2026年5月31日日曜日

『仏教土着――その歴史と民俗』高取 正男 著

仏教と民俗宗教の関係を考察する本。

本書は、昭和45年のNHKラジオのFM文化講座「日本民俗学の課題」の一部をまとめたもので(それにしても昔のNHKFMは硬質なテーマを放送していた)、仏教が土着するとはどういうことかをいくつかの題材で考察している。

日本人の信仰はまことに雑駁としたもので、そこには仏教にはない要素が多分に含まれていた。しかし多くの日本人は、正月や盆の行事、民俗芸能、日常生活の隅々にあった俗信をまさに仏教の一環であるとも認識してきたのである。西川如見は「町人嚢」のなかで「日本にての聖霊祭の躰も、一向に仏法のみを用いたるものにあらず、みそ萩、青萱の筵、土器(かわらけ)、麻(お)がらの箸など、唐天竺の様子にはあらず、神道の躰なりといへり(p.21)」と述べている。如見がこう述べているということは、一般的にはそれが仏法に基づくものと認識されていたことを示している。なお、そういう儀礼は神道のものだ、というが実際には神道でもなく、今でいう民俗信仰であった。

前近代の社会において、民俗信仰こそ民衆の生活を強力に規定していた。廃仏毀釈で仏教を全廃した旧苗木藩領(岐阜県加茂郡白川町)では、仏教を棄てて100年にもなっているというのに(※本書刊行当時)、その死後の世界についての考え方はほとんど周りの村と変わらない。これは、人々が仏教を棄てたつもりで捨てきれなかったというよりは、そもそも彼らの他界観が仏教の理論に基づくものでなかったからだと解釈できる。この強力な民俗信仰を無視しては仏教は土着できなかったはずだ、というのが著者の考えである。仏教は「民俗信仰と妥協し、さらにはそれと離れがたく結びついている(p.30)」。

しからば民俗信仰とは何か? これがなかなか難しい。民俗信仰には一貫した理論もそれを唱道した人物もおらず、とらえどころがない。例えば7歳までに死んだ子供の埋葬を大人とは違う墓地にしたり、家の床下に埋めるといった村があったが、これは何に基づくのか。明らかにその観念の基盤は仏教ではない。著者はこうした行動を「早く生まれ変わってほしい」とか逆に「遠くの仏の世界ではなく近くに留まっていてほしい」といった願望の現れとしているが、実のところその理由は不明というほかない。なお縄文時代の竪穴住居の入り口の床下に幼児の遺体が埋葬されていた例もあるそうだ。

民俗信仰と仏教の関係を考察するために著者がとりあげる題材が、鹿児島にあった「カヤカベ教」という民俗宗教である。薩摩藩では一向宗が禁じられていたため、一向宗を奉じる人々は隠れ念仏を行っていた(※著者は「かくし念仏」と書くが、ここではより一般的な「隠れ念仏」とする)。本願寺(本山)は秘密裏に信徒を組織していたが、弾圧が激しくなった時期に本山との連絡が途絶えた地域があり、そこでは独自の念仏信仰が発展した。そうしてできた信仰が霧島の牧園町・横川町にあった「カヤカベ教」の名で呼ばれるものである。

「カヤカベ教」は他称で、その教徒たちは「牧園横川聯盟霧島講」と呼ぶ。表向きは霧島講(霧島信仰、霧島修験)の形をとり、大正や昭和の初めでは霧島神宮側では彼らを「萱壁組合」とか「萱壁講」とか呼んでいた。このほか彼らは、カヤカベ教を「吉永どんの宗教」とも自称してきた。藩当局の弾圧がもっとも激しかった時期に教団を主宰したのが親幸という人物で、彼の俗名を吉永市蔵といい、その死後、教祖の地位をその直系の子孫で継承したことで「吉永どんの宗教」というようになったのだという。

カヤカベ教については、龍谷大学が昭和39年に調査団を組織して調査を行い、その結果は『カヤカベ かくれ念仏』(法蔵館)としてまとめられた。著者はこの調査団の一員であったため、本書ではカヤカベ教についてかなり詳しく紹介されている(一般向けの本では本書が一番詳しいかもしれない)。

カヤカベ教では、牧園が11、横川が6つの「郡(こい)」という組織に編成されていた。一般の平教徒は「御同行衆(ごずぎょうしゅう)」と呼ばれ、その中の信心堅固なものが「知識」に昇格し、さらに郡ごとに「郡親(こいおや)」というリーダーが選ばれた。法会や葬式はこの郡親が主宰する。数個の郡を統括するのが「中親」で、教団運営の相談役として「取次ぎ」がいる。調査の時点で、郡親20数名、中親8名、取次ぎ3名がいた。このほか調査以前には、霊媒的な役目と考えられる「杓取り」という女性がいた。これらの役職は一代限りで終身であった。親幸の妻靏亀(つるかめ)も霊媒的な体質で、彼女は親幸とは後に別れてカヤカベ教の別派「権次法」をつくった。

カヤカベ教は基本的には浄土真宗の教義を踏襲しているが、「オツタエ」という口承で伝えられてきた説教(法話)が興味深い。これには「仏法のはじまりや天地の開闢、聖徳太子の治世、法然・親鸞の事蹟から石山合戦、さらにはこの教えが起こり、伝承する過程での宗教坊や親幸の事蹟など(p.85)」が含まれた全13種が伝えられている。また、独自の教義として鶏肉を絶対に食べないことがある(知らずに鶏肉を食べても浄土には行けない、という)。著者はこれは隠れ念仏を偽装するためにことさら戒律を強調した結果生まれた教義と考えている。このほか、「お書物」と呼ばれる文書が残されている(後述)。

カヤカベ教に入信するためには、郡の全員から承認を受け「ヒキイレ」という儀式を行うことから始まり、様々な儀式が用意されているが、特に葬式は注目される。教徒が亡くなるとその衣類を郡親の元に持参し、その衣類を一種の御霊代としてお座がたつ。そして葬式を行い、夜に納棺する。さらに翌日、タユドン(太夫)などと呼ぶ神職を呼んで神式による葬式を行う。神葬祭は、明治以降に加わった偽装のための葬式と思われる。このように二重の葬式をするのは、信教自由となって浄土真宗が解禁された明治以降にも彼らが隠れ念仏をしていたからである。

「お書物」には、親幸が教徒たちに回覧させた文書が含まれており、これは一種の冥界通信であった。親幸は亡くなった教徒が、ちゃんと浄土へ行ったか知らせていた。面白いことに信心堅固なものほど短い時間で浄土へ到達するとされていた。親幸は3日ほど寝続けることがあり、そういう時に親幸は「霧島の神に連れられて浄土へ行っていたという(p.103)」。しかし阿弥陀如来に近侍したのではなく、薬師如来・伊勢・霧島六社権現・聖大明神が阿弥陀如来の言葉を次々に取り次いで親幸に伝えた、というような形で書かれた文書が多い。かと思うと、「かいの崎(健崎)」の庄兵衛の父親の次太郎(過去の往生者)は阿弥陀如来に近侍しているとされ、この次太郎を取次ぎとして阿弥陀如来にいろいろと相談がなされてもいた。

ともかく、教団内で何か相談事があると、親幸に願い、親幸から霧島六社権現、権現から伊勢、伊勢から阿弥陀如来といった形で願いが累次に取り次がれ、阿弥陀如来からの回答はこの逆ルートで伝えられた。教団の組織運営に関することはこうした手続きが厳重を極め、文政11年の「御状」はその極致である。曰く「(杓取りに復帰させてくれという)春菊とお末の願いについて、御聖大明神と上積大明神の二神が86人の供衆といっしょに、二度と取違いはさせないと起請文を書いて、霧島六社権現に願い、それを受け取った霧島権現は、自分たち一存ではできないといって、日向の大当の権現以下の三神と相談し、2516人の供廻りと起請文を書いて伊勢に願い、伊勢の神は5032人の供廻りっと起請文を書いて、阿弥陀如来の取次役に願い、取次役は供廻り2万65人と言葉をそろえ、起請文を書いて如来に差し出した(p.112)」。これに対し如来は、二人を帳面に書き込むと帳面を汚すことになるといって、新しく名簿を作り直すことを命じ、玉突き的に人事の変更が行われた。

これに対し著者は「こういう託宣類似のことが、真実をこめて書上げられている点に、当時、カヤカベ教徒のおかれていた状況が、悲しいまでに反映している(p.113)」とするが、その「状況」とは何を意味するのか。また詳細は割愛するが、カヤカベ教の人事はなかなかうるさく、先ほどの「杓取り」復帰が重大な問題となったように、複雑な組織機構を備えていた。そしてこのような重要文書は、普通教祖か中親のもとで保管されていると思いがちだが、実見できた3か所は全て女性の有力平教徒のもとであった。このことはカヤカベ教の組織が単純なピラミッド構造ではなかったことを窺わせる。

本書の記述から伝わってくるカヤカベ教の印象は、著者が強調する「弾圧された秘密宗教」のイメージとは少し違う。また著者はカヤカベ教の土俗性・民俗性に注目するが、「民俗宗教」と仏教諸派はどう違うか。著者は民俗宗教を「民衆の手によって雑多な信仰・儀式などが付加されていって出来上がったもの(著者の説明を要約)」と認識しているが、仏教諸派も同じような性格は指摘できる。民俗宗教と仏教諸派の違いは程度問題に過ぎない。しかし普通の民俗宗教は、全体として一貫した理屈がなく、特定の唱道者がおらず、宗教のための上意下達的な組織がない(ただし講のようなものはある)ということは言える。

そういう意味からは、カヤカベ教はむしろ仏教諸派のような唱導宗教に近い。親幸という教祖がおり、教祖が伝えとされる物語が信仰の中核となっていたのは、民俗宗教というより唱導宗教の特徴だ。

親幸は霊媒気質で、見てきたように異界を話す人物だったのだろう。今でも鹿児島にはそういう人がときどきいる。カヤカベ教はまさに「吉永どんの宗教」すなわち「親幸教」であったのだろうと私は思う。カヤカベ教が、元来は隠れ念仏であったというのは疑い得ない。ところがカヤカベ教は京都の本山を不審のまなざしで見ており、「本来の教えを伝えているのはこちらだ」という意識が強い。これは何を意味するか。カヤカベ教は確かに弾圧されていたが、それは藩当局からではなく、本山からだったと考えた方が理に適う。

おそらく、隠れ念仏に対する藩当局の弾圧が激しくなった時期に、この地域の隠れ念仏信徒は本山との連絡が途絶え、そこに現れたのが親幸であったのだろう。親幸は阿弥陀如来とつながり、本山以上の権威を作り上げた。そして親幸自身の仕事であるかどうかはともかく、信徒を本山とは全く違う形に組織した。その組織原理は、秘密保持というよりは権威の演出に大きな力が割かれているように見える。そして故人が浄土へ往生できたかの決定権を親幸が持ち、往生にかかった時間によって教徒をランク付けした。こういう教団を、本山が異端として排撃しないわけがない。鹿児島の一向宗弾圧は、常に行われていたわけではなく、激しく弾圧された時期とそうでもない時期がある。そうでもない時期には本山は信徒とそれなりにつながっていた(でなければ隠れ念仏自体が不可能である)。であるから、カヤカベ教を本山が矯正しようとした可能性は大きい。

とすると、カヤカベ教の幹部としては本山に対抗する必要があっただろう。そのために作られたのが、天地開闢からの歴史を物語る「オツタエ」や、累次の神仏の取次ぎだったように思われる。一見荒唐無稽な神仏の取次ぎは、親幸・教祖の超越的な権威を強調するためのストーリーではなかったか。少なくともこれは秘密保持とは何ら関係ないのは明らかで、むしろどこか遊戯的な要素も感じさせる。ちなみに取次ぎに登場する「聖大明神」はこの地域にある地元の神社の神である。地元の神社の神から阿弥陀仏までがつながり、それを手中にしていたのが教団幹部だった。

そして本山がいう真宗の教義は多分に理念的・形而上学的であるが、カヤカベ教のそれは即物的・具体的だ。「どんな悪人でも一度でも南無阿弥陀仏と唱えれば往生できる」といわれるより、「私が浄土に行って確かめたところ、故人は浄土まで3刻かかったがようやく到達できた。日頃の信心のおかげだ」といわれる方が納得感がある。この納得感を武器に本山に対抗して出来上がったのがカヤカベ教であったような気がしてならない。つまりカヤカベ教は、藩政府だけでなく本山からも隠れていた隠れ念仏なのではないか。

この仮説を裏付けるように、はじめ龍谷大学の調査団が村に入った時、教徒たちは「ある種の恐慌といってよい状態(p.99)」となった。彼らは本山が「むりやりに「折伏」しに来たと判断した(同)」のである。こうした状況証拠から考えると、彼らが信教自由以降も隠れ念仏を続けたのは、ほかならぬ本山から隠れていたためと結論付けてよい。

本山という理論的支柱から決別した時、土俗的なコミュニティがどう宗教性を発展させるかという実例がカヤカベ教なのかもしれない。カヤカベ教は、「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性が、教徒たちの日常生活を貫いていた(p.99)」と著者はいう。迷信といえばそれまでだが、先述の「鶏を食べない」をはじめとして、カヤカベ教では各種の生活規定(戒律)があり、それを厳しく守っていた。そしてよく言われるように、真宗は仏教諸派の中では最も迷信を拒否した宗派である。真宗では阿弥陀仏の絶対性が強調され、それ以外を些事として退けた。結果として、真宗では他の仏教諸派がうるさく言うような細かい儀礼や生活規定をほとんど否定し、信心のみを強調した。真宗の根本である念仏すらも、ああしろこうしろという規定はなく、一生に一度でも唱えれば阿弥陀仏は必ず往生へ連れて行ってくれるという。

そして真宗では「(他力に頼るほかない)悪人こそ阿弥陀仏は救ってくれる」という悪人正機説を強調した。ところが、こうした真宗教義は、真面目に生きている真宗門徒にとってそれほど魅力的でも信仰しがいのあるものでもなかったように私には思える。もちろんそうした教義は、悪を重ねなければ生きていけない人々、自力救済はできそうもない人々に真正面から向き合って形作られたものではあった(それに真宗では、すべての人は悪人だと喝破した)。しかし真面目に生きている(と自認する)人からすれば、そうした教義は何か物足りない。日頃の生活で戒律を守り、信仰に身を捧げている人こそ救われる方がずっと信仰のしがいがある。つまり「信仰しがい」が自然に発展していったのがカヤカベ教だったのではないだろうか。少なくとも、南無阿弥陀仏と唱えるだけの抽象的な救済よりも、鶏を食べないなど具体的な戒律・生活規範を守る方が、集団の結束を高め、内的な安心感(=これだけやっているのだから大丈夫という確証)を得やすかったと考えられる。

著者は「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性」がカヤカベ教にあるというが、むしろ土俗化しているからこそ厳しい宗教性が発展していったと考える方が自然である。

話が飛躍するようだが、日本の部活動ではおそろしく厳しい修養が行われることがある。厳格な上下関係、挨拶と礼儀、道具に対する手入れ、グラウンド・体育館の徹底的な清掃、まるで苦行のごとく自らを追い込むこと、先輩や親・指導者への感謝の強調、生活規律(服装・時間管理・身だしなみ)の遵守などは、ほとんど宗教のようである。そしてこれは、著者がいう「宗教の土俗化」を象徴的に表しているような気がする。スポーツ科学に基づいた指導を行う本当の一流校ではこういうことは少ない(と聞く)が、ちゃんとした指導者を得難い田舎の名門校でこそこうした厳しい修養が行われることが多い。これは、合理的な指導・理論に基づいた訓練よりも、精神性や根性論が優先されがちな日本の「土俗性」を示しているのではないだろうか? 歴史的経緯はあるにしても、かつて部活動が丸刈りだったのは、得度に際し剃髪していた仏教の在り方と共通するものがあったのではないだろうか。このように、部活動には土俗性と宗教性が同居していたと私は考える。そしてカヤカベ教の在り方は、部活動と通じるものがあるように思えるのである。

つまり、宗教の土俗化とは、高僧の高邁な理想が堕落することを意味するように思えるが、実際には、民衆が自ら望んで宗教を「スパルタ式」にしていくことなのかもしれない。実際に彼らは様々な生活規定・禁忌を生み出す。そして理論に通じた高僧がいないことで、そういう何の根拠もない「迷信」がいつまでも退けられず、徐々に規定が累積して生活ががんじがらめになっていく。実際にカヤカベ教は、そういう状態に陥っていた節がある。龍谷大学の調査をしぶしぶながら受け入れたのは、「鶏精進をはじめ不可解な禁忌の数々を守り、深夜の儀式を維持する後継者の育成は、不可能になりつつある(p.100)」という現状があったからだった。「この宗教が早晩消滅せざるをえないことは、どのように信心堅固な老人でも、ひとしく認めるところ(同)」であったのである。「水は飲むべきだし、練習はむやみやたらにすべきでなく適度な休息が必要」などといってくれる「権威」がない状態では、日本人の土俗性はどんどん迷信が生まれ厳しく守られていく傾向にある、ということは部活動が示している。

ところでカヤカベ教では、本山には親鸞の「カチビル」すなわちミイラが安置されており、心だけ浄土に行ったとしている。なぜ親鸞のミイラがあると考えたのか不明だが、著者は湯殿山の即身仏などと類比し、これは古い民俗に基づく観念(信仰上のアタヴィズム(atavism 先祖返り))ではなかったかと述べている。即身仏とは、自ら命を絶ってミイラ化することであるが、上述の部活動的土俗性と、自ら命を絶つという究極の献身が相性がいいことは首肯されることだろう。カヤカベ教と部活動を類比することは、カヤカベ教には大変失礼な見方であるかもしれないが、部活動で育まれた人間性は本物であるとも私は思う。ほとんど宗教的とさえいえる部活動での人格陶冶は、決して迷信でがんじがらめになった人間を生み出すのではない。むしろ合理的なスポーツ科学によるトレーニングによって人格が陶冶されるかどうかの方が怪しい。そちらの方がスポーツの技能はより向上するかもしれないが、やはり挨拶・儀礼・感謝・報恩のような部活動的指導の方が、人格面では有効だと思う。同様に、理念的・形而上学的な本山よりも、カヤカベ教の方がもしかしたら宗教的にはすぐれた内実を備えていたかもしれないのである。それが迷信や禁忌だらけだというだけで。

これに関し、著者は呪術について一章を設けて考察しているが、そこで非常に重要な指摘がある。曰く「科学が事物に潜んでいる法則を運用するように、呪術は事物のなかにある呪力を利用して現実の目的を達成しようとするからで、呪力という超自然の存在を前提にしながら、それに対する礼拝や祈願を含まないのが呪術本来のありかたである(p.157)」。つまり呪術は元来精神的なものでなく、科学的な思考に基づいているというのである。

私は「水を飲むな」と言われた時代の人間だが、それは部活動生を苦しめるためでなく「水を飲むとかえって疲れる」というのが理由だと言われていた。「水を飲むな」という「迷信」は、「水を飲むと疲れやすい」という一応は科学的な論理に支えられていたということになる。これは現代の科学により否定されたから現在の部活動では水を飲ませるようになったが、まさにこれは「水を飲むな」が精神的なものから出た指導ではなかったことを示している。

これを呪術・宗教に応用して考えれば、何事も宗教的に「スパルタ化」していきがちなのが日本人の土俗性であるが、それは科学によっていかようにでも変容しうることを示しているのではないだろうか。だからこそ、教義に基づいた部派宗教は科学時代でもそれなりに存続しているものの、民俗宗教は科学時代には事実上壊滅してしまった。もちろん民俗宗教の壊滅は、それが依拠していたコミュニティの崩壊や少子化、ライフスタイルの変化にも基づく。科学的思考が寄与した部分は一因でしかないだろう。

かつての精神的な「部活動」も、健全でスポーツ科学に基づいた「地域スポーツクラブ」へと変わりつつある。それが宗教からの土俗性の払拭と軌を一にしているといったら大げさだろうか。

カヤカベ教から宗教の土俗性を考える啓発的な本。

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