古墳時代は、3世紀中ごろから6世紀後半にかけて350年続いた。この間、日本各地で大小10万基を超える数の古墳が造られた(文化庁によると古墳・横穴を合わせた数は15万4700基!)。古墳は支配秩序であり、権力のモニュメントであったが、他界観や信仰の意味も問わなければその本質には迫れない。本書は、古墳に残る痕跡から葬送儀礼(それを著者は「古墳の儀礼」と呼ぶ)や他界観・信仰を推測するとともに、古代中国文明との関連を考察するものである。
「第1章 古墳の出現とその実態」では、古墳について概説している。
弥生時代には円形や方形の周溝墓が造られ、次第にそれが支配権力を表すものとして分化・発展し、権力の格差付けを示すものとなった。その中で前方後方、前方後円の墳丘墓が現れる。円形・方形ではない墓の形は世界的に見ても珍しい。しかし大陸の影響は大きく、後漢から皇帝陵が円形に変わったことは日本でも円形優位となり、その後隋・唐では皇帝陵が全て方形になると日本でも飛鳥時代初期の大王墳は方形となっている。中国的墓制の影響を窺う上での好例は弥生後半の楯築墳丘墓で、この古墳には円形・組合式木棺を入れた木槨・割竹形木棺・家型土器・人型土製品など中国の墓制を受けた特徴がある。これをさらに発展させたのが3世紀中葉の箸墓古墳(前方後円墳)で、それは弥生的な葬送儀礼と中国式墓制を総合したものであったと考えられる。これは大王墳としてスタンダードとなった。大王墳は巨大な前方後円墳、首長はそれに次ぐ前方後円的な墳墓、民衆では方形の周溝墓、さらにその下層では木棺墓、土坑墓といった墓の秩序が日本列島を覆った。権力者の墓制のみならず、民衆レベルにまで墓の秩序が浸透したのは興味深い。
この秩序は、古墳のサイズ、副葬品などでも差別化され、また時期によって古墳の形が変化する。しかし驚くほど多様なのは棺・槨・室である。棺とは遺体の入れ物、槨とは棺を入れる施設、室とは棺を入れるとともに儀礼を行うスペースを言う。「古墳の墳丘を中心とする秩序だった外観とは異なり、埋葬施設は実に多様であった(p.34)」。
古墳時代の棺は我々がイメージする木棺とは違い、古墳に据え付けられていた。つまり遺体を入れた棺を古墳に運んできて納入したのではなくて、古墳にビルトインされた棺に遺体を運んで入れた。このように棺は動かす必要がなかったので数トンもあるような石棺が出現した。そして死者の入棺は古墳で行われた。これが墳丘頂上部で最後の別れを行うという古墳独特の葬法を生んだ。
棺には大きく2つの潮流があった。一つは密封型の棺(「閉ざされた棺」)、もう一つは逆に開放的な棺(「開かれた棺」)である(九州の古墳ではそもそも棺がなく死体が床にそのまま置かれていた(死床)ものもあった)。畿内の古墳での中心は「閉ざされた棺」である。
そして古墳の外観には「何らかの世界」が表現された。円筒埴輪を並べたり、葺石を並べたりするといったことである。著者はこれを他界の表現であると捉えている。ここで飲食物の供献を中心とした儀礼が少なくとも一度は行われた。
そして古墳の著しい特徴は、その後にはもう祭祀が行われなかったらしいことである。これは長く祭祀が続けられた中国の皇帝陵の場合との大きな違いだった。「人びとが一定期間、定期的に古墳へやってきて祭祀を行ったような痕跡はまったく見つかっていない(p.49)」。後述のように、古墳は大陸の影響を大きく受けていたが、この部分が非常に異なっていた。「古墳そのものは亡き首長の霊や歴代の祖霊を祀る場所とはならなかったと推測される(p.52)」。
なお、飲食物の供献は、最初は本物の飲食をささげていたと思われるが、その後土器で作った模倣品になった。これについて著者は埋葬後の儀礼が「永遠に続くことを期待したもの(p.51)」とする。そして副葬品も、当初は実物を入れていたのが仮器化が進行し、ミニチュア鉄器や滑石制模造品などになった。これは手抜きをしたのではなく、あえて実物を作らないことで他界のものであることを表現したと著者は考えている。
「第2章 他界としての古墳」では、古墳から推測される他界観について述べている。
大陸での死生観・他界観で代表的なのは、周末の『礼記』にある「魂気は天に帰り、形魄は地に帰る」というものだ。人間の霊には魂・魄の2種類があるとする観念である。これを古墳時代の日本人が受容したと著者は考え、「閉ざされた棺」では「形魄は墳丘内部の棺・槨のなかに厳重に密封された(p.56)」という。ただし、『礼記』では「地に帰る」としているのに、著者が遺体とともに形魄があったとする根拠は不明だ。また、なぜ形魄を厳重に密封する必要があったのかも判然としない。
一方、魂気をどう扱ったかについては、古墳には船を描いたものや舟型の棺など船の要素が散見され、船で魂が他界へ運ばれたと考えられる。さらには、古墳に埋葬する際には、死体を船に納め、これを牽いて古墳に運ぶ儀礼があったと考えられている。さらに、それらの船の船首に鳥が留まっていることも多い。これは当初鳳凰的な鶏だったのが、古墳時代中期には渡り鳥と思われる水鳥になっている。古墳時代の人々は、鳥にいざなわれて船で異界へ赴くという他界観を抱いていたようだ。著者はこれを「天鳥船(あまのとりふね)信仰」と名付けている。この信仰は前方後円墳とともに出現し、その消滅とともに姿を消した。
「第3章 埴輪の意味するもの」では埴輪について概説している。
古墳には多種多様な埴輪が副葬・配置された。時代的にいうと、円筒・壺・家・鶏・武具・船・馬・人物がだいたいこの順番で登場した。埴輪のほとんどは当時実在したものを象っており、空想的な構想力が横溢している縄文土器や土偶とは大きく異なる。どうやら古墳時代の異界は、現世と似たような世界だと思われていたようだ。
だが埴輪は現世のモノそのものではない。例えば壺などはわざわざ底に穴をあけて役に立たなくしている。このように敢えて現世で役に立たなくし他界のものとしての性格を与えることを埴輪化・仮器化という。つまり古墳内は他界と思われていた。古墳の墳丘上には埴輪が置かれることで他界であることが表現され、特に出入り口(=造出)周辺は入念にしつらえられた。古墳時代中期中葉、そうした表現方法が完成した直後に人物・動物の埴輪が出現する。
人物は、大きく分けて武装した人と非武装の人がいる。また被葬者自身が表現されたと考えられる埴輪もある。ふんどし姿の男性(便宜的に「力士」と呼ぶ)や女性の埴輪もある(なお女性が葬られたと見られる古墳もある)。また、女性の埴輪については、かつては巫女とされてきたが、食事など身の回りの世話をする者である可能性が高い。このように、埴輪の人物は現世同様あらゆる階層の男女がいる。人物埴輪は被葬者に服属して近侍する集団を表現していると見られる。なお動物では、半数を占めるのが馬で、その他に犬・鹿・猪・牛などがある。
埴輪の表現は、当初は呪術的・祭祀的なものであったが古墳時代中期に軍事的・実務的なものに変わっていった。この変化には、女性首長が消えたという背景がありそうで、大陸から父系イデオロギー・主従関係の在り方の流入があったのかもしれない。
なお、副葬品には武器・武具、鏡・装身具、農工漁具がある。このうち武器・武具は埴輪と共通している(その意味は不明だ)。なお土器類は副葬されない。副葬品と埴輪はどのような使い分けがされていたのか。著者はこれについて「古代中国から伝わった前漢以前に普及していた「槨墓的要素」と、秦漢以後に広がった「室墓的要素」が、列島の古墳の儀礼の中で混じりあい融合した結果(p.109)」とする。遺体を副葬品とともに他界に送り出す槨墓から、古墳に室を設けてそこを他界として表現する室墓へと変遷したが、これが副葬品+埴輪という組み合わせに対応しているというのである。
古墳は死後の世界の可視化であり、それは他界の表現としては仏教的な浄土表現に先行する最初のものである。これが古墳の第一の文化史的・精神史的意義だという。
「第4章 古墳の儀礼と社会の統合」では、古墳の築造の社会的意義について述べる。
古墳づくりは巨大プロジェクトである。膨大な労働力が投入され、また高い土木技術を必要とした。「素朴な道具と人海戦術にもかかわらず、前方後円墳形の墳丘の左右線対称で精美な形と仕上がりの良さには驚かされる(p.115)」。これには今でいう3D測量が必要だが、どんな測量技術を用いたのだろう。さらにそれを可能にした労務管理能力にも注目だ。大山古墳では2000人近い労働者が15年以上も作業に従事したと計算されているが、この人々をどう管理したのだろうか。造営キャンプを示す遺構はまだ見つかっていない。また数トンもある石棺はしばしば遠方から運ばれた。巨大な阿蘇石を有明海沿岸から畿内まで運んだというのだから驚く。著者は当時の船舶でこれが運べるか実験しており、現代でさえ航路上に位置する多くの人々の協力が必要だったといい、「高度な航海技術はもちろん、安定した自然条件、平和な政情と社会交通インフラの整備などがその成功を支えた(p.121)」と述べている。そして日本全国で同様な水準の前方後円墳を造ることができたのは、王権が技術支援(技術者の派遣等)したかららしい。古墳を造れることは、それを支えるインフラと技術と人があり、しかもそれが統合されていたことを示唆する。
というよりも、古墳づくりを行うために、あるいは古墳づくりがあったからこそ、そうした統合があったのかもしれない。だから著者は「古墳は造りつづけることに意味があった(p.131)」と考える。古墳の築造というプロジェクトを通じて社会を統合したのが古墳時代だったことになる。しかし古墳の被葬者にとってはともかく、民衆にとって古墳づくりはありがたいプロジェクトではなかった。国家的体制が整ってくると古墳づくりは単なる「労役や租税へと転化していった(同)」。
古墳は世界的に見てもかなり巨大な墓だが、これは日本列島のみならず東アジアに向けたデモンストレーションであったと著者は考える。墓の巨大さに比べて埋葬施設や副葬品は貧弱なのがその根拠の一つである。
このように古墳は多分に政治的な存在であり、その形態は国家による秩序に支配されていた。では魂が赴く他界の方はどうか。この点に関し明確な証拠はないが、著者は「他界においても、大王の祖神を頂点に各首長一族の祖霊・祖神を整理し秩序づける作業が進行したものと思われる。それは『記紀』に記された神話や伝承などが整えられていった過程でもあった可能性が高い(p.138)」としている。
「第5章 古墳の変質と横穴式石室」では、古墳時代中期から後期が概説される。
古墳時代前期から中期では、各地の首長を大王が統合するという社会システムだったのが、中期から後期では首長権力が後退し中央集権体制になる。その画期は「筑紫君磐井の乱」だという。この時期に登場する群集墓について著者は「国民の誕生(p.147)」と位置づける。また大王墳は120m程度とかえって小型化する。これは権力のデモンストレーションの必要が薄れたためかもしれない。また古墳の形態としては、横穴式石室が普及する。槨から室への転換は、墳丘上での儀礼が不要となり、追葬が可能になったという変化を伴っていた。横穴式石室には九州的石室、畿内的石室、それらの複合的石室の3つがある。
最も早く登場するのは4世紀後半の九州的石室で、3人分の遺体を死床に並べるものが多い。これはどこからか伝わったのではなく、九州で発生したと見られる。なお宮崎県南部から鹿児島県東部には「地下式横穴」という独自の墓がある(直下に掘り進んでから横穴となる構造)。これも九州的石室がアレンジされたのではなく独自に生まれたものらしい。畿内的石室は藤の森型を基礎に発展したものと考えられ、九州的石室が伝わったものではないようである。
九州的石室と畿内的石室の最も大きな違いは、九州的石室では先述のとおり棺がなく遺体が露出していたのに、畿内的石室ではしばしば巨大で厳重な石棺で遺体が密封されていたということである。面白いことに、島根(出雲)と和歌山には九州的石室に影響を受けたと見られる開放型の棺がある。こうした「閉ざされた棺」「開かれた棺」の違いに対し、著者は「密封型の棺では、死者は棺の中に密封され玄室内を自由に動きまわることができないのに対し、開放型の棺では、死者は棺を抜けだし玄室内を自由に動きまわることができる(p.168)」と述べ「前者では、死者は永遠の眠りにつく、あるいは消滅すると考えられたのに対し、後者では死者は蘇り室内を自由に動きまわると考えられたのである(同)」というが、この考えは逆の可能性も考慮が必要だと思う。
つまり、厳重に遺体を密封したのは、死者が蘇ったり、あるいは死者の魂が悪霊となって悪さをするのを防ぐという理由があったかもしれないし(消滅すると考えられていたなら厳重に密封する意味もない)、逆に遺体が密封されず露出していたのは、蘇る心配も悪霊になる心配もないということだったかもしれない。九州的石室では3人が順に葬られるが、2人目や3人目の遺体を運び込むときには1人目の遺体(や遺骨)がそこに露出していたはずだ。現代人であればこれは気味悪いと考えるが、当時の人はそう思っていなかったことになる。ただし、開放型に属する出雲の黄泉国訪問神話では死体が腐乱して悪霊化するので、著者の考えは少なくとも出雲では整合的だ。
なお黄泉国訪問神話を検討すると、それは九州的石室が描写されていると考えられるという。しかし黄泉比良坂に当たる構造は日本の古墳にはなく、これは中国の墓道の方が合致する。黄泉国訪問神話は中国で原型がつくられ、九州に伝わったものが後に列島風に書き換えられたものと著者は分析している。
なお、古墳には内部に装飾が施されたものが550基あまりあり、特に九州の装飾古墳は華麗である。当初の古墳装飾は辟邪的性格が強い。これは死体を怖ろしいと思っていたか、もしくは死体に怖ろしい存在が接触するのを避けたかのいずれかであろう。古墳時代後期の装飾古墳では辟邪的要素が薄れ、石室内で死者が生活しているという観念を前提としたものになっているという。
「第6章 古代中国における葬制の変革と展開」では、古代中国の葬制を概説している。
日本の古墳は、実は古代中国の葬制に大きく影響を受けている。古墳は日本古来の葬制ではないし、その他界観も在来のものではない。では古代中国の葬制はどうだったのかというのが問題になるが、この点について本章は手際よく要点をまとめており大変価値が高い。
古墳では、大雑把に言って槨墓から室墓へという変化があったが、古代中国では前5世紀~前3世紀という長い時間をかけて同様の変化があった。まず古代中国の墓は、墳丘はなく、地下に槨を封入するといったものだった。これは「閉ざされた棺」であった。しかも多くの副葬品と殉死も伴った。ということは、死後の生活が観念され、死後に奉仕する家臣を共に埋葬したとしか考えられない。ただし他界は現世とは別のレイヤーにあったために、生活のための部屋は不要だったと解釈できる。
これが春秋末期・戦国初期になると、槨内に死者が動くための通路や扉が現れ、やがて室に変化した。これは墓の中で死者が生活しているという観念に変わったことを意味する。さらに石棺にも出入口が設けられた。ということは、死者は石棺から抜け出して生活すると考えられたのは間違いない。ただし実際に石棺に出入口を作るのではなく、出入口風の装飾(偽門)を付けるというものも多い。死者の肉体が蘇るというよりは、その魂が出てくると考えていたのかもしれない。また墓内には多様な装飾が施された。特に絹に絵を描く帛画では、死者の魂が龍に乗って昇仙するというテーマが描かれたのが面白い。やがて殉葬は衰退し、その代わりに土や木で作った人形模造品が副葬され、また青銅製の副葬品も徐々に姿を消し、食器や道具や家畜などの木や土の模造品(仮器)となった。他界の表現となったということになる。こうした変化とあわせて方形の墳丘が設けられるようになった。
秦・前漢の時代には室墓が定着し、身分による墳丘の格差も進行した。前漢の満城1号墓(河北省)では地下に大規模な空間が設けられ、まさに死者の生活空間となっている。こうした変化を踏まえると、槨墓的な元来の魂魄観・他界観が変化し、死者は天上に昇るのではなく地下で暮らすと考えられた可能性が高い。これが黄泉国の観念の元になっていると思われる。卜千秋墓(河南省)では壁画が残っているが、ここには西王母が表現されている。室内の他界が崑崙山とつながっていると認識されていたかもしれない。
後漢になると大型墓の墳丘は円形に変わり、槨墓はほとんどなくなった。石棺に図像を表現した画像石棺が盛んに作られたが、そのテーマは被葬者が車馬で無事他界に到着し迎え入れられたことを示すものが多い。ちなみにその他界の建物の屋根には鳳凰が留まっている。
三国時代から南北朝時代になると、205年に魏の曹操が薄葬を命じ、また222年に曹丕が墳丘並びに陵前の寝殿・集落の造営を禁じてからは葬制・墓制が大きく変化した。また南北朝期からは地域ごとに多様となった。ここからは北部と南部の記述が並行され、しかも薄葬と厚葬の揺り戻しが繰り返され動向は複雑である。結果のみをまとめると、北部では玄室で死者が暮らしているという観念が続き「開かれた棺」であったが、南部ではそうした観念が希薄で玄室は閉鎖的で槨的なものになっていった。そして玄室の前室は祭祀のためのスペースとなった(墓室内祭祀)。なお南北ともに追葬が行われるようになり、夫婦の合葬は基本となった。
他方、長江以南では船棺葬という独自の葬制があった。丸木舟(のような棺)に遺体を封入するのである。この地域では船が他界への乗り物だという観念があった。ただし南部へ室墓が普及した段階では船棺葬は低調となった。
また鳥船信仰についてはどうか。先述のように、北部では龍に乗って天上に赴くという観念から車馬で赴くように変化した。鳳凰は乗り物というよりは他界からの死者である。南部で、こうした北部的観念と他界への乗り物としての船が融合し、鳥に導かれて船で他界に赴くという観念が生まれたと思われる。ただしこの他界は海上ではなく天上にある可能性が高い。ベトナムや東南アジアにも船を他界の乗り物と見なす観念があり、これが中国と日本に別々に伝わっている可能性もある。
「第7章 日中葬制の比較と伝播経路」では、弥生時代からの葬制が振り返られ、これまでの知見が総合される。
弥生時代の日本の葬制は基本的に「閉ざされた棺」で、そこに中国から槨墓的要素・室墓的要素・船棺などの要素が伝わってきた。古墳時代に埴輪が登場することは、他界の表現という室墓(「開かれた棺」)的な変化を表している。しかしこの段階では墳丘内部では槨墓的な「閉ざされた棺」であった。そして天鳥船信仰が伝わってくる。天鳥船信仰が長江流域から伝播したという直接的な資料はないが、古墳時代の葬制の基層は弥生文化+長江流域の船棺葬であったと見られる。
中期には船棺は退潮して葬送儀礼(古墳の儀礼)が完成するとともに、他界表現はより充実した。古墳の儀礼では、「葬列から埴輪配列が示す他界表現まで、画像石に表現された昇仙図の筋書きが大きな影響を与えた可能性がある(p.251)」。人物埴輪の出現は、俑の情報を元にして列島風にアレンジされたものだったと思われる。なお日本には確実な殉死の例はない。
一方、九州の「開かれた棺」の系譜は北朝・高句麗系の棺・室に求めるほかない。ただし九州の地下式横穴については、「北朝で発達した土洞墓との関連を推測させるだけで、詳細は不明(p.258)」。
後期では、畿内的石室・九州的石室が展開したが、畿内では「閉ざされた棺」が続いた。本来は石室は「開かれた棺」とセットであるべきだがここで一種のねじれが生じている。また畿内では石室内で食物の供献が行われた。これは死者の食べ物なのか。かつてこの儀礼は「ヨモツヘグイ(他界の食べ物を食べることで他界の者になること)」と理解されたが、「閉ざされた棺」である限りそれは死者の食物ではありえない。死者との別れの儀式ではないかというのが著者の考えである。
さらに6世紀後半には、夫婦を中心とする複数埋葬が多くなる。九州的石室にも複室構造をもつものが現れ、また彩色した絵画が登場した。なおこうした葬制には高句麗の影響が大きいと見られるが、高句麗には天鳥船信仰の表現はまったくない。
後期後葉、天鳥船信仰は退潮し、埴輪も見られなくなる。古墳は他界表現を失い、墓標に近づいた。社会的にも古墳による社会秩序から、法制的原理の規定が優越するようになったと見られる。
このように、「日本列島の弥生・古墳時代の葬制・墓制は、新石器時代以来の中国大陸における葬送・墓制の影響を強く受けつつも、それらを巧みに消化し、列島独自に作りあげたもの(p.227)」なのである。
本書は全体として、古墳について詳しくかつ網羅的にまとめており、教科書的な価値が高い。ただし文献史料との対照は部分的なものにとどまり、考古学からの知見が主である。またその中で、類書では等閑に付されがちな他界観について考究しているのが興味深い。特に他界観を「開かれた棺/閉ざされた棺」と「槨墓/室墓」という二元的な原理で考察しているのが明解である。
しかしながら、著者がいう他界観が腑に落ちない点も多い。そこで私は著者の二元軸に付け加えて「死体を怖ろしいものだと思うか/そうでないか」を付け加えたい。密封した「閉ざされた棺」は、死体が永遠の眠りにつくとか霊魂が消滅するとか考えるよりも、単純に「死体が怖ろしかった」と考える方がすっきりと説明できる。逆に死床に死体を露出させて安置した九州の人々は、死体が石室内で動きまわれるようにしたと考えるより、死体をそれほど怖れていなかったとした方が理に適う。というのは、追葬する時には先に埋葬した人はすっかり骨になっていただろうから、「室内を動きまわって生活していた」という観念は育みがたいと思うのだ。
ところで黄泉国訪問神話で、イザナギは死んだイザナミに会いに行くが、これはイザナギが死者を恐れていなかったことを示唆する。しかし腐敗したイザナミの姿を見てしまいイザナギは逃げ出す。ここで初めてイザナギは死者への恐れを抱いている。これはどう解釈できるのか、今私にもよくわからないが気になる神話である。
もう一つ、著者が注目していないのは気候である。古墳時代は、「古墳寒冷期」と呼ばれる日本の歴史の中では顕著な寒冷期に当たっていた。これは死体の腐敗が遅れることを意味していたと思う。九州でそれほど死体が恐れられていなかったとすれば、それは九州が比較的暖かだったために速やかに腐敗・分解して骨になったからだと考えたい。逆に畿内では、寒冷なために長く死体が保存されたことが恐ろしさにつながったと解釈できる。つまり、他界観がどうこうというより、単純に死体がどう腐敗・分解して骨になったかという点も、古墳の葬制に影響を与えたのではないかと思うのである。
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