エピクロスとストアの生涯と思想を概説する本。
本書を手に取ったのは、エピクロスの生涯に興味を持ったからで、ストアについてはあまり熱心に読んでいない。本書はちょうど半分ずつエピクロスとストアについて書かれているが(内容はあまり関連していない)、以下エピクロスの項のみについて述べる。
ギリシアの多くの哲学者とエピクロスの違いは、エピクロスが高貴な生まれではなかったということだ。「エピクロスは小島生まれの市民で、たえず母国の保護を求め、そのための貢租を支払い、そのうえしばしば略奪の浮目にも会う人々の中のひとり」である。こういう境遇のエピクロスは、「ポリスを前提として立てられた倫理学に背を向ける」ようになった。
そしてエピクロスの思想家としてのビジネスモデルも、他の哲学者とは全く違っていた。彼は信奉者からなるサークルを作り、組織化した。リュケイオンやアカデメイアと違い、全く私的な学園であった。学園では位階制が取られて宗教的な組織構成を持ち、入学に際しては「私は喜んでエピクロスにしたがおう。彼にしたがうことが私の生きるよすがである」という誓約書を出した。学園には女性も数多く混じっていたが、これは男尊女卑の風潮が支配的だった当時としては特異なことだった。
学園には老若男女誰でも受け入れられていた。そして学園では出版活動が重んじられ、奴隷による筆写が盛んに行われていた。学園の教科書を準備しなければならなかったという理由もあって、彼の著作は並外れて多く300巻以上もあったという。学園の目的は「真の哲学の普及」にあったので、その門戸は開かれ、誰にでも公開されていた。このように、エピクロスが他の哲学者と全く違ったのは、権力者に取り入ることなく、市井の人々に広く訴えることで収入を得た点であった。
エピクロスの名は、「エピキュリアン=快楽主義者」の元になったが、実際の彼の哲学は快楽主義とはほど遠い。彼は快こそ自然から命じられた目的であるとは考えた。しかし思慮を持ち健康であることにともなう快こそ持続的で基本的な快だとし、その他の快は余計なものだとした。例えば、お腹が減った時に食事をするのは快であるが、その上美味しいものを食べたいと思うのは、同じ快であっても質的に異なる余計なものだいう。
そのため、学園の生活は当然に質素なものとなった。彼の思想は、快楽主義というよりも、必要最低限の充足で満足すべきという禁欲主義に接近した。
また、エピクロスは神の摂理や霊魂の不死、祈祷といったものも否定した合理主義的側面があった。しかし学園においてはエピクロス自身が崇拝の対象となっており、それは他の学派から揶揄されることもあった。一方で宗教的行事が持つ道徳的影響については敏感であり、サークルの人々のための祭りが慣習的に催された。彼は、宗教を国民国家が利用したような形で見ていたようなフシがある。
本書にはこのほか、エピクロスの思想として基準論、自然学、倫理学について述べられている。しかし、現代の科学を知っている目からすると、これらについてはさほど重要とも思われず斜め読みした。
名高いが簡便な紹介本に恵まれていないエピクロスについて、概略を知ることができる手軽な本。
0 件のコメント:
コメントを投稿