2025年8月24日日曜日

『老子』福永 光司 訳(『世界古典文学全集37 老子・荘子』所収)

老子の思想。

『老子』を通読するのは3度目である。以前は道の思想に憧憬を抱き、無為の世界を体得しようとさえ思っていた。だから以前は、「聖典」へ向かう態度で『老子』を見ていたと思う。今でも道の思想には魅力を感じているが、一歩引いてみられるようになった。そして今回は、今まであまり目につかなかった部分が見えてきた。そこでこの読書メモでは、老子の思想そのものというより、私が今回気になったことを中心として述べたい。

まず注目したのは、老子は「天」を肯定するということ。例えば「人を治め天に事(つか)うるは、嗇(しょく)に若くはなし(=民を治め天に事えるには、つつましやかであるといことが第一である)(第59章)」と老子は言う。

この「天」とは何か? 古来、中国では「天」の祭祀が行われてきた。「天」は至高の存在として祀られたのだが、老子が生きたと考えられている戦国時代には、すでにインテリは天帝や鬼神といったものを信じていなかったとされている(ただし墨子を除く)。だから「天」は実在の何かとしては捉えられていなかったようだ。しかしそれでも「天」は至高の存在として認められていた。老子はこの常識を承認する。そして老子は「天」を人間の力ではどうしようもないものとして認識した。「天下は神器、為す可からざるなり(=天下というものは不思議なしろもので、人間の力ではどうすることもできない)(第29章)」。だから「自然」に従うほかないのである(第29章)。

そして老子は「帝」や「王」や「侯」を肯定する。老荘思想というと、「竹林の七賢」に代表されるように支配機構から背を向けているという印象がある(もっとも、現実の「竹林の七賢」の多くも公職についていたのだが)。だから老荘思想では、支配機構そのものが否定されているかのようなイメージを(少なくとも私は)抱いていた。ところが実際にはそうではない。老子は「故に道は大、天は大、王も亦た大(第25章)」という(この「大」は「偉大」の意味である)。

老子は、王は偉大でなくてはならないと考える。「王を道の最高の担い手として天地と並列するのは、老子思想の特色の一つである(p.31)」。しかしもちろん現実にはそうでない。「朝は甚だ除(よご)れ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚しきに、文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余り有り(第53章)」と彼はいう。現代の政治批判と同じようなことがここに言われている。政治は汚職にまみれ、田は荒れて民衆のふところは乏しいのに、政治家たちは虚飾の繁栄を楽しんでいるというのである。だから彼はいろいろと統治機構に注文をつける。『老子』は、隠棲者のための書ではなく、政治論でもある。

その注文は、大まかに言えば「余計なことは何もするな(=無為)」ということに尽きる。人為的なものを廃して(第38章)、刑罰を設けず(特に死刑を否定する)(第72章、第74章)、税金を少なくし(第75章)、戦争は行わない(第31章、第80章)。そして、人々を愚かな状態に留めておく(第3章、第65章)。ここはいかにも老子的な言説である。老子は人間が小賢しくなったことが禍の元だと考える。だからいっそ愚かな方がよい。儒学では人間は勉学に励んで賢くなることが必要だと考える。ところが老子は逆に、勉学などするから争うのだという。だから民衆を愚かにせよというのは極論のようであるが、「老子のいう愚とは無為の道と一体になった無知である(p.76)」。「学を絶てば、憂い無し(第20章)」である。

ともかく、老子は統治機構を表面的には否定しないが、実際には何もしない方がよいという。しかしこれは、無政府主義であろう。このような国家がもしあったら、存続できないことは明白だ。というよりは国家の体を成さない。だから老子の考えはユートピア的な空想だと思える。しかし彼は、おそらく農村に暮らして政治の現実を見ていた現実主義者なのである。『老子』には、しばしば現実主義者の顔が出る。例えば、「是を以て聖人は、終日行(ゆ)いて、輜重(しちょう)を離れず(第26章)」という。「聖人は、終日行軍しても輜重車を手放さない」すなわち、聖人は行軍において兵站(へいたん=物資の補給)を疎かにしないというのである。

そもそも老子は戦争を愚かな行為として否定するが、彼の生きた時代は戦国時代であったので、現実に戦闘が行われていた。そんな中、おそらくは兵站を疎かにした行軍が行われていたのだろう。それで困るのは末端の戦闘員である。老子はこういう下っ端に最も共感しているように見える。彼らは、税金に喘ぎ、為政者が恣意的に定めた刑罰によって捌かれる人間であった。「為政者よ、何もしてくれるな」というのが、老子の叫びなのである。

ところで、老子は自衛のための戦争は否定はしない。「兵は不詳の器、君子の器に非ず。已むを得ずして之を用うれば…(第31章)」といい、「武器は君子の手にすべきものではない」といいつつも、それを使わざるを得ない時があることも認めるのである。つまり一見老子は無政府主義的であるが、いつ他国に攻め込まれるかもしれない戦国時代の現実を見ていた。そしてひとたび戦争になれば「人を殺すことの衆(おお)き、哀悲(あいひ)を以て之に泣(のぞ)み、戦い勝つも喪礼を以て之に処(お)る(第31章)」べきだという。悲しみを以て戦いに臨み、戦いに勝っても葬礼を以て対処する、ということだろう。

では、老子のいうような国家があったとして、それが他国に攻め込まれないかどうか。ここはかなり怪しい。まず、老子は富国強兵を否定する。税金はなるべく取らない方がいい。とすると強大な軍備は不可能となる。刑罰も設けないから、民衆に何かを強制することも難しい。となると他国に攻め込まれるほかなく、しかもその国は弱いから敗北が必定である。となると、やはり老子はユートピア主義者なのだろうか。だが老子は「弱い」ことに積極的な価値を見出す。というより、勝利の価値を疑う。そんなもの一時的なものじゃないか、と彼は考える。

老子の哲学は女性的だ、と言われてきた。剛よりも柔、強よりも弱を老子は永続的なものと見る。「物壮なれば則ち老ゆ(=物はすべて威勢がよすぎると、やがてその衰えがくる)(第30章)」。儒教が男性的な思想だとすれば、老荘は女性的思想である。「敗北してよい」とまでは老子は言っていないが、 軍国主義が招くのは農村の荒廃であると彼はいう(第30章)。だから富国強兵は一時的にはうまくいっても、結局はゆきづまる。ではどうしたらいいのか。そこを老子は突き詰めて考える。その答えが、文明そのものを疑えということなのだ。

しかしながら、それは個人の思想としては力を持ち得ても、政治論としては無力である。

老子の時代に活躍した諸子百家と呼ばれる思想家は、みな政治コンサルタントとして活動した者たちである。彼らはどうすれば他国に打ち勝てるかを君主たちに説いて回った。しかし老子はそういう者たちと全然違う。彼の思想は、諸子百家の系譜には位置づけられない。彼の思想は農村に生きる、下っ端の思想である。そこでは社会的価値が顚倒する。官僚よりも農民が、賢い人よりも愚かな人が、強い人より弱い人が、名声を得た人より無名の人が、文明より野蛮がよいとされる。それらは全て、人為的な虚飾にすぎないというのが老子の考えだ。農村の下っ端は、一番文明から遠いからいいのだ。

しかしそういう言説こそ観念論に過ぎないのではないか。むしろ文明が生みだした虚飾の思想に過ぎないのではないか。結局、老子だって「小」より「大」を好む。「小国寡民(第80章)」を理想としながら、無為の道を体得すれば「天下を取る(第48章)」という。老子は「天下を取るなんて価値がない」とは言わないのである(ただし第48章は後次的なものとみる説もある)。彼は敗北主義者のように見えるがそうではなく、天下に君臨する聖人は無為である、無為な人こそ天下を取れる、といっているのだ。

では、その聖人は具体的には何をするのか。どうして天下を取るのか。これは儒教の徳治主義にも通じる問題である。儒教では、徳のある君主がいれば、彼は何もしなくても民衆は彼に靡き、他国もそれを尊重して天下はうまく治まると説く。老子の言説もこれと同じである。無為の聖人は何もしないが、何もしないことで全てはうまく治まる。落ちつくところに落ちつくから、全てがうまくいくのだという。しかしそんなことはありそうもない。

ここに回答を与えたのが、意外なことに法家の人たちであった。つまり、巧妙な法がありさえすれば、君主は何もしなくても世の中はうまく治まると彼らは考えた。だから老荘思想を発展させたのは、無為自然とは最も遠いはずの法家思想の人たちであり、『韓非子』には老子の影響が色濃い(逆に、『老子』の中に『韓非子』の文章が改作されて竄入したと考えられる箇所もある)。しかし法家思想と合体することにより、夢想的だった老荘思想が現実に適用できる政治論となり、長く巨大な影響力を持つことになった。現在伝わる『老子』のテキストは、おそらく法家の人々によって伝えられたものなのであろう。

よって、もともと老子(老聃)が説いた教えは、今の『老子』とは少し違っていたのかもしれない。だがそのエッセンスは明確である。それは、何かをやることに価値があるのではなく、やらないことに価値がある、という無為の哲学である。そして、こんな争いばかりの世界になってしまった原因は、人々があらゆることに手を出してしまったからだ、欲望を実現してしまったからだ、とする今に通じる圧倒的なリアリズムに基づいている。

全ての人為的価値を顚倒させるリアリズムの書。

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_15.html
諸子百家の思想の概観。

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2025年8月20日水曜日

『民間暦』宮本 常一 著

民間の年中行事について考察した本。

本書には、「新耕稼年中行事」『民間暦』「亥の子行事—刈り上げ祭り」の3編が収録されている。

このうち『民間暦(みんかんれき)』は、宮本常一が初めて一般向けに出した単行本である。小学校教員をしていた宮本が民俗学の世界に傾倒し、教員を退職して調査研究の生活に入ったのが昭和14年。そして本書の刊行が昭和17年である。宮本35歳の時であった。本書が彼の「処女作」だ。

本書収録の3編は、どれも事例の羅列という性格が強く、そこからの考察というか、民間の年中行事に対する分析はあまり展開されていない。それは宮本自身が「民間暦」のあとがきで「この書物の論旨のほとんどは柳田先生のお説を復誦しているようなもの(p.287)」といい、「書いていくうちに、概観だけで、予定の紙を要してしま(p.289)」った、としている通りである。

では「民間暦」の本来の目的は何かというと、「この書は、民間において古くから年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事が、いかなる意味を持ったものであるかを、広く全国各地におこなわれている現状に徴してみようとした(p.58)」ものだと宮本はいう。私もこれを期待して本書を紐解いたのだが、先述のとおり、本書は「こういう行事があります」というだけで終わってしまっている。

もちろんその紹介自体かなりの力作なのだが(なにしろ宮本の処女作だ)、私の関心は諸行事の大量の事例ではなく別のところにあった。そこで、通常の読書メモとは少し違うが、私がどういう関心で本書を手に取ったかをまず述べたい。

私は、年中行事というよりも暦の成り立ちそのものに関心がある。それは、私自身が農業をしていることと関係がある。当たり前のことをいうようであるが、農業は季節の移り変わりを基準に組み立てられる。つまり太陽暦が基準だ。近世以前の日本では太陰暦(=旧暦、月の満ち欠けによる暦)が行われていたが、農事に関しては太陽暦による二十四節気が基準となっていた。

ちなみに農業というとのんびりした印象があるが、実際には植物の栽培は季節の移り変わりに敏感で忙しい。例えばかぼちゃの植え付け時期はそれなりに自由度があるが、本当に上手にできる時期を選ぶと植え付けの適期は2週間くらいしかない。太陰暦と太陽暦は平気で3週間くらいズレるので、太陰暦を基準にしては農事はうまくいかない。

つまり農業は太陽暦を基準にしなくては例年通りの栽培ができないところがほとんどすべての年中行事は太陰暦によって日が決まっている。これは農民にとって大変都合が悪い。例えば、ある年は植え付けの前にその行事がある。ある年は植え付けの最中に。ある年は植え付け後に。これは困る。なぜなら、植え付け前や植え付けの最中はとても忙しく、悠長に年中行事などやっている暇がないのである。近世以前の年中行事は、物忌みを伴っていたから「休む」「仕事をしない」日でもあった(そういう日に仕事をすると制裁が加えられることもあったという)。これが農家にとって大変都合が悪いのである。植え付け後に休むならいいが、植え付け前は大変忙しく、休んでなどいられない。

「忙しい時にあえて休むのもいいじゃないか」と思うかもしれないが、農業は適期に精一杯働いた方が後が楽だ。植え付けが3日遅れると後の生産性が変わってくる。植え付け前の忙しい時期に1日(または2日)休むのは非常にストレスなのである。「こんなことをするくらいなら早く農作業を終わらせたい」というのが農家の感覚である。しかしそういう年中行事が近世以以前に行われていた。これが不思議なのだ。

もちろんこの不自然さはいくつかの農事的な行事では考慮されていたように思われる。(これは民間行事ではないが)収穫祭の意味がある新嘗祭は、旧暦11月23日に行われていたが、これは新暦では12月から翌年1月にあたる。収穫祭にしては妙に遅い。新嘗祭がこの時期に行われる理由はいろいろに言われているが、これは旧暦でも確実に収穫が終わった時期であるということもあるのだろう。収穫祭が収獲前に行われたのでは意味がないからだ。

ところが多くの年中行事は、こういう配慮は感じられない。はっきり言って、民衆が行ってきた年中行事のスケジュールは、農業と相性のよくないものだと感じる。そういうものがずっと行われてきたというのは不可解というほかない。こういう疑問の下で私は本書を紐解いた。

「新耕稼年中行事」では、純粋な農事行事が紹介される。これは、「年中行事」とはいうが上述の「年中行事」ではない。つまり「年々歳々日を定めておこなってきた」ものではなく、農業のリズムに従って行われるものである。例えば、ワラ細工とかムギ刈り、いもほりといったものだ。ところがここにも太陰暦行事がある。それは八朔、つまり八月一日である。

この日、多くの地域では「それまでゆるされていたヒルネがもうできなくなる(p.37)」。百姓は昼寝さえ自由に許されておらず、それが権力によって規制されていたこと自体も興味深い(ちなみにヨナベ=夜の仕事も強制であった)が、それはともかく、農業の進行とは無関係に、暦でこういうことが区切られていたのだ。ただし、旧暦8月1日は新暦では8月末~9月末あたりで、どちらかというと農閑期にあたっているのはまだ合理的である。

一方、「民間暦」で取り上げられるのは多くが太陰暦行事である。これらは神仏の祭祀に関係があり、本書ではその骨格を、物忌、みそぎはらい、籠居、斎主、神を招く木、訪れる神、神送り、祝言、年占い、除厄という観点で語っている。太陰暦による(=月の満ち欠けの決まった)日取りに、仕事を休んで物忌み(生活の制限)を行って身を清め、神を招いて飲食をともにし、そして神からの何らかのメッセージを受け取って(=受け取ったことにして)神をまた元に返すというのが年中行事の基本構造であり、またこれを一村単位で行ったこと、つまり共同体の祭祀として行ったことが重要である。

また干支による行事もあった。例えば庚申待、甲子待、正月子の日、土用丑の日、四月卯の日、二月初午、十二月酉の日、七月および十月の亥の日などだ。これらはまた別の思想に基づいていたと考えられる。本書には詳らかではないが、これらの行事は講や個人で行われているものが多い気がする。

本書では、単なる年中行事ではなく、民間暦という「民衆が行ってきた年中行事」を取り上げているが、意外なことに、それらの多くが農事とは直接関係がない。例えば最も重要な年中行事は盆と正月であるが、これは農事とは無関係だ。正月は一年の豊作を願うにしても、農事そのものと関連しているとは言えない。

ところで、今では年中行事といえば年寄りが中心のようなイメージがあるが、若者がその中心的な役割を担っている場合が多い。そして若者中心の行事は、「だいたいはなやかにして興奮を覚えるようなものである(p.177)」。さらには、祭りには子供が中心となるものが存外に多い。「子供が行事に参加して中心となることは、若者たちが参加するよりは、いちだんとくずれかけた形ではなかろうかと思う。大人がおこなうには馬鹿くさいという気持ちがさきにたつようになったのである(p.180)」と著者はいう。

ともかく、信仰の零落によって、祭りは形骸化したり、華美になったり、遊興化したと著者は考える。例えば厳重な物忌み・潔斎を行うことは日常生活(当然農事にも)に支障をきたすから、これを選ばれた専門の人のみにまかせ、大多数の村人は受動的に参加するだけになっていったのだ。そしてその専門の人は、例えば正月の門付のようにやがて職業化していった。

このように著者は行事の変化の原因として「信仰の零落」を据えるが、それはそうとしても、私はそもそも日本の年中行事が農事と直接にリンクしていなかったことがその大きな要因のように感じる。

世界では、夏至・冬至・春分・秋分のような太陽暦行事・祭祀が数多いが、これは明らかに一年の生活リズムと連動し、農業とも深い関連がある。こうした行事の場合、例えば「〇〇の植え付けが済んだら夏至の祭り」とか「〇〇の収穫が済んだら冬至の祭り」といった感覚となり、祭りそのものに向かう態度も毎年等しい。ところが太陰暦行事の場合は、先述のように行われる時期がバラバラである。昨年は収穫後だったが、今年はまだ収穫の最中だ、となると行事に向かう態度そのものが変わってしまう、と農業を生業としている私は思う。

結局、行事から神聖な要素が脱落していったのは、このあたりに本質があるのではないだろうか。生活・農事と遊離した年中行事であったために、形骸化をまぬかれなかったのではないか。

ところで著者は、「民間暦」の出発点として「ずっと以前から子供の生活習俗に興味と関心をもっていた(p.287)」といい、民俗関係雑誌から子供に関する記事を書きぬいていたのであるが、そこには「不思議に年中行事に関する報告が多かった(同)」のだという。どうして日本では子供が年中行事を担ったのか。幼童に神聖性を感じるということもあったのかもしれないが、それよりは、年中行事が生活・農事と遊離していたために「今年は忙しい時期が祭りにあたっているから子供にやらせよう」といった心情になったことが遠因なのではないか。

そういう子供中心の行事の一例が、「亥の子行事」である。本編は「民間暦」のケーススタディにあたる一編で、全国の亥の子行事を比較してその本質を探っている。亥の子行事とは、10月の亥の日(2回または3回あり、その全てで行われる場合もある)に、山の神(または田の神)が家に帰ってくる日などとされ、お祝いをするものだ。10月の亥の子の日には宮廷でも別の趣旨の亥の子行事もあるが、これはおそらく別系統の行事である。また関東では案山子あげが10月10日に行われ(=十日ン夜(とおかんや))、これは亥の子の日ではないのだがやはり「亥の子」と言われている場合がある。著者は亥の子を刈り上げ祭りと見ているが、農事とは直接関係しない。

ここで亥の子と関連して能登地方のアエノコトが紹介されている。この事例が大変興味深い。「そのおこなわれる日は11月5日(現今は12月5日)が多いようであるが、日は必ずしも一定していなかったらしい(p.318)」。これが厳重に行われていた祭りだというのが示唆的だ。農事に強くリンクした祭りは、太陰暦とはリンクしないから日付が一定しない。そしてそういう祭りこそが厳重に行われるのである。ということは、「年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事」は、太陰暦で日が定まっているからこそ形骸化をまぬかれなかったと考えられるのである。そして逆に言えば、形骸化したからこそ長く行事が維持されたのかもしれない。祭りが形骸化し、遊興化し、子供や若者の楽しみになったからこそ年中行事は持続した。これが大人が厳粛に行うものでありつづけたら、全国津々浦々の村で行われたか疑問だ。

なお、行事の元来の意味が忘れられて、奇々怪々な解釈で年中行事が行われるようになったのも、それが生活・農事と乖離したものであったからという気がしてならないのである。

なお、私がここで述べた太陰暦と農事との乖離について、著者はほとんど考察していない。晩年に至って、この問題を著者がどう考えるようになったか興味があるが、さしあたり手元の資料ではわからない。また現在の民俗学ではこの問題がどのように考えられているのか、追って調べてみたい。

民間の年間行事を体系的にまとめようとした宮本常一の意欲作。

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2025年8月16日土曜日

『神国日本』佐藤 弘夫 著

中世の神国思想を考究する本。

中世には「日本は神国(しんこく)である」という言説が常識となった。それはどうしてか。なぜこのような言説が生まれたのか。一般には、神国思想は戦前日本の狂気じみたイデオロギーであったとみなされているが、実際はそういうものではない。ではその実態はいかなるものであったのか。本書は神国思想を丁寧に解明するものである。

神国思想が興隆した平安時代末期~鎌倉時代、日本では浄土教が流行し、日本を末法の辺土粟散とみる一種の自虐国家観があった。日本は仏法の本場インドから遠く、時代は末法で、機根の劣った人ばかりの小さな国だというのである。一方、神国思想では、日本は「神の国」なのだからこの国家観と真っ向から対立するように見える。従来、学界ではこの見方が通説となってきた(例えば、古川哲史など)。しかし神国思想を大きく鼓吹した『神皇正統記』(北畠親房)では、日本の末法辺土観も前提となっている。

また、神国思想では、天皇が超越的な存在にならざるをえないと考えられてきた。しかし中世では不徳の天皇は退位が当然とも思われていた。さらに親房は、天皇となるためには過去世に戒律を受持する必要があると『神皇正統記』で述べている。前世で仏道を真摯に実践したからこそ天皇として生まれたのだ、というのである。

このように、神国をめぐる通説は、神国思想の原典の一つである『神皇正統記』と乖離する。だから神国思想について再検討する必要があると著者はいう。

古代の天皇の神聖性は、天皇号の採用、大嘗祭の創出などから、天武天皇あたりで高められたと考えられる。そして国家が日本全国の神祇を一元的に祭祀に組み込む体制が構築された。しかし律令国家が瓦解し、寺院への国家からの財政支援が途絶えると、寺院は荘園領主として自立することを迫られ、神祇界にも自由競争原理が持ち込まれた。こうして「国家から相対的に独立した有力社家(p.41)」がしのぎを削った。そうした大社を国家がいちおう統合したのが「二十二社制度」である。そして地方の神社は「一宮制」によって似たような秩序を形成した。

そうした制度は、いちおう国家が神社の序列を設けるものであったが、それは絶対的なものではなかったので各社は地位上昇をもくろみ、特に比叡山の日吉山王社は、みずからを伊勢神宮を超える根源的な神社であると主張した。「神道史家の高橋美由紀氏は、天照大神という神祇世界に君臨してきた至高神を相対化し、それを超越しようとする中世神道界の動向を「神々の下剋上」と評している(p.47)」。

また神祇の世界は、荘園経営と深くかかわるようになり、12世紀ごろからは、その領地を「神領」などとして課税を逃れようとしたり、寄進を善行として促すような言説がみられるようになった。神の存在が土地の支配と関連付けて観念されるようになっていったのである。

一方、それに先立つ10世紀あたりから本地垂迹説が広まった。仏の教えは機根の劣った人ばかりの末法辺土の日本には理解されない。だから日本人を救済するため、仏は神として垂迹したというのである。これは本地(仏)の偉大さを述べつつ、実際には神社への参詣や帰依を進めることとなった。

そしてこうした変化と並行して、平安時代中頃から、神の性格が徐々に変化した。その象徴が、天皇による神社行幸と返祝詞(かえしのりと)の制度の確立だ。古代の神はひたすら畏れられる存在だったが、このころには神は対話可能な存在と受け止められるようになった。そして神は「祟る」のではなく「罰」を与える存在として表象された。神は信賞必罰の合理的な存在になったのである。そして本地垂迹説によって、一見無関係に見える神々の世界が、仏を媒介にしてつながり、包摂された。そして道教の神々までも含めた神仏の壮大なコスモロジーが観念されるようになった。こうした中で神国の観念が育っていくのである。

日本を神国とみなす観念は古代までさかのぼる。日本書紀の「神功皇后紀」に、新羅王の言葉として「東方に神国がある」という一節がある。「日本=神国の理念は、神々に対する素朴な崇敬の延長線上に自然発生するようなものではなかった(p.90)」。その背景には統一王権による神々の再編成と、対外関係の緊張があり、当初から「きわめてイデオロギー的色彩が濃厚(同)」だったのである。

「神国」がまとまって使われるようになるのは9世紀後半の清和天皇の時代で、貞観11年(869)、新羅のものと思われる船が筑前に来航した際、諸国の寺社に国土の安穏を祈願した告文に「神明の国」「神国」といった語が散見する。この「古代的」な神国思想は、「天照大神の指揮のもと、有力な神々が一定の序列を保ちながら天皇とその支配下の国土・人民を守護する(p.95)」というものであった。ここでは仏教的要素は見られない。

そして「院政期ごろから日本を神国とする表現が急速に増加し始める(p.99)」。『古今著聞集』、『私聚百因縁集』、『神道集』、『八幡愚童訓』などは神国思想が前提となっており、頼朝も「わが朝は神国である」と述べているが、 なぜ頼朝は神国を強調せねばならなかったのか、奇異に感じるほどである。そして元寇があると神国思想は一層興隆した。神風が吹いたから神国なのではなく、それ以前の敵国調伏の祈祷の段階で神国は強調された。そういう祈祷を行った僧侶に東巌慧安(とうがん・えあん)という人がいる。彼の願文では、日本は仏が神として垂迹しているから神国なのだ、という論理になっている。これが「中世的」神国思想の特色である。

ところで、神国は何よりも国家・国土に対する観念である。では神国思想のいう国土は具体的にはどういう領域なのか。『貞観儀式』所収の追儺祭文には、東:陸奥/西:五島列島/南:土佐/北:佐渡よりも遠方、という国土観が示されている(村井章介)。これはやがて南:鬼界が島(硫黄島?)/北:外が浜(青森県?)へと拡大したが、ともかく日本の国土は人為的に成立したものというよりは、各種の「日本図」で明らかなごとく(例えば日本は独鈷杵の形をしているとか)、宗教的に(さらに言えば仏教的に)意味のある、あるいは予め定まったものとして観念されたのである。

このように、神国思想は末法辺土観を克服するものだったという通説はあたらない。むしろ日本が末法の辺土悪国だからこそ仏が神として垂迹したと考えるのであり、末法辺土観はその前提である。そして神の偉大さは末法辺土の劣った人間への救済者として強調された。神国思想は、「仏教をライバル視し、それに対抗しようとする立場から主張されることはありえない(p.119)」のである。

では、神国思想は蒙古襲来を契機として勃興し、日本を他国より優れた国だとするナショナリズムが内包されていたという通説はどうか。神国思想が前提としていた仏教の世界観では、世界を三国(インド・中国・日本)として把握したが、その上に真理の世界をも措定した。そこには曲がりなりにもインターナショナルな認識があった。神国思想は日本の優越を一方的に主張するものというよりは、仏が神として垂迹した国という特殊性を強調していると思われる。

また、神国思想は、奇妙なことに寺社の強訴に際して院周辺から主張された。著者は「国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるために、院とその周辺を中心とする支配権力の側から説き出されたものだった(p.137)」と考える。「そんなワガママいわないでください。同じ神国に住む仲間じゃありませんか? 」というところだろうか。

面白いことに、専修念仏運動を弾圧した延暦寺も、専修念仏教団が神祇を尊ばないことを神国をないがしろにするものとして批判した。とにもかくにも神国思想は「国家に対する観念」なのである

蒙古襲来に際して神国思想が盛んに鼓吹されたことは、それを象徴している。「日本は神国だから他国が侵略することはできない」と主張されたが、このころの日本は荘園の分捕りによって分裂気味であった。「神国の論理は、内部にさまざまな問題と矛盾を抱えていた日本の現実を「神国」と規定して蒙古に対峙させることによって、そのきしみと裂け目を覆い隠そうとするものだった(p.152)」のである。神国思想が支配者から盛んに言われていることはその証左である。神国思想は、対立する諸権門の融和を企図し、「中世国家体制を正当化するための宗教イデオロギーとして支配権力側から説き出されたものと推定できる(p.157)」。

なお、これは対立する勢力を対象としたイデオロギーであるから、民衆に訴えかけるのではないことは注意が必要だ。

神国思想は天皇を超越的存在に仮構するという通説はどうか。中世では天皇は政治の実権を失っていたが、確かに宗教的な権威は高まっていた。しかしそれは古代のように無条件に現御神としてあがめられるものではなかった。摂関・院政期には天皇がさまざまなタブーから自由になり、神秘性を失ってしまったとも指摘される(益田勝美の説)。そして天皇・院には仮借なき批判が寄せられるようになった。天皇が死後地獄に落ちたという言説もしばしばみられる。「中世社会においては歴代のほとんどすべての天皇について、仏神の罰やたたりを蒙ったというネガティブな噂が存在した(p.171)」。幼童の天皇が続いたことも天皇の形式化の証左である。

しかし同時に、いくら天皇の存在が形式化しても、天皇を超える国家の支配権力結集の核が形成されなかったことも事実である。だから結局「支配秩序を維持しようとする限り、必然的に国王=天皇を表に立てざるをえな(p.187)」かった。つまり、天皇の実権が弱い状態では、その権威のみを強調する神国思想は諸権門にとって都合がよかったのである。

このように、中世の神国思想の通説は主に3つの点で訂正されねばならない。(1)神国思想は蒙古襲来を契機として言われるようになったのではなく、その淵源は意外と古い。(2)神国思想は日本礼賛の論理ではなく、日本を末法辺土の小国であるとする仏教的世界観を前提としており、日本の特殊性を強調する。(3)天皇は神国思想の中心的要素ではない。

本書は最後に、神国思想がどう現代までつながっていくかを簡単に述べている。神国思想は中世後期から変貌していった。その背景には、「彼岸世界の後退(p.200)」がある。それまでは人々は此岸・彼岸の二重世界に生きていたが、彼岸世界のリアリティがなくなり、この世での充実した生活の方がずっと重要になっていった。秀吉や家康も神国思想に言及しているが、そこで仏教的世界観こそ否定はされていないものの、日常の儒教論理の方が前面に出てきている。近世になると、彼岸での救済といった観念が批判され、神国思想から仏教的要素が希薄化して、神国思想は日本の絶対的優位性を主張するものへと転換していった。そのような近世的神国論は、林羅山や熊沢蕃山から見られる。そして「江戸中期以降は神道家や国学者をはじめ、心学者・民間宗教者の著作や通俗道徳書などに広く散見するようになる(p.210)」。そして「だれもがなんの制約もなしに、仏教・儒教・国学などの諸思想に結びつけて「神国」を語ることができるような状況(同)」になっていた。このような中で、神国思想が天皇と強く結びつけられ、明治維新以降に大きく担ぎ出されることになったのである。

本書は全体として、神国思想を中心として中世の思想史を紐解くものであり、神国思想そのものよりも、神国思想を生み出した基盤についてより重点的に語っている。例えば、北畠親房の『神皇正統記』などはもっと内容を詳細に紹介してもよさそうに思ったが、著者の関心は「なぜこういう言説が生まれ、広まったのか」という点にある。その要諦は、神国思想を育んだのは仏教であったということである。そこから仏教的要素が脱落したことで近世の神国思想が生まれ、さらに天皇が中心となることで戦前の神国思想へと変貌した。

なお、本書は学術書ではないため、注がない。全体的に平易な書き方をしてはいるが(というより、そうだからこそ)、注があった方がよいと感じた部分もいくつかあった。巻末に掲げられた参考文献一覧では、神国思想研究を形作った文献がまとめられているので、備忘のため下に年代順に掲げる(出版社等適宜省略した)。

神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。

山田孝雄『神皇正統記述義』1932
長沼賢海『神国日本』1943
田村圓澄「神国思想の系譜」『日本仏教思想史研究浄土教篇』1959
黒田俊雄「中世国家と神国思想」『日本中世の国家と宗教』1975
藤田雄二「近世日本における自民族中心的思考」1993
高橋美由紀「中世神国思想の一側面」『伊勢神道の成立と展開』1994
河内祥輔「中世における神国の理念」『日本古代の伝承と東アジア』1995
佐藤弘夫「中世的神国思想の形成」『神・仏・王権の中世』1998
白山芳太郎「神国論形成に関する一考察」『王権と神祇』2002
鍛代敏雄「中世「神国」論の展開」2003
佐々木馨「神国思想の中世的展開」2005

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。