2026年5月7日木曜日

『悟りと葬式――弔いはなぜ仏教になったか』大竹 晋

仏教による葬式や追善がいかにして始まったか述べる本。

仏教は、本来は個人の悟りを求めるものであったが、徐々に葬祭や追善を担うようになった。つまり死者のためのものになっていった。これは日本だけでなく東アジアに広く見られる。

ではそれはどのようにして、なぜ始まったのか。本書は極めて広い視野で経典を渉猟し、その次第を明らかにしている。具体的には、スリランカや東南アジアに現存している上座部のパーリ語三蔵、インド本土に展開していた説一切有部の漢訳・蔵訳の三蔵、そして大乗仏教の諸文献を動員し、布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔についてその始まりを述べる。

なお、本書では出家者と在家者を明確に区別して扱っている。日本の場合は在俗出家があったためこの区別はあまり意味がなくなったが、元来の仏教ではこの区別は重要だ。

「第1章 布施の始まり」では、布施を成り立たせている論理が述べられる。

仏教の元来の目標は、煩悩を断ち切って輪廻から脱することにある。では在家者が出家者に布施という贈与を行うのは、この目標にどのように位置づけられるのか。

出家者が出家するのは、煩悩を断ち切るためである。では在家者はどうか。在家者は、煩悩を断ち切ることはできないが、来世ではせめて善趣(天・人間)に生まれたいと願う。そこでインドでは出家者に布施をするという副徳を積むことによって善趣への転生が図られるようになった。この背景には聖者崇拝がある。なぜ聖者に布施を与えることが「大きな果/報酬(←本書に頻出する用語。ここでは善趣への転生を表す)」となるのか。その理由は経典には述べられていないが、聖者への帰依そのものが重要であったようだ。つまり布施は「決して、出家者が在家者に提供してくれるサービスに対する代価ではない(p.30)」。しかし後に、葬式、戒名、慰霊、追善、起塔を出家者が提供するようになり、布施がそれらに対する代価としての性格を持つようになった。

「第2章 葬式の始まり」では、仏教が葬式を担うようになった次第を4つのケースに分けて論じている。

4つとは、(1)出家者が出家者の葬式を行う、(2)在家者が出家者の葬式を行う、(3)出家者が在家者の葬式を行う、(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う、である。

(1)出家者が出家者の葬式を行う

インドでは元来、出家者の遺体は路傍に捨てられていたらしく、『摩訶僧祇律』には「捨て去るべき」と規定されてさえいる。だが在家者の遺体は捨てられておらず、出家者の遺体遺棄は在家者から白い目で見られていたと考えられる。そこで在家者との軋轢を避けるため、出家者は仲間の遺体を葬るようになった。

中国では出家者の遺体は遺棄されていなかったと考えられ、唐代の道宣は「法王(ブッダ)と転輪聖王(帝王)とはともに火葬による(p.40)」と指示している(『続高僧伝』)。通常の出家者は林葬によったらしい。また北宋では禅宗が広まり、その教団運営規則「清規」で出家者の葬送法が規定された。

日本では平安時代以前は土葬が行われていたが、平安時代では穢の思想から死体遺棄が行われた。しかし出家者の遺体は火葬されるようになっていった。

(2)在家者が出家者の葬式を行う

インドでは、亡き出家者が阿羅漢である場合に在家者が出家者の葬式を行うようになった。『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では如来と転輪聖王を葬式することが述べられている。スリランカを訪れた法顕も阿羅漢の死者を在家者の国王が行ったことを報告している(『高僧法顕伝』)。またその際、四つ辻に塔を建てることも行われたらしく(『根本説一切有部毘奈耶雑事』)、遺体供養とは葬式と起塔とを含む概念であった。

南方(スリランカ)では、出家者は自らが聖者であると主張することが律によって禁じられていた。よって亡き出家者が聖者かどうかはわからなかったが、周囲の人によって聖者であると目される場合は葬式が行われるようになった。

中国でも同様であるが、これはインドや南方からの影響ではないらしい。中国では在家者と出家者がともに葬式を行ったと思われる。智顗の葬儀の場合は出家者と在家者が遺言に基づいて彼の遺体を龕に納めて墳墓に保存した。

日本では、在家者が出家者の葬式を行うことはほとんど考えられなかった。そもそも日本では聖者と目されるような出家者はあまり現れなかった。

(3)出家者が在家者の葬式を行う

インドでは、亡き在家者が阿羅漢である場合に出家者がその葬式を行うことが説一切有部において考え出された。しかし阿羅漢でない場合は葬式の対象とならなかった。8世紀には後期密教の『グヒヤサマージャ・タントラ』などに基づき、異生(=凡夫)の場合も出家者が葬式を行うようになった。

中国でも、インドからの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが考え出された。その最古の例は5世紀に曇遷が在家者の葬式を行ったものである。唐においては道宣が在家者が父母兄姉の場合に出家者がその葬式を行うことを認めている。

日本でも、中国からの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが古代に考え出された。

(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う

これはインドでは考え出されなかった。インドでは家庭行事において出家者に布施を与えて儀式を行ってもらうことはあったが、引導(亡者を導く)はしなかった。

南方でも同様である。僧侶が葬式に呼ばれても、それは引導のためではなく悪魔を追い払うためだった。

中国では北宋の初めころから在家者の葬式に出家者が訪れるようになったが、これは法語を与えて道理に気づかせることが目的であった。禅宗の出家者は悟り体験によって聖者の力を持っていると見なされており、その力が期待されていたが、これは引導そのものではなかった。

引導が考案されたのは日本においてである。その確実な最古の記録は9世紀の醍醐天皇の葬式である。さらにそれに先立って『都氏文集』には仁寿2年(852)に出家者に呪願させて在家者の葬式をしたと見なせる記録がある。引導は、元来は阿弥陀仏や勢至・観音に亡者を導くことをお願いするものだったが、鎌倉時代に禅宗が伝来すると、掩土や下火にあたって亡者に法語を与えることがそのまま引導であると考えられるようになり、そうした儀式は多宗派も模倣した。

「第3章 戒名の始まり」では、戒名が与えられるようになった次第を2つのケースに分けて論じている。

2つとは、(1)出家者が戒を授ける時、(2)出家者が亡者に戒を授ける時である。

(1)出家者が戒を授ける時

インドでは、戒名は考え出されなかった。仏典では十代弟子は氏族名や本名で呼ばれており、あだ名でよばれていた出家者も記録されている。所属部不明の『増一阿含経』ではブッダが比丘たちに本名で呼ぶことを禁止しており、後になって出家者が改名することも見られたが、授戒の際に名前が付けられたのではない。

授戒の際に名前を与えることが考案されたのは中国である。中国では北朝において出現した『梵網経』(5世紀)に基づいて、南朝で菩薩戒を授ける時に菩薩名を与えることが考えられるようになり、これが隋へと受け継がれた。これは、成人の時に字(通称)を与える習俗が応用されたとみられる。しかし唐以降は、菩薩名は廃れていった。

日本では、中国の習慣を引き継いで『梵網経』による在家者の授戒に菩薩名を付けることが行われたが、平安時代以降はほとんど行われなくなった。そして、室町時代に瑩山紹瑾の門流が『菩薩戒』の菩薩戒と菩薩名を与えてそれが広まり、遅くとも15世紀には在家者向けの授戒会が開かれて名を与えられたことが確認できる。

※在家者への菩薩戒の授戒のみの話で、出家者の場合は別に考慮が必要。

(2)出家者が亡者に戒を授ける時

出家者が亡者に戒を授けることはインドではなかった。亡者へ戒を授けることはタイ、チベット、日本に特有である。南方では死者の魂が付近に留まっていると思われていたため、出家者は在家者の要望に応えていたようだ。

亡者に戒名を授けることは日本で考え出された。臨終出家の最古の例は淳和天皇ないし仁名天皇で、臨終出家でも戒名は与えられた。死後出家の最古の例は九条兼実の息子、良通であ(1188)、死後出家でも戒名は与えられた。臨終出家や死後出家は出家としては多分に形式的であるが、出家者は速やかに涅槃にいけるという聖者崇拝がその背景にあった。浄土真宗や日蓮宗では、出家しなくてもすぐさま浄土へ転生して仏になるとされていたものの、やはり亡者に戒名を与えていた。

「戒名」は日本において生まれた言葉で、元来は法諱・法名・法号と呼ばれていたが、江戸時代に使われるようになった。戒を授けることと同時に与えられるためにこのような名称になったと思われる。そして、死後出家の際に与えられる名として戒名という言葉が生まれた(つまり戒名は「死後戒名」であった)と考えられるが、生前に与えられる法諱・法名・法号も江戸時代に戒名と呼ばれるようになっている。死後出家・死後戒名は江戸時代以前からあったが、これが一般化したのは『宗門檀那請合之掟』の影響であるとしている。

さらに日本では、鎌倉時代に位牌が宋から伝えられると、位牌に院号・位号(居士など)・置字(霊位など)を使ってランク付けされることが行われた。なお中国では位牌は出家者のためのもので、在家者には「神主(しんしゅ)」が用いられたが、日本では出家者・在家者ともに用いられた。

なお位牌において戒名にランク付けが行われたことは真言宗の頼勢により『引導能印鈔』(1669)で批判されている。ちなみに「居士」が元来寺院のスポンサーを表す言葉であるように、位号などは生前の身分によって付けられた。しかし本来は出家すれば在家時の身分は無関係になる。よって死後戒名に院号や位号をつけることは、亡者を在家者のままに留めることとなるから「矛盾している(p.118)」と著者は批判している。

「第4章 慰霊の始まり」では、慰霊という概念を整理し、5つのケースに分けて論じている。

まず慰霊とは、「すでに悪趣へ転生している亡者に布施を供えること、あるいはさらに善趣へ転生させること(p.121)」と定義している。5つのケースとは、(1)在家者が亡者に布施を供える、(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる、(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる、である。一見してわかりにくいが、布施を与える対象が亡者なのか、出家者なのか、そして亡者の転生先が餓鬼道であるかどうかがポイントとなる。

(1)在家者が亡者に布施を供える

インドでは、亡者にお供えものをするという土着習俗があった。仏教ではそれを取り入れ、餓鬼道に転生している亡者にお供えをすることで餓鬼道での飲食物が提供できると理論化した。

(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

インドでは前項の習慣が発展し、餓鬼に布施を与えることで善趣へ転生させることができると考えられるようになった。上座部の『ペータヴァットゥ』では、餓鬼に布施を与えるという慈悲によって与えた人はやがて善趣に転生し、餓鬼自身もただちに善趣へ転生するらしきことが書いてある。これは聖者崇拝がその基盤にあると考えられる。

(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる

さらにインドでは、餓鬼道以外の悪趣(地獄趣、畜生趣)にある亡者も出家者への布施で善趣へ転生させられると考えられるようになった。『盂蘭盆経』にそのことが述べられている。布施の対象は、仏・独覚・声聞・十地の菩薩であり、亡者や施主が善趣へ転生できる理由も、聖者が「定」に入ることの利益であるとされる。なお同経は以前中国で作成された偽経であるとされていたが、近年は偽経ではないと考えられている。

中国では『盂蘭盆経』に基づいて、出家者に布施を与える盆が使われるとともに、亡者の慰霊を行う中元節が成立した。

日本では古代に盂蘭盆会が伝わり、7月15日に出家者に布施を与えていたが、これがやがて亡者へ布施(供物)を与えるように変化して「お盆」となった。

(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

だんだんややこしくなってきたが、ここのポイントは「呪文を唱えて」という要素である。これもインドにおいて土着習俗に基づいて考え出された。7世紀頃の初期密教(『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』)ではこのような考えが生まれていた。筆者は指摘していないが、呪文が登場したのは、聖者の存在感が弱まってきたことを感じさせる。聖者が定に入る功徳によって善趣へ転生するという考えのリアリティが低下し、呪文の効果だとした方が人々に受け入れられるようになったのではなかろうか。

中国では『救抜~経』が伝わり、餓鬼道のみならず悪趣から善趣への転生が可能と考えられるようになって、そのためのマニュアル(『施諸餓鬼飲食儀軌』、『施諸餓鬼飲食及水法幷手印』、『瑜伽集要焔口施食儀』など)が数多く作られた。中国では悪趣にいる亡者を呪文によって善趣へ転生させる需要が大きかったのではないかと感じさせる。

日本でも中国から『救抜~経』が伝わり、同様の考えとなった。

(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる

これもインドで考え出され、7世紀頃の初期密教に属する『仏頂尊勝陀羅尼経』において説かれた。また『不空羂索神変真言経』でも光明真言などの呪文が善趣への転生に有効だとされている。

前出の経典が中国に伝わると、呪文によって亡者を善趣に転生させることが行われるようになったが、本書に掲載された事例は全て葬式の際に呪文を唱えるものである。明確ではないが、こちらは葬式の儀式として広まったため、広く亡者の慰霊という意味では布施を行う(4)の方が主流となったようである。

日本でも前出の経典が伝わって同様の展開となり、特に葬式の際の土砂加持が普及した(明恵が普及に力を入れた)。呪文(真言・陀羅尼)に力があるならば、わざわざ出家者に布施を行って呪文を唱えてもらう必要はなく、在家者が呪文を唱えれば十分ということになるが、江戸時代の臨済宗の悟り体験者たち(至道無難、盤珪永琢)はその見解に否定的だった。つまり呪文は出家者(聖者)が唱えてこそ意味があると思われていたようだ。

「第5章 追善の始まり」では、2つのケースに分けて追善の始まりについて考察している。

まず追善とは、亡者が未だどこへも転生していない間(通常49日間)の間に、亡者に善を追加してやることで、通常は「出家者に布施を行うという副徳を亡者に振り向ける」という形で行われる。2つのケースとは(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う、(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う、である。

(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う

インドにおいては、慰霊は行われたが、追善は行われていない。つまりすでに悪趣に転生した亡者を善趣へ転生させることは可能であったが、未だどこへも転生していない亡者を何らかの儀式によって善趣へ転生させることはできないと考えられていた。そもそもインドの大部分の部派では中有(中陰)を認めず、転生は速やかに行われると考えられていた。説一切有部と唯識派では中有を認めており、その期間は49日間であるとすることが多い。しかし説一切有部と唯識派でも他者による追善は考えられていない。

追善が考え出されたのは中国である。中国では『梵網経』により三七日、七七日の追善が行われるようになった。具体的には経典の読誦・講説・斎会(出家者に食事を与える)である。追善は『梵網経』の後にも継承されるとともに、七日おき(累七)に追善を行うという習俗が確立した。そして本来の追善は中有の間だけに意味があるが、儒教の祖先祭祀の習俗に影響されて「百日、小祥(一年の喪の終わり)、大祥(三年の喪の終わり)」も仏事として行われるようになった。

日本でも持統天皇の七七日の斎会を嚆矢として追善が行われ、聖武天皇では一周忌が行われている。鎌倉時代には三十三回忌まで含めた十三仏事が成立した。室町時代には、十三仏事でなく、十三年の間毎年年忌の斎会が行われることもあった。

(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う

ここでは南方の事例のみが述べられている。南方は上座部圏なので先述のとおり中有を認めず理論的に追善はありえない。ところがタイやベトナムでは死後七日目に「七日供養」と呼ばれる事実上追善と同様のことが理論的な裏付けなく行われている。

「第5章 起塔の始まり」では、3つのケースに分けて起塔(塔を建てること)の始まりを論じている。

3つとは(1)出家者が出家者の塔を起てる、(2)在家者が出家者の塔を起てる、(3)在家者が在家者の塔を起てる、の3つである。なお、ここでいう起塔は、一般的に塔を建立することではなく、誰かのために(墓としての)塔を建立することを意味している。

(1)出家者が出家者の塔を起てる

墓標としての塔を起てることはインドで考え出された。上座部の『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では、ブッダは如来・独覚・声聞・転輪聖王は塔に値すると述べている。それは、塔を見て心が浄らかになり、それによって天界に転生するからだという。ここで転輪聖王も含まれているのが注目される。このように元来は塔に値するのは悟りを開いた人に限られていたが、悟りを開いていない人にもそれは徐々に拡大された。

説一切有部のヴィマラークシャ(4-5世紀)の聞き書き『五百問事』には、「その遺骨を収めて亡者のために俱攞(くら)と呼ばれる塔を作ることがある。形は小塔のようであり、上に相輪がない」とある。「俱攞」とはkula(塚)の音写であるという。後期密教の実践マニュアルでも同様の記載がある。この時期には塔の建立は異生まで拡大されている。

異生の出家者の塔を特に望んだのは、比丘尼であったらしい。しかし元来は聖者の記念碑的なものであった塔を異生にまで起てることには比丘からは抵抗があったようだ。「比丘尼が出家者の塔を起てては感傷に浸り、比丘とのあいだで問題が起こったことはいくつかの部派に共通して伝えられている(p.193)」。

中国においてはインドとは独立に出家者が出家者(異生含む)の塔を起てることが東晋の半ばまでに自然に考え出され、唐にも受け継がれた。『禅苑清規』では夭折の出家者は火葬した遺骨を普同塔(共用の塔)に、高徳の出家者は遺体を結跏趺坐させたまま龕に納めて塔の地下に入れることが記されている。高徳の出家者の場合の塔はかなり大きいことが予想される。

日本では、なかなか起塔の習慣は生まれなかった。平安時代には出家者の廟を建てることは行われており、比叡山には最澄の廟があった。円仁は「比叡山には最澄の他に廟を造るな」と遺言していたが円仁の廟も比叡山に造られ、後にその廟の前に法華経を安置した塔も起てられた。しかしこれはあくまで法華経を安置する塔であって墓塔ではない。良源は天禄3年(972)に、自らの墳墓の上に真言を安置した塔を起てるよう遺言した。これは墓標の性格が強いが、それでも真言のための塔である。出家者が出家者の塔を起てるようになったのは、鎌倉時代に禅宗によって中国から伝わってからと考えられる。

(2)在家者が出家者の塔を起てる

亡き出家者のための塔を在家者が起てることはインドで考え出された。これはブッダが在家者に起塔の作業を任せたためとも考えられる。『根本説一切有部毘奈耶雑事』には、「阿羅漢の塔は相輪が四重」などその形態についての規定も見える。なお、聖者の遺骨に供養(布施)を行うことでその福徳によって天界への転生や般涅槃すると考えられていたが、これには異論もあったとのことである。

南方での状況は複雑であるが、基本的にはインドでの起塔が継承された。

中国でも、亡き出家者が聖者である場合は在家者によってその塔が起てられるようになった。南朝の劉宋にいたインド人出家者グナヴァルマン(求那跋摩)が亡くなった時は、出家者と在家者がともに「白塔」を起てている。智顗の場合も遺言に「二つの白塔を起て、見る人に菩提心を発させよ」とあり、「白塔」が起てられた(円珍はその墳墓を見ている)。起塔は亡き出家者が聖者である場合が中心で、聖者の記念碑的な性格が強かったようにも思われる。それにしても「白塔」とは何だろうか。

日本の場合は、在家者が出家者の塔を起てることはほとんどなかった。

(3)在家者が在家者の塔を起てる

インドでは、一般的ではなかったが土俗習俗に基づいて在家者が在家者の塔を起てることがあった。ただし本書にある事例は貴族の場合のみであるため、「土俗習俗」というよりは、記念碑的なものであった可能性もあると思った。

南方では在家者の塔は起てられていない。

中国では、唐において在家者の塔が起てられるようになり、北宋においてまとめられたとされる『臨終方訣』では在家者の葬式について窣堵波(ストゥーパ)の中に安置するという葬法が述べられている。

日本では、在家者の墳墓の上に呪文(陀羅尼)を安置した塔が起てられるようになった。文献上最古の事例は仁明天皇で、平安時代には天皇の陵の上に塔を起てることが行われた。醍醐天皇、御一条天皇、堀河天皇などである。在家者が在家者の墓として、五輪塔や宝篋印塔などの塔を起てるようになったのは鎌倉時代で、これらは「従来、日本において始まったと考えられていたが、近年、北宋の時代の中国において始まって、日本へ伝わったと考えられるようになっている(p.221)(石田尚豊、吉川功)」。ただし塔に遺骨を納入することは日本で始まったらしい。

「結章 葬式仏教の将来」では、これまでを総括し、仏教が葬式のためのものになったのはなぜなのかまとめている。

その結論は、「在家者が聖者崇拝を背景としてそれを願い、出家者が土俗習俗を背景としてそれに応えたから(p.226)」である。布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔は、いずれも在家者が聖者を慕う気持ちを具現化したことが契機となっているのである。

とすれば、現在の日本において葬式仏教が衰退しつつあるのは、出家者が世俗化したことによって聖者を慕う気持ちがなくなっていることも一因であると考えられる。一般的には、葬式仏教の衰退は「家」の分解という社会経済的な側面から語られがちだが、著者は出家者の質がその本質にあると見る。本書に述べられる明治期の高徳な僧侶・西山禾山が執り行う葬式は、「確かにこういう人に葬式をしてもらえるなら、今の人も葬式をしたいと思うかもしれない」と思わせるものである。

そして、「出家者の悟りのための宗教と、在家者の葬式のための宗教とはまったく矛盾しない(p.232)」と著者は考え、むしろ高徳な出家者の出現こそ葬式仏教の復興に必要だと考えている。

「付録 『浄飯王般涅槃経』の真偽をめぐって」では、現代の日本で出家者が在家者の葬式を行ってよいという根拠として使われてきた同経について述べている。同経は中国の南北朝時代に流通したものである。本書では同経の全訳を掲載し、その文言を先行する経典(『大智度論』など)と比較することで、「中国において、ブッダもまた父の葬式を行った孝子であることを主張するために作られた、偽経であると考えらえる(p.256)」と結論づけている。

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本書は、インド・南方・中国・日本を横断して葬式仏教の来歴を語るものであるため一つ一つの項目は簡潔であるが、同時に緻密でもある。葬式仏教というと、日本の仏教の特筆の一つとして捉えられがちで、その来歴も日本で完結する形で考察されることが多い。ところが本書では、仏教発祥・伝来の地ではそれぞれ仏教が葬式を担うようになった次第が述べられており、蒙を啓かれた思いである。ただし、それはインド、中国、日本と伝わってきたのではなく、断絶も見られる。特に中国は、インドから葬式仏教が伝わったというよりは、独自に葬式仏教が発展したという性格が強い。日本の葬式仏教は中国から伝わった部分も多いだけにこの点は注意が必要だと思った。

また、著者は葬式仏教の基盤には聖者崇拝があると述べるが、これはインド・南方・中国・日本を横断して概括的に言えるとしても、日本の状況にぴったりあてはまるとは限らない。というのは、葬式仏教として最も成功した宗派である浄土真宗を考えてみると、親鸞その人が「非僧非俗」を標榜し、浄土真宗では今でも「同朋」(宗教指導者と一般信徒、というのではなく門徒はみな平等、というような意味を含む)という言葉が使われるように、浄土真宗の葬式は必ずしも高徳な僧侶のありがたさで広まったわけではない。葬式仏教の創始は聖者崇拝によったとしても、それが広まった要因はまた別に考察する必要がある。

なお葬式や起塔の対象に、インドにおいてすでに「転輪聖王」が含まれていたことは気になった。転輪聖王とは仏教的な理想の帝王であるが、実際には現実の統治者にも適用された。つまり葬式仏教の対象に転輪聖王を含めたことは、仏教が世俗的統治者と融和的な姿勢にあったことを示唆する。日本の中世では王法仏法が相即不離であるとされたが、これは決して日本社会の特質ではないのである。葬式仏教について考察する上でも、日本の歴史に即して考えるだけでなく、東アジアへも目を向けて共通の土台に基づいて考察することが非常に重要だと痛感した。

葬式仏教の来歴をかつてない視野で解明した労作。

【関連書籍の読書メモ】
『葬式仏教』圭室 諦成 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html
仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。葬式仏教論の嚆矢である名著。

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