2016年2月3日水曜日

人造人間と「愛」

ゾッキ本、というのを知っているだろうか。

日本では書籍に再販制度があるので、本は返品可能なものとして書店に納入される。しかし何らかの事情で返品が出来ない本があって、そういう本は新刊本であっても古書として扱われ古書店に安値で売られる。これがゾッキ本である。

いわゆる「バーゲンブック」もこの類である。ゾッキ本は、新刊本と区別するために小口に「丸にB」印のスタンプが捺されていることが多い。

かつて十月社という小さな出版社があって、この小さいが真面目そうな会社が倒産したとき、在庫の本がゾッキ本として放出された。会社が倒産したのだから当然返品先はないため、新刊本がやむなくゾッキ本となり、どこかの古書店でまとめて売られていた。

その中の一冊にカレル・チャペックの『R.U.R(ロボット)』が入った戯曲集があった。

その頃はまだ岩波文庫に『ロボット』はなく、この十月社のチャペック戯曲集は日本語で『R.U.R』にアクセスできる(絶版でない)数少ない本の一つだったように思われる。既に『山椒魚戦争』や『クラカチット』といったチャペックのSF的作品に魅了されていた私は、当然、すぐに購入した。

『R.U.R』は、「ロボット(robot)」という単語を生みだした作品として名高い。

が、もちろんこの作品はそれだけのものでなく、その後のロボットものの原型をつくる役割をした意味で大きな影響力があった。つまり、最初は人間に役立つものとしてデザインされたロボットたちが、次第に力をつけてやがて反乱を起こすという筋書きはこの作品に始まったものである。

チャペックは、人造人間=ロボットを機械文明への批判から発想したのではなかった。

ある日、チャペックは満員電車に揺られながら街はずれからプラハに向かっていた。周りは生気なくすし詰めにされた乗客たち。生活条件が悪くなり、目の前の仕事をこなすばかりで考えることが出来なくなった人間の姿だった。チャペックは電車の中で、この人間たちは個性を持った人間ではなく、機械ではないか、と考えるようになった。 そして、「ロボット」という発想が生まれたのである。

今の日本では、こういう人たちを「社畜」というのかもしれない。

ロボットは、誰かの便利な生活を支える、都合のよい労働者だった。働くための必要最小限の機能だけしか持たず、従順で能率がよく、疲れを知らない労働者。作中で、ロボットを製造する企業R.U.Rは大儲けする。そして、ロボットのおかげで「人間」は労働から解放されつつあった!

だがチャペックは、書き進めるうちにそら怖ろしくなってきた。社会がこのまま突き進んで、「人間」が「人間」でなく「労働者」として生きるだけの社会になっていけば、そこに待っているのは破滅だと確信が持てた。本来美しいはずの「生」が、苦痛に満ちたものになるのではないかと恐れた。チャペックにとってロボットは反乱を起こさなくてはならないものだったのだ。

ロボットによる反乱で世界はどうなったか、それは本書を読んで確かめて欲しい。感動的な「愛」の発見を結末とせざるを得なかった、チャペックの苦悩と思考の結晶である。
 
ところで「ロボット」と並ぶ人造人間の呼称「アンドロイド」の方は、リヴィエ・ド・リラダンの『未來のイヴ』という、こちらも驚異的な作品が初出だ。

『未來のイヴ』が世に出たのは、「ロボット」に先立つこと約35年の1886年。19世紀末のことだ。

悩める青年貴族のために、発明家のエディソンが理想の恋人として人造人間をつくり上げる。それがアンドロイドの始まりであった。

この時代にはまだコンピュータすらないわけで、会話は予め蓄音機に録音されたセリフを再生するだけという純粋に機械的なものにすぎないが、エディソンによれば我々の会話だってそれと大差ないという。その場その場で言うべきセリフを言っているだけで、そこに自由な意志などない、と喝破するのである。

本書の半分ほどが、複雑に見える人間の行動や精神すら単純な機械によって模倣ができるのだ、とするエディソンの持論開陳に当てられているが、それが人間性への批判や風刺になっていて面白い。そして事実、恋人としてつくられたアンドロイドに、青年貴族は首ったけになってしまう!

現実の浅はかな女とは比べるべくもない、アンドロイドの高貴で優雅な「精神」と肉体! 事前に録音されたセリフを演じる苦もなく、会話は自然に流れてゆく。現実の俗物女に辟易していた青年貴族は、このアンドロイドを伴侶にして生きてゆくことを決めたのだった。

これは現代日本で言えば「2次元の嫁」だろう。少し前の話になるが2009年にある若者がゲーム「ラブプラス」のキャラクターと結婚式を挙げたという話があった。『未來のイヴ』はその嚆矢に当たると言えよう。

しかしつくづく思うのは、人造人間というものを描いてゆけば、「愛」の問題に行き着いてしまうということである。『R.U.R』はロボット自身が愛を発見し、『未來のイヴ』では愛すべき理想の伴侶としてアンドロイドがつくられる。人間を模倣しようとすれば、最後のギリギリのところで「愛」が大問題になる。

そういえば、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』でも、フランケンシュタイン博士がつくり出した「怪物」は、愛を求めて伴侶をつくることを博士に求める。人造人間と「愛」は切っても切り離せない問題なのだ。

それで思い起こされるのは「創世記」である。

神は自らの似姿として人間を創った。その人間が楽園を追放されるのは、「知恵」のためである。このことの宗教的意味がなんなのか、私にはよく分からない。たかが「知恵」を持ったからといって、それが原罪と呼ばれるほどの重罪となるというのがピンと来ない。

神が人間を創るということを、人間が人造人間を創るということのアナロジーで考えると、どうして「創世記」で「愛」が問題にならなかったのだろうと思う。人間が楽園を追放されるのは「知恵」ではなく「愛」ゆえであるべきだった。「知恵」をつけたから神に反逆するのではなく、神よりも伴侶を大事に思うことが神への反逆になるという筋書きであったら、私にとっては「創世記」はもっと魅力的なものだったろう。

科学技術が進歩して、人間が神にも等しいほどの力を持つ時が来ても、 「愛」こそが最後のスフィンクスとなるに違いない。人々に難問を突きつけて、答えられなければ喰ってしまうというあのスフィンクスに。

2016年1月25日月曜日

『私と農学―名著を読む』盛永俊太郎 著

農に関する様々な書物への覚書。

本書は、農学者であり技術者であった著者が大日本農会機関誌『農業』へと連載した論考のち、名著を読み解くテーマのものをピックアップしてまとめたものである。

取り上げられているのは、和辻哲郎『風土』、三沢勝衛『風土産業』、ベイリー『農業の原理』、ハワード『農業聖典』、ブロムフィールド『楽しい谷』、新渡戸稲造『農業本論』、横井時敬の農論、中国の農書『済民要術』、クルチモウスキー『農学の原理』、クロッカー『将来の植物学』、ダーウィン『種の起源』、ルンデゴールド『環境と植物の発育』、服部辯之助『二宮尊徳の哲学』、ヒル=スチアーマン(共著)『農業の哲学的背景』、イリース『人間の動物学』の15編。

本書は、名著の内容を要約するものではなく、その記述ぶりから農学に対する姿勢を問うものであり、農業の技術的側面についての論考はほとんどない。それどころか、「農学に対する姿勢」も多様なものを紹介するというよりは、「農学とは純粋な学術研究だけでは意味がなく、実用に耐えることが重要であり、究極的には農家の経営・生活が改善されなければならない」ということをいろいろな角度から指摘するもので、正直、本一冊を費やして長々と述べるテーマではないと思った。

それとも、著者が活躍した時代には、このような論考をものさなければならないほど、農学が現実から遊離した役に立たないものになっていたのだろうか。

それから、本書では農学について深く考究するうちに人間の幸福や至善といったことまで思いを馳せているが、農学というものをそんなに大げさに考える必要があるのかと感じさせられた。もちろん幸福や至善を考えてもいいのであるが、それこそ著者の批判する現実から遊離した理念的農学と同轍なのではなかろうか。農業をことさらに素晴らしい職業とみなしたり、職業以上の「生き方」だと考えたりするのは、むしろ農学への見方を曇らせるものではないのかと感じた。

名著の内容紹介は真面目で参考になるが、そこから引き出す教訓はやや上滑りした感のあるもったいない本。

2016年1月20日水曜日

『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著

西洋哲学の概念なども使い、現代文へ意訳された正法眼蔵。

著者は石井恭二氏。仏教や哲学の研究者ではなく、編集者であり出版者。その解釈は確かだと言われるが、著者自身この訳業が相当な意訳と自分なりの解釈に基づいていると自覚しており、それが「現代語訳」でなく「現代文」としている理由だという。

私は『正法眼蔵』の原文をジックリ読んだことはないので、著者の訳出がどこまで正確なのか判断することができない。しかし原文を注釈無しで読んでも、私などには全く意味が摑めないから、どの道誰かの注釈に基づく理解しかできないので、現代文として読みやすいと評判の本書を手に取った。

原文で読むとそもそも何が書いてあるのかよくわからない部分が多いが、さすがに本書ではそういうことはない。主張が理解できないところはたくさんあって、それあたかも哲学書を読んで頭の中がこんがらがる状態と同じようなものである。しかし、読めないということはなくて、何が書いてあるのかはよくわかる。

第1巻には「第1 現成公按」から「第15 光明」までを収める。『正法眼蔵』は体系的に何かを論証するような本ではなく、今風に言えばエッセイ集のようなもので、その内容を手際よく要約するようなことは不可能である。基本的な構成としては、禅のエピソード(誰々がこういった時、誰それはどうした)を紹介し、それについて解説するものである。そのエピソードが本当にそういう考えでなされたかどうかはともかくとして(こじつけのような解釈も見られる)、道元の考え方が開陳されていて面白い。

道元といえば「只管打坐」、と普通は言われる。つまり、余計なことを考えずひたすらに座禅・瞑想に打ち込むことで覚りに達するというわけだ。答えは自己の中に既にあり、それを再発見することが重要だという方法である。確かに本書の大きなテーマは「自己」である。「現成公按」の冒頭、「自己は幻想である」から始まり、至る所に「自己」への言及が見られる。

しかし全体(第1巻)を概観すれば、道元は決してただ座禅するだけで十分だと述べていない。むしろ、臨済宗の「看話禅(かんなぜん)」的な部分が多い。看話禅とは、公案と呼ばれる不思議な(一見意味不明な)命題について研究し、それを理解することで覚りに至ろうとするもので、曹洞宗(道元が属する宗派)はこれを理念的すぎると批判したが、道元自身はこの方法論をかなりの程度採用しているように思われる。

道元は若い頃『碧巌録』を書写していたらしい。『碧巌録』とは公案のアンチョコ集のようなものである。本来は自らの頭で意味を考えるべき公案を解題し、その意味を教える攻略本的な参考書であるため、『碧巌録』の流行には批判も相当あったらしい。先述の「禅のエピソードの解説」というのは、まさに公案の解題のようなものであり、『正法眼蔵』は道元版の『碧巌録』なのではないかと思った。

現代語釈で道元の思想に気軽に触れることができる良書。

2016年1月18日月曜日

『風景と人間』アラン・コルバン著、小倉孝誠 訳

「感性の歴史家」として知られるアラン・コルバンが風景について語った本。

風景は、単なる美しい景色ではない。その景色が美しいものだと評価する文化によってつくられる「解釈」であり、自然というよりも文化的所産である。

風景が文化的所産であるなら、時代の移り変わりによってそれは変わりうるのであり、実際変わってきた。特に18世紀から20世紀の間は、風景への評価システムが大きく変わった時期で、本書はこの間の風景にまつわる様々なトピックのインタヴューによって構成される。

第1章は「風景は諸解釈の錯綜である」というやや韜晦な定義から始まり、風景を風景たらしめている評価システム、そして五感への作用について考察する。五感への作用といっても、いわば「無垢な知覚」は存在しないと述べ、予め「こういうものが素晴らしいものだ」と学習された知覚が風景の素晴らしさを成立させていると指摘する。

第2章では、近代西洋において風景への評価システムが大きく変わり、現代的風景観が成立する過程を述べる。といっても経年的に歴史を辿るものではなく、18世紀以前の人たちと現代の我々で、どういった感性の違いがあったかということをいくつかの事例で説明するものである。例えば、波濤が砕けるようなドラマティックな海は、現代では崇高な風景として認識されうるが、18世紀以前にはそれは危険で怖ろしいものでしかなかった。そういった感覚の違いを生んだものはなんだったか。

第3章では、風景の評価における「旅」の意味を探る。風景は立ち止まって嘆賞するものであるとしても、そこへと移動することそのものも評価に影響を及ぼす。特に近代風景の評価システムが変容したのは、18世紀以前までの旅とは違う、観光旅行という新たなスタイルの旅が成立したことの影響が大きい。自転車や鉄道、そして自家用車といったものは、距離や速度といった面で風景(場)と人間の関わり方(接触の仕方)を変え、風景と人間との関係も変えたのである。また、本章の最後では嘆賞すべき風景を教えるものとしての「ガイドブック」の重要性が指摘されている。ガイドブックは観光案内であるだけでなく、何を喜ぶべきなのかを予め旅行者に刷り込むものであり、今や「風景」はガイドブックによって創られるものなのである。

第4章では、四季、夜、霧などが風景への評価へ及ぼす影響についてややとりとめなく語る。特に霧についての考察は面白いが、本章は風景というテーマからはみ出ている部分があるように思われる。

第5章では、風景を保存することについて、フランスの自然景観保護の政策に触れながら論じる。素晴らしい景観は保存した方がよいと普通ならば考えるが、風景が文化的所産であると考える著者は、風景の保存は生きた文化を博物館に入れてしまうようなものにならないかと危惧している。かといって保存するのがよくないとも言わない。風景を保存するということは、政治による規制の是非というだけでなく、文化的にも実は難しい問題を孕んでいることを指摘している。

全体を通じ、インタヴュー形式であるためまとまりに欠け、結局何が言いたいのかよくわからないところがあるが、その考察は独創的でインスピレーションに富んでおり、風景を考える上でのヒントに溢れた本である。

【関連書籍】
『トポフィリア―人間と環境』イーフー・トゥアン著、小野 有五・阿部 一 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/03/blog-post.html
人間が環境をどのように受容するかについて、情緒的な部分に注目して語った本。


2016年1月11日月曜日

『未来のイヴ』ヴィリエ・ド・リラダン著、齋藤 磯雄 訳

19世紀末の恐るべきSF。

これは、没落貴族の詩人、ヴィリエ・ド・リラダン伯爵が、インクを水で薄めて使う赤貧の中で書き上げた、数奇で風刺に満ちた本である。

ある青年貴族が、女神のように美しい、完璧な容貌を持つ人と運命的な恋に落ちる。しかしその女性の精神は、芸能界に憧れ薄っぺらい成功を夢見る俗物、というよりも悲しいほどに平凡なものであった。女性の神々しい外見に恋しながら、その俗物さを嫌悪する青年貴族は魂の矛盾にさいなまれる。

そこで発明家のエディソン氏は、あなたの女神から魂を抜き取ってあげましょうと提案する。 恋する女性の代わりに、その女性とそっくりの人造人間を創り、理想的な精神(の模倣物)を入れてしまえばよろしいというのである。

本書のかなり多くが、精神を模倣することなんて不可能だという青年貴族に対する、エディソン氏の反駁に費やされるが、そこが人間性への風刺にもなっていて面白い。例えば、当時は当然コンピュータのようなものはないので、会話は事前に録音したセリフの組み合わせになる。青年貴族はそんな舞台のような会話は耐えられないと言うが、エディソン氏は、我々の会話だって一種の舞台のセリフのようなもので、自分の言いたいことを発言しているというより、その場で言うべきことを半ば機械的に言っているだけなのだから、それはほとんど自然なことだ、というように諭すのである。

このように、我々が「自由意志」に基づくと信じているようなものですら、機械的に模倣することが可能であり、機械はそれを人間よりももっと正確にできるのだから、魂のない人形こそが理想の人間になりうるのだ! というエディソン氏の主張はある意味哲学的ですらある。

最初はそんなわけはないと歯牙にも掛けなかった青年貴族だったが、できあがった人造人間「ハダリー」との衝撃的な出会いによって、この人造人間に首ったけになってしまう。ほとんど、現代の「2次元の嫁」におけるそれと同じように、自分の理想が完璧に投影されたハダリーを「愛し」てしまうのである。

本書には、科学万能主義、工業主義への批判や風刺がこめられているという。しかしその批判や風刺は一筋縄ではない。機械によって人間性が再現できるのだという傲慢は、批判されるべきものというより人間性そのものへの疑問に基づいているし、人造人間を愛する青年貴族は、現実を見ない世間知らずではなく、むしろ浅薄な栄達を夢見る中身のない「現代的な」女への糾弾者である。

この軽佻浮薄な資本主義の世の中で、古き良き品位を備えた人間として生きようと思えば、もはや現実の人間を相手にしていてはダメで、人間以上の理想の存在を伴侶にする必要がある。しかしそれは、嫌悪すべき科学の力を使わなくては創り出すことができないのだ。

創世記において、イヴは知恵の実を食べてアダムを堕落させた。未来において男を堕落させるのは、もはや生身の女ではなく人造人間である。そういう黙示的予感から、「未来のイヴ」というタイトルがつけられたのであろう。それは、21世紀の日本で、「2次元の嫁」として現実化しているのかもしれない。

齋藤磯雄による正字・歴史的仮名遣いの鏤骨の翻訳も光る歴史的名著。

2015年12月20日日曜日

『大地・農耕・女性—比較宗教類型論—』ミルチャ・エリアーデ著、掘 一郎 訳

様々な宗教に共通して見られる種々のモチーフについて述べる本。

本書は、エリアーデによる大規模な著作『比較宗教における類型(評者仮訳)』の抄訳である。世界的な宗教学者である著者は、様々な宗教に共通して見られるモチーフ、例えば「天空神」「地母神」「宇宙木」といったものを取り上げ、考察する。そして、何が「聖なるもの」として扱われるのかという宗教の根源を探ろうとする。

ただし、その態度は体系的・学術的なものというよりは、とにかく並べてみようという博物学的、コレクション的なものであって、そこに添えられた考察も素人目には思いつきの域を出ないもののように思われる。エリアーデの研究はある意味で19世紀的な手法によって行われていて、独断や大胆な推論が多く、今日的な視点からは少し脇が甘いような感じがするが、世界の諸宗教から縦横に例を引いてくるのはさすがというべきで、そこに現れる共通のモチーフをただ列挙していくだけであったとしても本書には価値があると思う。

しかもそのモチーフが、思想的なものというよりも、図像的なものを中心として取り上げているので、イコノロジーの博物館とでもいうべき本である。本書には図が全く掲載されていないが、本書に適当な図をつけて参考書としたら非常に面白い本が出来ると思う。

私が本書を手に取ったのは、地母神信仰について知りたかったからで、特にその地理的広がりや地母神の性格といったものに興味があった。日本の神話では地母神らしい地母神がなく、鹿児島の農耕の神である「田の神」は男性であるし、中東あたりによく見られる「生産力の象徴としての女性」という観念が希薄である。どうしてこのような差異が生じたのであろうか?

本書は体系的な研究書ではないので、それに対する答えは全く得られなかったが、様々なモチーフがどんどんと現れ、いろいろなことを空想させられる本である。

2015年12月12日土曜日

『食の終焉』ポール・ロバーツ著、神保 哲生 訳

食システムの破綻が間近に迫っていると警告する本。

先進国のスーパーマーケットには安価な食材が溢れ、肥満も大きな問題になっている。一方で、世界には未だ多くの飢餓状態にある人たちが存在し、農業には持続可能性を疑わせる数々の懸案が存在する。例えば、過剰施肥、土壌の流亡、地下水の過剰な汲み上げ、大規模単一栽培によって病害虫被害に脆弱になっていること、モンサントやウォルマートなどの巨大企業による支配、などなど。

本書は、こうした問題を取り上げて、食システムの破綻は間近であると畳み掛ける。なお、ここでいう「食システムの破綻」とは、本書中では明確な定義がないが、サプライチェーンのどこかに問題が起こって、需要を満たすだけの生産ができなくなること、といった意味のようだ。しかし、問題がたくさんあるからといって破綻は間近だと結論づけるのも短絡的であり、これは食システム全体を俯瞰して考えなければならないテーマであるにも関わらず、現在のシステムがうまくやっている点については全く触れず、延々と問題だけを取り上げているのはやや誠実さに欠ける。

しかも、その問題の取り上げ方も、専門家の誰それがこういっている、というような断片的なことがたくさん書かれているだけで、本書中には一つのグラフも表も出てこない。将来を見通すには全体の趨勢を理解するのが大事なのに、事実を経年的に把握するグラフの一つも出さないというのは信頼性に欠ける。要するに、取材の態度が科学的ではなく、ゴシップ的なものと言わざるを得ない。

もちろん、ここで提示されたような問題は、それぞれ事実大きな問題であろうと思う。しかし、食糧危機が間近に迫っているという警告は、それこそ何十年も前から出されているが、これまでのところその予言が外れているところを見ると、ここで挙げられている問題も破綻が不可避なものとは思えない。

例えば、現在は安い価格で大量の食肉が生産されており、これは安価な穀物と補助金に支えられているが、今後新興国の生活水準が上がってきてさらに食肉需要が増大した時、現在の食システムはその需要に応えられないかもしれないと本書は予言する。でもそれが何の問題なんだろうか? 食肉需要が高まって、でも供給がそれに追いつかなかったら、食肉価格が上がるだけのことだろう。要するに価格調整によって需給は調整されるのだから、そこに「破綻」と呼べるほどの問題は起こらない。

もちろん、これまでの先進国はたくさん肉を食べられたのに、これからの先進国はそれほど多くの肉を食べられないというのは不平等ではある。しかし、これは19世紀の先進国は植民地を持てたのに、21世紀の先進国は植民地を持てない、 というのと同じことで、不平等かもしれないがそれを受け入れて社会を構築していけばいいだけのことだし、これは食システムの問題というより、国際的な不均衡の問題、つまり国際政治の話だと思う。

ただし、人口が90億人に達したとき、十分な量の穀物が生産できるのかという点だけは、シンプルなだけに重大深刻な問題で、ここだけは真面目に考究する価値があると思った。ただ、本書においては「既に利用しやすい農地は利用しているし、灌漑用の水も限界まで使っているし、これ以上生産量を増やそうとすれば森林を切り拓くしかないがそれは環境破壊になるし、どうする」みたいなことが定性的に書いてあるだけで、真面目な(定量的・科学的な)考察がない。もう少しデータに裏付けられた分析が必要だと思った。

食システム全体を俯瞰する視点がなく、食にまつわる問題をゴシップ的に列挙するとりとめのない本。