本書の冒頭に、著者は「これは方丈記の読解ではなく、私の体験を述べるものだ」という趣旨のことを書いている。
それは、1945年3月の東京大空襲から始まる。著者はこの空襲の直接の罹災者ではなかったが、東京にいた。そしてこの空襲による大火災を遠望し、翌日、天皇がその様子を視察するのにも偶然遭遇した。筆舌に尽くしがたいほどの惨状の中、著者は『方丈記』が恐るべきリアリティを持って、当時の惨状を活写していたことを悟るのである。
『方丈記』には、養和の飢饉として知られる大飢饉や京都の大火が記録されている。この頃は、保元の乱や平治の乱、そして福原遷都など平氏政権の末期にあたっており、戦乱、災害、食糧危機といった人々を襲った惨状は、太平洋戦争中のそれと符合していた。そして上っ面だけ立派で人々を顧みない無責任な体制も、すでにこの当時において完成していたのだ。
19歳の藤原定家が、その日記「明月記」に「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ(=戦争なんて俺の知ったことか)」と、悲惨な時代を超越して芸術のための芸術に邁進していたことを著者は清々しく思っていたのであるが、いざ戦争の惨禍が目の前に迫ってくると、むしろ『方丈記』の迫力が著者に理解されてくるのである。そして「3月10日の東京大空襲から、同月24日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごした(p.68)」。
多くの人たちが、惨禍のさなかにあって右往左往するしかなかったのは、今も昔も同じである。しかし鴨長明は、惨禍を直視して、大局的かつ実証的に記述した。同じ時代に、千載和歌集を編纂していた藤原俊成(定家の父)とはなんという違いだろう。千載和歌集は、悲惨な時代にありながら「いったいどこに、兵乱、群盗、天変地異の影があるものであろうか(p.86)」。
長明はこの時代、失業者同然の暮らしをしていた。彼は鴨神社の禰宜の次男として生まれたが、早くに父をなくし「みなし児」になり、日々の生活に必死であったと思われる。父方から相続した家を手放して、10分の1の家に零落した。『方丈記』といえば無常感であるが、それは日々の暮らしに飽いた上級の人々の持つ「もののあはれ」などとは全く違うのである。むしろ「彼の無常感の実体は、あるいは前提は、実は異常なまでに熾烈な政治への関心と歴史の感覚(p.116)」に基づいていた。宮廷とその取り巻きたちによる虚構の世界を、世捨て人として糾弾した果てにあったのが無常感なのだ。
しかし長明は、現実の社会を透徹した目で見つめた傍観者ではない。彼が歌人として上向いてきたのは、それこそ千載和歌集に一首入れてもらったからで、彼はそれに素直に感激している。そして懸命に定家流の幽玄体の和歌を作り、地下人(非貴族)としてただ一人寄人になるのだ。だが後年、それを馬鹿馬鹿しく思ったのか、「今の体は習いがたくして、よく心得つれば、詠みやすし」と言っている。定家は300年前の言葉を使って歌を詠めと言っており、昔の秀歌や故事を残らず頭に入れておかなければ幽玄体の歌はできないのだから、それが「習いがたい」のは当然だろう。しかしそうして作り出された歌は、現実の世界とは何の関係もない歌のための歌、芸術のための芸術であった。そして言葉が現実から遊離して、現実を叙述することができなくなっていたことに、長明は気付いていた。その先に『方丈記』の散文があるのである。
彼は、生きるために懸命になりながら、この社会の馬鹿馬鹿しさにどこか倦んでいた。「世にしたがえば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり」。社会に従えば身が苦しい。かといって、従わず我が道を行けば狂人と一緒である。そして長明は、出家の道を選んだ。世の人からは「世を恨みて出家して(十訓抄第九)」と見えたらしい。長明50歳の時であった。
そして長明は、世を捨てて大原に隠棲し、理性を立て直した。そこで彼が棲んだのが、一丈四方の組み立て式住居「方丈」なのである。『方丈記』は、世界の古典文学では珍しい住居論なのだ。彼は住居の在り方から社会を考える。あまりにも有名な冒頭「ゆく河の流れは絶えずして…」も「世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」と、住居の話に繋がっていく。そしてその住居論は、当たり前のことながら、快適さや豪華さなどは全く眼中にない。
彼は、贅を尽くした貴族の邸宅が、大火で灰燼に帰すのを見ていたのだ。それよりも、人間が生きるために必要な住居は何か。大火や群盗に怯えずに、自分が自分でいられる住居とは何か。その答えが、山の中の掘っ立て小屋のような家だった。そこでの暮らしはどんなものだったか。長明に一度会ったことがある源家長が隠棲中の長明に再会したところ「それかとも見えぬ程に(=見違えるほどに)やせ衰えて」いた。現代文明の利器などない中での、自給自足の暮らしである。相当に厳しい生活だったと思われる。
にもかかわらず、『方丈記』には、山暮らしは大変だ、などとは一言も書いていない。それどころか「つねにありき(歩き)、つねに働くは養性なるべし」と言っている。一人の力で立っていることを楽しんでいたのだ。だが一方で、彼が透徹した心境にあった、ということもありそうにない。むしろ彼は、社会に「ざまあみろ」とツバを吐きかけていた。捨てられるものはみんな捨て、「言いたいことを言ってやるぞ、文句あっか!」と啖呵を切っていたのである。おそらく、長明は悟りきった隠者ではなく、相当な変わり者、偏屈な頑固者だった。「とてもかくても柔和な風流人などというものではありえなかった(p.203)」。周りの人からは狂人扱いされていたに違いない。「出家をしても、世を捨てても、六十になってもトゲののこる人であった(p.208)」。
「あの当時にあって、かくまでのウラミツラミ、居直り、ひらきなおり、ふてくされ、厭味を、これまた大っピラに書いた人というものは、長明の他にはまったくいなかったのではないだろうか(p.210)」と著者は言う。そして住居を考えることから始まった人間論は、
「夫(それ)、三界は只心ひとつなり」
という堂々たる宣言に帰着する。どんなに豪華な宮殿に住もうとも、心が安らかでなければ意味がない。だがこの「方丈」にいるときは、自分が自分でいられ、「他の俗塵に馳する事をあはれむ(他人が俗塵にまみれあくせくしていることを憐れむ)」。このセリフを、乞食に成り果てた長明がいうのが面白い。
それは痩せ我慢なのだろうか。いや、そうではないだろう。
それは社会が惨状にあるのに、連日の遊宴に浮かれていた宮廷社会に対する痛罵であり、その狂った社会の中で一人正気を保つための「われわれの唯一の逃げ口(p.237)」としての思想なのだ。
【関連書籍の読書メモ】
『定家明月記私抄』堀田 善衛 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/01/blog-post.html
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