2024年4月2日火曜日

『江戸の農民生活史—宗門改帳にみる濃尾の一農村』速水 融 著

江戸時代の一農村の人口の歴史を述べる本。

江戸時代には、戸籍のような役割を持つ宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう、以下「宗門改帳」)が作成された。これは全国で作成されたのであるが、意外と完全には残っていない。ところが、大垣からほど近い西条村という濃尾平野の小さな村の宗門改帳は、江戸時代の後半97年間分(安永2年~明治2年)が一冊も欠けず完全な形で残されていた。本書は、この史料を詳細に分析することで、江戸時代の個人や家族の行動を追跡調査したものである。

宗門改帳は、キリスト教対策のために導入されたが、全国で同一の方式で作成されたわけではなく、幕府直轄地か私領かでも異なっている。その中で大きな違いは、対象を調査時点でそこに住んでいる者とするか(現住地主義)、そこを本貫とする者か(本貫主義)である。なぜこのような2系統が生じたのかというと、人別改め(賦役を負担する者を測定するもの)と宗門改めという、起源の異なる調査がいつのまにか合体されたためと考えられる。現住地主義の改帳の利点は、出稼ぎの様相がわかることで、西条村はこちらである。なお、宗門改帳の原本は領主に差し出されているため、村に残っているものはその控えである。

宗門改帳は、家族(傍系家族や奉公人を含む)を単位としてまとめられており、史料的に若干の制約はある(例えば妻の名前は「誰某女房」となり明らかでないなど)。しかし「江戸時代の日本以外の前近代社会で、世帯、家族、夫婦、個人の出現から消滅まで、その行動をかくも克明に、精確に追うことのできる社会は世界中どこにも存在しない(p.55)」。著者は家毎にデータをまとめ、そこから個人の人生を復元した。

西条村は人口300人余りの純農村であるが、本書で明らかになる意外な姿は、奉公(出稼ぎ)が大変多いことである。江戸時代の農村では、土地に縛り付けられて一生を生まれた村で過ごした…というようなイメージがあるが、実際には人々はダイナミックに移動していたのである。

そして出稼ぎは、西条村の人口の動向に深くかかわっていた。江戸時代には乳児死亡率はかなり高かったと推計される(出生から最初の人別改めまで生存しなかったものは記録されないので正確な死亡率は不明)。それでも江戸時代のだいたいの期間、出生率は死亡率を上回っていた。にもかかわらず西条村では人口減少に見舞われた期間も多い。それは大量の出稼ぎ奉公による人口流出のせいだったと考えられる。

西条村では、11歳まで生き延びた男女のうち、男子50%、女子62%もの人が奉公を経験していたのである。特に文化13年(1816)には、おそらくは洪水被害により農地が減少したため、現住人口の半数ほどが奉公に出た。なお奉公に小作層出身者が多いのは当然として、地主など上層でもその割合は相当高かった。

出稼ぎ先は、京都・大坂・名古屋が多かったが、幕末にはその割合が減って町場(近隣の地方都市)の割合が多くなった。これは商工業の中心が在郷町に移っていったことと関係しているのかもしれない。

在郷町の奉公を細かく見てみると、1年かせいぜい2年で頻繁に奉公先が変わっていることが意外である。雇う方も雇われる方も刹那的な労働形態であったことが予見される。死亡に至るまで長期間、目まぐるしく奉公先を変えた人がいたことは、我々の江戸時代観を揺るがすものだ。この背景には「奉公人の需給を結びつける周旋業者の存在が想定される(p.131)」。個人的には奉公先に寺院が含まれていることが興味深かった。また、奉公先には武家奉公もある。ここで「天領大垣藩預り地の西条村の住民にとって、支配とは関係のない名古屋、彦根等の武家奉公が相当量に達していることは、都市や農村への奉公が藩領域と何ら関係をもっていないことと併せて、この時期の労働移動に、制度的な制限がなかったことを示している(p.135)」。

なお、人口流出の要因は出稼ぎだけでなく結婚や養子もある。ここでも興味深いのは、婚姻により西条村に来た女性は「少数の村に偏ることなく、広い範囲にわたり、藩領に関係なく拡がってい(p.109)」たことである。藩領が、人々の生活実態の中で意識されていなかったことの証左であろう。それでも、都市から西条村に縁付いて来た女性はほとんどなかったということは、現在と似ている。

結婚年齢は西条村では意外と遅いが、結婚年齢に大きな影響があったのが奉公経験の有無である。特に小作層の女子は奉公に行くことが多かったから、結果的に結婚が遅くなった。ただし結婚した後は定期的に子どもが生まれており、間引きや堕胎が行われた形跡はなく、出産力は高かった。なお独身率は低く、ほとんどの人が結婚したが、離婚率は11%と意外と高かった。

それでは個人に着目してライフヒストリーを見るとどうなるか。本書ではいくつかの例が提示されており、うち3例をメモする。

第1に、村最大の地主の家に生まれ、医師となった「利三郎」。彼は地元に近い村で5年、京都で2年修行して帰村し、分家し医師として開業した。人口300人ほどの農村で医師を開業したのは当時としても珍しい。彼は長男ではなかったが、わざわざ医師にならずとも安楽な生活が送れた階層にあった。にもかかわらず長い修行を経て新しい生き方を選んだところに「江戸時代日本のもつダイナミズム(p.161)」を見出すことができる。

第2に小作農「伊蔵」家。「伊蔵」の父は奉公中に35歳の若さで死亡。今でいえば単身赴任中の死亡だ。その後、母は65歳で死去するまで戸主として留まった(本書には詳らかでないが、「伊蔵」の兄(長男)は成人後も家を継いでいない)。明治民法以前の家の在り方として興味深い。予想されるように、「伊蔵」家は貧しく、彼自身も奉公に出て、結婚して子供をもうけてからは娘たちが次々と奉公に出た。しかし幕末になると大都市への出稼ぎが困難になり、多くの子どもを世帯内に抱えることになった。

第3に「重助」夫婦に生まれた娘。この家も貧しく、子どもたちは次々に奉公に出た。面白いのは、「重助」夫妻の死亡後、娘の一人がおそらくは絶家を避けるため奉公から戻ってきたことである。ところが彼女自身、生涯独身で、53歳にして大坂に奉公に出てそのまま死去し絶家となっている。「重助」家には相続すべき財産もほとんどなかったと思われるが、やはり絶家は避けるべきという意識があったのだろうか。しかしその後、養子も取らず絶家しているのでよくわからない。

これらの例からわかるのは、当時の人がかなり広範囲に移動していたこと、奉公とはいえ、暗いイメージばかりではなく、奉公を機縁として結婚し家族を形成したり、都市住民になっていったことなどだ。さらには、婚姻や養子を通じて「士」と「農工商」がまじりあっていたことも注目される。そして養子の慣行が、農民相互間で想像以上に広く行われていたのも面白い。しばしば彼らは、実子がいるのに養子を迎えて家を相続させた。明治民法以前の日本の「農民の家の継承は、はるかに変化に富んだものであった(p.177)」。

江戸時代後期には、日本は気温低下に見舞われて東北太平洋側や北関東で大きな人口減に見舞われた。同時期、同じく人口減少したのが近畿地方である。近畿は京都や大坂を擁し、経済発展していたにもかかわらずなぜ人口が減ったのか。それは、都市への集住が疫病の流行などを背景に平均寿命を短くし、また出生率を低めたのが理由だったと考えられる。北関東などとの人口減少とは全く理由が違うのである。逆に言えば、農村の余剰人口を都市が吸収していたことになる。つまり都市は農村の人口を一定に保つ安全弁の役割を演じていた。西条村の人口分析はこれを鮮やかに示している。

農村から都市へ一定の人口流出があったことは、もう一つの人口学的メカニズムを生んだ。出稼ぎ奉公してそのまま一生を終えるのは小作層世帯民が多く、小作層の家では絶家の割合が多かった。では小作層は少なくなっていったのかというとそうではない。それは、地主層が分家して下方に身分移動することで、常に小作層世帯を供給していたのである。出稼ぎ、小作層の絶家、地主層の分家がうまくバランスを取り合うことで人口と階層割合が一定になっていたのだ。

このことを考慮すると、西日本の各地で幕末に人口増大が続いたのは、近くに大都市がなく奉公先が限られていたことが理由と考えられる。幕末期には西日本の人口増大は限界にまで達していたと思われる(幕末以降の人口増加が低いため)。薩摩や長州、土佐などは江戸時代後半に最も人口増大した地域だった。「人口増大が限度をこえてもたらした社会的緊張が、藩の心ある人々に、危機感を抱かせ(p.203)」、明治維新につながったのかもしれない。

本書は、濃尾地方の一農村の人口という地味な分析を述べたものだが、江戸時代の社会の在り方を考える上でのヒントがたくさん含まれている。特に出稼ぎ奉公についての実態は興味深かった。このような分析が日本各地で行われることでもっと多くのことがわかるだろう。寺院過去帳の分析も見てみたいと思った。

江戸時代の農村の人々がダイナミックに流動していたことを示した良書。

【関連書籍の読書メモ】
『人口から読む日本の歴史』鬼頭 宏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_1.html
日本の人口の歴史を述べる本。江戸時代を中心として、日本の人口の増加と停滞を概説した良書。

★Amazonページ
https://amzn.to/4cTvQZ9

0 件のコメント:

コメントを投稿