2026年2月7日土曜日

『日本人の葬儀』新谷 尚紀 著

日本人の葬儀について民俗学の立場から概説する本。

本書は1992年に発表されたもので、内容がやや古い。私は新谷尚紀(たかのり)が若い頃にどんな視点から葬儀を見ていたのだろうと本書を手に取った。新谷尚紀は本書を発表した後も精力的に葬祭や信仰の研究を続け、民俗学の立場からの葬祭史の第一人者となっている。

「I 葬儀の深層」では、葬儀にまつわる民俗が大量の事例とともに紹介される。

ここでは日本人の葬儀が概説されるとともに、そこで米が重要な役割を担っていたことが強調される。そもそも香奠は、葬儀期間中の関係者の食糧として持ち寄られたものだった。ではなぜ米でないといけないのか。著者は「米にはある種の霊力があると考えられていた」と考える。死の力を中和するために米が必要だったというのだ。

また「四十九餅」という民俗事例が紹介される。私は聞いたことがなかったが広く分布しているらしい。葬儀が終わった後に四十九餅(しばしばそれは49個の餅である)を搗き、埋葬の直後や四十九日に食べたり寺に持って行ったりして死者との別れをするというものである。これについて著者は「かつて日本の葬送儀礼においては、死後四十九日間程度のモガリの期間が存在したということを暗示(p.60)」しているという。

それから、死者が出るとそのケガレは火を通じて感染するものと考えられ、使う火を別にする(別火)という習慣もあった。これは不思議なことにお産の時も似たようなことがある。葬式と誕生にはどこか通ずる部分があるらしい。

葬儀が終わると大抵は墓塔を建てるが、石積みをするというのがもっと古くからの民俗だ。神社や寺に石を奉納することもよくあることで、その石を水辺から拾ってくることも多い。これは丸っこい石が好まれたという以上の理由があるのかもしれず、水辺から持ってくることに意味があった可能性がある。

「II 葬儀の歴史」では、古代・中世・近世の葬儀が文献史料から概説される。

まずは古代天皇の葬儀である。記紀によれば、天皇は死後一定期間、殯(もがり)の儀礼が行われた。天武天皇の場合、2年間もさまざまな儀礼が行われた。具体的には発哭・発哀・慟哭などの哭泣儀礼、歌舞、供物(特に食事)がささげられた。ここで天皇はまだ完全な死者とはみなされず、食膳をささげ続け、同時に哭泣が行われ、最後に誄(しのびごと)がささげられて儀礼が完了した。それにしてもどうして殯が行われたのかはっきりしない。著者は歌舞がささげられる理由は、死んだ人の魂は怖ろしく災いをもたらすから、それを鎮める鎮魂の儀礼だったとするが、これは「完全な死者とは見なさない」という前提と食い違うような気もする。殯が立脚していた死生観とはなんなのだろう。

8世紀から9世紀には、天皇家は積極的に薄葬を進めた。これは儒教的な思想に基づき、葬送に多くの費用を費やすことが民の負担になるという考えで行われたと著者は考えている。確かに大火薄葬令では、葬送造墓に財を尽くすことは「諸の愚俗(おろかびと)のする所なり」とされている。おそらくはこの葬送推進の一環で殯は文武天皇を最後に行われなくなり、立派な墓(陵)も作られなくなった。一方で、初七日から七七日までの追善供養はむしろ盛んになっている。嵯峨天皇と淳和天皇はさらに薄葬を徹底させ、墓自体が不要だと述べている。淳和天皇は「人没して精魂天に皈る。而るに空冢墓(からちょうぼ)に存す」と言っている。墓には魂はなく空っぽだといい、彼は散骨を指示した。一方で同様に薄葬を指示した嵯峨天皇は仏教儀礼は推奨し「釈家の論、絶棄すべからず」と言っている。清和天皇になると自ら出家入道の身で西方に向かって結跏趺坐し、手に定印を結んで入滅した。

平安時代の貴族の葬送については、寛弘8年(1011)の一条天皇の葬送を『御堂関白記』『権記』『小右記』の記録を元に紐解いている。この葬送では、四十九日の法事とか一周忌など現代と同じような儀礼がすでに実行されている。気になったのは、火葬した後の遺骨に幾人かがしばらく祗候していることである。また遺骨は円成寺に3年安置され、一周忌までは伴侶6名で阿弥陀護摩を修し、その後は5名の僧で念仏を奉仕することとしている(その後陵に埋葬)。遺骨に対する儀礼が3年間もあったのは興味深い。

また万寿2年(1025)に亡くなった藤原嬉子の葬儀もさまざまに記録されておりこれも詳述される。当時は母は子の葬送に立ち会わないという習慣があったが、この理由は気になる。また葬儀後に銀製の多宝塔が建立されているのも興味深い。また現代と違うのは、「僧を中心とする盛大な儀式があまり行われていない(p.183)」ことである。

次に中世である。ここでは、中世の葬儀の次第について記した「吉事次第」とその類書「吉事略儀」をまず参照する。これらの儀礼は現在の葬送儀礼とさほど異なるものではないが、枕飯や枕団子、四十九日餅など、食物についての記事は全く見えない。これには著者も「不可解だ」としている。次に天文19年(1550)に行われた足利義晴の葬送が「万松院殿穴太記(あなほき)」によって述べられる。ここでは位牌が葬儀の中心的位置を占めているのが注目される。なお位牌は紙で包まれ(←⁉)、「新捐館万松院殿贈一品左相府曄山照公大居士昭儀」と書かれていた。また葬儀後に位牌所をどこにするかで軽い綱引きが行われているのも注目される。ほとんどの儀礼が現代と共通だが、違うのは葬儀に際して馬をひくということである。

近世の葬儀については、幕府の奥右筆であった屋代弘賢が全国各地にアンケート調査をした結果が残っているのでこれから窺う。このアンケート調査は文化12年(1815)に行われ、調査項目は葬儀だけでなく各地の年中行事や冠婚葬祭を調査するものである。それらを見ると、やはり位牌の存在感が大きい。位牌は相続者を明示する機能を持っていた。それから水戸藩では「士以上」が仏式ではなく「儒法」によって葬儀が行われており、墓地が菩提寺ではない場所に置かれている。町人以下は仏式のようだ。全体を通じて、近世の葬送習俗は現代(戦前戦後あたり)と同じものである。

「III 他界への憧憬」では、日本人が抱いていた他界観が様々な民俗事例から推測される。

柳田国男は『先祖の話』で、盆には先祖・新仏・無縁仏の3種の霊がやってくると述べたが、民俗事例を見てみるとそのような区別はなく、時代的な変遷として様々な祀り方があったと考えた方が自然であることがわかった。家に仏壇が常設され位牌が祀られるようになって盆の習俗が変化した結果としてあたかも3種の霊を区別していたかのような様相となった。ではなぜ無縁仏を祀るという発想が出てきたのか。著者はこれについて、庶民はただ先祖を祀るとだけ考えていたのに、それに対して「戸外の盆棚は無縁仏をまつるものだ」と檀家寺の住職が盛んに説いた事例があることを指摘し、無縁仏とは仏壇に祀られない霊が寺院によってクローズアップされた結果広まったのではないかとしている。一方で、無縁仏を祀る観念の方が古い可能性もあるといい、要するによくわからない。

次に、これも柳田国男が提起した「人を神に祀る風習」について取り上げ、その背景には遺骨と霊魂を分離する思想があったことを指摘している。明治神宮は明治天皇を祀ってはいてもそこに遺骨(や遺体)はない。逆に言うと、遺骨や遺体があればそこは神社たりえないのではないかという。当初は慰霊の施設でも、いったん神とされてしまうと何らかの霊威があるものとされ、祈願の対象ともなった。そしてそういうことを期待して、人を神に祀ろうとする利害関係者もいた。

次に他界観の検討で、面白い事例が提示される。同じような海辺にある半農半漁の村でも、死後は海の彼方に魂を送るとしている場所と、山の方に死者の世界の入り口があると観念されている場所の両方が見いだせるというのだ。これについて著者は日本人の他界観は「そう単純な画一的なものではない(p.291)」といい、他界観は「それぞれの地域社会ごとに、伝統的な生活の蓄積の中で形成されてきている(同)」という。この指摘は重要だ。つまり、他界観については正統的教義がない(または弱い)というのが日本の特徴だということなのである。もちろん仏教では六道輪廻とか浄土とか様々に死後の世界を喧伝したが、こうした死後イメージは日本人の他界観に全面的には受け入れられていないのは間違いない

また各地には怪物退治と人身御供の伝説が大量に残っている。どうやら日本人の他界イメージは怖ろしいものであるらしい。もしくは日本人の神のイメージが生贄を求める怪物的なものであったのかもしれない。

さらに一の谷墓地での調査結果が簡単に触れられ、中世から近世への墓地の変遷が概括される。一の谷墓地は、鎌倉から戦国までの長い間、見付の町(静岡県磐田市)の墓地としてあらゆる階層の人々が葬られた場所である。これは町の中にあるのではなく、町の後背地にある。豊後国の大友氏は町の中に墓を作ることを禁じているが、一の谷墓地にも同様の事情があったのかもしれない。ただし、大友氏が府中への墓所を作ることを禁じているということは、実際にはそうする人がいたことを意味する。一般の人にとって町中に墓地を作ることは自然なことだったが、権力者にとっては都合が悪かったことになる。また見付の町には多くの寺院があったが、それらの寺院は葬送や死者供養にはかかわっていなかったと見られる。墓地に隣接した護世寺(浄土宗)だけがその役割を担っていたようだ。近世になると見付の町にある各宗派の寺院に境内墓地がつくられるようになり一の谷墓地は廃絶した。

最後に、昔話「三枚のお札」をキーにして、日本人の心性において便所に妙な存在感があることを指摘している。

最初に述べたように、この本はやや古く、ケガレ概念の扱いなどは現代から見ると脇が甘いような気がする。日本人の葬儀の思想を解明しようとするよりは、わかっていることをまとめてその後の議論の土台を作っているような本である。ただし最後の「三枚のお札」の考察は毛色が違い、葬儀とは直接の関係はないながら、子供の遊び歌などから異界観を探っていく手法はより幅広く展開できる可能性を感じた。

また全体を通じて特に注意を引いたのが、近世における位牌の存在感の大きさである。位牌こそが近世での死の儀礼の中心だったのかもしれない。

ちなみに、本書には著者がその後取り組むことになる研究テーマの多くが萌芽的に表れているように思われる。特に、葬儀そのものよりその背景にある他界観に注目していることは著者の独自性であり興味を引いた。

葬儀と他界観を合わせて考察した先駆的論考。

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