2024年3月19日火曜日

『日本霊異記』原田 敏明・高橋 貢 訳

日本最古の仏教説話集。

『日本霊異記』は、正式な書名を「日本国現報善悪霊異記」といい、平安時代の初期に薬師寺の景戒(きょうかい)という僧によってまとめられた。その書名のとおり、テーマとなっているのは因果応報だ。善い行動にはよい報いが、悪い行動には悪い報いが現れた…という不思議な話が簡潔でテンポの良い文体で次々と述べられる。

原本は上中下の三巻に分かれ、説話がほぼ時代ごとに配列されており、 上巻は奈良時代以前から聖武天皇の時代、中巻は聖武天皇から淳仁天皇の時代、下巻が称徳天皇から嵯峨天皇の時代までである。

景戒がどのような人物だったのかわからないが、正式な僧であったことを考えると、本書に著された仏教思想は、この時代の公式的な仏教理解とさほど離れてはいなかったと思われる。本書は、当時の人が理解していた仏教の具体的姿を髣髴させるものとして大変興味深い。

まず、本書では「因果の道理」があたかも自然法則であるかのように記述されている。何か善いことや悪いことを行うと、それが結果に直結する。ほとんどの説話では、まるでリンゴが重力に引かれて落下するような説明で、善悪の報いが完成する。これがユダヤ教やキリスト教であったら、善悪の行動→それを神が認知→神が何らかの働きかけをして結果に繋がる、というような話の構造になると思われる。一方、「因果の道理」はなんの超越的存在も必要とせずに実現するのである。

ただし例外もあり、上巻5話では「善神の加護だと言ってよい(善神加護也)」、中巻1話では「仏法守護の神はこれを喜ばず、その怒りにふれた(護法嚬嘁。善神惡嫌)」、中巻36話では「仏法守護の神が罰を与えたのである(護法加罰)」、下巻19話では「仏法の守護神が空から降りて(神人自空降)」、下巻29話では「仏法の守護神がいないことはないことが本当に分かった(諒知、護法非無)」、下巻33話では「仏法守護の神が罰を与えたことを少しも疑ってはならない(更不可疑、護法加罰)」、とされている。こうして書き出してみると結構あるように思うが、これ以外の話ではなんのメカニズムの説明もなく善悪の報いが現れている。

また、「善神・護法(の神)」が因果応報を仲介する場合があるにしろ、この重要な役割を担う「善神・護法」の存在が曖昧で、固有の名称すら持っていないことは、教義の未完成さを示唆している。ただし、閻魔王はたびたび登場し、現世での善悪の行いを踏まえて量刑をしている。とはいえ、閻魔王は「因果の道理」そのものを司っているのではなく、あくまでも(主に地獄への)転生の番人として振る舞っている。

なお、現世で因果の報いが現れることを「現報」と言い、本書には現報の事例が数多く収録されている。よい現報は(1)盲人の目が見えるようになるなどの奇跡、(2)苦難からの救済、(3)長寿・子孫繁栄、が中心である。けっこう現世利益的な現報もあり、特に上巻31話で、仏道修行をした人物が「南無、銅銭一万貫、白米一万石、美女大勢召し給え」と祈願して手に入れた話は、我々の考える仏道修行とあまりにかけ離れた煩悩満載の願いで面白い。一方、悪い現報は、ほとんどの場合、悪死(悪い死に方)である。悪死という言葉は一般的ではないが、本書には頻出する。

来世で報いを受ける事例もある。それには、地獄に落ちる場合と動物に転生する場合がある。動物への転生では、特に牛に生まれ変わった事例が多い(上巻10話、20話、中巻9話、15話、32話)。牛は身近にいてしかもひどく働かねばならない動物だったからだろう。

いうまでもなく、仏教の教理では、生き物は六道を輪廻するとされている。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天の6つの世界で、これを生まれ変わりながら苦しみ続けるというわけである。ところが本書には、地獄へ行く話や動物(畜生)に生まれ変わる話はあるが、餓鬼・阿修羅・天に行く(生まれ変わる)話は全くない。これらの世界は具体的なイメージを伴っていなかったのかもしれない。

本書は全体的には仏教の因果応報を喧伝するが、一部は仏教とは全く関係のない不思議な話も収録されている。例えば、 上巻1話は雷を捉える話、上巻2話は狐を妻とした男の話である。

一方、一見仏教的であるが、その実、全く仏教教理に則っていないのが上巻12話と下巻27話。この2話は、肉身に殺された者の髑髏(の霊)が旅人の協力を得て復讐し、旅人に恩返しをする、という共通した構造を持つ。これは復讐や恩返しという因果応報の枠組みに則ってはいるが、髑髏の霊が、生まれ変わらずにずっと現世に留まっている、という点で仏教教理に則っていない。元来の仏教では、霊は中有の期間(いわゆる四十九日)を過ぎたら生まれ変わる(来世へ行く)とされているが、ここで髑髏の霊がいつまでも留まっているのはなぜなのか。後世に広まることとなる、非業の死を遂げたものの霊はいつまでも現世に留まり続けるという観念(→御霊信仰)は、すでに奈良時代にその観念が芽生えていたようだ。

なお、平安時代以降に関心の的となる極楽往生については、本書では上巻22話や下巻39話でちょっと触れられるだけで、至極あっさりしている。この頃は極楽往生よりも、現報がより重要だったようだ。

ところで、どうして景戒は本書を編んだのだろうか。もちろん仏法を広めるためではあろうが、どこに力点があったか。それは本書で酷い目にあっている人々がどんな人であるかで推し量れると思う。それは、しつこいほどに出てくる「因果の道理を信じない(不信因果)」の人である。ということは、仏教の教理の中でも、特に因果については当時の日本人はピンと来ていなかった、ということなのだろう。因果の道理、因果応報の原則が物理法則のように存在することを示すために編んだのが本書ということになると思う。

ちなみに本書の中心である奈良時代〜初期平安時代は、国家の側では仏教の教理が最も生真面目に受け止められた時代である。その時代においても、「因果の道理を疑うべきでない」とか「仏教を少しも疑うべきでない」とか「信心のおかげだ」といったことが喧伝されるのは、逆に言えば仏教に対する疑いを持つ人が多かったことの証左だ。

中世には、仏教は膨大な典籍を博引旁証することによって論証され、「インドや中国から来た経典に間違いがあるわけがない」というような理屈で仏教は正当化されたように感じるが、本書では経典がどうこう、インド中国云々といったことは全く説かれていない。あくまでも「こんな事がありました」という日本の具体的事例のみによって仏教(というより「因果の道理」)の正統性・妥当性を示しているというところが、本書の著しい特徴だと感じた。

なお、本書に収録された話は、『今昔物語集』などのこれに続く説話文学や昔話のネタ元になっており、説話文学の淵源を瞥見する意味でも興味深かった。

※括弧内の原文については、こちらのページを参照しました。
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/ryoiki/ryoiki.htm

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