人間が環境をどのように受容するかについて、情緒的な部分に注目して語った本。
「トポフィリア」とは、著者イーフー・トゥアンの提唱する概念で、「人々と、場所または環境との間の、情緒的な結びつき」のことである。とはいえ本書は、「トポフィリア」を大上段に論証・研究する本ではなく、それをテーマにしながら、人間が身の回りの環境をどう理解し、受容し、評価してきたかを述べるものである。
著者は、人間主義的地理学(humanistic geography)の創設者であり、 また現象学的地理学の旗手だという。この聞き慣れない学問は、要するに「人間の主観を頼りに地理を理解する」というものらしく、例えば普通の地理学が文字通り地形や地質を相手にしたり、人間社会の地理を考察するのでも統計や各種のデータを相手にしたりするのとは異なって、人間がそこをどう感じるかを糸口に地理を研究するもののようである。つまり、心理学的地理学とでもいえるだろう。
本書は、主に3つの内容で構成されている。
第1に、古代からのコスモロジー(宇宙観)について。コスモロジーは、我々が環境を知覚する際に大きな影響を与えてきた。世界を秩序として見るか、混沌として見るか、そして秩序として見るなら、その秩序の中心に何を見るか(例えば、神?)。そして世界の秩序を模するものとして、都市が建築されたりもした。コスモロジーは環境評価の土台を与えるものなのだ。
第2に、主に自然の景観に対する評価の仕方とその変遷について。例えば山は、ヨーロッパではかつて不毛で怖ろしく、不気味なものだった。それが19世紀のロマン主義により、気高く美しく、崇高なものとして受容されるようになる。それどころか、レクリエーションの場ともなって、ハイキングや登山が流行するようになった。山そのものは19世紀以前と以後で変わったわけではないのに、その受容の仕方は随分と変わったのである。知覚(視覚や聴覚)の対象が変わらなくても、その感じ方は変わってしまうことは多い。一方で、時代や場所によって変わらない、普遍的と思える環境の評価もある。例えば島、谷、海岸は様々な文化で描かれるユートピアが備えている特徴である。こうした近代以前の例を中心にして、人間の基本的な環境の認知の仕方について考察する。
第3に、 都市に対する両義的な評価について。都市は、繁栄やきらびやかさ、自由や洗練といったプラスの評価と同時に、悪徳や貧困(スラム等)、抑圧や汚穢といったマイナスの評価も受ける両義的(アンビヴァレント)な存在である。都市への評価はその両極端に振れながら変遷してきており、都市が発展するのと平衡して、田園の生活を理想視する態度も形成されてきている。そして都市と田園のいいとこどりとしての郊外(田園都市)という形態も発展してきた。アメリカの都市の発展を中心に、人々がその発展をどのように受容してきたかを考察している。
本書は、大まかには上記3つの内容を持ちながら、「あれもあるこれもある」式でいろいろなことがエッセイ風に書かれ、悪く言えば散漫に、よく言えば多角的に場所と人間との結びつきを語っている。何かを論証するような本ではないので、本書を読んで何がわかるかというと特にこれが分かるというものはなく、その意味では物足りない感じもするが、いろいろなヒントをもらう本として読むのがよいと思う。
特に心に残ったのは、風景であれ芸術作品であれ、審美的な目で(美しいなあ、という感動を持って)見られるのはせいぜい2分間だ、という指摘。それ以上楽しもうとするなら、そこには批評の知識など何か他の理由がいる。視覚の快感は「時間」が非常に限られたはかないものだということは、あまり指摘されないように思うがとても重要なことだと感じた。しかしかといって、視覚的なものが短時間しか人々の心理に影響しないかというとそんなことはなく、例えばゴミゴミした汚いところにずっといれば精神的にも混乱・衰弱してくる。清潔でよく整頓された美しい街にいることは「自分が自分でいられる」ための重要な条件ともいえるのである。視覚による快感は一瞬のものでしかないが、それによる影響は持続的なのだ。
このように、本書は1970年代に上梓されたものであるが未だ現代的といえる慧眼に溢れており、環境への評価を考える上での基本図書の一つと言えるかもしれない。
だが、これは現象学的地理学の弱点と思われるが、環境に対する人間の心理を問題にしながら、それがほとんど確固たる基盤を持っていないことは指摘しておかねばならない。本書では、文学作品に表現された環境(土地)への評価、アメリカの都市についてはアンケートといったものを取り上げているが、それだけでは科学というには弱いところがある。先ほど「エッセイ風」と書いたように、「こうとも考えられる」というような部分があまりに多いので、人間の心理を出発点とするなら、そこにもっとしっかりした土台を設けなくてはならないと感じた。
というような不満はあるものの、「トポフィリア」という概念はまだまだ考究する余地と価値がある。やや散漫で何かを分かった気にはなれないが、ヒントに溢れた論考。
2016年3月28日月曜日
2016年2月24日水曜日
『逝きし世の面影』渡辺 京二 著
外国人が残した記録によって辿る、徳川期の日本の残照。
著者は、日本のかつての姿を探るため、幕末から明治にかけて来日した外国人が残した記録を丹念に紐解いていく。当時の社会がどうだったか、ということは意外と日本人自身の記録ではわからない。当たり前の日常についてはわざわざ記録しようと思わないものだからだ。だから社会の姿は、その外部からの目によって新鮮に記録される。当時来日した外国人たちは、西洋とは違う意味で発展した日本の「文明」に目を見張ったのであった。
そこにあったのは、天真爛漫で幸せそうな親切な人々、地味ではあるが手の込んだ意匠の道具、清潔で植物に彩られた気持ちのよい街や村、形式的な階級はあるがうまく棲み分けられ、悲惨な貧困や抑圧が存在しない平等な社会、有能で自尊心があり男性と対等にやりあう美しい女性たち、のびのびと育てられ可愛がられている子ども、弱いものへのいたわりと他者への礼節、つまり子どもっぽくもありながら同時に洗練されてもいた人間の姿であった。そこには、近代西洋が捨ててきた、産業革命以前の古き良き社会が西洋と違った形で存在していたのである。
こういった社会の残映は、現代の日本にもある面では受け継がれているが、その多くは既に無くなっている。明治時代、日本は大急ぎでその姿を改造しなくてはならなかった。少なくとも、この国のリーダーたちは、国の姿をまるっきり変えてしまわなくては国際社会で生き残っていけないと考えた。そして、前時代的なるものを全て遅れたもの、悪いものと断罪して旧文明を破壊していった。
そうした旧文明の破壊を、当時日本を訪れ、その美しさに感動した外国人たちは惜しんだ。この夢のようなおとぎの国が、自分たちの祖国と同じつまらない工業国になっていく未来が見えたのである。一方我々は、旧文明が遅れたものだとする見解を鵜呑みし、江戸時代といえば無知と蒙昧、酷い不平等、貧困と不潔、混乱と飢餓の時代だと思わされてきた。一面、それも事実である。本書には出てこないが、江戸時代には子どもの間引きがあり、貧困や飢餓が存在しなかったというわけにはいかない。しかし総じて、260年間続いた穏やかな社会は、まどろむような平衡に到達していたということも間違いないのである。
ところで本書を読みながら、私の頭に浮かんだのはブータンのことである。ブータンには幕末の日本と少し似ているところがある。周囲の国家と距離を置き、未だ工業化されない素朴な社会。ブータンには確かに幸せで呑気な人々が生きている。たぶん、明治の日本はこんな感じだったのだろうと思う。
しかし、実はブータンの上流階級は、そうした人々のことを内心苦々しく思っている。時間を守らない労働者、約束を平気で反故にする人たち、契約よりもしきたりを守ろうとする慣習…。そうした古い社会を捨て去らない限り、ブータンの近代化はありえないと。
当時の日本もそうだった。すばらしく平穏な完成した社会がありながら、国家の指導階級はそれを疎ましく思った。しかしその階級は、外国人から見ると形式と体裁だけを気にするビックリするほど無能で不機嫌な連中だったのである。こうした無能な連中の下で、完成された社会が存在していることにもまた、外国人は驚いた。
1860年代に鉱山技師として来日したパンペリーという人物がいみじくもこう書いている。「日本の幕府は専横的封建主義の最たるものと呼ぶことができる。しかし同時に、かつて他のどんな国民も日本人ほど、封建的専横的な政府の下で幸福に生活し繁栄したところはないだろう」と。
日本は、社会全体が幸福な平衡に達していたわけではなく、あくまでその平衡は下層階級の間に限られていた。幸福な下層階級と、無能で不機嫌な指導階級。その対比が社会にどのようなダイナミズムをもたらしたのかということが、本書を読みながら大変気になったところである。
ここに描かれたおとぎの国は、もはや存在しない。我々は既に近代化し、まどろみから目覚めてしまった。一方ブータンは、近代化しながらも、古い社会の良さを失わないようにする困難な社会実験をしている。その結果がどうなるのかは興味あるところだ。その取り組みがぜひ成功し、西洋近代社会とは違った文明システムが、この世界には共存できるのだということを示して欲しいと本書を読んで思った。
失われた日本の「手触り」を感じられる珠玉の論考。
著者は、日本のかつての姿を探るため、幕末から明治にかけて来日した外国人が残した記録を丹念に紐解いていく。当時の社会がどうだったか、ということは意外と日本人自身の記録ではわからない。当たり前の日常についてはわざわざ記録しようと思わないものだからだ。だから社会の姿は、その外部からの目によって新鮮に記録される。当時来日した外国人たちは、西洋とは違う意味で発展した日本の「文明」に目を見張ったのであった。
そこにあったのは、天真爛漫で幸せそうな親切な人々、地味ではあるが手の込んだ意匠の道具、清潔で植物に彩られた気持ちのよい街や村、形式的な階級はあるがうまく棲み分けられ、悲惨な貧困や抑圧が存在しない平等な社会、有能で自尊心があり男性と対等にやりあう美しい女性たち、のびのびと育てられ可愛がられている子ども、弱いものへのいたわりと他者への礼節、つまり子どもっぽくもありながら同時に洗練されてもいた人間の姿であった。そこには、近代西洋が捨ててきた、産業革命以前の古き良き社会が西洋と違った形で存在していたのである。
こういった社会の残映は、現代の日本にもある面では受け継がれているが、その多くは既に無くなっている。明治時代、日本は大急ぎでその姿を改造しなくてはならなかった。少なくとも、この国のリーダーたちは、国の姿をまるっきり変えてしまわなくては国際社会で生き残っていけないと考えた。そして、前時代的なるものを全て遅れたもの、悪いものと断罪して旧文明を破壊していった。
そうした旧文明の破壊を、当時日本を訪れ、その美しさに感動した外国人たちは惜しんだ。この夢のようなおとぎの国が、自分たちの祖国と同じつまらない工業国になっていく未来が見えたのである。一方我々は、旧文明が遅れたものだとする見解を鵜呑みし、江戸時代といえば無知と蒙昧、酷い不平等、貧困と不潔、混乱と飢餓の時代だと思わされてきた。一面、それも事実である。本書には出てこないが、江戸時代には子どもの間引きがあり、貧困や飢餓が存在しなかったというわけにはいかない。しかし総じて、260年間続いた穏やかな社会は、まどろむような平衡に到達していたということも間違いないのである。
ところで本書を読みながら、私の頭に浮かんだのはブータンのことである。ブータンには幕末の日本と少し似ているところがある。周囲の国家と距離を置き、未だ工業化されない素朴な社会。ブータンには確かに幸せで呑気な人々が生きている。たぶん、明治の日本はこんな感じだったのだろうと思う。
しかし、実はブータンの上流階級は、そうした人々のことを内心苦々しく思っている。時間を守らない労働者、約束を平気で反故にする人たち、契約よりもしきたりを守ろうとする慣習…。そうした古い社会を捨て去らない限り、ブータンの近代化はありえないと。
当時の日本もそうだった。すばらしく平穏な完成した社会がありながら、国家の指導階級はそれを疎ましく思った。しかしその階級は、外国人から見ると形式と体裁だけを気にするビックリするほど無能で不機嫌な連中だったのである。こうした無能な連中の下で、完成された社会が存在していることにもまた、外国人は驚いた。
1860年代に鉱山技師として来日したパンペリーという人物がいみじくもこう書いている。「日本の幕府は専横的封建主義の最たるものと呼ぶことができる。しかし同時に、かつて他のどんな国民も日本人ほど、封建的専横的な政府の下で幸福に生活し繁栄したところはないだろう」と。
日本は、社会全体が幸福な平衡に達していたわけではなく、あくまでその平衡は下層階級の間に限られていた。幸福な下層階級と、無能で不機嫌な指導階級。その対比が社会にどのようなダイナミズムをもたらしたのかということが、本書を読みながら大変気になったところである。
ここに描かれたおとぎの国は、もはや存在しない。我々は既に近代化し、まどろみから目覚めてしまった。一方ブータンは、近代化しながらも、古い社会の良さを失わないようにする困難な社会実験をしている。その結果がどうなるのかは興味あるところだ。その取り組みがぜひ成功し、西洋近代社会とは違った文明システムが、この世界には共存できるのだということを示して欲しいと本書を読んで思った。
失われた日本の「手触り」を感じられる珠玉の論考。
2016年2月14日日曜日
『風景学入門』中村 良夫著
日本の景観工学の第一人者による「風景学」の入門書。
景観工学は、土木建築の際に周囲の環境と調和してしかも見栄えよく、そして機能的な構造物を作るのに必要な学問であるが、「風景学」はそれをさらに敷衍して、我々が日々暮らす都市や田園、そして自然の風景の諸相をよく理解するための学問であるといえる。
本書では、まずは風景を物理的に考察する。例えば、視角が何度の時に風景は収まりがよいか。山は大きければ大きいほど迫力があって風景として好ましいかというとそうでもない。むしろ、垂直方向10°・水平方向20°くらいにひとかたまりの図がある方が好ましい。例えば、仙巌園から見る桜島の大きさがこれくらいらしい。また、星座なども20°×20°の大きさにほとんど収まるという。これ以上図が広がると、それが一つのものと認識されなくなったり、全体を見渡すために首を回さなければならなかったりして図としての心地よさが減じる。
次に、風景は自然や都市のありさまそのものではなく、それによって我々が行う解釈、つまり心象であると主張する。我々は現実の風景を見る前に心の中に「理想の風景」を持っていて、その理想の風景という型に沿って風景を理解している部分がある。例えば田んぼがたくさんある山里の景観は、我々にとっては「日本の原風景」と認識される好ましいものであっても、砂漠に生きる人たちにとっては異なる解釈になるであろう。風景が心象であるならば、風景を論ずるためには我々は心理学者たらねばならないのである。
また、風景が心象であるならば、風景を構成する事物そのものに絶対的な存在感があるわけではないということになる。松いっぽん、橋ひとつとっても、それがどこにどのように存在しているかによって風景としての意味は変わる。それあたかも、大乗仏教で「いっさいの存在は空(くう)である」とされるようなもので、全ては相互関係(仏教用語で言えば「縁」)に基づくのである。まちづくりなどで土木工事を行う際も、構築物そのものの存在のみを考えていては好ましい景観は生まれない。構築物自体は空じて、場所との結縁(けちえん)の中でそれが風景にどうあるべきかを考えなくてはならない。
最後に、そうした風景についての考察に基づいて、これからの建築土木がどうあるべきかを提言している。そこに書かれた内容は至極納得できるものであるが、本書の出版から30年以上経っても、依然として心地よい風景が顧みられない公共事業がなされている現状には落胆せざる得ないところがある。
本書は、景観工学を土台にして書かれているが、漢詩、俳句といった文学を豊富に引いて、我々が風景をどのように捉えてきたかという歴史や人間心理を紐解いたり、仏教の考え方を援用して風景を考えるといった学際融合的な取り組みをしていたりと大変読み応えがあるもので、著者の提案する「風景学」の奥深さを感じることができる。「心地いい風景はどんなものか」「都市や農村を美しくするためには何が必要か」というような答えをすぐ出すのではなく、その答えや問いそのものの基盤にある、風景と人間の関係について理解を深めていく構成が心地よい。
新書であり、また「入門」を銘打ってはいるが、風景と人間についての本格的な論考。
【関連書籍】
『風景と人間』アラン・コルバン著、小倉孝誠 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_18.html
「感性の歴史家」として知られるアラン・コルバンが風景について語った本。
景観工学は、土木建築の際に周囲の環境と調和してしかも見栄えよく、そして機能的な構造物を作るのに必要な学問であるが、「風景学」はそれをさらに敷衍して、我々が日々暮らす都市や田園、そして自然の風景の諸相をよく理解するための学問であるといえる。
本書では、まずは風景を物理的に考察する。例えば、視角が何度の時に風景は収まりがよいか。山は大きければ大きいほど迫力があって風景として好ましいかというとそうでもない。むしろ、垂直方向10°・水平方向20°くらいにひとかたまりの図がある方が好ましい。例えば、仙巌園から見る桜島の大きさがこれくらいらしい。また、星座なども20°×20°の大きさにほとんど収まるという。これ以上図が広がると、それが一つのものと認識されなくなったり、全体を見渡すために首を回さなければならなかったりして図としての心地よさが減じる。
次に、風景は自然や都市のありさまそのものではなく、それによって我々が行う解釈、つまり心象であると主張する。我々は現実の風景を見る前に心の中に「理想の風景」を持っていて、その理想の風景という型に沿って風景を理解している部分がある。例えば田んぼがたくさんある山里の景観は、我々にとっては「日本の原風景」と認識される好ましいものであっても、砂漠に生きる人たちにとっては異なる解釈になるであろう。風景が心象であるならば、風景を論ずるためには我々は心理学者たらねばならないのである。
また、風景が心象であるならば、風景を構成する事物そのものに絶対的な存在感があるわけではないということになる。松いっぽん、橋ひとつとっても、それがどこにどのように存在しているかによって風景としての意味は変わる。それあたかも、大乗仏教で「いっさいの存在は空(くう)である」とされるようなもので、全ては相互関係(仏教用語で言えば「縁」)に基づくのである。まちづくりなどで土木工事を行う際も、構築物そのものの存在のみを考えていては好ましい景観は生まれない。構築物自体は空じて、場所との結縁(けちえん)の中でそれが風景にどうあるべきかを考えなくてはならない。
最後に、そうした風景についての考察に基づいて、これからの建築土木がどうあるべきかを提言している。そこに書かれた内容は至極納得できるものであるが、本書の出版から30年以上経っても、依然として心地よい風景が顧みられない公共事業がなされている現状には落胆せざる得ないところがある。
本書は、景観工学を土台にして書かれているが、漢詩、俳句といった文学を豊富に引いて、我々が風景をどのように捉えてきたかという歴史や人間心理を紐解いたり、仏教の考え方を援用して風景を考えるといった学際融合的な取り組みをしていたりと大変読み応えがあるもので、著者の提案する「風景学」の奥深さを感じることができる。「心地いい風景はどんなものか」「都市や農村を美しくするためには何が必要か」というような答えをすぐ出すのではなく、その答えや問いそのものの基盤にある、風景と人間の関係について理解を深めていく構成が心地よい。
新書であり、また「入門」を銘打ってはいるが、風景と人間についての本格的な論考。
【関連書籍】
『風景と人間』アラン・コルバン著、小倉孝誠 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_18.html
「感性の歴史家」として知られるアラン・コルバンが風景について語った本。
2016年2月3日水曜日
人造人間と「愛」
ゾッキ本、というのを知っているだろうか。
日本では書籍に再販制度があるので、本は返品可能なものとして書店に納入される。しかし何らかの事情で返品が出来ない本があって、そういう本は新刊本であっても古書として扱われ古書店に安値で売られる。これがゾッキ本である。
いわゆる「バーゲンブック」もこの類である。ゾッキ本は、新刊本と区別するために小口に「丸にB」印のスタンプが捺されていることが多い。
かつて十月社という小さな出版社があって、この小さいが真面目そうな会社が倒産したとき、在庫の本がゾッキ本として放出された。会社が倒産したのだから当然返品先はないため、新刊本がやむなくゾッキ本となり、どこかの古書店でまとめて売られていた。
その中の一冊にカレル・チャペックの『R.U.R(ロボット)』が入った戯曲集があった。
その頃はまだ岩波文庫に『ロボット』はなく、この十月社のチャペック戯曲集は日本語で『R.U.R』にアクセスできる(絶版でない)数少ない本の一つだったように思われる。既に『山椒魚戦争』や『クラカチット』といったチャペックのSF的作品に魅了されていた私は、当然、すぐに購入した。
『R.U.R』は、「ロボット(robot)」という単語を生みだした作品として名高い。
が、もちろんこの作品はそれだけのものでなく、その後のロボットものの原型をつくる役割をした意味で大きな影響力があった。つまり、最初は人間に役立つものとしてデザインされたロボットたちが、次第に力をつけてやがて反乱を起こすという筋書きはこの作品に始まったものである。
チャペックは、人造人間=ロボットを機械文明への批判から発想したのではなかった。
ある日、チャペックは満員電車に揺られながら街はずれからプラハに向かっていた。周りは生気なくすし詰めにされた乗客たち。生活条件が悪くなり、目の前の仕事をこなすばかりで考えることが出来なくなった人間の姿だった。チャペックは電車の中で、この人間たちは個性を持った人間ではなく、機械ではないか、と考えるようになった。 そして、「ロボット」という発想が生まれたのである。
今の日本では、こういう人たちを「社畜」というのかもしれない。
ロボットは、誰かの便利な生活を支える、都合のよい労働者だった。働くための必要最小限の機能だけしか持たず、従順で能率がよく、疲れを知らない労働者。作中で、ロボットを製造する企業R.U.Rは大儲けする。そして、ロボットのおかげで「人間」は労働から解放されつつあった!
だがチャペックは、書き進めるうちにそら怖ろしくなってきた。社会がこのまま突き進んで、「人間」が「人間」でなく「労働者」として生きるだけの社会になっていけば、そこに待っているのは破滅だと確信が持てた。本来美しいはずの「生」が、苦痛に満ちたものになるのではないかと恐れた。チャペックにとってロボットは反乱を起こさなくてはならないものだったのだ。
ロボットによる反乱で世界はどうなったか、それは本書を読んで確かめて欲しい。感動的な「愛」の発見を結末とせざるを得なかった、チャペックの苦悩と思考の結晶である。
ところで「ロボット」と並ぶ人造人間の呼称「アンドロイド」の方は、リヴィエ・ド・リラダンの『未來のイヴ』という、こちらも驚異的な作品が初出だ。
『未來のイヴ』が世に出たのは、「ロボット」に先立つこと約35年の1886年。19世紀末のことだ。
悩める青年貴族のために、発明家のエディソンが理想の恋人として人造人間をつくり上げる。それがアンドロイドの始まりであった。
この時代にはまだコンピュータすらないわけで、会話は予め蓄音機に録音されたセリフを再生するだけという純粋に機械的なものにすぎないが、エディソンによれば我々の会話だってそれと大差ないという。その場その場で言うべきセリフを言っているだけで、そこに自由な意志などない、と喝破するのである。
本書の半分ほどが、複雑に見える人間の行動や精神すら単純な機械によって模倣ができるのだ、とするエディソンの持論開陳に当てられているが、それが人間性への批判や風刺になっていて面白い。そして事実、恋人としてつくられたアンドロイドに、青年貴族は首ったけになってしまう!
現実の浅はかな女とは比べるべくもない、アンドロイドの高貴で優雅な「精神」と肉体! 事前に録音されたセリフを演じる苦もなく、会話は自然に流れてゆく。現実の俗物女に辟易していた青年貴族は、このアンドロイドを伴侶にして生きてゆくことを決めたのだった。
これは現代日本で言えば「2次元の嫁」だろう。少し前の話になるが2009年にある若者がゲーム「ラブプラス」のキャラクターと結婚式を挙げたという話があった。『未來のイヴ』はその嚆矢に当たると言えよう。
しかしつくづく思うのは、人造人間というものを描いてゆけば、「愛」の問題に行き着いてしまうということである。『R.U.R』はロボット自身が愛を発見し、『未來のイヴ』では愛すべき理想の伴侶としてアンドロイドがつくられる。人間を模倣しようとすれば、最後のギリギリのところで「愛」が大問題になる。
そういえば、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』でも、フランケンシュタイン博士がつくり出した「怪物」は、愛を求めて伴侶をつくることを博士に求める。人造人間と「愛」は切っても切り離せない問題なのだ。
それで思い起こされるのは「創世記」である。
神は自らの似姿として人間を創った。その人間が楽園を追放されるのは、「知恵」のためである。このことの宗教的意味がなんなのか、私にはよく分からない。たかが「知恵」を持ったからといって、それが原罪と呼ばれるほどの重罪となるというのがピンと来ない。
神が人間を創るということを、人間が人造人間を創るということのアナロジーで考えると、どうして「創世記」で「愛」が問題にならなかったのだろうと思う。人間が楽園を追放されるのは「知恵」ではなく「愛」ゆえであるべきだった。「知恵」をつけたから神に反逆するのではなく、神よりも伴侶を大事に思うことが神への反逆になるという筋書きであったら、私にとっては「創世記」はもっと魅力的なものだったろう。
科学技術が進歩して、人間が神にも等しいほどの力を持つ時が来ても、 「愛」こそが最後のスフィンクスとなるに違いない。人々に難問を突きつけて、答えられなければ喰ってしまうというあのスフィンクスに。
日本では書籍に再販制度があるので、本は返品可能なものとして書店に納入される。しかし何らかの事情で返品が出来ない本があって、そういう本は新刊本であっても古書として扱われ古書店に安値で売られる。これがゾッキ本である。
いわゆる「バーゲンブック」もこの類である。ゾッキ本は、新刊本と区別するために小口に「丸にB」印のスタンプが捺されていることが多い。
かつて十月社という小さな出版社があって、この小さいが真面目そうな会社が倒産したとき、在庫の本がゾッキ本として放出された。会社が倒産したのだから当然返品先はないため、新刊本がやむなくゾッキ本となり、どこかの古書店でまとめて売られていた。
その中の一冊にカレル・チャペックの『R.U.R(ロボット)』が入った戯曲集があった。
その頃はまだ岩波文庫に『ロボット』はなく、この十月社のチャペック戯曲集は日本語で『R.U.R』にアクセスできる(絶版でない)数少ない本の一つだったように思われる。既に『山椒魚戦争』や『クラカチット』といったチャペックのSF的作品に魅了されていた私は、当然、すぐに購入した。
『R.U.R』は、「ロボット(robot)」という単語を生みだした作品として名高い。
が、もちろんこの作品はそれだけのものでなく、その後のロボットものの原型をつくる役割をした意味で大きな影響力があった。つまり、最初は人間に役立つものとしてデザインされたロボットたちが、次第に力をつけてやがて反乱を起こすという筋書きはこの作品に始まったものである。
チャペックは、人造人間=ロボットを機械文明への批判から発想したのではなかった。
ある日、チャペックは満員電車に揺られながら街はずれからプラハに向かっていた。周りは生気なくすし詰めにされた乗客たち。生活条件が悪くなり、目の前の仕事をこなすばかりで考えることが出来なくなった人間の姿だった。チャペックは電車の中で、この人間たちは個性を持った人間ではなく、機械ではないか、と考えるようになった。 そして、「ロボット」という発想が生まれたのである。
今の日本では、こういう人たちを「社畜」というのかもしれない。
ロボットは、誰かの便利な生活を支える、都合のよい労働者だった。働くための必要最小限の機能だけしか持たず、従順で能率がよく、疲れを知らない労働者。作中で、ロボットを製造する企業R.U.Rは大儲けする。そして、ロボットのおかげで「人間」は労働から解放されつつあった!
だがチャペックは、書き進めるうちにそら怖ろしくなってきた。社会がこのまま突き進んで、「人間」が「人間」でなく「労働者」として生きるだけの社会になっていけば、そこに待っているのは破滅だと確信が持てた。本来美しいはずの「生」が、苦痛に満ちたものになるのではないかと恐れた。チャペックにとってロボットは反乱を起こさなくてはならないものだったのだ。
ロボットによる反乱で世界はどうなったか、それは本書を読んで確かめて欲しい。感動的な「愛」の発見を結末とせざるを得なかった、チャペックの苦悩と思考の結晶である。
ところで「ロボット」と並ぶ人造人間の呼称「アンドロイド」の方は、リヴィエ・ド・リラダンの『未來のイヴ』という、こちらも驚異的な作品が初出だ。
『未來のイヴ』が世に出たのは、「ロボット」に先立つこと約35年の1886年。19世紀末のことだ。
悩める青年貴族のために、発明家のエディソンが理想の恋人として人造人間をつくり上げる。それがアンドロイドの始まりであった。
この時代にはまだコンピュータすらないわけで、会話は予め蓄音機に録音されたセリフを再生するだけという純粋に機械的なものにすぎないが、エディソンによれば我々の会話だってそれと大差ないという。その場その場で言うべきセリフを言っているだけで、そこに自由な意志などない、と喝破するのである。
本書の半分ほどが、複雑に見える人間の行動や精神すら単純な機械によって模倣ができるのだ、とするエディソンの持論開陳に当てられているが、それが人間性への批判や風刺になっていて面白い。そして事実、恋人としてつくられたアンドロイドに、青年貴族は首ったけになってしまう!
現実の浅はかな女とは比べるべくもない、アンドロイドの高貴で優雅な「精神」と肉体! 事前に録音されたセリフを演じる苦もなく、会話は自然に流れてゆく。現実の俗物女に辟易していた青年貴族は、このアンドロイドを伴侶にして生きてゆくことを決めたのだった。
これは現代日本で言えば「2次元の嫁」だろう。少し前の話になるが2009年にある若者がゲーム「ラブプラス」のキャラクターと結婚式を挙げたという話があった。『未來のイヴ』はその嚆矢に当たると言えよう。
しかしつくづく思うのは、人造人間というものを描いてゆけば、「愛」の問題に行き着いてしまうということである。『R.U.R』はロボット自身が愛を発見し、『未來のイヴ』では愛すべき理想の伴侶としてアンドロイドがつくられる。人間を模倣しようとすれば、最後のギリギリのところで「愛」が大問題になる。
そういえば、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』でも、フランケンシュタイン博士がつくり出した「怪物」は、愛を求めて伴侶をつくることを博士に求める。人造人間と「愛」は切っても切り離せない問題なのだ。
それで思い起こされるのは「創世記」である。
神は自らの似姿として人間を創った。その人間が楽園を追放されるのは、「知恵」のためである。このことの宗教的意味がなんなのか、私にはよく分からない。たかが「知恵」を持ったからといって、それが原罪と呼ばれるほどの重罪となるというのがピンと来ない。
神が人間を創るということを、人間が人造人間を創るということのアナロジーで考えると、どうして「創世記」で「愛」が問題にならなかったのだろうと思う。人間が楽園を追放されるのは「知恵」ではなく「愛」ゆえであるべきだった。「知恵」をつけたから神に反逆するのではなく、神よりも伴侶を大事に思うことが神への反逆になるという筋書きであったら、私にとっては「創世記」はもっと魅力的なものだったろう。
科学技術が進歩して、人間が神にも等しいほどの力を持つ時が来ても、 「愛」こそが最後のスフィンクスとなるに違いない。人々に難問を突きつけて、答えられなければ喰ってしまうというあのスフィンクスに。
2016年1月25日月曜日
『私と農学―名著を読む』盛永俊太郎 著
農に関する様々な書物への覚書。
本書は、農学者であり技術者であった著者が大日本農会機関誌『農業』へと連載した論考のち、名著を読み解くテーマのものをピックアップしてまとめたものである。
取り上げられているのは、和辻哲郎『風土』、三沢勝衛『風土産業』、ベイリー『農業の原理』、ハワード『農業聖典』、ブロムフィールド『楽しい谷』、新渡戸稲造『農業本論』、横井時敬の農論、中国の農書『済民要術』、クルチモウスキー『農学の原理』、クロッカー『将来の植物学』、ダーウィン『種の起源』、ルンデゴールド『環境と植物の発育』、服部辯之助『二宮尊徳の哲学』、ヒル=スチアーマン(共著)『農業の哲学的背景』、イリース『人間の動物学』の15編。
本書は、名著の内容を要約するものではなく、その記述ぶりから農学に対する姿勢を問うものであり、農業の技術的側面についての論考はほとんどない。それどころか、「農学に対する姿勢」も多様なものを紹介するというよりは、「農学とは純粋な学術研究だけでは意味がなく、実用に耐えることが重要であり、究極的には農家の経営・生活が改善されなければならない」ということをいろいろな角度から指摘するもので、正直、本一冊を費やして長々と述べるテーマではないと思った。
それとも、著者が活躍した時代には、このような論考をものさなければならないほど、農学が現実から遊離した役に立たないものになっていたのだろうか。
それから、本書では農学について深く考究するうちに人間の幸福や至善といったことまで思いを馳せているが、農学というものをそんなに大げさに考える必要があるのかと感じさせられた。もちろん幸福や至善を考えてもいいのであるが、それこそ著者の批判する現実から遊離した理念的農学と同轍なのではなかろうか。農業をことさらに素晴らしい職業とみなしたり、職業以上の「生き方」だと考えたりするのは、むしろ農学への見方を曇らせるものではないのかと感じた。
名著の内容紹介は真面目で参考になるが、そこから引き出す教訓はやや上滑りした感のあるもったいない本。
本書は、農学者であり技術者であった著者が大日本農会機関誌『農業』へと連載した論考のち、名著を読み解くテーマのものをピックアップしてまとめたものである。
取り上げられているのは、和辻哲郎『風土』、三沢勝衛『風土産業』、ベイリー『農業の原理』、ハワード『農業聖典』、ブロムフィールド『楽しい谷』、新渡戸稲造『農業本論』、横井時敬の農論、中国の農書『済民要術』、クルチモウスキー『農学の原理』、クロッカー『将来の植物学』、ダーウィン『種の起源』、ルンデゴールド『環境と植物の発育』、服部辯之助『二宮尊徳の哲学』、ヒル=スチアーマン(共著)『農業の哲学的背景』、イリース『人間の動物学』の15編。
本書は、名著の内容を要約するものではなく、その記述ぶりから農学に対する姿勢を問うものであり、農業の技術的側面についての論考はほとんどない。それどころか、「農学に対する姿勢」も多様なものを紹介するというよりは、「農学とは純粋な学術研究だけでは意味がなく、実用に耐えることが重要であり、究極的には農家の経営・生活が改善されなければならない」ということをいろいろな角度から指摘するもので、正直、本一冊を費やして長々と述べるテーマではないと思った。
それとも、著者が活躍した時代には、このような論考をものさなければならないほど、農学が現実から遊離した役に立たないものになっていたのだろうか。
それから、本書では農学について深く考究するうちに人間の幸福や至善といったことまで思いを馳せているが、農学というものをそんなに大げさに考える必要があるのかと感じさせられた。もちろん幸福や至善を考えてもいいのであるが、それこそ著者の批判する現実から遊離した理念的農学と同轍なのではなかろうか。農業をことさらに素晴らしい職業とみなしたり、職業以上の「生き方」だと考えたりするのは、むしろ農学への見方を曇らせるものではないのかと感じた。
名著の内容紹介は真面目で参考になるが、そこから引き出す教訓はやや上滑りした感のあるもったいない本。
2016年1月20日水曜日
『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
西洋哲学の概念なども使い、現代文へ意訳された正法眼蔵。
著者は石井恭二氏。仏教や哲学の研究者ではなく、編集者であり出版者。その解釈は確かだと言われるが、著者自身この訳業が相当な意訳と自分なりの解釈に基づいていると自覚しており、それが「現代語訳」でなく「現代文」としている理由だという。
私は『正法眼蔵』の原文をジックリ読んだことはないので、著者の訳出がどこまで正確なのか判断することができない。しかし原文を注釈無しで読んでも、私などには全く意味が摑めないから、どの道誰かの注釈に基づく理解しかできないので、現代文として読みやすいと評判の本書を手に取った。
原文で読むとそもそも何が書いてあるのかよくわからない部分が多いが、さすがに本書ではそういうことはない。主張が理解できないところはたくさんあって、それあたかも哲学書を読んで頭の中がこんがらがる状態と同じようなものである。しかし、読めないということはなくて、何が書いてあるのかはよくわかる。
第1巻には「第1 現成公按」から「第15 光明」までを収める。『正法眼蔵』は体系的に何かを論証するような本ではなく、今風に言えばエッセイ集のようなもので、その内容を手際よく要約するようなことは不可能である。基本的な構成としては、禅のエピソード(誰々がこういった時、誰それはどうした)を紹介し、それについて解説するものである。そのエピソードが本当にそういう考えでなされたかどうかはともかくとして(こじつけのような解釈も見られる)、道元の考え方が開陳されていて面白い。
道元といえば「只管打坐」、と普通は言われる。つまり、余計なことを考えずひたすらに座禅・瞑想に打ち込むことで覚りに達するというわけだ。答えは自己の中に既にあり、それを再発見することが重要だという方法である。確かに本書の大きなテーマは「自己」である。「現成公按」の冒頭、「自己は幻想である」から始まり、至る所に「自己」への言及が見られる。
しかし全体(第1巻)を概観すれば、道元は決してただ座禅するだけで十分だと述べていない。むしろ、臨済宗の「看話禅(かんなぜん)」的な部分が多い。看話禅とは、公案と呼ばれる不思議な(一見意味不明な)命題について研究し、それを理解することで覚りに至ろうとするもので、曹洞宗(道元が属する宗派)はこれを理念的すぎると批判したが、道元自身はこの方法論をかなりの程度採用しているように思われる。
道元は若い頃『碧巌録』を書写していたらしい。『碧巌録』とは公案のアンチョコ集のようなものである。本来は自らの頭で意味を考えるべき公案を解題し、その意味を教える攻略本的な参考書であるため、『碧巌録』の流行には批判も相当あったらしい。先述の「禅のエピソードの解説」というのは、まさに公案の解題のようなものであり、『正法眼蔵』は道元版の『碧巌録』なのではないかと思った。
現代語釈で道元の思想に気軽に触れることができる良書。
著者は石井恭二氏。仏教や哲学の研究者ではなく、編集者であり出版者。その解釈は確かだと言われるが、著者自身この訳業が相当な意訳と自分なりの解釈に基づいていると自覚しており、それが「現代語訳」でなく「現代文」としている理由だという。
私は『正法眼蔵』の原文をジックリ読んだことはないので、著者の訳出がどこまで正確なのか判断することができない。しかし原文を注釈無しで読んでも、私などには全く意味が摑めないから、どの道誰かの注釈に基づく理解しかできないので、現代文として読みやすいと評判の本書を手に取った。
原文で読むとそもそも何が書いてあるのかよくわからない部分が多いが、さすがに本書ではそういうことはない。主張が理解できないところはたくさんあって、それあたかも哲学書を読んで頭の中がこんがらがる状態と同じようなものである。しかし、読めないということはなくて、何が書いてあるのかはよくわかる。
第1巻には「第1 現成公按」から「第15 光明」までを収める。『正法眼蔵』は体系的に何かを論証するような本ではなく、今風に言えばエッセイ集のようなもので、その内容を手際よく要約するようなことは不可能である。基本的な構成としては、禅のエピソード(誰々がこういった時、誰それはどうした)を紹介し、それについて解説するものである。そのエピソードが本当にそういう考えでなされたかどうかはともかくとして(こじつけのような解釈も見られる)、道元の考え方が開陳されていて面白い。
道元といえば「只管打坐」、と普通は言われる。つまり、余計なことを考えずひたすらに座禅・瞑想に打ち込むことで覚りに達するというわけだ。答えは自己の中に既にあり、それを再発見することが重要だという方法である。確かに本書の大きなテーマは「自己」である。「現成公按」の冒頭、「自己は幻想である」から始まり、至る所に「自己」への言及が見られる。
しかし全体(第1巻)を概観すれば、道元は決してただ座禅するだけで十分だと述べていない。むしろ、臨済宗の「看話禅(かんなぜん)」的な部分が多い。看話禅とは、公案と呼ばれる不思議な(一見意味不明な)命題について研究し、それを理解することで覚りに至ろうとするもので、曹洞宗(道元が属する宗派)はこれを理念的すぎると批判したが、道元自身はこの方法論をかなりの程度採用しているように思われる。
道元は若い頃『碧巌録』を書写していたらしい。『碧巌録』とは公案のアンチョコ集のようなものである。本来は自らの頭で意味を考えるべき公案を解題し、その意味を教える攻略本的な参考書であるため、『碧巌録』の流行には批判も相当あったらしい。先述の「禅のエピソードの解説」というのは、まさに公案の解題のようなものであり、『正法眼蔵』は道元版の『碧巌録』なのではないかと思った。
現代語釈で道元の思想に気軽に触れることができる良書。
2016年1月18日月曜日
『風景と人間』アラン・コルバン著、小倉孝誠 訳
「感性の歴史家」として知られるアラン・コルバンが風景について語った本。
風景は、単なる美しい景色ではない。その景色が美しいものだと評価する文化によってつくられる「解釈」であり、自然というよりも文化的所産である。
風景が文化的所産であるなら、時代の移り変わりによってそれは変わりうるのであり、実際変わってきた。特に18世紀から20世紀の間は、風景への評価システムが大きく変わった時期で、本書はこの間の風景にまつわる様々なトピックのインタヴューによって構成される。
第1章は「風景は諸解釈の錯綜である」というやや韜晦な定義から始まり、風景を風景たらしめている評価システム、そして五感への作用について考察する。五感への作用といっても、いわば「無垢な知覚」は存在しないと述べ、予め「こういうものが素晴らしいものだ」と学習された知覚が風景の素晴らしさを成立させていると指摘する。
第2章では、近代西洋において風景への評価システムが大きく変わり、現代的風景観が成立する過程を述べる。といっても経年的に歴史を辿るものではなく、18世紀以前の人たちと現代の我々で、どういった感性の違いがあったかということをいくつかの事例で説明するものである。例えば、波濤が砕けるようなドラマティックな海は、現代では崇高な風景として認識されうるが、18世紀以前にはそれは危険で怖ろしいものでしかなかった。そういった感覚の違いを生んだものはなんだったか。
第3章では、風景の評価における「旅」の意味を探る。風景は立ち止まって嘆賞するものであるとしても、そこへと移動することそのものも評価に影響を及ぼす。特に近代風景の評価システムが変容したのは、18世紀以前までの旅とは違う、観光旅行という新たなスタイルの旅が成立したことの影響が大きい。自転車や鉄道、そして自家用車といったものは、距離や速度といった面で風景(場)と人間の関わり方(接触の仕方)を変え、風景と人間との関係も変えたのである。また、本章の最後では嘆賞すべき風景を教えるものとしての「ガイドブック」の重要性が指摘されている。ガイドブックは観光案内であるだけでなく、何を喜ぶべきなのかを予め旅行者に刷り込むものであり、今や「風景」はガイドブックによって創られるものなのである。
第4章では、四季、夜、霧などが風景への評価へ及ぼす影響についてややとりとめなく語る。特に霧についての考察は面白いが、本章は風景というテーマからはみ出ている部分があるように思われる。
第5章では、風景を保存することについて、フランスの自然景観保護の政策に触れながら論じる。素晴らしい景観は保存した方がよいと普通ならば考えるが、風景が文化的所産であると考える著者は、風景の保存は生きた文化を博物館に入れてしまうようなものにならないかと危惧している。かといって保存するのがよくないとも言わない。風景を保存するということは、政治による規制の是非というだけでなく、文化的にも実は難しい問題を孕んでいることを指摘している。
全体を通じ、インタヴュー形式であるためまとまりに欠け、結局何が言いたいのかよくわからないところがあるが、その考察は独創的でインスピレーションに富んでおり、風景を考える上でのヒントに溢れた本である。
【関連書籍】
『トポフィリア―人間と環境』イーフー・トゥアン著、小野 有五・阿部 一 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/03/blog-post.html
人間が環境をどのように受容するかについて、情緒的な部分に注目して語った本。
風景は、単なる美しい景色ではない。その景色が美しいものだと評価する文化によってつくられる「解釈」であり、自然というよりも文化的所産である。
風景が文化的所産であるなら、時代の移り変わりによってそれは変わりうるのであり、実際変わってきた。特に18世紀から20世紀の間は、風景への評価システムが大きく変わった時期で、本書はこの間の風景にまつわる様々なトピックのインタヴューによって構成される。
第1章は「風景は諸解釈の錯綜である」というやや韜晦な定義から始まり、風景を風景たらしめている評価システム、そして五感への作用について考察する。五感への作用といっても、いわば「無垢な知覚」は存在しないと述べ、予め「こういうものが素晴らしいものだ」と学習された知覚が風景の素晴らしさを成立させていると指摘する。
第2章では、近代西洋において風景への評価システムが大きく変わり、現代的風景観が成立する過程を述べる。といっても経年的に歴史を辿るものではなく、18世紀以前の人たちと現代の我々で、どういった感性の違いがあったかということをいくつかの事例で説明するものである。例えば、波濤が砕けるようなドラマティックな海は、現代では崇高な風景として認識されうるが、18世紀以前にはそれは危険で怖ろしいものでしかなかった。そういった感覚の違いを生んだものはなんだったか。
第3章では、風景の評価における「旅」の意味を探る。風景は立ち止まって嘆賞するものであるとしても、そこへと移動することそのものも評価に影響を及ぼす。特に近代風景の評価システムが変容したのは、18世紀以前までの旅とは違う、観光旅行という新たなスタイルの旅が成立したことの影響が大きい。自転車や鉄道、そして自家用車といったものは、距離や速度といった面で風景(場)と人間の関わり方(接触の仕方)を変え、風景と人間との関係も変えたのである。また、本章の最後では嘆賞すべき風景を教えるものとしての「ガイドブック」の重要性が指摘されている。ガイドブックは観光案内であるだけでなく、何を喜ぶべきなのかを予め旅行者に刷り込むものであり、今や「風景」はガイドブックによって創られるものなのである。
第4章では、四季、夜、霧などが風景への評価へ及ぼす影響についてややとりとめなく語る。特に霧についての考察は面白いが、本章は風景というテーマからはみ出ている部分があるように思われる。
第5章では、風景を保存することについて、フランスの自然景観保護の政策に触れながら論じる。素晴らしい景観は保存した方がよいと普通ならば考えるが、風景が文化的所産であると考える著者は、風景の保存は生きた文化を博物館に入れてしまうようなものにならないかと危惧している。かといって保存するのがよくないとも言わない。風景を保存するということは、政治による規制の是非というだけでなく、文化的にも実は難しい問題を孕んでいることを指摘している。
全体を通じ、インタヴュー形式であるためまとまりに欠け、結局何が言いたいのかよくわからないところがあるが、その考察は独創的でインスピレーションに富んでおり、風景を考える上でのヒントに溢れた本である。
【関連書籍】
『トポフィリア―人間と環境』イーフー・トゥアン著、小野 有五・阿部 一 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/03/blog-post.html
人間が環境をどのように受容するかについて、情緒的な部分に注目して語った本。
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