2018年9月29日土曜日

『岩波講座 日本文学と仏教<第5巻> 風狂と数寄』今野 達 ほか編集

日本文学における仏教思想の展開を探るシリーズの第5巻。

本巻には、「芸能」として『新猿楽記』(三隅治雄)、仏教歌謡(武石彰夫)、世阿弥の能楽論(三﨑義泉)、「風狂」として『狂雲集』(柳田聖山)、『おくのほそ道』(尾形 仂)、良寛詩集(飯田利行)、「数寄」として『ささめごと』(島津忠夫)、『南方録』(倉沢行洋)が取り上げられ、その他柳田聖山による総論、西村惠信、大橋良介等の論考を収める。

私はハンドルネームを「風狂」としているように、昔から風狂の人物に興味があり、特に一休宗純(『狂雲集』)は人生の手本としての極北だと思っている。松尾芭蕉や良寛については、これまで風狂という観点からは見ていなかったが、こうして紹介されてみると一種の風狂人として共感した。

風狂という言葉には、風雅という意味合いもあるが、やはり狂うというところに意味の重点があり、一休や松尾芭蕉などは、一生悟りなどには到達せずに煩悩のままに己の道を歩んだところがある。漂白の歌人という意味では西行も似たような面があるが、西行は人生の最後には「和歌は陀羅尼に等しい」という境地に到達し、清澄に入滅を果たした。こういう悟った立派な人には、「風狂」という称号は似合わないのであり、西行を風狂という人はいない。

私が風狂の人に惹かれるのも、それが立派な人ではなく、おのれの煩悩に一生つきあい、この狂った世の中で真っ直ぐに生きようと思えば、自らが狂うしかない、というやむにやまれぬ生き方をした人が多いからである。

ところで本書には、『新猿楽記』を記した藤原明衡(あきひら)が登場するが、この人のことは本書にて初めて詳しく知った。明衡は身分と姻戚関係で全てが決まってしまう貴族社会の停滞の中で、才能はありながらも家柄がよくないために長く不遇の時を過ごし、かといって遁世することも出来ず、下級官職に甘んじて長く勤めあげ、晩年になって官位にこだわりながらも官位を得られずに死んだ人物である。

本書では、この明衡が慶滋保胤(よししげのやすたね)と対照的に描かれているが、彼は陰陽師としてよい家柄と才能に恵まれ栄達したが、しかし世間の汚辱を嫌悪して出家し、清浄な境地へと至っている。一方の明衡は、不遇の鬱を払いつつも、老いて若い妻を得、青年にまさる強い精力で二子を得て、その子らのためにも力の続く限り働かねばという執着から離れることはなかった。出家して心を清浄にするなど、全く念頭にないのである。

私はそういう、おのれの煩悩と世間の泥濘にのたうち回りながら、最後まで無駄なあがきを続ける人間が好きだし、私自身がそうなりたいと思っている。

本書には面白い論考もあるが、全体としてみるとやや散漫で、「文学における仏教思想の展開」については真正面からは論じていないものが多い。「風狂と数寄」という緩やかなテーマの下、 必要に応じて仏教的な要素に触れるという調子である。

あまり体系的な考察はないが、風狂と数寄に生きたいろいろな人とその作品を知ることが出来る本。

【関連書籍】
『連環記』幸田 露伴 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post.html
幸田露伴、最晩年の中編。慶滋保胤が主人公。
露伴の到達した言語世界の精華。

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