2026年5月15日金曜日

『死者の救済史―供養と憑依の宗教学』池上 良正

民衆宗教を死者への対応の視点から再考する本。

本書は、「救済史」を冠しているが歴史を述べるものではなく、著者の宗教についての考え方を述べるもので、前半は供養、後半は憑依について述べ、最後に供養と憑依が共通の土台に基づくものであるとしてまとめている。

著者の日本の民衆宗教についての基本的考えは、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」の魂をどうにかして「安らかな死者」へと救済することが期待されていた、とするものだ。

しかし著者自身も控えめに述べているが、古代の日本人が死者を「救済を必要とする存在」として認識していたかどうかは定かでなく、この前提が成立していたのかどうか疑わしい。

次に、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」への対応として2つのシステムがあったと著者は考える。第1に〈祟りー祀り/穢れ―祓い〉システム、第2に〈供養/調伏〉システムである。第1のシステムは、祟る死者を祀ることによって慰霊するか、もしくはその死者が穢れているとして祓うという考えを表しており、著者はこれは仏教以前からある在来のものであると見なしている。第2のシステムは仏教による対応である。そしてこの2つのシステムは排他的なものではなく、在来の第1システムの上に第2システムが付け加わって、多彩な死者との向き合い方が生まれたと著者は考える。

ここでも著者は、第1のシステムについて仏教以前に死者が祟ると考えられていた証拠はないと一応は述べるが(p.41)、それでもこうした考えが在来のものであったとして話を進めている。しかしながら、証拠がないものを前提にするのは腑に落ちず、「苦しむ・浮かばれない死者を救済する」という前提も含め、著者の考えは図式が先行しており、史実への立脚が薄弱であるように感じた。管見の限りでは、〈祟りー祀り〉が現実化するのは平安時代以降で(古代において祟るのは死者ではなく神である)、また〈穢れー祓い〉は古代には死者に対して適用される観念ではない(死・死体は「穢」の一つであったが、それを「祓う」という対処法がない)。このように、著者の措定する図式は堅牢なものとはいいがたい。

それはともかく、こうした考えの下に『日本霊異記』で「苦しむ死者」がどう考えられていたかを分析し、続いて『法華験記』『沙石集』などから、その対処法がどう変わってきたかが述べられている。その要諦は、読経・念仏・造像・写経のような追善行為が、自業自得・因果応報という自己責任で個人の行いによって完結していた死後の在り方を、他者からの働きかけでどうにかできるものに変換したのだ、ということである。読経・念仏・造像・写経といった行為は、本来は仏や僧侶への供養(布施)なのであるが、これが「死者への供養」と変換されていることも注目される。なお、このことを著者は「死者との個別取引」と呼んでいる。

このような変換によって、死者は「仏法による済度を願う弱者の地位(p.79)」になったという。一方で、生きている側にとってみれば、苦しむ死者などにおびえる必要がなくなったということになる。悪霊が現れたとしても、仏法によって調伏=救済できるのであれば怖れるに足りない。実際、「信長、秀吉、家康などの武将は、多くの敵味方の将兵の屍のうえに政権奪取をなしとげたにもかかわらず、日ごと夜ごとに怨霊に悩まされるということは、もはやなかった(p.92)」。『太平記』などの軍記物には、怨霊などにおびえずむしろ「俺の施しによって成仏させてやる(p.101)」といった「平安時代の貴族たちとは、根本的に異なる精神性(p.99)」が描かれている。そして亡霊の方も「むしろ大般若経の読誦を受けたことに感謝して、成仏してしまう(p.108)」。

だからこそ幽霊・亡霊などを手軽に扱えるようになったという側面があり、近世には怪談・怪異文学が全盛期を迎えることになった。ただしそこに描かれる幽霊は、成仏だけを願う存在ではなく、自由奔放にふるまっている。能のようなある程度類型化した世界と民衆が考えていた幽霊の世界はちょっと違うようだ。

さらに、著者は目を世界の民俗宗教に転じ、「世界宗教の土着化」の問題を探るテーマとして死者の供養を考察している。イスラーム圏、ロシア、ラテン・アメリカが取り上げられ、これらの地域では世界宗教を受け入れつつも土着の考えと融合したあり方で死者を扱っていることが指摘される。いわゆる世界宗教では、個別の死者を弔うことに大きな意味を付与していないが、結局、人間というものは死者に対して何らかの慰霊を行いたくなるものである。

なお、キリスト教では死者の魂の行方は元来「最終審判における天国と地獄」とイメージされていたが、これでは遺族による慰霊・供養の余地はない。そこで中世では、「とりなしの祈り(代禱)」とよばれる生者の力添えによって、人が受ける苦しみが軽減されるような中間的来世である「煉獄」が考えられるようになった。仏教の地獄も時限的であって生者の働きかけで苦痛が軽減されるという意味では同じであるから、地獄と煉獄は共通の性格が認められる。そして煉獄の存在によって、キリスト教圏でも日本の民俗・民衆宗教と似たような「死者供養」が行われているから、「比較供養論」=「比較煉獄論」が可能になると著者はいう。

次に考察の対象になるのが「憑依」である。まず「憑依」という言葉が研究史においてどう使われてきたのかを述べ、キリスト教での神の啓示などが事例に挙げられてその問題が提起される。それを簡単に述べると、「憑依」というと悪霊や苦しむ死者が「憑く」もので、神や仏の示現を宗教者が受け取る場合は「憑依」とは表現されないが、その両者に実質的な違いはどれほどあるのだろうか? ということである。これは現代の研究者の持つバイアスであると同時に、史料にも見出せる固定観念である。怨霊やもののけ相手だと「つく」「くるふ」「霊病」「物ぐるひ」などと表現され、神の場合は「つく」「託す」「のる」「かかる」「おりる」などと表現されているからだ。もちろん、憑依と神託では若干違う部分も見られるが、共通性の方が大きいと著者は考え、その境界は不明瞭だという。

そこで著者は「憑依」という語をより広い意味で定義することを提案し(その定義自体はここでは割愛する)、ケーススタディとして『比良山古人霊託』が取り上げられる。21歳の女性に憑りついた比良山の大天狗との問答記録である。ここで著者は「憑依」の文脈から離れ、問答自体の興味深い点をいくつか指摘している。問答者は天狗から要人や知り合いが死後に得脱・往生できたかどうかについて聞き出そうとしているが、天狗はある種の人々を「天狗道に堕ちた」と言っているのが面白い。鴨長明『発心集』にも天狗になった僧侶の事例が掲載されているが、日本人は僧侶が得脱に失敗して転生する場所として「天狗道」をイメージしてきたらしい。元来、転生先には天道・人間道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道しかなかったのだが、阿修羅道のような存在として「天狗道」が付け加わったのである。

仏法に帰依しているならば人間道以上に転生することが期待されるものの、行いがあまりよろしくない僧侶についてはそうなっていてほしくない、という人々の期待が「天狗道」を生んだのではないかと思わされる。そして天狗道は、僧侶であるにもかかわらず、現世に激しい執着と怨念を抱いて死んだものの行先でもあった。つまりキリスト教圏の人々が「煉獄」を必要としたように、日本人は天狗道を必要としたのかもしれない。天狗は、仏法に詳しく、験力があり、死後の運命や他界の様子について知っており、そして人に憑依する。このある意味なんでもありの「境界的性格(p.186)」が天狗道を特徴づけている。

そしてここで重要なことは、天狗道という仏教の経典には現れない存在が憑依によって一般人の口から語られ、それが職業的宗教者の言よりも重んじられていた、という事実である。これは他の文化圏でも当てはまる。人々は教理よりも憑依を通じて霊的世界を知れると考えていた。そして「仏教的世界」と「巫者的世界」は別に存在していたのではなく融合していた。

ここで著者は無住の『沙石集』『雑談集』を分析の対象とする。僧侶が「夢」で「示現」を受けるエピソードを示し、それが実体として憑依の一種とみられるにもかかわらず、その正統性をアピールするために「夢」や「示現」といった用語が使われているらしいことを指摘する。そして高僧に死人の霊が取り憑いた事例を示す。つまり憑依は巫女のような下級宗教者とか平信徒だけでなく高僧にも起こりうる現象で、やはりそれは霊的世界へのチャネルとして扱われていた。だからこそ職業的巫者である巫女が、仏僧に拮抗しうる力があるとして認められていたのでもあった。そうした女性は「一方では「霊病」などといわれながらも、一定の仏教的教義を武器に、絶大な評判を得ていたことが推察される(p.222)」。

「憑依」が霊的世界へのチャネルであるとするならば、「供養」もそうだというのが著者の考えである。そして憑依で重要なことは、物狂いの状態になった時に、「憑依した霊的存在に名前をつけ、体験それ自体の存在価値を言語化する行為(p.229)」を行えるか否か、ということである。つまり単なる物狂いになっただけでは錯乱と変わりない。それが誰それの霊であるということが合理的に解釈できるかどうかが大事なのである。

「苦しむ死者」を自らに憑依させて要求を聞き出し、それに応じて供養を行うということは、霊的世界と現実世界を合理的に繋いでいることになる。そこに、教理的な宗教が担えない部分が存在している。近代では、憑依は主流派の宗教からは排除され、いかがわしい存在と扱われがちであるが、かつては憑依を介して死者の世界と現世とを繋いだ行者的な人々が大きな役割を果たしていた。現代でもそういう霊能者は存在しており、本書では密教系の女性僧侶の活動が例として取り上げられている。彼女は、霊が今どうなっているかを代弁し、残された人にどうして欲しいかを伝える。それは、苦しむ霊を救済するというよりも、残された人(ここでの例は子どもを失った女性)を救済する行為なのである。

それは、憑依や供養がどう発展してきたのかを示唆している。それは「苦しむ死者」を「安らかな死者」に変えるというより、生と死の世界を統合した解釈を提供し、死者に執着して苦しむ生者をこそ救済するためにあったのではないかということだ。憑依や供養といった「死者との個別取引」の回路は、本来はどうにもならない「死」という現実を、事後的に働きかけることによって救済することを可能とし、そして救済しうるということによって生者にこそ救済を与えたのである。

供養と憑依をキーにして死者と生者との関係性を再考する変わった視点の本。

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