日本の美称で「豊葦原の瑞穂の国」という言葉があるが、古代の日本には葦が生い茂る湿原的な浅瀬がたくさんあり、そういう地形の場所が港となっていた。そういう痕跡は、「~津」という地名に残されている。「津」は「船が安全に停泊できる波の穏やかな場所」を指す言葉で、古代の港は「~津」と呼ばれたものが多い。
だが現代では、「~津」はかなり内陸にある場所が多いため、そこが港であったことがわかりづらくなっている。例えば吉備津神社の吉備津は現在の海岸線から20キロメートルも内陸に位置し、難波津は10キロメートルほど離れている。どうしてこういうことになってしまったのか。
実は、吉備津は外海に面した港ではなく、潟湖(かたこ)地形の場所に設けられた港だった。潟湖地形とは、河川の河口部に砂州が形成されることで天橋立のような海との仕切りができ、その内側が浅い汽水湖となった、いわゆる「ラグーン(内海)」となっている地形のことである。なお、古代においては潟湖地形が港として利用されていたことを先駆的かつ包括的に論じたのが『日本の古代3 海を越えての交流』所収の森浩一「潟と港を発掘する」という論文である。
吉備津の場合、そのすぐ間際まで「吉備の穴海(あなうみ)」というラグーンになっていたし、難波津の場合も瀬戸内海に面しており、さらにその内陸側に「河内湖」というラグーンがあって、生駒山のふもとには白肩津(しらかたのつ)という港が設けられていた。こういう潟湖地形は河川からの沖積作用によって徐々に埋まり、また近世以降は干拓や河川改修によって耕地化された。このようにして、古代の港「津」はかなり内陸に位置することになったのである。
また興味深いことに、こういう古代の港の近くには、海上からのランドマークとなるような形で古墳が築造されていることが多い。これは海上からの目印になっていた可能性がある(ただし著者は、海からは意外と遠くから見えないと指摘している)。本書はいくつかの地域の古代の港とその近隣の古墳を概観するものである。なお古代地形については、「カシミール3D」というGISソフトを利用して復元している。
本書で取り上げられているのは、丹後、瀬戸内海(御津、室津、鞆の浦など)、遣新羅使のたどったルート(瀬戸内と宗像)、伊豆、平安京周辺、標津(北海道)、網取(西表島)の港である。以下、そのうち気になったところのみ述べる。
瀬戸内海は、古代から重要な海上ルートであったが、ここには複雑で早い潮流が流れており非常に航行が難しい海でもある(シーカヤックの第一人者内田正洋氏によると「世界で最も難しい海」(p.100))。著者はそのうち御津と室津を比較している。播磨灘に面した御津は古代にはラグーンのほとりに位置し、葦の生い茂る泥湿地帯だったと思われる。ちなみにその手前の半島にあるのが輿塚古墳であり、周辺には古墳時代以前の遺跡も多い。一方、室津はその近くにあり、ここも行基が開いたという伝説がある歴史的な港である。しかし自然条件は対照的で、室津は切り立った崖に囲まれた入り江である。史料を調べると、御津の方がより古くから栄えたが、奈良時代以降には室津の方が重要性が増していったことが窺える。それは、遣唐使船をはじめとした大型の船が御津には入港できなかったためと思われる。その代わりに水深の深い入り江に立地する室津が選択されていくのである。
著者は、葦が生い茂るラグーンの浅瀬にある港を「浅い港」、リアス式海岸の入り江にある水深の深い港を「深い港」と呼んでいる。古墳時代までは「浅い港」が栄え、奈良時代以降に構造船が航行するようになると「深い港」が栄えたというのが大まかな見取りである。そして「浅い港」は、ラグーンが陸化することにより機能を喪失していった。室津は現代でも港であるが、御津の方は今では海に面してすらいない。ただし、ある時期までは「深い港」と「浅い港」は併存していたと考えられる。
ここで著者は古代の船の構造について推測している。先史時代から丸木舟はあったが、弥生時代には準構造船(丸木舟に舷側板をとりつけた船)が登場した。そして古代には大陸・朝鮮半島からの影響で、底が平たい構造船が登場したと考えられる。ただし著者もいうように「船の構造を示す考古学的な資料はまったく見つかって(p.89)」いない。遣唐使船では1艘あたり100人以上の人が乗っていた場合があるので、かなり大きかったことだけは間違いない。
著者はさらに、奈良時代にたびたび繰り返された遷都を水上交通の観点から述べている。例えば難波京は平城京と併存していたが、これは海上交通に利便の地として造営されたとみられる。そしてこの時代の都城は複都制とも呼ぶべきもので、複数の都市を使い分けていたと考えた方が自然だ。難波京は646年に造営されて784年まで、空白期間はあるが活用された。この難波京がどんな地形に造営されたのかというと、難波津は大阪湾と河内湖を仕切る場所にあった。この時代に海上交通がいかに重視されていたかを難波京の立地は如実に示している。しかし難波津は、沖積作用によって河内湖が陸化することで機能を失っていった。難波堀江という、河内湖と難波津をつなぐ人工水路を仁徳天皇が造っているところを見ると、古墳時代中期にはすでに河内湖は陸化が進行していたと考えられる。また『続日本紀』には、762年に遣唐使船が難波津で動けなくなるという事件が発生しているので、河内湖の陸化が進んだのかもしれない(難波津は河内湖に面していたわけではない)。そして784年には長岡京へ遷都して難波京は廃止されている。こうしたことから、難波津の港としての機能は古代に失われつつあったと判断できる。
古代の港はラグーンに位置していたということはよく言われるが、古代の地形が示されることは少ない。一方、本書はカシミール3Dを使って大まかではあるが古代の地形を示しており、とても分かりやすい。ただ、全体として特に大上段の主張があるわけでもなく、様々な事例を「あれもあるこれもある」式で連ねた本である。著者は元来、オセアニアの人類学・考古学を専門としており、日本の古代は専門の中心ではないため、ある意味「肩の力を抜いて書いた本」のような気がする。
ラグーンに位置していた古代の港をわかりやすく示した小著。
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