2026年2月27日金曜日

『よみがえる古代の港―古地形を復元する』石村 智

日本の古代の港の実態を地形から推測する本。

日本の美称で「豊葦原の瑞穂の国」という言葉があるが、古代の日本には葦が生い茂る湿原的な浅瀬がたくさんあり、そういう地形の場所が港となっていた。そういう痕跡は、「~津」という地名に残されている。「津」は「船が安全に停泊できる波の穏やかな場所」を指す言葉で、古代の港は「~津」と呼ばれたものが多い。

だが現代では、「~津」はかなり内陸にある場所が多いため、そこが港であったことがわかりづらくなっている。例えば吉備津神社の吉備津は現在の海岸線から20キロメートルも内陸に位置し、難波津は10キロメートルほど離れている。どうしてこういうことになってしまったのか。

実は、吉備津は外海に面した港ではなく、潟湖(かたこ※)地形の場所に設けられた港だった。潟湖地形とは、河川の河口部に砂州が形成されることで天橋立のような海との仕切りができ、その内側が浅い汽水湖となった、いわゆる「ラグーン(内海)」となっている地形のことである。なお、古代において潟湖地形が港として利用されていたことを先駆的かつ包括的に論じたのが『日本の古代3 海を越えての交流』所収の森浩一「潟と港を発掘する」という論文である。

吉備津の場合、そのすぐ間際まで「吉備の穴海(あなうみ)」というラグーンになっていたし、難波津の場合も瀬戸内海に面しており、さらにその内陸側に「河内湖」というラグーンがあって、生駒山のふもとには白肩津(しらかたのつ)という港が設けられていた。こういう潟湖地形は河川からの沖積作用によって徐々に埋まり、また近世以降は干拓や河川改修によって耕地化された。このようにして、古代の港「津」はかなり内陸に位置することになったのである。

また興味深いことに、こういう古代の港の近くには、海上からのランドマークとなるような形で古墳が築造されていることが多い。これは海上からの目印になっていた可能性がある(ただし著者は、海からは意外と遠くから見えないと指摘している)。本書ではいくつかの地域の古代の港とその近隣の古墳を概観してそれぞれ考察している。なお古代地形については、「カシミール3D」というGISソフトを利用して復元している。

本書で取り上げられているのは、丹後、瀬戸内海(御津、室津、鞆の浦など)、遣新羅使のたどったルート(瀬戸内と宗像)、伊豆、平安京周辺、標津(北海道)、網取(西表島)の港である。以下、そのうち気になったところのみ述べる。

瀬戸内海は、古代から重要な海上ルートであったが、ここには複雑で早い潮流が流れており非常に航行が難しい海でもある(シーカヤックの第一人者内田正洋氏によると「世界で最も難しい海」(p.100))。著者はそのうち御津と室津を比較している。播磨灘に面した御津は古代にはラグーンのほとりに位置し、葦の生い茂る泥湿地帯だったと思われる。ちなみにその手前の半島にあるのが輿塚古墳であり、周辺には古墳時代以前の遺跡も多い。一方、室津はその近くにあり、ここも行基が開いたという伝説がある歴史的な港である。しかし自然条件は対照的で、室津は切り立った崖に囲まれた入り江である。史料を調べると、御津の方がより古くから栄えたが、奈良時代以降には室津の方が重要性が増していったことが窺える。それは、遣唐使船をはじめとした大型の船が御津には入港できなかったためと思われる。その代わりに水深の深い入り江に立地する室津が選択されていくのである。

著者は、葦が生い茂るラグーンの浅瀬にある港を「浅い港」、リアス式海岸の入り江にある水深の深い港を「深い港」と呼んでいる。古墳時代までは「浅い港」が栄え、奈良時代以降に構造船が航行するようになると「深い港」が栄えたというのが大まかな見取りである。そして「浅い港」は、ラグーンが陸化することにより機能を喪失していった。室津は現代でも港であるが、御津の方は今では海に面してすらいない。ただし、ある時期までは「深い港」と「浅い港」は併存していたと考えられる。

ここで著者は古代の船の構造について推測している。先史時代から丸木舟はあったが、弥生時代には準構造船(丸木舟に舷側板をとりつけた船)が登場した。そして古代には大陸・朝鮮半島からの影響で、底が平たい構造船が登場したと考えられる。ただし著者もいうように「船の構造を示す考古学的な資料はまったく見つかって(p.89)」いない。遣唐使船では1艘あたり100人以上の人が乗っていた場合があるので、かなり大きかったことだけは間違いない。

著者はさらに、奈良時代にたびたび繰り返された遷都を水上交通の観点から述べている。例えば難波京は平城京と併存していたが、これは海上交通に利便の地として造営されたとみられる。そしてこの時代の都城は複都制とも呼ぶべきもので、複数の都市を使い分けていたと考えた方が自然だ。難波京は646年に造営されて784年まで、途中に空白期間はあるが活用されている。この難波京がどんな地形に造営されたのかというと、難波津は大阪湾と河内湖を仕切る場所にあったのである。この時代に海上交通がいかに重視されていたかを難波京の立地は如実に示している

しかし難波津は、沖積作用によって河内湖が陸化することで機能を失っていった。難波堀江という、河内湖と難波津をつなぐ人工水路を仁徳天皇が造っているところを見ると、古墳時代中期にはすでに河内湖は陸化が進行していたと考えられる。また『続日本紀』には、762年に遣唐使船が難波津で動けなくなるという事件が発生しているので、河内湖の陸化が進んだのかもしれない(難波津は河内湖に面していたわけではないが)。そして784年には長岡京へ遷都して難波京は廃止されている。こうしたことから、難波津の港としての機能は早くも古代に失われつつあったと判断できる。

古代の港はラグーンに位置していたということはよく言われるが、古代の地形が示されることは少ない。一方、本書はカシミール3Dを使って大まかではあるが古代の地形を示しており、とても分かりやすい。本書は全体として大上段の主張があるわけではなく、様々な事例を「あれもあるこれもある」式で連ねた本である。著者は元来、オセアニアの人類学・考古学を専門としており、日本の古代は専門の中心ではないため、ある意味「肩の力を抜いて書いた本」のような気がする。

ラグーンに位置していた古代の港をわかりやすく示した小著。

※本書では「潟湖」に「かたこ」とルビがあるが、国語辞典的には「せきこ」という。

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2026年2月15日日曜日

『古墳と埴輪』和田 晴吾 著

古墳を多面的に考究する本。

古墳時代は、3世紀中ごろから6世紀後半にかけて350年続いた。この間、日本各地で大小10万基を超える数の古墳が造られた(文化庁によると古墳・横穴を合わせた数は15万4700基!)。古墳は支配秩序であり、権力のモニュメントであったが、他界観や信仰の意味も問わなければその本質には迫れない。本書は、古墳に残る痕跡から葬送儀礼(それを著者は「古墳の儀礼」と呼ぶ)や他界観・信仰を推測するとともに、古代中国文明との関連を考察するものである。

「第1章 古墳の出現とその実態」では、古墳について概説している。

弥生時代には円形や方形の周溝墓が造られ、次第にそれが支配権力を表すものとして分化・発展し、権力の格差付けを示すものとなった。その中で前方後方、前方後円の墳丘墓が現れる。円形・方形ではない墓の形は世界的に見ても珍しい。しかし大陸の影響は大きく、後漢から皇帝陵が円形に変わったことで日本でも円形優位となり、その後隋・唐では皇帝陵が全て方形になると日本でも飛鳥時代初期の大王墳は方形となっている。中国的墓制の影響を窺う上での好例は弥生後半の楯築墳丘墓で、この古墳には円形・組合式木棺を入れた木槨・割竹形木棺・家型土器・人型土製品など中国の墓制を受けた特徴がある。これをさらに発展させたのが3世紀中葉の箸墓古墳(前方後円墳)で、それは弥生的な葬送儀礼と中国式墓制を総合したものであったと考えられる。これは大王墳としてスタンダードとなった。大王墳は巨大な前方後円墳、首長はそれに次ぐ前方後円的な墳墓、民衆では方形の周溝墓、さらにその下層では木棺墓、土坑墓といった墓の秩序が日本列島を覆った。権力者の墓制のみならず、民衆レベルにまで墓の秩序が浸透したのは興味深い。

この秩序は、古墳のサイズ、副葬品などでも差別化され、また時期によって古墳の形が変化する。しかし驚くほど多様なのは棺・槨・室である。棺とは遺体の入れ物、槨とは棺を入れる施設、室とは棺を入れるとともに儀礼を行うスペースを言う。「古墳の墳丘を中心とする秩序だった外観とは異なり、埋葬施設は実に多様であった(p.34)」。

古墳時代の棺は我々がイメージする木棺とは違い、古墳に据え付けられていた。つまり遺体を入れた棺を古墳に運んできて納入したのではなくて、古墳にビルトインされた棺に遺体を運んで入れた。このように棺は動かす必要がなかったので数トンもあるような石棺が出現した。そして死者の入棺は古墳で行われた。これが墳丘頂上部で最後の別れを行うという古墳独特の葬法を生んだ。

棺には大きく2つの潮流があった。一つは密封型の棺(「閉ざされた棺」)、もう一つは逆に開放的な棺(「開かれた棺」)である(九州の古墳ではそもそも棺がなく死体が床にそのまま置かれていたもの(死床)もあった)。畿内の古墳での中心は「閉ざされた棺」である。

そして古墳の外観には「何らかの世界」が表現された。円筒埴輪を並べたり、葺石を並べたりするといったことである。著者はこれを他界の表現であると捉えている。ここで飲食物の供献を中心とした儀礼が少なくとも一度は行われた。

そして古墳の著しい特徴は、その後にはもう祭祀が行われなかったらしいことである。これは長く祭祀が続けられた中国の皇帝陵の場合との大きな違いだった。「人びとが一定期間、定期的に古墳へやってきて祭祀を行ったような痕跡はまったく見つかっていない(p.49)」。後述のように、古墳は大陸の影響を大きく受けていたが、この部分が非常に異なっていた。「古墳そのものは亡き首長の霊や歴代の祖霊を祀る場所とはならなかったと推測される(p.52)」。

なお、飲食物の供献は、最初は本物の飲食をささげていたと思われるが、その後土器で作った模倣品になった。これについて著者は埋葬後の儀礼が「永遠に続くことを期待したもの(p.51)」とする。そして副葬品も、当初は実物を入れていたのが仮器化が進行し、ミニチュア鉄器や滑石制模造品などになった。これは手抜きをしたのではなく、あえて実物を作らないことで他界のものであることを表現したと著者は考えている。

「第2章 他界としての古墳」では、古墳から推測される他界観について述べている。

大陸での死生観・他界観で代表的なのは、周末の『礼記』にある「魂気は天に帰り、形魄は地に帰る」というものだ。人間の霊には魂・魄の2種類があるとする観念である。これを古墳時代の日本人が受容したと著者は考え、「閉ざされた棺」では「形魄は墳丘内部の棺・槨のなかに厳重に密封された(p.56)」という。ただし、『礼記』では「地に帰る」としているのに、著者が遺体とともに形魄があったとする根拠は不明だ。また、なぜ形魄を厳重に密封する必要があったのかも判然としない

一方、魂気をどう扱ったかについては、古墳には船を描いたものや舟型の棺など船の要素が散見され、船で魂が他界へ運ばれたと考えられる。さらには、古墳に埋葬する際には、死体を船に納め、これを牽いて古墳に運ぶ儀礼があったと考えられている。さらに、それらの船の船首に鳥が留まっていることも多い。これは当初鳳凰的な鶏だったのが、古墳時代中期には渡り鳥と思われる水鳥になっている。古墳時代の人々は、鳥にいざなわれて船で異界へ赴くという他界観を抱いていたようだ。著者はこれを「天鳥船(あまのとりふね)信仰」と名付けている。この信仰は前方後円墳とともに出現し、その消滅とともに姿を消した。

「第3章 埴輪の意味するもの」では埴輪について概説している。

古墳には多種多様な埴輪が副葬・配置された。時代的にいうと、円筒・壺・家・鶏・武具・船・馬・人物がだいたいこの順番で登場した。埴輪のほとんどは当時実在したものを象っており、空想的な構想力が横溢している縄文土器や土偶とは大きく異なる。どうやら古墳時代の異界は、現世と似たような世界だと思われていたようだ。

だが埴輪は現世のモノそのものではない。例えば壺などはわざわざ底に穴をあけて役に立たなくしている。このように敢えて現世で役に立たなくし他界のものとしての性格を与えることを埴輪化・仮器化という。つまり古墳内は他界と思われていた。古墳の墳丘上には埴輪が置かれることで他界であることが表現され、特に出入り口(=造出)周辺は入念にしつらえられた。古墳時代中期中葉、そうした表現方法が完成した直後に人物・動物の埴輪が出現する。

人物は、大きく分けて武装した人と非武装の人がいる。また被葬者自身が表現されたと考えられる埴輪もある。ふんどし姿の男性(便宜的に「力士」と呼ぶ)や女性の埴輪もある(なお女性が葬られたと見られる古墳もある)。また、女性の埴輪については、かつては巫女とされてきたが、食事など身の回りの世話をする者である可能性が高い。このように、埴輪の人物は現世同様あらゆる階層の男女がいる。人物埴輪は被葬者に服属して近侍する集団を表現していると見られる。なお動物では、半数を占めるのが馬で、その他に犬・鹿・猪・牛などがある。

埴輪の表現は、当初は呪術的・祭祀的なものであったが古墳時代中期に軍事的・実務的なものに変わっていった。この変化には、女性首長が消えたという背景がありそうで、大陸から父系イデオロギー・主従関係の在り方の流入があったのかもしれない。

なお、副葬品には武器・武具、鏡・装身具、農工漁具がある。このうち武器・武具は埴輪と共通している(その意味は不明だ)。なお土器類は副葬されない。副葬品と埴輪はどのような使い分けがされていたのか。著者はこれについて「古代中国から伝わった前漢以前に普及していた「槨墓的要素」と、秦漢以後に広がった「室墓的要素」が、列島の古墳の儀礼の中で混じりあい融合した結果(p.109)」とする。遺体を副葬品とともに他界に送り出す槨墓から、古墳に室を設けてそこを他界として表現する室墓へと変遷したが、これが副葬品+埴輪という組み合わせに対応しているというのである。

古墳は死後の世界の可視化であり、それは他界の表現としては仏教的な浄土表現に先行する最初のものである。これが古墳の第一の文化史的・精神史的意義だという。

「第4章 古墳の儀礼と社会の統合」では、古墳の築造の社会的意義について述べる。

古墳づくりは巨大プロジェクトである。膨大な労働力が投入され、また高い土木技術を必要とした。「素朴な道具と人海戦術にもかかわらず、前方後円墳形の墳丘の左右線対称で精美な形と仕上がりの良さには驚かされる(p.115)」。これには今でいう3D測量が必要だが、どんな測量技術を用いたのだろう。さらにそれを可能にした労務管理能力にも注目だ。大山古墳では2000人近い労働者が15年以上も作業に従事したと計算されているが、この人々をどう管理したのだろうか。造営キャンプを示す遺構はまだ見つかっていない。また数トンもある石棺はしばしば遠方から運ばれた。巨大な阿蘇石を有明海沿岸から畿内まで運んだというのだから驚く。著者は当時の船舶でこれが運べるか実験しており、現代でさえ航路上に位置する多くの人々の協力が必要だったといい、「高度な航海技術はもちろん、安定した自然条件、平和な政情と社会交通インフラの整備などがその成功を支えた(p.121)」と述べている。そして日本全国で同様な水準の前方後円墳を造ることができたのは、王権が技術支援(技術者の派遣等)したかららしい。古墳を造れることは、それを支えるインフラと技術と人があり、しかもそれが統合されていたことを示唆する。

というよりも、古墳づくりを行うために、あるいは古墳づくりがあったからこそ、そうした統合があったのかもしれない。だから著者は「古墳は造りつづけることに意味があった(p.131)」と考える。古墳の築造というプロジェクトを通じて社会を統合したのが古墳時代だったことになる。しかし古墳の被葬者にとってはともかく、民衆にとって古墳づくりはありがたいプロジェクトではなかった。国家的体制が整ってくると古墳づくりは単なる「労役や租税へと転化していった(同)」。

古墳は世界的に見てもかなり巨大な墓だが、これは日本列島のみならず東アジアに向けたデモンストレーションであったと著者は考える。墓の巨大さに比べて埋葬施設や副葬品は貧弱なのがその根拠の一つである。

このように古墳は多分に政治的な存在であり、その形態は国家による秩序に支配されていた。では魂が赴く他界の方はどうか。この点に関し明確な証拠はないが、著者は「他界においても、大王の祖神を頂点に各首長一族の祖霊・祖神を整理し秩序づける作業が進行したものと思われる。それは『記紀』に記された神話や伝承などが整えられていった過程でもあった可能性が高い(p.138)」としている。

「第5章 古墳の変質と横穴式石室」では、古墳時代中期から後期が概説される。

古墳時代前期から中期では、各地の首長を大王が統合するという社会システムだったのが、中期から後期では首長権力が後退し中央集権体制になる。その画期は「筑紫君磐井の乱」だという。この時期に登場する群集墓について著者は「国民の誕生(p.147)」と位置づける。また大王墳は120m程度とかえって小型化する。これは権力のデモンストレーションの必要が薄れたためかもしれない。また古墳の形態としては、横穴式石室が普及する。槨から室への転換は、墳丘上での儀礼が不要となり、追葬が可能になったという変化を伴っていた。横穴式石室には九州的石室、畿内的石室、それらの複合的石室の3つがある。

最も早く登場するのは4世紀後半の九州的石室で、3人分の遺体を死床に並べるものが多い。これはどこからか伝わったのではなく、九州で発生したと見られる。なお宮崎県南部から鹿児島県東部には「地下式横穴」という独自の墓がある(直下に掘り進んでから横穴となる構造)。これも九州的石室がアレンジされたのではなく独自に生まれたものらしい。畿内的石室は藤の森型を基礎に発展したものと考えられ、九州的石室が伝わったものではないようである。

九州的石室と畿内的石室の最も大きな違いは、九州的石室では先述のとおり棺がなく遺体が露出していたのに、畿内的石室ではしばしば巨大で厳重な石棺で遺体が密封されていたということである。面白いことに、島根(出雲)と和歌山には九州的石室に影響を受けたと見られる開放型の棺がある。こうした「閉ざされた棺」「開かれた棺」の違いに対し、著者は「密封型の棺では、死者は棺の中に密封され玄室内を自由に動きまわることができないのに対し、開放型の棺では、死者は棺を抜けだし玄室内を自由に動きまわることができる(p.168)」と述べ「前者では、死者は永遠の眠りにつく、あるいは消滅すると考えられたのに対し、後者では死者は蘇り室内を自由に動きまわると考えられたのである(同)」というが、この考えは逆の可能性も考慮が必要だと思う。

つまり、厳重に遺体を密封したのは、死者が蘇ったり、あるいは死者の魂が悪霊となって悪さをするのを防ぐという理由があったかもしれないし(消滅すると考えられていたなら厳重に密封する意味もない)、逆に遺体が密封されず露出していたのは、蘇る心配も悪霊になる心配もないということだったかもしれない。九州的石室では3人が順に葬られるが、2人目や3人目の遺体を運び込むときには1人目の遺体(や遺骨)がそこに露出していたはずだ。現代人であればこれは気味悪いと考えるが、当時の人はそう思っていなかったことになる。ただし、開放型に属する出雲の黄泉国訪問神話では死体が腐乱して悪霊化するので、著者の考えは少なくとも出雲では整合的だ。

なお黄泉国訪問神話を検討すると、それは九州的石室が描写されていると考えられるという。しかし黄泉比良坂に当たる構造は日本の古墳にはなく、これは中国の墓道の方が合致する。黄泉国訪問神話は中国で原型がつくられ、九州に伝わったものが後に列島風に書き換えられたものと著者は分析している。

なお、古墳には内部に装飾が施されたものが550基あまりあり、特に九州の装飾古墳は華麗である。当初の古墳装飾は辟邪的性格が強い。これは死体を怖ろしいと思っていたか、もしくは死体に怖ろしい存在が接触するのを避けたかのいずれかであろう。古墳時代後期の装飾古墳では辟邪的要素が薄れ、石室内で死者が生活しているという観念を前提としたものになっているという。

「第6章 古代中国における葬制の変革と展開」では、古代中国の葬制を概説している。

日本の古墳は、実は古代中国の葬制に大きく影響を受けている。古墳は日本古来の葬制ではないし、その他界観も在来のものではない。では古代中国の葬制はどうだったのかというのが問題になるが、この点について本章は手際よく要点をまとめており大変価値が高い。

古墳では、大雑把に言って槨墓から室墓へという変化があったが、古代中国では前5世紀~前3世紀という長い時間をかけて同様の変化があった。まず古代中国の墓は、墳丘はなく、地下に槨を封入するといったものだった。これは「閉ざされた棺」であった。しかも多くの副葬品と殉死も伴った。ということは、死後の生活が観念され、死後に奉仕する家臣を共に埋葬したとしか考えられない。ただし他界は現世とは別のレイヤーにあったために、生活のための部屋は不要だったと解釈できる。

これが春秋末期・戦国初期になると、槨内に死者が動くための通路や扉が現れ、やがて室に変化した。これは墓の中で死者が生活しているという観念に変わったことを意味する。さらに石棺にも出入口が設けられた。ということは、死者は石棺から抜け出して生活すると考えられたのは間違いない。ただし実際に石棺に出入口を作るのではなく、出入口風の装飾(偽門)を付けるというものも多い。死者の肉体が蘇るというよりは、その魂が出てくると考えていたのかもしれない。また墓内には多様な装飾が施された。特に絹に絵を描く帛画では、死者の魂が龍に乗って昇仙するというテーマが描かれたのが面白い。やがて殉葬は衰退し、その代わりに土や木で作った人形模造品が副葬され、また青銅製の副葬品も徐々に姿を消し、食器や道具や家畜などの木や土の模造品(仮器)となった。他界の表現となったということになる。こうした変化とあわせて方形の墳丘が設けられるようになった。

秦・前漢の時代には室墓が定着し、身分による墳丘の格差も進行した。前漢の満城1号墓(河北省)では地下に大規模な空間が設けられ、まさに死者の生活空間となっている。こうした変化を踏まえると、槨墓的な元来の魂魄観・他界観が変化し、死者は天上に昇るのではなく地下で暮らすと考えられた可能性が高い。これが黄泉国の観念の元になっていると思われる。卜千秋墓(河南省)では壁画が残っているが、ここには西王母が表現されている。室内の他界が崑崙山とつながっていると認識されていたかもしれない。

後漢になると大型墓の墳丘は円形に変わり、槨墓はほとんどなくなった。石棺に図像を表現した画像石棺が盛んに作られたが、そのテーマは被葬者が車馬で無事他界に到着し迎え入れられたことを示すものが多い。ちなみにその他界の建物の屋根には鳳凰が留まっている。

三国時代から南北朝時代になると、205年に魏の曹操が薄葬を命じ、また222年に曹丕が墳丘並びに陵前の寝殿・集落の造営を禁じてからは葬制・墓制が大きく変化した。また南北朝期からは地域ごとに多様となった。ここからは北部と南部の記述が並行され、しかも薄葬と厚葬の揺り戻しが繰り返され動向は複雑である。結果のみをまとめると、北部では玄室で死者が暮らしているという観念が続き「開かれた棺」であったが、南部ではそうした観念が希薄で玄室は閉鎖的で槨的なものになっていった。そして玄室の前室は祭祀のためのスペースとなった(墓室内祭祀)。なお南北ともに追葬が行われるようになり、夫婦の合葬は基本となった。

他方、長江以南では船棺葬という独自の葬制があった。丸木舟(のような棺)に遺体を封入するのである。この地域では船が他界への乗り物だという観念があった。ただし南部へ室墓が普及した段階では船棺葬は低調となった。

また鳥船信仰についてはどうか。先述のように、北部では龍に乗って天上に赴くという観念から車馬で赴くように変化した。鳳凰は乗り物というよりは他界からの死者である。南部で、こうした北部的観念と他界への乗り物としての船が融合し、鳥に導かれて船で他界に赴くという観念が生まれたと思われる。ただしこの他界は海上ではなく天上にある可能性が高い。ベトナムや東南アジアにも船を他界の乗り物と見なす観念があり、これが中国と日本に別々に伝わっている可能性もある。

「第7章 日中葬制の比較と伝播経路」では、弥生時代からの葬制が振り返られ、これまでの知見が総合される。

弥生時代の日本の葬制は基本的に「閉ざされた棺」で、そこに中国から槨墓的要素・室墓的要素・船棺などの要素が伝わってきた。古墳時代に埴輪が登場することは、他界の表現という室墓(「開かれた棺」)的な変化を表している。しかしこの段階では墳丘内部では槨墓的な「閉ざされた棺」であった。そして天鳥船信仰が伝わってくる。天鳥船信仰が長江流域から伝播したという直接的な資料はないが、古墳時代の葬制の基層は弥生文化+長江流域の船棺葬であったと見られる。

中期には船棺は退潮して葬送儀礼(古墳の儀礼)が完成するとともに、他界表現はより充実した。古墳の儀礼では、「葬列から埴輪配列が示す他界表現まで、画像石に表現された昇仙図の筋書きが大きな影響を与えた可能性がある(p.251)」。人物埴輪の出現は、俑の情報を元にして列島風にアレンジされたものだったと思われる。なお日本には確実な殉死の例はない。

一方、九州の「開かれた棺」の系譜は北朝・高句麗系の棺・室に求めるほかない。ただし九州の地下式横穴については、「北朝で発達した土洞墓との関連を推測させるだけで、詳細は不明(p.258)」。

後期では、畿内的石室・九州的石室が展開したが、畿内では「閉ざされた棺」が続いた。本来は石室は「開かれた棺」とセットであるべきだがここで一種のねじれが生じている。また畿内では石室内で食物の供献が行われた。これは死者の食べ物なのか。かつてこの儀礼は「ヨモツヘグイ(他界の食べ物を食べることで他界の者になること)」と理解されたが、「閉ざされた棺」である限りそれは死者の食物ではありえない。死者との別れの儀式ではないかというのが著者の考えである。

さらに6世紀後半には、夫婦を中心とする複数埋葬が多くなる。九州的石室にも複室構造をもつものが現れ、また彩色した絵画が登場した。なおこうした葬制には高句麗の影響が大きいと見られるが、高句麗には天鳥船信仰の表現はまったくない。

後期後葉、天鳥船信仰は退潮し、埴輪も見られなくなる。古墳は他界表現を失い、墓標に近づいた。社会的にも古墳による社会秩序から、法制的原理の規定が優越するようになったと見られる。

このように、「日本列島の弥生・古墳時代の葬制・墓制は、新石器時代以来の中国大陸における葬送・墓制の影響を強く受けつつも、それらを巧みに消化し、列島独自に作りあげたもの(p.227)」なのである。

本書は全体として、古墳について詳しくかつ網羅的にまとめており、教科書的な価値が高い。ただし文献史料との対照は部分的なものにとどまり、考古学からの知見が主である。またその中で、類書では等閑に付されがちな他界観について考究しているのが興味深い。特に他界観を「開かれた棺/閉ざされた棺」と「槨墓/室墓」という二元的な原理で考察しているのが明解である。

しかしながら、著者がいう他界観が腑に落ちない点も多い。そこで私は著者の二元軸に付け加えて「死体を怖ろしいものだと思うか/そうでないか」を付け加えたい。密封した「閉ざされた棺」は、死体が永遠の眠りにつくとか霊魂が消滅するとか考えるよりも、単純に「死体が怖ろしかった」と考える方がすっきりと説明できる。逆に死床に死体を露出させて安置した九州の人々は、死体が石室内で動きまわれるようにしたと考えるより、死体をそれほど怖れていなかったとした方が理に適う。というのは、追葬する時には先に埋葬した人はすっかり骨になっていただろうから、「室内を動きまわって生活していた」という観念は育みがたいと思うのだ。

ところで黄泉国訪問神話で、イザナギは死んだイザナミに会いに行くが、これはイザナギが死者を恐れていなかったことを示唆する。しかし腐敗したイザナミの姿を見てしまいイザナギは逃げ出す。ここで初めてイザナギは死者への恐れを抱いている。これはどう解釈できるのか、今私にもよくわからないが気になる神話である。

もう一つ、著者が注目していないのは気候である。古墳時代は、「古墳寒冷期」と呼ばれる日本の歴史の中では顕著な寒冷期に当たっていた。これは死体の腐敗が遅れることを意味していたと思う。九州でそれほど死体が恐れられていなかったとすれば、それは九州が比較的暖かだったために速やかに腐敗・分解して骨になったからだと考えたい。逆に畿内では、寒冷なために長く死体が保存されたことが恐ろしさにつながったと解釈できる。つまり、他界観がどうこうというより、単純に死体がどう腐敗・分解して骨になったかという点も、古墳の葬制に影響を与えたのではないかと思うのである。

古墳時代の他界観についていろいろと考えさせる良書。

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2026年2月7日土曜日

『日本人の葬儀』新谷 尚紀 著

日本人の葬儀について民俗学の立場から概説する本。

本書は1992年に発表されたもので、内容がやや古い。私は新谷尚紀(たかのり)が若い頃にどんな視点から葬儀を見ていたのだろうと本書を手に取った。新谷尚紀は本書を発表した後も精力的に葬祭や信仰の研究を続け、民俗学の立場からの葬祭史の第一人者となっている。

「I 葬儀の深層」では、葬儀にまつわる民俗が大量の事例とともに紹介される。

ここでは日本人の葬儀が概説されるとともに、そこで米が重要な役割を担っていたことが強調される。そもそも香奠は、葬儀期間中の関係者の食糧として持ち寄られたものだった。ではなぜ米でないといけないのか。著者は「米にはある種の霊力があると考えられていた」と考える。死の力を中和するために米が必要だったというのだ。

また「四十九餅」という民俗事例が紹介される。私は聞いたことがなかったが広く分布しているらしい。葬儀が終わった後に四十九餅(しばしばそれは49個の餅である)を搗き、埋葬の直後や四十九日に食べたり寺に持って行ったりして死者との別れをするというものである。これについて著者は「かつて日本の葬送儀礼においては、死後四十九日間程度のモガリの期間が存在したということを暗示(p.60)」しているという。

それから、死者が出るとそのケガレは火を通じて感染するものと考えられ、使う火を別にする(別火)という習慣もあった。これは不思議なことにお産の時も似たようなことがある。葬式と誕生にはどこか通ずる部分があるらしい。

葬儀が終わると大抵は墓塔を建てるが、石積みをするというのがもっと古くからの民俗だ。神社や寺に石を奉納することもよくあることで、その石を水辺から拾ってくることも多い。これは丸っこい石が好まれたという以上の理由があるのかもしれず、水辺から持ってくることに意味があった可能性がある。

「II 葬儀の歴史」では、古代・中世・近世の葬儀が文献史料から概説される。

まずは古代天皇の葬儀である。記紀によれば、天皇は死後一定期間、殯(もがり)の儀礼が行われた。天武天皇の場合、2年間もさまざまな儀礼が行われた。具体的には発哭・発哀・慟哭などの哭泣儀礼、歌舞、供物(特に食事)がささげられた。ここで天皇はまだ完全な死者とはみなされず、食膳をささげ続け、同時に哭泣が行われ、最後に誄(しのびごと)がささげられて儀礼が完了した。それにしてもどうして殯が行われたのかはっきりしない。著者は歌舞がささげられる理由は、死んだ人の魂は怖ろしく災いをもたらすから、それを鎮める鎮魂の儀礼だったとするが、これは「完全な死者とは見なさない」という前提と食い違うような気もする。殯が立脚していた死生観とはなんなのだろう。

8世紀から9世紀には、天皇家は積極的に薄葬を進めた。これは儒教的な思想に基づき、葬送に多くの費用を費やすことが民の負担になるという考えで行われたと著者は考えている。確かに大火薄葬令では、葬送造墓に財を尽くすことは「諸の愚俗(おろかびと)のする所なり」とされている。おそらくはこの葬送推進の一環で殯は文武天皇を最後に行われなくなり、立派な墓(陵)も作られなくなった。一方で、初七日から七七日までの追善供養はむしろ盛んになっている。嵯峨天皇と淳和天皇はさらに薄葬を徹底させ、墓自体が不要だと述べている。淳和天皇は「人没して精魂天に皈る。而るに空冢墓(からちょうぼ)に存す」と言っている。墓には魂はなく空っぽだといい、彼は散骨を指示した。一方で同様に薄葬を指示した嵯峨天皇は仏教儀礼は推奨し「釈家の論、絶棄すべからず」と言っている。清和天皇になると自ら出家入道の身で西方に向かって結跏趺坐し、手に定印を結んで入滅した。

平安時代の貴族の葬送については、寛弘8年(1011)の一条天皇の葬送を『御堂関白記』『権記』『小右記』の記録を元に紐解いている。この葬送では、四十九日の法事とか一周忌など現代と同じような儀礼がすでに実行されている。気になったのは、火葬した後の遺骨に幾人かがしばらく祗候していることである。また遺骨は円成寺に3年安置され、一周忌までは伴侶6名で阿弥陀護摩を修し、その後は5名の僧で念仏を奉仕することとしている(その後陵に埋葬)。遺骨に対する儀礼が3年間もあったのは興味深い。

また万寿2年(1025)に亡くなった藤原嬉子の葬儀もさまざまに記録されておりこれも詳述される。当時は母は子の葬送に立ち会わないという習慣があったが、この理由は気になる。また葬儀後に銀製の多宝塔が建立されているのも興味深い。また現代と違うのは、「僧を中心とする盛大な儀式があまり行われていない(p.183)」ことである。

次に中世である。ここでは、中世の葬儀の次第について記した「吉事次第」とその類書「吉事略儀」をまず参照する。これらの儀礼は現在の葬送儀礼とさほど異なるものではないが、枕飯や枕団子、四十九日餅など、食物についての記事は全く見えない。これには著者も「不可解だ」としている。次に天文19年(1550)に行われた足利義晴の葬送が「万松院殿穴太記(あなほき)」によって述べられる。ここでは位牌が葬儀の中心的位置を占めているのが注目される。なお位牌は紙で包まれ(←⁉)、「新捐館万松院殿贈一品左相府曄山照公大居士昭儀」と書かれていた。また葬儀後に位牌所をどこにするかで軽い綱引きが行われているのも注目される。ほとんどの儀礼が現代と共通だが、違うのは葬儀に際して馬をひくということである。

近世の葬儀については、幕府の奥右筆であった屋代弘賢が全国各地にアンケート調査をした結果が残っているのでこれから窺う。このアンケート調査は文化12年(1815)に行われ、調査項目は葬儀だけでなく各地の年中行事や冠婚葬祭を調査するものである。それらを見ると、やはり位牌の存在感が大きい。位牌は相続者を明示する機能を持っていた。それから水戸藩では「士以上」が仏式ではなく「儒法」によって葬儀が行われており、墓地が菩提寺ではない場所に置かれている。町人以下は仏式のようだ。全体を通じて、近世の葬送習俗は現代(戦前戦後あたり)と同じものである。

「III 他界への憧憬」では、日本人が抱いていた他界観が様々な民俗事例から推測される。

柳田国男は『先祖の話』で、盆には先祖・新仏・無縁仏の3種の霊がやってくると述べたが、民俗事例を見てみるとそのような区別はなく、時代的な変遷として様々な祀り方があったと考えた方が自然であることがわかった。家に仏壇が常設され位牌が祀られるようになって盆の習俗が変化した結果としてあたかも3種の霊を区別していたかのような様相となった。ではなぜ無縁仏を祀るという発想が出てきたのか。著者はこれについて、庶民はただ先祖を祀るとだけ考えていたのに、それに対して「戸外の盆棚は無縁仏をまつるものだ」と檀家寺の住職が盛んに説いた事例があることを指摘し、無縁仏とは仏壇に祀られない霊が寺院によってクローズアップされた結果広まったのではないかとしている。一方で、無縁仏を祀る観念の方が古い可能性もあるといい、要するによくわからない。

次に、これも柳田国男が提起した「人を神に祀る風習」について取り上げ、その背景には遺骨と霊魂を分離する思想があったことを指摘している。明治神宮は明治天皇を祀ってはいてもそこに遺骨(や遺体)はない。逆に言うと、遺骨や遺体があればそこは神社たりえないのではないかという。当初は慰霊の施設でも、いったん神とされてしまうと何らかの霊威があるものとされ、祈願の対象ともなった。そしてそういうことを期待して、人を神に祀ろうとする利害関係者もいた。

次に他界観の検討で、面白い事例が提示される。同じような海辺にある半農半漁の村でも、死後は海の彼方に魂を送るとしている場所と、山の方に死者の世界の入り口があると観念されている場所の両方が見いだせるというのだ。これについて著者は日本人の他界観は「そう単純な画一的なものではない(p.291)」といい、他界観は「それぞれの地域社会ごとに、伝統的な生活の蓄積の中で形成されてきている(同)」という。この指摘は重要だ。つまり、他界観については正統的教義がない(または弱い)というのが日本の特徴だということなのである。もちろん仏教では六道輪廻とか浄土とか様々に死後の世界を喧伝したが、こうした死後イメージは日本人の他界観に全面的には受け入れられていないのは間違いない

また各地には怪物退治と人身御供の伝説が大量に残っている。どうやら日本人の他界イメージは怖ろしいものであるらしい。もしくは日本人の神のイメージが生贄を求める怪物的なものであったのかもしれない。

さらに一の谷墓地での調査結果が簡単に触れられ、中世から近世への墓地の変遷が概括される。一の谷墓地は、鎌倉から戦国までの長い間、見付の町(静岡県磐田市)の墓地としてあらゆる階層の人々が葬られた場所である。これは町の中にあるのではなく、町の後背地にある。豊後国の大友氏は町の中に墓を作ることを禁じているが、一の谷墓地にも同様の事情があったのかもしれない。ただし、大友氏が府中への墓所を作ることを禁じているということは、実際にはそうする人がいたことを意味する。一般の人にとって町中に墓地を作ることは自然なことだったが、権力者にとっては都合が悪かったことになる。また見付の町には多くの寺院があったが、それらの寺院は葬送や死者供養にはかかわっていなかったと見られる。墓地に隣接した護世寺(浄土宗)だけがその役割を担っていたようだ。近世になると見付の町にある各宗派の寺院に境内墓地がつくられるようになり一の谷墓地は廃絶した。

最後に、昔話「三枚のお札」をキーにして、日本人の心性において便所に妙な存在感があることを指摘している。

最初に述べたように、この本はやや古く、ケガレ概念の扱いなどは現代から見ると脇が甘いような気がする。日本人の葬儀の思想を解明しようとするよりは、わかっていることをまとめてその後の議論の土台を作っているような本である。ただし最後の「三枚のお札」の考察は毛色が違い、葬儀とは直接の関係はないながら、子供の遊び歌などから異界観を探っていく手法はより幅広く展開できる可能性を感じた。

また全体を通じて特に注意を引いたのが、近世における位牌の存在感の大きさである。位牌こそが近世での死の儀礼の中心だったのかもしれない。

ちなみに、本書には著者がその後取り組むことになる研究テーマの多くが萌芽的に表れているように思われる。特に、葬儀そのものよりその背景にある他界観に注目していることは著者の独自性であり興味を引いた。

葬儀と他界観を合わせて考察した先駆的論考。

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2026年2月6日金曜日

『成熟する江戸(日本の歴史17)』吉田 伸之 著

江戸の町を3つのテーマで語る本。

本書は、講談社「日本の歴史」の一冊である。こういう本は対象とする時代の概説を行うものであるが、本書はそういう常識に当てはまらない。著者自身が「民衆世界の細部を精緻に描写することを基軸とした全体史の構想(p.354)」というとおり、類書では全く扱われないような細かいことが延々と続き、私には疎い分野が多かったので正直通読に苦労した。著者の通史に対するスタンスは第1章に詳述されているが、アナール派の史観に影響を受けているようだ。

著者が近世江戸を見る基本的なスタンスは分節構造である。すなわち、一極集中的な権力とそれに従う人々というのではなく、様々なレベルで権力を分有する諸団体が重層的に重なり合って社会が成立していたとする。

そしてその「権力を分有する諸団体」を著者は社会的権力」と呼ぶ。それは自然発生的なものであったり、幕府が公認したものであったりした。特に幕府が公認するかどうかがキーになっているのは言うまでもない。そして社会的権力の在り方が社会そのものの在り方を規定した、というのが著者の考えである。

第1章は、江戸時代中期の政治史と社会構造の概説である。江戸時代の町や村は法人的な自治組織であり、全国に6万3千の村と1万の町があったと推計されている。さらに、町や村という地縁的組織とは別に、「職種・機能などをめぐる社会的な結合、あるいは協同組織(p.35)」が存在した。そしてこうした組織の設立が幕府によって推奨された時期もあった。享保6年(1721)には江戸の町で96の職種について商人や職人の組合をつくるよう町奉行所が命じている。ここで、町(地縁)を基礎に支配する従来のやり方から変節しているのである。

これは村でも同様だ。農村でも農間渡世とか作間稼ぎの名目で多様な商売が展開され、職種ごとに共同組織が生み出された。こういう共同組織が社会的権力なのである。

本書では『熙代勝覧』という絵巻物を考察の入り口とする。『熙代勝覧』はベルリン国立東洋美術館に所蔵されている12メートルの絵巻物で、作者は未詳、制作年代は文化・文政年間(1804~30)と見られる。ここでは神田から日本橋に至る700メートルの街並みが連続して精緻に描かれており、店舗、路上販売者、行きかう人々が画面いっぱいに溢れ、そこには按摩・虚無僧・芸能者・神官・僧侶などの姿も含まれる。この絵巻物に登場するものを丁寧に読み込んでいくのが本書の方法論である。

なお、本書の読解で肝心なところは、社会的権力の動向がどう全体史に接続されるのかだが、私にはそれを把握する力量がなく、正直なところ個別事項の羅列以上の理解ができていない。そんなわけで、一知半解もいいところだが以下わかる範囲でメモを書いておきたい。

「第2章 社会的権力―豪商と町」では、社会的権力について改めて規定され、その事例として三井が取り上げられる。

社会的権力とは、「支配権力とは別に、生産や流通、武力や知識などを独占することで、周辺の地域社会に対して私的な支配力を及ぼす社会層」(著者の説明を要約)である。例えば在地社会(農村)では、豪農がそれにあたる。幕府は当初質流れなどで土地が集積されるのを嫌ったが、享保改革では一転してこれが容認されて質地の集積が進み、幕府は豪農を支配機構の末端に組み込んでいった。

町の場合のそういう存在が「大店(おおだな)」だ。大店とは、だいたい間口が4~5間(7~9メートル)、ほぼ10人以上の奉公人を抱え、抱屋敷(本店や居住地と別の土地)を持つ地主で、「出入中(でいりじゅう)」という集団を従属下においている有力町人をいう。そしてこの代表が三井だ。著者は三井を「超大店」と表現している。本章では、三井がどう支配的な立場を確立していったかがこれでもかというくらい詳述されているが、ポイントのみ述べる。

三井は近江にルーツを持つ一族で、武士から町人に自主的に変わった家系であった。江戸に支店を持ち、京都から仕入れた品を江戸で販売し、呉服屋としては後発であったが急成長した。その急成長を他の呉服屋は快く思わず、三井を流通から締め出すという営業妨害をしたものの、三井は江戸の店を引越しさせて対抗し、「現金掛け値なし」の画期的な販売方式によって売り上げを伸ばした。さらには両替商としても成長し、その原資で土地を次々と購入して地主となった。その基盤によって幕府の御用商人となり、「呉服屋と両替店という二つの営業部門それぞれにおいて幕府の御用を勤めるという、類例のない特権的な商人としての地位(p.90)」が確立した。

その本店は我々が考える三井のイメージとは全く違う。三井本店ではそれぞれ半独立した売り場が10~20展開していたのである。これらは三井の手代やその見習の子供が切り盛りしていた。三井は、単一の商売ではなく、本店の中で小規模な小売店をそれぞれ競争させるというテナント業的な経営を行っていた。

この経営を支えたのが京都店での仕入れである。三井は江戸と同時期に京都に進出したが、そのころの京都の町は零細な家持=小町人で構成されていた。しかし平和な時代が続いて京都の土地は値上がりし、結果的に零細な商人が締め出されて有力商人に寡占されていった。しかもそういう有力商人は他所から来た新しい町人だった(三井もその一例だ)。

ところで、こういう超大店の三井本店がどんな巨大な店だったのかというと、本書に明確には書いていないが、間口を足し合わせると21間の店だったようだ。つまり間口38メートルくらいということになる。確かに江戸時代の店舗としては度外れて巨大であるが、現代のショッピングモールと比べたらずっと小さい。当時は徒歩での移動であるから、商圏がそれほど大きくなく、店のサイズは自然と制約された。そんな中で、江戸城の需要を賄ったことが三井の発展にとって大きかったことは容易に想像できる。江戸城は狭い範囲に1万人くらいの人が働いていたし、呉服の需要も大きかった。三井が江戸城の呉服の御用(元方=将軍方の需要、払方=大名・旗本に下賜する品)を獲得したのは1680年代で、両替の御用が1690年代である。御用を獲得するためのコストがどうであったのか記述はないが、1700年代の三井の発展は御用を抜きにしては考えられない。

「第3章 身分的周縁―勧進と芸能」では、「願人」「乞胸(ごうむね)」を中心にして身分的周縁の問題が扱われる。

身分的周縁とは、武士や農民といった固定的身分とは別に、流動的に存在した商人・日用・乞食=勧進層・芸能者などのことをいう(著者の説明を要約)。ここで商人も入っているのが面白い。商人は土地を媒介せず、領域的支配権力によって人身が緊縛されないから身分的周縁なのだ。

日用(ひよう)はその日暮らしのフリーターである。彼らは人宿(ひとやど)とよばれる周旋業者によって仕事についたが、そういう業者も共同組織を形成していた。この浮動層を幕府は快く思わず、人返しの法などで抑制しようとしたがうまくいかず、江戸時代後期は彼らの存在は社会問題化する。乞食=勧進層は他者からの施しを得て生活する者で、代表的なものは非人である。非人は非人で共同組織を形成し、清掃・行刑などの負担をし、村や町に雇用されて番人を務め、非人の取り締まりを行った(…と本書にはあるが、非人はその職務への対価を受け取っていたので乞食や勧進とは違うように思った)。芸能者は、勧進層から派生して生まれ、喜捨を得るための見世物としての芸能に特化していった者たちである。

こうした社会的周縁のものたちの中でも、最下層にあたるのが「願人」と「乞胸」だ。

「願人」とは願人坊主ともいう乞食僧である。彼らは5、6人でチームを組み、住吉踊りをしたり、ふざけた口上を述べたりして楽しませ喜捨を受けた。そしてその一部は判物(はんじもの)という謎かけのような刷り物を配り、午後になると「先刻あげましたる考えもの」などといって代金を請求した。本書には詳らかでないが、謎がわからないと金を払う必要があり、逆に謎が解けたらお金がもらえるというゲーム的・賭博な要素もあったようだ。これは多くの人にとって迷惑だったので、江戸では享保4年(1729)に「違法な行為を行う願人はその身を願人の頭にあずけることとする」という町触れを出している。ここで町奉行なりが直接処罰するのではなく、身柄を「願人の頭」にあずけるという処置が極めて近世的である。

「願人の頭」の元締めの一つが、京都の鞍馬寺の塔頭、大蔵院と円光院である。この二つの塔頭は江戸触頭を置いて願人を支配したらしい。いつから触頭が置かれたのかははっきりしないが天和年間(1681~83)には確認できる。これは本山派修験で触頭が置かれたのと同時期だ。

ここで面白い事例が紹介されている。「禅門坊主が本寺もないのに勧進のため徘徊して迷惑している」と願人が寺社奉行所に訴えているのである。やっていることは願人と禅門坊主=乞食では変わらないのだが、寺社奉行はこの訴えを認め「願人に紛らわしい行いをするものは願人の支配下に置くこと」などと裁許している。ここにも近世的人身把握の特質が窺える。幕府は、ある種の行動を特定の集団に排他的に認めることで、社会的に把捉されない人間(ここでいう禅門坊主)の発生を防止したのである。つまり幕府にとってフラフラしている人間は好ましくなく、かならず中間団体に所属させようとした。

そして中間団体にとってもこの政策は好都合だった。大蔵院の場合は、判物料(銭50文)と一人当たり半年につき銭300文の礼銭が江戸触頭を通じて上納された。要するに大蔵院は、願人の身元引受人になることで利益を得ていたのである。そしてこの組織で役人をしていた願人は、平願人から上納されるお金の上前を撥ねることで生活していたと思われる。

では願人の実態はいかなるものであったか。出家・社人・山伏・修験・神職は町家に居住することが禁じられていたが(天保13年の触れ)、陰陽師・普化僧・道心者・尼僧・行人・神事・舞太夫・願人は裏店に居住することが許されていた。そんなわけで彼らはいろんなところに住んでいた。もちろん場末に集住してはいたが、三井が地主をしていた場所(橋本町)にもいた。また本筋とは関係ないが面白いのは、旗本が拝領した屋敷(土地)を地借りや店借に賃貸して、その経営を家守にゆだねて地代・店賃を収入の足しにしていたことである。武家地に町人が住んでいたのと、旗本が地主化しているのが興味深い。また願人の役人層は、木賃宿(ぐれ宿)を経営していた。

願人は最下層といっても現代のホームレスとは少し違う。彼らには組織があり、その組織には配下の者を勧進に廻らせるテリトリーと木賃宿の営業権などを持っていた。そしてその組織における役員にはそれなりのうまみがあって、組織内では主導権争いが行われていた。ちなみに彼らの名前は、〇〇→××房→△△坊 と昇進したようである(この名前の変化が、漢字が読めないと意味がないものであることは気になる)。願人の触頭の一人であった良山は本山に「法師僧正」という位を申請している(却下された)。その申請の口上で面白いのは、願人は「修験同様」だと主張している点である。これは願人の在り方から修験の在り方を想像させる事例として興味深い。

しかし安政大地震後、勧進がうまくいかなくなり彼らは日雇で稼ぐようになって(と彼らは言うがそれを額面通り受け取っていいのか不明。単に日雇の単価が上昇して勧進より稼げるようになっただけのようにも見える)、元治元年(1864)以降、大蔵院に上納を納めることはなくなり明治維新を迎えている。そして明治後は、ぐれ宿が貧民窟になったという。

次に取り上げられるのが乞胸である。乞胸は江戸に特有の下級芸能者で、浄瑠璃や物真似など12種の芸能を行い、天保13年(1842)には749人いた。彼らの芸は、いわば浅草演芸場の前座で行われるような雑多で卑俗なものだったようである。彼らは乞胸頭(仁太夫)から鑑札をもらって「営業」していた。そして家業の上では非人頭の善七の支配を受けた。つまり人別帳には町人として搭載されつつも、別途非人の名前帳にも報告された。この点は重要である。善七の支配下にあるのは「非人」だが、乞胸は「家業の上」でしか善七の支配を受けず身分は町人なみなのだ。つまり乞胸の在り方は近世的な身分支配から逸脱しているのである。「乞胸」は名実ともに身分ではないのだ。

そして仁太夫は、寺社など(←この「など」が重要)で芸をして渡世をするものを乞胸として組み入れようとした(寺社の境内で芸をする場合は寺社奉行の管轄で、乞胸の居所である町とは支配が違う)。これは当然、鑑札の見返りに金銭を得ていたからに他ならない。そして当然、そういう芸人はこの一種のみかじめ料を払うことを嫌い、寺社内に逃げ込んで乞胸の手を逃れようとした。しかし理屈の上では、12種の芸能を行う存在として組織があった乞胸の方が、勝手に芸をしている者たちより立場が強かったのは言うまでもない。彼らは町奉行の後ろ盾を得て、そういう勝手な芸能者を配下に組み込んでいった。乞胸はいわば仮想的な「身分」なのだ。

ここで本章では、江戸における芝居の在り方、劇場への規制などを詳述しており、いかに江戸の町や文化が規制によって出来上がったものであるか如実に物語っている。簡単に言うと、江戸では幕府公認の三座だけが常設の芝居小屋を持つことができ、それに準じる存在は寺社の境内地の屋根のない小屋で「晴天芝居」を日を限って開催した。さらに面白いのが、「芝居ではなく販売会(しかも歯磨き袋の!)の余興で芝居をしているという体」で営業しているものである(香具師芝居)。ところがこれが三座の芝居にも匹敵するかのような興行だったのである。彼らは明らかに規制の裏をかいていた。

こうした事情があったからか、乞胸を構成する12種の芸能は、それぞれが小集団を形成し、乞胸頭支配からの離脱と解放を求めるようになっていった。なにしろある芸能の小集団が「乞胸に包摂されるか、香具師にくみこまれるか、あるいは西国での説教者に組織されるかは、必ずしも自明ではない(p.237)」し、どの集団に包摂されるか、それともされないかでの損得は一概に言えなかったからだ。

なお、江戸時代後期には、新しいタイプの芸能が流行する。寄席(よせ)である。寄席には4つのルーツがあり、その一つが乞胸なのだが、それまでの興行と違うのは芝居地とか寺社の境内ではなく、町屋の中で行われる点である。乞胸頭にとって、乞胸以外の3つのルーツの寄席は自らの中に取り込んでいくべき存在であった。そこで乞胸頭は彼らに営業を認める代わりに礼銭(みかじめ料)を請求しようとしたがうまくいかず、その世話人(会場)から「相応の心付」をもらっていた。それは苦肉の策ではあったが、それにしても世話人からいくばくかのお金を徴収できたことに、近世的身分の特質が現れている。寄席が乞胸のテリトリーであることは公認されていたのである。

こんな中、天保13年(1842)、寄席に対する大弾圧が実行された。江戸に238か所あった寄席の大半をつぶし、「古くからある寺社境内の分9カ所、町人地(中略)の計30カ所を残存させて、そこでは神道講釈・心学・軍書講談・昔咄し(p.235)」のみが許された。本筋とは関係ないが、この「神道」「心学」「軍書」「昔咄(≒歴史)」なる演目の組み合わせは極めて興味深い。この弾圧は結局うまくいかず、翌年には演目が限定されつつも寄席は「勝手次第」となった(もちろん演目の限定もすぐに形無しになった)。

乞胸の在り方は、近世的な「身分」の変節を暗示している。元来の「身分」は職能と一体化したもので、幕府による人身掌握と密接にかかわっていた。そのために「身元引受人」を公認して集団の特権を認め、また集団の内部をその支配に委ねていたのである。しかし乞胸はそういう近世的身分の特質を持っていない。にもかかわらず興行の特権は幕府から公認を受けていた。乞胸を公認することで幕府(町奉行)が得るメリットは何なのか? どうもそれがよくわからない。私には、乞胸は幕府の身分支配の仕組みの裏をかいて利益を得ていたように思われる

「第4章 市場に集う人々」では、野菜市場と魚市場を中心とした小経営者たちの姿が詳述される。

本章は、私の特に疎い分野であるので、簡略にメモする。現代の野菜流通では、市場が設立されてそこに仲買が登録され競りに参加し、仲買から小売りが商品を買うという仕組みになっているが、江戸時代にもこれと似たような仕組みがあった。地方からの物品は問屋(といや)が集荷して江戸に運び、それが仲買に委託販売され(手数料は約5%。現代の市場とほぼ同じ!)、仲買が小売に売っていた。ポイントは、現代のような市場(いちば)が江戸時代にはなく、問屋が集荷・運送・元売り(正確には産地からの委託販売)を特権的に担っていたということである。そして問屋が集中している領域が青物市場なのである(なので「市場」といっても現代とは言葉の意味が違う)。

想像がつくように、幕府は問屋(正確には問屋の組合=組)の存在を公許して市場を間接的に支配した。そして問屋が担ったのが江戸城への物品の納入(=御用)である。ところが江戸城には相場よりも低い価格で納品しなくてはならず、その差額は問屋が負担した。つまり問屋は存在を認めてもらうかわりに江戸城への見えない負担金が課されていた。

また野菜・果物一般とは別に特別な納入品目があり、その一つが薩摩芋だった。薩摩芋をめぐる産地と問屋との諍いが本書に詳述されており興味深い。薩摩芋が特殊だったのは、産地が問屋を通さず販売しようとしたという点で、それは薩摩芋が庶民の主食だったためにその重要性が大きく、産地の力が強かったということのようだ。

魚市場でも事情は似ている。しかし魚の場合は、幕府は組の独占を公認していたいたものの、従来の組の独占による弊害を除くために幕府により新たな組(新肴場)が設立されているのが注目される。これは従来の組が手数料を5%から6%に引き上げたのに反発した浜方(漁師)が江戸への直販を求めて幕府に直訴したことを受けて行われたものである。魚市場の場合でも幕府は江戸城の御用を組に負わせていたいたのであるが、このような政策によって魚が安くなるという目論見があったらしい。冷蔵設備のなかった時代、鮮魚は高級品であり、特に将軍の毎日の食事になった鯛はそうだった。野菜と違って、魚の購入は江戸城の負担になっていたということのようだ。

そして問屋は、仕入れを独占するために多額の前貸し金(敷金)を納入していた。公儀の公認によって問屋になったというより、この敷金が独占の根拠だとすると、幕府にとって問屋を保護する必要がなく、むしろ競争があった方が好都合だったのかもしれない。どうも野菜市場とは違う様相が見て取れる。

さらには、仲買の方も野菜とは少し違う。魚市場の仲買場所(板舟という)も細かく区分けされて小商人の競争が行われていた…のが、なんと次第に板舟は少数の商人に寡占された。というより板舟の権利を持つものが地主化し、それが板舟権を持たないものに賃貸されていたのである。これはある意味、公正な競争が行われた結果のように見える。

ここで本章では、日本橋近くの安針町で、武蔵国の豪農が町屋敷を地代収入を目的に購入した事例が紹介されていて興味深い。この豪農は板舟を設置する権利も購入し、仲買に町屋敷を貸して収入を得ていた。もはや土地を基準とした人身掌握が不可能になっていた様子が明らかである。幕府から公許を得た中間団体が力を持ち、それを通じて人身を掌握するという政策では、個人が実力(市場原理)で「社会的権力」になってしまうと、幕府はこれを掌握することができないのである。

そしてこういう個人を、中間団体が快く思わないのはいうまでもない。凋落しつつある中間団体は個人が勝手に営業することの規制を公儀に求め、そこから逃れようとする人々との間で縄張り争いが繰り広げられた。例えば家守(いえもり)と魚問屋と零細な出商人はその利益をめぐって対立していた。家守とは、地主から物件の管理を委託された人のことをいう(現実にその物件を利用している者は店借り)。要するに、家守は地主の代理人である。零細な出商人は規制を真面目に守らずに逸脱的に商売を行い、家守はそういう勝手な真似をされると既得権益が犯されるために町奉行にその取り締まりを訴え、魚問屋は旧来のシステムを守るために四苦八苦していた。旧来のシステムが守られることで利益を得る点では魚問屋と家守は共通だったが、家守は実働はせず、市場から得られる地代収入だけが目的だったのが違った。

幕末の安政6年(1859)、南町奉行所に7組の魚市場関係者約二千人が押しかけた。逸脱的な魚商売を取り締まれという徒党行為であった。彼らの訴えは一部認められたが、雑魚(庶民向けの魚)を専ら取り扱う新たな魚市場の新設という結果ももたらした。幕府は問屋の独占を認めてはいたが、全魚種での独占を守ることはせず、雑魚についてはかえって問屋外での取引を公認したのである。「7組による鮮魚流通の独占態勢は、18世紀が確立期であり、19世紀に入ると中頃までにはその独占が破られる新たな動きがいろいろな形で出てくる。(中略)そしてあいも変わらず厖大な奢侈的消費を続ける江戸城の御用は、7組の存立にとってもはや最悪の桎梏でしかなくなって(p.325)」いった。

ここでは、18世紀の御用がうまみがあるものだったのに比べ、19世紀の御用は単なる負担でしかなくなっている様子が見て取れる。もちろん三井と魚市場を単純に比べることはできない。だが江戸城という巨大な市場が19世紀には支配的でなくなっているということだけは間違いない。それは市民社会の成長・成熟を示唆しているのである。

「第5章 江戸の小宇宙」では、江戸橋広小路に展開した商売の在り方について述べ、近世の民衆世界の到達点について概括を行っている。

江戸橋広小路=四日市は、町が管理する空き地である。この空き地には時限的な小商売や遊興の場が展開し、町はそこから地代を徴収した。それは単なる場所貸しの土地だったのではなく、様々な利権が重層的に設定されていた。それは役割分担と棲み分けと競争の綯い交ぜになったものだった。江戸橋広小路は近世の商業社会の縮図かもしれない。18世紀は、「世界史と本格的に出会う前の到達点(p.358)」なのである。

本書全体を通じて、私は近世的身分の在り方に着目したが、これは本書の問題意識ではない。本書は民衆世界において様々なレベルで権力を分有する諸団体がいかに重層的に重なり合っていたかを克明に描くものだからである。しかしその諸団体が、どうして団体たりえたのかが私の関心事項である。以下、すでに述べたところと重なる部分もあるが本書を読みながら考えたことをスケッチしてみよう。

近世初期において、幕府は町や村という土地(とその領主権力)を通じて人身を把捉した。その要諦は、町に住む町人、村に住む農民といった調子で、職能と身分と居住地が三位一体で設定されたことにあったと思われる。

ところが商人や勧進層のような土地にとらわれないものが蔟生すると、それをとりまとめる中間団体を積極的に育成して、その中間団体を通じて人身を掌握した。職能・身分・居住地の三位一体が崩れたことを受けて、自然と基礎となったのが職能と身分である。幕府は中間団体にある種の職能を排他的に認めてその集団内の統治を委ねた。ところが身分はこれと完全には連動していなかった。町に住み、町の人別帳に搭載されれば、所属している中間団体にかかわらず身分としては町人だからだ。これは幕府にとっても意図せざる結果であったに違いない。身分は町人でも乞胸の名前帳に載っているなら、乞胸として扱うべきなのだろうか、それともあくまで町人なのだろうか。人身把握が複線化することで、当人にもそれが曖昧になり、身分というものが有効に機能しなくなっていったように思われる。

さらに競争の結果、豪農とか大店のような、中間団体とは別の面で社会的権力を行使できる存在が現れた。こういう事情から、中間団体を通じて人身を掌握する政策が有効でなくなった。幕府は中間団体を尊重する政策を惰性的に続けるが、その意味は低減していったように思われる。そしてもう一つ困ったことは、豪農とか大店は蓄えた財力を使って地主化したということである。武蔵国の豪農が江戸の町屋敷を所有し、そこから地代を徴収した。あるいは、武家地にある旗本の拝領屋敷が分割されて町家となり、そこには町人が住んだ。こうした事例で窺えるとおり、村とか町のような縦割りでは実態がわからなくなっていた。にもかかわらず、相も変わらず人別帳は町や村といった地縁団体によって作成され、形式的には江戸の町は武家地・寺社地・町人地の3種に分かれていた。人と土地の管理形態が現状にそぐわないものになっていたことは明らかだ。はっきりと社会問題になっていたわけではないが、それが19世紀初頭の江戸が抱えていた病魔だったようである。

江戸の町を詳しく描くことで、18世紀の社会の実態を考える労作。

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