明治維新は、料理維新でもあった。西洋料理に触発されて、日本では新しい料理文化が育った。「洋食」とは、西洋料理そのものではなく、日本の食文化に希薄だった油脂と獣肉という西洋の食材を用いて、パンではなくご飯に合う料理として新たに考案されたものなのだ。
中でもその到達点ともいえるのが、とんかつである。西洋料理にもカツレツはあったが、それは分厚い豚肉を使った揚げ物料理ではなく、薄い牛肉をフライパンで焼く料理であった。とんかつは、西洋料理を様々な工夫によりアレンジして、日本で生まれた料理なのである。本書は、とんかつに至るまでの歴史を、豊富な資料を駆使して描いている。
人間にとって食べものは、最も保守的なものの一つである。新しい料理と出会っても、それをすぐさま取り入れ、それが旧来のものに置き換わってしまうことは少ない。日本人の旅行者が海外にいって、いかに現地の食事が美味しくても、欲しくなるのはご飯と味噌汁、ラーメンなのだ。ではどのようにして西洋料理は日本に根を下ろしたか。
その第一は、明治政府によるキャンペーンであった。政府は、日本人が西洋人に比べ体格が劣っているのは肉を食べないからだとして、「滋養」の観点から食事の西洋化を図った。特に明治5年(1872)1月に天皇が西洋料理の晩餐を食したのは画期的である。この際、天皇が「肉食は養生のためよりも、外国人との交際に必要だから食べたのである(p.25)」と言ったのは興味深い。
元来、日本では獣肉は仏教的な禁忌、つまり「けがれ思想」から食べられていなかった。聖武天皇の「殺生肉食禁止の詔」が発布されたのは7世紀の後半。 1200年もの間、日本人は肉食を遠ざけていた。天皇が肉食した1ヶ月後、御嶽行者10人が皇居に乱入し4人が射殺されるが、彼らは「肉食ヲ致ス故、地位相穢レ(p.26)」と述べている。
しかしながら、元々の仏教には肉食のタブーはなく(中国仏教には肉食禁止はない)、肉食の禁止には野生動物は除外されていた。さらに「薬喰い」と称して、病気の人などが肉食する習慣はあった。江戸には、イノシシ・鹿・熊・兎などの肉を取り扱う「ももんじ屋」が数え切れないほどあった。ただし、その場合でも「けがれ」の観念はあったようで、「赤斑牛だけは食べても身がけがれない」などと都合の良い理屈を付けていたのは、裏を返せば禁忌意識の現れである。
また、明治5年の前にも、西洋料理屋はどんどん出現していた。外国人居留地では肉食が行われたのはもちろんで、文久元年(1860)には横浜の居酒屋が「牛肉煮込み」で評判となり、文久3年(1863)には長崎に初の西洋料理専門店「良林亭」が開店した。さらに慶応元年(1865)、横浜では牛肉の串焼き店が開店。慶応3年(1867)に実業家中川嘉兵衛により武蔵国荏原郡に牛肉処理場が開設(けがれに気を遣い、しめ縄を張って屠殺し、お経を上げて清めた)。その牛肉を利用し、明治元年(1868)、東京の露月町に最初の牛鍋屋が開店することになったのである。
すなわち、明治政府のキャンペーンによるもの以外に、外国人居留地を中心に民衆的な動きとして肉食は幕末から広まってきていた。特に「牛鍋」は牛肉を醤油と砂糖で味付けするという、スパイスを使う西洋料理とは全く違う発想で、牛肉を和食化した庶民が工夫して生まれた料理であった。牛鍋は大流行し、明治8年(1875)頃には東京で100軒、同10年には558軒にも激増。牛鍋は文明開化の象徴とまで見られた。さらに牛鍋は関西で「すき焼き」へと変化した。
また、福沢諭吉や仮名垣魯文は肉食を推奨した。明治4年(1971)の「牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」で始まる『牛屋雑談 安愚楽鍋』(仮名垣魯文)は福沢の「肉食之説」に影響を受けているが、この本には「肉食をすりやア神仏へ手が合わされねへのヤレ穢れるのと、わからねへ野暮をいふのは究理学を弁へねえからのことでげス(p.60)」という言葉があって面白い。要するに「肉食をしないやつはバカ」なのだ。
さらに興味深いのは加藤祐一の『文明開化』(明治6年(1873))。「元来、獣肉魚肉都(すべ)て肉類を忌むは、仏法から移つた事で、我が神の道には其様なことはない(p.62)」としている。先ほどは「神仏」だったのが、ここでは明らかに仏教排斥・神道称揚の立場から肉食が奨励されている。
こうして政府と知識人によって肉食は奨励され、また戊辰戦争の時に負傷兵の治療食として用いられたり、西南戦争のときの兵食となったりして広まっていった。
もちろん、それに反対したものもいなかったわけではない。反対論は、(1)けがれや神仏の信仰、(2)米食で栄養は取れるのだから無用、(3)西洋かぶれは見苦しい、の3点に集約できるが、あまり大きな影響を与えなかった。森鷗外(軍医総監)の「日本兵食論大意」では、兵食には米食が適しているとしてその後大きな影響を与えたが、肉食を退転するものではなかった。
一方、本格的な西洋料理の方はどうだったか。外国人居留地にはホテルや西洋料理店が早くにできていたが(「築地ホテル」は明治元年)、明治5年には東京に「精養軒」ができ、また明治6年頃には本格的な西洋料理店の時代となり続々と開店した。明治5年には、仮名垣魯文『西洋料理通』、敬宇堂主人『西洋料理指南』が出ている。
こうした風潮が最高潮に達したのが明治16年(1883)の鹿鳴館の時代で、連日の大宴会は文明開化の一つのシンボルになった。しかし鹿鳴館は「西洋の猿真似」と批判されて外国からも不評で、わずか3年ほどで幕を下ろした。そしてこれと軌を一にして、本格的な西洋料理屋は次々と閉店。西洋料理は社会の上層部ではもてはやされたものの、庶民には受け入れられなかったのである。だが、西洋料理をアレンジした洋食は、どんどん生まれていく。
明治7年(1874)にはあんパンが登場。パン自体は日本に伝来したのは戦国時代で、幕末には江川坦庵が兵食として研究していたが、日本食には合わないため庶民に広まることはなかった。だがあんパンの登場を機にパンが普及する。あんパンを開発したのは木村安兵衛。彼は明治2年(1869)に東京に「文英堂」という洋風雑貨兼パン店を開店。これは東京のパン屋の始祖である。彼は西洋のパンを模すのではなく、新しいパン作りを志向していた。そして酒まんじゅうをモデルに、パン種の入手が容易でなかったのを米麹を使って克服して、6年の歳月を費やしあんパンを完成させた。西洋のパンと違い、パンをおやつとしてアレンジしたのが大きな発想の転換で、これによってパンが爆発的に広まった。その後、「ジャムパン」(木村屋1900)、「クリームパン」(中村屋1904)、「カレーパン」(名花堂(現在のカトレア洋菓子店)1927)が生み出され、日本の食生活において菓子パンは欠かせないものになっていった。
とんかつは、あんパンとは違って多くの人びとの工夫によって生まれた。まず明治28年(1895)に、東京銀座の「煉瓦亭」が刻み生キャベツをつけたとんかつの前身「豚肉のカツレツ」を売り出した。牛でも鶏でもなく豚肉を使い、たっぷりの油で揚げて(=ディープ・ファット・フライング)、生キャベツを付けたのが常識破りの工夫であった。この頃はデミグラスソースであったが、コロモにソースが絡まったのが米飯にぴったりなので庶民は歓迎。さらに明治30年代にウスターソースが登場してこれがポークカツレツの人気に拍車をかけた。
そして昭和4年(1929)に東京下谷の「ポンチ軒」が分厚い豚肉を揚げたとんかつを売り出した。これは大人気となり、「とんかつ時代」が到来。あまりにもとんかつが人気となり、「強気の料理人が多かったようで、とんかつを食わせてやるというツラガマエ(p.184)」だった、という話は、現代のラーメン屋にも通じるものがありそうだ。
他、親子丼(明治10年頃)、串カツ、ライスカレー、カツカレー(大正7年)、などが陸続と現れた。そしてこれらは、「和食の洋食化ではなく、西洋料理の和食化(p.213)」であったことが重要だ。それらは西洋料理の刺激を受けて生まれたものではあるが、独創的な工夫によって生み出された新しい和食だったのである。明治31年(1898)に著された『西洋料理法大全』(石井治兵衛)でも、洋食は立派な日本料理として評価されている。
また洋食文化を生んだのは、カフェーの力も大きかった。カフェーは最初はコーヒーを飲む店、次に軽食を出す店、次に美人が洋酒をついでくれる店、と変化するが、カフェーの軽食も洋食の普及に一役買った。大正末頃には、洋食が人気になったためにそば屋から客が減り始める。これに危機感を抱いたそば屋が、関東大震災後に洋食を出すようになって受け入れられた。「そば屋でカレー」はこの頃からのことだ。さらにデパートの大食堂は、洋食を集大成して提供した。洋食は「外食」として発展したのである。こうして「庶民の洋食が勢ぞろいし、「食のレベル」として頂点に達したときに、「とんかつの誕生」となった(p.234)」のである。
近代日本の「洋食」が、単に西洋料理の受容ではなく、独自の食文化の創出であったことを詳述した良書。
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