2016年12月16日金曜日

『快楽主義の哲学』澁澤 龍彦 著

澁澤龍彦が説く、快楽主義のススメ。

本書は、澁澤龍彦の著書としては異端の本である。いや、異端だらけの澁澤の書いた本の中で、異端ではない、という意味で変わった本である。

というのも、本書は初め光文社の「カッパ・ブックス」から刊行された。これは、要するに大衆向けの新書シリーズである。このシリーズがきっかけとなって第一次新書ブームがわき起こったほど、ここからミリオンセラーがいくつも生まれた。

高踏、無頼で聞こえた澁澤龍彦が、こういう大衆的なシリーズで本を書くということ自体がかなり奇異なことである。澁澤がどうしてこういう大衆路線で本を書いたのかというと、自宅を新築するための金策であった、と本人が述懐している。

そんなわけで、著者としてはこの本はあまり好ましいものではなかったようだ。全集に収めてほしくないという意向もあったそうである(でも結果的には収録された)。澁澤のファンからすれば、あまりに軟らかい語り口に拍子抜けする部分もあるし、世の中のトレンドに迎合しているような書き方に落ち着かない気持ちにもなる。あの、耽美的な澁澤はどこへ行った? と感じよう。

しかし、その内容は決して大衆迎合ではない。著者の博覧強記は、いつものように縦横無尽に古今の挿話を開陳する。特に「快楽主義の巨人たち」の章は、ディオゲネス、李白、アレティノ、カサノヴァ…と古今の傑物たちを著者なりの視点でいきいきと紹介しており読み応えがある。

本書の内容としては、まず快楽主義とは何かを解説し、東洋と西洋の快楽主義を比較検討してひとまず西洋のエネルギッシュな快楽主義を中心的に取り上げながら、そうした究極の快楽主義が東洋的な禁欲主義に漸近していくという逆説を展開、そして力強い快楽主義的な生き方を勧めるものである。

ただし、本書が勧める快楽主義は、時代の方に追い越されていった。本書が初出した1965年といえば、60年安保があり、60年代後半からは全共闘運動や大学紛争が起こっていく時代で、若者は今から考えると真面目すぎるくらいであったが、その後のバブル景気を経ると、世の中は軽薄な快楽主義に覆われていった。著者が説く力強い快楽主義の勧めよりも時代はさらに先を行き、その場しのぎのお気楽な快楽主義が蔓延ってしまった。

そういうワケであるから、著者の主張は普遍的な内容をもちながらも、本としては、その前提となる時代背景が全く変わってしまったので、ちょっと古びた感じがするのは否めない。とはいっても、澁澤の本としては、非常に取っつきやすい部類に属するので、一種の「澁澤入門」として機能する本になっていると思う。

快楽主義の勧めは今となっては空回り気味だが、内容は充実した気軽な澁澤龍彦入門書。

2016年12月5日月曜日

『鹿児島の勧業知事—加納久宜小伝』大囿 純也 著、加納知事五十年祭奉賛会 編

明治時代に鹿児島県知事を務めた加納久宜(ひさよし)を振り返る本。

鹿児島県民なら、旧県庁跡地に加納久宜を顕彰する石碑が建っていることを知っている人が多いだろう。でも、意外と何をした人かはあまり知られていない。私もそうだった。それで手に取ったのが本書である。

加納久宜は、筑後柳川藩の藩主立花家に生まれ、8歳の時に父母を亡くしたが、19歳の時に養子となって一宮藩(今の千葉県の一部)の藩主として迎えられた。この藩主、幼い頃から勉強が嫌いで、かといって腕白というわけでもなく、どちらかというと虚弱な頼りない幼少期を送ったが、維新後はフランス留学を志したり(結局周囲の反対で行けなかった)、学校長になったり法律には素人ながら判事になったりと天衣無縫の働きを見せた。

その精力的な働きぶりを買われ、鹿児島県知事に任命されたのが明治27年1月20日のことであった。

その頃の鹿児島は、西南戦争からの混乱が続いており、特に県庁は民党・吏党の争いでマトモに機能していなかった。民党・吏党の争いというのは、今風に言えば与党・野党の争いであるが、どちらかというと「赤狩り」に近い。県庁では、民党臭いとされた職員はクビにされ、学校の教員すらも民党に肩入れするということだけで、即刻クビにされた。警察はその総本山で、スパイや密告が暗躍し、民党弾圧の中心組織となっていた。こういう次第であるから本来県庁が担うべき普通の仕事は全然遂行されない。加納知事の最初の仕事は、この狂った県庁をあるべき姿に戻すことだった。

加納は、まず警官の待遇改善に着手する。待遇が悪いことがモラル低下をもたらしているのではないかとの考えだ。働きのよくない職員はクビにする一方で、果断なベースアップを実施して仕事のやりがいを高めた。これで民党・吏党争いの牙城だった警察が正常化し、県庁は落ち着きを取り戻していった。こうして、県政史上名高い加納知事時代が幕を開けたのである。

加納の業績は大まかには次のようなものである。
  1. 原始的な方法で行われていた鹿児島の農業の生産性の向上。
    • 米の大幅な増収と品質のアップ。そのための正条植えの普及、肥料製造の指導、農業指導士の派遣や農会・農事小組合の整備、排水改善(土壌改良)事業。
    • 柑橘類の栽培振興。東京農林学校の玉利喜造をポケットマネーで招き、「薩摩ミカン」などの優良品種を普及させるため私費を投じて柑橘園を開き、苗の生産を行った。
    • その他、茶業、酪農、馬の生産などにも足跡を残す。
  2. 漁業振興、特に遠洋漁業の開拓。製塩業の近代化、薩摩焼の熟練陶工の育成など各業界での勧業事業。
  3. 教育水準の向上。
    • 全国平均を下回っていた学齢児童の就学率を向上させるため、教育組合など組織面を充実させると共に、就学することが親にとっても得になる仕組みをつくり、女児の就学を推進するための保育体制の充実にも取り組んだ(女児は下の子の面倒を見なくてはならないことが多いことから)。
    • 小中学校の整備に加え、造士館の第七高等学校(現・鹿児島大学)昇格、鹿児島市立商業高校(現・鹿児島商業高校)と鹿児島市立女子興業学校(現・鹿児島女子校)の創設など、学校の整備を進めた。現県図書館も加納の設立。
  4. 当時はまだ珍しかった数千トンクラスの貨客船が接岸できるようにする、鹿児島港の大改修。
そして加納は、こうした施策を推し進めるにあたり、徹底した「干渉主義」をとった。各種団体の長を知事が務めるようにし、業界のやり方にことあるごとに口を出したのである。しかも、加納はかなり事細かに指示を出した。今から考えるとちょっと度を超したようなところもあるが、目指すべきものが分からなかった鹿児島の民に、確かな指針を与えたのは大きな功績だ。

しかも、自分の「干渉」が十分に理解されないと悟るや、皆が具体的に見て理解できるように彼は率先垂範して自ら私財を投じて事業を興した。ミカン園はその一例であるが、私費で育成した苗木が盗まれた際、彼は自分の目論見が浸透したことをむしろ喜んだというから、この身銭を切った事業は決して利益を目的としたものではなかった。

それであるから、身内からは県知事の仕事は「勧業道楽」とまでみなされた。鹿児島の勧業のために身銭を切ってばかりいるものだから、加納はどんどん借金をつくってしまっていた。それも、今の資産価値でいうところの億くらいの借金があったみたいである。

加納が知事を辞めざるを得なくなったのも、これ以上借金を増やしたくないという身内の意向も随分あったようである。ただし辞任の直接の原因となったのは、鹿児島港の大改修で、あまりに改修の規模が大きすぎて周りがついて行けなくなり、この重要事業が理解されないのならと、加納はさっさと辞表を書いてしまった。

しかし加納は、干渉主義とワンマン経営なところはあったが、多くの人に敬慕される存在となっていた。旧藩主なのにもかかわらず気さくな人柄で、身分を問わず人の話をよく聞き、出張も必要最低の随行員しかつけずに貧乏宿にも泊まった。県内を隈無く巡村して実態を調査しており、ワンマンとはいっても決して思い込みで政策を決めるのではなかった。そんな加納だったから、辞表を出しても辞任反対の運動が起こった。ならば鹿児島港が出来るまでは知事を続けようということになり、実際改修の工事計画が出来上がってから彼は鹿児島を去ったのである。

鹿児島を去って後のことについては、本書では簡単にしか触れられていない。こういう果断な人物であったから各所から引き手数多で、しかも乞われて赴いた場所場所でそれなりに大きな仕事を成し遂げている。それでも、加納の心にずっとあったのは7年間の鹿児島県知事生活のことだった。晩年の家族の話題は鹿児島のことばかりだったという。「もし我輩が亡くなっても鹿児島のことで何か話があったら冥土に電話せい」が口癖だったそうである。加納は生涯、鹿児島の発展を願い続けたのである。

2016年11月20日日曜日

『知られざる傑作―他五篇』バルザック著、水野 亮 訳

バルザックの短編6編。

バルザックも、いつか読もうと思っていながら今まで手を出さなかった作家の一人である。『人間喜劇』——これはバルザックの作品の集成で、一つ一つ独立してはいるが、共通の世界観や登場人物によって構成される絵巻物的なもの——の厖大な世界を前にすると、足がすくむというか、気軽に手を出すことを峻拒されているような気がして、今までバルザックを視て見ぬ振りをしてきたのだった。

しかしそういう気負いを感じる年齢でもなくなってきたので、かえって気軽な気持ちから、短編でも読んでみようか、と手に取ったのが本書である(本書の内容も、『人間喜劇』に包摂されている)。

私は、基本的には古典と前衛的な20世紀文学が好きで、19世紀の文学というと「いかにもな話」という目で見るようなところがあり、これも若い時分に読んだら斜に構えて読んでいたかもしれない。しかし今になって見ると、こういう「いかにもな話」にも力があることを再確認させられ、19世紀文学もいいじゃないか、と思うようになってきた。

本書に収録された短編に通底するテーマを挙げるとすれば、それは「執着」である。ここに描かれた人物たちは、みな何かに対して強烈に執着している。表題作の『知られざる傑作』では、理想の女性を描くために10年を費やし、しかしそれでも理想へと到達できないことに絶望して自決する老画家が出てくるが、芸術に対する偏執狂的なまでの執着は、見ていて痛々しいほどである。

そして、非常に心に残った作品が『ざくろ屋敷』。これは不治の病に冒されたシングルマザーの母親が、せめて死ぬまでの短い間に子どもたちに最高の教育と環境を与えたいと願い、「ざくろ屋敷」に自分と子どもたちだけのユートピアをつくり上げ、そして死んでしまうという話。子どもたちへの執着、そして劇中では詳らかにされないが、別れた夫との諍い(おそらくは不倫関係?)への執着がありつつも、近い将来訪れる自らの死はそれらの執着を無にしてしまう、という一種の諦念がスパイスとなり、彼女の心象風景を複雑なものにしている。

この2作に限らず、本書に収録された短編は、登場人物の感情が劇中を強く照射して輪郭をはっきりとさせ、ぐいぐい引き込まれるような作品になっている。しかも、その感情は直接的に描写されるというよりも、ふとした仕草、持ち物や住居の具合、一瞬の戸惑いといったものによって表現されており、そのエピソードの作り方が実にうまい。

良質なエンターテイメントであり、また人間観察や歴史巻物としても楽しめる良質な短編集。

2016年11月8日火曜日

『陽気なヴッツ先生』ジャン・パウル著、岩田 行一 訳

ジャン・パウルの短編2編。

ジャン・パウルは、ドイツ散文芸術の大先達と讃えられているというし、ドイツの作家ではジャン・パウルに影響を受けた人はたくさんいるらしい。全集は数十巻に及ぶという。だが、日本ではほとんど翻訳されておらず、読まれていない。生粋のドイツの文学だから「日本人には理解不可能」とすら言われているくらいである(最近は、ドイツでもあまり読まれていないといわれているが)。

とても読みにくいというその前評判は聞いていたが、実際に本書を手にとって合点がいった。

この2編にも一応ストーリーはあるのだが、筋書きに関係あるようなないような雑談のような話が多すぎて、すぐに話を見失ってしまう。「で、今何が話題なんだっけ?」と分からなくなる。

そんなわけで、最初は読み進めるのに骨が折れた。だがこういう本にも「読み方」というのがあるもので、その「読み方」を心得ると意外とスムーズに読んでいけるものである。

ジャン・パウルの本は(というより、この『陽気なヴッツ先生』は)、それあたかも田舎の人間のとりとめのない立ち話と思って読むべきなのではないかと思う。「で、結局なんなんだ?」と思ってはいけない。おしゃべりそのものが娯楽という田舎の世界で、ただその場しのぎで思いつきや下らないダジャレをしゃべるのが立ち話というものだが、そういうものとして読むのである(ジャン・パウルの作品自体が思いつきで書かれているというわけではない)。

もちろん、話の筋というものはあるし、社会風刺のようなものもある。それどころか、文学的な問題提起と呼べるものすらある。例えば、『陽気なヴッツ先生』は、極貧の中でも自分の内面世界を充実させることで幸福な人生を生きた(と語り手に評価される)男の話であるが、幸福というものを貴族や大金持ちが独占していた時代に、「個人の内面」というそれまで評価の対象になりえなかったものを浮かび上がらせたということがこの作品の文学性だと思う。

しかしそういう理念的なことに着目しながら読んでも、なかなか作品世界に没頭することができない。それよりも、「ふーん、そうなんだー」くらいの気持ちで読むべきである。基本的には、田舎の立ち話なんだと思って、時間つぶしに付き合うくらいのゆったりした気持ちで向き合わないといけない。

そういう意味では、 日本人には理解不可能、ということは全然なくて、ただ現代日本のせわしい都会生活の中では読み通せない作品というだけなのかもしれない。ジャン・パウル自身がドイツの中で後進的な田舎の地域に生まれ、田舎の世界で一生を生きた人らしいから、その息づかいは(書かれていること自体は先進的、観念的なものであったとしても)田舎っぽい土着性があるように思われる。

収録されているもう一つの短編は『シュメルツレの大用心』というもので、これは実際には小心翼々としながら自分の中でだけ剛胆なシュメルツレという男が、臆病ゆえに解雇された従軍牧師に復帰させてもらうべく上司(将軍)に請願をしにいく話。これも話の筋は一応あるものの、とにかくシュメルツレ(と作者)のあれやこれやの随想に付き合わされる。それをいちいち頭の中で整理していたら、どうでもいいことに振り回されて逆に話が見えてこない。そういう雑然とした作品である。

しかしそのテーマはやはり「個人の内面」であって、行動はしょぼいが頭の中ではやたら小難しいことを考えているシュメルツレという男の頭の中を覗き見るという趣向なのだ。

ジャン・パウルが生涯追い求めたテーマは「自我」だったという。そして、彼は「自分の生が即文学である」と確信していた。つまり日本文学で言えば、彼の作品は「私小説」的であり、そこにストーリーテリングを期待してはいけないのだ。登場人物の内面のあり方そのものが、ジャン・パウルにとっての文学なのだろうと思う。

2016年11月1日火曜日

『南洲残影』江藤 淳 著

西郷隆盛は、なぜ西南戦争を戦わなければならなかったのかを考察する本。

西郷隆盛に関する本は、最初から西郷賛美を決めてかかっていることが多い。あるいは、西郷といえども、そんなたいしたものではなかったのだ、と言う逆の態度か。つまり、彼について語る時、人はなかなか客観的になれない。何があったか、歴史がどうだったか、という語り手に徹することができないのだ。どうしても、西郷をどう評価するか、という自分の内面が出てしまう。

それくらい、西郷隆盛という人物は、死してなお、我々に歩み寄ってくる存在である。

江藤淳は、その西郷南洲を適度な距離感で語りはじめる。南洲(西郷の雅号)の詩、彼を語った勝海舟の詩、薩摩琵琶の歌……、そうした文学の行間から、西郷の存在を浮かび上がらせる。勝ち目のない戦いに担がれ、望まない戦争に赴いた西郷。明治天皇に衷情を抱きながら、国賊にならざるをえなかった西郷を。

筆は西南戦争の有様へと進む。なぜ西南戦争が起こったのか、という直接の説明はほとんどない。私学校党も、暗殺問題も語られない。本書は、こうした薩摩と明治政府を巡る諸問題については既知の読者を対象としているのだろう。しかしそれ以上に江藤淳にとって、これらは語るに足るものではなかったのだと思う。それよりも、戦いが進む中で交わされた書簡、檄(指示)、そういったものを丁寧に紹介し、ほのかに見え隠れする戦いの本質を探っていく。この戦は、何かに反抗するための戦ではない。ただ、滅びるための戦なのだと——。

西郷はなぜ立たねばならなかったのか、その直接的な説明も本書にはない。ただ、本書を読み進めるうちに西郷の影が我々の前に立ち現れてくる。寡黙な彼のことである。自分から、私はこのために戦ったと説明はしない。雨あられと降り注ぐ銃弾の中で、平生と変わらぬ穏やかな顔をして、ゆっくりと死へと進んでいく。その後ろ姿がなにがしかを語るのだ。

こうして、西郷と適度な距離をもって語りはじめたはずの本書は、最後には西郷の姿へと飲み込まれる。「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」と江藤淳は言う。しかしそうだろうか? 西郷南洲は、「思想」だったのだろうか?

私は違うと思う。私は、西郷南洲は、日本人にとっての最後の「神話」になったのだと思う。そこにどんな思想を読み取るのかは、読み手の技倆による。最初から西郷賛美と決めてかかっては、浅はかな「敬天愛人」しか見えてこないかもしれない。いや、私もまだ、読みが浅いに違いない。

歴史家ではない江藤淳が、どれほどの読みができるのか、と人は思うだろう。しかし、文学的の行間から西郷を見る、という切り口一つとっても、かなりの深みある見方をしていると感じる。もちろんこれは西郷隆盛論の決定版ではない。江藤淳の、個人的な思いもかなり仮託されている。かといって西郷隆盛への挽歌でもない。これは、西郷隆盛を語るための、地平を確立するための本とでもいえるだろう。

【関連書籍】
『西郷隆盛紀行』橋川 文三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/04/blog-post_7.html
西郷隆盛を巡る思索と対話の記録。
西郷の評価を考える上でヒントに溢れた小著。


2016年10月26日水曜日

『稲の大東亜共栄圏―帝国日本の「緑の革命」』藤原 辰史 著

戦前日本の植民地における稲の育種を紹介し、新品種の無理な導入が現地の生活を変えていく”帝国主義的な”ものであることを主張する本。

戦前日本は、食糧増産に躍起になっていた。主食である米の生産が追いついてなかったからである。そのため、植民地(台湾、朝鮮)からの移入米が重要になってきた。だが、台湾や朝鮮も米文化圏ではあるが、現地米は日本の食文化に合わず、日本の気候とは異なるため日本の稲を栽培するのも難しい。そこで、植民地において日本人の舌に合う米を生産するため、稲の育種(品種改良)が盛んに行われた。

台湾においては〈蓬莱米〉、朝鮮においては〈陸羽132号〉といったものが、そうして生みだされた品種である。

新品種の導入は、農民への普及という点ではやりやすい技術革新である。農業機械や施設の導入は資本が必要だし、新しい農法に変えるのには抵抗もある。しかし品種を変えるだけなら旧来の施設設備や道具をそのまま使えるからだ。新品種の導入は、一見「ただ育てるものが少し変わるだけ」に見える。

だが現代においてモンサントのやり方が批判されているように、実は新品種の導入は、生活そのものをそっくり作り変えさせられてしまうほどの威力がある。

例えば、台湾における米は南方種(インディカ米)であったが、日本はそこにジャポニカ米の〈蓬莱米〉を普及させようとした。しかし桿(普通の植物の茎に当たる部分)が長いインディカ米ならば、桿を水牛の餌にしたり生活雑器を作る材料に出来るが、ジャポニカ米の短桿種の場合そういうことができなくなる。

そしてもっと大きいのは、日本が食糧増産のために開発した新品種は、多くの肥料を必要としたということである。肥料をやればやるだけ穫れる——それが日本の品種改良の目標だった。土地が限られていた日本では、多肥・多収穫の品種が求められていたからだ。だが、多肥・多収穫の品種は、肥料が少なければ収量も少なくなるという弱点がある。肥料をさほどやらなくてもそれなりに穫れる在来種と違って、新品種を作っていくとなると肥料を購入しなくてはならなくなる。

日本は既に1934年の時点で、世界第3位の硫安(窒素肥料)製造国家であった。その硫安の販売先としても、植民地の農業生産は注目されていたのである。

こうして、植民地の自給自足的経済が、資本主義的経済に飲み込まれていくのである。それ自体は、日本が望んでやったことではないのかもしれない。本当は、ただ食糧増産をしたかっただけで。しかしこうした、食料生産を通じた社会のあり方の意図せざる改変は、食料生産の生態系を変えてしまうためにかえって強力である。著者はそれを、アメリカの歴史学者アルフレッド・W・クロスビーの提唱する「生態学的帝国主義(エコロジカル・インペリアリズム)」概念を援用しつつ紐解いていく。

稲の品種改良という非常に地味な素材を扱いながら、植民地主義のリアルを考えさせられる好著。

2016年10月2日日曜日

『食糧の帝国―食物が決定づけた文明の勃興と崩壊』エヴァン・D・G・フレイザー、アンドリュー・リマス共著、藤井美佐子 訳

過去の文明の例を引き合いに、食料システムの脆弱性に警鐘を鳴らす本。

本書は、16世紀の終わりにイタリアから世界周遊の貿易旅行に出かけたフランチェスコ・カルレッティの足跡を辿りながら、その土地土地での様々な時代の文明の勃興と崩壊に触れ、その背景にあった食料システムの問題を紹介するものである。さらにその都度、現代の食料システムが抱える問題についても考察し、このままでは大規模な飢餓が発生するといった危機的状況になることを警告している。

しかし、その筆はあまりうまくない。

まず、 過去の文明が抱えていた食料システムの不全についての説明が十分とはいえない(なお、食料システムのことを本書では「食糧帝国」と呼んでいる)。

文明の勃興期においては、食料システムはうまく機能していた。多くの人口を支えるための農産物生産、保存、流通、取引の仕組みはどんな文明でも存在し、それがうまくいったからこそ文明はより発展することができた。だが、土壌の生産力の限界を超えて生産し土地が疲弊したり、流通経路が使えなくなったり、要するにサプライ・チェーンの鎖のどこかが壊れることで、このシステムは崩壊し、そしてその文明もまた滅んでいった。

しかしそれは、本書の副題に掲げられているように「食物が決定づけた文明の勃興と崩壊」とまではいえない。むしろ、文明が衰退の途にあったからこそ、食料システムが崩壊していったと考えることもできる。文明が衰退すれば、食料生産だけでなく、警察機構、法、取引、租税など様々な面で社会の仕組みがほころんでいく。というより、それが文明の衰退そのものである。それは食料システムの不全が文明の衰退を招いた、というような単純な因果関係で説明できるものではない。

そして、過去の文明の食料システムの説明も、さほど詳しいものではなく、ほんの概略的なことが述べられるに過ぎず、どこに問題があったのか納得できる形で示されていない。どこに真の問題があったのか、ということの探求がなおざりであるから、そうした過去の失敗が現代の食料システムの問題を考察する上での材料になっておらず、「最初はうまくいっていた食料システムもいつかは崩壊する」という程度のことしか教訓を引き出していない。

また、現代の食料システムの本質的な問題は、持続的な形で農産物を生産しようとすると、90億人を養うことはおそらく不可能である、ということだと思うが、本書ではこの問題に対して、CSA(地産地消運動)とか、スローフード、有機農業やフェアトレードといった「焼け石に水」的な解決策しか提示していない(著者自身がそう述べている)。こうしたものでは、多くの人口を養っていくことはできないというのに。

一方で、なかなか面白い小ネタはたくさん盛り込まれている。特に面白かったのは、中世の修道院が製粉権を地域独占していて、これを担保するためにならずものを雇って農民の挽き臼を破壊させたことがある、という話。食料というものは、人が生きていく上では絶対に必要なものだから、ここに既得権を築ければ強い力を得ることができるのである。

とはいえ、そうしたエピソードが、単にエピソードとして語られていて、その背景にどういう力学が働いていたのかという考察が本書ではすっぽりと抜け落ちている。例えば歴史的に、農地利用については税のあり方が大きく影響しているのだが、 本書ではほとんど税については触れられていない。

さらに、本書は「ヒストリカル・スタディーズ」というシリーズの一冊となっているが、参考文献・出典が全く表示されていない。歴史を語る上で、出典を明示しないのは最低限のルールを守っていない本だと言わざるをえない(ただし、日本語訳の際に割愛された可能性はある)。

というような問題があるため、現在の食料システムに問題があるという主張自体は間違っていないが、その問題提起の仕方、考察の仕方、提示された解決策の質、どれをとっても床屋談義の域を出ていない。また、カルレッティの足跡を辿るという趣向も、話があっちへ行きこっちへ行きするという意味で散漫であり、成功しているとはいえない。

歴史へ真摯に向き合っていないために、現在の問題を考える際にも表面的な、おざなりな本。