東叡山寛永寺は、徳川将軍家の祈願寺であり、4代家綱からは菩提寺ともなった。将軍家は政策的に寛永寺の権威を高め、仏教界の頂点においた。
しかし、明治維新が起こると旧幕勢力(彰義隊)がここを本拠地とし(一山の関係者は所払い=追放されていて不在となり、戻ってきたのは明治2年2月26日)、新政府軍がこれを討伐すると上野は火に包まれ、ほとんどの建物は灰燼に帰した。その後、上野は明治政府の象徴的な施設建設用地として使われ、上野公園や動物園、博物館、美術館など「近代国家日本」をアピールする文化風致地区になっていったのはよく知られている通りである。
本書は、寛永寺の在り方と、将軍家および一品法親王の葬儀の実態を資料に即して述べるものである。
寛永寺の本坊落成は寛永2年(1625)。寛永寺は、家康没後、秀忠が天海に上野の台地を寄進し、将軍家の祈願寺として建立された。増上寺(浄土宗)が将軍家の菩提寺であり、祈願寺としては浅草寺があったが、寛永寺はこれらの寺院とは隔絶した壮大なプランをもっていた。
それは、比叡山延暦寺を江戸に模倣するというものであった。天海はその山号を東の比叡山の意で「東叡山」と名付け、延暦寺にならって創建時の年号「寛永」をつけるため、わざわざ勅許を受けている。また立地も、たまたま江戸城の鬼門に近く、山麓には湖(不忍池)があるなど、地取りも比叡山と類似していた。
さらには、つぎつぎに造営された堂塔伽藍は、そのほとんどが比叡山とその周辺のものに倣っていた。また寛永寺の山主は、初代は天海、そして第2代は天海の弟子の公海が継いだが、比叡山が天台座主という門跡を戴いていたように、寛永寺には皇族から法親王を迎え、宗教界の頂点に君臨させた。これが第3代山主の守澄法親王(後水尾天皇の第三皇子※)である。彼は輪王寺の勅号を受け、以後歴代の上野の宮様は輪王寺宮一品法親王と呼ばれるようになった。また東叡山・日光山の山主と、多くの場合は天台座主も兼ねるので三山管領宮(かんりょうのみや)とも呼ばれる。
一品親王(宮)は非常に位が高く、江戸城に登城する際は、通常は将軍と宮にしか許されていない網代の溜塗の駕籠を江戸城表玄関にじかに乗りつけ、法要儀式に関わるときは江戸城中では上段の間で将軍と対座の待遇をうけた。要するに宮は将軍とほぼ対等だったのである(法要儀式以外は徳川御三家と同格)。そして将軍と宮の交流は、対等であるだけにかなり密接であった。
では将軍と寛永寺はどのような関係にあったか。これがなかなか面白い。寛永寺と増上寺への御成を「両山御成」というが、これは歴代将軍霊廟(と位牌所)への参拝で、年回ごとの法要と毎年の祥月命日に行われた。しかし意外なことに、将軍は一切葬儀にはかかわらず参列もしなかった。また正室や将軍生母へも、原則的にはその霊廟に参詣することはなかった。
これは死の穢れが将軍につくことを避けるためだったようだ。ということは、将軍は普通の家督相続者が持っていた祭祀権を、そっくり一品親王に委託していたということになる。また、将軍御成の場合も、「どの将軍霊廟に参詣するときでも、決して山門を潜って正面の根本中堂の方には向かわない(p.77)」というのも面白い。これは上野の東照宮の横を通ることを遠慮したからではないかと考えられるというが、やはり穢れ思想との関連が気になった。
一方、老中や若年寄たちは足しげく寛永寺に通う必要があった。それは、祥月命日以外の毎月の命日(月忌)には老中が将軍名代として歴代将軍霊廟に参拝したからである。将軍の代が増えるにつれ、祥月命日だけの将軍参拝はもちろんのこと、月忌参拝しなくてはならない老中・若年寄の負担は大きかった。著者は偶然としているが、寛永寺関係の7人の将軍(慶喜を除く)の命日が、8日が3人、20日が2人なのは気になるところだ。
なお、本書には将軍御成の跡固(あとがため=御成後の警護)を命じられた島原藩松平家の場合の段取り、手配などを細かく記しているがここでは略す。
このように、寛永寺は将軍家にとって特別な寺院であった。寛永寺には将軍家から次々と寺領が寄進され、寺域30万1870坪、主要な堂塔伽藍32~35、子院36坊、寺領1万1790石といった規模へ成長した。だいたい、享保の頃にこうした規模になったようだ。「幕末期における実質的な東叡山の収入は、3万5000石をも上回ったのではないか(p.70)」ということだ。
本書では、次に将軍家の葬儀(家綱、綱吉の場合)と、一品親王の葬儀(公弁法親王)の次第を詳しく述べているが、将軍家の葬儀のみについて気になったポイントのみ記す。
家綱の場合は、近習37名のうち31名が落髪しているが、これは殉死が禁じられていたためだ、というのが面白い。また、死後、寛永寺と幕府はそれぞれ一日三回の法要を続けていたというのにびっくりする。もちろん幕閣もある程度これに参列したので、とても政務を見られる状況ではなかったという(幕末の家茂の場合なんかはどうだったのだろうか)。
一方で、七日七日の法要を日程通りには一切やっていないのは謎である。葬儀が済んでから、初七日逮夜(前日の法要)、初七日、二七夜逮夜、二七夜…と連日法要を営み、1か月くらいで百ケ日法要まで圧縮してやっているのである。死んでからの日数と全く対応していないのが奇異である。なお百ケ日が済んでから、ようやく新将軍綱吉と一門の人々が霊廟に参詣する(当然、それまでは諸大名も参詣できない)。親族が中心となる普通の葬儀とは全く違うのである。
将軍の葬儀は、天皇のそれに倣って夜儀(やぎ)だったというのも面白い。霊廟の板塀や本堂からの道筋には全て白布が張られ、また敷かれていたというのも天皇家に習っているが、これは仏教的にはどのような教義に基づくものだったのだろうか。
なお将軍の死はすぐには公表されず、全ての段取りが整ってから公表されており、だいたい死後1か月くらいかかったようだ。その間は、もちろん段取りする人たちは将軍の死を知ってはいたが公には将軍は生きているものとして扱われた。(これがあったから命日の操作ができたし、また七日七日の法要を日程通りやらない理由だったように思われる。)
本書は全体として、儀礼・儀式のみならず、それを警護した武士や寛永寺を管理した武士などの様子も詳細に描いており、参考になる情報が満載である。また著者は寛永寺の執事長であるためそれらの情報は堅牢だ。しかし、葬儀を中心にしているため、寛永寺の全体像はわかりにくい。例えば、寛永寺は祈願寺でもあったが、どのような祈願が行われていたのか、といったことはもう少し知りたかった。
また、歴代将軍の墓所は、日光山(東照宮、輪王寺)、寛永寺、増上寺の3パターンがあるが、これはどのように使い分けられていたのかも興味がわいた。
江戸時代の宗教界の頂点であった寛永寺を葬儀を中心として描いた良書。
※第三皇子と本書にはあるが、調べてみると第六皇子のようだ。
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