2023年4月25日火曜日

『漂泊—日本思想史の底流』目崎 徳衛 著

日本における漂泊の思想をエッセイ風に探る本。

著者によれば日本の思想史には3つの類型が登場するという。第1に、宗教的な志向、第2に、政治的・社会的な志向、そして第3に、そうした規範ではなく、旅をしつつ生の実相を見つめる志向である。すぐに看取されるとおり、この類型はあまりに大雑把で、しかも第3の類型については理念的すぎ、ちょっと導入からひっかかる。

ともかく、本書は日本思想史に登場する第3の類型である(と著者が考える)漂泊的志向について、歴史に沿って述べるものである。ただし、本書では「漂泊」が厳密には定義されていない。著者が何を持って漂泊と見なすか、やや恣意的であるように見受けられる(後述)。このように、枠組みがあやふやであるために、本書は残念ながら思想史としては成り立たず、著者自身が述べるようにエッセイの範疇だ。

日本における漂泊の原型は、ヤマトタケルの軍旅である。それはなぜか。記紀神話によれば、ヤマトタケルはただ戦いに赴いたのではなく、そこに詩心が伴っていた。漂泊者の原型とは、運命的悲劇によってよるべない放浪に赴く詩人なのである。

しかし万葉集は未だ漂泊以前である。それは、万葉集には夥しい羇旅歌が収められてはいるものの、大和から離れて故郷を懐かしむ気持ちが濃厚で、旅そのものに生きる態度が見られないからだ。ただし遊行女婦(うかれめ)という、旅先にある男を慰めた女たちには、漂泊的な性格が看取できる。彼女たちのよるべない暮らしは、例えば大伴家持のような高位の官人の旅よりも、漂泊の詩心を育んだのに違いない。なお本書には指摘がないが、「遊行女婦」という当て字も興味深い。彼女たちの存在は「遊行」であると見えたのだろうか。

最初に漂泊の思想が形をなしたのは、伊勢物語であるという。在原業平のありし日の色好みと老いて後の零落は、放浪の悲劇を鮮明な形で表現している。一方、女性がよるべない境遇に陥り、放浪して生きながらえるというモチーフは源氏物語の宇治十帖にも描かれ、小野小町が零落して遊女になって漂泊したという伝説にも見られる。才女や美女が哀れな末路を辿りさすらうという物語を人びとは好んだのだ。

それはフィクションの世界だけではない。後深草院の寵愛を受けた女房二条は宮仕えを辞して諸国行脚をし『とはずがたり』にまとめている。そこには「妄執と信仰の間をたえず揺れ動く心情」が表現された。それが「中世漂泊者特有のエネルギー」であった。

中世には、漂泊が一つの形をなすようになる(=著者曰く「中世的漂泊観念」)。漂泊に形を与えたのは「名所」と「歌枕」だった。名前を出すだけで情感が生じる「名所」、そしてその地名を読み込んだ名歌、そしてその名歌を本歌取りにした作品の続出が、「歌枕」を成立させた。特に陸奥の「歌枕」は特異な魅力をもった。中将実方(さねかた)は政争の果てに陸奥へ赴き、歌枕を訪ね歩いた。それは観光というようなものではなく、むしろ「痴(をこ)」なる行為であった。端正な王朝文化から逸脱して風狂に近づいたのだ。漂泊は反俗精神を内包していた。

能因も陸奥・出羽を訪れ、大漂泊者の劈頭となった。彼は数寄者であり、遁世(出家)の形をとってはいたが、宗教的な修行の跡はなく、歌道に沈潜することが目的であったと見られる。彼は非僧非俗(世俗的生活も捨てなかった)の暮らしの中で数寄心に殉じて漂泊した。

その能因を手本にしたのが西行である。西行は、実際に旅に出ていた期間はたった3年ほどだが、信仰と数寄を共に高いレベルまで高め、命がけの修行の中でも消えない詩心、「甘美な何か(p.188)」を漂泊に託し、「魂の漂泊」をなした。しかし次第に信仰と数寄に引き裂かれ「いかにすべきわが心」と嘆ずるようになった。

なお、中国への渡航のように、理想郷への脱出・まだ見ぬ国への憧れも漂泊思想に影響を与えた。本書には宋の五台山へ参詣しようとした源実朝の事例が述べられているが、現実を打開する術がない時に、脱出の衝動を持った実朝は、実際には旅をしていなかったとしても漂泊者の系譜に位置づけられる。

『一言芳談』は念仏行者・遁世者の言葉を収録したものであるが、ここに「人生そのものが旅(今生は一夜の宿り)」とする中世漂泊思想が表明されている。人生は仮のもので、旅の宿り(一時的なもの)にすぎないとすれば、教学までも否定の対象となりうる。

その虚無主義を超克したのが一遍である。彼の旅は苦悩や零落によるものでなく、大衆に崇められ、法悦に乱舞する大勢に囲まれてのものだったが、彼はどこか孤独で、あらゆるものを捨て去って遊行した。それは自らを超越的立場におくもので、人間的な営みである漂泊とは対極的なものであった。

連歌師宗祇の旅も、漂泊とは似ても似つかない、ビジネスライクなものであった。戦国たけなわのころに宗祇は各地に招かれ悠々と旅をし、城に着けば至れり尽くせりでもてなしされた。しかし制作された連歌には、そうした実態は出てこず、「今生は一夜の宿り」の無常観、旅と人生の連結が表現されている。漂泊が現実から遊離し、類型化した語りになっているのである。それでも宗祇の中には、日常性に埋没しきれない数寄心が蠢いていた点で、漂泊者とみなせる。

そして近世に向かうにつれ、宗教が地獄を恐れる切実なものから遊興じみたものへと転化したように、旅も恐ろしいものから楽しいものへと変わっていった。近世には物見遊山の旅は厖大に行われたが、かえって漂泊のような反俗的な旅は少なくなった。著者はこれを「漂泊不在の季節」と呼ぶ。 そんな中で漂泊に足を踏み入れたのが芭蕉である。

彼は人生に行き詰まり隠遁し、さらに生活の後ろ盾の全く無い中で漂泊に身を委ねた。その旅は、西行を追慕して名所を周到に巡るものだったから漂泊とはいえない。しかしその精神は、全てを捨て、数寄心に殉じ、おのれを詩人としつつも、それを「妄執」と見なす漂泊の定型に合致していた。

ここで筆者の考察は終えられているが、さらに近世後期については、架空遍歴譚(例えば、平賀源内の『風流志道軒』、春川恋町の「異国奇談和荘兵衛」など)が少し取り上げられる。それは解放への欲求を反映したものと見られ、また近代になると西洋への憧れ、逃走が新たな漂泊の局面をなしてくる。

しかしそうしたものよりも、田山花袋が「東京の十三年」で書いている次の言葉は、近代における旅の本質を突いている。「旅に出さへすると、私はいつも本当の私となつた。」

著者が「あとがき」で述べるところによれば、「この一巻で追求しようとした主題は、古来日本人の心の底を流れてやまない漂泊の思いの、思想史的位置づけである(p.315)」ということだが、この意図は成功しているとはいえない。本書の方法論には問題が2つある。

第1に、漂泊を定義づけておらず、著者が漂泊と思いたいものを漂泊と見なし、漂泊者とみなしたい人を漂泊者としているということだ。西行は、たった3年ほどしか旅をしていないのに漂泊者としているし、逆に全国を巡りに巡った一遍が漂泊者ではないというのも首肯しがたい。著者は最初から「漂泊の思想とはこのようなものだ」と決めて、その結論に合致するように人物を当て嵌めていっている。だから歴史を繙いても著者が最初に措定した思想以上のものが出ていない。また近世には、よるべない旅に生きた人びとが大勢いたのであるが、そうした人びとを全て漂泊者でないと片付け、「漂泊不在の季節」としたのは大きな瑕疵であろう。

第2に、漂泊と仏教の関係を正面から取り上げなかったことである。仏教においては、遍歴することに大きな意味があり、勧進しながら、托鉢しながら諸国行脚をすることが非常に重要な修行であった。古来信仰によって日本を回ったものは数えきれぬほど存在する。それらは、よるべない放浪とは違ったものもあったが、著者のいう漂泊の性格のいくらかは持っていた。確かにそれらが詩心を常に伴っていたとは言えない。しかし漂泊に詩心がなぜ必須なのか、本書では遂に説明されない。仏教思想による漂泊を捨象したことは、漂泊の思想を大きく切り詰めるものである。

このような問題があるため、本書では漂泊の思想が十分に展開しない。意地悪な言い方をすれば、著者のいう「漂泊」は単なるセンチメンタルな旅にすぎない。著者自身が「気楽なエッセー」と述べているのだから、「思想史」として批判するのはフェアではないとは思うが、思想を記述する堅牢な枠組みを設けた上で書けば、全然違ったものになったように感じられ、惜しまれる。

曖昧な枠組みで書いているため、漂泊を十分に書ききれなかった惜しい本。


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