている。にもかかわらず、彼女は弱さを 武器として魅力として生きなければならない。女性は、主体的に戦うことを奪われているのである。ボーヴォワールは本書執筆の後に女性解放運動に加わるが、本書には女性の闘争を呼びかける要素はほとんどないのに、女性が不当に受動的な社会的役割を押し付けられていることを緻密に論証することでその戦いの土台を作っていたといえる。

なお本書は、ほとんど改行がなく切れ目なく話題が続いていく形式(小見出しなどがない)であるため、現代の読者にはちょっと読みづらい。議論がどこへ向かっているのかよくわからない哲学者的な書き方である。それに、やはり70年も前の著作であるため、女性のおかれた立場も今とは少し違う。だが70年経っても、むしろ全然変わっていないところも多いのである。それは、生殖は女性にしかできない、という普遍的な前提があるためだ。だからこそ両性の不平等を是正していかななくてはならないのに、ボーヴォワールの頃とさほど変わっていない日本の状況にも暗澹たる思いがした。


2021年7月29日木曜日

『ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き』オットー・ビーバ、イングリード・フックス著、小宮 正安 訳

ウィーン楽友協会の歴史を述べる本。

「音楽の都」ウィーン、その近代音楽シーンの中心にあったのがウィーン楽友協会である。ウィーン楽友協会の誕生以前には、音楽家が公に作品を発表する場合、自らが興行主となって演奏会を企画するしかほとんど道はなかった。つまりこの頃の「クラシック音楽」の在り方は、今のロックやポップスと似ていて、音楽家本人が会場手配・広告・チケット売りさばき・共演者手配・チケットもぎり…といったことを差配しなくてはならなかったのである。こうした演奏会開催の実務を引き受ける企画者がウィーン楽友協会であり、その誕生には画期的な意味があった。

ウィーン楽友協会の誕生以前も「音楽愛好協会」という団体が定期演奏会を開催したことはあったが、ナポレオン侵攻によって活動は頓挫していた。

やがてオーストリアがナポレオン軍に勝利すると、1812年、その戦勝や被災者の救援を目的に大演奏会が行われ、それがきっかけになってウィーン楽友協会が設立されることになる。この団体は単なる音楽の興行団体ではなくて、政治的な意味、愛国的な意味を付与された存在だった。それは当時のオーストリア皇帝フランツ1世の弟ルドルフ大公が楽友協会の名誉総裁を引き受けていたことからも明らかである。

オーストリア帝国はヨーロッパの新秩序の建設にあたり、芸術の力を政治的な立場の強化に活用しようとしたのである。

しかしウィーン楽友協会が政治的な使命を帯びた御用団体だったかというと、そうでもなかったのが面白いところで、この団体はまずディレッタントの集まりとして誕生する。つまり職業的音楽家は会員になれず、音楽を趣味とする人(多くは貴族)による音楽サークルみたいな存在だった。

彼らにとって音楽はあくまでも趣味であるために却って真剣であり、協会の活動方針は「音楽を高い水準で広めることこそ協会の主目的であり、協会員がみずから演奏したりそれを聴いたりすることは、副次的な目的である」とされていた。またこのために資料館と音楽院が併設され、その収蔵品と教育の水準も非常に高かった。 

ところでウィーン楽友協会といえば、毎年お正月に演奏されるニュー・イヤー・コンサートの会場である「ウィーン楽友協会大ホール」が有名だ。実は楽友協会がコンサートホール(1831年建設の初代ホールは現存せず)を作るまで、ウィーンにはコンサートホールというものは存在していなかった。先述の1812年の大演奏会も、王宮内部のスペイン乗馬学校乗馬ホールを借りて開催されたのである。

現在のウィーン楽友協会会館が完成したのは1870年。ウィーンは1848年に革命が起き、その鎮圧からの政治的混乱、そこからの復興の気運の中での新会館の建設だった。革命後、楽友協会の活動が低迷し借金漬けになっていたところ、カルル・チェルニーが遺産を協会に寄贈したことをきっかけにして経営が好転し、皇帝から土地を下賜(無償寄贈)されて建設したのが現会館である。

日本ではコンサートホールというものは公共の施設として建設されるものがほとんどだと思うが、ウィーンでは政治とは近かったとはいえ民間の団体が最初の音楽ホールを建設したというのが、国の在り方の大きな違いを感じさせるところである。

ところで話が逸れるが、今の日本の小都市には結構コンサートホールがある。例えば鹿児島だと姶良市の「加音ホール」、霧島市の「みやまコンセール」などは有名だ。だがモーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンが活躍していた時代のウィーンには、コンサートホールがなかったというのだから驚きなのである。彼らが人類史に燦然と輝く珠玉の名曲を作っていたのは、コンサートホールすらない頃だった。今の日本では立派なコンサートホールがそれこそ日本中にある(もちろん世界にも)。にも関わらず第2のモーツァルトやベートーヴェンがどんどん生まれて来ないのはなぜなのか。本書を読みながら文化の在り方について考えさせられた。

本書には協会の歩みの他、「楽友協会と演奏会」「楽友協会音楽院」「ウィーン楽友協会資料館」について述べており、それぞれ興味深い話題が盛りだくさんである。特に音楽院に無試験で入学を許された上、さまざまな特別扱いを受けたマーラーの話と、家族がいなかったので協会が葬儀を行い、貴重なコレクションが遺贈されたブラームスの話が面白かった。

しかし本書にはちょっとした弱点がある。それは著者が協会の資料館館長・副館長なので、どうしても内容が宣伝というか自己紹介的になっていることである。よって本書はジャーナリスティックではなく、いいところだけを切り取ってまとめたような箇所がある。また創設の事情なども、どうも説明がボヤッとしていて、書き方が明解ではない。

関係者が書いているために貴重な情報が開示されている一方で、見栄えの良いところだけをまとめたような部分もある社史的な本。