2025年10月6日月曜日

『日本法制史(下)』瀧川 政次郎 著

 (上巻からの続き)

第5編 融合法時代中期(国法時代)

戦国時代には「法律が異常なる発達を遂げた(p.11)」。伊達家の『塵芥集』(171か条)や武田信玄の『甲州法度』(55か条)のような法典が各地で編纂されたのである。それらは概ね室町時代の法令に倣っており、制裁が弾圧的で裁判が簡略といった特徴がある。織田信長は志半ばに斃れたために法令はほとんどなく、豊臣秀吉も法制には見るべきものは少ない。ただし秀吉は、「朱印状」という法令よりも強制力を持った文書を発給しており、これは重要である。

秀吉定めた掟で重要なのは、刀狩、検地などがあるが、中でも「文禄4年8月3日掟」6か条(および追加9か条)は注目される。特に追加9条の方で、諸公家・諸門跡は家道を嗜み公儀への奉公を守り云々と定められており、これが発達して公家法度へと至るのである。豊臣氏の掟には、戦国大名の国法には見えない平和的なものが見えており、「江戸時代の法制の基礎をなした点において、法制史上特にこれを重要視せねばならない(p.32)」。

第6編 融合法時代後期(定書時代)

上巻の読書メモに書いた通り、私が本書を手に取るにあたっての関心の一つは江戸時代の法制にあった。江戸時代は日本的な法制度が完成した時代である。それはいかなるものであったか。

まず、この時代も慣習法が主であって成文法は補完的なものであった。『御定書百箇条』などの法典が編纂されてはいたが、それは判例の集成であって現在の法典とは全然性質が異なる。また、加賀・薩摩藩のような大藩では藩法も生きていたし、寺法・宗法のような治外法権的な性質を持つ法的領域もあった。そうではあるが、一応法制を全国統一してしかもそれが機能したことは特筆される。

江戸時代の前期には、『公家諸法度』『武家諸法度』のように、『貞永式目』に倣った諸法度公布された。よって江戸時代前期を「法度時代」と呼ぶこともある。後期になると『公事方御定書』『寛政法典』のような判例の集成が編纂された。これによって後期を「御定書時代」ともいう。

『武家諸法度』は現代の意味での法令ではない。それは、「将軍の代替りごとに多少の修正を加えて発布せられるのを常とした(p.38)」ことでも明らかだ。法度は、主従性に基づく契約のようなものであったようだ。しかし厳密には主従ではない公家にも『公家諸法度』が定められている。この法源は何なのか? 「将軍」は形式的には天皇から任命されているのに、天皇についても法令で定めたのは、どういう理屈なのだろうか。また寺院・神社に対しても『諸宗寺院法度』『諸禰宜神主法度』を定めているが、こちらの法源も明らかでない。なお御料所(幕府の直轄地)の百姓を取り締まるのが『郷村法度』であるが、こちらは直轄地以外には効力がないので法源は実効支配力なのである。

ところで5代綱吉は『服忌令』を定めているが、これは後世まで影響を及ぼした。

江戸時代の法令は、こうした法度に加え、臨時令である「御書付(おかきつけ)」、今の通達にあたる「御達(おたっし)」、広く公布する「御触(おふれ)」、一般人にまで公布する「申渡(もうしわたし)」「張紙(はりがみ)」などがあった。こうした臨時令はすぐに忘れられてしまうため、8代吉宗は御触書集である『寛保集成』50巻を編纂した。法制史上これは画期的であった。なお吉宗は老中からの内訓指令、評定所一座の評議の類も蒐集して『享保撰要類集』42巻を編纂している。その後、御触書集などの編纂は相次いだ。

吉宗は『公事方御定書』も編纂しており、これは「江戸時代最大の立法事業である(p.44)」。上巻81か条は評定所の執務規定、訴訟手続きなどを規定し、下巻103か条(これが『御定書百箇条』)は刑罰規定、つまり刑事・民事裁判を中心とした内容である。これは秘密法典であって公にはされなかったが、実際には流布していた。ちなみに『御定書百箇条』は侍、百姓、町人等に関する刑法であったので、社家・僧侶に対する刑法35条を後に追加し「寺社方御仕置例書」が編纂された。

また吉宗は、『公事方御定書』の編纂にあたって自ら判例集に意見を附し、これに諸奉行がさらに答申した内容を加えた『科条類典』もまとめている。これが基本となって、後に『寛政刑典』が松平定信によって編纂された(ただしこれは施行されたかどうか不明)。この他、幕府は様々な法典を編纂しており、前代までに比べその量は膨大である。

次に、本書では幕府の組織について述べている。幕府の組織の全部が法制で定まっていたわけではないため、この項目は法令によらない実態だ。現代と違う著しい特徴は、その組織に月番制が多いことである。例えば老中は現代の大臣にあたるが、定員は4~6人であったものの、この執務が月番制であった。毎月そのうちの一人が政務にあたり、その他はその補佐であった。これは一人の専横を防ぐには効果があったが、責任の所在が曖昧になったりお座成りになるなど弊害も大きかった。行政の責任者は寺社奉行・江戸町奉行・勘定奉行の3役で、これも月番制であった。責任者が月番制というのが、現代から見ると本当に不思議である。

本書では、江戸時代は封建制度の時代であったとし、主従関係が基本になっていたという。武士だけでなく、町人と奉公人などの関係も主従関係になぞらえられて理解されていた。所領安堵においても、当事者のいずれかが死亡したときは、主従関係を更新しなくてはならなかった。これは法律面においても非常に重要なことである。「家」というのは現代でいえば法人的であったが、あくまでも主従関係という個人の契約に基づいて存立していたということである。

幕府と大名の関係も主従関係であるが、それを契約の面で見ると、幕府は大名に自治権を認める(所領安堵)する代わりに、大名に軍役を課すということにはなっていた。しかし実際に軍役が課されたのは島原の乱のみであって、実際上はこまごまとした負担(諸所の警備や普請など)を課されたにすぎなかった。

一方、江戸時代の村は、今でいう法人であった。「村自身訴訟もすれば、売買その他の法律行為も行ったのである(p.90)」。旗本や大名があくまでも個人であったのに比べ、村の方が現代的な仕組みを持っていたといえる。村が法人であったために、村民は生死を共にするような盟約を行い、一致団結してことにあたった。村の自治組織は、名主(庄屋)・組頭(年寄/脇百姓)・百姓代の3つが基本である。

村を代表して法律行為を行ったのは名主(庄屋)であるが、これは大体世襲で無給(ただし実際には莫大な利益があった)、組頭は年貢の割引があり、百姓代は給米も年貢の割引もなかった。つまり法人としての村の運営組織は無給を基調としていた。そして村の運営に必要な費用は、村民から「村入用(むらにゅうよう)」として徴収した。重要なことは、江戸時代の年貢は個人ではなくして村に課されるものであったということである。だからこそ村が法人として扱われたのだと考えることができる。

堺のような都市は中世末には自治権をもっていたが、これは織豊期に解体させられ、江戸時代には遠国奉行や諸藩の町奉行によって統治された。ただし大坂そのものではなくてそれを構成する飯田町とか連雀町のような町は、村と同様に自治団体として法人のような性格を認められ、租税法上も納税の一主体として財産を持ち債務も負った。町の組織は江戸と大坂では異なり、町の組織の任命や負担といった種々の面で興味深い相違が認められる。ただしいずれにしろ、住民であることより地主であることが重要であり、地借人・店借人であっても町政に参与する資格がなかった。だが、それは様々な義務を免除されることでもあったので、大坂ではお金持ちでありながらあえて借家住まいをしているものもあったという。

先述のとおり町は納税の主体であり、享保7年(1722)に幕府は江戸の町の公役をすべて銀納とした。その課税方法は、表間口の長さ(5間とか10間とか)を基準とするものである。しかしこれは個人に課されるものではなく、このように計算された租税を、町では間口のみによる不公平を是正して個人に配賦した。

こうした町村の生活において重要なのが五人組の制度である。これは官より治安維持の目的をもって強制的に組織を命じられた隣保団体である。婚姻・養子縁組・相続・遺言・廃嫡などの際に互いに立会し、また不動産の書入、質入、売買などの場合に連印を押し、訴訟や請願をなす場合にも互いの同意を要した。このように社会生活の相互監視が五人組によってなされたが、重要なことはこれは納税組合ではなかったことである。

村は納税の主体であったが、基本的な納税の単位は土地であり、租税負担の有無や慶弔によって土地は様々な名称で呼ばれた。高請地(たかうけち)、段高場(だんたかば)、見取場(みとりば)、流作場(りゅうさくば・ながれさくば)、御朱印地、拝領地、除地(のぞきち・じょち)、無年貢地、見捨地(みすてち)、損地などである。そして幕府の課税は、本途物成(ほんとものなり)、高掛物(たかがかりもの)、小物成(こものなり)、国役という4つで構成された。これらについて詳説は避けるが、課税単位はあくまでも村だったのに、実際には一筆当たりで税額が計算されていたのは興味深い。

次に、江戸時代の刑法であるが、現代と著しい違いがあるのは、連坐・縁坐制、私刑主義(復讐の公認、主人から妻や下人への私刑)、階級(武士・町人・僧侶など)によって処分が違ったこと、死刑が多く、しかもその種類が多かったこと(下手人[最も軽い死刑]、死罪、獄門、磔、火罪[火あぶり、放火犯にのみ行われた]、鋸引、切腹、斬罪など)、追放があったこと、財産の没収があったこと(債務の弁済のためではない)、入墨・敲(たたき)が行われたことなどである。

次に、江戸時代の司法制度であるが、現代と全く違うのは行政官と司法官が分化していなかったことである。家光のころまでは最高裁判所裁判官にあたるのは将軍であったが、これが老中に委任され、後には評定所に委任された。江戸時代には「支配」というものがある。人々はそれぞれの「支配」に分割されていた。評定所が担当したのは、その「支配」にまたがった事件であり、「支配」内部はそれぞれの「支配」に任された。例えば大名の治める領域内の事件は大名が裁くのであり、複数の大名の統治領域にまたがった事件が評定所に持ち込まれる、といったようなことである。よって司法制度は「支配」ごとにバラバラであったが、実際には評定所の意見が裁定の標準となったためにそれほどの違いはなかったらしい。

評定所に次いで広汎な裁判権があったのが、寺社・町・勘定の三奉行であり、幕府の地方官中で最も広い裁判権を有したのが京都所司代と大阪城代である。ただし、遠国奉行の管轄権は錯雑としており、当時でさえ明瞭でなかった。行政官と司法官が分離していなかったこと、担当範囲が明瞭でなかったことの2点から、幕府の司法制度は非効率的であった。

民事事件と刑事事件は江戸時代でも「出入筋」「吟味筋」としてやや明瞭に区別された。そして「出入筋」(民事事件)は、なるべく当事者間の和解を勧めて表ざたにしない方針であった。幕府の処罰は基本的に大変重かった(現在の刑務所にあたるものがなかったため)ので、実務的な都合(収監などができない)から和解が推奨されたのだと思われる。

そして判決にあたっては犯人の自白が最も重んぜられた。これは現代とは少し違う。証拠ではなくて自白の方が大事なのである。ただし書面は重要であり、特に土地関係の総論では書面がものを言った。なお、江戸時代には弁護士にあたる人はいなかったが、老・幼人や病人には代理人の出頭を認めたため、「公事師」なる訴訟代理業者が江戸や大坂には存在した。

ここで本書では、江戸時代の身分法を述べて、それぞれの身分について説明しているが、ここは本書以降に研究が長足の進歩をしているため詳細は割愛する。ただし一つだけメモしておくと、非人は非人素性(非人の子)と、犯罪によって非人になった人、貧困によって自発的に非人になった人の3種類があったが、非人は幕府より持場内で勧進することを許された報恩として、獄門、磔の手伝いをするなどの公役を負担していた。

ここから本書は物権法の説明となる。この種の解説が本書は大変詳しい。

まず、不動産物権については、当時の不動産物権は、不動産の所有権ではなく、不動産の上に行使する知行権すなわち支配権であったことが重要である。土地を個人で所有するという観念ではなく、その支配権があったのである。よってそれは「知行地」であり「拝領地」であったりした。ただ、町人の所持する町屋敷地は今でいう私有地と同じであった。なお、家屋の新築にあたっては、地頭や代官に届け出て許可を得るという、今でいう建築許可のような仕組みがあったのは興味深い。どんな場合に不許可となったのだろうか。

小作すなわち土地の貸借にもたくさんの種類があり、契約の内容もさまざまであった。単純な所有とか貸借ではなく、それが土地に対する用益権であったために、契約にあたって金額の多寡だけでない条項が設けられたのである。

そして不動産物権に準じて捉えられていたのではないかと思われるのが、座の特権などである。例えば旅宿や商品の委託販売を営む問屋の特許営業権(株)のようなものも、売買された。権利の売買ということが普通に行われるようになったのが江戸時代なのである。

次に金融関係の説明に移る。これの解説も大変詳しい。まず質(動産不動産の占有質:現代の質)と書入(無占有質である差質など:現代の抵当)であるが、これらに関する規定が江戸時代には大変たくさんあった。というのは、田畑の売買が禁止されていたため、質入によって資金調達したり、譲渡や質流れの形で田畑の売買を行うことが横行し、これが規制されるとその抜け道が考案されるなどしたことによる。ちなみに質の最長年季は10年であった。

なお、江戸時代初期では年貢諸役等を納めさえすれば、志ある百姓が田地を寺社に寄進することを許されたが、宝暦12年(1762)以降は、百姓が寺社に対して寄進地をなすことはすべて禁止された(p.221)。

江戸町でも質は盛んで、質屋は今の不動産屋と銀行を合わせたようなものであった。享保8年の調査で、江戸町の質屋は253組、2731人いたという。質金の法定利率は銭であれば百文につき月三文(年率に直すと36%とかなりの高利だ。なお江戸時代は複利は禁止されていたた)などだったが、実際は金1両につき月銀1匁6分など、年利40%を超えていた。質屋が儲かったのは当然である。このように高利であったため、質屋間の質入れも盛んであったようだ。

ところが、更に高かったのが借金の利息である。古くは月2割を最高率としたが(=年率240%!)、元文元年(1736)にこれが1割5分、天保13年(1842)に1割に引き下げられた。これでも年率120%の高利である。さらにこうした規制が守られなかったのも言うまでもない。また複利は禁止されていたが、証文の書き換えによって未払い利息を元本に組み入れることも行われた。こうした高利であったため借金の訴訟は数が多かったのか、その受理にも制限があったほどである。

なぜ高利貸しが横行したのかといえば、武士階級が生活に困窮するようになったからで、高利貸しにも金を借りなければならないほど彼らは切迫していたのである。そこで幕府は、町人階級の利益を顧慮することなく借金に種々の規制を加えたが、当の武士階級がこれを求めていたのでその規制は形無しになっていった。ただし室町時代と違って幕府は徳政令は発していない。幕府にとって武士階級は保護すべき家臣ではあるが、何ら経済的なうまみがなく、一方町人は御用金を徴収することができる金づるであったから、結果的に消費貸借に強力な規制が加えられることがなかったのではないかと思われる。

雇庸関係については、江戸時代には奉公と日庸用取(日用取)の2種類があった。奉公において重要なことは、奉公人は雇庸者の家族と並んで雇庸者の人別に編入せられたことである。この点、現代の労務契約とは違って、奉公は身分と「支配」に関わってくるのである。

このほか、商業手形、組合・無尽講、海法、不法行為の扱いについても記載があるが割愛する。

本書の最後が親族相続法についてである。これも武士と平民では大きな違いがあった。そして親族間の関係は、「法律的関係というよりはむしろ倫理的、道徳的関係(p.250)」なのであった。この点を注意することが必要だという。

江戸時代の「家」は、家長と配偶者およびその直系尊属、そして兄弟姉妹、淑父母のような傍系親も加わっていた。配偶者・直系尊属以外の構成員を「厄介」と呼ぶ。ただし「家長と厄介との関係は、純然たる道徳的関係であって、家長が厄介に対して家長の資格において行使し得べき権力はほとんど皆無であったといってよい(p.251)」。これは面白いことで、厄介はある意味では道徳的に保護されていたと考えることができる。

ちなみに親族の範囲は、親類・遠類・縁者の3つがあった。当時親類といえば伯淑父母・甥姪・従兄弟までであって、武士階級においては親類の間は服忌令の規定に従って互いに喪に服する義務があった。武士階級の婚姻は、幕府または藩庁の許可を得なくてはならなかったというのが現代との大きな違いである。百姓・町人にはこのような許可は必要なかった。夫婦は別々の財産を有し、妻の持参金は夫の所有に帰したものの、離婚の際にはこれを返還する義務があった。夫は妻に対して懲戒の権利を持っていたと考えられ、夫は妻を一方的に離縁することはできたが、妻は夫を離縁することはできなかった(武士も平民もともに)。

子との関係は、父母は教令権と懲戒権を有しており、特に懲戒権については「懲戒の結果、子孫を死に致すも法律上の制裁を受けなかった(p.260)」のは驚かされる。しかし、子を売る権利は本来は有しておらず、また久離(親族関係の解消)・勘当(主従・親子関係などの解消)をなすには武士階級では管轄奉行の許可が必要であった。

現代と大きく違うのは、養子が盛んに行われたことである。江戸時代の養子には、通常の養子の他、婿養子、仮養子、心当養子(こころあたりようし)、急養子、順養子、夫婦養子、嫡母継母之養子、父計之養子、母計之養子などの名目があった。本書ではこれらについて詳述しているが、詳細は割愛する。なぜこうした様々な養子が広範に行われたのかといえば、江戸時代の「家」は実質的には法人であったが、形式的には家長個人の個人事業のようなものであったため、その継承を担保するための仕組みが必要だったからである。武士階級の場合、嫡子を定めずに死去した場合、封禄は取り上げられて絶家になった。

よって「家」の存続に重要なことは相続であった。相続には、隠居によって開始する家督相続と、死亡によって開始する相続の跡式相続があった。ただし両者は実質的には同じである。平民階級では、家を相続するのは女子であっても何ら差し支えはなかったが、武士階級の場合は軍役を負担するためという名目で、相続は男子に限られていた。

本書の最後は、隠居制度について述べているが、簡素な記載である。なお、私は隠居と出家の関係について興味を持っていたのだが、出家については何ら記載はなかった。

上下巻の全体を通じ、本書は法制史をはみ出す部分が大きい。過去の人々がどのように生活を規制されていたのかについて、法のみならず社会通念や慣習法まで含めてまとめたのが本書であり、純粋な意味での法制の歴史はかえって簡素な気さえする。例えば、本書の最後にある親族相続法であるが、そこに記載されていることのほとんどは慣習法であり、このうちどの部分が法による規制なのか定かでない。おそらく、その部分は服忌令などかなり限られたものなのであろう。

こうしたスタンスで本書が書かれているのは、当然ながら成文法と慣習法が絡み合って近世以前の規制が行われていたからで、さらにいえば明文的に規制されていなかったとしても、人々が「こうすべきだ」と思っていたものは実質的に法と同じ効力を持っていたからである。要するに、法と法以外が未分化だったのが近世以前の日本社会だった、ということだ。

全体を通じて印象に残ったのは、金融関係の規制が大変多いことである。金の貸し借りが行われるとき、必ず貸した方が立場が強くなる。ということは、法による規制がない場合には、どんどん貸す方に有利な社会になっていく可能性が大きい。時の権力はこれを是正しようとした。本書を読んでびっくりしたことは、近世以前の国家も金を借りざるを得ない人を明らかに保護しようとしていた、ということだ。それは、慈悲の心というよりは、金貸しが増長することを放置していると社会不安が増大するという実際的な問題があったからなのだろう。

そして、江戸時代よりも鎌倉・室町の方が弱者保護の姿勢はより強いように思われた。江戸時代になると、町人の力を無視できなかったためか、相当に高利貸しに甘い規制になっているように思われる。町人が吉原で豪遊したのも当然だろう。

 私は、江戸時代の法制全体に興味を持って本書を手に取ったが、本書は法制の全体像というよりも、どちらかというと人々の生活が主役なので、その興味にはあまり応えてくれなかった。しかし、法や規制から見た日本史として、本書は独自の価値を持っていると思う。特に租税法や物権法、金融関係の法を通史的に見るということだけでも価値があるのではないだろうか。

法から見る日本史として独特の価値を持っている本。

【関連書籍の読書メモ】
『日本法制史(上)』瀧川 政次郎 著 
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